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西   晃 原爆症認定集団訴訟、大阪地裁判決について
―画期的な原告九名全員勝訴―
白川 秀之 東洋発酵過労死事件 勝利的和解報告
神田  高 “植民地”沖縄とその反撃
杉本  朗 遙かなヤスクニ
井上 洋子 「民主主義の枯葉剤」共謀罪に反対する集会とデモのご報告
佐藤 博文 抗う人―箕輪 登/遺言・平和への願い




原爆症認定集団訴訟、大阪地裁判決について

―画期的な原告九名全員勝訴―

大阪支部  西   晃

 広島や長崎で被爆し、ガンなどにかかった被爆者が、原爆症と認定されないのは不当として、厚生労働大臣を相手に不認定処分の取消と、一人あたり三〇〇万円の国家賠償請求を国に求めた集団訴訟の判決が、去る五月一二日、大阪地裁第二民事部でありました。西川知一郎裁判長、田中健治裁判官(現在那覇地裁)、和久一彦裁判官は、「被爆と疾病との因果関係については、被爆前後の健康状態や症状などを総合的に考慮して判断すべきで、国の審査基準を機械的に適用するべきではない」と指摘し、原告九人全員の不認定処分を取消す勝訴判決を言い渡しました(但し損害賠償請求については棄却)。現在原爆症認定集団訴訟は、全国一三の裁判所で一七〇名の原告がたたかっていますが、今回の判決は大阪・京都・兵庫在住の九名の原告に対する最初の集団訴訟判決です。以下大阪地裁判決のポイントに関して速報します。

二 原告九名の被爆状況・病態等について

Aさん(七九歳)
 広島で被爆 一・五キロ離れた病院寄宿舎で被爆 白内障等

Bさん(七六歳)
 長崎で被爆 三・三キロ離れた自宅で被爆 甲状腺機能低下等

Cさん(六九歳)
 広島で被爆 小学校登校中二キロ離れた地点で被爆 胃ガン

Dさん(七五歳)
 広島で被爆 一・八キロ〜一・九キロで整列中 皮膚ガン等

Eさん(七三歳)
 広島で被爆 二キロ弱、勤労奉仕の整列中 喉頭ガン等

Fさん(八一歳)
 広島で被爆 一・九キロ離れた屋内で被爆 貧血 橋本病等

Gさん(八一歳)
 広島で被爆 当日に広島に入市、けが人救出 原爆ぶらぶら病等

Hさん(八〇歳)
 広島で被爆 翌日に広島に入市、遺体処理 原因不明の貧血等

Iさん(七八歳)
 長崎で被爆 二・一キロ離れた寮で被爆 肺ガン等

三 大阪地裁の判決要旨は以下のとおりです。

 判決ではまず、現在の国の審査基準となっている、性別や被爆時の年齢を組み合わせてガンなどの発生リスクを表示する「原因確率」論の妥当性について判断しました。国が「原因確率」を算出する際の基準としている放射線被曝線量の算定評価システム「DS八六」「DS〇二」などについては、「現存する最も合理的で優れたシステム」と一方で評価しつつも、「一・三キロ以上離れた場所の放射線量を過小評価している疑いがある」ことや、「二キロ以上先で被爆した人にも脱毛などの放射線による急性症状がみられた」ことなどを明確に指摘。「一・三〜一・五キロ以遠の被爆者については「(原因確率の)機械的な適用には慎重であるべきだ」と判断しています。

 さらに判決では、「DS八六」などでは考慮されていない残留放射能や、核爆発で発生した放射性降下物による被爆、放射性物質を吸い込んだことなどによる内部被爆の危険性も認定しています。原爆投下当日に広島に入市したGさんや、翌日に広島に入市したHさん、さらには長崎で爆心地から三・三キロの自宅で被爆したBさんなどについては、これら内部被爆による影響をも考慮して因果関係を判断するべきであると指摘しました。

 「(原爆症認定は)放射線被曝による人体への影響に関する統計的、疫学的及び医学的知見を踏まえつつ、被爆前の生活状況、健康状態、被爆状況、被爆後の行動経過、活動内容、生活環境、被爆直後に発生した症状の有無、内容、態様、程度、被爆後の生活状況、健康状態、当該疾病の発症経過、当該疾病の病態、当該疾病以外に当該被爆者に発生した疾病の有無、内容、病態などを全体的、総合的に考慮して判断するべき」であり「(国の)審査方針の定める原爆放射線の被曝線量並びに原因確率及びしきい値は、放射線起因性を検討するに際しての考慮要素の一つとして、他の考慮要素との相関関係においてこれを評価し、しんしゃくするべきであって、これを機械的に適用して当該申請者(被爆者)の放射線起因性を判断することは相当でないというべきである」と、国の認定制度を厳しく批判しています。

 以上の判断を踏まえ、判決は、三・三キロ地点での遠距離被爆者、入市被爆者を含む原告九名全員について、「放射線に起因した発症とみるのが相当」と判断しました。

四 判決の意義と今後の課題

 被爆者はこれまでにも、原爆症認定制度の抜本的な改善を国に求め、不当な申請却下処分に対しては、長崎原爆松谷訴訟、京都原爆小西訴訟東京東訴訟などの裁判をたたかい、これまで個別訴訟においては原告側が七連勝してきました。被爆者は裁判所で勝訴するたびに、国の認定基準が抜本的に改められることを期待してきたのですが、国は基準を改めるどころか、新たに「DS〇二」を基に国が採用した「原因確率論」という認定基準では、病気が発症する確率を機械的に計算しただけでした。これでは最高裁で勝利したはずの原告(松谷さん)でさえ、その「原因確率論」では認定されないという不当極まるものでした。そこで個別訴訟ではいつまでたっても国の被爆者政策は改まらないとして、認定制度の抜本的改善を求めて提訴したのが今全国でたたかわれている原爆症認定集団訴訟なのです。今回入市被爆者や三キロ以遠の遠距離被爆者も含めて、全ての原告について勝利判決を得たということは、これまでの被爆距離だけに寄りかかった国の狭い判断基準が根底から崩壊したことを意味するのであり、その影響力は大きく、まさに画期的な判決であることは間違いありません。

 しかしながら他方、本件大阪地裁判決を受けて、厚生労働省が「今後の審査に与える影響は小さい」とコメントしているように(翌一三日の朝刊各紙)、勝訴判決の存在そのものが、自動的に国の認定基準見直しに直結する状況にはまだなっていません。私たちに求められることは、この勝利判決の流れを、後に続く広島地裁(本年八月頃判決見通し)、東京地裁(秋〜年末頃判決見通し)、名古屋地裁(年末〜来春頃判決見通し)、仙台地裁(年末〜来春頃判決見通し)、熊本地裁(一〇月頃結審見通し)、千葉地裁(一〇月頃結審見通し)へと揺るぎない強固なものとして引き継いで行くことです。そしてそれとともに、今回の勝訴判決を梃子として、より一層の全面解決を求める世論を喚起し、国を包囲して行くことだと思います。その意味でも全国の団員弁護士、事務局員の皆様のご協力とご支援が必要不可欠です。どうか皆さんの力を結集していただき、原爆症認定問題の全面解決に向けてのなお一層のご尽力を心よりお願いいたします(本原稿脱稿時においては被告厚生労働大臣の控訴の有無は分かっていません。不当にも控訴された場合には原告らも損害賠償請求の付帯控訴を行う予定です)。


東洋発酵過労死事件 勝利的和解報告

愛知支部  白 川 秀 之

 平成一七年一二月二七日に名古屋地方裁判所において、株式会社東洋発酵(本社:愛知県大府市)で就労していた従業員が過重業務に起因するくも膜下出血により死亡し、遺族が同社を相手に損害賠償請求を求めた事件で、原告の主張をほぼ認めた上で、被告は業務起因性を認めた労災認定を尊重し原告らに謝罪する一文が盛り込まれた勝利的和解が結ばれました。

 東洋発酵は、菌等の微生物、大豆等の豆類等を主原料とする健康食品・飲料の製造・販売を行う会社で、被災者は入社以来、研究開発の部門に勤務して、新規の食品素材,化粧品素材の開発の研究開発に従事し、何件かの特許にも関与するなど、研究開発部門で非常に期待されていた社員でした。

 被災者は、死亡直前期には新規の研究施設の立ち上げの仕事にも従事し、本来の研究開発部門の仕事だけではなく、施設用地の選定、設備の設置など本来は総務部門が行うべき仕事まで関与していました。また、被災者はかなりの頻度で、会社と研究施設間を往復したり、夜遅くまで実験データの解析をしたり、新製品の展示会に向けての試作品作りに追われていました。被災者は、展示用の製品の開発に向けての人員などの体制の整備を上司に要求していましたが、体制の整備は為されませんでした。そのような死亡直前期における業務の過重、研究開発以外の業務に従事したことによる精神的負担の増大が本件の労働災害を引き起こしたと言える事案でした。

 本件で一番大変だった点が、業務の加重性を判断する上で重要な要素となる、労働時間の把握が非常に困難であった点です。東洋発酵では、一定の役職以上になると、従業員の労働時間管理が全く為されていなかったため、被災者の労働時間を正確に記録した資料がありませんでした。そのため、労働時間の把握は、専ら他の資料からの推測が主となりました。その際に、非常に尽力されたのが被災者の父親でした。被災者の父親は、関係者から詳細に被災者の勤務状況を聴き取ったり、自ら会社に乗り込んで被災者が生前使用していたパソコンのデータやメールなどの記録を回収して証拠保全し、それを元にして労働基準監督署に対する意見書などを作成するなど、非常に精力的に事件に取り組んでいました。

 被災者の父親が調査したデータでメールの送信時刻に基づいて、ある程度の時間把握はできました。それに加えて、特徴的だったのがパソコン上のファイルやフォルダの更新時間のデータでした。パソコン上のデータには最後に変更を加えた日時の記録が更新時刻として残ります。そのため、ファイルの更新時刻には職場で仕事をしていたか、そうでなくとも、パソコンを自宅に持ち帰って仕事をしていたことの証拠にもなります。被災者の父親はその更新時刻を死亡前約八ヶ月分を調査しました。そのため、メールの送信時刻やセコムの施錠時刻、日報の記録時刻で補いきれない部分の補充が可能になりました。

 被災者の父親の努力もあり、労災認定がなされ、それを元に東洋発酵に対して交渉を申し入れましたが、東洋発酵の代理人から交渉による解決は困難であるとのことで、訴訟提起にいたりました。

 訴訟段階での主な争点は、労働時間を中心とした業務の過重性、東洋発行側の予見可能性でした。東洋発酵側は、所定時間以降は執務の形跡がない等と主張して勤務時間の中抜きを主張したり、メールの送信や日報の作成は当日必ず行う必要はなく、残業の必要性はなかったという主張をしてきました。そのような東洋発酵の主張に対して、上記のメールの送信時刻、ファイルの更新時刻をもとに、一つ一つのメールやファイルの中身を個別に検討して、業務に関係する作業を行っていたと反論を行いました。その際にも、被災者の父親のファイルの分析が非常に威力を発揮しました。

 今回の件で特徴的だった点の一つとして、裁判官が労災認定が出ていることから、和解による解決について、訴訟のかなり初期の段階から非常に積極的だったことです。特に、途中で、和解が不可能であると東洋発酵代理人から言われ、私たちも和解は不可能であると考えた後も、裁判官は東洋発酵の社長を呼ぶように代理人に指示して、かなり長時間にわたって話をしていました。そのような裁判官の態度も和解成立の重要な要因であったと言えます。

 和解条項では、東洋発酵側が労災認定処分を重く受け止め、原告らに対し、心から謝罪の意を表明し、労働時間の適正な管理を定めた厚生労働省の各種通達を遵守すると言う条項が入りました。会社側の謝罪文言や各種通達の遵守がこれほどまで明確に規定された和解案としては珍しい物であると思います。

 今回の和解は、被災者の父親の尽力があったからこその結果であるとも言え、一概に本件のような明確に労働時間を記録していない会社における、過労死の損害賠償請求が行いやすくなったとは言えないと思います。ただ、同種の、労働時間の把握が困難な事案においても、細かな事実を付き合わせていけば訴訟に耐えうる労働時間の割り出し、業務の加重性が推定できる一例ではないかと思います。

 弁護団 長谷川一裕(名古屋北法律事務所 愛知県弁護士会)
       樽井 直樹(名古屋法律事務所  愛知県弁護士会)
       白川 秀之(名古屋北法律事務所 愛知県弁護士会)


“植民地”沖縄とその反撃

東京支部  神 田   高

 「V字滑走路はヒデェな。これで勝つかも。」ー地元九条の会を一緒にやってる“沖縄大好き”人間と沖縄市長選について飲み屋で話していた。四月二四日投票。女性の東門革新統一候補が勝利したー“米軍艦載機移転ノー”の岩国市長とともに。普天間基地のある宜野湾市長に続き、極東最大の嘉手納基地をかかえる県第二の沖縄市で“基地ノー”の市長が誕生した意義は極めて大きい。自公の名護市長が受け入れた“V字滑走路”(新沿岸案)に対しては、県民の七割が容認できないとし、国(県)外、無条件返還は八割弱に達していた(四月一四日琉球新報)。このときは、稲嶺保守県知事も新沿岸案反対の立場を留保つきながら表明していた。ところが、五月一一日になって、稲嶺知事は、日米安全保障協議委員会(2+2)で承認された“新沿岸案”を基本に協議することで合意し、在沖米軍再編に関する基本確認書をかわし、政府側にのみこまれてしまった。従来の「使用期限一五年、軍民共用」の公約も消滅した。

 県知事合意について、沖縄の評価は明確である。“巨大権力に押し切られ”ー波平琉大教授は、「今回の合意なるものが、国の巨大な権力としたたかな交渉術に押し切られた結果であることは明らかだが、いずれにせよ、沖縄にとっては将来に禍根を残す出来事となるだろう。・・しかし、これで普天間移設問題が決着したと見るのは早計だろう。」と評している(五月一二日琉球新報朝刊)。同日社説は、名護(辺野古)移設の最大の口実である“普天間基地の危険性除去”の具体的保証がない(辺野古移設は二〇一四年!)、日米最終合意では、新沿岸案に使用期限が限定されていない、未来永劫米軍は使用できる(ラムズフェルド米国防長官は「安定的かつ持続可能な米軍の前方展開に基づいて、日米同盟の永続的な能力を確固たるものにする」と述べている)、新沿岸案では大半が海上にはみ出るため、海面を埋め立てるが“自然環境保全”はどうなるのか、基本合意のうたい文句の「負担軽減にはならない」と主張している。

 一昨年〇四年八月一三日、米海兵隊重ヘリが普天間基地のすぐ脇にある沖国大に墜落した。たまたま、妻の恩納村の実家にいた私は車を飛ばして現地にいったが、市長も警察も手も足も出ない、アメリカが日本側に出させない。現場敷地内にテントをはって警備しているのは“MP”であった(小泉は姿を隠した)。

 映画『日本国憲法』に出演している元CIA長官のC・ジョンソンは、沖縄を“アジア最後の植民地”と呼んで、「沖縄はいまでも本質的にペンタゴンの軍事植民地で」あると言っている。「空軍と海兵隊はもちろんグリーン・ベレーや国防情報局にとっても、アメリカでは決してできないことを体験できる巨大な隠れ家なのだ。沖縄は、アメリカのパワーをアジア全体に浸透させ、この重要な地域でアメリカの覇権を維持し強化していくという、アメリカの掲げる壮大な戦略に利用されている。」(『アメリカ帝国への報復』)。

 返還以前のアメリカの直接占領下での最高権力者であった「高等弁務官」、中でも強権をふるったキャラウェイ高等弁務官は、一九六三年に「現在の時点では自治は神話であり、存在しない。そして諸君琉球住民が、みずからの自由意思によって今一度独立した国民国家をつくり上げることを決定しないかぎり、将来も自治は、実在しないであろう。」と発言している(大田昌秀『沖縄の帝王ー高等弁務官』朝日文庫)。読みようによっては、“仮に日本に施政権が返還されてもなお”ともよめそうだが、今、現に沖縄基地問題をめぐっておきている経過はそのとおりである。

 たまたま、四月はじめに沖縄にいって、南北をほぼ縦断する(名護から那覇まで)高速道路をとおって名護から帰る途中、キャンプ・ハンセンをはさんで恩納村の反対側(太平洋側の)恩納岳近くの金町伊芸付近で「流れ弾注意」の看板が出ていた。住民の反対を押し切って、“都市型戦闘ゲリラ訓練施設”が建設されているところである。幹線道路に軍隊の演習弾が飛んでくるかもしれないなどという所は、沖縄をおいて外にないだろう。“キャンプ・ハンセン”から北部(“ヤンバル”という)へいくとすぐ辺野古のある“キャンプ・シュワブ”となる。一大海兵訓練・実戦基地がやがて沖縄ヤンバルに形成されてくるのだろう。被害を負うのは、ニライカナイの使者であるジュゴンにとどまらない。広大な原生林がなお残るヤンバルの生態系が変質するような軍事要塞が形成され、ヤンバルクイナも被害者となろう。水源問題も発生するだろう。それが、アジア大陸をにらんで、日々海兵隊ヘリやよく落ちる“オスプレレイ”が軍事訓練をわが物顔にくりひろげるであろう。

 しかし、基地あるかぎり、基地撤去の“うちり火”(火種)が消えることはない。

 “最後の植民地”の解放は、アジア全体の解放に直結するだろう。そのとき、九条がアジア全体のノルム(規範)として広がっていく条件をつくっていくと思う。

 ごく当面の天王山は、埋立て免許の権限をもつ県知事、秋に行われるその県知事選である。(五月一五日。復帰三四年を迎えて


遙かなヤスクニ

神奈川支部  杉 本   朗

 東京都の西の外れに、青梅市というところがある。以前幹事長をされていた鈴木亜英団員がお住まいのところである。そこを基点に概ね東を目指す、青梅街道と呼ばれる地方道(都道五号線)がある。瑞穂町を横田基地の北辺を走り抜けて東へ進み、多摩湖の南で方向を変えて東大和市を北から南へ抜け、小平市からはまた東へと走る。杉並区に入ってから、四面道で環八通りと、高円寺で環七通りとそれぞれ交差する。ちょっと前、若貴騒動のときよく出てきた中野坂上で山手通り(環状六号線)とクロスした後、新宿の大ガードの手前で、二またに分かれる。右が新宿通り、左が靖国通りである。左の靖国通りを選び、歌舞伎町入り口のドンキホーテの前を通り過ぎ、富久町を抜け、曙橋の下をくぐる。防衛庁のふもとを通り、クランクで市ケ谷の外濠を渡る。その先、坂を下り、神田の街を走り抜け、浅草橋からは京葉道路(国道一四号線)と名を変え、両国橋を渡り、その名のとおり、千葉まで続く。

 今、市ケ谷を過ぎて坂を下ったが、これは洪積台地から沖積低地への斜面であり、九段坂と呼ばれている。九段は洪積台地と沖積低地の境であり、その意味で山手と下町の境でもある。市ケ谷方面から九段坂を下る右側に田安門があり、この門を入って行くと、光るタマネギの日本武道舘にたどりつく。何度となくライブに行った人も多いはずである。さて、その田安門にたどりつく手前の左側、住居表示でいうと東京都千代田区九段北三丁目、こんもりとした森のようなところがある。ここが靖国神社である。

 靖国神社の周辺には、武道館のほかにも、暁星学園があり、都立九段高校があり、白百合学園があり、角川書店があり、そういったところには行ったことがあるけれど、実は靖国神社へは行ったことがない。常にそばを通り過ぎるだけである。別にはっきりした主義主張からではない。明治神宮や東郷神社へは出かけて行って、睦仁氏やら東郷平八郎氏にお参りしているのである。多分、明治神宮や東郷神社にはないある種の「胡散臭さ」を靖国神社に感じているからだと思う。

 靖国神社については、いろんな本が出ていて、賛美する側・反対する側から様々な議論がなされているのだけれど、とりあえず今一番「胡散臭さ」を感じるのは、合祀者遺族からの合祀取り下げの申し出(絶祀要求)に、一切靖国神社が応じないところにある。合祀は天皇の意志だから、という靖国神社の理由付けもすごいと思うが、およそ何であれ、遺族の求める絶祀を拒絶するということを正当化するだけの理由というのはないような気がする。

 死者を祀ること・追慕することは、徹頭徹尾、生者の問題だと思う。私事にわたるが、一昨年母を亡くしたのだけど、病院で死んだため、病理解剖をさせて欲しいという申出が病院からあった。特に断る理由もなかったので、その申出を受けたが、ふと、解剖に立ち会えるかどうか主治医に尋ねてみた。特に意図するものがあったわけではなく、解剖するんなら立ち会ってみようかな、という軽いノリで、まぁダメなんだろうなぁと思って言ってみただけだった。ところが、主治医もごく簡単に、あぁいいですよ、という返事だった。こうして、目にしみるフォルマリンの強い臭いの漂う病理室で、母親の解剖に立ち会うことになった。淡々と母親は切り開かれ、臓器が取り出されて、外形や重量などが測定され、病理検査用の検体がスライスされ、残りは元の場所に詰め込まれて行った。団員の多くは、司法修習生の時、司法解剖に立ち会っていると思うので、想像はつくと思う。母親の病理に立ち会って、カート・ヴォネガットがどこかで書いていたとおり「死んでしまえば、ほんとにおしまい」ということを確信した。病理が終わってから、棺の中の母親の遺体に、死に化粧をしたり、着物を重ねていたりしていたが、あぁ、もう母の身体は空っぽなんだなぁ、とずっと思っていた。

 死者を祀ること・追慕することが、生者の問題だとすれば、生者である遺族は、なぜ靖国神社への合祀を強制されなければならないのか。ここに登場するのは、遺族・戦死者・靖国神社の三者ではない。遺族と靖国神社の二者である。死者の祀り方・追慕の仕方について、遺族が、一方的に靖国神社に命令されなければならない理由というのはどこにもない。遺族が、あんたのところには祀っていて欲しくないよ、と靖国神社に言うとき、どうして靖国神社はそれを拒否できるのだろうか。仮に、靖国神社に祀られることが戦死者の本望だ、という言い方をしても、それは死者の意志に仮託して靖国神社の意見を表明しているに過ぎない。死者はあくまでも死者でありそこにはいないのだから。あるいは、靖国神社こそが戦死者の意志を代表しているというのかもしれないが、それはゴーマンなフィクションとしか思えない。

 では絶祀の問題がクリアされればあなたは靖国神社を認めるのか、という質問が飛んで来そうな気がするが、正直なところ、今はまだ分からない。靖国神社を拒否する人に対する強制がなくなるのであれば、靖国神社を求める人たちがいるという現状を無視することは出来ないのではないか、と思う反面、戦争責任認識と非戦・平和主義とを確立したのちでなければ非宗教的追悼施設であっても日本は国家施設を作るべきではない、という意見にもそうだなぁ、と思うのである。

 靖国神社への道は、遙かに遠い。


「民主主義の枯葉剤」共謀罪に反対する集会とデモのご報告

大阪支部  井 上 洋 子

 二〇〇六年四月二六日、大阪弁護士会主催で、「共謀罪法案・未決拘禁法案を考える市民・弁護士のつどい」が開かれた。三〇〇人分用意した席がほぼ埋まった。共謀罪に関する国会情勢が緊迫する中、大阪法律家五団体(大阪社会文化法律センター、大阪労働者弁護団、青年法律家協会大阪支部、民主法律協会、自由法曹団大阪支部)が行動提起を大阪弁護士会の刑事法制委員会に求め、弁護士会がこれを快く引き受けてくれたという経緯での企画である。

 大阪弁護士会会長小寺一矢氏の情熱的な開会の挨拶は、弁護士会がこのテーマに熱心に取り組む意欲のあることを示すものとなった。漫才「共謀罪は恐い」は國本園子さんと清水忠史さんの素人ペア「マジカル・タンバリン」の手になるもので、素人とは思えない愉快でめりはりのある漫才で、共謀罪の問題点をわかりやすく提示してくれた。

 松本サリン事件で容疑者扱いされた被害者の河野義行さんに長野県から来ていただき、警察の捜査の体験談を語っていただいた。「サリンで記憶がやられていたので、昨日のことを覚えていなかったが、これを警察からはおかしいと言われた。」「吐き気、けいれん、視覚異常の上、尿道カテーテルなど挿入されている状態で入院しているのに警察が事情聴取に病室に入ってきた。」「退院後はポリグラフ検査を受けさせられたが、それが任意捜査であることは告げられなかった。」「自分の潔白を証明しようと思ってポリグラフを受けたが、『機械は正直だ。あなたにとって不幸な反応が出た。』と言われた。」「高校一年生の長男を警察官三人が取り囲んで『親父は吐いたぞ』と切り違い尋問をした。」「サリンの後遺症で体調が悪くだるいため机にひじをついていたら、『姿勢を正せ』『おまえが犯人だ』などと自尊心を傷つけはぎとろうとしてきた。」「自分や妻の勤務先だけでなくその取引先にまで警察が行って、自分の知らない人にまで迷惑がかかった。」など、警察に犯人と決めつけられたら、警察の執拗かつ残酷な標的にされてしまうことが語られた。

 大阪地裁所長襲撃事件の一審判決で無罪を得た被告人の姉である浜谷めぐみさんは、えん罪で逮捕された弟と半年も面会させてもらえなかたこと、弟は警察にはがいじめにされて取調べ室の壁に押しつけられたり、「おまえは特高警察って知っているか。昔は取調べでよく死んだ。おまえなんか死んでもわからないんや。」などと脅かされたりしたことをとつとつと話された。

 このお二人の話を聞いて、その体験の重みと恐ろしさがずっしりと胸に響いてきた。

 永嶋靖久弁護士は、法律家の観点から共謀罪法案の問題点を説明された。共謀したあとでやっぱりやめたと言っても共謀罪は既遂となって処罰を免れないこと、処罰を免れようと思ったら一番乗りで警察へ通報に駆け込まないとだめだということを、身近な例を挙げてわかりやすくも恐ろしく解説され、背筋が寒くなる思いであった。「結局のところ、共謀罪が濫用されるかされないかは、警察が信用できるかどうかによる。警察が信用できるかどうかという点によらしめてある法律は悪法である。」との総括では聴衆からの納得と共感の反応を得た。共謀罪は「民主主義の枯葉剤」であるとの永嶋弁護士の表現はこの法案の問題点を的確に指摘している。

 河野さんの息子さんは警察に父親が自白したと嘘をつかれても「お父さんがそんなことするはずがない。そんなこと言うはずがない。」とつっぱねたので、河野さんも警察の逮捕を免れることができたそうだし、浜谷さんや家族も弟さんの無実を信じて支え合い励まし合ったので一審での無罪を獲得できたということで、家族の結束がかろうじて警察の魔の手を追い払うことができた。警察が信用できるかどうかという点によらしめてある法律は悪法であるが、家族の結束が高いかどうかでえん罪を免れるかどうかが決まる実態も悪である。無実の者はいかなる場合でも無実として取り扱われなければならない。そんな当たり前のことが実現できない法律や警察の状態に警鐘を鳴らし続けなければならない。

 この集会の翌日二七日の昼休みには、大阪弁護士会前に集まって、周辺を共謀罪反対でデモ行進した。天気にも恵まれ、色とりどりの風船やひまわりの花を持ち、大阪弁護士会の理事者を先頭に、三三〇名で街頭の人々にアピールをした。大阪弁護士会がデモ行進をするのは、有事法制反対運動以来四年ぶりとのことであった。

(大阪の民主法律時報へも同文掲載)


抗う人―箕輪 登/遺言・平和への願い

北海道支部  佐 藤 博 文

 イラク派兵差止北海道訴訟の原告である箕輪登氏が、五月一四日午後五時、札幌医大附属病院で亡くなりました。享年八三歳でした。  

 二月二七日の本人尋問では、車椅子姿で、主治医を従えて二時間半にわたる気迫の証言でした。事前に「これが公の場に出る最後」と宣言していたこともあり、文字通り「遺言」となりました。

 四月一四日にはじめて危篤が宣告されましたが、その後奇跡的に持ち直し、五月一日に田中真紀子・直紀夫妻が見舞いに来られたころは大変状態が良かったのですが、五月八日に行われた山田朗明治大学教授の証人尋問(イラク派遣自衛隊の携行武器や活動実態を軍事的見地から分析)が終わった後、山田先生と一緒に病室に報告に行き、素晴らしい証言で大成功だったことを伝えると、声にはなりませんが「ありがとう」と何度も口を動かされていました。

 いわゆる箕輪訴訟は、当時の石破防衛庁長官が北部方面第二師団(旭川)を中心とする陸上自衛隊に本隊派遣命令(第一次)を出した直後に提訴したものです。それから二年以上が経ち、本年四月二八日、陸自に第一〇次の派遣命令が下され、海空を含む派遣隊員数は延べ七〇〇〇人に達しました。明瞭な侵略戦争への加担です。

 箕輪氏(医師)は、通算八期二三年間、衆議院議員を務め、この間に防衛政務次官、衆議院安全保障特別委員会委員長、自民党国防部会副部会長、副幹事長、郵政大臣などを歴任し、「専守防衛」の憲法・自衛隊法解釈、防衛政策を体現してきた「タカ派」で鳴らした政治家です。しかし、箕輪氏は、湾岸戦争の掃海艇派兵の時から、自衛隊を国外に出してはならないと訴え続け、今般のイラク出兵という事態に至り、強い危機感と使命感で提訴を決意したのでした。

 北海道に続き、二月には原告数三千人を超える名古屋訴訟、三月にはイラクで拘束されたジャ−ナリストの渡辺修孝氏らが加わる東京訴訟、四月には後にイラク人原告二人も加わる関西訴訟、五月には静岡訴訟、七月にはイラク派兵費用差止を求める訴訟(大阪)、八月には山梨訴訟と続き、一二月には仙台と宇都宮で提起され、仙台では自衛隊員壮行会への公費支出を違憲・無効とする住民訴訟も提起されました。翌二〇〇五年一月には岡山で、三月には熊本、京都で提訴され、結局、全国一一地裁に一三訴訟が係属し、原告数五六〇〇名以上、代理人弁護士数八〇〇名以上という、戦後最大の憲法訴訟に発展しました。箕輪さんは、この全国的訴訟のシンボル的存在でした。

 箕輪さんは、二〇〇四年七月の団札幌常幹に出席して挨拶され、「平和に右も左もない」と連帯を表明されるなど、日本の保守政治家の、そして日本国民の「まっとうな平和的良心」を体現され、護憲運動を激励し、国民的連帯のあり様を示されました。

 北海道では、昨年三月二三日に追加提訴を行い、新たに三二名が原告に加わり、その中には民主党、共産党、社民党の元国会議員がおり、文字通り「超党派原告団」となりました。他に、箕輪氏と同じく人命に直接関わる医師が六名、観光会社社長、生活協同組合会長などの経済人が二名、道内大学の行政法・政治学・平和学などの研究者が四名、在日韓国人二世、さらには宗教者、哲学者、作家、教師など、様々な分野で人権活動や平和運動、教育に携わっている方が参加しております。

 最後に、香典返しの礼状に書かれた箕輪さんの「遺言」を紹介します。

  「何とかこの日本がいつまでも平和であって欲しい
   平和的生存権を負った日本の年寄り1人が
   やがて死んでいくでしょう
   やがては死んでいくが死んでもやっぱり日本の国が
   どうか平和で働き者の国民で幸せに暮らして
   欲しいなとそれだけが本当に私の願いでした
                みのわ 登 (ここは直筆)」

ご逝去された箕輪登さんのご遺族への坂本団長の弔電を掲載いたします。

 箕輪さんがご逝去されたという報に接して、私たち全国の自由法曹団員は、驚き悲しんでいます。

 この五月二一日・二二日に札幌で開かれる団五月研究討論集会のときに御見舞いに伺うつもりでしたが、間に合わなかったことをお詫びいたします。

 箕輪さんは、一昨年七月、同じく札幌で開かれた団常任幹事会においで下さり、「自分の残りの生命はたくさんないでしょう。でも生命のある限り、この間違いは正したい」と心をこめて話されました。私たちは襟を正す思いで、そして同時に限りなくはげまされる思いで、この日この言葉を聞いたのです。

 箕輪さんの生命があまりにも少ないものであったことを本当に残念に思います。でも、箕輪さんは、残りの生命を見事に生きられました。私たち団員は、箕輪さんの高い志を受け継いで、イラクからの一日も早い撤兵と、憲法九条を護り、生かすために力をつくすことをあらためて誓います。

 奥様はじめ、ご遺族のみなさまの深い悲しみに思いをいたし、心から哀悼の意を表し、箕輪さんのご冥福を祈ってお別れの言葉といたします。

自由法曹団 団長 坂 本  修

箕 輪 イ ネ 様