<<目次へ 団通信1256号(12月1日)
坂勇 一郎 | 企業年金の受給権を保護する判決 〜NTT企業年金訴訟 |
菅野 昭夫 | |
石川 元也 | |
藤木 邦顕 | |
上山 勤 | |
大山 勇一 | |
守川 幸男 | |
大崎 潤一 | |
安部 千春 | |
脇山 弘 |
東京支部 坂 勇 一 郎
東京地方裁判所は、二〇〇七年一〇月一九日、NTTグループの企業年金減額を認めない国の判断を是認する判断を下した。NTTグループは企業年金の受給者の給付減額を求めて、二〇〇五年九月一三日企業年金規約変更の承認申請を厚生労働大臣に対して行っていたが、二〇〇六年二月一〇日厚生労働大臣はこれを認めない決定を行っていた。これを不服として、NTTグループが国(厚生労働大臣)を相手取って、上記決定の取消を求めていた。この裁判に対して、受給権者五一七名が訴訟参加を行い、国の訴訟行為を援護していたものである。
今回の判決は、既に退職をした受給権者の減額に関するものである。判決は、「受給権者等については、現役の加入者と異なり、既に受給権が具体的に発生し年金が生活の基盤の一部となっていること、加入者であれば雇用の確保や給与等の水準の改善等で給付減額分の利益の回復が可能であるのに対し、受給権者の場合はそれが期待できないこと」等の見地から、受給者減額の要件は厳格に限定的に解されるべきであり、「原告NTT東日本及び原告NTT西日本は、平成一四年度以降約一〇〇〇億円前後の当期利益を継続的に計上していたことなどの事情が認められる本件においては、給付の減額がやむを得ない程の経営状況の悪化があったとは認められ」ないなどとして、NTTグループの請求を棄却した。
NTTグループの企業年金減額の動きに対して、受給者のみなさんは常に「先手」を打ってきた。NTTグループが受給者減額の動きを本格化させた二〇〇三年秋以降検討を重ね、二〇〇四年九月には、NTTグループの減額申請の差し止めを求める訴訟を東京地裁に提起した。また、今回のNTTグループの取消訴訟提起を受けて、国が答弁書を提出するよりも早く本件の問題点を指摘した参加申立書を裁判所に提出した。こうした対応が、NTTグループの受給者減額を阻止する大きな力となってきたものである。
訴訟の中では、NTTグループは、企業の自主性と労使自治を前面に押し立てて、受給者減額を求めてきた。この企業側の要求を入れるのか、それとも、受給者保護のための国の役割の重要性を是認するのかが、本件において問われた。本件判決は、「給付減額を内容とする規約の変更、とりわけ、既に具体的に発生した受給権について給付減額を実施することについては、企業の自主性、労使の合意(多数決による意思決定等)のみに委ねるのではなく、加入者等の受給権を保護するために必要な定めをおくことは、法の趣旨に沿うものであることは言をまたないところ」であると断じた。
NTTグループの明らかに行き過ぎた要求を拒絶した、極めて常識的な判断である。なお、判決後の記者会見では、現役世代との「負担の公平」についてどう考えるかという質問があった。この点は、企業年金問題を考えるにあたっては、避けて通れない論点である。この点は今後さらに議論を深めていきたいが、まずは、少なくとも判決が指摘するとおり、現役世代と退職者ではおかれている立場が明確に異なること、また、受給権の法的安定性が十分に考慮されるべきことを確認したい。
さらに今後深めるべき点としては、企業の内部者である現役労働者と企業の外部者となった退職者との間において「負担の公平」という問題の立て方自体妥当なのか。企業運営の観点からも受給者減額を厳格に解することが望ましいのではないか(安易な減額を容認することは、安易な企業運営を招き、企業の改善を妨げるのではないか。また、現役労働者に老後の不安を与えることにより現役労働者のモチベーションに負の影響を及ぼしかねないのではないか。)。企業と退職者と間の情報や交渉力の格差(及び当事者間ではその是正の方法が見いだしがたいこと)の観点からは、この問題はどう整理されるべきか、等の点があると思う。
なお、一部の報道で、減額の基準が不明確であるかの如き主張が行われている。しかし、今回の判決は減額の要件を極めて厳格に解すべきとの基準を明確にしたものである。基準が不明確との論は、今回の判決の厳格かつ明確な判断を相対化しようとするものであり、NTTグループを利するものに他ならない。私たちは、この「明確な基準」を確認していく必要がある。
いずれにせよ、NTTグループの控訴により、審理は高等裁判所に移される。引き続き取り組みを強めたい。(弁護団は、小木和男・小部正治・山内一浩・坂勇一郎・洪美絵・津田二郎。)
北陸支部(石川県) 菅 野 昭 夫
*はじめに
NLGは、世界大恐慌がもたらした失業と貧困と闘うために、労働条件の改善とニューディール政策の実現を求めるアメリカ労働者の闘いを支援するために、一九三七年に創立されました。その七〇周年を記念する総会が、ワシントンDCで、一一月一日から四日まで開催され、一〇人の団員が参加しました。私や鈴木亜英団員にとっては、一六回目のNLG総会参加となります。
*オープニング(コニャーズ議員に対する興味深い反応)
一一月一日の夜は、約四〇〇人の参加者による恒例のオープニングが開催されました。まず、トマス・ジェファソン・ロースクール教授で著明な国際法学者のマジョリー・コーン議長が開会挨拶を行いましたが、民衆とともに歩んできたNLGの七〇年の闘いの歴史をひもとき、労働運動への法的援助、マッカーシズムの弾圧、公民権運動、ヴェトナム反戦、湾岸戦争反対などを回顧するとともに、九・一一事件後、愛国者法による弾圧と闘いながら、アフガニスタン戦争、イラク戦争に反対する運動の先頭にいささかのためらいもなく取り組んできたことを、誇らしげに報告するすばらしい内容の演説でした。続いての七〇周年を記念しての基調講演者は、連邦議会のコニャーズ下院議員です。同議員は、NLGの古くからの会員であるとともに、下院では二番目に古い議員であり、昨年一一月の選挙での民主党の大勝利により下院司法委員会委員長の要職に就任しました。実は、その選挙で民主党が大勝したあと、平和運動活動家などの中で、議会に対し、ブッシュを弾劾訴追することを要求する運動が高まり、その一環として、今年の七月に、シンディ・シーハンさんら数十人が同議員や民主党党首のペロシ議員の議会事務室に座り込みを行ったところ、コニャーズ委員長らが、これを警察に通報して排除するという事件が発生しました。この事件を契機に、NLGの中にも、同議員や民主党幹部に対する強い非難がメーリングリストに飛び交っていたのです。従って、私は、NLG総会参加者の同議員に対するブーイングを予想して、オープニングに臨みました。しかし、コニャーズ議員の基調講演は、自らがアフリカ系アメリカ人として、ロースクールのときからNLGに参加し、労働弁護士として労働運動に参加し成長していった過程や、議員になってから、ウオーターゲート事件の真相解明などの歴史的事件や、ヴェトナム反戦などに取り組んできたこと、イラク戦争にも断固反対の立場を堅持し、二日前も司法委員会でブッシュ政権の国際法違反の数々について、マジョリ・コーン議長らNLGの二名の会員の証言を実現したことなど、格調の高い内容であり、総会の参加者はスタンディング・オヴェーションでこの講演をたたえ、やや予測は間違っていたかの感がありました。しかし、これに続く同議員との質疑応答では、約一〇人が質問に立ちましたが、いずれも、民主党がイラク撤退やブッシュ弾劾について不徹底な立場に立っていることについて批判し、同議員の奮起を促す、歯切れのよい発言が続き、そのたびに満場の拍手が沸き起こりました。結局、コニャーズ議員は、「一歩一歩進んで生きましょう。私は皆さんとともにあります」と決意表明をし、ようやくその場は収まりました。彼らの態度は、講演者として招いた以上は、話はきちんと傾聴し、言うべきことははっきりと言うという小気味のよいものであり、このNLGの対応は誠に興味深いものでした。
*歴史的な九条支持決議
今度の総会参加の主な目的は、この総会で、私たちの九条を護る運動に対し、NLGが、これを支援し、来年五月に開かれる「グローバル9条」国際会議に正式に代表団を送るという大会決議をしてもらうことにありました。そのために、私たちは、この五月から何度もEメールによる折衝を繰り返し、まずNLGの国際委員会の了承を経て、執行部の承認と決議案文の作成までこぎつけて、総会に臨んだのです。そして、いよいよ、一一月二日の三時から、各種決議案採択のための全体総会が開かれました。当日は、合計一〇本の決議案が提案されました。私は、当日総会会場で、ピーター・アーリンダー前議長から、「もし必要なら、提案理由を私が担当するから、あなたは日本の代表団として採択要請の発言をしてほしい」と言われ、緊張して決議案の上程を待ちました。しかし、コーン議長は、反対の少ない決議案を先に討議し、提案に反対意見がなければ、挙手で裁決するという議事進行を提案し、この方法で、九条支持決議案は第五番目に上程され、反対意見は全くなく、参加者全員が青い投票用紙をかざして挙手し、九条支持決議は満場一致で採択されたのです。決議は、NLGが、九条の持つ世界的な意義を認識し、アメリカ政府が九条改悪を日本政府に迫っていることから、九条を擁護するための日本の平和勢力の闘いを支持し、来年五月の世界会議に代表団を派遣することを表明しています。なお、その場で、ブッシュとチェイニーを弾劾することを要求する決議なども、満場一致で採択されましたが、パレスティナ問題に関する決議は、イスラエルとの平和共存を認めるか否かで意見がわかれ、侃々諤々の討論が行われました。ともあれ、NLGの総会に団が参加を始めてから、一六年目にして、初めての日本問題についての歴史的な総会決議であり、感慨深いものがありました。
*インターナショナル・レセプションと9条分科会
外国代表団を紹介するための恒例のレセプションは、一一月二日夜六時から開催され、日本代表団からは、藤木団員〈大阪支部〉が、イラク派兵違憲訴訟の取り組みを中心に挨拶しました。これに続いて、七時四五分から、日本代表団主催の9条の分科会が、他の日程が立て込んでいるにもかかわらず一七名のアメリカ人の友人の参加を得て、成功裏に開催されました。これらの報告は、別項に譲りますが、私が、「NLGの皆さんの何割くらいが、9条の存在とそれが危機にあることを御存知ですか?」と質問したのに対し、スティーヴ前NLG国際委員会委員長が、「日本代表団が毎年報告してくれているので、五割くらいは認識しているのではないか」と答えたのには、心強い思いでした。分科会では、「NLG国際委員会の中に「9条小委員会」を作る必要がある」との意見さえ出ており、9条問題の重要性がアメリカ人の参加者に浸透したことは間違いありません。
*グアンタナモ基地に関するメジャーパネル
総会では、四つのメジャーパネルの他に何十と言う分科会が開催されます。日本代表団はいくつかの会議に参加しましたが、私は、グアンタナモ基地に関するメジャーパネルに参加しました。アメリカ憲法と国際法を蹂躙して、アメリカ人を含む多数の囚人がこの基地に護送され、司法審査なしで無期限に交流され、拷問されてきました。余りもの人権侵害に、国連はその閉鎖を勧告し、コーリン・パウエル前国務長官でさえ、テレビ番組で、「グアンタナモ基地は、今日ではなく、今、即刻閉鎖されねばならない」と述べたほどです。NLGは、人身保護令状に基づき、これらの囚人を解放する闘いを、憲法的権利センター(CCR)など他の団体と取り組み、約八〇〇人近い囚人のうち半数以上を釈放または本国に送還させると言う大きな成果を挙げてきました。このメジャーパネルは、約一五〇人の参加者により、NLGなどが、アメリカ憲法を護ろうとよびかけて、一二〇もの企業法務事務所の約五〇〇人のプロボノ弁護士を組織して闘った法廷闘争を振り返り、勝ち取られた最高裁判例にも拘わらず、ブッシュ政権と議会が二〇〇六年に新法(Military Commissions Act)を制定して抵抗していることをどのように打破するかを、熱心に討議する内容であり、その献身的姿勢に脱帽する思いでした。
*むすび
紙数がないため、詳細を書けないのは残念ですが、この七〇周年の総会は、ナチスにも劣らない凶暴なブッシュ政権に対し、想像を絶する困難さを克服して闘い続けるNLGの不屈の精神と民衆の運動に対する献身さを、改めて、私たちに教えてくれるものでした。その意味で、団が今後も交流を継続していく意義を再確認してきました。
大阪支部 石 川 元 也
一一月一日から三日まで、ワシントンで開かれたNLGの記念総会に、菅野昭夫さん、鈴木亜英さん、笹本潤さん、井上洋子さんなど一〇人の団員の一人として参加してきた。これらの方からの報告があろうかと思われるが、私も感想だけ申し述べておきたい。
私のNLG総会への出席は、一九九五年ポートランド総会から一二年ぶり、二回目である。ワシントンの国会議事堂近くの大衆的ホテルの三室ほどを借り切って、多くの分科会や総会が目白押しに開かれている。第一印象は、若い女性ロイヤーが圧倒的だということ、一二年前の総会と比べても。
今次総会参加の目玉は、日本国憲法九条を守る国際的活動を広げることにあった。総会では、「日本国憲法改悪の動きを懸念し、憲法九条を守る日本の運動に連帯する決議」が、満場一致で採択されたこと、この決議には、二〇〇八年五月東京で開かれる憲法九条世界会議にギルドとして参加し、代表を送るということも含まれている。この総会決議は、昨年の国際委員会決議に続くもの(団通信一〇一九号、〇六・一一・二一笹本団員の寄稿がある)。そして、わが団員が呼びかけた「憲法9条問題分科会」では予期以上の参加者をえて、九条の国際的意義を確認し、アメリカでの具体的な連帯・支援の方法についても、たとえば、アメリカ政府が日本政府に対し改憲圧力をかけるな、アメリカの世論に訴えるため有力紙などへの寄稿などの意見もだされた。これらの成果は、菅野さん、鈴木さんらの一〇数年連続して総会に出席してきたことのうえに、元議長ピーター・アーリンダーさんらとの綿密な連携によるものだ。
また、わが団員たちは、市民の平和運動家たち、廣島・長崎委員会の人たちとも憲法九条を守る国際的な意義を確認し、その具体的な活動についても意見交換をした。ここでも、若い笹本団員が問題提起をし、菅野さんが質疑応答を見事にこなされた。
総会の決議やこうした交流は、しんぶん赤旗誌上に大きく報道されたほか、時事通信を通じて報道され、東京のJR山手線の車内TVには、笹本団員の顔写真も映っていたというのである。
一二年前の総会で、私が自由法曹団を代表して挨拶したとき、その途中で二回スタンデイングがあった、一度はわが団は全弁護士の一割を組織している、と言ったとき、二度目は憲法九条の戦争放棄の条項とその危機を訴えたとき、九条を初めて聞くというのが圧倒的だったのである。それが、今や二年連続して連帯の決議をしているのである。
ところで、わが団は団として、二〇〇八年五月の「憲法9条世界会議」に参加すると決めているだろうか、また各支部としてどうだろうか、団員の関わっている9条の会でどうだろうか。何よりも、団員一人ひとりが賛同者になっているだろうか。世界に向かって訴えて、わが足下はいかに、思う次第である。
今回の参加者は、ほかに、庄司捷彦、宮坂浩、上山勤、藤木邦顕さん、そして、この一〇月、弁護士登録をして入団したばかりの大久保佐和子さんである。皆さんのご奮闘に敬意を表して。
大阪支部 藤 木 邦 顕
二〇〇〇年に初めてNLG総会に参加して以来、本当に久しぶりのNLG総会参加となりましたが、情勢の進展と日本の法律家団体の運動にも通じる高齢化の一面を感じました。
前回のNLG総会は、ボストンで晩秋から初冬の装いでしたが、ワシントンDCでも一一月に入って急速に寒くなり、三日には日本の一二月かと思うような寒風が吹いていました。しかし、総会の会場、とくに下院司法委員長をスピーカーに迎えての講演は熱気のあふれるもので、この点では団の全国総会をしのぐものを感じます。閣僚級の大物議員に対してもブッシュ、チェイニー弾劾決議を挙げるように迫る会員たちの論議は本当に白熱したものでした。もちろんNLGの仲間であるという連帯感もあるのでしょうが、組合執行部へのつきあげという感じで、運動を真剣に論議するとはこのようなものかと思います。もっとも、NLG会員も多様性があり、若手急進派もいて運動方針の激突もあるということですので、単純にお手本にするわけにはいきません。全体会の他、私はイラク戦争問題関係と戦争と性被害の分科会にでましたが、戦争と性被害の分科会では、国連PKOといえども世界各地で売春や現地職員に対するセクハラ問題を起こしていること、フィリピンで沖縄から来た米兵が性犯罪を起こしたり、エイズを持ち込んでいること、性犯罪や売春が軍隊のサブカルチュアーと密接に関連していること、イラクの米軍をはじめとして米軍内の女性兵士も性被害を受けており、被害に遭った兵士の相談やケアーの団体があることなどが論議されていました。外に向かっては暴力と破壊、内に向かっては絶対服従の軍隊組織は、そもそもが軍隊組織の内外を問わず、女性に危害を加える暴力性を持っています。広島の米兵による女性暴行事件や北海道の航空自衛隊セクハラ事件など日本の事件もその一環であることを痛感しました。
一方、全体会の運営者や分科会の報告者、司会者をみていると一九七〇年代の反戦運動の経験者らしき人がかなり多いと言う印象を受けました。アメリカではベトナム反戦運動、日本では学園紛争であった時代の若者がそのまま運動を続けているという感じで、ここでも後継者問題が起きているようです。アーサー・キノイ教授が亡くなられたことは時の流れの然らしむところですが、知日派の人たちも一〇年前から顔ぶれがあまり変わっていません。総会には、もちろん若手弁護士も参加していて、私がインターナショナルレセプションで挨拶した後に話しかけてきた弁護士も今年から弁護士になったばかりだと言っていましたので、将来を担う人材もいるようですが、もっと若手が活躍する場をつくっていいのではないかと感じました。最後に菅野先生や鈴木先生には毎回お世話になり、本当にありがとうございました。そのうち世代交代を担えるように努力いたします。
大阪支部 上 山 勤
1、ご承知のようにNLGは、日本の九条ャンペーンを支持する決議をあげた。NLGは今年結成70周年ということで参加者には「ギルド・ノート」と標題をつけたパンフが配られた。冒頭には現在の代表マージョリ・コーンさんの「ギルドはFBIのスパイの中生き延びた」という誇らしげな巻頭言がのっている。歴史を振り返り、反共法に基づく破壊活動団体の指定を受け一時は会員を三百名にまで減らしたNLGが一貫して民衆の側に立って権力の不正義と戦ってきたことを述べてある。その後には、現在六千名の会員を擁するNLGのさまざまな活動が紹介してある。
2、九条キャンペーンを支持する決議の他に多くの決議がなされたが、Cuban Fiveと呼ばれる政治弾圧とも言える不当な裁判に対する五人のキューバ人の釈放もしくは裁判のやり直しを求める決議が印象に残ったので報告したい。何故この決議が印象に残ったかというと、するどく米国の国家・外交戦略と対峙するテーマだったからだ。それはユニラテラリズムの戦略、「テロとの戦い」という常套句による国民コントロールと真正面から対峙する内容をもっている。
3、一九五九年以降、米国は一貫してカストロのキューバを敵視し、経済封鎖とともにさまざまなテロ活動を仕掛けてきた。ケネディの時代のマングース作戦もそうだし、カストロ暗殺計画もそうである。それ以外、例えば「オルランド・ボスチ」なる人物は米国国内を含む各地で30件以上のテロ活動を行っていた人物で、FBIと米国司法省が危険なテロリストとレッテルを貼っている人物であるが、一九七六年、仲間の「ポサーダ」らとともにキューバ航空機の爆破テロを行い、73名が死亡する事件まで引き起こしている。FBIは彼を逮捕起訴したが、一九八九年にブッシュ大統領の特赦によって釈放されている(息子のJebフロリダ州知事の要請によるとされる)。ポサーダはベネズエラの刑務所で服役していたが脱獄し、エルサルバドルに逃げてイロパンゴ空軍基地で訓練を受け、米国のニカラグア攻撃の準備した経歴の人物である。一九九二年には、キューバのスペイン系ホテルが機関銃の銃撃を受ける事件があったが、マイアミを拠点とするグループによる犯行声明があった。一九九七年には同じくキューバで爆破事件がありイタリア人旅行者が死亡、マイアミまで追跡調査がなされ犯行グループはポサーダらエルサルバドルのグループでマイアミで資金調達がなされていた。このような事態を受けて、キューバはテロの被害を抑え、犯行グループを補足するため、調査員をマイアミのテログループに潜入させた。その結果前記のポサーダがカストロ暗殺計画を実行に移す前に、パナマで逮捕されるという成果も挙げたのだがパナマ政府は彼らを釈放し、米国のマイアミに亡命が許されてそこで暮している。キューバ側はマイアミで集められたテロリストらの資料(ビデオテープと数千ページに及ぶ報告書)をキューバに招いたFBIの高官に手渡し、テロリストの逮捕を求めた。ところが・・・FBIはテロリストを逮捕するのではなく、このキューバ調査員五名を逮捕したのである。そしてマイアミで裁判にかけた。他の裁判所への移送の申立も認められず、三人が終身刑という信じられない懲罰的な刑を宣告された事件がCuban Five といわれる事件である。家族の面会も認められず、七回にわたってビザの申請が却下された家族もいる。
4、この事件は、テロリストをかくまう国はテロ国家だという米国の言い方によれば米国こそがテロ国家であることを例証する事件であり、そのことをもしも他国から指摘されれば、米国は単独行動主義の国なのだ=米国がテロだという場合だけがテロなのだ、というわがままな論理をむき出しにしてみせる物である。そして、NLGはこの不正義に正面から対峙し、米国こそがテロを組織し、ベネズエラなどの犯人引渡し要請を拒んでポサーダらのテロリストをかくまっていること、キューバがテロに抗議していることを指摘し、裁判の不正義を指摘し、裁判のやり直しを求めて闘っているのである。
東京支部 大 山 勇 一
二〇〇七年一〇月より、自由法曹団事務局次長に就任いたしました大山勇一です。昨年末には、次長就任を心に決めており、総会でご承認いただき、たいへん嬉しく思っております。今後は、労働、将来、国際の各委員会を担当させていただきます。
これまで私は、修習生時代から慣れ親しんできた青年法律家協会の活動に参加させていただきました。憲法委員会で憲法パンフを作ったり、修習生委員会で合格者向けプレ研修の宣伝を行ったりしてきました。わたしの所属する城北法律事務所は、プレ研修をはじめとする修習生・ロースクール生支援活動に力を注いでおります。そのこともあって将来問題委員会を担当することになりました。
また、個別の事件では労働事件が多いのですが、最近では、首都圏青年ユニオン弁護団にも加入させていただくことになり、非正規労働者の労働運動にも関わるようになりました。労働委員会を担当することになったのもこれがきっかけです。
また、弁護士1年目に靖国神社公式参拝違憲訴訟弁護団に加わったこともあり、原告の住む韓国へ何度も訪問してきました。今年は4度も韓国を訪問しています。このこととはあまり関係ないかもしれませんが、国際委員会の担当になりました。
元来は、一人で、あるいは有志を募って活動するのが好きなタイプなのですが、全国の団の諸先輩のお力を借りて、さまざまな人権課題について大きなうねりを作るのに微力を尽くしたいと考えております。また、さまざまな集会やパフォーマンスを、映像にしてインターネット配信することにも興味を持っております。
次長としては最低二年間お役を務めることになります。今後ともよろしくお願いします。
千葉支部 守 川 幸 男
団本部から要請もあり、柴田五郎弁護士の感想文に続けたい。
「秋芳洞」は「しゅうほうどう」と言われることが多いが、本当は「あきよしどう」と読む。一九五〇年代、秋吉台を米軍の演習場にする動きがあり、地元住民、県、学者などが阻止した歴史を持つ。
以下は金子みすずについてである。
一 きっかけ
金子みすずについては、数年前から新聞(たぶん赤旗など)で知って興味を持っていた。その後、日本野鳥の会の機関誌「野鳥」の本年七月号で、金子みすずについて特集があった。金子みすず記念館の館長矢崎節夫氏の解説があり、強く惹かれた。さらに、朝日新聞のBe一〇月一三日号の「愛の旅人」欄でも取り上げられた。
記念館は団総会の開かれる山口県にある。一泊旅行に組み込んでほしいと思い、「コースの近くを通るならぜひ」と現地に希望を出した。あとで知ったのだが、団通信の予告記事で「『おきまり』の観光コース」と謙遜していた内山新吾団員が、記念館を組み込むかどうか迷っていたが、私の一言があと押ししたらしい。
二 ミニコンサートと記念館
一日目の夜には、みすずの詩五一二編のうち約一〇〇編の詩に童謡風のメロディーをつけ、ギターで歌うシンガーソングライターの「もりいさむ」さんと伴奏者の美しい女性によるミニコンサートまでサービスしてもらえて一同感激した。参加者一三名ではぜいたくというか、もったいないと思った。いつも買い物をしない私としては珍しく、翌日の記念館やその後を含めて、もりさんの二五曲入りCD2枚、「おしん」で有名になった小林綾子さんの朗読CD2枚、みすずの詩集一冊(一〇〇編入り)その他を買った。
三 みすずの原点
みすずの詩の心は、鯨漁やいわし漁のさかんな漁師町である山口県長門市仙崎で育まれた。生き物や自然に対するやさしいまなざし、「私」でなく、まず「あなた」のことを思いやる気持ち、弱い人、被害者の気持ちへの共感などが特徴だ。この詩に触れた人をやさしい気持ちにさせる魅力がある。
柴田団員が紹介したが、有名な詩の一つに「大漁」がある。大漁を喜ぶ人々と対比して悲しむいわしたちを思いやっている。なかなか気づかない視点でショックを受ける。同じような詩に「雀のかあさん」があるが、みすずの原点は「鯨法会(くじらほうえ)」だ。漁師達が鯨墓まで建立している。
これも柴田団員の紹介した「みんなちがってみんないい」の「私と小鳥と鈴と」や、「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」の「星とたんぽぽ」などが有名だが、私は、記念館の近くの小学校の教室の壁面に書き込まれていたいくつかの詩のうち、「積もった雪」も気に入っている。
上の雪
さむかろな
つめたい月がさしていて
下の雪
重かろな
何百人ものせていて
中の雪
さみしかろな
空も地面(じべた)もみえないで
記念館には、みすず風の小学生の詩もたくさん飾られている。
四 少し考えたこと
今の世の中、他人のことは考慮の外にある人々、配慮のない言動の人々が増えていてギスギスしている。私はこれらに人一倍敏感で、しかもおせっかいなので、車内マナーの悪さなどでしょっちゅう不快な思いをしていて、トラブルもある。でも自分自身も巻き込まれていら立っていることに気づいた。依頼者との間でも反省することはある。
団らしいたたかいの現場への旅行もとてもよいが、こんな旅行もやはり団らしいのではないだろうか。感謝。
五 いのちつながって
最後に紹介する詩がある。
いのちつながって
なんにも食べずにおさかなは
卵を守って巣の近く
せっせと空気を送ってる
赤ちゃん生まれたそのときは
力が尽きていのち尽き
ほかのさかなのえさとなる
大きな屋久杉コケむして
百年千年生きてきて
虫や小鳥を育んで
ひっそり枯れて倒れても
小さな芽が出て木になるの
いのちつないでつながって
屋久杉が出てくるのでみすずの詩ではないと気づくと思うが、その後一ヶ月足らずの間に私がはじめて作った多くの詩の一つだ。ほかに、自然やそのふしぎ、社会的なメッセージを込めたものもある。
東京支部 大 崎 潤 一
率直に言って団は犯罪被害者の権利について冷淡ではないかと感じている。しかし団こそが犯罪被害者の権利に取り組むべきではないだろうか。
私がこのように考えるようになったきっかけは昨年の団総会二日目の全体会にあった発言だった。横須賀米兵強盗殺人事件の原告である山崎正則氏は全体会で「私はこの前警察に呼ばれたんです。そのときに横須賀空母の問題でもめていたもので、米兵を犯人にしたくないという感じがしたんです。私がお昼ごろから翌朝の三時ごろまで犯人扱いにされ、指紋とか写真を撮られ、運動靴まで持っていかれました」(団報一七八号七四ページ)と発言された。私はこれを聞いて犯罪被害者の権利を侵害しているのは警察、検察や国家ではないかと感じた。私にとっては忘れられない総会の場面であった。
警察、検察と闘って犯罪被害者の権利を擁護するとなれば、これは団をおいてほかにはない。団こそ犯罪被害者の権利の取り組みの先頭に立たなければならないのではと感じる。
犯罪被害者の権利はさまざまな場面で警察、検察や国家機関から侵害されている。
そもそも犯罪と認知されないことも珍しくない。今でこそ警察はヤミ金に取り組むが、まともに対応しない時期が長かった(今も充分とは思わないが)。犯罪被害者と認知されなければ犯罪被害者の権利は問題にされようがない。
捜査における二次被害も甚だしい。山崎氏の発言はその例である。しかし二次被害が証拠を伴って明らかになることはめったにない。捜査の可視化は被害者の取り調べにも必要ではないか。そして被害者が同意するなら被害者取り調べを録画することに警察・検察が拒否する理由はない。
被疑者らの取り調べの録画も被害者の権利から理由づけることができるだろう。事件の真実を知りたいと被害者は切に願っている。しかし法廷の開かれる時間は取り調べの時間よりも少ない。それなら取り調べを録画し、それを被害者が視聴することが考えられてもいいのではないか。それは警察、検察が適正な捜査をしているかを被害者がチェックすることを可能にする。もっともチェックといっても被疑者らの人権保障の観点からのチェックではなく、たとえば被疑者らに的確な尋問を行い言い逃れを許していないかなどのチェックとなろう。しかしそうした捜査技術の向上は無理な取り調べをなくし、被疑者らの人権に資することもないではないであろう。
犯罪被害者の権利という場合、被告人対被害者という図式でとらえられることがある。しかし実際にはこの図式にならないことが多い。犯人が分からない場合などである。けれども、そのような場合に犯罪被害者が放置されていいはずはない。犯罪被害者としては適正な捜査がなされたのかを知りたいと思うだろう。捜査のチェック、そのための情報開示なども考えられるのではないか。
そしてこうした被害者の権利を実行あらしめる方法も重要である。たとえば被害者の権利を侵害した警察、検察に刑事罰を科すと言うことは考えられないだろうか。被告人らの権利は手厚く保護されているという主張がある。被告人らの権利を警察、検察などが侵害した場合、特別公務員暴行陵虐罪などに問われることがある。犯罪被害者の権利を被告人らと同様に手厚く保護せよと言うのであれば、被告人らの権利を侵害した警察らが刑事責任を問われるように、被害者の権利を侵害した警察らも刑事責任を問われる。このことを被害者の側から要求すべきではないか。
これらの措置を本気で考えると現在の法体系と矛盾したり法技術的に困難なものも少なくない。しかし、重要なのは警察、検察から犯罪被害者の権利を擁護する、警察、検察と決定的に対立してでも犯罪被害者の権利を主張することである。そう考えたとき、これは、まさしく団の出番ではないであろうか。
昨年の団総会から一年あまりを過ぎてようやくここまで考えがまとまりつつある。私自身まだまだ考えている途中である。団の警察問題の提言、弁護士会の取り組み、法律やその実施などの分析は別稿に譲りたい。みなさまのご批判を頂ければ幸いである。
福岡支部 安 部 千 春
弱小辺境事務所とは
何時の頃か、年に一回弱小辺境事務所交流会が行われるようになった。弱小辺境事務所とは、北九州第一法律事務所と福岡第一法律事務所を除いた自由法曹団に入団してる福岡県の法律事務所を皮肉っぽく自嘲して付けた名だ。
我が黒崎合同法律事務所は、もうそのころには弁護士四名がいて、弱小ではない。黒崎は一〇〇万都市北九州市の副都心であり、辺境でもない。従って、弱小辺境事務所には入らないと豪語していた。ところが、今では両第一事務所より弱小辺境事務所の方が圧倒的に増した。県下の地方都市に進出し、北九州だけでも黒崎合同、小倉東総合、小倉南、門司、若戸、秋月、住田、中尾、塘岡、折尾総合など二〇名を超える。私はいつも強い者の味方だ。いつの間にか参加するようになった。
ドーム観戦
交流会の行事は一泊で初日にはテニスや観光等が企画され、好きな行事に参加する。翌日は学習で、今回は千鳥橋病院の医師が“メタボ”と医師不足の実情を話すことになっていた。黒崎合同からは弁護士と事務局併せて九名が参加した。これだけの大勢が参加したのは、もちろん初めてだ。何より初日の企画がドーム観戦なので一度見てみたいと皆が思ったからだ。
麦わら帽
私が野球をみるのは三〇年ぶりだ。子どもたちがまだ小さかった頃、平和台球場と小倉球場に行ったことがあった。今回ドーム観戦は九月八日。まだ暑い。私は三〇年前の平和台球場しか経験がなかった。私は麦わら帽をかぶって行った。ドームに着いて
「あ、ドームだ」
と帽子がいらないことに気付いた。
事務所のみんなは「よく似合いますよ」とよいしょしてくれた。
野球本番
入場をするときに野球のグッズを配られ、テレビと同じようにソフトバンクを応援する。笛や太鼓でうるさい。既にビールで出来上がった中村博則弁護士がハイテンションで何かしゃべっている。
四番の松中が打席に立つと、誰かが
「そもそもソフトバンクが優勝できないのは4番の松中が4番 の仕事をしていなからだ」
「魁皇と同じでいざという時には役に立たない」
「ノミの心臓だ」
「今度もどうせ三振よ」
と悪口を言っている。
その声が聞こえたのか、松中は久しぶりにヒットを打った。
そして久しぶりにソフトバンクが勝った。勝ったことは覚えているが、何対何で勝ったのか、野球を見た9人に聞くが今となっては誰も覚えていない。
とにかく久しぶりにソフトバンク勝ったので、その日の宴席は盛り上がった。
宴席
私は宴席のとき、今日こそ「目立たぬように」「はしゃがぬように」しようと思う。けれども酒が入ると、オレが盛り上げないと、と思って立ち上がる。家に帰って酔いがさめると「あーあ」何て馬鹿な事をしたのかと後悔ばかりだ。
私が福岡県弁護士会北九州部会長のときの忘年会、私は盛り上がりが足りないと思った。そこで立ち上がって歌い出した。
学生時代に宴会で覚えた“おならの歌”だ。
すると突然多加喜弁護士が立ち上がった。
「安部、やめんか」
「オレは気分を害した。帰る」
と怒って帰ってしまった。
皆はあっけにとられて見送った。
「多加喜先生はそろそろ帰りたかったんよ」
「多加喜先生は軍歌が嫌いだから、安部ちゃんが軍歌を歌うと誤解したんよ」
「いいから歌え」
と皆が励ましてくれたが、私にはもうその気力が残っていなかった。座が白けた。すると、三代先生が立ち上がって
「安部ちゃんオレが歌う」
と無法松を歌い出した。
私はさすがだと感心した。
弱小辺境事務所の宴席は終わりになった。私はまだ終わりたくはなかった。私の十八番の『大利根無情』か『刃傷松の廊下』を歌おうと立ち上がった。私が「そろそろお開きです」という司会を押しのけてマイクを取ると、私に期待してやんやの喝采を浴びた。
私は「それでは弱小辺境事務所と皆さんの益々の発展を祈念して万歳三唱を致します。ご起立をお願いします」と言って万歳三唱をした。
シーホークのホテルの部屋に帰って酔いがさめると「あーあ」またやってしまった。けど、歌わなかっただけ、ヨシとしようと眠った。
ドーム観戦に行く朝の夫婦の会話
「ちょっと、この麦わら帽借りていくよ」
「ダメ。その帽子は気に入っているから、置いているの。あな たは忘れるでしょう」
「気を付けるから、大丈夫だよ」
「あなたの大丈夫は大丈夫じゃないんだから。絶対に忘れるから貸せません」
「そこを何とか。絶対に持って帰ってくるから」
と無理矢理持ち出した麦わら帽は、その日泊まったシーホークに忘れた。人が生きるということは恥と過ちを繰り返すことなのです。
山形支部 脇 山 弘
シェイクスピアの『リチャード二世』は、王権簒奪の史劇である。ヘリホード公ヘンリー・ボリングブルックは従兄のリチャード二世に叛旗を翻し、彼を廃位に追い込みヘンリー四世として王位につく。リチャード二世はポンフレット城に幽閉中に暗殺される。
ボリングブルックの叛旗を知ったリチャード二世はアイルランド遠征から引き返し、ウェールズの海岸でこう語る。
荒海の水を傾けつくしても、神の塗りたもうた聖油を
王たるこの身から洗い落とすことはできぬ、
まして世のつねの人間どもの吐くことばごときで
神の選びたもうたその代理人を廃位させることはできぬ。
(引用は小田島訳『リチャード二世』以下同じ)
神の塗りたもうた聖油云々は、聖別式において二人の天使が天国から持ってきた聖油をキリスト教の王にするために体に塗り、これによって国王は神聖不可侵の人格となる王権神授説をいう。だが、ボリングブルックとの戦いに敗れたリチャードはつぶやく。
王はどうすればいい?服従せねばならぬのか?
王は服従しよう。退位せねばならぬのか?
王の廃位は一三二七年に先例がある。エドワード二世の数々の失政、臣下への過度の寵愛が貴族や王妃イザベルを反逆へと駆り立て、王妃はフランスで恋人に再会、軍資金を調達、軍団を編成してイングランドに上陸、エドワード二世を拘禁し廃位に追い込み数ヶ月後にバークレー城内の牢獄で暗殺した。
※
リチャード二世に追放されフランスに滞在していたボリングブルックが叛旗を翻したときに、王権簒奪の意思があったのだろうか。
ボリングブルックの指示を受けたノーサンバランド伯は、イングランド上陸の目的をリチャード二世にこう伝えている。
このたびのご帰国は正統の王族として
もろもろの権利をただちに回復していただきたく、
ひざまづいてお願いすることのみを目的とし、
したがってそれさえ陛下がお許しくださるならば
陛下への忠勤一筋に捧げるでありましょう。
王族の権利回復とは何か。ボリングブルックの父ランカスター公ゴーントは息子の国外追放に絶望し憤死する。王はイングランド最大のランカスター公爵領をボリングブルックが相続するのを勅許状で認めていたにも拘わらずこれを剥奪した。その相続権の回復と追放宣告の撤回である。王は「その正当な要求はことごとくこれを容認し、なんら異議をさしはさむことなく実施されよう」と答える。
ボリングブルックの相続回復などが認められたのに、王権簒奪に至ったのは、どういう子細があったのか。
『ヘンリー四世第一部』で、ウスター伯爵は王権を簒奪してヘンリー四世となったボリングブルックにこう語りかけている。
いわゆるドンカスターの誓いです。そこであなたは、
国家にたいしてはなんの野心も抱いてはおらぬ、ただ、
新たに手に入った、ランカスター家の公領である
ゴーントの相続権を主張するのみだ、とおっしゃった。
その誓約にたいしてわれわれは助力を誓ったのです。
だが間もなく、幸運があなたの頭上に雨と降り注ぎ、
偉大な栄誉があなたの一身に洪水のように流れ込んだ、
このように有利な条件がかさなりあって押し寄せると、
あなたはその機をのがさず、周囲のものの懇請により
やむなく国王の大権を手にするという形をとられた、
つまりドンカスターの誓約などお忘れになったのです。
幸運などの有利な条件とは、王がその暴政によって高位聖職者、貴族、大商人や農民、職人らの支持を失っていたことである。
王の最大の暴挙は、ボリングブルックの相続権の剥奪であった。封建制度は土地を媒介とした主従の契約関係で支えられている。リチャードはその根幹たる貴族の土地を不法にも没収してしまったから、憤激していた多くの貴族が兵を率いてボリングブルック支援にまわった。マキアヴェッリは『君主論』に「君主はなによりも他人の財産に手を出さないようにすべきである。それというのも人間は財産の喪失よりも、父親の死の方をより速やかに忘れるものだからである」と書いた。
第二の暴挙は、王が人頭税を三倍に増額したうえ、議会の同意を経ないで恣意的に強制融資(forced loan)を濫発したり、徴収人が強制上納の金額を自由に書き込める白地勅証(blank charter)を発行し、これによって膨大な浪費の穴埋をしていたことである。
ロス卿 平民たちには重税を課し身ぐるみ剥ぎとるので、
その心を失い、貴族たちには大昔の紛争をもち出して
罰金をとり立てるので、その心を失っておられる。
ウイロビー卿 しかも日ごとに新しいとり立てかたが工夫される、
調達許可書だの、強制献納制度だの、といってな、
だがいったい、その金はどう使われている?
ロス卿 王は、不法なまでに重税を課したにもかかわらず、
アイルランド征討の戦費を調達できないでいる、
そのため追放された公爵の財産まで強奪するのだ。
ハーバート・ノーマンは「イギリス封建制に関する若干の問題」(『クリオの顔ー歴史随想集』所収)に次のように書いた。一三八一年の農民一揆などの大叛乱は注目すべき社会運動であった。それは民衆の経済的、政治的不満をすこぶる明瞭にあらわしている。それはまた農民の現実の状態に対する洞察を可能ならしめる。この反乱の指導者たちの要求は建設的なものであった。そしてその後の歴史は彼等が進歩的でありかつ実際的であったことを示している、しかしながら叛乱そのものは成功しなかった。封建制度は崩壊しつつあったが、しかし、ながいあいだ存在をつづけた。その一掃はピューリタン革命でチャールズ一世を暴君、反逆者、虐殺者、国賊の名の下に死刑を宣告し一六四九年一月三〇日に処刑した後になる。
※
ボリングブルックが「神のみ名において、王座につくとしよう」と宣告する。カーライル司教がこれを諫める。
臣下たるものがどうして主君に宣告をくだしえましょう?
神の選びたもうたその副官、執事、代理人として
聖油を塗られ、王冠をいただき、長年玉座にあるおかたが
この場においでにならぬのに、卑しい臣下の宣言によって
裁かれていいものでしょうか。ああ、禁じたまえ、神よ。
ボリングブルックは命じる。
リチャードを呼び出していただきたい。衆人の前で王位を譲らせれば私としても疑いを被らずにことを進められよう。
王 ここに呼び出されたのはどんなつとめをはたすためだな?
ヨーク公 ご自身で申し出られたつとめをです。さあ、
王位、王冠をお譲りなさいますよう、ここにおられる
ヘンリー・ボリングブルックへ。
ノーサンバラント伯 あなたご自身とあなたに従う家来たちが、
わが国の秩序と福祉に反して犯してきた
嘆かわしい罪状とその弾劾文をお読みいただきたい。
それを告白されることによって、人々の心に、
あなたの退位が当然であると納得せしめるように。
ボリングブルックは高位聖職者や貴族らの支持だけでなく、民衆の支持を確実にして王座に就こうと先駆的な試みしている。
ヨーク公はリチャードをロンドン塔に護送した情景をこう語る。
公爵大ボリングブルックは馬にまたがり、ゆったりと、
だが堂々たる歩調ですすんでいた。
〈ボリングブルック、万歳〉の叫びが渦巻くなかをだ。
まるで窓という窓が口をひらいて叫ぶかのようであった、
ありとあらゆる窓口から、老いも若きも身を乗り出し、
むさぼるような目つきで、一目でもいい、彼の顔を
見ようとした、そしてまた壁にはことごとく絵の描かれた
垂れ幕が張られそれが一斉に、〈キリストのお守りあれ、
ようこそ、ボリングブルック〉とわめいていた。
公爵夫人 リチャードはどうなされました?
ヨーク公 人々はリチャードに眉をしかめてみせたのだ。
〈神よ、彼を守りたまえ〉と叫ぶものは一人もおらず、
それどころか、彼の聖なる頭上にごみが投げつけられ、
彼は、それを寛容な悲しみをもって払い落としていた。
※
イギリスの普通法は中世の法学者Bractonの言葉といわれるものによれば「王は神と法の下に立つ」と規定する。したがって統治は理性に合致するものでなければならないから、普通法裁判所においては基本的に非合理で不可能なことはなんら強要されることがないともいわれていた(クリオの窓)。だが、リチャード二世の残酷なまでの抑圧は続いた。ボリングブルックは王の虐政を打ち破るには王権を簒奪するほかにないと決意した。その決意は、皮肉にものちにヨーク大司教スクループがヘンリー四世に対し叛旗をひるがした時の宣言にひきつがれた。『ヘンリー四世第二部』から引用しよう。
私はこのたびの武装蜂起がもたらす悪と、現にいま
われわれが忍んでいる悪とを、公平に秤にかけてみた、
その結果、われわれが起こす弊害より現在の悪弊のほうが
はるかに重いことがわかった。そこでわれわれは、
時代の動きを見きわめた以上、平穏な生活を捨てて
時勢の激流のなかに飛びこまざるをえなかったのだ。
アンリ・ルゴエレルはこう分析する。聖別を受けたエドワード二世とリチャード二世が偽装の裁判さえなしに暗殺された。君主には不可侵の性格が与えられている、ということを考えれば、イングランドでは神授権をもつ君主制は消え失せたのである。リチャード二世の死は一種の革命であった。(『プランタジネット家の人々』)
王権神授説に依拠する圧制に対峙する闘争だから、立ちあがった人々には、最低限の人権は守るという抵抗権の思想、その原型は育まれていただろう。武装した王権に抵抗するには血で血を洗う闘争は必至である。これを否定するのは抵抗権の否定にほかならない。
※
G・ルフェーヴルがナチス・ドイツのフランス侵攻直前にフランス国民に訴えた名著『フランス革命序論』を引用しよう。
暴力に訴えることが原理的に唯一の解決方法であったかどうか、歴史家はその点について何も知ることはできない。追いつめられた第三身分は、抵抗か降伏かの二者択一をせまられたのであり、しかも、究極において第三身分が妥協などしないという決意を固めていたのであれば、事実上、蜂起は不可避になったのである。蜂起した人々は危険を熟知していた。にもかかわらず彼等があえてみずからの生命を危険にさらし、永遠の屈辱よりは死を選ぼうと決意したとき、その決意を支えていたものは何かといえば、結局のところ、それは彼らの豪胆と自己犠牲の精神でなくてなんだろう。他の人々は、戦いに立ちあがるべき同じ理由をもっておりながらもあきらめてしまった。革命的行動とは精神の次元の問題である。
革命的な事態というものは混然たる複合体なのであり、これを善悪などの規準によって腑分けすることはできない。道学者は、革命に際しての英雄的行動と残酷な行為とを区別し、前者を讃え後者を断罪する。だがそういう道学者の説は、事実というものを何ら説明するものではない。
井上清は「日本人のフランス革命観」(桑原武夫編『フランス革命の研究』所収)でこう説いた。自由民権運動が敗北してから明治政府のもとに養われた学者たちのフランス革命研究は革命の根本精神を忘れ、いたずらに断頭台上のルイ十六世やマリ=アントワネットに涙をそそがせた。そして、フランス革命を革命の頂点において把握することがさまたげられてきた。わが国の不幸な伝統は、清算されているとはいいがたい。大革命が達成した成果よりも、それが残した古い要素をとりあげて、またモンターニュ派の革命的独裁は敗退してやがてナポレオンの独裁が出現したことをもって、フランス革命の偉大さの強調に反対する見方も、今なお少なくない。われわれ日本人はまだモンターニュ派を乗り越えていないのに。
血で血を洗う権力闘争を崇められないと一律にいうのは、客観的事実の知識を求めようともせず、道学者の話に涙をながす類だろう。