<<目次へ 団通信1219号(11月21日)
白井 劍 | 教えるとはともに希望を語ること 〜「日の丸・君が代」の強制に反対して |
笹本 潤 |
アメリカにおけるグローバル9条キャンペーン |
広田 次男 |
カナダ・ノバスコシアのゴミ |
小野寺 義象 |
三たび国を断罪 一〇・一二仙台地裁判決とトンネルじん肺根絶の闘い |
宮川 泰彦 |
警察権限を強化する少年法「改正」に強く反対する ー非行少年を軸に社会全体が警察の監視・調査対象となる現実的危険ー |
石川 元也 |
弔 辞 関西における自由法曹団の先達・正森さんを偲ぶ |
松井 繁明 |
【新旧役員挨拶その一】 いまの気持と若干の自己紹介 |
田中 隆 |
幹事長就任にあたって ― ― まちと子どもたちと平和に寄せて |
吉田 健一 |
退任のご挨拶 |
馬屋原 潔 |
次長就任の御挨拶 |
飯田 美弥子 |
明るい退任挨拶 |
東京支部 白 井 劍
全体主義に対する抵抗の詩
「教えるとはともに希望を語ること
学ぶとは胸に誠実をきざむこと」
ルイ=アラゴンの詩「ストラスブール大学の歌」の一節だそうだ。ある都立高校の元校長から、私は教わった。
フランスのストラスブールは、その美しい街並みが世界遺産に登録されている、ドイツとの国境の町だ。第二次大戦勃発直後、ナチス軍に占領された。ストラスブール大学は、戦災と弾圧を逃れて、フランス中部に移転した。
移転先でも、学校の自治と教育の自由が、ナチ警察によって弾圧された。一九四三年一一月のことだ。教授が殺害され、数百人の学生が逮捕された。
その弾圧に抵抗してアラゴンが書いた詩のなかに、冒頭のことばがある。まことに味わい深いことばだと私は思う。今の世相だからこそ、そう思うのかもしれない。
東京での「日の丸・君が代」の押しつけ
いま東京都教育委員会は、教育現場に「日の丸・君が代」を押しつけ、暴走を続けている。かれらは、生徒たちの胸に何を刻もうとし、ともに何を語ろうとするのか。その狙いははっきりしていると私は思う。
卒業式や入学式は、生徒たちが主人公ではなく、「日の丸・君が代」が主人公というべき状況になった。
「ものいわぬ教師」をつくりだすために、教職員たちは徹底して痛めつけられた。二〇〇三年一〇月二三日の「一〇・二三通達」以来、のべ三四五名の教職員に懲戒処分(回数を重ねるごとに、戒告↓減給↓停職と重くなる)が課されている。処分理由は、「職務命令違反」「信用失墜行為」だが、その内実は、国歌斉唱時のわずか数十秒のあいだ静かに着席していたというだけのことだ。
起立しなかったというだけで事実上の解雇をうけた教員も一〇名いる。定年後の再雇用に採用されながら、合格を取り消されたのだ。
そのうえ、不起立等に反省を迫る「服務事故再発防止研修」や校内での孤立化を狙う「校内研修」などが、処分をうけた教職員たちを二重三重に苦しめた。
起立した教職員たちも、その多くが押しつけに納得できず、教育者としての良心との板挟みに塗炭の苦しみを味わった。
二〇〇六年三月一三日には、「(国旗掲揚及び国歌斉唱に関し)適正に児童・生徒を指導することを教職員に徹底する」ことを校長に義務づける通達がだされた。ここで適正な指導とは、生徒たちを起立させて君が代を歌わせることを意味する。
いっさいの異論を排除して、行政当局が正統と認める理論や観念だけを生徒たちに教え込むことが、教育の名の下に行なわれるならば、それは全体主義への地ならしをすることになる。東京の教職員たちは今、そういう役割を担わされようとしているのだと私は思う。
学校自治の破壊と苦悩する校長たち
二〇〇六年四月、職員会議での「挙手・採決」が禁止された。これは、教師集団による自治的運営が完全に排除され、校長を通じて各教師が行政に管理されることを意味した。
また、「学校支援センター」が設置され、学校経営、教育活動、人事がいずれも、行政の直接の管理下におかれることになった。
東京都教育委員会は、石原都政下で、「学校の自治」を潰す政策を推し進めてきた。都教委は、「学校に経営の視点を明確に導入する」「校長は教育者ではなく、経営者である」と公言し、学校を企業の営業所に見立てて、トップダウンによる統制を強化してきた。統制強化のためのもっとも有効な道具として位置づけられたのが、「日の丸・君が代」の押しつけだった。
都教委の暴走には、校長たちでさえ、その多くが不満をもっているという。校長や元校長だけで飲みに行くと、「やってられるか」と叩きつけるようにいう校長がいる。「今の学校はコンビニだ。校長はその店長だ。本部のいいなりだ」と自嘲気味にいう校長もいる。「管理とは諦めさせることだ」という校長もいる。「東京の教育は、ある時点からあるひとつの方向に走り出した」といい、そのことに危惧をいだく校長も少なくない。みずからヒラへの降格を申し出る校長や副校長も、毎年二〇名前後にのぼっている。
そもそも教育とはなんだったのか。学校とはなんだったのか。その原点がいま問われている。
ともに希望を語る教師たち
「日の丸・君が代」の押しつけに抵抗して裁判をたたかう教職員たちは、魅力あふれるすてきなひとたちだ。「ともに希望を語ること」を文字どおり実践してきた。いちど、この先生たちの授業をうけてみたい。高校生の気分に戻って、よく私はそう思う。
かのじょのあだ名は「やまんば」だ。生徒たちがつけたその名をかのじょは誇りにしている。いつも背筋を伸ばし、けっしてうつむかない、数学の先生だ。新任は定時制高校だった。「おれ、馬鹿だから数学できないんだ」自分を馬鹿だとか駄目なやつだとかいう定時制の生徒との出会いが情熱になった。数学ができれば馬鹿じゃないと思えるのなら、生徒全員を数学ができるように、私がしてやろうじゃないか。わかるまで懸命に教えた。正しいと思うことは誤解を恐れず貫くことを、自分にも生徒たちにも要求してきた。
かれは色白で小柄な三八歳の教師だ。自分ではノンポリだと思ってきた。労働組合にもはいらなかった。卒業式の式次第には卒業生担任のスピーチがある。その年はかれのスピーチだった。その直前の国歌斉唱で起立しなかった。その理由を卒業生の前でしゃべった。「なぜ立たなかったかっていうとね、立たないと処分されるぞって言われたからなんだ」「自由はたっとい。相手の自由も大切。自分の自由も大切。大切にしなければならないものってあるよね。護らなければならないものってあると思います」生徒のあいだから共感の拍手がわき上がった。
かのじょは世界史の教師だ。先天性股関節脱臼の後遺症で、いつも杖をついている。ふだん、階段の上り下りには苦痛がともなうし、足が痛くなるので長い距離は歩けない。でも黒板を背にして生徒たちの前に立つと、痛みを忘れる。五〇分間杖なしで授業をする。世界各地の革命や民衆蜂起、さまざまな抵抗について熱く語ってきた。一時担当した現代社会では、沖縄に修学旅行にいく生徒たちに知花昌一さんの話しをした。その自分が、たった一片の職務命令書に服して、今までと違う行動をとったら、この先どんな顔をして教壇に立てるのか。そう思った。
かれは体育の教師だ。その卒業式が定年退職前の最後の卒業式だった。これまで式典ではいつも胸をはって君が代を歌ってきた。その負の歴史は知りつつも、歌に罪はないと思ってきた。でも、処分の脅しによって強制しようとする職務命令には従えなかった。国を愛する心や国旗国歌を強制すれば、この国を誤った方向へ押し流すことになる。憲法をまもり、間違った歴史をくり返さないようにすることが、教育の理念になくてはならない。そういう信念から、教員生活三八年にして初めて、不起立・不斉唱だった。
卒業式の前に、「先生、私、君が代は歌いたくない」と相談をもちかけてくる生徒がいる。「先生に辞められると困るから、もう座らないで」とわざわざ頼みにくる生徒もいる。
生徒たちに見られている。そのことを強烈に意識する。わずか数十秒に教師たちが悩み苦しむのは、卒業式が教え子たちの前での「最後の授業」であり、入学式はこれから始まる三年間の「最初の授業」だからだ。
司法の良心を示した九・二一東京地裁判決
「判決を聴きながら、涙がとまらなかった」
教職員も弁護士も一般市民も、法廷にいた人の多くがそう語った。
九月二一日、東京地方裁判所民事第三六部(難波孝一裁判長)判決は、「日の丸・君が代」の押しつけに従わない自由を、真正面から認めた。一〇・二三通達とこれに基づく職務命令を違憲違法と判断し、起立斉唱等の義務が教職員らにはないと判示したのだ。
司法がその良心を示した判決だった。教育は、教える者と学ぶ者との間の信頼関係を基礎にした全人格的な営みであって、けっして通達や職務命令で強制すべきものではないことを裁判所が理解したからこその判決だった。
この判決を力に、現状を広く社会に訴えて、市民の良識に依拠してたたかえば、「日の丸・君が代」の押しつけをやめさせる日がきっと来る。判決当日、涙でくしゃくしゃになった人々の顔をみながら、私はそう思った。
一〇月一八日から二一日までアメリカのナショナルロイヤーズギルド(NLG)の総会に大阪支部の田中俊団員と共に参加した。テキサス州のオースティンというブッシュ大統領のお膝元での開催だった。自由法曹団からは毎年国際委員会の菅野昭夫、鈴木亜英、井上洋子各団員らが参加して、憲法9条改正の危機的状況を訴えてきた。今年は団の金沢総会と日程が重なったため、私たちのみの参加になった。
今回の出席は、自由法曹団と国際法律家協会(JALISA)の二つの団体の代表を兼ねていたので気は重かったが、団国際委員会とNLG国際委員会の暖かい励ましのもと無事9条キャンペーンを訴えてくることができた。
NLG総会の雰囲気は極めてなごやかなものだった。アメリカの弁護士一〇〇万人のうち、NLGの会員は二〇〇〇人ほどで少数ゆえの団結力のせいなのかもしれない。団よりも弁護士比ではうんと少数派だ。新旧役員交代の場面では、退任役員に対しては拍手喝采とスタンディングオベーションだし、どのスピーチもみんなうまく型が決まっていて、ジョークをとりながら難しい話題を話すというプロのテクニックを間近に見た。ロースクール生の参加も多く(特に女性)、年代もすべての世代がそろっていた。宴会では、誰かがスピーチをするとシーンとなって真剣に聞いている。ザワザワすると誰かがグラスをたたいて静粛な雰囲気になる。マナーの国なのだなと思った。一人一人の発言をよく聞く姿には感激した。自由法曹団の宴会では前でスピーチしても誰も聞いていないくらい騒々しいのに。
さて、本題のグローバル9条キャンペーンの方だが、今回はスピーチを国際委員会のレセプションでさせていただいた。多くの国からのスピーチがあった。ヴェネズエラ、ハイチ、ネパール、ヨーロッパなどに混ざって日本からということで紹介してもらった。今回は例年と趣を少し変えて、9条の本来持っている価値について主に訴えてきた。
「非戦・非武装の9条は、武力によらないで平和を創る理念を示しており、今世界中で起こっている武力紛争、暴力の連鎖を9条で止めよう、暴力に暴力で対応したら、より多くの米軍の死者が出たり、テロを誘発するなど逆効果なことが証明されてきたではないか、カトリーナの被害者救済だって9条のような規定があればもっと救えたのではないか」と話した。カトリーナの被害者救済が遅れていることは、NLG総会の中でも特別にスライドを使っての報告もあったくらい関心が高く、下手なスピーチにもかかわらずこの部分だけは拍手をいただくことができた。
9条Tシャツを着たり、9条うちわを二〇〇本も配布したり、パンフや映画「日本国憲法」のデモを流したり、できるだけ目立つことをした。たくさん課題がある中で、その一つに9条の問題を入れてもらうだけでもそのくらいの迫力が必要だった。なにしろアメリカは海外に対しての悪行が多すぎ、テーマも多様だった。ヴェネズエラへの干渉の問題、レバノン・パレスチナ問題、移民問題、キューバ問題、GIホットライン、枯れ葉剤などの国際的テーマの分科会や、人種差別、監視社会、情報公開、労働問題、麻薬問題、学費問題、カトリーナなどの国内問題が四日間にわたり次々と分科会と全体会を織り交ぜながら進んでいく。国際的テーマではなかなか地球の裏側のアジアの問題にまで関心が届かないという感じではあった。それだけに相当目立たないといけなかった。
えひめ丸事件でお世話になったピーター・アーリンダーサン(及び妻の薄井雅子さん)や、団国際委員会が取り組んでいるGIホットラインのハイケンさん、国際民主法律家協会(IADL)の事務局長も務めるジニーマイラーさんなどのNLG国際委員会のメンバーには本当にお世話になった。何人かの方からは9条についての日本の法律家・市民に対するビデオメッセージももらうことができた。今度どこかで報告したいと思う。
9条に関する決議は、NLG国際委員会が中心となって起案、討議された。決議は、アメリカが経済大国日本をイギリスと同じような軍事国家になってしまうことに対する、世界の平和の危機に対する警鐘を中心に述べられ、グローバル9条キャンペーンに対する支持と憲法9条世界会議への代表派遣などの具体的な行動提起もあった。(全文は国法協のホームページ参照)
しかし、まだまだアメリカに9条のことは知られていない。今回の決議も9条のことをみんなに知らせていくという点に最大の意義がある、とアーリンダーさんも言っていた。来年のNLG総会には是非とも自由法曹団からたくさんの団員が参加して、9条の分科会を持ち、アメリカの法律家たちと9条をめぐる世界情勢について討議していきたい。
グローバル化のもと、英語も勉強しましょう!
福島支部 広 田 次 男
一 ゴミ弁連(たたかう住民とともにゴミ問題の解決をめざす弁護士連絡会)は、カナダのノバスコシア州から二人の講師を招いた。
二人の講師から、ゴミは日本のように「焼いて人目に付かない田舎に埋めてしまう」以外にも処理の仕方がある事を語って貰い、ゴミ問題に関わっている住民に元気を与えて貰おうとするのが主な目的であった。
一〇月七日から一四日にかけて、福島県郡山、函館、軽井沢、東京、横浜、福岡の計六ヵ所で講演集会を行い、合計で約一七〇〇人が参加した。
二 私はこのうちの三ヵ所での集会の冒頭で主催者挨拶とともに、集会の意義を簡単に述べる役割であった。
私は三ヵ所ともそのまま会場に留まり二人の講師の話を聞いた。つまり、数日間の内に3回同じ話を聞いた事になるが、少しも倦(う)む事がなかった。三回ともに、聞きながら様々なことを考えさせられた。
三 以下に、二人の講師の話の紹介とともに、雑駁な感想を述べる。
第一に、当然のことながら「ゴミは焼いては行けない」という事だ。
何故ならば「ゴミは資源だから」と二人は言う。あたかも裏山から苦労して伐り出した材木を「焼く人がいますか」といった風な言い方である。ゴミは置き場所だけを異にしている資源だから、それを本来の場所に置き直すだけで資源になる。
その置き直し作業にハイテクは不要だからそれほどの費用はかからないし、雇用機会の増大にもなる(因みにノバスコシア州だけで約三〇〇〇のゴミ関連雇用が創出されたという)。
第二に「人々に無理を強いては、社会システムは成立しない」という事だ。
日本には何十種類ものゴミ分別を住民が負担している自治体もある。随分昔になってしまったが、総会で飲んでいて話がゴミ問題に及んだ際に、同期の大久保賢一団員から「君は全国民をゴミの仕分け屋さんにしたい訳か」と言われた事があった。
カナダで食べるサンドイッチは日本での三倍は大きい。あんな大きなサンドイッチを食べる国民が自分の出すゴミを細々と分別するとは到底考えられない。
二人の講師の話では、カナダでは四分別が普通であり、所によっては三分別であるという。「一部の人々の犠牲的奉仕によっては、全体的なシステムは成立しない」という事であった。
第三に、徹底した情報公開である。
企業も行政も、持っている情報の全てを出し合う。出すだけではなく、住民にぶつけ、住民もこれを真摯に受け止めて自分の問題として共に議論していく姿勢とシステムである。
四 結論として、日本とノバスコシアで最も異なる点は、民主主義のレベルである。
ゴミの問題を聞くつもりでお招きした講師のお二人だったが、三回立て続けに聞いていて最も痛切に感じたのは、環境問題ではなくて社会の「民主化」の問題である。
私的な時間に二人の講師に対してゴミ焼却炉談合事件、ゴミ問題への暴力団の介入問題などの話をしたところ、「先進国といわれる日本でそんな事があるとは信じられない」と二人は目を丸くした。逆に「議会の監視はどうなっているのか、マスコミの暴露はないのか」等の質問を受け、返答に窮する有様であった。
先進国・民主主義という言葉にも、様々なレベルがある事を痛感するとともに、日本のゴミ問題の抱える本質的問題の一つを突きつけられたような気がした。
宮城県支部 小 野 寺 義 象
一 仙台地裁判決の内容
「トンネルじん肺根絶訴訟」(国賠訴訟)は全国二高裁・一一地裁で闘われているが、一〇月一二日、仙台地裁は、東北ブロック第一陣訴訟(原告数は患者単位で一三八名)で原告勝訴の判決を言渡した。本年七月七日の東京地裁判決、同七月一三日の熊本地裁判決に続き、三たび国を断罪する判決の言渡しだった。
判決は、国の規制権限の不行使について、@建設災害防止協会が「地下工事における粉じん測定の指針」を出した一九八六年一一月以降に、粉じん測定とその評価を義務づけるべきであったのにそれをしなかったこと、A遅くとも湿式さく岩機と防じんマスクの重畳的適用を義務づけた一九八六年一一月の石炭鉱山保安規則改正の時点で、これを義務づけるべきであったのにそれをしなかったことについて、規制権限(省令制定権限)不行使の違法があると認定した。
その上で、原告らが元請ゼネコンから和解金を受取っているから損害全部が充足しているとの国の主張(満足論)、最終の管理区分のときから時効が進行しているとの国の主張(時効論)をいずれも排斥した。
損害額については、原告主張の請求金額三三〇万円を全額認め(管理区分二の非合併症患者は一一〇万円)、一九八六年一一月前に職場を退職した五二名を除く原告八六名に対する総額二億七〇六〇万円の損害賠償を国に命じたのである。
二 判決の意義と厚労省の対応
仙台地裁の判決が認定した前記@およびAの規制権限不行使の義務違反は、東京地裁でも熊本地裁でも認定されている。わずか三か月間に三地裁で立て続けに全く同一の責任が認められた意味は極めて重い。国の責任はもはや動かしえないものとなったといえるのである。
仙台地裁判決後、全国の患者原告、家族、弁護団、労働組合は、国、なかんずく厚生労働省に対して、一連の判決内容を真摯に受けとめ、控訴せずに、原告らとトンネルじん肺被害を防止するための制度改革について話合いをして欲しいと何度も要請した。さらに、国が原告らに謝罪し、粉じん濃度の測定およびその評価の義務づけ等の適切な対策をとることを約束すれば、原告らの国に対する損害賠償請求権を放棄するとともに、全国の国に対する訴えを取下げる考えを有していることも公式に表明した。
しかし、厚労省は、原告・家族に会うことすら頑なに拒否したまま、不当にも一〇月一九日に控訴するに至った。国は控訴にあたり、マスコミに、トンネルじん肺の新規有所見者数が大幅に減少していること、ガイドラインで粉じん濃度測定等の対策をとっている等の弁明を行った。
この国の弁明自体が事実に反している。国のいう「新規有所見者数」は在職中の定期健診者に限定されているが、じん肺は粉じん職場を離職してから発症することが多いから「定期健診者」だけでは被害の実態は掴めない。現に二〇〇五年の有所見者数は定期健診分は六一名だが、随時申請分は二四四名にのぼっている。「ガイドラインの粉じん測定」も、「換気対策の効果を確認するため」に「切羽から五〇m」も離れた地点で測定するにすぎない。最も大量に粉じんが発生している切羽等の作業現場での粉じん測定は行っていないのである。
三 トンネルじん肺根絶を求める運動の広がり
このような厚労省の不当な対応とは対照的に、東京・熊本地裁判決から仙台地裁判決の中でトンネルじん肺を根絶せよという大きな世論が形成され、厚労省包囲網が築かれてきた。
特筆すべきは、多くの国会議員が、@粉じん測定の義務づけ、A粉じん作業時間の短縮、Bトンネルじん肺補償基金の創設の三項目を求める「トンネルじん肺根絶の賛同署名」に賛同しており、国の控訴後も更に増えて、一〇月三〇日時点で、賛同者は全政党、衆参両議院の総議員(七二二名)の約六二%の四四五名に達し、遠からず三分の二を獲得する段階にまで到達している(憲法改「正」発議とは異なり、こちらの「総議員の三分の二」は感動である。ちなみに共産・社民は一〇〇%賛同、公明は五五名のうち五四名賛同、民主は衆参とも八〇〜九〇%以上賛同、自民も衆院は五〇%近く賛同し参院でも三分の一以上賛同している)。
これに加え、仙台地裁判決前夜の集会には、自民党宮城県連からもメッセージが寄せられている。公明党内のじん肺プロジェクトチームも活発な活動を展開している。仙台地裁判決時で、「じん肺根絶を求める一〇〇万署名」は、一〇一万四一九五筆達成、じん肺根絶を求める自治体決議は約四〇%の自治体で達成し、首長署名も約三五%達成している。原告や組合のない自治体もある中で、この数字は驚異的である。これらは、患者原告や家族・遺族が何度も何度も要請に足を重ねた末の貴重な成果なのである。
司法の場でも、国会の場でも、そして地方自治体でも、トンネルじん肺根絶のために国の施策の変更を求める声は多数派となり、大国民運動が展開されている。ただ行政、厚労省だけが頑迷に抵抗しているが、包囲網が日に日に狭まっていることは間違いない。
国が控訴した翌日(一〇月二〇日)の日比谷野外音楽堂の大集会には、同じく厚労省を相手に闘っている原爆被害者認定訴訟、薬害C型肝炎訴訟、水俣訴訟の原告・弁護団が連帯の挨拶を行い、厚労省の不当な姿勢を改めさせる闘いの共同も提起されている。
四 原告・家族の「根絶」訴訟への思い
「根絶」訴訟の特長は、原告たちが自分自身の被害救済のために提起した訴訟ではないことにある。自分の被害救済は、基本的に対ゼネコン訴訟で解決しているトンネル抗夫と家族が、トンネル工事現場で現在働いている後輩たち、将来働くであろう後輩たちに自分たちと同じような被害を受けさせたくないとの思いで、国にじん肺防止のための制度改革を要求しているのである。そして、東北ブロック訴訟提訴後、すでに一八名の原告が判決を聞かずに死亡している。
「根絶」訴訟は、トンネル労働者の命をかけた、文字どおり「崇高な理想と目的を達成するための訴訟」である。
ILOとWHOは二〇一五年までに世界からじん肺を根絶させるとの目標を掲げている。国際的にも、厚労省は包囲されている。国は控訴を取下げ、原告らと真剣に話し合うべきだ。
東京支部 宮 川 泰 彦
一 現国会に係属している少年法「改正」法案の概要
「改正」 少年法は、一四才未満の触法少年と虞犯少年に関し、警察に広範な調査権限を認める(少年、保護者又は参考人を呼び出し、質問する。公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができる)。さらに触法少年事件については押収、捜索等の強制調査権限を認める。そして、一定の重大(検察官関与対象犯罪)触法事件と触法少年及び一四才未満の虞犯少年で家裁審判に付するを相当と思料するときは児童相談所への送致を、一四才以上の虞犯少年について審判に付すべきと思料するときは家裁への送致をしなければならない(送致義務・送致権限をもつ)とする。
「改正」少年法案は、一四才未満の少年に対しても少年院送致を可能にし、保護観察中の少年に遵守事項違反ある場合は少年院送致を可能にする。少年の立ち直り・回復を福祉・教育によるものから、威嚇や厳格な処分によるものに変質させる内容となっている。
以下では、警察権限の拡大、警察の任務膨張との関係で、気になることを述べたい。
二 警察の責務の変容ー少年の健全育成は警察の任務ではないー
少年法は「少年の健全育成」が目的(法一 条)で、教育的措置を講じて成長を確保する保護主義を基本とする。その結果、社会の安全も確保されるという考え方だ。そのため、刑事裁判手続とは異なり、事実認定作業の他、非行に至った動機・背景、家庭内の事情、友人関係、職場・学校の事情、本人の生育歴、性格等々を正確に把握し(法九条)、これに対処する。そのために、秘密主義、手続非公開、個別審理、心身識別・心理学・教育学の科学的調査(法九条)が活用される。
これに対し、刑事手続きは「刑事事件につき、・・・事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする」(刑訴法一条)。 刑事手続きの一翼を担う警察の責務は、「・・・犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持にあたることをもってその責務とする。警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるj ものである(警察法第二条1項、2項)。 そして、質問、犯罪の予防及び制止、立入などの警察官の職務は必要最小限度において用いられるべき(警職法一条2項)と定められている。警察は犯罪捜査と予防を活動の本旨とするものであって、警察は、福祉の領域に手を突っ込んだり、徳育的側面を有する少年の健全育成に責任を負うべきではない。
三 警察権限の拡大強化
触法少年の行為は、犯罪ではないので警察は捜査を行うことはできず、児童福祉法二五条に定める児童相談所への通告の準備行為としての調査が出来るにとどまり、従って押収、捜索などの強制権限はない。ましてや、虞犯のおそれある少年の行為は、全く犯罪ではない。
今回の少年法「改正」は、これまで警察の手が届かなかった領域に警察権限を及ばせるものである。
1 事件送致義務と結びつくことの問題
これまでは、通告の前提としてのみの調査であったが、調査権限と送致義務・権限が結びつくことによって、例えば、家裁送致を相当とする事案か否かを警察が判断するため、より詳細な調査を行ったり、通告後も調査を行うことになり、警察の権限は空間領域においても時間領域においても拡大する。
2 警察は少年調査を通して関係する成人などの情報を把握する。
少年調査の目的は、当該少年の健全育成には如何なる措置・処分が適切かを追究するものであるから、前述のとおり、非行の事実だけでなくその動機・背景、本人の生育歴、家族関係・職場・地域など少年を取り巻く環境等を必然的に調査することになる。警察は、触法・虞犯のおそれのある少年の調査権限をもつことにより、親、学校、職場、交友関係等々を調査し、少年に関連した成人の情報をも収集することになる。
3 警察は広範な少年を治安対象として監視し取り込もうとしている。
〇四年一二月、警察庁は、「少年非行防止法制のあり方(提言)」を公表。犯罪行為ではない「不良行為」まで警察権限を拡大し、民間ボランティアに強制権限を与える少年警察活動の法制化を提言している。これの先取りとして、奈良県少年補導条例が〇六年三月成立した。そこでは、@虞犯さえ構成しない飲酒・喫煙・深夜はいかいなど二八項目を「不良行為」として規制対象とするが、「不良行為」の範囲が極めて広く且つ不明確(監視の範囲に歯止めがない)、A警察職員の権限として、注意、助言、指導、質問、警察施設などへの同行、所持物件の提出要求・一時預かりないし廃棄の促進、保護者への連絡、警察署長の権限として警察施設における一二時間以内の一時保護、B県民に不良行為少年を発見したときの「行為をやめさせる努力義務」「保護者、学校、警察などへの通報努力義務」を定める(犯罪でもないのに警察通報)、C民間ボランティアである少年補導員について委嘱要件、活動内容等々を定め、警察協カの組織と位置づける等となっている。
東京都などでは「学校・警察の相互連絡」制度により、学校と警察が問題少年に関する情報を交換する制度が準備されている。
以上のような状況は、学校の自主性からもこどもの人権からも非常に問題だ。少年に対する治安の観点から、市民を監視動員する体制づくりが準備されているといえる。今回の少年法「改正」はこのような動向と連動し、加速させるもののように思われてならない。
治安の悪化を強調し、教育的処遇への警察関与、治安保持への国民動員、国民の義務強調の動きを警戒せざるを得ない。
大阪支部 石 川 元 也
正森成二先生のご霊前に自由法曹団を代表して在りし日のご活躍を偲びつつお別れの言葉を捧げます。
正森さんは一九二七年一月生まれで私たちの仲間では、東中光雄さんに次ぎ、橋本敦さんや私の少し先輩にあたります正森さんは、旧制静岡高校時代全国学生討論会で優勝されるなど、早くから弁論家として知られておりました。東大に進んでからは長期の療養生活を余儀なくされましたが、一九五八年弁護士登録とともに自由法曹団に入られ、民主法律協会など多くの団体でもめざましい活動を展開されました。「水をえた魚のごとく」という言葉はまさに正森さんの登場のために用意された感じであります。
正森さんは朝鮮戦争反対の大衆的抗議行動が弾圧された吹田事件、枚方事件の弁護団活動に情熱をそそがれるとともに当時、教職員の勤務評定反対闘争など官公労、公務員労働者の権利擁護闘争さらにスト権奪還のたたかいの高揚する中で重要な役割を果たされました。今に伝えるものとして勤評闘争処罰の根拠とされ地方公務員の規定が憲法に違反するとの全国はじめての違憲判決をかちとった大教組事件弁護団事務局長としての奮闘があります。
また、正森さんは憲法と民主主義を守り司法の反動化を阻止する活動でも先頭にたっておられました。大阪弁護士会会員の過半数の憲法改悪反対署名の獲得や、司法の反動化の流れの中で、大教組事件裁判長であった綱田裁判官に部総括裁判官辞令をストップするという最高裁判所の暴挙に、弁護士会をあげて抗議する運動もリードされたものです。
こうした正森さんの活動に大きな転機がおとずれました。衆議院議員候補者に擬せられ、一九六八年一一月旧大阪一区の浪速区大国町に正森成二法律事務所を旗上げされました。その任務を支えるため小林保夫、鈴木康隆両弁護士、植田文雄事務局長が参加され、この事務所はきづがわ共同法律事務所と発展され、こんにち自由法曹団の拠点の一つとして、大阪のみならず全国で有数の活動を展開されています。
そして正森さんは一九七二年、念願の初当選を果され、以来九期、二五年の議員活動を重ねられました。正森さんが衆議院きっての論客として敵には厳しく、味方にはこれほど頼もしい人はない政治家として、全国的に多くのファンに期待にこたえてこられたことは、私からいまさら述べるまでもありません。ただ、後藤田元副総理の回顧録を紹介しようと思います。「共産党にも立派な人物も大勢おるんだよ。正森成二君などというのはなかなかの理論家だ。彼は日本から外に出たら完全に日本人だよ。僕らより日本人だ。PLOのアラファト議長にあいに行ったとき十日ぐらい一緒でしたが、ああ、この人は日本人やなあ、と思った。勉強家で理論家ですよ。」と評価されています。
正森さんが惜しまれて議員辞職されたのちは、一日も早く健康を回復され、いま一度ともに血をわかした若き日の活動を想い、いま当面するこの国の前途について語りあいたいとの願い切なるものがありました。全国の自由法曹団の仲間たちも、それを願っておりました。しかし、ついにかなえられませんでした。まことに痛恨の思いであります。
いまはただ、ご冥福をお祈りするばかりです。
どうか安らかにお眠り下さい。
二〇〇六年一〇月二一日
自由法曹団を代表して 元団長 石川 元也
団長 松 井 繁 明
坂本 修さんを継いで団長になりました。よろしくお願いいたします。坂本さんには敬意と感謝を申しあげるとともに、これからも団を支えていただくことを願っています。
団長になるのはよいとして、なにもこんな時期に、と思わないでもありません。しかし光は確実に見えています。
ここ数年わが国の外交と軍事を振りまわしてきたアメリカの先制攻撃主義・単独行動主義は、イラクとアフガンで挫折しつつあります。ブッシュ政権の共和党は中間選挙で大敗を喫し、ラムズフェルドは辞任しました。わが国の改憲勢力がその口実としてきた「国際貢献」論は、足場を失わざるをえないでしょう。
国内では、「構造改革」の失敗がだれの目にもはっきりしてきました。格差と貧困の拡大・固定化は青少年の希望を失わせ、少子化や教育荒廃の原因ともなっています。
来年のいっせい地方選挙や参院選をふくむこれからの政局は、ゆきづまった自民党政治にかわる新しい日本の進路を有権者が模索する過程として、展開されることでしょう。自由法曹団はそのなかで、しっかりとした役割をはたしたいものです。
私は一九四〇年二月生れ、六六歳です。敗戦を、神奈川県藤沢市で、五歳半のときにむかえました。高空を東京空襲にむかうB29爆撃機も見たし、空襲警報におびえて暗い防空壕のなかで震えていたこともあります。戦後の食糧難も経験しました。
父はサラリーマンでしたが、薄給のうえ子どもが四人もいたので、生活はいつも貧乏でした。高校進学も困難だったのですが、日本大学に特待生制度があることを知り、それを利用して高校、大学を卒業しました。
そんな経験から私は弁護士になって、貧しい人、弱い立場の人の役に立とうと、黒田法律事務所(現、東京法律事務所)に入所しました。いまでも良い選択だったと思います
それだけに私は、いまの憲法改悪の企みをどうしても許せません。「こんなすばらしい憲法の、どこが悪いのか」と言ってやりたい。
現在は、東京・新宿の都民中央法律事務所に所属し、元事務局次長の瀬野俊之さんらと仕事をしています。
東京・小金井市に妻と二人で住んでいます。趣味は乱読と絵を描くこと。団長になると趣味に割く時間も減るでしょうが、今の状況ではそれもよし、という気持ちです。
幹事長 田 中 隆
北陸・能登総会で幹事長に選任されました。
弁護士になって二八年間、東京都足立区にある北千住法律事務所でまちのひとびとの問題にかかわり、自由法曹団では都政や東京のまちに対応する東京支部の仕事を中心に活動してきました。本部での仕事は、小選挙区制や阪神・淡路大震災そして有事法制などの緊急課題の対策本部でした。「ローカル戦」あるいは「局地戦」が本来の役回りにもかかわらず本部の幹事長を引き受けるハメになったのは、「断り下手」という性格の災いするところでもありますが、地域の問題が国の問題、世界の問題と直結していることに目を向けざるを得なくなっているからでもあります。
その能登総会からの三週間、世界やまちのどの平面の動きもきわめて早い。
世界。アメリカとこの国の北朝鮮制裁強硬論が声高に叫ばれ、臨検まがいの船舶検査の強行や抵抗・反撃で戦争勃発すら懸念される状況でした。周辺事態法や武力攻撃事態法、船舶検査法などを読み直したのもあのころでした。その北朝鮮問題は一〇月末の六者協議復帰の合意でひとまず沈静化し、一一月八日にはブッシュ政権の戦争路線が中間選挙で断罪されました。戦争の道は大道たり得ないことを示した三週間でもありました。
国。「一〇月初頭には衆議院を突破してこの国会で教育基本法改正を強行」というのが総会当時の政府の「タイムテーブル」。その教育平面で、「いじめ自殺」と隠蔽の問題が噴出し、全国に広がった未履修の問題が露呈し、タウンミーティングの「やらせ」まで発覚しました。法案をめぐる情勢は決して油断を許しませんが、文部科学省と教育政策が満身創痍の状態に追い込まれていることもまた事実でしょう。
まちと子どもたち。「四〇%を超える就学援助」で格差社会の象徴のように報じられた足立区(一月二日朝日紙)が、再び全国の注目を集めたのが学力テスト「ランク分け」予算(一一月四日報道)。厳しい批判を浴びて三日後には「ランク分け」から「伸び率による査定」に軌道修正しました。「『点数がよければ買ってやる』と『点数が上がれば買ってやる』とでどこが違うか」という気もしますが、まちの声が政治を突き動かしたことはまぎれもない事実です。
運動。国会攻め等もありますがやはりまちの運動から。教育基本法改悪反対の足立区民集会(一〇月一〇日)で、平和憲法を守る足立の会から発言に立ちました。労働組合・民主団体と憲法運動、教育運動が合流した集会・パレードで参加は一千人。数が多いだけでなく気持ちの揃った集会で、ペンライトを持った参加者の気持と発言者の気持が結び合っているのが伝わってきました。教育がメインテーマで参加者の中心は建設労働者という一見するとミスマッチに見える設定でこれだけの集会・パレードができたのは、経済格差―教育格差―教育基本法―憲法・平和の問題がひとつながりの課題となってきていることを示しています。これは足立だけの現象ではないはずです。
「教育再生」と憲法を掲げる内閣のもとで、ここしばらくは子どもたちの問題と平和の問題がいやおうなしに世界と国とまちを結んだ課題となり続けるでしょう。「水準に達しないことがわかった学校は容赦なく廃校にした。・・そういう学校に教師を送り出している大学の教育学部までもがつぶされた」(サッチャー教育改革礼賛の辞。「美しい国へ」より)と、いささかの心の痛みすら伴わずに言い捨てるかの宰相に、政治を委ねることはできません。
微力を尽くしたいと思います。よろしくお願いいたします。
(二〇〇六年一一月一一日脱稿)
東京支部 吉 田 健 一
改憲に大きく踏み出した小泉内閣のもとで様々な分野でめまぐるしい動きがあり、その対応に追われる二年間でした。しかし、団は、次々と提起される課題に対して、団事務局はもとより多くの団員のみなさんが力を出し合い、果敢にたたかいを進めてきたといえるのではないでしょうか。もちろん、目の前で進められている臨時国会でのたたかいをはじめ、まさに、これからが正念場ではあります。より多くの知恵と力を集め、いっそう大きな運動に発展させるためにどうするか。次期執行部のもとで大きな飛躍を期待したいと思います。
また、この二年間で言えば、〇四年の沖縄総会で招待した韓国民弁の弁護士との交流が進められ、昨年は私も団代表として民弁総会に参加させてもらいました。言葉の壁という問題はありますが、今年の団総会の議論を含めて、平和や人権課題に対する取り組みについて新たな視点を学ぶことができたと思います。他方、団の将来問題などは、団や法律家運動の発展をめざして議論を積み重ねてきましたが、重要な転機が差し迫っており、これに対応するために、いっそうの検討が必要となっています。自分なりにも引き続き考えていきたいと思います。
幹事長を退任したことを知った方から、「荷が軽くなったでしょう」と声をかけられます。確かに、毎日、大量に送られてくるメールのチェクについても、気軽にできるようになった気がします。しかし、事件活動など、事務所に戻って一気に押し寄せてくる仕事を前に、四苦八苦している側面もあります。「一休みして・・・」とは行かないのが現状です。
いろいろお世話になった関係者のみなさんに感謝し、退任のご挨拶といたします。
千葉支部 馬 屋 原 潔
一 この度、本部事務局次長に就任しました千葉支部の馬屋原(うまやはら)と申します。
以前、二〇〇二年から一年半ほど次長を務めましたが、諸般の事情でドロップアウトをしてしまいました。この度、カムバックしてきましたので、このあいさつを書くのも二度目です。
二 前回ドロップアウトしたのは裁判交流集会の直前で、あまりにも急な出来事で周囲の方にも迷惑をかけてしまいましたし、退任時の総会にも行けない状況でしたので、私自身、非常に心残りでした。
三 ドロップアウトの翌年から、千葉県憲法会議の事務局長として千葉県における憲法運動に加わってきました。
そのために改憲策動を巡る大変な時期に憲法闘争の中心に身をおきたいという気持ちを強く持っていました。
四 そんな状況でしたので、今村事務局長から次長就任の声がかかったときにはチャンスが巡ってきたという気持ちになりました。
改憲阻止闘争では千葉での経験を生かしながら本部で奮闘するとともに、本部と千葉支部のパイプとなって千葉での運動を大いに盛り上げ、首都圏の支部としての機能を十二分に果たせるように尽力していきたいと思います。
しかし、前回のこともありますので、調子に乗って二の轍を踏むことがないように留意しつつがんばっていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
東京支部 飯 田 美 弥 子
一 先の能登総会では、退任挨拶のときに、医療用ウィッグを取るパフォーマンスで、その後に挨拶をする平井さんの頭の中を真っ白にさせた、幾つになってもいたずらっ子の飯田です。
二 昨年の鳴門総会の一一ヶ月後に、乳ガンの宣告というタイミングも泣かせるし、そのとき、二年目次長は、(今村さんが事務局長に、異例の昇進?をしたため)泉澤さんと二人きり。辞任してしまうわけにはいかず、「罷免請求するなら、して頂戴」という感じでした。
手術後に退院したときは、その足で事務局会議に顔を出し、坂本団長(当時)をびっくりさせました。
放射線治療のときは、通院が大変でしたが、順調にこなし、体がしんどくなったのは、抗ガン剤のときでした。(副作用で脱毛しました。)
夜の会議は休ませてもらい、遠出は無理と言われて、五月集会に出られなくなり、常任幹事会も一度休んでしまいました。(執行部の皆さん、専従の皆さん、ご迷惑をおかけしました。)
八月の事務局合宿には、産毛頭で参加。議案書作成作業にどうにか間に合いました。
総会のときに、大橋純子のような(泉澤さんの評)ショートヘアにまで毛が伸びていたのは、これはもう、舞台でかつらを取れ、という天の配剤としか思えません。後に、私って日ハムの新庄みたい、と思いました。
三 総会でもお話しましたが、次長をやってみると、団のことがよくわかります。
団の役割、団の力が、実感できます。文字だけではわかりにくい、団員それぞれの個性も知ることができ、楽しくなります。
期の若い団員の皆さん。
是非、次長を経験してください。(次長就任と、私の病気とに、因果関係はありません!)また、各地から、物怖じせずに、団通信に原稿を送ってください。議案書を作成するとき、B型肝炎や志賀原発などの貴重な成果について問い合わせなければならなかったのは、前執行部の目配りの足りなさでしょうが、残念に思いました。
四 最後に。今、想像もしていなかった憲法の危機です。教育基本法・少年法・労働法・刑法などの基本原則もまた、根こそぎ覆されようとしています。人権と民主主義を守るため、一層力を結集しましょう。
二年間、ありがとうございました。