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内山 新吾 岩国は負けない
田中 隆 三月拡大常幹は沖縄で…暴行事件に抗議し、米軍基地撤去を求めて
菊池 紘 緊急命令の連発で八郵便局に組合事務室を貸与(外伝(*注1))
増田 尚 司法改革での「失敗」を繰り返さないために
〜鳩山法相三〇〇〇名見直し発言に思う
増本 一彦 斎藤一好先生を悼む



岩国は負けない

山口県支部 内 山 新 吾

 「次は、勝てるよ。」僅差で敗れた岩国市長選の翌々日、岩国市在住の友人が、さらっと言った。友人宅には、米軍機対策の防音工事が施されている(でも、あまり効き目はない)。彼は、艦載機移駐に反対する井原候補(前市長)を応援していた。彼は言った。「市民の思いが、反対から容認に変わったわけではないよ。」

 全国が注目する中での選挙。私は、現地入りをしたわけでもなく、報告者として適当とはいえないのですが、昨年秋の山口での団総会で、岩国への支援を訴えた立場上、支援して下さった団員のみなさんへのお礼をかねて、雑感を記すことにしました。

 何といっても、一七八二票差とはいえ、負けたことは、ショック。移駐を受け入れなければ、市庁舎建設補助金を打ち切るなどという、時代劇みたいなあからさまな「アメとムチ」。これによる民意のねじ曲げが功を奏した結果になったこと。また、「争点そらし」(基地問題は最重要争点ではない!?)や「橋下流」の選挙戦術が成功したかたちになったこと。(当選した容認派候補は、「笑顔の岩国」とか「子育て世代(支援)」をアピールしていた。橋下氏の応援ビデオが活用されたことは、御承知のとおり。そして、(前市長と正面から議論することになる)公開討論を拒否する一方で、イメージと幻想をふりまいた。その候補が、二〇代三〇代という若年層で圧勝した・・・。)

 ただ、その負け方から、いろんなことが見えるような気がする。移駐に賛成ではないが、容認派候補に票を入れる、という市民の意識(沖縄県民の苦渋は、これなのか、と思う)。そして、前述の若年層の投票行動。さらに、若者の就職難、疲弊した自治体財政と地元経済、合併の弊害などを、すべて、票をかすめとるネタにするという、容認派候補(前自民党衆院議員)のやり方。(自分がやった悪事を「批判」すれば、自分の票になるんだ!)

 たしかに、悔しいけれど、何か新しいものが生まれたぞ、という手ごたえはある。第一に、日本で一番基地に理解があるまち、という岩国のイメージが変わった。これは、すごいことだと思う。第二に、今までにない新しいつながりが生まれた。それを実感したのは、昨年一二月一日の錦帯橋近くの河原での一万人集会。立場のちがう(これまで、いがみあうこともあったと思われる)人々が、整然と集い、そして、冬空にいっせいに掲げた「怒」の紙。「咲いたあ、民主主義の花だあ。」と感激。(「花」といえば、集会壇上の喜納さんは、やっぱり、歌っているときが一番よかった。議員活動は、仁比さんたちに任せればいいのに・・・。)第三に、市長選投票日直前に、岩国基地初の訴訟が提起されたこと。岩国市民一八名が原告となって、山口県を被告として、基地「沖合移設」にかかる埋立承認処分取消請求訴訟を山口地裁に。実は、この訴訟の弁護団の中心は、県外(広島)の団内外の弁護士(山田延廣団員が弁護団長)。山口県内の団員は提訴直前に「加わった」だけ。この訴訟も、かつてない運動の盛り上がりと広がりの中で生まれたもの。(なお、広島弁護士会は、昨年、独自の騒音実態調査を行い、一一月に岩国基地シンポを成功させている。)

 投票日翌日に開かれた山口市内の二・一一集会では、「岩国は負けない」の横断幕が掲げられ、「正義は勝つ、あきらめないで、がんばろう」という参加者の熱気に包まれた。いろいろ分析・検討すべきことはあるにしても、「次は、勝てるよ。」という友人の言葉は、十分根拠があると思う。

 地元山口県の団員にとっては、「受け身」のかたちで始まった基地訴訟や、今後も準備される法的手続にどう関わるかが、課題だ。河原に咲いた花を、きれいだなとながめるだけでなく、大きな実を結ばせるために、できることから始めよう。



三月拡大常幹は沖縄で…暴行事件に抗議し、米軍基地撤去を求めて

幹事長 田 中  隆

 二月一〇日夜、沖縄に駐留するアメリカ海兵隊の二等軍曹による女子中学生暴行事件が発生しました。軍曹は翌一一日、沖縄警察署によって緊急逮捕されています。沖縄全土を怒りと抗議の声が覆った一九九五年の女子小学生集団暴行事件から一〇年余、米軍基地が市民生活を脅かす存在であることはなんらかわっていません。

 二月一六日、沖縄から参加した団員の報告を受けた常任幹事会では、急きょ三月一五日(土)に予定している常任幹事会を沖縄で開催し、暴行事件に抗議し米軍基地撤去を求める拡大常任幹事会とすることを確認しました。拡大常幹を一五日午後一時から五時まで那覇市で行い、翌一六日には沖縄支部にご協力いただいて沖縄米軍基地と地域住民をめぐる問題等の現地調査を行う予定です。また、三月一四日から一五日にかけて沖縄で常任委員会を開催する青年法律家協会などと連携し、法律家共同声明の発表や共同記者会見を行なうことも追求したいと考えています。

 沖縄拡大常幹の討議は改憲問題・基地問題がメインとなりますが、かねてから三月常幹で予定していた労働問題と五月集会の討議は予定どおり行います。労働問題では、派遣法抜本改正(要求)案や規制改革会議答申批判を論議し、できれば「派遣の供給源」となっている沖縄の労働問題にも触れられればと考えています。また、五月集会については、事務局や各対策本部、委員会で準備検討を行った素案を討議いただくことにしたいと思います。

 沖縄支部と旅行社(富士国際)のご協力で、以下の会場を確保しました。

 沖縄レインボーホテル
 〒九〇〇―〇〇一四
 沖縄県那覇市松尾一丁目一九番地一七
 電話  〇九八(八六六)五四〇一
 Fax 〇九八(八六六)五四〇一
 モノレール「県庁前」駅から徒歩一〇分弱
 那覇空港からタクシーなら二〇分弱(約一〇キロ)

 会議はこの会場で行い、終了後懇親会を行う予定です。

 一定数の宿泊を「仮押さえ」してありますので、ホテルにそのまま泊まって翌一六日の現地調査等に向かうことも可能です。宿泊と格安航空券をセットした「パックプラン」を使って、個別に手配するよりは安く往復のチケットを確保できるとのことです。一六日の企画や宿泊・往復航空券などの件は、決まり次第メール・Faxや団通信に掲載し、受け付けを行います。(お問い合わせや事前の希望登録は団本部=担当・渡島までご連絡を)。

 沖縄での事件発生を受け、現場から問題を考えるために、急きょ沖縄での拡大常幹を設定しました。米軍再編・基地強化が進み、ますますアメリカの戦争戦略に組み込まれようとしているなかでの米軍基地問題の重要性を理解いただき、沖縄拡大常幹への積極的な参加をお願いする次第です。



緊急命令の連発で八郵便局に組合事務室を貸与(外伝(*注1))

東京支部  菊 池  紘

 おどろいたなあ、もう。本案判決前に緊急命令(*注2)がでてしまった。

 不当にも、緊急命令をだすのが本案判決と同時になってから久しい。法廷で私は「郵政が事務室をあたえる方向で団体交渉にのぞむならともかく、そうでないなら、すぐに緊急命令を発するべきだ」と意気込んで訴えた。しかし、けっして明るいとはいえない裁判長の表情からは、何を考えているのかうかがい知ることはできなかった。ところが翌日に緊急命令がでてしまった。裁判所まえで座り込んだ国労闘争団の大きな看板に「逃げるな中西裁判官、眠るな佐村裁判官」と書かれた中西裁判官だ。(しかしこの看板はやりすぎと思うが。)

 中労委が緊急命令を申立てするまでには、たいへんな思いをした。申立を求める私たちに、山口会長は「解雇や配転は緊急性があるが、組合事務室は緊急性がない」などと、頭にくることを言うのみで、何度求めても重い腰をあげようとはしなかった。ところが菅野教授が会長になったら、たちどころに緊急命令の申立をしたのにも、驚いた。

 これをうけて六本の緊急命令が連発され、昨年末に、東京西北部の小石川、石神井、板橋、武蔵野、豊島、中野、杉並南と神奈川の相模原の八郵便局で組合事務室を得た(*注3)。前の年には想像もできないことだった。そして緊急命令の前提となる労働委員会の七本の救済命令は、公務員の労使関係で実に三三年ぶりのものだった。

 このたたかいは面白かった。弁護団のチームワークは絶妙だった。

 なかでも中労委交渉での、東京法律事務所のK弁護士の怒りはすごかった。

 中労委事務局には緊急命令の申立を求め要請をくり返した。相手の公務員関係事務局の親玉とはよく口論した。なにしろ肌合いがあわない。興奮した大猿のような顔を見ているうちに、温厚な私もだんだんエキサイトしてくる。

 その日も、話し合っているうちに、心臓のあたりがざわざわしてきたと思ったら、ついで怒りの火の玉が狭い食道を這い登ってくるのが分かった。なんで心臓が食道につながってくるのかは不明だがーー。相手の親玉がまたしても「解雇や配転でないから」と御託を並べ始めたら、熱い火の玉が喉もとにせりあがってきた。怒りの大声をあげようとして息を吸い込んだその時、一瞬早く隣でK弁護士が「頭に来た。やっていられない」といって席を立ってすたすた退室してしまった。その場の者はみな唖然、呆然………

 こういう場にタイミングを失してぼけっととり残されるのはとてもつらい。火の玉はどこかに消えてしまい、跡形もない。仕方がないから、なんだかんだ言ってお茶を濁すしかない。迫力を欠くことおびただしい。「先んずれば人を制す、後れれば人に制せらる」の悲哀。(引用を間違えたかな)

 相模原郵便局の事件で、横浜の「労働市民法律事務所」というすばらしい名称の事務所の所長I弁護士と一緒に仕事をしたのも、面白かった。「労働市民」と高らかに掲げるところが偉い。小心者の私にはできないことだ。それにしても、I弁護士の情熱的な突撃ラッパに郵政の労働者がえらく共感を覚えていたのが、うらやましかった。

 ということで、とにかく楽しい数年間だった。

バカなことを書いてしまったが、このたたかいの正統の総括は東京支部の三五周年の特別報告集に書いてあるので、真面目な人は読んでください。

(弁護団は、伊藤幹郎、小林譲二、佐藤仁志、大川原栄、上野格と菊池紘)

(*注1)「外伝」 本伝以外の伝記(広辞苑)

(*注2)「緊急命令」労働委員会の不当労働行為救済命令の取消しを求める訴訟を使用者が提起した場合、裁判所は、労働委員会の申立により、使用者に対して判決確定までの間、救済命令の履行を命じることができる。

(*注3)郵産労による組合事務室不貸与・不当労働行為救済申立

 全逓と全郵政には組合事務室を貸与しながら、郵産労にはこれを与えない郵政の不当労働行為の救済を求めた一連の申し立て。すでに数年前、命令を待たずに、姫路、東京国際、渋谷、本郷、藤沢、京都中京の各支部と、関東地本、近畿地本に、組合事務室が与えられている。



司法改革での「失敗」を繰り返さないために

〜鳩山法相三〇〇〇名見直し発言に思う

大阪支部  増 田  尚

 鳩山法相は、一月二五日の閣議後記者会見で、二〇一〇年に司法試験合格者を三〇〇〇人とする増員計画を定めた閣議決定を検討する組織を法務省内に三月までに立ち上げることを明らかにした。折しも、日弁連会長選挙では、両候補とも、主張の濃淡の差はあれ、「二〇一〇年までに三〇〇〇人」という方針の見直しを訴えた。新会長となった宮崎誠弁護士も、就任会見で見直しを約束した。早速、日経、毎日、東京などの社説がこうした動きを牽制する姿勢を見せたものの、増員計画は大きく舵を切ったと見てよいであろう。

 ところで、団内で、司法改革を取り上げる際は、現状についての責任論・原因論は控えられるべきとの声が強い。しかし、原因と責任の分析なくして、その後の対策はとりようがないはずである。もっとも、責任論で時間をとられ、肝心の方針が打ち出せないのでは、議論の時間がもったいないとの意見にも一定の理はある。そこで、効率的な議論のために、あらかじめ、責任論・原因論についての私見を明らかにしておきたい。

三〇〇〇人増員は破綻した

 先日、毎日放送のニュース番組(関西ローカル)で、「弁護士に“就職難の時代”到来!!」と題する特集があった。ある現行六〇期のいわゆる「ソク独」弁護士にスポットを当て、売上が月二五万円程度で赤字であることや、知人が年収二〇〇万円で採用されたエピソードなどが語られ、法曹界に衝撃が走った。昨年から、「週刊ダイヤモンド」、「読売ウィークリー」、「SPA!」などの雑誌でも取り上げられ、新聞紙上でも、「ノキ弁」・「タク弁」などの実態が報じられた。重要なことは、当該弁護士にとっては、買いたたかれ、「ワーキング・プア」ともいうべき状態に追いやられていることであり、そのような事態を放置していては、国民の「裁判を受ける権利」すら危うくなってしまうと指摘されるようになってきたことである。

 弁護士に無秩序に競争原理を導入する増員路線は、勤務弁護士に対しては、「労働ダンピング」を引き起こす一方で、零細経営弁護士にとっては、「シャッター通り」となる弊害をもたらすことが、これらの事象を通じて現実に明らかになってきたのである。

 二三〇〇人レベルで、これだけの弊害が明らかになり、事ここに至って、三〇〇〇人など途方もない数字であることが否定しようがなくなり、前記の鳩山法相の見直し発言につながったのである。

なぜ失敗したのか〜原因論と責任論

 なぜ失敗したのかという原因を究明するのは、それほど困難ではなかろう。因果を現在からたどっていけば、研修体制や受入体制が整わない中で合格者数を急増し、他方で修習期間を短縮したため、充分な知識・技術を身につけることができず、OJTも保障されない中で、新規登録弁護士が激増したことであり、その一つ前は、法科大学院が乱立し、六〇〇〇人という定数となったことである。

 こうした因果の流れは、三〇〇〇人増員という司法制度改革審議会の最終報告書や日弁連臨時総会決議の当時から、懸念として示されていたところであった。問題は、それにもかかわらず、なぜ失敗となる方針を選択してしまったのかという点である。

 この点に関連して、内橋克人氏は、その著書「悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環」の中で、ワーキング・プアをもたらした規制緩和という「ルール変更」をなぜ国民が受け入れたのかについて、次のとおり分析している。(1)「規制緩和」を戦後の官僚支配を打破する特効薬と錯覚したこと、(2)学者をメンバーに入れた一見中立にみえる政府の審議会、あるいは首相の私的(!)諮問委員会の口あたりのいいキャッチフレーズにまどわされたこと、(3)これら審議会の意見を大きくアナウンスした大マスコミの存在、(4)小選挙区制の導入−を挙げた。司法改革に関して、(4)はさておくとして、(2)や(3)などは、団員にも思い当たる節があろう。しかし、責任論との関係では、特に(1)が重要であると考える。

官僚司法の打破というスローガンの問題点

 今般の司法改革は、人権の最後の砦としての機能を発揮・強化してほしい、その身近な担い手としての弁護士を増やしてほしい、自白強要・人質司法・調書裁判といった絶望的な刑事裁判を変えようという国民の願いから出たものとは言い難く、日米の経済界を中心に、ビジネスを迅速に展開するために司法制度を使い勝手のよいものにし、その担い手の弁護士を増やし、そのためにじゃまになる規制をとっぱらおうという規制緩和・新自由主義・構造改革路線から出たものであることは、今日異論を待たないところであろう。彼らはまた、自身の経済活動を妨害するような弁護士や司法制度づくりには徹底して反対し、そのような弁護士が団結することを恐れ、弁護士の法律事務独占を攻撃して、弁護士自治を奪い取ろうと考えていた。そうであれば、弁護士会は、そのような規制緩和に敢然と立ち向かい、国民の権利侵害を救済する司法と弁護士自治のあり方を提起すべきであった。

 しかし、日弁連などは、「官僚司法の打破」を司法改革の目標として掲げた。なるほど、かねてから、非常識な判断、官僚的統制による裁判官の萎縮など、官僚制の弊害は指摘されていたところであり、それを取り除くこと自体は間違いだったとはいえない。しかし、司法に、弁護士に向けられた経済界の規制緩和攻撃への正面きっての反撃ではなかった。

 それどころか、この方針提起は、三つの点で重大な誤りを引き起こした。

 一つは、経済界から、弁護士こそ官僚ではないか、資格にあぐらをかき、競争にさらされず、高額な収入を得てけしからんとの批判を浴びた。今日にも通じる「弁護士は金儲けばかりで、偏在対策をしていない」という批判である。この経済界の悪宣伝に加え、経済界や新自由主義学者と連携したマスコミ報道に煽られて、頼りにしていた国民からも弁護士バッシングが起こったことは記憶に新しいところである(最近でも、日弁連は、さかんに市民の理解が得られないとして、三〇〇〇人増員の見直しを口にしたがらないが、よっぽどトラウマになっているのであろうか。)。日弁連などは、規制緩和との対決という方針を打ち出すことができず、官僚司法批判で「返り血」を浴びてしまい、その後は、「弁護士一億総懺悔」ともいうべき弁護士が血を流せば裁判所も検察庁も追随するという根拠のない隘路に迷い込んでしまった。

 二つ目は、「官僚司法の打破」という目標では、経済界とも利害が共通していたいう問題である。経済界としては、迅速に経済紛争を処理するためには、裁判、執行、競売などでの手続規制の緩和を要求していた。そのために、日弁連執行部の一部には、新自由主義者や経済界とすら手を組み、司法改革を唱える者まで出てきた。

 その奇妙な連携の一つが「法と経済学会」である。この学会の設立発起人には、宮内・オリックス会長などの財界人、大竹文雄、小嶌典明、八代尚宏といった市場原理主義者とともに、歴代日弁連執行部が名を連ねている。「法と経済学会」の初代会長である福井秀夫は、規制改革・民間開放推進会議第6回規制見直し基準WGで、「確かに法曹関係者の質的基準というものはあると考えるが、法曹関係者が専門分野をどの程度の範囲までカバーするかによって要求される質的基準も変わってくるのではないか。例えば知財や行政分野のように訴訟代理まで行うのと、町の弁護士のように民事の紛争処理だけで良いという場合では、ずいぶんと要請される質的基準が異なる」、「法曹人口拡大の議論の原点が、一般市民に法的なサービスを受けやすくするということにあるので、仮に定型的な紛争案件に要請される質的基準を合わせれば、自ずと法曹関係者の質的な問題もクリアするのではないか」、「アメリカの場合は、能力の高い高額所得の弁護士もいるが、大半は町の弁護士であり、弁護士だけでは生計を立てられない人もいると聞いている。しかし、そのような町の弁護士でも一般国民には役立って」いるなどのおぞましい法曹人口論を披瀝した人物である。市場原理主義もここに極まれりといった連中と共同して、いったい何を実現しようと考えていたのであろうか。

 三つ目が、司法研修所を官僚裁判官養成所と決めつけ、これに代わる法曹養成機関として、ロースクールの創設を許してしまったことである。しかし、ロースクールになれば相当な高学費を要することになり、中低所得者層が容易に進学することができなくなることは想定できたはずである。司法修習生の貸与制への移行と相まって、これらの層を排除する「格差社会」が法曹養成に持ち込まれたことは、将来に大きな禍根を残すことになるであろう。

司法版「構造改革」と対決し増員路線の転換を

 日本では、様々な分野で、規制緩和のねらいを官僚批判でごまかしつつ、競争原理・構造改革が導入された。しかし、その弊害について、国民はすでにいくつかの体験している。

 大店法の規制緩和で、郊外型大規模小売店舗が次々に誕生し、駅前の商店街はシャッター通りとなった。ところが、自動車を利用できないお年寄りが身近に買い物をする場所がなく、交通量の多い幹線道路を長時間歩かなければならない。いったん不採算となって撤退すれば、ゴーストタウンになってしまう。タクシー業界では、タクシー会社は何台導入しても儲けるしくみをつくる一方、運転手は歩合制で追い立てられ、客の奪い合い、長時間労働による事故、そして生活保護水準を下回る賃金水準など、悲惨な労働条件をもたらした。労働分野の規制緩和は、企業にとって、正社員を長時間労働でこき使う一方、安価な労働力を自由気ままに使うことができるようになり、ワーキング・プアと呼ばれる低賃金労働者を生み出した。

 しかし、今、構造改革に反撃し、人と人のつながり、権利と生活を大切にしようという動きが生まれてきている大規模店舗の無秩序な出店を許さず、弱者にやさしい町づくりをめざす自治体が増えている。タクシー労働者は、行政を動かし、参入・増車規制を発動させ、国賠請求訴訟では、東京地裁は請求を棄却したものの、「規制緩和は輸送の安全や利用者の利便に結びついておらず、運転手の労働条件悪化というひずみを生んだのは明らか」との批判の付言をかちとった。労働分野では、ホワイトカラー・エグゼンプションを国会に上程させず、派遣法の改悪も先送りさせ、格差社会の是正、貧困の打破を合い言葉とする新しい国民運動も広がっている。

 こうした反「構造改革」の運動と連携して、増員路線を転換することが求められる。「勝ち組」・「負け組」に色分けされ、他人を使用して大儲けをする側と、イソ弁は労働者でないとの欺瞞のもとに際限のない長時間労働で搾り取られる側に分かれるようないびつな関係、依頼者そっちのけの「競争」で仕事を奪い合う関係、弱者のための活動を不採算と切り捨てるような弁護士ばかりになる、そんな将来をきっぱりと拒否しよう。

 鳩山法相は、さきの記者会見で、「規制緩和、自由競争という概念で法曹の数を考えるのは間違っている」と発言した。こんなセリフは、本来弁護士の側が言うべきであろう。幸い、自由法曹団は、つとに、二〇〇一年九月の意見書「国民のための司法改革を」で、自民党・財界のねらいを「新自由主義的司法改革」と看破し、これに反対することを表明してきた。また、昨年の総会でも、弁護士急増の弊害を取り上げ、規制改革会議などとの対決なしに、国民のための司法の実現はかちとることができないとする議案書を採択した。私たち団員一人ひとりが、過去の「失敗」の教訓に学びつつ、これまでのたたかいの上に立ち、国民と共同して、司法版「構造改革」と対峙することが求められている。



斎藤一好先生を悼む

神奈川支部  増 本 一 彦

 わたしは六〇年安保闘争の年に司法研修所に入り、二年の修習を経て、斎藤一好先生にお世話になった。先生の事務所のイソ弁は二年間であった。

 斎藤先生の事務所を紹介してくださったのは石島泰先生で、お二人はともに国際法律家連絡協会(国法協)の活動をされていて、わたしも必然的に先生たちの活動に組み入れられた。当時のわたしは駆け出しのイソ弁であるのに、やたらとほかの活動に忙しく、斎藤先生から月給三万円をいただいても、イソ弁らしい仕事はせず、先生も黙って、わたしの好きなようにやらせてくださっていた。

 当時の国法協には、平野義太郎、長野国助、沼田稲次郎など、駆け出しのわたしなどは、そのお顔を見るだけで励ましとなるような方々がおられ、斎藤先生、石島泰、渡辺卓郎といった方々は、まだ少壮気鋭の部類であった。核兵器廃絶運動に生じた「いかなる国の核実験にも反対」「部分的核実験停止条約の可否」などをめぐるソ連と中国との激しい対立問題があり、法律家の国際的な統一と団結を如何に勝ち取るかをめぐって、熱い議論がなされていた。斎藤先生は、こうした揺らぐ国際法律家連帯運動のなかにあって、国法協も加わる国連NGOの国際民主法律家協会の書記局のメンバーとして海外出張もされて、国際法律家運動の統一と団結のために奮闘されていた。斎藤先生と国法協の立場は、ソ連、中国の大国主義的な干渉を許さず、自主・独立の立場に立って、一致点で団結しようという考えで、斎藤先生はソ連、中国やヨーロッパの代表たちの前で堂々と所見を述べられ、この立場は非同盟・中立諸国の共感を得ていた。わたしは平野義太郎先生や斎藤先生など国法協の指示で、「いかなる国の核実験にも反対か、どうか」「部分的核実験停止条約を認めるか、どうか」という路線問題が持ち込まれて揺らぐ原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の専門委員会に放り込まれ、「こうした路線問題のどちらも原水禁運動に押しつけて、原水禁運動を分裂させるな。核兵器全面廃絶、被爆者完全援護で一致して、運動を進めるべきだ。核兵器で世界を脅迫しているアメリカでは、核兵器に反対して闘う仲間たちが反共法で弾圧されているではないか。アメリカ政府に対する抗議をもっと強めよう」などと発言して、「こちんぴらが何をいうか」と怒号する当時の総評右派や共産党を脱走した旧幹部たちと大喧嘩になったりした。この活動では、平野先生や斎藤先生、同じ専門委員会の田沼甫、堀真琴といった先生たちからは大いに激励されたが、それは厳しい経験であった。広島、長崎の原水爆禁止大会に行っても、総評旅行社が宿を独占して、わたしも平野、田沼、堀先生とともに宿がとれず、狭い木賃宿の六畳間に、いっしょにざこ寝をしたりした。斎藤先生は、海軍兵学校を出て戦争の修羅場を幾度も経験されており、戦争反対の強い信念を持たれており、国際的な法律家の平和運動では大国主義による覇権争いに対しても自ら闘っておられたので、わたしにも国法協から原水禁運動に参加して、大国主義の干渉と闘う活動の場を与えてくださったのだと思う。

 わたしは、その後、高木右門先生の事務所に移り、さらに神奈川県に来たのだが、先生も新宿の十二社から藤沢市辻堂大平台に転居して来られた。そして、わたしが共産党から衆議院議員選挙に出たときには物心両面でご支援をしてくださった。先生は、地域では、民主診療所の維持に努められ、最近では、憲法九条の会や戦争体験を語り継ぐ会などの講師活動をされた。晩年は、奥様とお二人で民主診療所に通院され、ご夫婦の仲の良さは地域でも大変な評判であった。

 また、先生は「横浜事件」再審弁護団に参加されてからは、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の地域の顧問になられ、横浜事件を支援する活動に積極的に取り組まれた。先生は地域の人たちに大変に好かれ、その穏和な語り口で話される戦争の実体験にもとづくお話は、女性たちに特別に人気があった。「斎藤先生は、わたしの恩師です」というと、地域の友人、知人からは、「増本さんは、先生の鬼子ではないか」といわれる始末であった。

 斎藤先生は、六〇年代の厳しい国際環境のもとでの法律家の国際連帯活動をはじめ、公害被害者救済弁護活動、横浜事件再審弁護活動など、その時代、時代の国民的な重い課題を担われて、その信念を生涯を通じて貫き通された民衆の弁護士であった。その先生が、ご自身の生き方を最もよく理解され、常に支えて来られた奥様を遺して、一月二七日、突如、この世を去られてしまったのであった。先生を知る地域の人々は、誰もが先生のご逝去を深く、深く悲しんだのであった。