<<目次へ 団通信1247号(9月1日)
事務局長 今 村 幸 次 郎
今年の総会は、一〇月二一日及び二二日に、山口県の湯田温泉で開催されます。二〇日はプレ企画を予定しています。維新の志士たちが集ったといわれる湯田温泉に、この秋、多数の団員にお集まりいただき、団の課題や今後の活動方針等について、活発な議論をお願いしたいと存じます。
団は、昨年の総会以降、「任期中の改憲」「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権が押し進める教育基本法改悪・改憲手続法制定・ホワイトカラーエグゼンプション等の労働法制改悪・共謀罪・少年法改悪・教育「改革」三法・被害者参加等の刑事司法変容・保険業法による自主共済つぶし等に対する阻止の運動等に全力で取り組んでまいりました。
いくつかの悪法は強行的に成立させられましたが、国会論戦や世論を通じて、重要な歯止めや改善への足掛かりを獲得することもできました。
熊本・阿蘇で開催された五月集会では、「構造改革」による格差拡大・貧困化との闘いと改憲阻止闘争を結びつけることの重要性を確認するとともに、日本の軍事大国化に反対し改憲阻止闘争をさらに発展させることなどについて決意を固めました。
七月二九日及び三〇日に行われた奈良の改憲阻止討論集会では、若者に運動をどう広げるか、保守層にも浸透させるにはどうしたらよいか、格差・貧困化への闘いとどう切り結ぶか等について熱のこもった議論がなされました。明文改憲阻止と同時に、イラク特措法・テロ特措法・在日米軍再編・集団的自衛権行使容認・情報保全隊による国民監視など、現に進められている憲法蹂躙を許さない闘いに注力することの重要性も確認されました。総会でさらに議論を深めていきたいと思います。
この夏の参議院選挙では、マニュフェストの冒頭に「平成二二年の国会での改憲発議」を掲げた安倍自民党は歴史的惨敗を喫しました。それでも安倍氏は「基本路線は国民に理解していただいている」と述べて首相の地位に居座っています。今後、政権浮揚をかけて「安倍カラー」の巻き返しに必死で取り組むものと思われます。
私たちは、参院選で示された「改憲より生活を」の声をさらに大きなうねりにして、平和で格差や貧困のない社会に向けた取り組みをさらに強めていかなければなりません。
この総会では、全国各地における団員の奮闘、国民の運動への参加や共同の取り組み、さまざまな裁判闘争の成果等を持ち寄ったうえで、向こう一年間の団の活動はどうあるべきか等について語り合いと思います。皆さん、是非、山口総会にご参加ください。
総会前日の一〇月二〇日には、プレ企画として、(1)団の将来問題交流会、(2)非正規雇用問題シンポ(いま、ワーキングプアを考える〜現代の貧困の克服のために)(仮称)を予定しています。
今、若年層を中心に、偽装請負、日雇い派遣といった不安定かつ劣悪な働き方が蔓延し、ワーキングプアやネットカフェ難民の急増という深刻な事態が生まれています。「現代の貧困」は、多重債務者問題や生活保護の取り組みとも連携した対応が緊急に求められる重要課題です。九月登録の新人の方をはじめ、多くの団員に参加していただきたいと存じます。
また、今年はロースクール出身者がはじめて弁護士登録する年です。大量増員時代にどう対応し、団や団事務所をどう運営していくのか、その中で、団の将来的な発展をどう展望するか、の点も待ったなしの重要課題です。将来問題プレ企画にも全国から多数の参加をお願いいたします。
山口県支部 田 川 章 次
今年の自由法曹団全国総会は、山口市湯田温泉の「かめ福」で開催されることになりました。湯田温泉は、大内文化が栄え西の京と呼ばれてきた山口市街の西方にあります。湯田温泉は、白狐が傷を癒すために湯治をしているのを見てその効能が知られ、白狐の湯として評判となり、爾来八〇〇年温泉として栄えてきました。幕藩体制を打破した維新の志士達が集った旅館が並ぶその一角に、会場である旅館「かめ福」があります。「かめ福」の直ぐ前には、天才詩人中原中也の記念館もあり、足を延ばせば、大内文化の粋と云われる国宝の瑠璃光寺五重塔があります。また、山口市の北郊には、雪舟庭園で有名な常栄寺があります。これらの名所を観光された後、ゆったりと温泉に浸れば日ごろの疲れを癒し、明日への鋭気を培うでしょう。これこそ何にでも効き、心をも癒す湯田温泉のお湯です。夜には、日本海と瀬戸内海から揚がった新鮮な魚と柔らかくて美味な山口和牛の料理が皆さんをお迎えします。また、山口といえば、秋の彼岸から春の彼岸までと云われる「ふく料理」です。どうか、本場のフク(フグ=不遇ではなくフク=福です。)を心ゆくまで味わってください。
さて、山口県での団総会は初めてのことです。団関係の集会としては一九八四年に下関市の長府で開かれた五月集会があり、多くの団員の参加を得て、以後、五月集会の規模が拡大したと聞いております。当時、私は山口県弁護士会の会長として、歓迎の挨拶をさせて頂きましたが、集会では戦後政治の総決算を掲げる中曽根内閣の国鉄分割民営化の動きや、トマホーク配備の原子力潜水艦寄港問題など、多くの団員の活発な議論が戦わされたことを記憶しています。そして今日、地元選出の安倍晋三首相が戦後レジウム解体を唱え国民投票法を強行成立させ、憲法改悪の道を突き進む中で、これを阻止する国民の戦いは、今大きく進もうとしています。先の参議院選挙で示された国民の審判は、自公の反動的な企てに鉄槌を加えました。山口県支部では、岩国への米軍艦載機移転に対し、県民と共にこれを阻止する運動を展開して、岩国市の住民投票を成功させるなど、平和を守る戦いの先頭に立って、奮闘しています。また、活断層の上に計画されている上関原発の建設を阻止する戦いにも工夫を凝らして取り組んでいます。山口県支部団員一同は、全国総会が初めて山口県で開催されることを誇りとし、全国の団員が山口市湯田温泉の総会に多数参加されることを心から歓迎します。どうか皆さん、ふるってお越し下さい。
おいでませ、山口へ!
将来委員会委員長 中 野 直 樹
一 熊本・五月集会プレ企画では、新人弁護士採用の条件が格段に広がっているなかで、積極採用の方針とそれを支える経済基盤づくりの問題、採用した新人が弁護士、所員、支部団員として成長をしていってもらうことについての悩み・実践について、活発な意見交換がされた。支部内での論議とともに、支部を超えた地域ネットワークでこの課題に取り組むことの必要性を強調する意見、経済基盤づくりのために団事務所が開拓する分野についてつっこんだ意見交換をする場を設定してほしいとの意見が出された。
二 五月集会後、京都、兵庫、大阪の三支部の幹事長の呼びかけで、「三支部合同 団の将来問題検討会 第一弾〜ロースクールで教える団員に聴く」が開催された。団通信に地元から報告が出されることを期待するが、兵庫や京都の弁護士過疎地への団員配置問題も視野に入れた意見交換会であったようである。第二弾以降がどのように進展していくのか注目したい。
三 全国の団員事務所(集団事務所中心)に、六〇期の採用内定情報のアンケートを行った。現在までのところ、別ルート情報を含め、二三支部で九〇近い人数となっている。うち法科大学院コースの新六〇期は一六名である。三名採用の事務所が二、二名採用予定の事務所が一五ある。旧・新で時期が二ヶ月ずれて入所してくる六〇期を迎えることも初めての体験となる。
四 次回のプレ企画で想定している論点は次のとおり。
○法科大学院時代から、人を見出していく努力と体制
○若手弁護士とともに地域運動や支部の集団づくりの取り組み
○「団員過疎」地域への積極的な配置のために地域ブロック単位で具体的な論議をすることを開始できないか。
労働問題員会担当事務局次長 増 田 尚
全労働者の三分の一を超える非正規労働者。東京都の「派遣労働に関する実態調査」(平成一九年三月)によれば、派遣労働者の七五パーセントが三〇〇万円未満の低賃金にあえいでいるとされています。「ネットカフェ難民」や、社会保険・雇用保険未加入問題など、労働者の生命と健康に関わる深刻な問題もあります。
一方で、企業は低賃金・不安定な労働者を「コマ」代わりに使い捨て、「偽装請負」、「違法天引き」などの無法が全国各地でまかりとおっています。こうした企業は、失業率が高い沖縄や東北などに、「月三〇万円保障」、「カバン一つでOK」など虚偽・誇大広告を掲載して労働者を集め、安価に酷使しているのです。
こうした無権利状態を是正し、非正規労働者の貧困を克服することが、現代の労働運動の課題になっています。
総会プレ企画では、派遣・請負・パート・個人請負など非正規労働者の権利闘争の先進的なたたかいや、首都圏青年ユニオンや岐阜青年ユニオンなどのとりくみに学び、全国規模で、非正規労働者の権利擁護の運動を繰り広げる第一歩にしようと考えています。また、多重債務者救済や生活保護運動など、「現代の貧困」を打破する共闘を視野に入れた運動のあり方を検討します。「現代の貧困」克服という課題にとりくむ方針を確立する重要な企画になります。全国各支部・各法律事務所からのご参加を呼びかけます。
山口県支部 内 山 新 吾
山口総会での旅行(オプショナルツアー)のお誘いをします。
はっきり言って、半日コース、一泊コースともに、「おきまり」の観光コースです。実は、「団らしさ」を出すため、最近の各支部での企画に続こうと、「上関原発コース」や「岩国基地コース」を検討したのですが、スケジュールや宿泊場所などに困難があり、実現できませんでした。そこで、私なりに、「おきまり」のコースの楽しみ方を紹介したいと思います。
まず、半日コースは、すっきり、ワンポイント。おなじみの、秋芳洞・秋吉台です。一度ならず訪れた方も多いと思います。でも、眼前に広がる自然の造形美や、広い洞内の空気に包まれる感覚、台上を吹き渡る風に当たる心地良さは、何度体験しても新鮮です。ここに来ると、何万年という時の流れや地球そのものを感じることができます。一九五〇年代に秋吉台を米軍の空爆演習地にする動きが出たとき、地元住民、県、学者が一体となった運動がおこり、阻止したそうですが、半世紀を経て、そのありがたさがわかります。
一泊コースは、同じく秋芳洞・秋吉台を楽しんだあと、日本海側に向かい、いざ、油谷湾温泉へ。「いざ」なんて言葉を使ったのは、そこ(長門市油谷)が、安倍首相の「地元」だからです。かの参院選でも、山口県民は、「逆風」の中、自民党を大勝させました。ところで、ホテルの名「楊貴館」は、あの楊貴妃からとったもの。近くには、「楊貴妃の墓」があります。その真偽はともかく、それだけ朝鮮・中国大陸に近く、古代から交流が続いている証拠です。それなのに、安倍さんのやっていることときたら・・・。それはともかく、この宿では、(湯田温泉とは趣の異なる)海の見える温泉につかって、大陸や山口県の政治風土に思いをはせてはいかがでしょう。
山口県といえば、明治以来たくさんの「立派な」首相を輩出し、かと思えば、先日亡くなった宮本顕治さんもいたりして、いずれにしても、政治的な(「中央」寄りの)イメージが強いのですが、最近は、もう一つの顔がクローズアップされています。というわけで、旅行二日目は、長門市仙崎の金子みすゞ記念館へ。山口県出身の童謡詩人・みすゞは、中原中也や山頭火と並んで、山口県のもう一つの顔(なお、童謡詩人といえば、「ぞうさん」のまどみちおも県内出身)。みすゞの詩の、「みんなちがって、みんないい」(「わたしとことりとすずと」)という一節はあまりに有名ですが、私は、「みえぬけれどもあるんだよ、みえぬものでもあるんだよ」(「ほしとたんぽぽ」)という一節がお気に入りです。「たいりょう」「つもったゆき」「つち」などとともに、弁護士として大切な姿勢を教えてくれます。(なお、みすゞの詩に曲をつけて歌っている、もりいさむさん(シンガーソングライター)が、楊貴館での夕食時にミニコンサートをしてくれることになっています。)さて、バスは、仙崎から萩に向かいますが、その途中、香月泰男美術館に立ち寄ります。山口県出身の洋画家・香月は、シベリア抑留の経験を持ち、その心の傷をキャンバスに刻んでいます。そして、旅のしめくくりは、「おきまり」の城下町・萩へ・・・。
というわけで、団の関わる事件やとりくみにふれることのない「おきまり」のコースですが、「もう一つの山口県」にふれていただけたら、と思います。
愛知支部 大 辻 美 玲
1 平成一九年七月三一日午後二時すぎ、名古屋地方裁判所(松並重雄裁判長)は、薬害肝炎の名古屋訴訟の一次原告九名のうち、八名の請求を認容する判決を言い渡した(認容総額一億三二〇〇円)。私自身は、三年半前に弁護士になった当初から、薬害肝炎訴訟の名古屋弁護団に入った。全国の優秀な弁護団員の熱意とパワーに取り込まれるようにして、弁護団の仕事に熱中し、その仕事が、ほぼ常に弁護士業務の中心にあったといっても過言ではなかった。名古屋地裁で弁護団員が掲げた三本の旗(「勝訴」「国、三菱ウェルファーマ四度断罪」「第九因子、国にも勝訴」)のうち、自らの手で、担当していた第九因子の旗を掲げたとき、多くの報道陣にも構わず、涙を止めることができなかった。「報われた」と感じた瞬間だった。
2 薬害肝炎訴訟については、すでに大阪、九州、東京で原告勝訴の判断が下されており、その内容をご存知の方も多いと思う。簡単に述べると、フィブリノゲン製剤、第\因子製剤(だいきゅういんしせいざい)という二種類の製剤の製造を承認した国、およびこれらの製剤を製造・販売していた製薬会社二社(三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)、日本製薬)に対して、製剤を投与されたことによりC型肝炎に感染した患者が、損害賠償を求めた訴訟である。全国五箇所で提訴され、二〇〇六年六月に大阪地裁で、同年八月に福岡地裁で、本年三月に東京地裁で、それぞれ判決が出されており、名古屋判決は、地裁の判断としては、これらに引き続く四番目の判断である(残りは仙台地裁)。
3 名古屋判決は、すでに出されている3地裁判決の判断と比べて、大きく評価できる点が何点かあるので、以下に簡単にご紹介する。
一点目は、第\因子製剤について、一九七六(昭和五一)年一二月末以降の、国を含む、全被告について、「警告・指示義務違反」による責任を認めた点である。同製剤については、大阪・九州判決では全面的に責任を否定され、本年三月の東京判決で、三菱ウェルファーマの企業責任が認められたものの、国、および企業責任が認められた年代に原告が存在しなかった日本製薬については、責任が認められていなかった。そのため、国を含めて、第\因子製剤に関する責任を肯定し、三本目の旗にゴーサインを出した本判決の意義は、極めて大きい。
二点目は、フィブリノゲン製剤に関する責任の時的範囲を著しく広げた点である。判決は、同製剤には承認時(一九六四年)より重大な副作用があったことを肯定し、かつ、同製剤が、適応範囲を超えて使用される危険性が高かったことを認めることにより、実質的には、承認時からの国の責任すら認めうるかのような判示をした(名古屋訴訟では、一九七六年四月以前にフィブリノゲン製剤を投与された原告がいなかったため、直接的には、それ以前の判断はなされていない)。これまでの判決に対する「原告を分断した」(責任を認められる年代により、原告の勝敗が分かれる)との批判を、正当に乗り越えた判断である。
4 平成一九年八月一〇日、国は、原告団・弁護団の控訴断念の要請にも拘わらず、名古屋判決に対して控訴した。そのため、今後は、名古屋訴訟も、控訴審に舞台を移すことになる。名古屋地裁判決の認定ないし判断を維持し、より進めたものにするために、今後も、原告団・支援の会の応援を受けつつ、この問題に全力を注ぎたいと思う。
滋賀支部 玉 木 昌 美
県職員のKさんは、平成一八年六月三〇日午前七時四七分ころ、業務として自動車を運転し、左折進行するに当たり、左後方の安全を確認する義務を怠り、漫然と進行した過失により、バイクの前部及びステップ付近に自車左側面及び左後輪を衝突させてバイクを転倒させ、バイクの運転者に全治約二週間を要する傷害を負わせ、かつ、事故を起したのに負傷者を救護せず、事故の報告をしなかった(ひき逃げ)、として、業務上過失傷害、道路交通法違反被告事件として起訴された。
Kさんは、その現場を左折進行したことはあったが、事故を起した覚えはまったくない、と主張し、事後に交通事故を起したことは認めたものの、当時事故の認識がなく、道交法違反のひき逃げ部分を争った。
〇七年八月八日、大津地方裁判所の長井秀典裁判官は、Kさんに対し、罰金一〇万円、道交法違反の点については無罪を言い渡した。
判決は、検察官が主張する事故の認識があったと推測させる間接事実を七点にわたり整理し、そのいずれも理由がないと判断した。
検察官は、被害者のバイクのステップに被告人車両のホイールキャップが刺さっており、それなりの衝撃があったはずであること、衝突の衝撃音やバイク転倒の衝撃音があったはずであること、被害者が大声を出すのを聞いているはずであること、車で通りかかった警察官は被告人が後ろを振り返るのを目撃していることなどから、事故を認識していた、などと主張した。
判決は、検証結果や衝突後バイクはすぐに転倒していないことなどを踏まえ、どれほどの衝撃を与えたものが判然としない。また、「現場は交通量が多く、ある程度の騒音があること、本件当時、被告人車両の助手席には当時3歳の孫が乗っており、被告人は窓と会話をしながら窓を閉め切った状態で自動車を運転していたこと、被告人は十年以上前から難聴で治療を受けていたことが認められる。」とし、「衝撃に被告人が気付かなかったとしても、必ずしも不合理とはいえない。」とした。また、「被害者が衝突直前に大声を上げたとは認められない。」とし、さらに被告人が後ろを振り返ったという目撃証言は信用できない、とした。いずれの論点についても、ほとんど弁護側の主張を採用した画期的な判断であった。
この事件は、捜査段階では、任意で九日間約四〇時間取り調べを行ったが、ひき逃げを自白しないKさんに大声で罵倒をし続けた。そして、自白させるために、事故から三五日も経過したのち、Kさんを逮捕・勾留した。これに対し、準抗告を申立て、勾留を取り消させた経緯があった。本件は、引き逃げ否認のまま、起訴された。長井裁判官のもと、期日間整理手続に付され、三回にわたり争点の整理等を行った。その中で、現場検証を強く求めたところ、採用された。現場のうるさい騒音の状況、被告人車両のリアウインドウにプライベートフィルムが貼ってあること、目撃状況、アルミホイールの着脱の容易性と金槌で叩けば、それほどの衝撃なく割れることなどが確認された。裁判官に現場を見てもらうことが極めて重要であることを浮き彫りにした事件であった。
尚、弁護人は私のほか五九期の杉本周平団員であったが、さまざまな調査、証拠開示関係、尋問関係、その他において活躍してくれた。
長井裁判官は、冤罪日野町事件においておよそ許されない不当な再審棄却決定を出した人物であったが、今回の判決は高く評価することができる。
大阪支部 井 上 洋 子
二〇〇七年七月一三日に題名の会議を大阪弁護士会会館で開きました。ロースクールで教えている団員にロースクールの実情や意見を聞き、団として採るべき道をさぐろうではないか、というのが趣旨でした。大阪から京都、兵庫に提案したところ快くお請けいただき、京都からは福知山や豊岡などかなり遠方からも参加されて計六名、兵庫からは二名、大阪からはロースクールで教えている団員二名の他九名と、総勢一九名の会議となりました。示唆に富む会議となったのでご報告します。
ロースクールで教えている団員の意見は極めて刺激的でした。「ロースクールの学生はビジネス志向六割、市民事件中心の普通の弁護士を志向する者が四割という印象である。人権課題をやりたいという有望株も一定層いる。しかし、最初から革新的という学生はいない。教員等が影響を与えることによって育っていく。団は志のある人を採用しようとするが、志をいかに養成するかが重要である。ロースクール生との接点として、例えば、ロースクールでは置きビラなどは比較的自由であるから活用されたい。また、サマーインターン制度(司法試験終了後合格発表までの間の夏の期間に法律事務所でアルバイトとしてロースクール生を受け入れること)を通じて、事務員の仕事や弁護士の補助をさせ、学生と交流したり資質を見極めたりする機会として欲しい。学内成績上位のロースクール生が法律家的センスと能力を有していることは間違いない。『いい人があれば新人弁護士として採用する』という姿勢から一歩踏み出て、能力と意欲のある彼らにとにかく団の事務所で働く機会、チャンスを与えてやってほしい。良くも悪くも新人弁護士の給料の低価格化は進むだろう。『多めに新人を採用し、大切に育て、そのうち何人かが志ある者として残ればよい』という姿勢に方向転換をして欲しい。」というのが概略です。
また、こうした「素質ある人を見つけて育てていく」方針を採る場合、法テラスのスタッフ弁護士の任期を満了して帰ってきた人には志しの高い人が多いので、団事務所としてもそうした人に大いに注目すべきだという現実的な意見もありました。
団員の地域的偏在・過疎の問題も議論となりました。事務所間のネットワークを作って、都市のA事務所が採用した弁護士を、二〜三年の期間限定で団員過疎地にあるB事務所に派遣し、その後またA事務所に復帰させる、という方式を繰り返すことによってB事務所の事実上の人員増を図る方法なども検討・実行していこう、という意見が少なからず出ました。この方式を関西の都市部や県庁所在地などを中心に、中国四国一円の団員過疎地に広げていけたら素晴らしいことです。この方策は現在すでに団の旗を掲げている事務所がある場所との提携であり、団事務所が存在していない場所への開拓策ではありませんが、こうした提携が実行されていけば、開拓の敷居もおのずと低くなるものと思います。
そして何より「議論するだけでなく、行動を起こして下さい。」というのがロースクールで教えている教員からの注文でした。
東京支部 後 藤 富 士 子
1 感動的!な仏「ヴェイユ法」
カトリックの強いフランスでは、堕胎は神の領域を侵すものとして禁止されていた。それに加え、第一次世界大戦後は「産めよ増やせよ」の国力増強策が採られ、一九二〇年には避妊や避妊情報提供まで禁止する法律が制定された。第二次世界大戦中のヴィシー政権下で、中絶に対する弾圧が頂点に達した四三年には、ドイツ兵の子を身ごもった貧しい女性たちに中絶施術をしていたマリー・ルイーズ・ジローがギロチンにかけられた(この事件は邦題「主婦マリーがしたこと」に映画化された)。
五〇年代末にイギリスより四〇年遅れてフランスでも家族計画協会が設立され、避妊・中絶を求める運動を繰り広げ、六八年の五月革命の余勢を駆って、中絶合法化の機運が盛り上がった。七二年、レイプの結果身ごもった子を中絶して有罪になった一七歳の少女を弁護して、女性弁護士ジゼル・ハリミが刑務所送りを無効にする判決を勝ち取る。その前年には、後に「三四三人のあばずれ女」と呼ばれることになる、非合法中絶をカミングアウトして中絶合法化を求める「三四三人アピール」が雑誌に掲載された。この中には、シモーヌ・ド・ボーヴォワールやカトリーヌ・ドヌーヴ、ハリミ弁護士などの有名女性も含まれていた。
こうした世論を背景に、七四年、ジスカール・デスタン内閣の厚相シモーヌ・ヴェイユは、同僚である保守派議員から「人殺し」「ナチ」と罵声を浴びながら、涙を抑えて毅然として中絶合法化の法案を通した。「自由意思による人工妊娠中絶(IVG)」を定めたこの法律は、「ヴェイユ法」と呼ばれている。
この法律により、フランスの女性は、「子どもは私の欲する時に、私が欲するなら」と、産む産まないの選択を掌中にしたのである。
2 日本の中絶法 ―「優生保護法」と「母体保護法」
四八年に日本で成立した「優生保護法」は、中絶合法化の根拠を「質の悪い子孫を残さないようにする」という優生思想においている。他民族との混血児を避けようという人種差別的優生思想から、戦後、大陸から引揚てきた妊娠女性に中絶を施そうという意図があったとも指摘されている。
ところで、この法律では、「経済的理由」による中絶が認められていたので、この条項により、「配偶者の同意」を要件に中絶することができた。刑法では依然として堕胎罪によって原則的に中絶を一律禁止しているにもかかわらず、そんなことは意識されない程ルーズに中絶ができたため、九六年に「母体保護法」に改正されるまで、おぞましい優生思想は法律の中に生き延びたのである。
しかし、「母体保護法」でも、「本人が望み、配偶者の同意がある場合に、医師が人工妊娠中絶を行うこと」が認められているにすぎない。つまり、妊娠した女性が、自分の一存で中絶することは許されていないのである。
「配偶者の同意」を要件とすると、同意を得られない妻は「産む機械」である。また、夫でない男性の子を身ごもった不貞の妻の場合、産めば夫の嫡出子になるし、中絶するのにまさか夫に同意を求めないであろうから、「配偶者の同意」を要件にして誰の法益を保護しようというのか陳腐である。特定の男女ではなく、法律婚における「あるべき夫婦」像を守ろうとしているのかもしれない。
かように、日本の女性は、「安全な中絶を合法的にできる」という点ではフランス女性よりも先んじていたが、「中絶は女性の権利である」という法的根拠をもっていない。つまり、日本では、女性が「一人前」として法的に扱われていないことを露呈している。
3 「ピル」ー「避妊の権利」
日本で経口避妊薬(ピル)が認可されたのは九九年のことで、五〇年代に最初のピルが現れてから約半世紀、国連加盟一八五ヶ国の最後であった。
現在使われている「第三世代低容量ピル」は、八〇年代に開発されたもので、六〇年代に最初に発売された「高容量ピル」のような血栓症・乳がん・子宮頸がんなど深刻な副作用の心配はない。ところが、厚生省は、これを二〇年近く認可しなかったため、確実な避妊を求める日本の女性は、月経不順や子宮内膜症の「治療薬」として入手できた、副作用の危険が相対的に高い中・高容量ピルを服用せざるを得なかった。この日本の特殊事情が、ピルの「副作用神話」をはびこらせた。
フランスでピルが解禁されたのは六七年のことで、中絶合法化前であった。ピルは、女性が自分の意思でコントロールできるので、不意の妊娠で人生を狂わされることもなく、性関係においても「妊娠しない」男性と対等になり、結果として女性の地位を向上させたと考えられている。
ピルが浸透したフランス社会では、ごく普通の「第三世代低容量ピル」に加え、緊急避妊用の「モーニングアフターピル」(性関係をもって七二時間以内に内服すれば避妊確立九八%で、中学・高校などの保健室で無料配布)、産後の授乳中の「ミニピル」、妊娠初期の中絶に使われる「中絶ピル」などがある。そして、ピルは勝手に薬局で買うわけにいかないので、定期的に医師のチェックを受けることになり、フランスの女性の健康管理に大いに寄与しているという(乳がん・子宮がんの発生率が低く、卵巣摘出を四〇代で受けた率も格段に低い)。
フランスの事情を知ると、日本で女性にピルを与えないのは、性において女に「自己決定権」を与えず、男の支配を受容する存在に抑えこんでおくためではないかと想像する。ピルは、性における女性解放の万能薬であろう。
4 「自由」と「平等」ー『パリの女は産んでいる』
「ヴェイユ法」適用の要件はただひとつ、望まない妊娠によって女性が「苦境に陥る」ことである。何が「苦境」であるかについて、法律は定義していない。それは、妊娠した当該女性にしか判断できないことであり、中絶は「自己決定」である。
「自由意思による中絶」に加え、「ピル」の劇的普及により、フランスの女性は、妊娠と出産を完全にコントロールできるようになった。中絶合法化を勝ち取った世代は、「自由」と「独立」を求めて、出産・育児のような「女であることによる損」をなるべく軽減しようとしてきた。それから三〇年、その世代の娘たちが新米ママとその予備軍になった今日、高学歴・高収入の三〇代キャリア・ウーマンが子育てに専念するために仕事を抛り出す例も出てきたという。まさに「自由意思によるキャリア中絶」である。
先の大統領選のロワイヤル候補は、「連帯市民契約」(同性でも可)による事実婚で四人の子どもがいる。サルコジ大統領夫人は、大統領選挙で投票に行かず、「ファーストレディなんて真っ平」と広言して憚らないし、サミット日程を途中で切り上げて前夫の子の誕生日祝に馳せ参じる。これに比べ、「三〇〇日問題」で「不倫の子は許さない」と言う法相や厚労相の「子を産む機械」発言をみるにつけ、日本には根本的な「何か」が欠けていると思わざるを得ない。その「何か」は、つまるところ女性の「一人前の自由」ではなかろうか。
妊娠・出産という女性の身体に生じる事象について、どうして当該女性にコントロールできないのか。そこをネグって「両性の平等」「男女共同参画」などと言っても、空しい限りである。「自立(独立)なくして自由なし」「自由なくして平等なし」という原理は、「性」に関してこそ本質的であろう。
〔参考文献〕中島さおり著『パリの女は産んでいる』(ポプラ社) 一五〇〇円+税
「当事者の目」で書かれていて、とても面白い。是非ご購読を!
団長 松 井 繁 明
東京・新宿で、自由法曹団の創設者・指導者の一人である布施辰治の展示会が開かれている。NPO法人高麗博物館が主催し、駐日韓国大使館韓国文化院およびわが自由法曹団が後援する「布施辰治―朝鮮人民衆と共に生きた人権弁護士展」である。期間は、八月八日(水)から一〇月二一日(日)まで。
八月九日(木)の午後、JR新宿駅から徒歩十数分の会場へ、ムシ暑さのなか、会場を訪れた。開場二日目なので、まだかなりの入場者もいると予想していたのだが、そんなことはなく、入場者ばかりか受付係もいなくて、奥のスタッフ室まで入っていって自己紹介をした。小一時間見学したが、その間の見学者は私一人であった。
会場を入って左手に朝鮮半島と日本列島の地図が掲げてある。しかしその地図は南北が逆になっていて、司馬遼太郎氏のあの帝国主義的な言辞(朝鮮半島は日本列島に突き刺さった云々)を想起させるが、冷静にみると、中国の利権を争った日本とロシアの帝国主義戦争における朝鮮半島の位置取りを確かに示す地図ではある。
展示は、布施辰治の生涯を、とりわけ朝鮮人民衆の闘いとのかかわりで、多数のパネルを使って要領よくまとめている。この点で、布施のことに一般的知識しかない私は、よい案内人とはいえない。展示をみた感想を述べるにとどめよう。
朴烈および金子文子の大逆事件。金子文子の短歌には、男女の愛を信じ、帝国主義国家による死刑から無期懲役への恩赦を拒否して自死した彼女の、根源的な反抗の精神(アナーキー)の強烈さを感じさせる。金子の母親から布施にたいする書簡の哀切は限りない。
関東大震災に際しての朝鮮人虐殺について、布施の指導にもとづく弁護士らの調書が残されていて貴重である。いまも、自由法曹団員にとって、必要不可欠な仕事の分野を示している。
布施の戦後の弁護士活動はあまり評されていないが、在日朝鮮人部落のドブロク製造にたいする弾圧にも、布施は敢然として闘った。その弁論が痛快。朝鮮人が生きるために造ったドブロクを、低賃金の日本人労働者が、生きる活力を得るために飲む。これ以上の正義はあるか―。むかし、「民衆の旗、赤旗は」の替え歌「民衆の酒、焼酎は」を歌ったことのある者なら、同感であろう。
一九五三(昭和二八)年に七三歳で亡くなった布施辰治に、直接会ったことのある団員もほとんどいなくなった。しかし混迷をきわめる今の世相に、太く、強く、温かでしなやかな布施の思考や生き方は、再び求められているのではあるまいか。 この展示会を主催する高麗博物館は、二〇〇一年に開設。日本とコリアの歴史認識を共有化させ、和解と共生、平和な社会をつくることをめざしている。館長の宋富子(ソン・プジャン)さんは、一九四一年、奈良県の被差別部落に在日二世として産まれ、差別と貧困に苦しんだが、キリスト教と出会って自己の存在を肯認。それから日本とコリアの対等な共生をめざし、一人芝居などの芸術活動と組織運動を追求している。その半生を描いた『愛するとき奇跡は創られる』(三一書房)がある。
この日は残念ながら宋館長にはお会いできなかったが、やさしいおばさんや人柄のよい青年などスタッフの歓迎をうけた。彼らは、約一年間にわたって全国を駆けめぐって情報と資料を集めたという。資金も不足なので、配付資料の製本なども手作業でおこなっている。同博物館発刊の著作二点もいただいた。
この展示会は、前述の期間、正午から一七時まで開かれている。月・火および一二月二九日〜一月四日が休館で、入館料は一般四〇〇円、中高生二〇〇円。場所は、新宿区大久保一−二一−一第二韓国広場ビル七階(別掲地図参照)。電話・FAX〇三(五二七二)三五一〇。展示替えのため臨時休館があるようなので、遠方からお出の方は、念のため電話による確認をしたほうがよい。また、九月八日(土)午後二時から作家高史明氏の講演が、展示場付近の新宿西教会でおこなわれる。
朝鮮をめぐる情勢が大きく変わりつつある現在、東京やその近辺のみなさん、東京にお立ち寄りの機会のあるみなさん、この展示会に足を運んでみませんか。ゆっくり見ても、一時間で廻れます。