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秋山 信彦

参加した人が元気をいただいた日野原医師の講演
―東京法律事務所九条の会総会 大成功!

高木 吉朗

大阪空襲訴訟、開戦の日から六八年目に提訴

小部 正治

UR高幡台団地 現地調査報告

後藤 富士子

「親権」と「親」の乖離

阿部 芳郎

裁判官の思想と「石田長官発言」

阿部 美紀子

よろしくお願いします



参加した人が元気をいただいた日野原医師の講演

―東京法律事務所九条の会総会 大成功!

東京支部  秋 山 信 彦

 一二月二日午後六時半から市ケ谷のアルカデイア市ケ谷(私学会館)で東京法律事務所九条の会(当日までの会員約八〇〇名)の総会をひらき、日野原重明医師に「私と憲法九条」と題して記念講演をしていただきました。

 私は六五歳で日野原さんのことはある程度知っており文化勲章も受賞された保守的なかたと思っていました。今年五月に二万二千人が幕張メッセに集った「九条世界会議」の呼びかけ人になり、また「九条の会東京連絡会」の賛同者になっていただいたことを聞いて意外な方がと感心しましたが、まさか一法律事務所の「九条の会」で講演をお願いしてもとても無理だと頭からきめつけておりました。それが岸松江弁護士が交渉し承諾を得たと聞いてびっくりしました。(岸さんは引き受けていだけると確信して連絡をとったということでした。こわいもの知らずというか、若手のエネルギー、行動力はすごいですね。)

 日野原さんに来ていただくことになったものの、今までに東京法律事務所で開いた集会の参加者は多くても二〇〇人ぐらいでした。それで二〇〇人以上集めるのは大変だし、近くの旧主婦会館でという意見もありました。だいぶ議論をしてお金はかかるが駅から近くて大きな会場を借りようということになったのです。(この点、参加者の感想文で、駅から近いことがよかったと評価されていました)。

 広い会場に少人数では格好がつかないし、忙しい中を来て頂く日野原先生にも悪いので、所員は電話や打ち合わせの機会を利用し、いろいろな工夫をして参加者を確保する努力を重ねました。(若手の平井哲史弁護士は自分で「招待券」を作って依頼者などに配りましたので、当日これを持ってこられた方もかなりありました。)

 心配は杞憂で、当日会場は三五〇名の参加者でいっぱいになりました。一七〇名もの方がアンケート用紙に書いていただきましたが「とてもよい」とされた方が一五五名でした(「よかった」が一五名、「ふつう」が一名)。「感動しました」、「すばらしい講演でした」、「感動、感激有難うございました」と書かれた方が多く、閉会後会場に残って長文の感想を書いていただいた方もたくさんいらっしゃいました。アンケートを見ると、牧師の方がお二人、幼稚園の園長の方や、学者の方、設計士の方、商社勤務の方、また各地、職場の九条の会の方もおられました。さらに当日九条の会に五七名もの方が加入申し込みをして下さったのも嬉しいことでした。

 こんなに多くの方に来ていただいて、来ていただいた人も私たちも楽しく、元気をもらい、その上「よい企画をしてもらってありがとう」という声が多かったので、閉会後も所員は誰もがにこにこ顔で、二次会にいつになく多くの人が繰り出しました。

 日野原医師は聖路加病院の理事長をつとめておられますが、憲法九条をテーマに話をするのは初めてだということです。東京法律事務所がどんな事務所かよく知らないと言っておられましたが、満九七歳を迎えられた方とは思えないパワーで、九〇分を立ったままでエネルギッシュに、しかもユーモアたっぷりに楽しい話をされました。そして命を大切にすることと戦争に反対することは一体のものだということ、戦争は悪いもので、人間を鬼にすること、国会では憲法九条改正がとおっても二年後の国民投票のときにNOと言える人たちを過半数に広げることはできるととても説得力のある話をされたように思います。そのために「これから九条をまもる運動につっこもうと思っている」という気迫には圧倒されました。

 総会では学生九条の会からの企画の紹介とカンパの訴え(だいぶ集ったそうで喜んでおりました)や新宿女性九条の会からの発言もありました。

 参加した方が、私たち自身も含めて、自分もまだまだやれることがある、がんばらなくてはと思い、決意を新たにしたことが、一番の成果だったのではないでしょうか。

 最後に参加していただいた方のアンケートの中からいくつか紹介しておきたいと思います。このアンケートを読んで励まされ、記念講演を企画したよかったと改めて感じています。

・ユーモアたっぷりの楽しいお話でうんと勇気と元気をもらいました

・医師として、戦争を体験された、実績ある人の話は重みがありました

・聞いていてこちらも元気になるような楽しい講演でした

・感動しました。素晴らしい講演でした。感激、感動有難うございました

・勇気をもって九条を守る運動にとりくめる力をいただきました

・私も一つ一つ小さなことからチャレンジしていきたいと思いました

・私も勇気をもって行動に移したいと思います

・命を大切にすることと戦争に反対することは一体のものであると伝わりました

・九七歳でエネルギッシュ!すごいですね。九七歳で九条を守る運動につっこもう≠ニいう気迫に圧倒されました。私も負けすにがんばらねばと思いました

・定年を迎え余生を楽しようと考えていたのは間違いでした。古希をすぎたばかりで年だなんて言っていられないと思いました。私も積極的に生きる決意を新たにしました 

・世界を見る目、健康長寿を学べました 長生きをする秘訣も教えていただいた

・国民投票までに「NO」と言える人たちを過半数に広げるこれは可能だということで、とても勇気をまらいました

・子供たちに命の大切さを話しているボランティア活動素晴らしいです。

・今日のお話を教会の集会や地域の九条の会で伝えたいと思っています(牧師の方)

・日野原先生のように「戦争をしてはいけない」こと、「命を大切にすること」をさまざまな日常の生活経験の中で伝えていきたいと思いました(幼稚園の園長の方)

・長いスパンで物事を考え、具体的に行動を行われている‥‥自分も具体的に行動したくなりました(設計士の方)



大阪空襲訴訟、開戦の日から六八年目に提訴

大阪支部  高 木 吉 朗

一 大阪空襲の実態

 大阪への最初の大空襲(B二九による一〇〇機以上の無差別攻撃を「大空襲」と呼ぶ)は、一九四五年三月一三日午後一一時五七分から始まり、その後、終戦の前日である八月一四日午後一時一六分から二時一分まで行われた最後の大空襲まで、計八回に及んだ。一〇〇機未満の中規模の空襲の回数まで含めると、大阪の空襲の回数は、実に約五〇回に上る。

 東京よりも木造民家の密集度が高かった大阪では、度重なる焼夷弾の攻撃で一面が焦土と化し、犠牲者(死者)の総数は約一万五〇〇〇人に上ったと見られている。

二 東京大空襲訴訟と大阪での提訴

 東京では、二〇〇七年三月、東京大空襲の被災者らが国を相手取って、国家賠償と謝罪を求める訴訟を東京地裁に提起しており、現在審理が続けられている。

 今回の大阪空襲訴訟は、この東京大空襲訴訟に続き、大阪空襲の被災者ら一八名が原告となって、国に対して国家賠償と謝罪を求め、太平洋戦争の開戦から六八年目となる二〇〇八年一二月八日、大阪地裁に提訴された。

 最近では、原告らが不自由な体に鞭打って必死に署名を集め、これを厚生労働省に持参しても、厚労省は「担当部署がない」などという、にわかには信じがたい理由で署名の受領すら拒む、といった事態も起こっている。これは、憲法一六条の請願権の保障をも危うくする事態である。このような状況の元で、「このままでは死ねない」との原告らの思いをきちんと国に伝え、司法によって原告ら一人一人の「個人の尊厳」を回復し、そのことを通じて、平和についての世論を一層喚起することを、本訴は目指している。

 本訴では、(1)先行行為に基づく作為義務違反、及び(2)立法不作為、の二つの法的根拠により、謝罪と国家賠償を求めている。以下、それぞれの根拠について簡単に述べてみよう。

三 先行行為に基づく作為義務違反について

 一九四一年一二月八日に始まった太平洋戦争は、開戦の当初からして既に勝ち目の無い戦争だったというべきであるが、仮にこの点を措くとしても、当時の日本政府が、戦況の悪化という状況を冷静に分析し、判断していたならば、一九四四年から四五年にかけて日本全土で繰り返された執拗で激しい空襲攻撃は、確実に避けられたはずであった。

 少なくとも、一九四四年夏にマリアナ諸島が陥落した時点で、日本本土が空襲攻撃の射程範囲内に入ることになり、近い将来本土への空襲が行われるであろうことが容易に推測できたのであるから、政府としては、この時点までに戦争を終わらせる決断をするべきであった。

 ところが政府は、その後もずるずると戦争を継続し、一九四五年二月になって近衛首相が戦争終結の上奏文を提出した後も、結局戦争の終結は実現しなかった。そのため、一九四五年三月以降、東京大空襲にはじまる全国各地での度重なる空襲、沖縄戦、そして原爆投下などの悲劇が立て続けに起こり、国民は筆舌に尽くしがたい不幸に見舞われることになった。

 国は、自ら戦争を開戦し、終戦を遅らせて空襲被害を拡大させたという先行行為に基づき、空襲被災者らに対して援護策を講じるべき条理上の作為義務を負っていた。ところが、この作為義務を履行せずに空襲被災者を放置し、その被害および人格権侵害の度合いをいっそう深刻化させたのであり、国の作為義務違反の違法性はきわめて重大といわなければならない。

 今回の大阪空襲訴訟では、このような先行行為に基づく作為義務違反を第一の根拠として、国家賠償と謝罪を求めている。

四 立法不作為について

 戦後の日本の戦争被害補償制度は、原則として軍人・軍属のみを対象としており、民間人の被害については、外地在住・強制抑留者への慰労金、被爆者への医療給付等の例外を除いて一切行なわれていない。

 このような日本の補償制度は、国際的には特異なものである。欧米諸国では、フランス、イギリスなどの戦勝国、旧西ドイツなどの敗戦国を問わず、(1)軍人・軍属と民間人とを区別することなく(国民平等主義)、(2)また、自国民と外国人を区別することなく(内外人平等主義)、戦争被害者に対する補償を行なっている。

 今回の大阪空襲訴訟では、やはり東京大空襲訴訟と同様、戦後六三年にわたり空襲被災者に対して援護を行う立法が制定されないという立法不作為の違法性を第二の法的根拠として、国家賠償及び謝罪を求めている。

 ところで、立法不作為の違法性判断にあたって、従来もっとも基本的な判例とされてきたのは、在宅投票廃止訴訟判決(最高裁第一小法廷一九八五年一一月二一日判決、民集三九巻七号一五一二頁、判例タイムズ五七八号五一頁)であった。同判例は、立法不作為の国賠法上の違法性を非常に狭く解していた。

 しかし、その後に出された最高裁および下級審の判例の流れをみると、立法不作為の違法性を広く認めていく方向への変化が読み取れる。

 立法不作為が違法となる要件を緩和した最高裁判例としては、在外邦人選挙権訴訟判決(最高裁大法廷二〇〇五年九月一四日判決、判例タイムズ一一九一号一四三頁)をあげることができる。また、下級審判例としては、関釜元慰安婦訴訟一審判決(山口地裁下関支部一九九八年四月二七日判決、判例時報一六四二号二四頁)や、ハンセン病国賠訴訟判決(熊本地裁二〇〇一年五月一一日判決、判例時報一七四八号三〇頁、確定)、さらに学生無年金障害者訴訟判決(東京地裁二〇〇四年三月二四日判決、判例時報一八五二号三頁。控訴審も支持=東京高裁二〇〇六年一一月二九日判決)などがある。

 このように、判例上、立法不作為の違法性判断は従来ほど厳格ではなくなってきていることが明らかであり、今回の大阪空襲訴訟においても、裁判所の積極的な違法判断が期待される。

五 いわゆる戦争損害受忍論について

 空襲のような戦争被害に対して国家賠償を求めようとする場合、大きな理論上の壁となりうるのが、過去に最高裁判所が言及した、いわゆる戦争損害受忍論である(最高裁一九六八年一一月二七日、同一九六九年七月四日)。最高裁は、戦争損害については、憲法の全く予想しないところであり、国民は等しく受忍しなければならない、と判示していた。

 しかし、この戦争損害受忍論は、論理的に全く破綻しているというほかない。

 すなわち、戦争損害は、アジア太平洋戦争に起因して発生したものである。

 そして、日本国憲法は、他ならぬアジア太平洋戦争の反省をふまえて制定されたものであり、戦争損害なくして日本国憲法は生まれなかったといってよい。政府の行為によって二度と戦争の惨禍が起こらないようにすることを誓っている憲法が、そのもととなった戦争損害に対して「全く予想しないところ」などという態度をとっていられるはずがない。むしろ、新しい憲法原理である平和主義を定着させるため、さまざまな戦争防止策が立法および行政を通じて具体化されることを憲法は予定していると考えるのが自然である。そして、戦争防止策としては、侵略戦争を指導した者や加害者を処罰するだけでなく、その犠牲となった者について、補償したり保護を与えたりすることも、平和政策としては有効である。戦争損害について国が救済措置を講じることは「憲法の全く予想しないところ」であることは決してなく、平和主義を掲げている憲法の要請するところであるといわなければならない。この意味で、戦争損害受忍論はそれ自体内在的に論理的破綻をきたしている論理と言わなければならない。

 加えて、戦争損害の受忍を国民に対して強いることは、一般国民に際限のない犠牲と我慢を強要した、戦前の国家総動員体制をそのまま継承するにもひとしい愚論であるというべきである。

 このように明らかに破綻している戦争損害受忍論は、早晩破棄されなければならない。

終わりに

 こうして、東京大空襲訴訟に続いて、大阪でも空襲訴訟が提起されることになった。そこで、各地の団員各位にぜひともお願いしたいことがある。全国各地の空襲で被災した人たちの掘り起こしをして、その中でもし訴訟をしたいという人がいれば、ぜひその声を受け止めてあげて欲しいのである。

 たしかに、受忍論の壁は高い上に、立法への動きが一度頓挫してしまった現在では、新たな立法への働きかけも困難な状況にある。しかし、「このままでは死ねない」という思いを抱きながらもどこに相談したらいいのか分からない、という人は相当数いるのではないかと推察される。このような人たちの声を受け止めることこそ、団員の使命であろうと思う。

 運動論的にも、東京、大阪に続いて全国各地で訴訟が提起されることになれば、いやがおうにも世論の関心を集めることになる。

 団員各位には、ぜひ積極的な検討をお願いしたい。



UR高幡台団地 現地調査報告

東京支部(幹事長)  小 部 正 治

 一二月七日午後一時半から東京都日野市にある旧住宅公団の高幡台団地の七三号棟で「耐震構造上問題がある」として「除去」することを理由に立ち退きを求められている問題で現地調査が行われました。団本部市民問題委員会のメンバー、地元日野市に在住の団員、相談を受けている八王子合同法律の団員を含め団員一三名が参加。「国民の住まいを守る全国連絡会」(住まい連)のメンバーと建築家集団も同数程度。遠く千葉や埼玉の団地関係者や日野在住の方など。七三号棟をはじめとする団地住民が約三〇名。合計五八名が参加しました。

 この団地は昭和四五、六年に分譲二六棟五二〇戸、賃貸五六棟一一八八戸の合計一、七〇八戸の大団地として建設されました。三六年が経過し団地は高齢化し付設された小学校は廃校となりました。七三号棟は、団地のほぼ中央に存在する一一階建てで唯一エレベーターが付設され、一階にはスーパー、郵便局、診療所、歯科、居酒屋・飲食店、肉屋、集会所など団地に必要不可欠な施設・商店街が設置されたセンター棟で、三階以上に住居部分が二一〇戸あります(現在一四五戸に居住)。

 午後一時三〇分に集合した私たちは、耐震改修工事が適切でない理由となっている一階商店街(耐震工事をすると営業に差し支える、建設中の営業補償が高額となる)、一、二階北側の屋根の状況(耐震工事が難しい)、傾いている共用廊下(工事に過大な費用がかかる)、エレベーターの状況などを説明を受けながら確認・体験しました。

 午後二時から懇談会では、「七三号棟に住み続けたい住民の会」の代表から今年三月二九日に開催された説明会で、いきなり「退去せよ」とそれ以外の選択肢はないような言われ方をされ、以後も住民の声に耳を傾けようとしないとの訴えがありました。七三号棟の住民五名からも率直な意見がありました。「足首の関節をはずして入院して戻ってきて、エレベーターがあって良かった。急に出ていけといわれて悩んだ。」「定年になってのんびりと思ったら七三号棟だけどけとは到底納得できない。何とか住み続けたい。」「四年前に引っ越してきた。わかっていれば引っ越してこなかったのに。ポストやピロティまできれいにしてもらったのに。」「三七年住んでいる。出ていった人も戻りたいと言っている。URは説明不足だ。」「一番古くから住んでいる。除去といわれてどきっとした。職員が訪ねてきたが震度六まで大丈夫と言った。そんな地震は五〇年は起こらない(笑い)。エレベーターはあるし、商店街もあり、銀行も郵便局もあり、とても便利で引っ越す気がしない。」住み続けたいという気持ちが理解できました。

 八王子合同法律事務所・飯田団員から「法的視点」から住民に対してわかりやすい報告がありました。現在なされているURの説明は解約の申し入れで一方的なお願いに過ぎないこと、解約に関する「正当事由」は存在しないこと、したがって立ち退く必要がないことを説明しました。特に、「耐震強度」を問題にしているが情報開示請求によってもその根拠となるような資料は出されていないこと、資料はほとんど黒塗りであり説明できないのは「アヤシイ」ということを強調されました。

 構造設計の専門家相原氏から耐震問題と立替問題に関して報告がありました。

 日本では昭和五八年に「新耐震法」ができたのですが七三号棟はそれ以前の旧耐震法の基準によって建てられているために、「〇・四八」と五〇%を切っているのです。しかし、上の方は強く作られていて安全度も一を超えています。この建物は、ラーメン構造(南北方向)と壁構造(東西方向)で作られていて、壁構造は結構強いものです。ですから、旧基準であっても、はなから「除去」の話はありません。金さえかければ補強はできます。「合理的」とは誰に取ってなのかを考えるべきです。

 また、何が基準となっているのかを明らかにすべきです。建てたときから不良品、欠陥住宅だったように見えます。例えば、共用廊下が傾いていると言うが確かに三〇ミリメートルも傾いていました。基準は一・五ミリメートルですから、部分的な施行不良ではなく、オープンにできない抜本的な施行不良があるとしか言いようがない。

 さらに、URの開示された資料だけをみても意図的に立て替えのハードルを高くしている。「ウソ」の臭いがプンプンしている。私は、上の階を二〜三階カットすればそのまま維持できると診断します。これこそが「都市再生」です(笑い、拍手)。

 意見交換では、千葉・幸町団地の関係者、建築家、七三号居住者、他の号棟居住者、近隣の居住者、日野市議など一〇名から発言がありました。七三号棟だけの問題にとどまらず高幡台団地全体の問題とすべき、七三号棟のエゴの運動にせず他の中層棟のエレベーター問題も実現したい、「最後の一人まで残って闘う」ではなく集団として攻勢的に取り組む必要がある、自治会との協力を目指すべき、中高年にエレベーターは必要不可欠である、出ていけといわれて心がむしばまれ非常に疲れているなどの意見がありました。 

 集会が終わった四時過ぎから、お願いしていた高幡台団地自治会の会長以下七名の方と三〇分ほど懇談しました。会長から「私たちも理不尽だと思っています。どうしても壊さなければならないと言うなら建て直すべきです。」「公団自治協として二一七団地の反対署名を提出しています。私たちも第四ブロックの一〇団地でそれぞれで署名しています。」と説明されました。他の役員からも「説明会でスライドを見せられただけで資料など提出されていない」「高齢者には七三号棟にある商店や診療所棟は必要。車をもっている人は別にしてバスに乗って駅前まで行くのは大変」「取り壊した後どうするのか。その説明もなく先が見えない」「中層階へのエレベーター設置についてはURに口頭で請求している」など、反対の意見が出ました。弁護士が八名ほど参加したので最初は構えていた雰囲気でしたが、最後には和やかな雰囲気のうちに終了しました。

 その後五時三〇分から、高幡不動駅前の居酒屋で飲み会がありました。「住民の会」「住まい連」の方も含めて一四名が現地調査の成功を喜び、今後の活動について盛り上がりました先に帰られた田中前幹事長から提案されていた「意見書は是非建築家と共同で出したらどうか」は住まい連の賛同を得ました。「今日は千葉や埼玉の関係者も来ていたので、現地調査を実現できないか」という積極的な話もでました。尾林弁護士からは「この問題は住民が立ち退かずに頑張るという課題ではなく、民営化路線を強行しようとするUR等を攻勢的にせめて方針の変更を迫るべき課題である」という提案から、団と住まい連や三団地の関係者で協力して国会請願をもとうではないかという結論になりました。

 みなさん、今後ともよろしくお願いいたします。



「親権」と「親」の乖離

東京支部  後 藤 富 士 子

 民法では成人年齢を二〇歳としており、未成年者は「親権」に服することになっています。「親権」の内容は、子を監護・教育することや居所指定権などです。

 問題は、「親権者」は、養親も含め、「親」でなければなりませんが、「親」なら必ず「親権者」かというと、そうではないことです。

 具体的にいえば、両親の共同親権制は、父母が法律上の結婚をしている間だけのことで、未婚や離婚では、両親がいるのに「親権者」はどちらか一方の単独親権です。未婚や出生前に両親が離婚した場合は、原則として母が親権者で、例外的に協議で父と定めることができます。離婚の場合は、どちらかが原則ということはありませんが、協議でどちらか一方を親権者に決めなければなりません。いずれの場合でも、協議がまとまらないときは、家庭裁判所に審判を求めることができます。

 つまり、単独親権になる場合は、片方は、親でありながら、親権を喪失するのです。しかも、離婚や未婚は、それ自体では親権喪失事由とされる「親権の濫用」「著しい不行跡」に当りません。

 私が弁護士になった一九八〇年には既に、親権争いのために離婚事件が紛糾し、しかも子の「身柄」の争奪が熾烈化する事件を目にしました。当時は、離婚調停を家裁でやって、離婚の合意はあるのに親権の争いがあるために、地裁へ離婚訴訟を提起しなければなりませんでした。離婚訴訟の管轄が家裁になったのは、二〇〇四年四月からです。

 今日では、離婚の増加、少子化、そして男性の育児参加が進む中で、離婚に伴う子の争奪紛争は、増大しています。しかも、離婚前の別居段階で、家事審判前の保全処分、本案審判、さらには人身保護請求などにより、簡易迅速に子の「身柄」を確保する手続が活用されるようになったことで、子どもの争奪紛争は、極めて熾烈で非人間的な様相を呈しています。「子の引渡し」の強制執行は、まさに「捕獲」「拉致」です。子どもの意思を無視して、大人の理屈で、無理やり子の「身柄」を移動させるわけですから、狂気の沙汰です。

 また、別居親の子どもとの面会交流は、法的に保障されていないし、家裁の実務でも消極的です。したがって、「単独」の親権を持つのと持たないのとでは、天国と地獄の差があるのです。単独制は小選挙区制の原理ですから、相対的優位者が絶対権力を取得し、敗者は無力になるのです。しかし、両親の適格性の差は、それほどはっきりしたものではありませんから、親権喪失事由がないのに親権を喪失させられた親は、理不尽・不条理としか思えないでしょう。

 離婚は親の都合です。親の都合で両親と同居できなくなること自体、子どもにとっては不利益でしょう。そのうえ、親権をめぐって争いになり、「身柄」の争奪まで起きると、それ自体、子の福祉を害します。さらに、私が最も不思議に思うのは、子の養育に何の責任ももたない裁判官が、なぜ、どちらか片方の親から親権を剥奪できるのかということです。おそらく裁判官は「親権を剥奪している」という意識すらないのでしょうが、そういう不感症が人間不在の司法をもたらしているのです。

 日本でも一九九四年に「子どもの権利条約」が発効しました。この条約では、子どもの人格の完全かつ調和のとれた発達のためには家族・家庭という社会の基礎的集団が重要であり、子どもは父母によって養育される権利を有し、父母は養育について共同責任を有すると謳っています。また、子どもは父母の意思に反して父母から分離されないし、分離されている親と定期的に人的関係・直接接触を維持する権利が尊重されます。そして、子どもは、自分に影響を及ぼす事項について、自分の意見を表明する権利が認められています。

 この条約により、欧米諸国では、離婚と子どもをめぐる法制度は抜本的に改革されました。一口で言えば、離婚後も共同親権・監護が原則とされ、子どもの意思を尊重する手続的保障がなされるようになったのです。

 ところが日本では、相変わらず「子の問題」は離婚に付随する問題として処理されています。単独親権制のまま離婚訴訟の附帯処分として親権者指定がなされるため、親権争いに勝つためには「子の身柄」を有していることが必須になります。そこから身柄争奪が離婚とは別個の法的手続で争われるようになるのです。

 このような不毛で残酷な「裁判闘争」をなくすには、保全処分、本案審判、人身保護請求など、「身柄」レベルの争いについて、各裁判所が個別に結論を出すのではなく、「離婚と子ども」の紛争として、それを扱う手続を一元化することです。身柄の争奪が実際に起きても、公権力が紛争に介入するなら、PKO精神で、現状を凍結するのです。そして、離婚後も共同親権とし、「同居親をどちらにするか」と「別居親の監護内容をどうするか」をセットで決めるのです。そのためには、家裁調査官の科学的調査を実施し、夫婦双方に「ペアレンティング・プラン」(子育て計画)を提出させて調整し、合意を促し、合意に至らない時に審判するのです。

 つまり、裁判所がなすべきことは、父母に「子の最善の利益」を図る共同責任を自覚させることです。こうすれば、消耗で不幸な紛争をなくすことができるし、離婚後もそれなりの生活が親にも子にも保障されるのではないでしょうか?



裁判官の思想と「石田長官発言」

司法ジャーナリスト  阿 部 芳 郎

 世田谷国公法弾圧事件の判決文を読んで思い出したことがある。一九六九年から七三年まで最高裁のトップの座にあった石田和外長官の発言である。                     

 石田は、在任中の七〇年五月二日、「憲法記念日」を前に行った記者会見で「共産主義者は裁判官としてふさわしくない」との見解を表明し、物議をかもした。改めて当時の新聞報道を読み返してみると、発言の背景、最高裁の本音があらわになっていることが分かる。

 七〇年五月三日付の朝日新聞は、「明確な共産主義者など裁判官に向かぬ 石田最高裁長官が見解」という見出しとともに、一面トップで扱った。「共産主義者…」うんぬんの部分は次のような内容である。

 「裁判官は一般国民とは違う。憲法を擁護しなければならない。憲法、法律の精神を生かし、法律を解釈して裁判するという能動的な立場にある。極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者は、その思想は憲法上自由だが、裁判官として活動することには限界がありはしないか。法律的な意味でなく常識的にいうと道義的には国民から認容されないのではないか。憲法を是認し、それに沿ったもの(思想)でなければ少なくとも道義的に好ましくない」

 「裁判官は法律と良心に従って裁判するが、ここでいう『良心』とは思想、人生観など全人格を意味するもので、裁判官が自分の思想と裁判を切離すような器用なことはできない、と思う」

 新聞によってニュアンスの違いはあるが、趣旨は同じである。

 かりに、民間企業の社長が「わが社の社員たるもの、共産党に入党すべきでない」と言ったとすれば、それは「思想・信条の自由、結社の自由に反する」として批判されるであろう。それと同様のことを、「憲法の番人」である裁判所の最高責任者が語ったのだから、その言葉の重みは、その比ではない。しかし、石田長官は、訴追されるでもなく、罷免されるでもなく、問題発言後も二年間、最高裁トップの椅子から降りることはなかった。

 石田発言は、この日、唐突に出てきたのではない。これには伏線があった。発言の約一カ月前に発表された「裁判官の心構え」と称する最高裁の公式見解で、岸盛一最高裁事務総長談話という形で発表された。

 「裁判官はその職責上、特に政治的中立性が強く要請されているのは当然である。これと同時に裁判は国民の信頼の上に成立っており、裁判官は常に政治的に厳正中立であると国民に受取られるような姿勢を堅持することが肝要だ。裁判官が政治的色彩を帯びた団体に加入していると、その裁判官の裁判がいかに公正であっても、その団体の活動方針にそった裁判がおこなわれたと受取られるおそれがあり、裁判が特定の政治的色彩に動かされていないかとの疑惑を招く。裁判は公正でなければならないだけでなく、国民から公正であると信頼される姿勢が必要であり、裁判官は各自か深く自戒し、いずれの団体にせよ、政治的色彩を帯びる団体に加入するのは慎むべきである」

 この見解は、当時、法曹界で大きな問題になっていた青年法律家協会(青法協)加盟裁判官に対する事実上の脱退勧告として受け止められ、またその「踏み絵」として利用された。

 この「見解」と石田発言から、見えてくるものは何か―。判決には裁判官の思想が反映するのであって、ある政治的色彩を持っている訴訟で、特定の政治勢力の主張に沿った判決を出すと、いかに裁判が公正に行なわれても、国民から疑惑を招く。だから、青法協には入るな、共産党に入党するな、ということである。石田は、裁判官にふさわしくないものに、極端な軍国主義者、無政府主義者も例にあげて、「裁判所の中立」を「偽装」したのだが、石田自身が、退官後、軍人やA級戦犯を「英霊(神霊)」として靖国神社に合祀し、天皇、首相の靖国参拝を求めている「英霊にこたえる会」の初代会長を務めた「極端な軍国主義者」だったことで、底が割れてしまっている。

 国公法弾圧堀越事件、世田谷事件はいずれも、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」(号外)を配布したことが、国家公務員法、人事院規則が定める「政治活動の禁止」に当たるとして、一審で有罪判決が言い渡された。堀越明男、宇治橋眞一両氏のビラ配布は、休日に業務とは無関係に、しかもだれが見ても公務員とわからない服装で行なわれた。ところが、判決は、共産党員であることだけで「公務員の政治的中立が損なわれ、ためにその職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の運営に対する国民の信頼が損なわれる」といっているに等しい。

 三八年前に公表された最高裁事務総局の「裁判官の心構え」のうち、「裁判官」の部分を「公務員」と読みかえれば、そっくり猿払最高裁判決に当てはまる。それをそのまま踏襲した「コピー&ペースト判決」が国公法弾圧二事件の判決である。

 猿払最高裁判決が出されたのが、石田発言、岸事務総長談話の二年後の七二年、石田長官在任中のことである。憲法違反を恐れぬ三八年前の最高裁の見解が、いまも裁判官の頭の中にこびりついているとしか思えない。

 人権や民主主義に対する世界の潮流は当時とは比較にならないほど進歩・発展している。そのことを示しているのが一〇月三一日発表された国際人権(自由権)規約委員会の総括所見である。同委員会は、市民的及び政治的権利に関する自由権規約の実施状況について日本政府の報告書に対する総括所見は、その中で、「表現の自由に対する不合理な制限の撤廃」を勧告し、次のように指摘している。

 「委員会は、公職選挙法上戸別訪問が禁止されていること、市民や公務員がビラを配ったことにより逮捕・起訴されたこと等、公共の問題に参加することに不合理な制限があることに懸念を表明し、このような制限を撤廃することを勧告した」

 併せて、かねてから問題になっていた裁判官、検察官、弁護士に対する国際人権法の教育についても、まだ不十分であること、日本の裁判所や捜査機関は自由権規約を誤解している例が多く、下級審の裁判官を含めて自由権規約の解釈適用を職業訓練に含めるよう勧告した。 

 今回の国際人権規約委員会の勧告は、日本の裁判官に数一〇年に及ぶ思考停止状態から直ちに目覚めるよう求めているともいえよう。



よろしくお願いします

専従事務局  阿 部 美 紀 子

 七月一五日から自由法曹団本部でアルバイトをしておりましたが、一二月より森脇圭子さんの後を引き継ぎ専従事務局となりました阿部美紀子と申します。一〇年程前まで法律事務所で約一一年ほど働いておりました。

 昨年には九月ハルピン・瀋陽・撫順へ、一二月には南京・杭州・烏鎮と中国を旅する機会があり、それぞれ一週間ほどの旅でしたが、自分自身にとって大変大きな、意義深い旅となりました。 

 特に撫順市では七五年前の満州国で旧日本軍が平頂山村(正しくは鎮)の何の罪のない三〇〇〇名もの村人を虐殺したという平頂山事件※の存在(その遺骨の山々を目の前にしてただただ呆然とするばかりでした)と、撫順の戦犯管理所(平頂山事件を始め南京大虐殺など、それまで中国やアジアであらゆる蛮行を行ってきた旧日本軍に対し、人道的な待遇で最高刑二〇年という寛大な対応をし、誰一人処刑することもなく全員を日本へ送り返した)の存在を知ったことです。 

 仕事を辞めてから憲法九条を守るボランティアなどをしながらも鬱々とした日々を過ごしていたそれまでの自分にとって、この事実をまったく知らずに一体何をやってきたのだろうか?と、目が覚める思いで帰国しました。

 もっともっとこの事実を九条を広げるとともに多くの人たちに知らせていかなければ…と、帰国後は平頂山事件・撫順戦犯管理所を知らせていく運動に加わり活動をしてきました。

 今年の九月には東京大学弥生講堂で行われた「撫順から未来を語るシンポジウム」を実行委員会の一員として企画し、約二六〇名もの参加でシンポジウムを大きく成功させることができました。  

 また日朝協会主催の勉強会や本などで東アジアの歴史を学んでいく中で、自由法曹団の創始者の一人である布施辰治さんと朝鮮の人々とのかかわりなどを学び、自由法曹団の存在を再認識することができました。

 偶然にもその様な折に専従の渡島さんより「団で仕事をしてみないか?」と声をかけて頂き今日に至りました。 

 まだまだ仕事の方は不慣れで覚えることも沢山ありますが、これまでの経験を活かし良い仕事ができるよう頑張って参りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 ※平頂山事件訴訟弁護団編著「平頂山事件とは何だったのか」

  高文研と、この本の書評は団通信一二九二(一二月一日)号   (鳴尾節夫団員)をご参照下さい。