<<目次へ 団通信1242号(7月11日)
(前号の続き)
さらに、私たちが作戦としてやったことは、綿花急襲(?)作戦といって、棉の木を全部集めてしまう。何万本という棉を全部集めてしまう。小麦も全部とってしまう。
最後には、中国人の強制連行、これは日本の国が、若い人がどんどん徴収されていってしまい働く人が少ない。炭坑など企業が一番困った。軍に話したら、軍は中国人の捕虜をわざわざ日本につれてきて、花岡事件などを起こすようになった。それぐらいして、強制労働、小麦、綿花のひるまえ?作戦、このようにして、日本の軍隊はドロボウのようなことをしてきたんです。これが「聖戦」だったんです。それを私たちは「当たり前」だと思うんです。私たちは喜んでやっていました。
日本の戦争状態は、決して正しい姿ではありませんでした。
私は昭和二〇年の一番最後の日に中支から朝鮮の山の中の部隊におりました。二〇年の八月一五日に、中隊本部に集合しました。そのとき、ラジオを聞きながら、天皇の声を聞きました。日本が無条件降伏をしたということを知ったわけです。泣きました。泣いたけれども、「これで私は助かった」という気持ちをもちました。これは正直なことなのです。
北朝鮮に入ったのは、兵隊はソ連と闘うために来た。そのときに私たちは、「蛸つぼ作戦」の訓練を受けました。地面に穴をほって、爆弾をかまえてもぐっているんです。ソ連の戦車がくると、飛び出していってドンとやる。そんなことできるわけないでしょ。それをやらずにすんだもんですから、私は「これで命が助かった」と思いました。
ところが、それから私たちが強制連行された五年間というものは長い間苦労しました。兵隊はばたばたばたばた栄養失調で倒れて死んでいく。それだけなく、寒いでしょ。便所が表にある。外に板がはってある。そこで一〇人が一緒にションベンができるようになっている。ところが、寒いので夜起きられない。おっくうになっちゃう。雑嚢(ざつのう)水筒をもっているわけですね。水筒を空っぽにして、そこにションベンを詰めたんです。それで寒さをしのいだ。朝になるとそれをダーッとこぼして、また水を入れて、ジャカジャカジャカと濯いで、また水を入れて飲むんです。これを毎日やるんです。糞もみそも一緒だったんです。その生活を私たちは5年間やってきたんです。
Q、戦犯管理所での生活はどうでしたか。
撫順の戦犯管理所に入って二か月くらいたったら、取り調べが行われました。私も呼ばれました。調査官の方が、「お前は何をやったんだ。」こういわれました。「中国人の方を木に縛りつけて、上官の命令で、刺し殺しました。」こう言ったんです。そうしますと、調査官の目がクッと変わって、「上官の命令とは何ごとか。殺したのはお前じゃないか。お前がやったんじゃないか。」私はそのように言われたんです。まったくそのとおりであります。命令でやっても、私がやったことは事実だ。もしも、家族の方が見ておったならば、「兵隊は命令でやったんだから罪はないんだ。」と思う人は一人もいない。やったとおりを恨む、これはたいがいのことなんだ。しかし、私たちの感覚の中には、「おれたちがやったことは事実なんだが、命令でやったんだ」という感覚が強いんです。その命令は、上官の命令で、それは朕の命令だという一言があるんです。どんな命令でも天皇陛下の命令である。それをやったことがなぜまずいのかという感覚がある。「人を殺しました」と平気で言った。ところが、やられた方はそうはいかない。やったのは私がやった、それは間違いない。そう私は言われたのです。
それで、最後の私の主張を述べさせていただきたいと思いますが、私が一六年ぶりに中国人民の寛大な政策によって、日本に帰ることができました。本当にみんな泣きました。舞鶴についた。私を迎えたのは、私の親父と役場の人が迎えに来たのです。「あれだれかな」と思うんです。おっかあの顔は全部覚えている。どういうわけかね。自分のお袋の顔はじーっと覚えている。親父のことは半分しか覚えていない。親父が迎えに来た。それで、なんだかんだと言って、三日位して日本の田舎に帰ったんです。かえって、町の人が浦安の学校に出迎えてくれたんですね。学校を出たら、ひとりのおばあさんがのこのこと出てきて、こうして私の胸ぐらをつかんで、「お前はいいな。一〇年たとうが二〇年たとうが帰ってきたからいいんだ。おらのせがれは死んじゃったよー。」私と組んで、ワアワア泣き出すんです。その人は私と同級生だった。同じように部隊に入った人間なんです。彼は、作戦中戦死した。わあわあ泣くんです。私もどうしようもなくて。そして最後に、「八月になったらな、お盆のときには線香一本あげてくれな。」と言って私たちは別れたんです。そして、私は自分の家に帰りました。当時は、うちのお袋は台所で、私の大ぃー好きな鯵(あじ)をつくっていたんです。私は入りました。「おっかぁ、今けぇったよ。」こう言った。お袋はじっと私の顔を見た。私の顔を見て、しばらくジーット見ていました。ところが、うちのお袋はね、ばい菌が目の一つに入ったので、片っ方がつぶれていた。森の石松じゃないが、片っ方の目で私を見ておった。そして、一番最初にさわったのはどこだと思いますか。一番最初にさわったのは。私の足にさわった。足にサーッとさわった。「お前、お化けじゃねぇなぁ。」と言った。これが、私に対する最後のことばとなり、その二月後にはうちのお袋はとうとう死んでしまったんです。私が帰るのを待っておったんです。
これが現実なんです。靖国神社に祭られて喜んでいる人は一人もいないんです。現在、新聞では、「愛国心」がどうのこうのと言っている。いったい「愛国心」とは何ですか。私の五年間というものは、中国の戦争で、命を投げ出して戦ってきた。そして、五年たったら、今度は、北朝鮮でソ連の捕虜になった。別に(ソ連と)戦争して捕虜になったわけじゃないですよ。敗戦となって武器を捨てたと同時に、ソ連に強制連行させられて、五年間働いた。私たちの頭の中には、「俺たちは、命を的にして天皇陛下のために戦ったんだから、必ず天皇陛下が俺たちを助けてくれるに違いない。」という気持ちをもっていたんです。ところが、一年たっても、二年たっても、三年たっても、ウンでもない。スンでもない。とどのつまりは、五年、五年たったらどうなった。次は「戦犯」だ。これが「忠君愛国」の結果だったんです。船で、私たちは日本に帰ってきた。舞鶴に帰ってきた。新聞にはなんと言っていたと思いますか。「あの連中は、ソ連から帰ったというけれど、最も強行に洗脳されている」とこうきた。「洗脳」ですよ。しかも、二年間というものは、監視つきだ。こんな私たちが「忠君愛国」で戦った結果なんです。どう思います。結果なんです。本当の「愛国心」とは何ですか、みなさん。戦争ですか。戦争ではないはずです。戦争に反対し、戦争をなくすることこそ、本当の「愛国主義」なのです。私はそう思います。
本当の「愛国主義」は戦争をなくすこと、戦争をしなければ、三〇〇万も、二五〇万もの兵隊が死ぬわけがないんです。これが一つ。
もう一つは、私が、去年、一昨年ですか、NHKの八月一五日の放送を見ておりました。そのあと、討論会である人がこういっていた。「私はニューギニアにいた。ニューギニアでは、一〇万の兵隊が死んだ。死んだ兵隊たちの作戦をつくった参謀達は、なんの罪もならないんですかねぇー。」とこう言った。彼はなんの罪にもならない。死んだのは兵隊。私たちは戦犯収容所に送られた。私たちの作戦をつくり命令をした参謀司令官、あるいは参謀、誰一人として、「あれは私がつくった作戦です。」と言って出てきた司令官はだれもいないです。しらーっとしている。これが現実なんです。だから、絶対、戦争をしてはなりません。これは、事実なんです。体験がいっている事実なんです。うそは一つもないです。みなこれを体験したんです。どうか、戦争を絶対しない、反対してください。
憲法九条を絶対私たちは守らなければならないんです。終わります(大きな拍手)。
Q、考えかたが変わっていったきっかけは何でしたか。
私たちの考え方が変わったのは、撫順にいたときじゃないんです。確かに、撫順ではそれそうとうの対応を受けました。素晴らしいという気持ちはわきました。本当に私たちが変わったのは、日本に帰って、三年間は私は独身で生活していた。働く場所がないんですよ。働きにいくと二日でクビですよ。私が「ああ使いましょう。」と言われて働いておった。そして「金子さん、わるいけど明日履歴書もってきてくれや。」「はい、分かりました。」明くる日、私は履歴書を書いてもっていった。そしたら「明日から悪いけどこなくていいよ。」「なぜ。」「ソ連におったから。」ただそれだけ。私は堪え忍んできた。
私が本当に「これは。」と思ったのは、自分が結婚をして、子どもをつくったんです。はじめて「これはねぇ、戦争を二度とおこしちゃならないんだ。」という気持ちをもったのは、子どもをつくってからですよ。そのとき初めてね、「戦争は悪い。」と思ったんです。これは事実。こどもがいる、それなんです。撫順で全部変わったわけじゃない。それの基礎もあったのかも知れないけれでも、本当に変わったのは帰ってきてから、自分が所帯をもって、初めて思った。
※金子さんの了解のもと、事務局の文責で作成したものです。
会は金子さんのお話のDVDを作成し、普及する予定です。
アメリカの進歩的弁護士団体のNLG(ナショナル・ロイヤーズ・ギルド)は、本年の総会を首都ワシントンDCで開催します。NLGは、労働者の権利を擁護し、ニューディール政策の妨害と闘うために一九三七年に創立されました。今年は、七〇周年に当たるために、例年より大規模な記念総会をワシントンで開催することとなったものです。NLGと自由法曹団の交流は、一九九一年の団六〇周年記念総会にNLGのアーサー・キノイ教授を主講演者として招いて始まりました。以後、毎年NLGの総会に国際問題員会を中心に団員が参加し、団の総会にもNLGから数度の参加を得て今日に至っています。昨年のNLGの総会では、私たちの要請に応え、9条が世界の平和に果たす意義を理解し来年五月に日本で開かれるグローバル9条会議にNLGも参加する旨の総会決議を行いました。
NLGの本年の総会では、全体総会の他に、その一年の様々な活動を集約する数多くのメジャーパネル、ワークショップが開催されます。私たちは、それらを通じて、NLGが果敢に取り組んできたイラク反戦、グアンタナモ基地囚人の解放、愛国者法体制との闘いなどが、今アメリカでどのように展開されているのかを、直接肌に感じて把握することができます。
例えば、全体総会〈オープニング〉の基調講演者は、イラク戦争に反対し愛国者法体制を批判してきたジョン・コイヤー下院議員であり、彼は全米におけるそれらの状況を語るでしょう。また、グアンタナモ基地と人身の自由をテーマとするメジャーパネルも開催されます。
今アメリカでは、イラク反戦の運動は、ブッシュの増派を糾弾し、まやかしの段階的撤兵を批判し、Bring Them Home Nowのスローガンで即時全面的撤兵を要求して高揚しています。また、NLGとCCR(憲法的権利センター)は、司法審査を拒否され無期限に勾留されているグアンタナモ基地囚人の弁護がアメリカ憲法と「人身の自由を擁護する活動であることを訴え、その結果、全米から五〇〇人の弁護士がこの訴えに答えて、手弁当で弁護団に参加するに至っていますが、その殆どは一二〇の巨大ローファームの弁護士でした。NLGの総会参加者との交流は、私たちに、こうしたエネルギーがどのようにして生まれているかを教えてくれるはずです。
私たちは、このNLG総会で、九条についてのワークショップを開催したいと考えています。アメリカの友人に、九条の世界的意義を理解してもらい、九条を守る闘いへの連帯を訴える分科会です。九条の改悪が、アメリカの世界戦略に沿って、日本をアメリカの軍事的同盟国として、戦争に参加させる目的であるからには、平和を愛好するアメリカの人々にも重要な問題であるはずです。
これらの目的で参加するために、今年は、例年よりもより多くの参加者を期待しています。
日程は、以下のとおりです。
一〇月三一日出発/一一月五日または六日帰国
ワシントンでのホテル〈総会会場〉
ホリデイ・イン・オン・ザ・ヒル〈このホテルに宿泊したい時は、かなり前に申し込む必要がありますので、後記の締め切りとしました。〉
観光も予定していますが、人数によって行き先を検討します。
参加御希望の方は、八月二〇日までに、団本部へご連絡ください。
1 中央労働委員会(以下「中労委」という)は、〇七年六月六日付命令を同二九日に交付しました。中労委命令は、株式会社ナック(以下「会社」という)に対し、組合を排除することを表明し、従業員に対し組合に加入することを抑止し、組合活動を抑制し、又は組合員に対し組合から脱退を慫慂するなどして、組合の運営に支配介入してはならないと命じました。東京都労働委員会(以下「都労委」という)による〇六年六月六日付命令に続く全面勝利命令です。
2 中労委において、会社は、寺岡社長が「この建交労という組合を認めるわけにはいきません」「この組合は断固排除しなければならない。」「建交労という組合は、私は絶対許さない。」などと述べ、西山会長も「寺岡の敵は絶対許さない。建交労といえど許さない。命をかけて私はたたかいます。」などと発言したのは、建交労に対し批判的な見解を述べその不当な要求に対して徹底的に抗戦するという意気込みを述べたものに過ぎないと主張しました。また、社長と専務が、新年会と称して、組合員の自宅にまで押しかけて組合脱退工作をしたことについて、会社は、西山会長が会社を一代で東京証券取引一部上場企業にまで急成長させたものであり、つい数年前までは、社長と社員は家族のような間柄であったから、社長らが一社員の自宅に新年会のため赴くことも異例ではないなどと主張しました。しかし、中労委は、このような会社の主張を何れも退けました。
3 会社の従業員数は約一四〇〇人であり、その半数が外務員と呼ばれる個人請負契約で働く非正規労働者です。外務員らは、次々と契約条件が一方的に不利益変更されるなど無権利状態に置かれていました。こうした状況を改善するため、A氏らが建交労ナック分会を結成しました。これに対する、西山会長及び寺岡社長らの対応は、上記の言動のとおり、凄まじいものでした。徹底した組合脱退工作を行いました。しかし、都労委および中労委は、こうした会社による組合潰しを許さなかったのです。
会社の不当な攻撃とのたたかいは、A氏ら非正規労働者が、鋼鉄のように鍛えられていく過程でもありました。
以上
ちかごろ刑事司法にたいする国民世論がヒートアップしている。国民の関心が高まること自体は悪いことではないが、あまりにも偏った論調が目につく。その根底には、近代刑事司法、とりわけ弁護人制度への無理解または誤解が横たわっているようだ。われわれも、このことについて発言する必要があるように思われる。
では、どのような誤解・無理解があるのだろうか。
なによりも「無罪の推定」に関してである。
いかに凶悪な罪を犯した(と報じられている)者も、有罪判決が確定するまでは「無罪の推定」をうける。批判者と被害者・被告人とは人格的に対等なのであって、罵倒・侮辱して人権を侵害するようなことは許されない。
つぎに、弁護人制度は近代司法の不可欠の要素である。
資格を有する弁護人を選任することは、すべての人間に保障される憲法上の権利にほかならない。いかにすべての国民から非難されるような被疑者・被告人といえども、その言い分を聴きいれ、それを代弁する弁護人をもつ権利が保障されなければならない。弁護人を選任したことをもって「卑怯」や「無反省」の論拠とするような論議は誤りである。また弁護人は国家の代理人でもないし、公益を代表する者でもない。あくまでも被疑者・被告人の権利を守ることを任務とするのであって、共犯者になるのでもなく、証拠隠滅をはかるものでもない。
さらに弁護活動の自由である。
弁護人には、職業的知識と経験にもとづき、良心に従った、自由な弁護活動が基本的に保障されなければならない。弁護活動の内容が気に喰わないからといって非難するのは、弁護活動の自由を侵害することになりかねない。
誤解のないようにつけくわえれば、弁護活動も完全に自由なわけではない。訴訟内の弁護活動はまず、裁判所の訴訟指揮権による制約をうける。裁判所が許容した弁護活動にまで非難の声を浴びせるのは、納得できない。もうひとつ、意外に理解されていないのは、被疑者・被告人があくまで無罪を主張するばあい、弁護人には「有罪の弁論」が禁じられていることである。「有罪の弁論」こそ、弁護士倫理にたいする最大の背反なのである。弁護人の無罪主張を非難するのは、弁護士倫理への背反を強要するものである。
さいごに、判決との関わりである。
無罪判決が確定したばあい、弁護人が真犯人の罪を免れさせたかのように言うのは正しくない。被疑者・被告人は前述のように「無罪の推定」をうけている。無罪判決は、その「推定」を「確定」させたことにすぎない。
では、有罪判決が確定すると、弁護人の活動は無駄で有害なものになるのだろうか。そうではない。資格のある弁護人の、自由で十分な弁護活動こそが、有罪判決の正統性を担保するものなのである。これがなければ、いかなる名判決といえども、被告人にたいする国家のリンチと化してしまうのである。
ー弁護士が主たる読者である本紙に、判りきったことを書くのは気がひけたが、依頼者などとこんなことを語りあってみたらどうだろうか。
異常な暴走国会が終わった。政府与党は消えた年金問題で窮地に追い込まれながらも、転んでもタダでは起きないしたたかさを見せている。
かつて権力は、政治腐敗を逆手に取って「政治改革」と称して小選挙区制を強行した。その害悪は予想通りであった。また、教育の荒廃を口実に「教育改革」なるものが強行された。
消えた年金問題では、腐敗や荒廃ではなく、怠慢を口実にその野望を実現しようとしており、警戒が必要である。
1.社会保障番号と国民カード
監視、密告社会が進んでいる。国家が国民の情報を集積していく一方で、国民の横の連帯が断ち切られていく。これは戦争を準備する社会の特徴である。
政府は、社会保障番号制度を導入すると言っている。これは過去の消えた年金問題とは関係ないのに、消えた年金問題を口実にして、国民の医療、介護、年金などの情報を一元的に管理するというものである。住基ネットとの統合や、国民カードの提唱もある。
この際、国家が国民のセンシティブ情報を含めて一元的に管理していく野望を実現するチャンスだと考えているのである。
2.労働者攻撃と差別の予告
公明党の代表が、消えた年金問題で一番悪いのは労働組合であるかのように発言した。
次いで、ボーナス返上問題とからんで、社会保険庁を解体して日本年金機構なる新組織に移行するにあたって、ボーナス返上に協力しない者に対しては差別するかのような発言もされている。
国鉄解体以来すでに多くの先例があり、警戒が必要である。
茶陶の三傑は、一井戸・二楽・三唐津とか一楽・二萩・三唐津と称される。唐津焼は、唐津藩主寺沢志摩守広高と利休没後の天下一の宗匠古田織部との縁から桃山茶陶の華ともてはやされたが、織部の死後、唐津は衰退し途絶えた。桃山時代は日本陶芸史の黄金時代でもあった。これは茶の湯の焼物の偉大さであり、茶陶は趣味の世界で大輪の花を咲かせたのである。桃山時代を天正、文禄、慶長の時期に限るとすると、そのわずか四〇年間に桃山茶陶は展開し疾風のように駆け抜けて終息していった。
一二代中里太郎右衛門は、昭和四年から古唐津の窯址発掘調査をおこない陶片の研究を始めていた。昭和一〇年に孤高の陶芸家石黒宗麿から作陶の技術指導を受けている。その石黒が唐津に滞在中、大原美術館館長武内潔真に宛てた手紙にこう書かれてある。
「唐津焼を土地の人さえ知りません。骨董屋店を見てもカケラさえ見あたりません。完全に滅びてしまって、ただ各所に窯址らしい高台などみられるくらいのものです」(注 カケラは古唐津の陶片)
敗戦直前、我が家は空襲で一切を焼き払われ故郷の唐津に帰った。硫黄島守備隊が全滅し本土決戦を迎えたその頃、太郎右衛門は陸軍から陶製手榴弾の試作を頼まれる。有田の磁器製手榴弾は小さく割れすぎて効果がなかったが、唐津の手榴弾は大きく割れて殺傷力が強かったという。自決用のそれだったろうか。戦後、太郎右衛門は農業と陶土の販売で生計をたてながら古唐津の再興をめざす。
※
矢部良明は『日本陶磁の一万三千年』でこう語る。日本の陶磁史は、唐から陶磁が流入してきたときから始まる。唐三彩が技術、様式ともども成熟したのは六九〇年頃のことで、それまで焼物といえば釉の掛からない土師器や須恵器を見慣れていた日本人には、唐三彩の輝きは想像を超えた焼物であり、そのめくるめく華やかな美しさに陶然となった。一言でいえば「これも焼物か」であったろう。まさしく唐三彩は永遠不滅の美を保って大唐貴族の栄光を伝えていた。唐の文化を移植することに励んだ奈良時代、すぐに唐三彩がわが國で摸倣される。奈良三彩は日本初の本格的な施釉陶であった。しかし、奈良三彩はあくまで唐三彩の素朴な「写し」にすぎなかった。形や技術は学んでも、もっとも洗練され典麗を極めた唐三彩を創造した美意識を咀嚼し学ぶことは困難なことであった。
小山富士夫は、ニセ物は勉強のための「写し」と利益のための贋作がある。「写し」の意味なら唐三彩をまねた奈良三彩は日本のやきものでは一番古いでしょう。この頃はまだ贋作をつくるだけの技術が日本にはなかった。相当技術が進まなければ贋作はできませんね。日本のやきもので贋作ができたのは江戸時代になってからとみていいでしょう、と話している。(松井寛進『偽作の顛末永仁の壺』)
辻惟雄は『日本美術の歴史』に言う。日本の焼物は技術的にも意匠としても低迷していた。猿投窯は九世紀初めに緑釉を器の全面に施す青磁器の模倣を試みたが、十世紀に中国磁器の輸入が減ると自然釉に任すという従来の製法に戻っている。高級志向を棄てて瓶壺を主とする日常雑器の量産に活路を見いだした。
日本的な意匠が生まれたのは院政時代の常滑焼、渥美焼においてだった。それに呼応して、院政時代後半から鎌倉時代にかけて各地の窯にも新しい動きが起こり特色ある焼物をつくりだすことになる。珠洲焼、越前焼、信楽焼、丹波焼、備前焼など、民衆の生活用具としての無釉の焼き締め陶器である。だがこれらの陶器は、青磁、白磁、天目など南宋・元・民の陶磁が、座敷飾りの花形としてもてはやされていたこの時代にあっていわば日陰の存在であった。中国磁器の珠玉のような肌、これは摸倣の対象とするにはあまりにも高い技術の水準に達していた。鎌倉から室町時代を通じて日本人が何とかものにしたのは水墨画の技法だけといってよい。
矢部は続ける。瀬戸焼は、はじめから輸入中国陶磁に追従する性格を持っていた。室町時代になってもその体質は変わることがなかった。この時期、唐物趣味の風潮が盛んになっていて輸入中国磁器の人気があがればあがるほど瀬戸焼は低調になっていった。その原因は技術革新の欠如であった。
寛永年間中国景徳鎮の色絵磁器の刺激によって酒井田柿右衛門が赤絵磁器の技法を工夫し景徳鎮を母体とした有田、古九谷、鍋島の色絵磁器が焼かれ、野々村仁清による色絵陶器と相まって日本陶磁史上の一つの頂点を形成した。だが、柿右衛門様式と古九谷様式は一八世紀始頃から主役の坐を降り仁清もやがて衰退し、これに代わって景徳鎮の金襴手を受容した伊万里金襴手が登場する。
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教基法改正反対の冊子は、日本文化の特徴は「外国の文化を積極的に取り入れ、独自のものに発展させてきたことです。陶磁器などがその好例でしょう」と書いた。しかし、明治までの陶磁の歴史は、唐三彩を「写し」た奈良三彩に始まって受容と「写し」そして衰退の過程を繰り返し、桃山と寛永の二つの時代に点として開花したが、線として伝承され「発展」してきた形跡はなかった。
谷川徹三は、みずから監修した『十二代中里太郎右衛門唐津作品集』の序論にこう書いている。
「芸術の世界には進歩というものはない。進歩というべきものが全くないわけではないが、それは科学や科学技術の世界におけるような意義と価値とを持たない。芸術は民族の文化と伝統に深くかかわり、そこに表現と美の質の相違を示しながら、時代の変移とともに変移し、そのそれぞれが、表現と美の諸相の独自の価値を主張する。その多元性の中に、一義的且つ累積的進歩はないのである。陶芸の世界で進歩と言い得るのは窯の構造や素材たる土の処理や釉薬の開発や焼成における技術の進歩で、その進歩は表現や美の質にはかかわらない。われわれは原始の土器の中に、今日の磁器の及びもつかぬ美を見ているし、もはや失われた力強い表現をもみている。それらは今日、これを芸術的見地から見て、現在の多くの陶芸作品より遙かに美しいのである。」
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岩波新書に、家永三郎の『日本文化史 第二版』、尾藤正英『日本文化の歴史』、村井康彦『日本の文化』という通史がある。家永は縄文土器の様式と豊富な意匠を驚嘆に値すると評価するが、陶磁器については仁清の色絵藤文様茶壺をすぐれた工芸美術と書くだけである。尾藤と村井は陶磁器をとりあげて論じることはない。陶磁器が日本文化の好例であれば、右の日本文化の通史がそろって陶磁器にふれない理由はないだろう。
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前稿にも引用したが西尾幹二らの教科書は「日本人は大陸の文化を積極的に取り入れながら、独自の美意識に裏付けられた、世界にほこる美術作品を生みだしてきた」と述べていた。冊子も「外国の文化を積極的に取り入れ、独自のものに発展させてきた」と「独自のものに発展」と書いた。曖昧な修辞であるが文脈は似ていて同根の匂いがする。辻惟雄の銘記すべき言葉があるので紹介しよう。
文化のすべての分野にわたって、日本人は外来のものの摸倣に多くを負っている。日本美術(勿論、陶磁を含む)は、水源地である中国大陸から絶えず水の恩恵を受けてきた農園である。その与えられる水の質と量に応じて収穫物も絶えずその性質を変える。日本美術に一貫した自立的展開はないのか?
日本人の民族的自尊心はそこで鬱屈せざるをえない。事実検証を省いた「日本独自」「純日本的」などの言葉はおそらくその反動だろう。だが、それは外からみれば滑稽なひとりよがりに映りかねない。独善的ナショナリズムを捨てた日本美術論の出現を期待したい。
日程のご案内
●改憲阻止討論集会(奈良)
七月二九日(日)一三時〜七月三〇日(月)正午
*申込制です。参加を希望する方で、まだ申し込み書を出していない方は、至急団本部までお申し込みください。
●教育問題活動者会議(自由法曹団会議室)
九月二二日(土)一三時〜
*内容の詳細は追ってご案内します。