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毛利 正道 イラク高裁違憲判決を団としてどう生かすべきか
阿部 哲二 土木事務所所長懲戒処分事件の勝利解決
渡辺  脩 小池さんの再考を促す
=在野法曹の精神こそ、団の立脚点=
米倉  勉 裁判員制度への抜本的修正の必要
司法制度改革闘争の帰趨―だまされることの責任
佐藤 真理 坂本修団員の講演パンフ『壊憲か活憲か決めるのはあなたです』のすすめ
倉内 節子 女性部からの憲法リーフのお知らせと普及のお願い!!
土井 香苗 スポーツ選手の権利はどこに?
―我那覇選手事件を通じて(5)
(我那覇選手弁護団の一人として)
半田 みどり 七・五労働者派遣法抜本改正のための街頭宣伝



イラク高裁違憲判決を団としてどう生かすべきか

イラク名古屋訴訟原告兼弁護団
長野県支部  毛 利 正 道

第一 前提 どこが画期的だったのか

 一九五九年砂川米軍駐留違憲判決・一九七三年長沼自衛隊違憲判決以来、三五年ぶりの国家としての最重要課題である自衛隊に関する違憲判決で、初めての高裁違憲判決。しかも確定したことによって法律上覆される可能性がない判決(この点は実践的には極めて重要)。

 上記両判決とも、統治行為論(前者では米大使による最高裁長官との面談まであった)で覆されたが、長沼判決前からの青法協裁判官攻撃等により、その後とても自衛隊違憲判決など出し得ない司法状況が続いた中での違憲判決。

 しかもその手法は、国家賠償法一条の法律要件通りに「違法行為の有無」「守られるべき権利の有無」「その権利侵害性の有無」を順次判断してゆくもので法律家にとって常識的なもの。

 現在、航空自衛隊がイラクで行っている米軍等輸送活動に焦点をしぼり、かつ、政府の従来の憲法解釈を前提にして、これを「憲法九条一項違反=自衛隊が武力を行使している」と判示したもので、反論しにくくかつ現実的影響力を与えうる判決。自公民の議員の中にも影響する可能性あり。

 米日軍事同盟の世界的再編の下で、自衛隊に求められる最小限の活動と思われる輸送活動すらこの判決で否定されたのであり、世界的再編への大きなブレーキとなりうる。

 (4とほぼ同義だが)この判決で憲法違反とされた米軍等輸送活動は、「米軍などが行っている掃討作戦=安全確保活動」を支援する「安全確保支援活動」に過ぎない。ところが、国会に提出される恒久派兵法案は、自民小委員会案で「安全確保活動」を認めているところからみても、現在の米軍輸送業務を超える活動を自衛隊に認める可能性が極めて高い。したがって、「現在の輸送業務でも憲法違反、ましてや恒久法で認めるものはより明確に憲法違反」として、恒久法反対運動に活用できる。

 自由権的・社会権的・参政権的態様における基底的具体的法的救済の根拠としうる権利としての「平和的生存権」を明確に認めた。基地闘争・米軍による犯罪被害・国民保護計画など有事法制の押しつけとの闘い・情報保全隊や機密保護法との闘い・「日の丸君が代」の強要に反対し平和教育を求める闘い・平和戦争資料館建設を求める闘い、そのほか創意工夫次第でいろいろな権利闘争に活用できうる。

 憲法九条が蹂躙され続けて来たことも事実だが、この判決に接し、九条が生きているということをあらためて内外に知らしめたという意義も大きい。

8 「傍論」論について

 「請求棄却の結論に直結しない部分」という意味では「傍論」だが、最高裁も「なお…」とする重要な影響力ある「傍論」判決を出しており(例えば皇居外苑使用不許可処分取消請求事件・朝日訴訟・全農林警職法事件)、「傍論」だから判決の価値がないものでは決してない(日本は、判決理由と傍論とを区別するイギリスなどの判例法主義の国ではない)。

第2 自由法曹団として、これをどう生かしてゆくべきか

 「イラクから自衛隊を撤退させろ」との要求を掲げる

・(重点の置き方はあろうが)少なくともスローガンとして掲げる。

・「判決に従って撤退させろ」ではなく、「判決で違憲性がより明確になったが故に撤退させろ」が正しいでしょう。

・現在名古屋原告団が取り組んでいるイラク撤退署名を、可能な各団事務所や友好団体で取り組んでもらうよう、団として呼びかける

 恒久派兵法の学習活動に、判決を大いに活用するよう団内外に呼びかける

・恒久法だけではなかなか学習会の提起すら困難との実情と、他方で名古屋弁護団が呼びかけている判決報告会がすでに全国一七〇箇所以上で企画されている現実からみて、「画期的なイラク違憲判決から見た恒久派兵法」というようなテーマで、団内外で学習活動を強めるよう、団が呼びかける意義がある。

・とりわけ恒久派兵法の成案が、民主がまとまって反対しにくいように武力行使性がかなり薄められて出てくる可能性がある(が、それでも現在よりは危険になる)ので、現在の「安全確保支援活動」ですら判決によると憲法違反なんだ、ということに闘う人びとが確信をもって受け止めておくことが重要。

 平和的生存権の活用可能性を深めることを全団員に呼びかける

・前述の通り、例えば、「日の丸君が代」訴訟でも平和的生存権を使えるなど、団員が現に担っている各種人権裁判・闘争に、平和的生存権が力を発揮することがあり得る。それは、また、平和的生存権自体を一層確立させていく力になる。

 悪しき司法消極主義との闘いに判決を活用することを全団員に呼びかける

・悪しき司法消極主義は、統治行為論だけでなく、本判決の原判決にも表れた「間接民主制論」や生存権ほかの分野における行政立法各種裁量論という形でも、ほとんど全ての人権裁判に表れている(戦後補償裁判でも、事実認定すらせずに適用法理がないことだけ述べて棄却されることが長く続いた)。そのなかで、本判決が、法律要件通りに順次判断するという常識的手法で憲法上の要請に正面から応えたことは、諸分野の事件に係わる裁判官の心に勇気を灯す力になることが十分あり得る。

・むろん、そのためには本判決の真髄を裁判所にしっかりと伝える必要がある。

・なお、徹底して事実【怒り・涙・暖かさ】を掘り起こし、裁判所に徹底して伝えていくこともこの判決から全団員が学ぶべきことである。



土木事務所所長懲戒処分事件の勝利解決

東京支部  阿 部 哲 二

 マクドナルドの店長が管理監督者かどうかが争われた判決が、今年1月に東京地方裁判所であり、大きな社会的反響があった。

 こちらの事件は、目黒区直営の土木事務所長が管理監督者かをめぐって争われた事件である。

 二〇〇六年四月、目黒区長は碑文谷土木事務所長を戒告の懲戒処分とする発令を下した。理由は、土木事務所に所属する複数の職員が多数回にわたり、庁用バイク及び庁用車を私的に使用していたところ、その管理監督を怠ったというもので、係長である土木事務所長を、国の処分指針にある管理監督者の処分基準に従って、戒告とした。訓告とされた管理職の課長より重い処分であった。

 これに対し、土木事務所長は、二〇〇六年五月、処分の取り消しを求めて特別区人事委員会に不服申立てをした。

 申立ての理由は、監督を怠った具体的な事実がないこと、処分にあたっての事情聴取など適正手続がとられていないこと、そして、何よりも係長は管理監督者ではないのにその処分基準によって課長よりも重い処分を課すのは著しく不公平である、というものであった。

 区側は、これに対し人事課長を証人に立て、土木事務所長は人事考課の権限などはないから管理職ではないが、二〇人からいる土木事務所職員を監督する管理監督者であると正面から位置づけを争ってきた。

 審理では、申立人本人及び現職の職員も含めた二名の証人尋問を行い、運動では特に係長級の組合員を中心に署名や区への要請行動が展開された。

 今年に入り、マクドナルド判決が出されたことで、目黒区職労は、「係長の責任転嫁、マクドナルド同様『偽装管理監督者だ』」などと宣伝を広げ、四月に入って人事委員会事務局からも、「話し合いによる解決を尊重する」という表明を得るに至った。

 そして、ついに区当局は五月二日に不服申立人本人に対し遺憾の意を表明、五月八日には、「庁外職場における施設長の職責と処分のあり方」という総務部長名での通知を発した。この通知は、土木事務所長ら施設の長は、労働諸法規に規定する管理監督者、すなわち経営者と一体的な立場にある者とは異なり、課長級以上の管理職とは責任の度合いも異なることを明確にするものであった。そして、当然ながら、事故が発生した場合の処分については、本人への事情聴取や弁明の機会を充分に与えることなどを確認するというものでもあった。

 管理職としての権限、管理職としての手当待遇が与えられない状態で、管理監督者として責任だけ重くされたのでは納得いかないと不服申立てをした本人の意向が充分に反映されたものであった。しかも、それは本人だけの問題としてではなく、施設長に対する責任のあり方、処分のあり方、その職責が明確にされ、配置における運用の改善も示されるなど、全体としての前進も勝ち取れる大きな成果を得たものであった。命令を得たわけではないが、公務員版の管理監督者を巡る事件において、大きな成果を得たと本人、組合、弁護団ら関係者は評価し、申立てを取下げ、解決したので報告する。

 弁護団は、小部正治、久保木亮介、阿部哲二の三名である。



小池さんの再考を促す

=在野法曹の精神こそ、団の立脚点=

東京支部  渡 辺   脩

 私は、玉木昌美さんの意見(団通信一二七一・一二七五号)に賛成するとともに、小池振一郎さん(団通信一二七七号意見)の再考を促したい。私の基本的な見解は、「法と民主主義」本年六月号「冤罪とどう闘うのかー第四〇回司法制度研究集会を批判する」に書いたので、あわせて読んで戴きたい。

一 裁判員制度は市民参加か

小池意見によれば、「国民に裁判員制度の市民参加の意義を訴え」ていくことが今最も求められているという。本当にそうなのか。

 裁判員は裁判所の権力機構に組み入れられ、守秘義務を課せられて市民から切り離されるのである。裁判の実質審理は公判前争点整理の中で実質的に終わってしまうので、裁判員は証拠調べの内容を直接には見聞できず、眼をふさがれ、口を封じられ、権力機構に密封されるだけである。真の「市民参加による開かれた司法」とはどういうことか。それは、裁判所による判断の根拠と過程が誰にでも分かるようになっていて、誤りがあれば、誰でも批判できる状態をいう。松川事件をはじめとする「大衆的裁判闘争」の広範な市民による裁判批判・裁判所批判こそ、それであった。それは、裁判所が体質的に最も嫌悪・恐怖する状態であり、裁判所が本来的に理解・認容できない世界である。その裁判所主導による「開かれた司法論」そのものが欺瞞であり、小池意見は、そういう権力側の言い分の丸呑みである。小池意見が、「被告人の選択権」と「量刑判断の負担」について、市民参加の代表例である「陪審制と異なる」と主張しているのは、「裁判員制度」の反市民的本質を路程・告白したものである。「知れば知るほどやりたくない」国民が八二.四%の多数に増えているのは当然なのだ(「サンデー毎日」本年六月二二日号)。

二 精密司法は破られるのか

 小池意見は、「『核心司法』論の危険性」を指摘する今村核さんの意見について、「現在の精密司法を前提とする立論である」と述べ、いかにも「核心司法論」が「精密司法論」を破るための立論であるかのように位置づけている。これも大きな誤りである。「核心司法」による認定・判断は、一連の「オウム関連事件」で先取りされて以降、廣く実施されているが、それによって、「精密司法論」はどうなったのか。本年四月二三日の安田裁判(私は実務弁護団員)にける東京高裁の逆転有罪判決は断片的な事実と末梢的な論理で無罪判決を破棄する「精密司法」であったが、その基本は、弁護団が設定し、一審判決が認めた真の争点を無視し、切り捨てることであった。「精密司法」は「核心司法」とともに生き続け、裁判所は、これを都合よく使い分けているだけである。「核心司法」とは、「精密司法」の末梢的精密性の部分(裁判員制度に適合しない)を切り落としただけのものであり、真の争点を切り捨てるという基本・核心はそのまま残っているのだ。法廷の現場を離れて、勝手な議論をされては迷惑である。

三 核心司法に賛成するのか

 先日の「秋葉原無差別殺傷事件」について、TVのコメンテーターである元東京地検特捜検事が、「生活歴・職歴などをよく調べて、どうして事件を起こすようになったのか、本当の原因を明らかにしないと捜査したことにならないし、再発も防止できない」旨解説していた。本来の捜査の基本である。それに対し、殺傷現場の客観的状況・行動経過及び凶器、責任能力の問題さえ分かれば済むというのことになれば「核心司法」であり、これでは、本来の刑事裁判にならない。私は、無条件に元特捜検事に賛成するのだが、小池意見は、それでも、「核心司法」を持ち上げるのだろうか。

四 弁護権を優先させるのか

 被告人の地位と権利から独立している弁護人の地位と権利は「在野法曹の精神」に徹しない限り貫徹できるものではない。そうでなければ、闘うことなどできないのである。争う権利の保障さえあれば何とかなるのだ。その点で、小池意見が、「『公判前整理手続後の』弁護側の主張・『立証制限』、証拠の目的外使用禁止、守秘義務の強化」が「制度上の大きな問題点」であるというのは、私たちの意見と一致する点で貴重である。これは、「弁護人の弁護を受ける国民の権利」(憲法三七条三項)の問題である。問題は、これらの制度が「裁判員制度」のために不可欠であるとして導入された点にある。したがって、弁護権擁護の優先を確立しない限り、弁護権は「裁判員制度」のもとで根底から奪われることになる。小池意見は、肝腎な点を明らかにしていない。「公判前の争点整理」はできる場合とできない場合があり、後者の場合に強行されると、弁護権剥奪になる。裁判員制度を認める立場でも、公判前の争点整理ができない場合には、「公判前の争点整理を行わないこと」、または、「裁判員裁判を適用しないこと」を裁判所に求めるべきではないのか。そういう要求であれば、私も支持する。このように、「弁護権擁護」という一点を主柱にすれば、今の団内の意思統一を図ることはできるのではないか。

五 沿革をどう認識するのか

 ところで、小池意見の視野には、「裁判員制度」の歴史的な沿革が入っているだろうか。入っていなければ、是非、考えて欲しい。「裁判員制度」を生み出した「司法改革」のための「司法制度改革審議会意見書」は、「司法改革」を「新自由主義」に基づく「政治改革・行政改革…規制緩和等の経済機構改革の諸改革と有機的に関連する」ものであり、「『この国のかたち』の再構築にかかわる一連の諸改革の『最後のかなめ』」であると繰り返し強調している。 そして、「裁判員制度」は、主権者である国民の「司法参加」ではなく、「刑事司法に対する国民の支持獲得が目的である(1条・解説等)。さらに、「裁判員制度は、政府が公共性・徳性をふりかざして個人の内面の改造や国民の義務を強調する改憲(〇五年の自民党・新憲法草案)の理念と相似形をなしている」という指摘もあり、この草案が、軍事力の保持に最も力点を置き(軍事裁判所設置も)、「国家の意思決定に国民が服従し、廣く協力していかなければならいないことを核心にしていた」(「改憲・改革と法」「司法改革と憲法原理」)ことにも十分注目しなければならない。

六 団の課題を見定めるべきだ

 〇一年一一月九日事件を契機とする米国の「愛国者法」が人権保障原則を根こそぎ放棄して「犯罪捜査」と「刑事司法」を原理的に転換させるに至った実情は、団でも、菅野昭夫さんによって詳しく紹介されてきた。私は、日本における同種の原理的点転換が九五年三月の「地下鉄サリン」事件以降、急速に進行を開始したとみている。その中で、「刑事司法改革」が進められて来たのだ。私は、団通信等に、〇〇年五月以降〇四年一〇月頃までの間、その問題意識に根ざす警鐘を鳴らし続けて来たが、団内の反応はなかった。本年の日弁連会長選挙の結果にみられる日弁連の今日の混迷はますます深まるであろう。団自身の混迷が影響しているだろう。その中で、「弁護権擁護」の課題こそは、今日、日弁連でも団でも、早急な対処を必要とする当面の切実な現実的課題であり、意思統一を実現できる唯一の根本的な課題ではないのか。



裁判員制度への抜本的修正の必要

司法制度改革闘争の帰趨―だまされることの責任

東京支部  米 倉   勉

「だまされることの責任」

 最近、角川文庫版「だまされることの責任」(佐高信/魚住昭・本年五月二五日初版)を読んで感銘を受けた。本書は、映画監督の伊丹万作氏が「だまされた者(国民)」の戦争責任について喝破した「戦争責任者の責任」という随筆(一九四六年)を巻頭に据えて、二人の著者が対談を行ったものである。二〇〇四年四月八日に高文研から刊行されたものを再編集し、新しい記事を付加したものなのだが、私は文庫版ではじめて知った。

 伊丹氏の主張の骨子は、あの誤った戦争が、軍部や権力者に国民がだまされて、突き進んでいったものだとしても、だまされた国民に責任はないのか、造作なく騙されるほどに批判力を失い、思考力、信念を失っていった国民の無自覚、無責任は悪ではないのか、という厳しい自己批判である。抵抗したであろう多くの知識人(伊丹氏自身を含めて)も、批判の対象から除外されていない。この論旨が、国家権力の悪を免責するために用いられるならば別の問題が生じるが、伊丹氏は、国家の戦争責任や戦犯の追及を前提にした上で、だまされた国民自身の自覚と反省がなければ、日本人は同じ過ちを繰り返すと迫っている。戦後六十余年を経て、この時代に向けられたものと感じざるを得ない一文である。

 これに続く本編たる対談は、この衝撃的な指摘を受け止め、現代においてこの自己批判が射程とするところに厳しく展開していく。その内容は先の戦争責任にとどまらず、イラク戦争への派兵問題、そして今般の司法制度改革を皮切りに、構造改革と呼ばれる一連の新自由主義政策を受け容れ「だまされたこと」に及ぶ。みなさんにもおすすめしたい一冊である。

司法改革闘争に込められた国民的希望

 この本を読みながら私は、司法制度改革において「だまされた」民主的法律家を考えざるを得ない。司法制度の「改善」闘争に取り組みつつ、「改悪」に行き着いた法律家の「責任」の取り方である。特にここでは刑事司法改革=裁判員制度について述べたい。

 元々、司法の民主化は我々の積年の課題であった。そこに現れた今般の「上からの司法改革」は、これに我々はどう対応するか、すこぶる困難な局面をもたらした。それが財界と保守勢力からの「改革」要求であることは見抜きつつも、そこに少しでも改革の可能性はないかという希望、そして我彼の力量差の自覚の下で、反対運動に徹すれば逆に根こそぎ持って行かれかねないという悲観的展望、そうした重層的な判断の中で、困難な「闘争」に突入したのである。

 この闘争は当然に、極めて困難な力関係・不利な土俵に置かれていた。財界が要求する改革に積極的に関与・協力する形を取りながら、国民のための改革たる実を得ようというのだから、困難でないはずがない。それでも、関与そのものを拒否して反対運動に徹した場合のデメリットを危惧して、こうした形で闘争に入り込まざるを得なかったことは、一つの選択であり、私はやむを得ざる部分があったと評価している。かくしてこれ以降、私たちは原則論と現実論の狭間で、絶えざる矛盾に悩むことになった。

闘争の決着と裁判員制度の本質

 しかし、この「闘争」はどこかの時点で決着がついたはずだ。「病的というべき刑事司法の実情を、日本型陪審制の導入を実現することで改善したい」という希望の下で追求した刑事司法改革の方向性は、冷静に振り返れば、それが極めて特殊な「日本型参審制(裁判員制度)」に落ち着いた時点で、もはやその本性は明らかとなった。この制度は、グローバル化した資本が求める、新自由主義政策を貫徹しつつ支配を維持するために、刑罰の強化を確保するための制度である。

 この点、司法制度審議会の意見書は、正面から、国民の司法参加は規制緩和と構造改革の社会において「ルール違反」に対する「効果的な制裁」(=「刑罰権の実現」)を実現する仕組みとして、「国民的基盤を確立するため」の制度だと認めている。そしてその後にできた裁判員法は、まさにそのような立法趣旨を忠実に体現するに相応しい、国家権力を補完・強化する制度設計になっていた。争いのない事件を含めて、重大事件だけを対象にし、死刑宣告を含む量刑判断まで担当させる。他方で公判前整理手続の採用により、争点整理や証拠の採否には裁判員を関与させず、著しい「迅速審理」を行う。裁判員は三人もの裁判官とともに多数決で評決を行い、被告人には選択権を認めない。これは、陪審制とは全く異なる制度である。

 このような制度が、新自由主義政策の下で進行した、「自己選択と自己責任」が強調される「刑罰化社会」の中で実施されれば、極限までに刑罰が強化された警察国家と、国民を分断する「敵味方社会」が出現するだろう。裁判官の強い影響力の下で、治安に関わる重大事件を裁判員に担当させ、死刑宣告まで行わせるという制度は、刑罰権行使への国民の動員そのものである。ここでは、国民の司法批判、権力監視の能力は引き出されず、処罰方向の圧力だけが利用されかねない。グローバル化した資本が要求する新自由主義政策を実施するために、国民を分断する「刑罰化社会」が推し進められ、閉塞感の中で疲弊した国民をそのような刑罰化・重罰化を正当化するための制度に動員する。国民にとって二重の悲劇である。

 このように闘争の帰趨は、残念なことに、裁判員制度が立法化された二〇〇四年に決着している。(なお、新自由主義政策がもたらす厳罰主義のメカニズムについては生田勝義「厳罰書義と人間の安全」(日本評論社・小田中聰樹先生古稀記念論文集・下巻所収)を、新自由主義政策と裁判員制度の関係については久保田穣著「『司法制度改革』と憲法原理」(民科法律部会編「改憲・改革と法」法律時報臨時増刊所収一一二頁)を、それぞれお読みいただきたい)

だまされた者の責任の取り方

 この闘争は、かくして残念ながら民主的法律家の目指したものにはならなかった。不十分であるにとどまらず、害悪をもたらすものにされてしまった。それは、われわれの意図しなかった結果であり、「だまされた」と言うほかない。構造改革を実現しようとする勢力と、我々民主的勢力がせめぎ合い、敵の意図が貫徹されたのである。「賛成した者の責任」とは、だまされた者の責任のことと承知すべきである。

 そうだとすれば、力及ばず不本意な結果になった以上、民主的法律家は、「だまされた」ことについて正しく責任をとる必要がある。責任の取り方は、この不本意な「司法制度改革」が持つ重大な危険性、本質的な反国民性を社会に訴え、裁判員制を抜本的に見直し、そうできないなら実施を延期することである。

 グローバル化した資本と財界からの新自由主義的改革要求への対応のため、我々は原則論と現実論の狭間で苦しみ抜いてきた。それは我々の望んだことではないし、我々の責任ではない。しかし、その帰趨が見えた今、なおこのまま事態が推移するのを許すなら、我々も「だまされた者」にとどまらず「だました者の責任」を免れない。今こそ、方針を立て直し、新たな闘争を作り直すべきである。もはや仲間同士で非難し合う段階ではない。

 自由法曹団が確固たる方針を持てば、日弁連も変わる。そうなれば裁判員制度もそのままで維持できるはずがない。「いまさら流れは変えられない」と思う必要はない。革新勢力・民主勢力が「現実的対応」として支援したからこそ、ここまできた流れであり、我々が方針を確立して拒否すれば、こんな制度は実施できない。

 本年六月一八日発行の小田中聰樹著「裁判員制度を批判する」(花伝社)は、後書きで、「制度施行が一年後に迫っている今この時期、裁判員制度の重大な欠陥や本質に対する疑念や批判が、法律関係者や学界のみならず、ジャーナリズムやマスコミからも強まる動きが起こっている。」と指摘する(今般の上記民科法律部会の共同研究も示唆的な出来事である)。そして小田中教授は、あの松川事件をはじめとする、我が国の司法への国民参加の歴史に対する正しい認識と評価を抜きに、その制度を構想することは、「空虚かつ不毛であり、有害ですらある。」と述べている(小田中同書二三四〜二三五頁)。これは、国民が裁判に参加するとは、誤った国家権力行使を正すという役割にこそ意味があるのであって、そうした国民の力を引き出すことを抑圧しつつ、国民を国家刑罰権行使に組み込む制度はその対極にあるということを、私たちに対し、厳しく指摘しておられるのだと理解する。

 今こそが決断の時である。だまされたままで終わってはならない。



坂本修団員の講演パンフ

『壊憲か活憲か決めるのはあなたです』のすすめ

奈良支部  佐 藤 真 理

 五月三日、奈良県文化会館で開催された憲法施行六一年の憲法講演会とフォーラム(「九条の会」奈良と団奈良支部の共催)での坂本修団員の講演とまとめの発言等をA5版六八頁のパンフレットとして発刊しました。

 私は、三〇年間、自由法曹団の総会、五月集会、常任幹事会等で坂本先生の話を何度も聞き感銘を受け続けて来ましたが、長時間のまとまった話は三一年前、司法修習生のころに講演をお聞きして以来です。先生の「歴史は前進する」との確固たる信条に基づく「希望ある未来を自らの努力で切り開こう」「人間一人の力は大きい」とのメッセージに何度も目頭が熱くなりました。先生の著書『憲法 その真実 光をどこに見るか』に憲法問題に対する先生の思いは既にあますところなく示されていますが、このパンフレットにその「神髄」が「凝縮」しています。

 当然ながら、その後の先生の講演活動による蓄積、思索に基づく発展があります。そして、現局面でのせめぎ合いについての先生の情勢を切り開く立場からの鋭い問題提起がなされています。

 社会進歩を信じ(または願い)、その歴史の中でささやかであっても貢献したいと考えておられる自由法曹団の同志・仲間のみなさんに是非ともお読みいただきたいと思います。

まとめの発言の最後の部分を、以下に紹介します。

光ある時代に生きて

 目の前に格差社会が拡がり、この会場には来れなかった多くの人々が苦しんでいる。新旧の貧困は世界に広がっている。イラクでは流血の暴力が広がり、アメリカの先制核攻撃戦略のもとで核戦争の危機はつづいている。しかも、地球の環境問題は人類の生存にかかわる危機をつよめている||その意味では、闇≠ヘ深いのです

 でも、私たちはかつてなく“光”ある時代に生きています。一九四三年一〇月二一日、神宮外苑から土砂降りの雨のなかを二万五千人の学生たちが、着剣をしたまま雨中に行進していきました。「学徒出陣」です。

 東条首相の訓示をうけて、この青年たちは生きて帰るとは思わない、祖国のためにたたかって自分は死ぬんだということを宣言して出撃していった。三万数千人の人が見送りました。これが大半は、若者、女子学生が非常に多かった。このなかの二〇〇人前後の女子学生は最後に学生らがでていく門のところに殺到して旗をふったといいます。戦争に反対して旗を振ったのではないと思いますね。やはり、行ってたたかえということで旗をふったのでしょう。この時、これが侵略戦争だという人はいませんでした。治安維持法で弾圧されつくしていました。

 私たち自由法曹団の先輩は、治安維持法でつかまった人たちを弁護しようとした直前に、治安維持法の被告を弁護すること自体が治安維持法違反だということで、逮捕され、弁護士資格を奪われました。その状況のなかで、私の母たちの世代は、遺骨も帰ってこない、紙切れしかはいっていない箱をうけとっても、涙を流すことも許されなかった。私はその時代と、今と較べて思うのです。私は、明治公園で三万五千人の前で自由法曹団を代表して、憲法改悪阻止、平和を守るためにみなさんといっしょにたたかうということを堂々と宣言することができた。どの警察官も私を逮捕することができない。デモは力強く進み、反戦、平和、憲法九条を守れの声は日本中に広がり、世界にも広がり始めている。わたしたちは、全然ちがう時代に生きているんです。世の中、ひどいことたくさんあるけど、いま話した点では、戦前とくらべて本当に幸せな時代に生まれ合わせているのではないでしょうか。こうした有利な条件を大事にして、憲法改悪を阻止したいとつよく思うのです。

“夢”の実現を

 私には、夢≠ェあります。それは憲法が全面的に生きる日本への道を拓くということです。改憲・壊憲≠阻止したことで私たちは決してそこでストップしないだろう。お金もない、マスコミももっていない私たち、小選挙区制で私たちの意思が徹底してゆがめられ、国会では、改憲勢力が三分の二以上を占め、アメリカべったり、財界本位の政治が横行している現状がある。しかし、それにもかかわらず、本当のことを話し、人間らしく生きたいということ、平和を守りたいということで手を結びあえば、彼らの策動を阻止できる。と言うことは私たちが、本当に自分のもっている人間の力、主権者の力ということを私たち自身が共通に経験し、確信にするということです。そのときは、それを経験した私たちが憲法改悪阻止だけで歩むのをやめるだろうか。

 私たちはこの国を、人間らしく生き、平和に生きるためにどのように根底から変えていくために、新しい力で、新しい連帯で前にすすむに違いないとつよく思うのです。

 私たちは日本を変えるだろう。この時期、アジアのこの地域、日本という地域で、この国がそういうことにむかうということは、世界が暴力に暴力でもって報いたり、富める国が貧しい人たちを収奪し尽くしたり、そういう世界ではない新しい世界を作るということに連動するにちがいない。

 私たちが今、やろうとしていることは、私たちのくらし、平和をまもることであると同時に、新しい日本、そして新しい世界をつくることだと私は確信するのです。

 もっと高い視点、広い視野で見れば、世界を新しくしていく、この地球の生態系を狂わせ、人類をも滅ぼしていくのではなく、人類が地球の生命体とともに共存する、そのなかで、人間が持つ豊かな可能性を実現していく――私たちは、こうした課題にとりくむ時代に生まれ合わせているのだとつよく思います。人類が直面している、そして多くの困難、未知の課題はあっても、光≠ヘ見えている生きがいのあるこの時代に、世界史的な意義をもつ、憲法闘争を進め、必ず勝利しようではありませんか。

 みなさんは古都奈良でいち早く立ちあがり、「継続を力」にして、この数年、活動して来られました。みなさんが、さらに語り合う環を広げる。そして、全国各地でもみんなと同じように人々が動き出せば、それは未来に向かう大河の流れになるでしょう。

 そのことを信じ、今日の集まりで学び、新たに得たエネルギーをもって、私がこれからも活動することを約束して話を終えることにします。本日は本当にありがとうございました。(拍手)

 パンフをご希望の方は奈良合同法律事務所宛にFAX(〇七四二―二六―三〇一〇)してください。パンフ到着後五〇〇円(できれば八〇円の送料を加えて五八〇円)の郵券をお送り下さい。



女性部からの憲法リーフのお知らせと普及のお願い!!

東京支部  倉 内 節 子

 女性部は昨年九月の総会の討議をふまえて「憲法リーフ」を発行することになりました。この間、何回となく打ち合わせ会を開き、意見交換、イメージアップを重ねてきました。七月七日『日本国憲法に聞いてみよう』というリーフが完成しました。今の日本の現状は、九条を中心に生活のすみずみまで憲法が生かされていません。貧困、格差、差別や環境問題など解決が急がれる課題が山積しています。九条をめぐるリーフやパンフレットが沢山あるなかで、女性部は九条を根っこにおいて、私たちのくらしを変えることが出来る条文がたくさんあるということを多くの人に知ってもらい改憲反対の勢力を強めていきたいと思っています。このリーフレットはとてもわかりやすい表現でカラフルなイラストで私たちが求める憲法を暮らしに生かすための力になることを語りかけています。

一部一〇円、一〇〇〇部以上八円、恒久派兵法リーフとセットで一部一五円です。(ご注文は団本部まで)

 リーフレット発行メンバー

今年度運営委員(倉内節子、岸松江、千葉恵子、宮腰直子、村田智子、西田美樹、湯山薫)とリーフヒットメーカー山口真美団員です。



スポーツ選手の権利はどこに?―我那覇選手事件を通じて(5)

(我那覇選手弁護団の一人として)

東京支部  土 井 香 苗

CASの決定

 CASの決定の結論は次のとおりです。申立人が我那覇選手、相手方がJリーグです。

 本件上訴を認容する。相手方が申立人に対して二〇〇七年五月一〇日付けでした六試合の公式試合出場停止処分を取り消す。

 一 本件仲裁費用は、相手方の負担とする。負担額については、おってスポーツ仲裁裁判所事務局が決定し通知する。

 二 相手方は、申立人が本仲裁手続に関して負担した弁護士費用その他の費用のうち二万米ドルを支払うこと。

 三 相手方の費用は自己負担とする。

 CASの決定の構成は次のとおりです。(一)当事者(一−二項)、(二)事件の経過(三−四項)、(三)スポーツ仲裁裁判所の管轄権(五項)、(四)手続きの経過(六−一二項)、(五)事実認定(一三−二九項)、(六)適用あるドーピング規定(三〇−三三項)、(七)TUE(治療目的使用に係る除外措置)、(三四−三七項)、(八)スポーツ仲裁裁判所の法的判断(三八−四二項)、(九)争点(四三−四四項)、(一〇)立証責任の分配(四五項)、(一一)本件静脈内注入(点滴静注)は正当な医療行為ではなかったのか(四六−四八項)、(一二)費用負担(四九−五一項)、(一三)主文(最終頁)

 CASの決定を受けて識者は次のとおりコメントしています。

 河野一郎日本・アンチドーピング機構理事長:「昨年四月の時点では、ルール上は医師が正当な医療行為と認めた静脈内注入はドーピングに当たらない。至極妥当な判断だと思う」(二〇〇八年五月二八日東京中日スポーツ新聞、同日付スポーツニッポン)

 WADAの元倫理教育委員・筑波大近藤良享教授(スポーツ倫理学):「世界の基準や判例を知らずに内部の判断で処分を決めたJリーグの失態が明らかになりました。混乱を長引かせた責任もある」(二〇〇八年五月二八日朝日新聞)

 早稲田大学福林徹教授:「Jリーグの勇み足だったが、この一件で国内のドーピングに対する意識は格段に上がった。迷って治療が遅れてはいけないので、具体的なガイドを整備してもらいたい」(二〇〇八年五月二八日朝日新聞)

 いずれも適切で正しい見識です。CASの結論は、当然の結論ですが、他の仲裁決定にない特徴がありました。仲裁費用の全部と、我那覇選手が負担した弁護士費用などのうち二万米ドルをJリーグの負担とする内容です。これは、CASの決定としても異例でした。CASが、一方当事者の弁護士費用などを相手方に負担させる決定は稀です。CAS決定を検索しましたが、二万米ドルという多額な費用を負担させた例はなく、CASがこのような異例の判断をした理由は、Jリーグの誤りが重大であると判断したことに外ならないというのが弁護団の見解です。

 ドーピングを禁止する理由は主として二つです。一つは、薬物を使用することで選手の健康が害されることを防止すること、もう一つは、薬物により競技力を向上させ、競技の公平性が失われることを防止することです。この基本さえ押さえていれば、我那覇選手が受けた点滴治療がドーピングに該当しないことは明白です。

 第一に、我那覇選手は脱水状態であり、点滴治療を必要とする状態だと現場の医師が判断し、この判断は、第三者による事後的な検証でも不合理ではないと判断されました。点滴をしなければ我那覇選手の健康を守れない状態でしたから、選手の健康を守るというドーピング禁止目的に照らせば、選手の健康を守るために必要な治療行為であり、ドーピング違反とする必要はないのです。

 「後藤医師は我那覇選手に、本当に水を飲むことができるのか確認することは可能であったし、かつ、そうすべきであった」、「ヘルスメイトには脱水症状との診断が記載されていない。点滴は当該状況下では必要ではなかった」、「生理食塩水の点滴は脱水に対する適切な医療であることを認めるが、極度の脱水のケースに限られる」、「一二〜二四時間は何もしないで待つというのが適切な治療だった」(全て、青木医師、レフォー医師の証言内容としてCASが認定した事実(CAS決定四〇項))という主張が、選手の健康を守るという理念に合致するのでしょうか?

 「水を飲めない」という患者の訴えがあっても、常にこの訴えを疑って、目の前で水を飲ませて、飲めないことを確認しなければ、「水を飲めないと診断したことにならない」というのが常識ある医師の対応でしょうか?

 第二に、競技の公平性の点でも、本件点滴は全く影響をしません。Jリーグは競技場外検査は行っておりません。競技場におけるドーピング検査を行っているのみでした。直近の試合は、四月二五日の全南ドラゴンズ戦(ACL戦)であり、二日後です。四月二三日に二〇〇mlの点滴をしても、二日後のドーピング検査においてマスキング(血液を希釈してドーピングを隠す)効果はありません。

 また、生理食塩水+ビタミンB一では何の競技力向上の効果もありません。

 ある医師は、疲労回復目的で「ニンニク注射」を提唱しています。「ニンニク注射」の成分は正確には示されていませんが、「様々なビタミンB群とグリコーゲンを含んでいる」と説明されています。弁護団は、スポーツ選手に限らず、治療目的以外で薬物に依存する姿勢は健全でないと考えています。弁護団は、このような「ニンニク注射」に対しては全く賛同しません。厳しく規制すべきと考えています。しかし、我那覇選手が受けたのは、グリコーゲンもビタミンB一以外のビタミンも含まれておらず、科学的には疲労回復効果などまったくなく、純粋に治療のために必要な行為だったのです。

 二〇〇七年四月の時点の報道では、Jリーグは、我那覇選手が受けたのは疲労回復目的の「ニンニク注射」だったと説明していたようです。しかし、Jリーグは、CASの審理では、我那覇選手が受けた点滴は、マスキング効果もなければ、競技力向上の効果もないことを認めました。競技の公平性の点でも何の支障もない治療でした(続く)。



七・五労働者派遣法抜本改正のための街頭宣伝

労働問題委員会担当次長  半 田 み ど り

 七月五日、「なくそう!ワーキングプア 実現しよう!労働者派遣法抜本改正」のための街頭宣伝の第二弾を新宿西口で行いました。

参加者は、団員弁護士一二名―大阪支部一名、神奈川支部一名、埼玉支部一名、千葉支部二名、東京支部七名、団本部専従一名、団東京支部専従一名、全労連からの応援四名の合計一八名です。

 四月五日、第一弾を行いましたが、最終的には相談者八名、アンケート回答者三五名と、成功に終わったという手応えを得ました。 また五月集会では「人間らしく働くルールを確立し、ワーキングプアをなくすため、労働者派遣法を派遣労働者保護法へ抜本改正することを求める決議」を採択し、ますます派遣労働者の権利を守りワーキングプアをなくそうという気運が高まる中での、この度の第二弾となりました。

 今回は、街頭宣伝・相談・アンケートだけではなく、街行く人に労働者派遣法抜本改正についてのシール投票を呼びかけました。

 労働者派遣法抜本改正に賛成か反対か、賛成の場合、どの項目の改正が必要と思うか、として、五つの項目を用意し、参加団員が各項目について内容を解説しながら投票を求めました。

 当日の成果は次の通りです。

1 当日のチラシ配布枚数 約六〇〇枚

2 アンケート協力者は二〇名

 (1)一定期間雇用すれば直接雇用とみなすことに
   賛成一八名
   どちらとも言えない 二名

 ・賛成の理由・意見

   「仕事の内容も分かり戦力となっているから」等

 (2)日雇い派遣禁止に
   賛成八名
   反対二名
   どちらとも言えない 五名

 ・賛成の理由・意見 「雇用を安定させるべき」等

 ・反対の理由・意見 「便利」「時間に縛られたくない」「日雇いは有りだが賃金を高くするなどバックアップを」等

 ・どちらとも言えない理由「禁止したら生きていけない人も」「組織に縛られたくない人もいる?」等

 (3)労働条件や福利厚生などについて正社員と均等待遇することに
   賛成一五名
   無回答五名

 ・賛成の理由・意見 「当然だ。労働は人生の時間を使うのだからそこに差別を作るのは本来おかしい」「全く同じにする必要はないがある程度までは」等

 (4)マージン率の上限規制を設けることについて
   賛成一三名
   どちらとも言えない 二名

 ・賛成の理由・意見「派遣社員の賃金をまず高額にし、そこから一五%まで」「上限規制というより中間でマージンを取ると言うことがどうも納得できない」 

 ・どちらとも言えない理由・意見「実際に派遣社員として派遣元の上司のこともよく知っており、会社として利益を得ることの必要性も分かっているので」

 (5)労働者派遣法抜本改正について意見・ワーキングプアをなくすにはどうすればいいか。

   「労働者を使い捨てにすると社会が後退するのは明らか」

   「若者が夢を持って将来設計できるようにするべき」

   「一生懸命頑張っている人にはそれに合う保障を」

   「まずは実態をもっとよく調査してほしい。派遣を選ぶそれぞれの事情にも理解を」

   「低所得者が被害を被るしかない社会を変えるべき。最低賃金をもっと上げるべきです!最低一〇〇〇円!」

3 法律相談は一名

4 シール投票

(1)投票者五三名

 (1)労働者派遣法抜本改正に賛成 四九名

 (2)労働者派遣法抜本改正に保留 二名

 (3)労働者派遣法抜本改正に反対 二名

 賛成の場合の改正項目

 (1)派遣対象業務を臨時的・一時的業務に限定すること 一二名

 (2)派遣期間経過後は派遣先に正社員として直接雇用されたものとみなすこと二三名

 (3)日雇い派遣を禁止すること 一三名

 (4)賃金、福利厚生などについて、正社員と均等待遇にすること 二六名

 (5)派遣元のマージン率(派遣料金から労働者の賃金を差し引いた金額)を制限すること 二六名

 シール投票は大判でカラフルなボードを用いたため、街の人の目にとまったのか、五三名が協力してくれました。

 二〇代前半くらいの若者から、アンケートを書かせてくださいと近寄ってきたり、ビラを受け取りに来てくれたのが印象的でした。

 意外に感じたのが、日雇い派遣の禁止について、賛成反対を問うたところ、意外にも禁止賛成者が少なく「必要な人もいる」という意見が聞かれたことです。

 折しも、前日には与党もついに日雇い派遣の原則禁止等を柱とする労働者派遣法改正について合意見通しに至ったことが報道されました。このことはあまり知られていなくても「グッドウィル帝国の崩壊」は一般にもよく知られていると思います。

 そのため市井の人にも日雇い派遣制度は諸悪の根源と受け取られていると思っていましたが、そうでもなかったようです。

 しかし、このように回答した人も、自分が日雇い派遣で働きたいかと言えばそうではないでしょう。不安定雇用を「必要とする人がいる」とは財界・政府のお得意の理屈ですが、不安定な身分で働く労働者が必要としているのはその労働によって得る生活の糧であって、不安定雇用という働き方を必要としている訳ではありません。日雇いで働けばとりあえずその日の生活の糧は得られる、しかしそのためにスキルが身につかず、就職活動に時間を割くことも出来なくなり、いつまでも日雇いから抜け出せなくなってしまう。多くの日雇い労働者はこういった悪循環に捕らわれているのではないでしょうか。日雇いを選ばざるを得なかった人に、「必要だから日雇いを選んだんでしょう」と自己責任を押しつけるようでは、いつまで経っても貧困をなくせず、アンケートの回答にもあったように「社会が後退する」でしょう。

 街の人の意見に、頷いたり、考えさせられたりの一日でした。こちらが宣伝するだけではなく、街の人と意見を交わし合うことも出来、良い経験をしました。

 将来ロースクールに進み弁護士を目指したいという学生も声をかけてくれました。

 真夏の日差しが照りつける中でしたが、今回も良い成果を上げたと思います。

 準備をして当日も一緒に行動してくれた事務局・全労連の皆様、どうも有り難うございました。