<<目次へ 団通信1234号(4月21日)
城塚 健之 | NTT配転事件大阪地裁判決について |
中尾 誠 | 校長先生の自殺、基金支部で公務災害認定 |
丸山 幸司 | 『改正刑事訴訟法を検証する(公判前整理手続を中心に)』に参加して |
庄司 捷彦 | 四つ目の勝利判決 原爆症認定請求仙台訴訟・報告 |
宮腰 直子 | 千葉で拡大常任幹事会をしたらこうなりました |
角田 京子 | 国民投票法学習会の実践 |
萩尾 健太 | 法曹養成制度の在り方についての提言 |
杉本 朗 | 中年入門またはターボーとトノバンのベル・エキセントリック |
井上 洋子 | 国際問題委員会 マレーシア、インドネシア訪問報告 |
伊藤 和子 | アジアでいま、市民が軍に殺されている― 五・八国連専門家をむかえてアジアの人権・平和を考えるシンポのご案内 |
松本恵美子 | 第一七回裁判交流集会のお知らせ 〜依頼者を裁判交流集会に誘ってください〜 |
一 大阪事件で一部勝訴
NTT配転事件について、二〇〇七(平成一九)年三月二八日、大阪地裁第五民事部(裁判官 山田陽三、川畑正文、細川二朗)は、原告二三名のうち、三名の配転が権利濫用だったとして、NTT西日本に慰謝料の支払いを命ずる一部勝訴判決を出した。
同種の事件としては、二〇〇六(平成一八)年九月に札幌地裁で原告五名全員についてNTT東日本に慰謝料を命ずる判決が出されており、本件は二番目の判決である。なお、大阪判決の翌日に東京地裁が原告九名の請求を全部棄却する判決を出している。
二 NTT配転事件とは
この事件は、二〇〇二(平成一四)年五月、NTTグループ各社が「利益の最大化」を図るために全国規模で強行した「一一万人リストラ」が発端である。NTT各社は、人件費削減のために、五一歳以上の高年齢労働者をターゲットにした。しかしながら、高齢者をねらい打ちにした賃金切り下げがみちのく銀行事件最高裁判決により否定されていることから、NTT各社は、こうした高年齢者を一旦退職させ、急造した地域ごとのアウトソーシング会社(OS会社)へ大幅な賃金ダウンで再雇用するというスキームにより、高年齢者を企業外に放逐するという手法をとった。「退職再雇用」された労働者は、原則として従前と同じ場所で同じ仕事(電話回線の保守管理など)に賃金二〜三割減で従事させられる。
もちろん、これは実質的には「転籍」であるが、これを「転籍」と呼ぶと、会社は圧倒的多数派労組であるNTT労組との協定に従い現給を保証しなければならなくなる。そこで会社はこれを「転籍」とは呼ばず、あくまで「退職再雇用」であると言い張った。そうはいっても、これを実行するために労働者の個別の同意が必要であることは明らかであるから、会社はこの同意を取りつけるために、さまざまな圧力を加えた。
それでも通信労組組合員を中心に、西日本では約五〇〇名が「退職再雇用」に応じなかった。すると会社は、彼らが引き続き同じ業務に従事できるとなれば、泣く泣く転籍に応じた者たちに示しがつかないと考え、高度なソリューション営業に従事させると称して、地方都市から大都市へ(九州・四国などから大阪・名古屋などへ)、異職種・遠隔地配転を行った(配転(1))。しかしながら、長年、電話回線の保守管理等に従事してきて、営業経験など皆無の者の原告らを待っていたのは、およそ契約獲得見込みの乏しいシャッター商店街に対する光ファイバー通信販売(電話回線が一、二本しかない個人商店にネットワーク商品を売ろうとしても売れるものではない)や単調なパソコン入力作業などといった、仕事とは名ばかりの、不合理きわまりないものであった。
そこで、二〇〇二(平成一四)年九月以降、東京、札幌、静岡、名古屋、大阪、松山、福岡の七地裁に配転先で勤務すべき義務のないことの確認等を求める訴訟が提起され、大阪では、香川、徳島、岡山、大分から大阪へ配転された四名が原告となった。
ところが、配転(1)の結果、大阪に通信労組の活動家が集められることになった(もともと大阪は通信労組発祥の地である)。会社は、配転(1)の対象者とは別に、大阪内部でシャッフルするかのような玉突き配転(配転(2))をした後、同年一一月から一二月にかけて、今度は大阪から名古屋へと大量配転した(配転(3))。
(1)〜(3)の配転のいずれも、通信労組の役員か、通信労組に入りたての者が対象とされた。組合に入りたての者が入った途端に遠隔地に配転されれば一般への萎縮効果は抜群ということである。そこで大阪では、(2)(3)で配転された一九名が原告となって追加提訴した。このように大都市から大都市への配転を争っているのは大阪訴訟の特徴である(このほか、大阪ではリストラ遂行過程での会社の不誠実団交・団交拒否を不当労働行為として労働委員会で争っており、こちらは大阪府労委で一部救済命令を得て、現在、中労委に係属中である)。
その後、福岡の事件は名古屋に移送され併合された後、和解し(原告六名)、冒頭で紹介した札幌事件(原告五名)が勝訴して高裁に移り、残る東京、静岡、大阪、松山の各地裁で裁判が継続していた。
三 大阪地裁判決の問題点と意義
本件配転は、定年間際の原告らに初めての単身赴任や新幹線通勤を強制するものだった。それは、本人が持病を抱えていようと、家族に病人や要介護老人がいようと、お構いなしだった。また、配転先で命じられた仕事は、既に述べたように不合理なもので、原告らの労働者としての誇りを大きく傷つけるものであった。ことに名古屋へ配転された原告らに与えられた仕事が年間一五〇万円を超える通勤費用をかける価値があるとはとても考えられない。
しかしながら、大阪地裁判決は、「一一万人リストラ」それ自体の必要性についても本件配転の必要性についても、ことごとく会社の主張を認めた。私たちは、OS会社に在籍出向させればそこに合理的な仕事があるではないかと主張したのであるが、判決は、「賃金の減額が生じているOS会社に再雇用された被告の元従業員と、従前どおりの賃金が維持されている六〇歳満了型の被告従業員(注:原告らのこと)とが、同じ職場で同様の職務を担当した場合、両者の間に不公平感が生じることが考えられるため、その不都合を避けようとしたもの」と、会社の言い分をそのまま理由中で述べている。民法協「NTTグループ三カ年経営計画に基づくリストラの中止を求める意見書」(二〇〇二年一月http://www.minpokyo.org/ikensho/index.html)で問題としていた年齢差別、高年齢者雇用安定法違反についても、判決はことごとく退けた(もっとも、判決は、屁理屈をこね回していて、何でそのような論理になるのかが私にはいまだに理解できていない)。
そして、判決は、会社が配転時に知らなかった事情、配転後に生じた事情は一切考慮しないとし、「通信労組において個別面談を拒否する方針が立てられており、その結果、原告らが被告に対して個人的事情を積極的に説明しようとする姿勢に乏しく、その機会が十分でなかった」と、会社が知らなかったのは組合が悪いからと言わんばかりの前置きをした上で、配転(3)(大阪から名古屋への配転)の原告らのうち三名、すなわち、老父母の介護の必要があった神野康担氏(八〇万円)、糖尿病に罹患していた市田真一氏(四〇万円)、奥さんが肺癌で手術したばかりであった村上淳一氏(八〇万円)については、会社はその事情を知っていたにもかかわらず本件配転を行い、通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせたとして、それぞれ慰謝料の支払いを命じた。
ところで、本件配転は当初は無期限の「片道切符」だったのだが、大阪では、こんな非人間的な配転をいつまで放置するのかと、組合が労使交渉で詰め、弁護団も意見書的な準備書面を書き、法廷でも強く要求するなどしたため、会社は、被害甚大な原告らについて、順次、元の勤務地に返すようになった。これは会社の裁判対策という側面もあるが、その結果、本件結審間際である二〇〇六(平成一八)年七月までに、原告後藤眞利氏(配転(1))をのぞく原告二二名が再配転により元の勤務地ないしその近隣勤務地に戻った。配転事件をたたかうのは元の勤務地に戻すのが目的であるから、これは明らかに勝利である。しかし、戻った原告らについては終盤、地位確認請求を取り下げ、慰謝料請求だけとなった。これはその時点で裁判闘争の性格が変化したということである。これは大阪訴訟の特徴であり、判決はこの点をふまえて評価する必要がある。
そうだとしても、会社の主張する配転の業務上の必要性を安易に認め、高年齢者の遠隔地配転の不利益性を軽視しているという意味では不当判決というほかない。
それでもなお、裁判所としては、原告ら三名に対する本件配転の非人道性は容認できなかったということであろう。たとえば、原告村上氏については、裁判の途中で奥さんの癌が再発したことから、上述のような取り組みの結果、会社はまず単身赴任から新幹線通勤への変更を認めたが、その際、会社は「『新幹線通勤の必要がなくなったら単身赴任に戻ります』と書いて提出せよ」と言い放ったのである(この発言の意味するところはお判りであろう)。
大分から大阪に配転され、いまだに戻れていない後藤氏については、成人T細胞白血病ウイルスに感染しており、いつ発症するかわからないという危険がある。判決は、この後藤氏については、会社に対し、「健康上の状況を確認し、その状況を十分に踏まえて、時宜にかなった、適切な配慮」を求めざるをえなかった。こうした要望を判決で述べざるを得ないほど、本件配転はどれもこれも非人間的なのである。
四 今後に向けて
解雇事件でも懲戒処分の事件でも、無効が確認されれば慰謝料はいいではないか、と請求が棄却されることが多い。ましてや配転事件について慰謝料を勝ち取ることはレアケースになるだろう。そのような中で、慰謝料だけの裁判となった段階で、三名について勝訴したことの意義は小さくない。とはいえ、判決は、会社主張をほとんど丸飲みした。勝訴部分についても、彼らが会社から受けた仕打ちからすれば、十分な金額とはいえないし、被害甚大であるにも関わらず救済を否定された他の原告らについてはなおさらである。しかも、NTTはおよそ和解というものを考えない企業と聞いており、いずれにしても控訴して争わざるを得ない。
よって、たたかいはまだまだ続く。今後ともご支援をお願いする次第である。
(弁護団 河村武信、田窪五朗、出田健一、横山精一、城塚健之、西晃、増田尚、中西基、井上耕史、成見暁子、大前治の各団員)
一 はじめに
二〇〇〇年三月に自殺した公務災害事案(中学校の校長)について、地方公務員災害補償基金京都府支部において、二〇〇六年九月に「公務上の災害」であると認定された。地方公務員の自殺について、近頃では、認定例が増えてきているが、裁判や基金支部(ないし本部)審査会段階ではなく、最初の段階である基金支部での認定例はあまり多くないと思われるので報告する。
なお、基金本部の資料によれば、支部段階での自殺の公務上の認定状況は、三年間で申請四八件のうち九件(平成一四年度から一六年度の合計)である。
二 事案の概要
中学校の校長先生である保理江利一(以下、保理江という)は、一九六三年に教師となり、一九九四年から三年間はドイツのフランクフルト日本人学校の校長として海外派遣され、最後の勤務地として、一九九九年四月に京都府舞鶴市立城南中学校に赴任した。何ごともなければ、二〇〇一年三月末に定年退職であり、退職後の生活設計もできていた。
九九年一二月にM先生の校内での窃盗事件(M先生問題)が発覚し、その処理と対応に追われた。そして、保理江はこの件に関して戒告処分を受けると共に、定年より一年早い退職となった。〇〇年二月にさらに不明金問題が発覚し、その処理について改めての対応を迫られることとなった。警察、教育委員会等との対応も重要なことであった。保理江は、この件について警察への告訴を含め真相を究明すべく行動していたが、その経過の中で、教育委員会の処理の方針が一変し、内々で処理することになった。
三月中旬以降、M先生問題、不明金問題という一連の事態が、議会質問や、新聞記事などにより公になる可能性が強くなった。公になれば、ここまで内々での処理を図ったことが逆効果となり、刑事責任を含めてその責任を問われ、懲戒解雇のおそれもあると保理江は思った。
保理江は、正月の元旦を除いて、一日の休みもなく、一連の事態の対応に追われ、さらに、その処理も、教育委員会の意向等を踏まえなければならず、自分で判断できないということも生じた。このような経過の中、極度のストレスにより、「うつ病」となった。
三月二二日に、市議会の文教委員会が開催され、事前の情報では、その場で、城南中学の問題が公になるおそれがあるとのことであった。教育委員会からの連絡を待っていたが、何の連絡もなかった。 保理江は、城南中学の問題で審議が長引いており、翌日には新聞に公表されるものと誤解したまま、自宅に帰った。そして、翌二三日に未明に、うつ状態のなか、自殺に至った。
三 公務災害の認定請求
保理江の妻(公務災害の請求者)にとっては、「なぜ、定年退職を間近に控えて、急に、M先生問題の処理の途中の時期に辞表を提出しなければならなかったのか」不可解であったし、「夫の責任はどうであったか、名誉回復はどのようにすればよいか。」という思いがあった。死亡後の1年後に、京都弁護士会の法律相談で私がたまたま相談担当となり、公務災害の認定請求をすることになった。
しかし、妻にとっては、保理江が学校で何をしていたかについては、ほとんど判らず、保理江が遺した手帳、ノートだけからの手探りの出発であった。弁護士が当時の教頭先生と面談し事情をきくことができ、また、杉山弁護士が京教組とのつながりがあることから、当該中学校の教組の先生の協力も得られることになった。医師の協力も必要であり、妻は地元の病院に相談に行ったが、「本人を診察したわけではないので」という消極的な対応であった。その後、京都民医連の医師と相談することができることになった。
その過程で、「災害発生の状況」として、事実関係を「前項の事案の概要」のように確定(推測)し、〇二年八月に、舞鶴市教育委員会を経由して、認定請求をした。
四 認定請求後の取り組み
認定請求の時点では、また、医師の意見書もなく、請求者(妻)以外の陳述書も提出していない状態であった。
教組の先生の陳述書、並びに、詳細な経過一覧表によって、一般教職員からみた一連の経過が明らかになった。打ち合わせの中での、「同じ学校で働いていた校長先生を死なせてしまったことは、悔しいことである」という発言が印象的であった。例えば、保理江の手帳の記載(各日付欄の教員の氏名)の意味が、その教員の誕生日であり、職員会議で名前を挙げてお祝いを言っていたことなども、打ち合わせの中で明らかになっていった。
舞鶴市情報公開条例の規定に基く行政文書開示請求(ないし、その規定の適用前については「任意的開示依頼」)により、中学校と教育委員会のやり取りの文書を中心とした資料を入手することができた。それらの資料により保理江と教育委員会や警察とのやりとりの内容など保理江の置かれていた大変な状況及び加重な職務の様子を具体的に示すことが出来るようになった。
妻にとっても、それらの事実を知る中で、何が起こっていたかが次第にわかるようになり、事件発生から死亡までの約四ヶ月間の「被災職員の勤務・生活の状況」を細かく記載し、提出した。また、年度末は、他の時期に比べて忙しいということの資料も提出した。
決定的だったのは、協力いただいた医師の「自殺に関する精神医学的見解」であった。「精神疾患に起因する自殺の公務災害の認定について(地基補第一七三号)」に沿った、丁寧な、詳細な意見書である。多くの点が、認定通知書の認定理由の中にそのまま取り入れられている。意見書を作成するにあたって、妻からの聞き取りもしていただき、それ自体が、自殺した遺族に対するケアーとなった。
最終段階では、基金支部に対して、地方公務員災害補償基金の保有する個人情報の保護に関する規程に基づき、舞鶴市教育委員会から基金支部に提出されている資料の開示を求め、その時点での資料の提供を受けた。(なお、その時点で、支部で独自に調査した資料があればその開示も出来るとのことであった。)
五 突然の公務上の通知
〇六年九月一九日に、舞鶴市教育委員会から公務災害であると認められたとの連絡があった。死亡から六年半後の、認定請求から四年後の突然のうれしい知らせであった。
認定理由は先に引用した自殺認定基準の沿ったものである。「特別な状況下における職務により、通常の日常の職務に比較して特に加重の職務を行うことを余儀なくされ、強度の肉体的・精神的ストレス等を重複・重積させたものと認められる」としている。また、「本件に係る医学的知見」については、提出した意見書、基金支部および本部におけるそれぞれの医師の意見を総合的に記載したとのことであるが、先に触れたように、協力いただいた医師の意見がそのまま取り入れられている。
偶然の要素もあったが、多くの方々の協力が得られた結果であり、また、明らかになってきた事実を受け止め、そしゃくしていった妻の力の賜物である。
「ありのままの事を知りたいわたしの心情が受け止められていると思いました」との、妻の認定理由に対する感想がすべてである。
なお、担当弁護士は、杉山潔志、佐武直子と中尾である。
一 はじめに
私が表記学習会に参加したのは、私自身、近く公判前整理手続を迎えようとしており、技術的問題もさることながら、この手続きに対する基本スタンスを確立したいという要求があったからである。本学習会は私のニーズに合致する内容であった。
本学習会は、公判前整理手続を経験した弁護士の三つの事例紹介と小田中聰樹教授の講義という構成であった。三人の弁護士の事例紹介は、それぞれの経験された手続の内容はもちろんのこと、事件それ自体も大変興味深いものであった。これに対する小田中教授の講義は、裁判員制度に対する批判的立場を背景として、公判前整理手続を充実させることよりも、むしろ公判中心主義を復活させていく弁護士の今後の無数の努力に期待を表明される内容となった。
ご多忙のところ、また遠方にも関わらず貴重な機会を与えてくださった諸先生方に敬意を表しつつ、僭越ながら若干の私見を述べたい。
二 争点を早期に整理することの問題点
小田中教授は、報告の中で、刑事裁判において争点を早期に設定するのは裁判の自殺であると強調された。報告にあたられた弁護士の中からも、「争点を絞られ、『本件に関係ない』と言われてしまう」など、争点を整理する手続の問題点が紹介された。
確かに、公判前整理手続で争点が整理されることで、結果的に公判における弁護活動が制約されることは耐え難い。加えて、公判前整理手続で予断を持った裁判官が、セレモニー化した公判を経て、評議で「いかに裁判員を説得するか」に意を尽くすような傾向が一般化するならば、この手続きの弊害はさらに耐え難いものとなる。
三 証拠開示でいかに成果をあげるか
他方で、公判前整理手続における証拠開示の活用は、依然魅力的なテーマであるように思われる。これまで公判前には決して得ることができなかった検察官手持ち証拠を早期に入手することが可能となるのではないか、証拠開示の分野における新たな領域を開拓することができないか、こうした問題意識を持つのは私だけではないだろう。
しかし、検察側の巻き返しはすさまじい。本学習会での弁護士の報告の中で、当初から検察官が相当証拠を絞り込んできたとの感想があったが、検察側は、公判前整理手続の中で弁護人からの開示請求に応じた証拠開示がなされることを見越して、予め証拠を意図的に絞り込んでいるとも思われる。また、私の地元で公判前整理手続を経験した弁護士の中にも「これまでなら任意に出していたと思われる証拠も、弁護人側で必要性などを書面で示して請求する形になっている気がする。しかも、証拠が出てくる時間も従来より余計にかかっている。」との感想があった。
このように、公判前整理手続の現状は、証拠開示の側面においても弁護側が期待どおりには進んでおらず、今後の展望を切り開く一層の努力が求められている。
四 さいごに
本学習会のように、単に新制度を学ぶにとどまらず、その有する問題点をどう克服するかという方向を探求する学習会は団ならではのものであろう。今後もぜひ、継続していただきたい。
今年三月二〇日午後一時一〇分、仙台地裁第二民事部潮見直之裁判長は判決を言い渡した。二人の原告が原爆症認定を求めて、厚生労働大臣の「申請却下処分の取消」を求めてきた訴訟。判決は、原告両名について、「原処分取消」。全国で展開されている集団訴訟の四番目の判決。大阪・広島・名古屋に次いで原告らは勝訴した。
仙台の原告について、少し詳しく述べる。原告波多野は、七歳のとき広島市段原町(爆心から一・八キロ)で被曝。被曝直後から「急性症状」があり、昭和五七年「胃切除」。以後ダンピング症状が長期的に継続している。厚労省は「胃ガンについての放射線起因性は認めるが、胃切除後障害は起因性が無い」として申請を却下。しかし判決では「胃切除後障害にも放射線起因性はある」ことを明確に認定した上、現在の症状の内「ダンピング症状・貧血・栄養障害」について「要医療性」を肯定したのである。本例は集団訴訟の原告の中で、「術後後遺症」を問題としている唯一の例。その意味で、被爆者団体も判決に注目をしていたし、今後の集団申請にも大きく寄与する判決と考えている。
原告新沼は当時二一歳。広島市内に展開していた暁部隊に所属。比治山南東の兵舎内(爆心から二キロ)で被曝。同市に一〇月まで滞在して救護活動に従事。当時にも「脱毛・だるさ・下痢」などの急性症状があった。昭和五五年「右腎摘出」、平成五年「二度の膀胱腫瘍摘出」の治療を受け、その後定期的に「再発予防等のための定期的検査」を受けている。厚労省は起因性も要医療性も否定していた。しかし判決は、厚労省の主張する「推定被曝線量」を否定し、急性症状の存在などを理由に起因性を肯定し、更に「再発予防等のための定期的検査」も「要医療性に含まれる」との判断を示した。この判示は厚労省の「認定基準」への強い批判を含んでいるし、「再発予防等のための定期的検査を必要な医療行為」とした判断は、要医療性に関する従来の判例を一歩前進させたものとして評価されるべきである。
この判決の二日後に東京地裁判決があった。三〇名の原告中二一名が勝利した。この日から厚労省前では「控訴するな」の集会が連日持たれ、国会議員要請も繰り返された。多数の議員が「認定基準の見直し」と「控訴をするな」との要請署名に応じた。宮城の郡議員等、複数の議員が厚労省への質問を展開した。
他の事件と同様に、厚労省はこの二つの判決に控訴した。解決の日はまだ見えないが、確実に情勢は動き始めている。高裁判決に至る前の「全面解決」を求めて、これからの運動は進められる。全国の団員諸兄が、この運動に積極的に取り組んで頂くことを強く希望する。
去る三月一七日、千葉で団の常任幹事会が開かれました。全国各地から多くの団員が来られ五〇人ほどの会議室が一杯になりました。私は普段は千葉支部の幹事会に参加していないのですが(すみません)、団の常幹が千葉で開かれるとなると、さぼってばかりもいられませんで参加しました。私だけでなく、普段あまり支部活動に参加していない顔ぶれがお目見えしました。
いつも東京本部で行われているのであろう活発な議論が、穏やかな千葉の雰囲気を一転させ、たいそう刺激的でした。市民問題、労働問題、治安問題、司法問題、教育問題、平和問題、国際問題、改憲問題等々いずれも奥の深い問題が数分ずつという驚異的短時間で要領よく報告され、各担当の団員の優秀さに頭が下がりました。また報告だけでなく、活発な議論も交わされました。
地元千葉支部の活動報告として、三番瀬問題ついて中丸団員がスライドを使って紹介しました。三番瀬は東京湾の最奥部にある干潟や浅瀬ですが、県による埋立計画と違法な公金支出が相互に関連して問題となり、市民による環境保全運動と違法な公金支出に対する住民訴訟が行われた事案です。
福岡支部の角田団員からも、諫早湾干拓に関連する有明海訴訟と長崎県による干拓農地への公金支出差止訴訟が報告され、環境破壊と違法公金支出が繋がるカラクリはいずこも同じだと思いました。
会議の後は懇親会で親睦を一層深めました。五月集会や総会でも全国各地の団員と交流できますが、常幹はずっと小規模なのでより身近に各地の団員の活躍を感じました。
改憲を始め重大問題が目白押しで、時間的余裕のない中、たいへんかもしれませんが、ときどき地方で拡大常幹をするのもいいな、と思いました。支部は本部の刺激を受け、本部は支部の特徴がわかると思います。
最後になりますが、遠くからお越しくださった団員の皆様、準備に奔走した支部団員の方々ありがとうございました。
一 初めての学習会
三月八日、福岡市の職員労働組合に、国民投票法についての学習会の講師として招かれました。私にとっては、弁護士登録後初めての講師の仕事です。法律家ではない聴衆に対し、分かりやすい学習会になるよう工夫した点を報告します。
二 構成について
講義は四〇分という短い時間でしたが、二部構成にしました。
第一は「総論」と題し、国民投票法の制定自体の問題点、第二は「各論」と題し、与党案・民主党案の内容の問題点に触れることとしました。
先に、そのような構成にするということを説明し、聴衆が、今から何について話すのかの予想を立て、聞きやすくなるように工夫しました。
三 形式について
私自身、講師の仕事は初めてであり、聴衆も、国民投票法について勉強した人は少ないだろうと思い、「みんなで勉強しましょう」という雰囲気を作るため、授業形式を採りました。「指しますので、指された方は答えて下さい」と、先に言うことで、ただ話すより集中して聞いてもらえる効果を狙いました。
質問の内容は平易なものとし、親しみやすい雰囲気を作りました。「憲法は、誰が守らなければならないルールですか? はい、そこのグレーのスーツの方」「憲法を変えていいかどうか判断するためには、何が必要ですか? はい、そこの白いセーターのお姉さん」といった感じです。
指された方は、分からないなりにも考えて何らかの答えをしてくれます。多少ずれていても、答え自体を否定せずに上手く誘導して正解を言ってもらい、次に答える方が萎縮しないようにしました。
法律論は、抽象的に話すと固い感じになりがちなので、身近な例え話に置き換えて、イメージしやすくするのも、工夫した点です。
四 学習会を終えて
初めてのチャレンジでしたが、工夫した甲斐あって、和やかな雰囲気で聞いていただけました。今回は、五〇人程度の小さな学習会で、授業形式が成り立ちやすい場であったと思います。
固い法律の話を、聴衆にいかに興味を持って聞いてもらうか。ポイントはそこにあるということを念頭に置いて実践した学習会でした。投票法に限らず、今後このような活動も増えてくると思いますが、意義深い学習会になるよう、工夫を凝らして臨みたいと思います。
一 法曹養成制度改革の問題の顕在化
昨年は、法科大学院制度を柱とする法曹養成制度改革の問題点が顕在化した。
1 法科大学院と司法試験
昨年九月、法科大学院卒業生が受験した新司法試験の合格発表がなされた。合格者一〇〇九名、受験したのは「既習コース」卒業生のみで、合格率四八%、法科大学院発足前に喧伝されていた七割合格には遠く及ばない。今年は今回の不合格者と未習コース卒業生も受験するが、合格者数は二二〇〇名程度とされている。その後は、合格者数は微増とされているので来年以降は合格率の激減は避けられない。
少なくない法科大学院で、クリニック(臨床教育)や公益弁護活動の講座を通じて、小額事件や人権活動に取り組む庶民の立場に立った法曹教育実践が為されているが、現状でも院生はカリキュラム過密にあえいでいる。今後合格率が低下すれば、院生の側は一層「それどころではない」という状態になる。
新六〇期に対して昨年一二月に開催された導入修習では、新六〇期は旧司法試験組と比べて起案の出来にばらつきが多いとの声もある。法科大学院は幅広い法的素養を身につけさせるべく多くの科目を教授しているが、むしろ基本的な法的思考が身に着けられる教育の充実が求められる。
二〇〇七年合格の新六一期からは、この導入修習も廃止される予定である。現状の倍の二〇〇〇名に増え、未習コース卒業も含まれる新六一期をいきなり実務修習に就けて一年で法曹資格を与えても、その資格に見合う能力があるか、自分の経験からも疑問である。
他方、一一月発表の旧六一期の司法試験は、合格者五四九名、合格率は一・八一%と、前年の旧六〇期の合格者一四六四名、合格率三・七一%から激減している。新司法試験組と比べて試験の難易度は不公平である。
2 司法修習と二回試験に関する問題
昨年九月、五九期司法修習生が受験した二回試験の結果発表がなされ、合格留保九七名、不合格一〇名とかつてない数に上った。さらに、一〇月、最高裁の「司法修習生考試委員会」が、二回試験の合格留保者を対象に行ってきた三ヵ月後の追試を今年から廃止すると決め、二回試験不合格者は全員翌年の試験で全科目を受験し合格しなければ法曹資格を得られないこととなった。これらの措置は、法曹の質を確保すべく資格付与を厳格化するためとされているが、到底適切とは思えない。
五九期修習生は約一二名が修習中にリタイアした。精神を病む者、自殺者も含まれる。これは、人数増と修習期間短縮による人間関係形成難、修習の詰め込み化、二回試験不合格への不安の影響が少なくない。
修習期間が一年四ヶ月に短縮され二回試験追試廃止が決定された旧六〇期ではその不安はさらに増大する。まして修習期間が一年しかない新六〇期に始まる法科大学院卒には深刻な事態となる。その下では、修習生の自主的活動は困難となる。
修習期間を短縮して必要な技能を修得するのを妨げながら「質が低くなった」などとして追試の機会まで奪うのは、修習生から見れば横暴である。
3 就職難と法曹人口問題
さらに、法曹資格取得後も問題である。今年は旧六〇期と新六〇期の合計約二五〇〇人が一気に法律実務家となり、その大多数が弁護士登録するが、すでに東京では就職難が言われている。二〇〇八年以降も三〇〇〇人体制に向けて法曹資格取得者数が漸増していくので、問題は引き続く。
就職難のみならず、既に東京では、一般の弁護士の間では弁護士人口増による経営難が言われている。これは、法律家としての技能・人権擁護の精神とともに、層としての弁護士の質にかかわる問題である。
二 今後検討されるべき方策
(1) 前述の法曹人口増については、その解決を市場にゆだね、経営が破綻した者が弁護士を廃業することで需給バランスを図るという新自由主義的発想は、依頼中の弁護士が廃業したり事件処理が手抜きになるなどで依頼者層に被害をもたらすので許されない。現在のような法曹人口激増ではなく調和の取れた漸増をし「血を流す」者が出ないようにすべきである。
現実には不払い残業の横行など、被害を我慢している人、泣き寝入りしている人は多い。権利意識を社会に広げ、事件を掘り起こして「需要増」を図る必要がある。弁護士が増える反面、平均収入源が予想されるので弁護士会費減額も必要である。また、判事補増と弁護士任官増を併せた裁判官抜本増員、本来の法と正義の実現の見地に立った検察官の増員が求められる。
(2) 新司法試験については、今年度二〇〇〇名、二〇一〇年三〇〇〇名弱への増員にこだわらず、従来の司法試験合格者と能力にさほど不均衡がない人数に限定すると言う能力試験的運用をなすべきである。
この点について、日弁連は、本年一月に発表された規制改革・民間開放推進会議第三次答申に関するコメントの中で、法曹増員の「安易な前倒しには、新たに生み出される法曹の質の確保に配慮したしっかりした法曹養成を行うという観点から、反対である。」と述べ、自民党司法制度調査会の「法曹養成・法曹教育・資格試験小委員会」は一二月一三日、司法試験合格者三〇〇〇名を越える増員に消極的な見解の報告書をまとめた。
(3) 法科大学院の当初の宣伝に反する低い合格率と二回試験不合格の脅しによる院生・修習生の萎縮と管理・統制強化は、高い技能とともに豊かな人権感覚を持つ法曹を養成する上で重大な障害となる。その改善ために、法科大学院については、本来の少人数による充実した教育との理念に沿った各大学院定員の削減を、余力のある大規模大学院こそなすべきである。他方、自民党の主張する「淘汰論」や落第措置は、統制強化に繋がるので反対である。
(4) 修習段階では、修習生に十分な能力習得の機会を与えるべく、新司法試験組の導入修習、二回試験の追試復活を求める。
その際、司法研修所現在の容量を超える点が問題となる。現在の新自由主義的改革の流れの下では、司法研修所を無くし、法科大学院を卒業して新司法試験に合格した者に法曹資格を与えるという司法研修所廃止論は俎上にのぼるだろう。しかし、現状よりも法曹養成教育の期間が短くなっては、到底法曹としての質が確保できないことは明らかなので、司法研修所の増員・増設が必要である。数十億円くらいかかると思われるが、トヨタが一日で稼ぐ額であり、国家予算からすれば微々たるものである。
(5) 司法修習・法科大学院と通算すれば長期の教育期間となる以上、庶民のための職業人の教育としての特殊性からも、国費助成による法科大学院の学費の抜本的減、修習生の給与制継続や返還免除の奨学金の充実を求める必要がある。昨年の私立法科大学院への経常費補助は四八億円だが、今年の私立大学への経常費補助は三二億円削減される見込みであり、学生支援機構の奨学金は殆ど貸与制である。また、貧しい者が法律家になれるよう、旧司法試験・予備試験コースも数百名程度は確保すべきである。
以上のような「司法改革」の見直しが今日求められているのである。
秋月りすが、一〇年以上にわたって、講談社のモーニングに連載を続けている『OL進化論』という四コママンガに、こんなネームがあった。
「たとえばテレビとかで若いころ好きだった曲を久しぶりに聴いたとき/懐かしいな≠セけで終わらずそのCDを探し出して買って/夜中に一人で聴く/そんなことをしたときから中年=v
まさにそんな話である。昨年(二〇〇六年)のことだが、二〇数年振りに、サディスティック・ミカ・バンドの新譜がリリースされた。ミカ・バンドは、元々は、フォーククルセダーズの加藤和彦が、(当時)奥さんだったミカと一緒に一九七二年に作ったロックバンドで、クリス・トーマスをプロデューサーに迎えて『黒船』(名盤!)なんてアルバムを出したり、ロキシー・ミュージックのオープニング・アクトとしてロンドンでツアーをしたりしてたのだが、ミカがクリス・トーマスと出来たため加藤和彦と離婚して、一九七五年にそのまま解散となってしまった。一九八〇年代の後半になり、今度は、桐島かれんをボーカルに迎えてサディスティック・ミカ・バンドを復活させ、スタジオアルバム一枚とライブアルバム一枚をリリースした。それから、さらに二〇数年を経て、今回は、木村カエラをボーカルに迎えてまたまた復活したというわけだ。(ちなみに、ローマ字表記では、オリジナルがSADISTIC MIKA BAND、桐島かれんをボーカルに迎えたときがSADISTIC MICA BAND、そして今回はSADISTIC MIKAELA BANDとなっている。)
その名も『ナルキッソス』というアルバムは、「ダダ、タンッ」とべードラから駆け上がる高橋幸宏のドラムスで始まっていて(昔なら「針を落とした途端べードラが・・・」と書きたいところだ)もうそれだけで満足してしまうものだったが、何度も聞いていると、ちょっとシンプルすぎるかなぁ、という気分になってきて、昔の加藤和彦のソロアルバムが聞きたくなって来た。人それぞれだと思うが、私にとって加藤和彦のソロと言えば、『ベル・エキセントリーク』である。金子國義のデカダンな雰囲気のジャケットが印象的なアルバムである。とても聞きたくなったのだが、ヴァイナルは、今は住む人もいなくなった近所の実家に置いてあるものの、プレーヤーがないので再生出来ない。しばらくは、まぁCDを買うのもなぁと我慢していたのだが、どうにも我慢が出来なくなって、結局買ってしまった。
記憶に違わず、冒頭一曲目から二曲目にかけてが素晴らしかった。坂本龍一がプロフィット5を使い倒し、高橋幸宏のスネアが駆け巡り、大村憲司のギターが鳴り響く、もはや無駄な音が一つもない、緊張感に満ちたテイクである(もっとも、好みは人それぞれであり、このアルバムが出た当時、カセットにダビングしてカーステレオでかけていたら、「こんな気持悪い音楽を聞く人がいるなんて信じられない」と言われたことがある)。その冷徹で透明な、ヨーロッパ指向のサウンドは、何度聴いても心地よい。
この『ベル・エキセントリーク』と並んで一九八〇年代初頭を代表する(と勝手に私が思っている)のが、大貫妙子の『ロマンティーク』である。鋤田正義のモノクロームの大貫妙子のポートレートが印象的なジャケットである(ちなみに、ミカ・バンドの『黒船』も鋤田正義の写真だ)。『ベル・エキセントリーク』とかなりの部分パーソネルが共通なので(なんせ、加藤和彦まで参加している)サウンドが似ていて当然かも知れないが、こちらの方が坂本龍一のプロフェット5が、より奔放に走り回っている感じである。一曲目の「カルナバル」を聴いたときの感動は未だに忘れられないし、この曲は何度聴いても、背筋がぞくぞくしてしまう。
私は、この二枚のアルバムは、一九八一年というあの時期、ヨーロッパ文化の方を向いていたスノッブなミュージシャンたちの方法論が、ある種の極北にまで到達したものだ、と思っている。と、同時に、プロフィット5というアナログシンセを始めとする電子楽器の可能性を最大限度引き出したものだと思っている。それは、同時期の『BGM』や『テクノデリック』あるいは『マニア・マニエラ』すらをも凌ぐ。逆に言えば、私の音楽趣味は、一九八〇年代前半で固まってしまっているともいえるのだが、今でも私は、キャンパスにいた一九八〇年代前半をとても懐かしく、忘れずにいる(一九八〇年代後半も実はキャンパスにいたのだが)。
二〇〇七年三月一八日から二三日まで国際問題委員会で、マレーシアのクアラルンプール及びインドネシアのジャカルタに六名の団員が行ってきました。
訪問先は以下の三カ所でした。
一 マレーシア国際戦略研究所(Institute of Strategic and International Studies Malaysia, 略称ISIS、website:www.isis.org.my)
一九八三年に政府による初期投資で設立され、以後の運営は民間資金で行っているシンクタンクで、経済、国家統合、環境、国際問題などのテーマについて研究検討する。国の視点だけでは偏るとの発想から、第三者機関として設立された。内部に日本研究所も併設している。
所長及び日本研究所所長による対応で、話題の概略は以下のとおりです。
(1) 東アジア共同体のあり方について、
(1)アセアン+三ヶ国(日本、韓国、中国)での共同体(略称APT)
(2)アジア・サミット=APT+アメリカ、オーストラリア、インドなども含めての共同体
の二種類の考え方があるが、ISISとしては、(1)を基軸とすべきと考えている。まずは、アジアに存在する国だけで、アジアの経済、社会を考え、責任をもつべきだと思うから。しかし、日本は中国の影響力を懸念して、牽制勢力を取り込む方が良いとの発想から(1)よりも(2)を志向し、シンガポール、インドネシアも同調している。
(2) 憲法九条問題について
日本がアメリカとの軍事同盟を強化していく動きを示していることには警戒心を抱かざるを得ない。中国が脅威だとしても、それは経済的な問題であり、中国が日本に軍備をもって攻めてくるわけではない。日本が経済発展した際も近隣アジア諸国が軍備増強をして日本に対抗する動きはなかった。日本がなぜ中国に警戒を強めるのか理解不能である。この観点から、日本国憲法九条を守ろうという動きには共感できる。
二 マレーシアのNGOであるジャスト(Intenational Movement for a Just World,略称JUST、website: just-international.org)
紛争や宗教の違いによる軋轢も話し合いによって解決しようという平和志向を推進するNGOであり、国際会議の企画、出版、異文化・宗教間の対話などを試みている。
設立者及び長であるチャンドラ・ムザファール氏の対応でした。
ここでは主として憲法九条の問題を意見交換しましたが、日本の平和憲法はジャストの志向と一致するものであるから、ジャストが憲法九条について賛意を有し、その撤廃の動きについて懸念する、ということを公に広めてもらって構わない、とのことでした。また、平和憲法の思想と有効性についてジャストの機関誌へ団からの英文で投稿をして欲しいと要請されました。
三 インドネシア国家人権委員会(Ministry of Law and Human Rights of the Republic of Indonesia, Directorate General of Human Rigths)
一九九三年にスハルト大統領によって設置された機関であるが、一九九九年に人権裁判所ができたことにより、活動が実質化してきた。人権侵害についての申立を受け、事実調査をし、検事総長に対して告発し、訴訟追行のための証拠収集等も援助する。これまで約八〇件を扱ってきた。しかし、権力と闘おうにも、起訴事実が十分とはいえない上に、一般的に証拠に乏しく、重要証人がいても身の危険を感じて証言台に立とうとしない厳しい現実があり、困難が多い。
こことの交流は、名古屋大学の島田弦教授がインドネシア大学の先生を紹介して下さって実現し、インドネシア大学法学部内の人権センターの関係者(弁護士、大学教員、学生など)も多く参加してくれました。そのため、意見交換はざっくばらんなものとなり、日本に国家人権委員会がないこと、人権擁護法案は不十分な内容であること、人権侵害は主として民事裁判の損害賠償で社会に訴えていること、団員は従軍慰安婦裁判にも携わっていることなど日本の状況には興味津々という様子であり、また、死刑制度の是非ついて意見を求められたり、インドネシアでは女性の社会的進出が進んでいることなどを聞いたりしました。
東アジア共同体のあり方の模索及び憲法九条の世界的価値の訴えを念頭に置いて企画し訪問しましたが、実際に行ってみれば念頭の課題が深まるというよりも、いろいろな問題での刺激を受け、細いながらつながりの糸口を見つけて帰ってきたという感じです。
先進国としての体裁と力を十分に持ち、穏健さと外交能力を備えた印象のマレーシア。貧富格差、児童労働、賄賂の蔓延、民族問題からくる治安悪化などの多くの困難を抱えつつも広大な国土と人口を有し若々しくエネルギッシュなインドネシア。どちらも前向きで伸びる力を感じました。同じ一週間でも、事務所で仕事に追われての一週間とアジア二国での一週間とは五感に迫る刺激の濃密さが違い、旅行にいかせてもらったことに感謝しています。
昨年七月に立ち上げた人権NGO、ヒューマンライツ・ナウ(http://www.ngo-hrn.org)では、五月八日に、国連の特別報告者としてアジアの人権問題 解決のために活動しているフィリップ・アルストン氏を招聘して、講演会・ シンポジウムを開催することにしました。大きな紛争の影に隠れていますが、今、フィリピン、スリランカなど、アジアの国々で罪のない市民や人権活動家が殺され続けています。フィリピンではアロヨ大統領就任後、「テロとの戦い」名目で、八〇〇人を超す人権活動家・左派活動家が軍の主導で暗殺されたことが明らかになっており、スリランカでは内戦で多くの民間人が犠牲になっています。
今回招聘するアルストン氏は国連「超法規的殺害」特別報告者として、両国を最近訪れ、市民の殺害を止めるために国連を舞台に精力的に活動しています。
「国境を越えて人権侵害を告発し、改善を求める」ことを大きな目的とする私たちヒューマンライツ・ナウでは、フィリピン人権団体の要請を受けて、四月中旬にフィリピンの人権侵害状況―特に活動家の虐殺、強制失踪、逮捕など―の調査団を派遣します。同シンポでは、調査の結果も発表する予定です。
平和憲法が危機にさらされているいま、日本の法律家・市民がアジア地域の人権や平和の創造のために、積極的に貢献できることはなにか、軍事でなく外交の役割はなにか、について深める機会にできれば、と思います。
是非多くの団員の皆様にも周りの方々をお誘いあわせのうえ、ご参加いただけると幸いです。
記
二〇〇七年五月八日(火) シンポジウム
アジアにおける人権保障の実現と市民社会・外交の役割
〜国連人権理事会特別報告者フィリップ・アルストン氏を迎えて〜
【日 時】 五月八日(火)午後六時半より九時まで
【場 所】 東京大学駒場キャンパス一八号館
ホール・オープンスペース
(京王井の頭線「駒場東大前下車」徒歩二分)
【参加費】 資料代五〇〇円
(ただし、主催・協賛団体の会員の方は無料)
□■□■ 企画詳細 ■□■□
第一部 基調講演「アジアにおける人権保障と市民社会・外交の役割」〜国連特別報告者としての活動経験から〜
フィリップ・アルストン氏(ニューヨーク大学ロースクール教授 超法規的・即決・恣意的処刑に関する国連特別報告者)
第二部 シンポジウム
「アジアの人権状況・国連改革と日本のNGOの役割」
フィリップ・アルストン氏
横田洋三氏(中央大学法科大学院教授 スリランカ国際独立有識者グループメンバー)
鈴木誉里子氏(外務省人権人道課)
伊藤和子氏(ヒューマンライツ・ナウ)
主催:ヒューマンライツ・ナウ
協賛:アムネスティ・インターナショナル日本、国際人権法学会
後援:東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障プログラム」
助成:国際交流基金日米センター(予定)
問い合わせ・事前申込み先 ヒューマンライツ・ナウ
info@ngo-hrn.org
自由法曹団は、国民救援会及び全労連と共に、毎年「裁判勝利をめざす全国交流集会」を開催しています。この集会に参加された方はご存知かと思いますが、裁判勝利をどう勝ち取っていくのか互いの事件を報告討論しあうとても熱い全国交流集会です。参加者の中心は、刑事事件や労働事件をたたかっている当事者、支援者です。
今年も、次の要領で「第一七回裁判勝利をめざす全国交流集会」を開催します。
今年の特徴ですが、これまでこの交流会への参加がほとんどなかった非正規雇用の労働者についての分科会を設け交流してもらおうということになりました。そこで、記念講演も後藤道夫都留文科大学教授を招き、現代日本で拡大する「ワーキングプア」などの貧困、階層格差などの実態を、新たな日本の将来を展望についてお話しいただくことになりました。後藤先生は、五月集会から続けての登場になりますが、集会に参加する当事者や支援者にとってきっと興味深い話になることでしょう。
団員の皆様、ぜひ、刑事事件や労働事件の当事者、支援者に参加するよう声をおかけください。特に、非正規雇用の労働事件に取り組んでいる団員は、ぜひとも依頼者に参加を呼びかけてくださるようお願いします。
申込方法 締切五月二五日(金)日本国民救援会中央本部まで(申込用紙は区民救援会にご連絡ください)
内 容 記念講演「深刻化する貧困社会、若者や労働者は今」
講師 後藤 道夫氏 (都留文科大学教授)