<<目次へ 団通信1240号(6月21日)
江上 武幸 | 一五回「クレサラ実務研究会IN京都」に参加して |
大久保 賢一 | 日本と米国の価値観は同じなのか 日弁連七月二一日シンポの案内 |
陶山 和嘉子 | 大型公害訴訟のメッカ熊本を旅して |
内山 新吾 | 川と海と人の中で ―五月集会一泊旅行に参加して |
笹田 参三 | 熊本五月集会に参加して |
去る六月二日(土)、京都市の宝ヶ池プリンスホテルの大会議場に、全国各地からクレジット・サラ金問題に取り組む弁護士・司法書士・事務職員・被害者の会の関係者・学者・ジャーナリスト・文化人等が、続々と結集し大会議場を埋め尽くした。
そして、午前一一時から午後六時まで、昼食時間も設けないで、第一五回「クレサラ実務研究会IN京都二〇〇七」の研究発表・討論・意見交換が熱心かつ活発に展開された。
自殺を思いつめていたが、たまたま被害者の会にたどりついたことから、自殺を思いとどまり、多重債務を解決した体験から、今は、同じ被害に苦しむ多くの人達を助けるために活動しているという女性の発言には、感動を禁じ得なかった。
政府は、わが国には、約二三〇万人の多重債務者が存在するとみこんでいるとの事である。
各地の被害者の会は、「借金問題は必ず解決できる。自殺を思いとどまるように。」というメッセージを、看板や旗に書き込み、自殺の名所に掲示することで、一人でも多くの人の命を救おうという運動を始めているという。
富士山の青木ヶ原樹海では、既に、二名の多重債務者の自殺を、未然に防ぐという実績をあげたとの報告もあった。
わが国では、毎年、借金苦を原因として自殺する人が、膨大な数に及んでいる。
多重債務者が現実社会で借金苦から逃れる道を見つけられず、究極の安楽をあの世に求めた結果である。
自殺は、本人の悲劇にとどまらず、配偶者・子供・親・兄弟・親族・友人・知人等、本人につながるありとあらゆる人に深い心の傷を与え、身近な人間の人生をも狂わせることに繋がる。
高利貸しは、洋の東西を問わず、古くから存在してきたし、消費者金融が誕生する以前にも、月五分とか六分とかの高利で貸し付ける街金は存在した。当時は、消費者金融とはいわず、単に高利貸しと呼んでいた。
その時代、弁護士らは、最高裁昭和三九年大法廷判決を武器に高利貸とやり合い、相談者を借金地獄から助け出していた。
上記大法廷判決は、「利息制限法を超える利息の支払いは、超過部分は当然元本に充当される。」という判断を示していた。
さらに、昭和四三年の大法廷判決は、上記充当の結果、元本債権が弁済によって消滅した以後の支払いについては、債務者は不当利得として高利貸しから取り戻せるとの判断を示すに至っていた。
弁護士は、之を武器に過払い金の返還にも努めた。
このように、最高裁は、利息制限法と出資法違反の金利の差によって生じているグレーゾーン金利に乗じて、高利貸しが違法な経済的利益を獲得している状況を許さず、高利貸しの取立てに呻吟する社会的弱者の救済に努めてきた。
その後、政府・与党が、年利四九パーセントを超える高金利を取得する事を認める貸金業規正法なる法律を制定したときは、唖然とした。
最高裁が、せっかく、利息制限法の強行法規としての実行性を確保し、弱者救済を図ってきたにもかかわらず、その努力を根底から覆す立法が行われたからである。
なぜ、このような高利貸寄りの立法が為されたのか、今となっては明白である。
与党への政治献金・官僚の買収工作が効を奏した結果である。(旧大蔵省官僚の過剰接待問題は、未だ耳に新しい。)
金で政治がゆがめられる現象の最たる例の一つが、貸金業規制法の成立である。以後、武富士を代表格とする、消費者金融会社や経営者一族は、空前の高所得を得ることとなった。
最近、武富士の創立者の後継者が、海外資産に課税された一三〇〇億を超える税金の課税の取り消し裁判に勝訴したとのニュースが、飛び込んできた。
貸金業者が、債務者に、生命保険を掛けて、自殺者に対する貸し金さえ、その生命保険で回収していた実態も明らかとなった。
シェークスピアの時代から現代まで、かくも高利貸は非人間的で貪欲な存在である。
しかも、日本の大銀行、アメリカの投資機関等も、これら消費者金融の資金調達に国民の目に触れない形で貢献して、利益のおこぼれに預かってきた。
それらの銀行は、自らの経営危機を国民の税金投入で乗り越えたことは歴史的事実である。
金儲け第一主義の弊害を、かくも我が国の隅々まで行き渡らせた責任の帰属と所在を曖昧にしたまま、貸金業規制法制定以後の我が国は、底辺層の経済生活・社会生活・家庭生活等があらゆる側面から浸食・破壊され、かつて、一億総中流ともてはやされた時代は、もはや遠く過去の話となった。
多重債務者の家庭に生まれ育った次世代を担う子供や青年達は、大学進学を最初から諦めたり、高校進学・卒業すら断念せざるを得ない状況に置かれ、貧困の再生産のサイクルに組みこまれ、そこからの脱出が困難となり、社会の不安定要因を形成しつつある。
派遣労働やパート労働等の就労形態による低賃金労働の増大という一般的な問題に加えて、多重債務者の親を持つ育つ子供達に、幾重もの障害となっている。
このように、貸金業規制法の制定以来、比較的資産・収入に恵まれない勤労者層を中心にして、消費者金融やクレジットの高金利の嵐が吹き荒れ、その結果経済生活を根底から破壊され、自殺・家出・窃盗・強盗その他諸々の社会不安を生み出してきた。
ところで、最高裁が、平成一七年七月一九日、貸金業者に帳簿の開示義務を課すという新たな歴史的判決を下した結果、貸金業者は、取引の始めに遡り取引履歴を開示せざるを得なくなった。他方、債務者は過払い金返還請求金額の計算が容易となり、過払い金返還請求の動きは全国に急速に拡大した。
長年、真面目に返済を続けてきた債務者ほど、過払い金の返還額は大きく、単に借金地獄から解放されただけではなく、之まで滞納していた固定資産税・住民税、国民健康保険・介護保険料等の公租・公課の支払いが可能となったり、子供の教育費や、家族の人間らしい生活の為の費用に充てることができるようになったり、様々な好ましい経済効果を生み出している。
行政も県・市町村単位に、多重債務者の相談窓口を設ける動きが始まっている。
二三〇万人と言われる未解決の多重債務者からの相談が益々増加し、過払い金発生のケースについて、その取り戻しが容易に認められる時代がようやく到来した矢先に、今回の、平成一九年二月一三日最高裁第三小法廷判決が出された。
この判決は、基本契約が存在する場合は、複数の貸付金相互の過払い金の充当計算が当然に為されるが、そうでない場合は「特段の事情」のないかぎり、当然には充当計算はされないとの判断を示したものとの誤解を与え、過払い金返還の之までの実務の処理に、多大な混乱を来しかねない。
之まで、最高裁は一連の判決で、貸金業者が利息制限法違反の違法な利得を、そのまま保持し続けることは許さないとの強い姿勢を示してきた。
その結果、実務では、同一の債権者・債務者間の消費貸借関係については、基本契約が存在するか否か、(そもそも何をもって基本契約というのか確立した見解はなく、第三小法廷の考えも不明であるが。)、貸付の個数が複数か否か、といった細かな問題には拘泥してこなかった。
貸金業者から開示された取引履歴を元に、取引の最初から通算して利息制限法に基づく再計算を行い、不足額があれば支払い方法を協議しあるいは破産・民事再生等の方法により債務者の生活の立て直しを図り、過払いがあれば、その返還を求めて、債務者の生活再建の為の資金として活用し、取引関係を精算させてきた。
このような処理方法で実務上、貸金業者と債務者との取引の終了・精算事務をスムースに処理してきた。
何故に、最高裁第三小法廷が、過払い金の充当計算に関し上記のような判断基準を示したのか理解し難く、むしろ実務に無用の混乱を来す有害な判断であると言わざるを得ない。
この判決は、之までの最高裁の路線を踏み外しており、速やかに元の路線に復帰させる必要がある。その後も、下級審では次々と当然充当の判決が出されているという報告もあった。
京都の会議に参加して、先進的な弁護士・司法書士・被害者の会の方々の情熱あふれる報告と討論に触れ、改めて之までの活動に敬意を表する次第である。
国家の価値観
日本と米国の指導者は、両国の価値観は共通しているという。自由と民主主義と市場経済という価値観である。そして、その共通の価値の実現のために「血の同盟」の強化を主張している。本当に日米両国の価値観は同じなのだろうか。あるいは同じでなければならないのだろうか。
ここで国家の価値観とは、その国の指導者個人がどういう思想や価値観の持ち主であるかということではなく、その国の憲法(国家の行為規範)がどの様なものであるか、また、その国家が現実に何をしているか(国家行為)という意味である。例えば、小泉前首相や安倍首相とブッシュ大統領の個人的価値観といえば、重なる部分が多いであろう。けれども、国家の価値観を、その国の憲法が予定する価値や国家行為の現実と考えれば、日本と米国の価値観は全く異なるものであろう。
一九四五年八月一五日以降、日本軍は外国の兵士や内外の民衆を唯の一人も、直接的には、殺傷してこなかったし財産の破壊もしてこなかった。そして、日本国憲法は戦争だけではなく、武力の保持も交戦権を否定している。他方、米国は第二次世界大戦後(遡れば建国の時)から現在のイラクやアフガニスタンまで、殺傷と破壊を継続している「戦争中毒国家」である。合衆国憲法は戦争を前提としているし、米国に「戦後」はない。
このように考えれば、日米両国の価値観は共通しているなどという言説は、両国の重大な違いを無視するものといえよう。にもかかわらずその共通性をいうことは、日本を米国のようにしたいのか、米国を日本のようにしたいのか、そのどちらかということになる。日米の指導者がどちらの立場であるかは誰でも知っている。私たちには米国を日本のようにする選択肢があっても良いであろう。
品川正治さんの見解
このことについて、品川正治(まさじ)経済同友会終身幹事は、「戦時国家はすべてを動員します。(戦争状態にある)アメリカはもちろん同盟国日本も動員しようとします。そのためには『戦争をしない』という憲法を変えようとしています。その流れを変えるためには大事なことは、『日本の価値観とアメリカの価値観は違う』という視点です。」、「日本は戦争をしない国だと憲法で決めている国であり、一方アメリカは常時戦争をしていて、現在も戦争をしている国であるということです。」、「歴史的に言えば、世界で原爆を落とした国はアメリカだけであり、落とされた国は日本だけです。その二つの国の価値観が同じだといったら、世界の歴史の認識が成り立たなくなってしまう。」と言っている(雑誌「経済」七月号)。ぼくはこの意見に全面的に賛成である。とりわけ、原爆投下を世界史認識の規定的問題として把握し、改憲問題と関連させて考察していることは、まさに慧眼だと思う。
核兵器と九条の関係
戦争あるいは武力行使を国際問題解決の手段として容認すれば、戦争に勝つことが至上命題とされる。そして、核兵器は戦争で勝利する上で最も有効な手段であるから、その所持と使用の誘惑を捨て去ることはできない。現に米国は、他国の核兵器には難癖はつけるが、自国の核兵器は放棄しないどころか、核兵器先制使用戦略を採っている。米国は三度人間に対して核兵器を使用する計画を放棄していないのである。わが国も核兵器の有効性は承認している。私たちは、もし、核兵器が使用されればどのような事態になるか広島と長崎で知っているはずである。また、使用されなかったとしても、その開発・実験・所持がいかに巨大な危険と無駄を生み出すかも知っているはずである。戦争や武力の行使を容認することは、核被害も含め、人間を塗炭の苦しみの中で死なすことや、人間が造れるものも創れないものも破壊することを容認することを意味するのである。米国との価値観の共有を言うことは、核兵器と戦争を容認することと同義なのである。戦争の現実は生身の人間の殺戮だという単純な事実を絶対に忘れてはならない。被爆者は、「ノーモァ・ヒバクシャ九条の会」を立ち上げている。東京大空襲の被害者たちも訴訟に立ち上がっているし、各国の民衆も戦争責任を追及している。戦争がいかに非人道的な営為であることは枚挙に暇がない。ぼくは戦争の現実を無視する言説を信用しない。
戦争を起こすのも人間、止めるのも人間
品川さんは、先の記事の中で「戦争は人間が起こすものであり、抽象的に『国』が起こしているのではない。・・・軍需産業、石油産業、航空機産業という戦争で必ず儲かる企業家、産業界があります。しかし、もし戦争が起こってしまえば、その戦争を仕掛けた人間の存在が『国』の問題にすり替えられてしまうのです。そこで、相手国が悪いと考えさせているのは誰か、それを見抜いて追及するのがわれわれ一般国民ではないでしょうか。」とも言っている。確かにそのとおりである。そして付け加えれば、国民主権国家においては、国民の同意の下に(たとえその同意が不合理な選挙制度や劇場型のパフォーマンスや利益誘導や恫喝に基づいていたとしても)、戦争は開始され遂行されるのである。逆に、国民の同意なくして戦争はできないのである。だから戦争の計画者は反戦・反軍の思想や運動を毛嫌いし、その動向を監視し抑圧しようとする。今、この国でも、戦争の計画者が憲法の呪縛から解き放たれたいと画策しているのである。品川さんは「戦争を起こすのも人間なら、それを止める努力ができるのも人間だ、お前はどっちの人間なのだということを絶えず自分に問うている」と言う。私にはこのような問いかけを自分自身にする勇気はない。けれども、品川さんに共感する気持ちは持ち続けたいと思う。
日弁連の憲法行事
七月二一日午後一時から、クレオで、日弁連の憲法六〇年記念行事「改憲論と平和・人権の行方」パートU「イラク戦争から何を学ぶか」として、品川さんの基調講演とパネルディスカッション(パネリスト西谷文和・田巻紘子・浅井基文・愛敬浩二の四氏)が予定されている。ぜひ参加していただきたい。(二〇〇七年六月一一日)
五月集会一日目の後藤道夫氏の講演と二日間に亘る全国各地からの発言に、頭も体もはちきれそうになりながら、二日目全体会の会場から一泊旅行のバスへと直行しました。今回の一泊旅行は、大型公害訴訟のメッカと言われる熊本にあって、その代表格川辺川ダムと水俣病の現地が見られるとの期待を持っての参加です。参加者は松井団長を初め、老若男女取り混ぜて三九名、地元から熊本支部の板井先生と、川辺川原告団の林田直樹氏が案内役を務めて下さいました。
バスは阿蘇の山並みに添うようにして走り始めました。空はぬけるような快晴、気温は高めながら空気はさわやかで心地よく、いい旅が期待されます。途中ファームランドというところで昼食の後、バスは熊本の街をぬけ、高速に乗って今日の宿泊地である人吉市に向かいます。
人吉市は球磨川に沿って発達した城下町で、その少し上流で球磨川の支流川辺川が合流しています。高速を降りると、コバルト色の美しい流れが見えてきました。一〇メートル以上もある高い橋の上から、村の子ども達が飛び込みをやり、立派に飛べた子が一人前とみなされるのだそうです。
バスはいつしか濃い緑に覆われた深い谷に沿って走っています。窓から見ると目もくらむ程の高さで、遙か下にきれいな流れがあります。この谷に四〇年前、建設省がダムを造る計画を発表しました。ダムの底に沈むのは、五木の子守歌で知られたあの五木村です。当初反対した村人達も、年月の末「苦渋の選択」として計画を受け入れ、移転に応じたと言います。
現在、ダム本体を造るに必要な道路、水路確保の仮トンネル、住民や公共施設の移転など、準備はほぼ完了していますが、ダムの及ぼす自然環境への影響、長年の反対運動等、様々な経過を経て、現在計画そのものは白紙撤回され、前にも後にも進めない状態だそうです。五木の子守歌は、私が幼い頃母から歌ってもらって憶えた懐かしい歌です。そこに歌われている五木村の人々の、平和で情緒豊かな暮らしがこんな風に奪い去られ、しかも計画が白紙に戻った今、五木の人々の複雑な胸の内を思うと、悲しみと怒りがこみあげてきました。
夜、宿泊先の人吉旅館での懇親会で、球磨川自慢の尺鮎(三〇センチの鮎)には少し小ぶりながら初めて見る大きな鮎の塩焼きをいただきながら、川辺川原告団の方々や昨年建設に反対を表明された相川村の村長さんと懇談しました。そこには、球磨焼酎を傾けながら、運動の背骨にどっしり座っておられる団員の先生方がおられたです。
翌朝は八時出発で、球磨川下りです。最近の水不足で急流下りの予定が清流下りとなり、三艘の船に分乗しての出発です。球磨川は、以前は川の底の石が皆見えるほど水が澄んでいたのに、今は上流のダムのせいで水が濁ってしまったとのことでした。ガイドブックにあった通り、船上で、球磨焼酎を皆で楽しく酌み交わしながら、一時間半の船下りの旅はあっという間に過ぎていきました。
そしていよいよ水俣に向かいます。先ず、民医連の水俣協立病院の屋上から、チッソの工場を見ました。まるで城塞のようにぐるっと堀に囲まれた見渡す限り広大な広がり全体がチッソです。水俣市会議員の野中氏が、ハンドマイクを手に案内してくださいました。有機水銀に汚染された排水は、先ずこの堀に流し、堀の水門を開けて海に流していました。私達はその水門を見た後、汚染された海の底のヘドロで埋立てられた埋立地に行き、護岸に立ってコバルト色に広がる美しい不知火海を見ました。一九五六年に水俣病が確認され、チッソの排水が疑われ始めてから国が正式に因果関係を認めるまで、一二年間も、チッソはこんなにも美しい海に死の排水を流し続けていたのです。そのため、かつては魚が湧くと言われた豊かな海も死の海となり、その豊かな恵みを受けて暮らしてきた人々を、筆舌に尽くしがたい苦しみに突き落としました。
不知火海から水銀を取除くための埋立工事が一九七七年から一四年かけて行われました。埋立は先ず、水銀濃度の最も高い区域を護岸で囲み、その中に周辺の水銀を含んだヘドロを深さ一五メートル迄浚渫して汲み上げ、その上に合成繊維のシートを敷き、きれいな土砂を乗せて水銀を封じ込めたのです。今そこは公園として整備されていますが、根の張る樹木は根がシートを突き破ってヘドロ層に達する虞があるので植えられず、根が横に張る竹と芝生だけが植えられていて、人気のない淋しいものでした。しかしこの封じ込めも一時しのぎに過ぎず、あと三〜四〇年後には護岸の耐久性が失われ、ヘドロが流失する可能性があるとのことです。この工事には四八五億円を要し、六五%をチッソが、三五%を国と県が負担したと聞いて、改めて怒りがわいてきました。チッソは今、液晶の生産で著しく業績を伸ばしているそうです。チッソはその儲けの全てをつぎ込んで、被害住民への十分な賠償と不知火海の完全な復旧をはかるべきです。
埋立地の公園の一角にぽつんとあるレストランで、熊本名物のだんご汁定食で昼食を戴いた後、水俣市立水俣病資料館を見学、被害の実態などに触れ、再び怒りがわいてきました。豊富な資料の展示にもかかわらず、時間不足が悔やまれました。
川辺川ダムの闘いが四〇年なら、水俣病の闘いも国が正式にチッソとの因果関係を認めた一九六八年から四〇年になります。何れも闘いは半ばですが、この間一貫して陰になり日向になって運動を支えてこられた団員の先生方がおられたからこその闘いだったことを、強く印象ずけられました。
熊本の人々の公害・自然破壊との闘いの重みが、ずっしりと腹に染み渡った二日間でした。
団の一泊旅行は、だから止められません。
「これが、団なんだ」と感じられる旅行だった。
もとはと言えば、秋の総会を山口が受け入れることから、その準備のつもりで、初めて、「五月集会のフルコース」を味わうことにしたのだ。
初日は、バスにゆられて、川辺川ダム計画地の見学。車窓からは、水の美しさはあまり実感できなかったが、谷の深さはかなりのもの。休憩をとった五木村の道の駅では、沈む「予定」の村落と、それと対照的な新たな宅地造成地と建設中の学校を見渡すことができた。その静けさの分だけ余計に、違和感と寂しさがつのる。山口県内でも、「ムダなダム」を見てきたが、ここは、スケールがちがう。何とたくさんの人の生活を飲み込んできたことか。
やや重い気持ちをいやしてくれたのが、人吉の温泉旅館。バス一台の規模だからこそ、木造のほの暗い旅館で、体の芯まであたたまる湯につかれる。そして、夕食懇親会。川辺川ダム訴訟をたたかってきた原告のみなさん、地元村長が参加。圧巻は、板井優団員によるパワーポイントを使った四〇年の運動と裁判闘争の紹介。ここまで長くたたかえるものなのか、しかも、集団的に徹底的に攻勢的に・・・。ダム計画を「前にも進めず、後ろにも引けない」状態に追い込んだ住民の力と、先頭に立って共にたたかった団員の姿に感動した。その席で食したアユは、これまで見たことのない大きさと、うまさ。これが名物の「尺アユ」かと感激していたら、それでも一尺には二寸ほど足りないそうな。ともかく、このアユを食べて初めて、川辺川のたたかいの重要性を実感。そして、ふと、何年か前、山口の「川好き」の弁護士がつぶやいた言葉を想い出した。「僕は、体制派で国のやることにはたいてい賛成だが、川辺川ダムだけは、まちがっている。」
二日目は、朝湯につかり、「しんぶん」で五月集会の記事を読み、自転車で、朝の人吉のまちを駆けてみる。橋を渡り、城址をめぐる。もう一度訪ねようと思う。ハイライトは球磨川下り。水不足のため、「激流下り」ができず、「静流下り」となったが、いつも激流の中で仕事をしている団員にとっては、これもよし。ゆったりとした時の流れの中で、「あんちゃん」「さんちゃん」と呼び合う、岐阜のおじさん団員になごみながら、同じ目の高さの水鳥たちに歓声を上げた。
そして、バスは、水俣へ。はじめて訪ねる水俣。まず、協立病院屋上で、チッソ工場と水俣のまちをながめながら、説明を受ける。思ったより、小さなまち。チッソがなければ、きっと静かな農漁村。それにしても、チッソを正面に見すえるこの最適の場所に、民主的医療機関がしっかりと立っているとは。昼食は、水銀ヘドロの埋立地で。といっても、広大で、緑があって、一見、どこにでもある市民いこいの場。眼前には、瀬戸内海よりも波静かな海が広がる。でも、この埋立地の下には、有害物質が、根本的に処理されないまま、一時的に封じ込められている。この場所の名は「エコパーク」。やはり、見えないものを見なくてはいけないな、と思う。患者さんの苦しみも、自然破壊も、解決されてはいない。水俣病資料館で見た写真、親に抱かれた子どもの姿が、わが子の姿とだぶる。みやげにたまねぎを買う。後日、修習生にあげたら、親が「水俣のたまねぎか・・・」と口をにごしたらしい。水俣でのこれまでの、そして、これからのたたかいの長さを思う。この地で、「日常的」な事件を抱えながら、この大きな運動に関わる団員は、すごいと思う。
残念だったのは、私の事務所に入る(企業法務中心の事務所からの「移籍」)予定の新人が、この五月集会に間に合わなかったこと。川と海と人の中で、団を感じてもらうのには、絶好の機会だったのに・・・。
(追記)集会初日に、一緒に阿蘇のミヤマキリシマを見た井上正信団員(広島)と話がはずみ、山口県支部で、この夏、同団員を講師に「集団的自衛権」に関する学習会を開くことに決定。先の団通信で、「悲惨な支部」と玉木団員から評された、わが支部だが、秋の総会までには、少しは変わるはず。旅行の企画も、「これは、何なんだ!?」と言われないようにしたい。
熊本五月集会には、団岐阜支部から六名の弁護士が参加した。新人弁護士一名が新人研修に参加し、私と安藤友人団員が将来問題のプレ企画から始まり、一泊旅行までのフルコースに挑戦した。楽しい充実した五月集会であった。
第一日目の将来問題プレ企画へは、これまで継続して参加している。今年は、事務所の経済的基盤をどのように確立し、発展させていくのかを、議論したいと思ったから参加した。
大量の法曹が排出される中で、地方でも多数の弁護士を団に迎えていく状況が生まれており、岐阜県でも例外ではない。岐阜県(弁護士数約一〇名)で二〇〇七年に弁護士登録する新人弁護士は、九ないし一〇名といわれており、従来の枠を大幅に超える。
二〇〇七年の団事務所への新人弁護士内定者は、三名となる。二〇〇六年、二〇〇七年の二年で、岐阜県における団事務所の当面の新人団員は、ほぼ満杯となっており、二〇〇八年以降に大量の新人団員を団事務所において迎え入れることは難しくなっている。
このような中で、その大量に加わる弁護士を団事務所として迎えていくことの意義がどこにあるのか、その経済的基盤をどう作っていくのかが問われている。安藤団員も同様の問題意識であったように思う。
しかし、この問題については、東京とそれ以外、都市部とそれ以外の地域で顕著な条件の違いがあり、その議論をするためには、相当の工夫が必要である。各地域で先進的な実践を行い、その経験を持ち込んで議論しないと、議論を深化させることは困難である。その意味では、今後の五月集会や団総会での議論を充実させる工夫をしたいものである。
同時に、岐阜支部でも検討を開始しているが、参加した新入団員の研修を充実していく方策を真剣に検討する必要がある。基本は、共同事件の弁護団に参加して、その弁護団活動の中で、育っていくことである。しかし、それだけで良いのかを考える時期に来ている。
岐阜支部では、新人研修として、社会科学的勉強の必要が叫ばれている。そのために、今年は、青木書店から発行された、現代テキスト「格差社会とたたかう」〈努力・チャンス・自立〉論批判 後藤道夫外著をテキストとして、勉強会を始めた。新人団員及び青法協会員の新人が参加した勉強会となっている。
ところで、一泊旅行は楽しい、充実したものとなった。参加する以前は、観光が少なく、勉強ばかりと若干心配していた。安藤団員も同様の感想であった。
旅行の内容としては、第一日目、川辺川ダムの建設予定地の視察、人吉温泉で宿泊、第二日目、球磨川下り、水俣現地視察であった。視察ばかりで息が詰まるかと思いきや、充実したものであった。
安藤団員の感想は、次のとおり。
「事件の現場に案内してもらい、関係者から話を聞けたことがよかった。特に、川辺川ダム問題に関連して、ダム建設反対派の村長を謀略によって逮捕起訴させる話は、鹿児島の公選法の弾圧事件で全員が無罪になった直後であるので、権力側の弾圧体質が引き続き厳然と存在していることを改めて思い知らされた。
事件現場とはいえ、水のきれいな川辺川を遡上する旅はよかった。
おまけの日本のナイヤガラもよかった。いつどのようにしてできたのかの紹介があればもっとよかったと思うが。」
私が、川辺川ダム訴訟の原告団及び弁護団との交流会で、学んだこと。
川辺川ダム訴訟の交流会に参加し、岐阜県で現在訴訟進行中の荒崎水害訴訟において、学ぶべき教訓が多数あった。
第一に、事実から出発すること、第二に、要求の整理の仕方、第三に、運動の組織の仕方など多くの示唆を貰った。
久しぶりに、人吉温泉での夜は、智恵熱で「熱い」夜となった。
熊本の皆さん、ありがとう。