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秋山 健司 変えて行く、市民とともに、裁判を。
〜裁判員制度をめぐる京都の取組み〜
小池 振一郎 裁判員裁判開始に当たって運用上獲得すべき課題
川口  創 「平和のための国民審査」(竹内バッテン)運動開始しました。
小貫 陽介 「弁護士九条の会」
広田 次男 八ッ場ダム訴訟 三連敗の教訓
菊池  紘 大森鋼三郎さんへのお別れの言葉
中野 直樹 大森鋼三郎先生 ありがとうございました
中野 直樹 鬼門の峪(その一)
渡邊  純 松川事件発生六十周年記念全国集会へお越しください



変えて行く、市民とともに、裁判を。

〜裁判員制度をめぐる京都の取組み〜

京都支部  秋 山 健 司

裁判員制度実施時期を如何に迎えるかについての京都支部での議論

 京都支部では、裁判員制度が実施された場合には、裁判員となる市民に裁判員制度のもつ可能性と問題点をよく理解して頂いた上で裁判に臨んで頂くことが極めて大事であるという議論をしてきました。そこで昨年の暮れから、市民の皆さんとともに、裁判員制度の意義と問題点を考え、深めることのできる企画を追求してきました。

市民集会の企画準備

 昨年一二月二日、京都支部の司法刑事プロジェクトのメンバーは、国民救援会京都府本部、京都マスコミ文化情報労組会議(京都MIC)、京都総評に呼びかけて裁判員制度を学ぶ学習会を行うとともに、市民に向けて裁判員制度のもつ可能性と問題点を訴える企画をともに作りたいと呼びかけました。呼びかけへの賛同を得て、その場で企画の実行委員会を結成し、裁判員制度が実施される二〇〇九年五月二一日頃に集会を行うことを確認しました。以後、実行委員会と実行委員会事務局会議を中心に企画を作り上げていくことになりました。

 企画の目玉については市民にもおなじみで、かつ裁判員制度のもつ可能性と問題点をわかりやすく話して頂ける講師を探し続け、大谷昭宏氏に決まりました。

 実行委員会会議は、制度とそれにまつわる問題点を学習し、深めながら企画を作っていく場であるべきということが意識され、毎回の実行委員会会議では、学習コーナーを冒頭に設けて、制度そのもののもつ可能性や問題点、マスコミ報道の在り方等について学習をしてきました。学習を行った上で実務的な課題(呼びかけ団体の拡充(オルグ)活動、街頭宣伝活動、マスコミへの働きかけ方等)についての計画を練り上げていきました。その計画を遂行していく中で、裁判員裁判以外にもさまざまな政治的課題が渦巻いている中、少しずつ、関係諸方面にこの企画を浸透させていきました。街頭宣伝には京都支部の司法刑事プロジェクトメンバー以外の団員も参加してくれ、たくさんのチラシを配布することができました。

市民集会当日

 実行委員や支部団員の努力の結果、八つの呼びかけ団体、五つの賛同団体を得て集会当日を迎えることができました。集会当日は雨の中、約一八〇名もの参加者を得ることができました。大谷昭宏さんからは、市民による司法参加の根源的意義や、現行制度のままではその意義が発揮されない危険が高いことなどをお話してもらいました。支部団員による制度解説も添えることで、来場者には裁判員裁判の具体的なイメージももってもらえるよう工夫しました。結果、回答者の五〇パーセントが裁判員裁判に積極的に参加したいとの気持ちをもったとの結果を得ることができました。少なくない参加者に、裁判員制度のもつ可能性についてのメッセージを受け止めてもらえたのではないかと思います。

反省と課題

 実行委員はそれぞれ、多忙の中でできるだけの努力をしてきました。しかし、労働組合への働きかけが十分にできず、労働組合系の方々の企画準備、集会への参加が弱かった点が残念な点として残りました。

 また、大谷昭宏さんの講演内容も、今の制度のままでは市民参加が弊害を生むという側面が強調された内容と受け止められる内容であったため、「実際に裁判員に選ばれたら困難な条件の中でも冤罪防止のために期待される役割を果たす。」という意識を集会参加者に十分にもっていただくことができたであろうかという不安が残りました。

 これらの点の反省を、今後の取組みを進める上で十分に深める必要があると思います。

 しかし、この集会を経て、たくさんの市民と裁判員制度をめぐるつながりをもてたことは貴重な成果であったと思います。このつながりを活かしていくことが、裁判員制度を通じて冤罪を防ぐ運動にとって非常に重要な点であると思います。

今後の取り組み

 今、上記集会の実行委員会を、「裁判員制度懇談会」に改組して、実際にスタートした裁判員制度を見つめ、冤罪防止のために何が重要かを市民の皆さんとともに考え行動していく取組を始めています。また京都支部刑事司法プロジェクトでは、プロジェクト会議の中で最高裁の「模擬裁判の成果と課題」を資料にした学習に取り組み、そこで学んだことも糧にして市民向け裁判員制度学習会講師活動に取り組んでいます。

 京都支部では、実際の裁判員裁判の中で、市民参加の意義が十分に発揮されるよう、市民とともに活動する取り組みをこれからも追求していこうと考えています。



裁判員裁判開始に当たって運用上獲得すべき課題

東京支部  小 池 振 一 郎

運用実績の確保がきわめて重要な時期

 裁判員制度を実施すべきか、延期すべきか、団内で意見が分かれたが、それは、延期したら裁判員制度そのものが潰れるのではないかという政治的見通しについての判断の違いによるのであって、裁判員制度の問題点についてそれほど意見が分かれていたわけではない。

 裁判員法が施行され、いよいよ裁判員裁判が八月から始まろうとする時期となっては、もはや延期論云々ではなく、裁判員制度の問題点を実践上どう克服していくかが、問われるだろう。

 この時期は、運用上何を獲得するか、その課題を明確にして総力を結集することがとりわけ重要である。裁判所にとっても、検察側にとっても試行錯誤の時期であるからこそ、弁護側が頑張ればそれだけ実績となって被疑者・被告人、弁護人の権利を確保し、拡大することができる。

 そこで、以下、裁判員裁判開始に当たって運用上獲得すべき諸課題について述べる。

選任手続

 被害者、被告人との関係など、簡単な質問にとどめるべきではないか。

 死刑廃止論者か否か、警察の拷問による自白の強要があると思うか、といった質問をすると、検察官の理由を示さない不選任請求(裁判員法三六条)の対象となる恐れがある。死刑事件の審理に死刑廃止論者がいても、問題ないし、いろいろな市民が参加するところに裁判員制度の意義がある。

 また、ワイドショーをよく見ているか、という質問にどれほどの意味があるか。メディアの事件報道の影響の度合いを線引きできるのか、それが選任手続でわかるのか、甚だ疑問である。

 アメリカの陪審では、選定手続で陪審員候補者の考え方や偏見や好みを見つけ出すために厳しい質問をする。一九九二年服部君事件では、四〇人以上の陪審員候補者から?人の陪審員を選定する手続において、被害者に同情的な感情を表明した陪審員候補が次々と排除された。だからこの選定手続の段階で評決結果が予想されたといえる。これは公平な裁判といえるのか。イギリス型の、書記官がアトランダムに選定する「ランダム・セレクション」の方がいいのではないか。

 最高裁もいまは、簡略化の考えのようであるから、その方向を定着させたい。

公判前整理手続

(公表)

 韓国参与制度では原則公開とされるが、日本では規定がない。親族、支援者などの傍聴を実現することができないか。「申し出による傍聴を支障なき限り許さなければならない」との民事の弁論準備手続規定(民訴一六九条二項)と同様とみるか、反対解釈で刑事はできないとみるか、見解が分かれる。

 ただ、公判前整理手続の内容をマスコミなどに公表することに躊躇する必要は全くない。裁判所も検察側も公表することがあり得ると言明しており、現に始まっているところがあるようだ。これは守秘義務とは関係ない。

(拙速にしない)

 一部の裁判所では、二週間以内に認否を迫るなどという文書を用意しているようだが、類型証拠開示もないままに応じることはもちろんできない。愛知県弁護士会の「公判前整理手続 べき・べからず一〇カ条」が参考になる。

 拙速にしないで、全面証拠開示を求めて、「○○の供述調書はこれがすべてか」と必ず確認するようにしたいし、鑑定にはじっくりと時間をかける必要がある。

 最高裁も、「事案の真相解明は、審理期間の短縮以上に重要な課題である」(最高裁事務総局刑事局「模擬裁判の成果と課題」)と軌道修正してきた。三好幹夫東京地裁刑事所長代行は、これまでの公判前整理手続について、「裁判所の『オーバーラン』と映るような事態が生じたようである…当事者の活動を無理に制約するようなかことは相当ではなく…多少時間がかかってもきちんとした整理を行うことが必要である」と述べている(二弁フロンティア本年七月号)。

(主張・証拠制限)

 裁判所の強権的な訴訟指揮を許さず、弁護側の主張・立証をどこまで明らかにするか、ケースによって異なるであろう。公判前整理手続の時点で証拠調べ請求しないという方針に合理性が認められる場合は「やむを得ない事由」に当たるという判例解釈を実践上活用して徹底的にたたかうこと。逆に、検察の公訴事実をここできちんと固めておくことが重要である。裁判員裁判では、最早、御殿場少年事件のような訴因変更は許されない。

証拠の目的外使用

 「審理の準備に使用する目的」(刑事訴訟法二八一条の四)を広く解釈する運用、実績をつくることが重要であり、それは弁護人の権利であり義務でもある。堀越事件で開示ビデオのテレビ放映を決断した弁護団は、その先陣を切ったと高く評価される。

 表現の自由に関するヨーロッパ人権裁判所の判例(国民に議論する場面を提供しなければならない)なども活用して、緻密な理論構成を構築する必要がある。

説示

 「無罪推定の原則」などについての裁判長の説示をチェックするために、弁護人に開示されるべきである。アメリカでは、審理の最初と最後に公開法廷で陪審員に必ず説示する(選定手続でも行われる)ようで、分厚い説示集がある。日本でも、定型化を目指すべきではないか。整理手続の中で説示内容を詰めることも考えられる。

 なお、弁護側が推定無罪原則などについて言及することがあるのは当然であり、冒頭陳述では許されないという検察の意見もあるようだが、抽象的な理念論争ではなく、個別ケースに即した冒陳は当然許されるべきである。

 日弁連は、「無罪推定の原則」などについて説明するパンフ「えん罪を生まないために」(仮題)を準備中であり、裁判員(候補者)に配布して、自白の危険性などを訴えたい。

量刑データベースの活用

 プロの裁判官でも量刑には幅がある。重罰化の世論に抗しきれず、重罰化の立法と判例を重ねてきたのはプロたちである。そこに市民が加わる。法廷で、被害者の立場だけでなく、被告人の立場を直に聞いた裁判員が量刑についてどのような判断をするか。弁護人が、刑務所の実態と重罰化の問題を裁判員に真摯に訴え、重罰化を阻止するチャンスと捉えるべきではないか。裁判員制度の下でこそ、弁護人の活動次第で、局面を打開する道が開ける。弁護人の力量が問われる。

 ようやく行刑への関心が出てきた。刑罰とは何か、刑務所の実態、無期刑などの仮釈放の運用の実態、死刑の実態などに触れる弁論が必要であり、最近発刊された日弁連パンフ「裁判員の皆さまへ 知って欲しい刑罰のこと」を裁判員(候補者)に配布するなど、大いに活用されたい。

 ちなみに、フィンランドでは、終身刑でも一三〜一四年で仮釈放され、二〇年以上収容されるケースはあまりない。刑務所に長期間いればいるほど社会復帰が困難になり、かつ、費用もかかるので、なるべく早く社会復帰させた方がよいという発想である。そのために、一九九二年から社会奉仕命令という社会内処遇の制度を創設した。

 そこで、量刑データベースの活用が問題となる。全国的な公平性を担保するためには、むしろ活用されるべきだろう。

 裁判所は、量刑データベースを評議室に常置するようである。これは評議の場で裁判官によって使われると見なければならない。重要なことは、評議の場で無批判に使わせるのではなく、弁論で、量刑資料についての弁護側の意見を明確に述べることである。データベースは、わずか一年前からの資料で、既に重罰化されている時期であり、あくまでも参考に過ぎないことを押えておくことである。

死刑判決

 但木元検事総長は、「死刑の結論はよほどのことがない限り、全員一致するまで話し合うべきだ」と述べる(本年五月九日付日経新聞)。このような運用が実際になされるように、少なくとも三分の二の特別多数になるまで慎重に評議するようにすべきである。

守秘義務

 最高裁は、評議についても「感想」を言うのはいい、制度改善のためには経験の共有が大切であると明言している。判決後の裁判員たちの記者会見が予定されている。ここには裁判所から一人(恐らく、管理部門の裁判官)が同席するようであるが、積極的に「感想」を述べるようにしたい。

 法務・検察幹部たちは、「悪質なケースでなければ、処罰されないだろう。むしろ、裁判員に体験を語ってもらうことが制度の定着につながる」(本年五月二〇日付毎日新聞)と、但木元検事総長は、「実際に刑事罰が科せられるのは極端な場合に限られると思います。 私はむしろ、評議で自分が考えたことや感じたことなど、経験を大いに伝えてもらえるよう期待しています。」(本年五月三日付朝日新聞)と、公式、非公式に表明している。

 このような状況下で、裁判員をびびらせないで、大いに「感想」を言い合う社会的雰囲気を作りたい。そのためにも、裁判員であった者の守秘義務の範囲を限定的に解釈する運用を定着させたい。

 「秘密」とは、実質的に秘密として保護に値するものをいうから、「評議の経過」を抽象的に話すのは「感想」として当然許されるし、「それぞれの裁判官若しくは裁判員の意見」(裁判員法一〇八条二項二号)について、裁判官、裁判員の「それぞれの」具体的な名前を出さない限り、自由に「感想」を述べられるという運用、解釈を実現したい。

 そうすることによって、今後の制度改正の現実的な展望が出てくるだろう。

無罪判決に対する控訴審

 そもそも、米国のように、無罪判決に対しては上訴できない制度とすべきであるが、裁判員制度によって、ようやくこの問題に光が当たり始めた。

 とりあえず、無罪判決をどうしても破棄すべき場合は、破棄自判の有罪判決は避け、破棄差戻し判決とするのが裁判員制度の趣旨であり、そのような運用を確立すべきであろう。

刑事司法改革へ

 いまこそ、裁判員制度の意義を広く訴え、市民が積極的に裁判員に取組み、その「感想」を大いに述べ合えるようにして、運用改善と制度改革につなげていきたい。そのために、裁判員経験者の組織化も検討してみたい。

 警察拘禁二法案反対運動以来、四半世紀にわたって、代用監獄の廃止をはじめ刑事司法改革に関わってきた者として、裁判員制度を梃子として、国際人権規約委員会の勧告も受けて、代用監獄を利用して膨大な供述調書(一代記)を作成する捜査構造を変革する機会としたい。



「平和のための国民審査」(竹内バッテン)運動開始しました。

愛知支部  川 口   創

 二〇〇八年一〇月、麻生内閣は竹内行夫元外務事務次官を最高裁裁判官に任命しました。

 竹内行夫氏は、小泉首相時代の外務省のトップである外務事務次官を務め、ブッシュのイラク戦争支持や自衛隊のイラク派兵を積極的に推進した人物です。

 イラク戦争に反対したレバノン大使(天木直人さん)を「クビ」にしたのも竹内氏ですし、イラクで邦人三人が「身柄拘束」されたときにも、「自己責任だ」と切って捨て、三人への「バッシング」を助長したのも竹内氏です。

 今やイラク戦争についてブッシュ元大統領でさえ「間違っていた」と反省をしています。

 イラク派兵については、去年の四月一七日に名古屋高裁が明確に「憲法九条違反」と断罪しています。これに対し、日本政府はイラク派兵について検証すらせず、逆に違憲判決が出た直後に竹内氏を最高裁の裁判官に送り込んだわけです。

 政府は、これからも違憲の海外派兵を進めていきたい、しかし名古屋高裁のような違憲判決が出ては困る、そこで司法府に縛りをかけるために最高裁に竹内氏を送り込んだ、そう考えるべきではないでしょうか。

 この最高裁人事には、政府の「イラク派兵は一切反省しない」「今後も違憲の海外派兵を強行していく」という明確な意思も伺えます。その先には明文改憲も視野に、「改憲シフト」としての最高裁人事と考えることも十分可能です。

 そもそも、「違憲」とされた張本人が、「違憲」と批判した「司法」のトップに座る、ということ自体、あってはならないことです。

 しかも、最高裁は全国の裁判官の人事権を握っていますから、イラク戦争に反対した大使を「クビ」にされたのと同じように、憲法に忠実な裁判官が「冷遇」されていく危険性も生じます。

 行政が憲法に反する政策を行った場合には、しっかりと「間違っている」と指摘していくことが求められています。「三権分立」からも当然のことです。

 また、政府によって平和憲法が蔑ろにされている中で、政府の違憲行為を正すべき裁判所がその違憲立法審査権をますます行使できなくなっては、平和憲法を護り活かすことは出来ません。

 憲法を守る最高裁の裁判官にふさわしい人に裁判官になってもらいたい。

 最高裁裁判官ふさわしくない人には退場頂きたい。

 そのために用意されているのが、衆議院選挙の際に併せて行われる「最高裁裁判官の国民審査」に他なりません。

 裁判所を良くしていくのも、悪くしてしまうのも、本当は審査をする立場にある有権者である私たちひとりひとりにかかっています。

 平和憲法を蔑ろにしてきた「竹内行夫氏」は、明らかに憲法の砦である最高裁の裁判官にふさわしくありません。

 今回の国民審査では、竹内行夫氏に「×」をつけることで、「平和憲法を守れ」という「平和への意思」を表明していきたいと思っています。

 国民審査の数値は全選挙区で出てますので、どれだけの人が平和への意思を示したかがはっきりします。

 公選法の縛りがないため、事前運動も選挙期間中の運動も全く自由です。投票日当日の投票会場前の宣伝活動も自由にできます。

 全国で大いに宣伝し、広げ、平和への意思を国民審査で示していきたいと考えています。

 竹内氏に「×」をつけることは、決して竹内氏個人を誹謗中傷したり、攻撃をするということではありません。あくまで、竹内氏が進めた違憲の海外派兵を批判する、平和憲法を護り活かす方向を選択する、という意思表示の仕方に他なりません。

 これは、これまでにない「平和」の意思表示の貴重な機会となると考えます。

 大事な運動ですので、大きく広げていきたいと考えております。

 早速ですが、親しみやすく分かりやすいリーフットとポスターも用意しました。

 七月六日に運動をスタートしましたが、一〇日ほどですでに全国から一〇万枚以上のリーフレットの注文を頂き、予想以上の広がりを見せています。

 リーフレットは五〇〇枚で二五〇〇円、一〇〇〇枚で五〇〇〇円という計算です。

 是非、お求め頂き広げて頂きたいと思います。事務所ニュースに同封して頂くなどして頂くと幸いです。実質赤字の運動ですので、カンパの方もよろしくお願い致します。

 リーフレットやポスターなど、詳しくは

  H P   http://liveinpeace.jp/ をご覧下さい
       (リブインピースドットジェイピーです)。

 問い合わせは、荒尾法律事務所まで

  TEL  〇五二―五八七―三九〇〇
  FAX  〇五二―五八七―三九一一



「弁護士九条の会」

東京支部  小 貫 陽 介

 私が所属する事務所(東京南部法律事務所)は、羽田空港にほど近い、大田区蒲田にある。

 その昔、事務所の隣地には、松竹の撮影所(一九二〇〜三六年)があり、映画「キネマの天地」(一九八六年)の舞台ともなった。私(団塊ジュニア世代)にとって、所員全員で肩を組みながら蒲田撮影所の所歌「蒲田行進曲」を歌う(というより叫ぶ)ことでなじみがある程度で、現在の蒲田は、「餃子」(羽付き餃子が有名)や「ラーメン」の激戦区。昼に夜に食べ比べをしてしまう。

 この大田区で、九条の会アピールに賛同する区内在住・在勤の弁護士が集まり、活動をしている。

 会の名は、「弁護士九条の会・おおた」。四年前の二〇〇五年五月二六日結成。記念講演の講師として小森陽一氏を招き、四〇〇名を超える聴衆を得た。

 現在の会員は、区内「在勤」だけでなく、「在住」の弁護士もいることから多様な人材が所属している。中心的に活動していただいている団員の原田敬三弁護士、私の事務所からは四名の団員のほか、さらには、大田区在住の団員ではない弁護士も数多く会の世話人となり精力的に活動している。

 会の主な活動としては、区内外の各九条の会へ弁護士を講師として派遣。さらに、弁護士ならではの人脈を生かし、学者や弁護士を招いた企画をし、憲法擁護を大田地域の住民へより広げる活動を行なっている。

 過去の主な企画の題名としては、「沖縄戦を体験した弁護士の語り」「改憲をどう考えるか〜市民一人ひとりの選択」「格差社会と憲法」「歴史認識と憲法」「新テロ特措法を考える」「自衛隊海外派兵恒久法と憲法を考える」等。どの企画も四〇名〜三〇〇名ほどの参加者を得ている。

 なお、直近の企画として、六月一三日にノンフィクションライターの島本慈子(しまもとやすこ)氏を招き「戦争のリアリティ、そして私たちの労働と憲法」という題で講演をしていただいた。

 この講演の中で島本氏は、客観的な資料に基づき太平洋戦争における空襲下で何が起きていたのかについて語られた。頭が吹き飛んだ赤ん坊を抱く母親が死んでいる、直撃を受けた人の肉片が電線にぶら下がっているなどまさにこの世の地獄であったという。それは取りも直さず、現代においてもこの光景が空襲下のイラクでもアフガニスタンでも起きているということであり、九条の是非を論じる場合、戦争で死ぬこととはいかなることか、という現実から思考すべきことが語られた。まさに事実、現場に立脚した主張を行なうべき弁護士として、戦争のリアリティ=「人間が殺し、殺されること」を共通認識としていく必要性を感じた(この企画は六月一四日赤旗新聞に掲載された)。

 このような講演会開催等の準備のため、弁護士会館で昼食の弁当を食べながら世話人会議を行い、憲法情勢や大田区内の憲法運動についての議論や企画の検討等を行なっている。結果、「『弁護士九条の会・おおた』の企画ならハズレがないから来ました。」という固定客も獲得しつつある。

 また、今年五月に「大田憲法月間」と銘打ち、大田区内の九条の会が連続して企画を立てた際には朝日新聞にも大きく取り上げられ、うれしいことに記事を見て来場したという方もおり、活動が小さいながらも実を結んでいると感じる。

 弁護士ならではの活動ができ、地域住民とのつながりもできる「弁護士九条の会」。各地での結成を是非ご検討ください。

「弁護士九条の会・おおた」

  ホームページ http://lawyer-a9.main.jp/



八ッ場ダム訴訟 三連敗の教訓

福島支部  広 田 次 男
(全体原告団弁護団兼事務局長)

 二〇〇九年五月一一日、八ッ場ダム訴訟、東京地裁に於いて、原告住民全面敗訴の判決のあった事は、先日報告したばかりである。

 その後、六月二六日前橋、六月三〇日水戸と、たて続けに判決があり、東京と全く同様に原告全面敗訴であった。

 三つの判決の読後感としては、東京判決は最も戦斗的であり、原告提起の論点のほぼ全てに反論を加え、全面的に原告主張は採用し得ないとした。

 前橋判決は東京判決のコピーかと思われる程に構成も表現も似通っていた。

 水戸判決は、原告提起の論点にアイサツする事なく原告主張を退けるという手抜き判決の典型であった。

二 問題点

 弁護団は三判決の精査、比較、控訴理由書の作成にかかっている。

 この稿で、三判決の問題点を精緻に伝える頁類も能力もない。

ほぼ感想に近い指摘にとどめる。

 第一に大幅な行政裁量の許容である。原告は入手したデーターを基に特に治水、利水の両面に於いて、ダム計画の計画数量が余りにも過大であり、合理性を全く持たない事を主張、立証した。

 勿論、相当量のアロアランスを見込んでの主張、立証であった。

 これに対して判決は、「その程度の過大性は行政裁量の範囲」の一言で片づけた。

 第二に三判決に共通する「国家百年の大計」論である。「水は不足したから、明日持ってきましょう」という訳にはいかないから、大局的見地から「あらゆる変化を見込んでダム建設は考えなくてはならない」とする。

 水戸判決は、つくばエクスプレスおよび南関東自動車道の開通などによる今後の水需要の増大、前橋判決では気候変動による大雨の惧、東京判決では首都東京の渇水はあってはならないといった趣旨のもと、現時に於る統計数字の示す事態を全く無視する結果を示している。

 第三に行政追随というより追従である。

 原告主張は攻撃の対象であるのに対し、被告主張は全て擁護の対象あるいは、被告主張に依って原告主張を攻撃するとの論法が三地裁に共通している。

三 今後

 最初から困難な裁判である事が、斗わねばならない裁判であると覚悟していた。

 何時か六連敗の報告を書く日が来るのかもしれない。

 原告団も共通の想いである。何時かは六連敗の報告を書く日が来るのかも知れない。

 しかし、ムザムザと六連敗のつもりはない。

 知力と体力を傾け、六地裁のうちのどこかでレンガ一個分だけでも削りたい。そうすれば、八ッ場ダム建設は止まらざる得ない。

 斗いはまだまだ続く。

 今後とも御支援を賜りたくお願い申し上げて、終筆とする。

四 追伸

 この原稿を書いているうちに、東京都議選の結果「民主党第一党」が報道された。

 民主党は「八ッ場ダム建設反対」をマニフェストに掲げている。

 引き続くであろう衆議院選挙でも民主党が第一党となれば八ッ場ダムは止まる事になる。

 仮に衆院選がなくても、都議会の予算審議で八ッ場ダム負担金が否決されれば、それだけでも八ッ場ダムは止まる事になる。

 この点は、今後の原告団、弁護団の議論になるだろうが、裁判を取り下げる事にはならないだろう。

 少なくとも裁判が、八ッ場の運動を押し上げてきた実績は否定できない。

 裁判と運動に加え政治の動きも頭に入れなくてはならないとの当然の事を改めて認識させられた。



大森鋼三郎さんへのお別れの言葉

東京支部  菊 池   紘

 鋼三郎さん。あなたにはじめて会ったのは、一九六六年四月のことでした。司法試験に受かり、少しの自負心と大きな不安を抱え研修所の門をくぐりました。四組の部屋に入ると、座席はあいうえお順で、私のすぐ前の席にあなたがいました。自己紹介であなたは、なにやら学生運動に加わった経験を話していたと思います。ふたりはすぐに青年法律家協会に加入し、ともに活動したのでした。

 一九六八年に弁護士になってすぐに私たちは大安書店争議の弁護団活動に投げ込まれました。首切り、偽装閉鎖とのたたかいでしたが、文化大革命の無法と暴力が持ち込まれたこの争議では、日本の運動の自主性が問われました。傍聴席では「政権は鉄砲から生まれる」などと赤い毛沢東語録が読み上げられ、ついには裁判所の廊下で私たちに集団暴行が加えられ、あなたはメガネをとばされるなどの暴力を受けたのでした。この争議の勝利は労働者の国際連帯という課題で歴史的な貢献となったものでした。今の中国を考えると隔世の感があります。

 あなたの奮闘が多くの人の注目を集めたのは、一九七四年のことでしょうか。この年国鉄動力車労働組合・動労において、社会党の一党支持強制による組織的排除がすすめられましたが、あなたは北海道に飛び、札幌支部事務所の攻防戦に弁護士として大きな役割をはたしました。

 そしてこの年一一月二二日には、兵庫県但馬で八鹿高校事件が発生しました。一二月一日には八木川のほとりに北海道から沖縄までの一万七五〇〇余人がつどい、但馬の冬空を揺るがせ、八鹿高校の教師と生徒の勇気とたたかいに呼応しました。「自由法曹団物語・世紀をこえて」によると、一二月一四日の常任幹事会で兵庫県支部中心の現地弁護団活動支援のため全国各地から随時現地派遣を決定しています。そして、「中堅団員の交代制長期派遣として、一二月二一日以降大森鋼三郎ら三名により開始」と記されています。しかもあなたはこれに先立って事件直後に現地入りして、駅ごとの解同による検問など無法が横行する八鹿、朝来、但馬一帯で文字通り八面六臂の活動をしたのでした。

 大森鋼三郎さん。あなたは一九八七年から二年間自由法曹団東京支部幹事長を務めました。この年の記録を見ると、国鉄分割民営化のさなかで国鉄労働者の権利回復、三宅島基地反対のたたかい、警察拘禁二法阻止の課題があげられています。

 三宅島のたたかいにかかわって、あなたはこう書いています。「憲法改悪論議などの今日の事態を思うと、ますます自由法曹団が、世界的な視野で平和と民主主義のために何ができるのか、武力・戦力ではなく、平和の力で、言論で、どう貢献できるのか。憲法9条を中心とする平和主義の徹底をめざすことの貴重な意義に思いをはせるものである。私たちの憲法の持つ今日的意義を確認しあいたいものである。」そしてあなたはつぎのようにまとめています。「たたかいのあるところ、自由法曹団と団員ありを、これからも知恵をしぼってつらぬきたいものである」と。今からさかのぼること一七年前のことです。

 鋼三郎さん。つい昨日のことですが、自由法曹団の明日を担うある中堅の弁護士は、「大森先生の明るい訴えをもう聞けないのか」と話していました。あなたは、複雑困難な情勢の中でみなが消極的に受け身になろうというときに、いつも明るく、たたかいの性格と課題を簡潔に明らかにするスローガン、訴えをうちだすのでした。こうした点はあなたの独壇場でした。それはどこからくるのでしょうか、他の者にないあなただけがもつ積極性でした。

 あなたがその弁護士人生のおおくをかけたのは、国鉄・JR労働者のたたかいでした。一九七四年の全動労の発足以来あなたは全動労弁護団長として、国鉄マンとその家族の苦しみを自分の苦しみとし、その喜びを自らの喜びとし、北海道に何度となくかよい、国鉄闘争の前進に全力投入してきました。三対二の僅差でJRの不当労働行為責任を否定した最高裁判決の苦難を乗り越え、ついに昨年一月二三日には国鉄・国の不法行為責任を認めた勝利判決を手にすることができました。記者会見での国鉄マンの家族のおはなし、「亡くなった夫のたたかいが正しかったと認められた。うれしさは言葉では言い表せない」とのおはなしを聞いて、あなたとこのたたかいを共にしてきたことを誇りに思いました。

 あなたが長年にわたり力を尽くしてきた国鉄労働者のたたかいがようやく解決の見通しが見えはじめようとするこの時に、あなたを失うのは痛恨の極みです。

 憲法第九条を投げ捨てようという企てが執拗に続けられ、格差と貧困の克服が大きな課題となるこの時に、古希のお祝いまで数年を残しながらあなたとお別れしなければならないのはほんとうに残念なことです。

 しかしわたしたちは中国人「慰安婦」裁判におおきな役割を果たされた典子さんと、そしてあなたの自慢の二人の子供さん。あなたの夢をうけついでくれる二人の弁護士とともに、あなたの遺志を受けつぎ「たたかいのあるところ、自由法曹団と団員あり」をつらぬいて、努力していきたいと思います。

 さようなら大森鋼三郎さん。



大森鋼三郎先生 ありがとうございました

東京支部 中 野 直 樹

 七月一九日、大森鋼三郎団員(二〇期)が逝去された。ことし三月に胃ガンで倒れ、全摘手術後の復帰をめざした養生の最中に肝臓への転移がわかり、約一ヶ月であっという間に命がしぼんでしまわれた。享年六七歳。

 三八期の私は一九八六年に八王子合同法律事務所で弁護士活動を始めた。この年一一月に町田市玉川学園で日本共産党国際部長の緒方靖夫さん宅の電話が警察により盗聴されていることが発覚し、私は、弁護団の一員として町田に通う日々となり、大森さんと出会った。大森さんは、妻の典子団員とともに町田法律事務所を開設され、緒方さんと同じ町に住み、電話盗聴事件の真相を究明する全国の会の事務局長として、そして後に参議院議員となられる緒方さんの「兄貴分」として、活躍された。

 私は、一九九一年にまちだ・さがみ総合法律事務所の開設に参加することになった。大森さんは、自分の事務所のすぐ隣にやってきた同業者をあたたかく迎えてくださり、以後、坂本弁護士一家を救出する町田の会、町田弁護士クラブの立ち上げ等大森さんの戦略とエネルギーを得て、地域運動が発展した。

 大森さんともっとも多くの時間を共有したのは源流岩魚釣りの旅である。私は一九九六年から、その楽しみをエッセーにして団通信に投稿してきている。遊びではあるが、山奥の渓に入ることから苦労と危険もある。これを書くと、家族が心配して差し止めを食うかも知れないと考え、封印した旅があった。

 私は、ガンとのたたかいにがんばっている大森さんに読んでもらい、岩魚釣りへの憧憬が克服のための気力の一助になればとの思いももって、古いメモを取りだして、釣行記をまとめ、団本部に送った。それが団通信に載る前に、大森さんの訃報が届くことになった。

 大森さんが町田の斎場で荼毘にふされるのに立ち会いながら、気体となった大森さんの一部が風に乗って、大森さんが竿を振った東北の渓まで飛んでいけと心につぶやいた。



鬼門の峪(その一)

東京支部  中 野 直 樹

 私が二〇期の大森鋼三郎・岡村親宜団員とテントを背負っての釣り旅を始めたのは一九九五年七月、和賀川源流行であった。翌年八月には二人がかぞえの五五歳になることを記念して水晶岳に突き上げた黒部川源流・奥の廊下遡行を敢行した。いずれの釣り旅も、二人の著「岩魚庵閑談」(二〇〇〇年 釣り人社発行)に紀行文が載っている。以後、三人で、毎年七月梅雨明け直後、岩魚の楽園を求めて奥山にテントを張る旅が続いた。

 和賀川は岩手県と秋田県にまたがる真昼山地の主峰和賀岳(一四四〇メートル)から南に分水し、現在上映が進められている平和憲法映画「日本の青空II―命の山河」の舞台である岩手県沢内村を流れ下り、錦秋湖を経て北上川に合流する。

和賀岳から反対の北側に浸み出した一滴の水は、八幡平を源流とする玉川に注ぎ、さらに秋田県の大河雄物川の水流と成る。この源流沢の一つに堀内沢がある。

 二〇〇〇年七月、三人は堀内沢の釣行をめざしたが、車止めに先行車があった。やむなく転進して入渓した小和瀬川で、突然の土砂降りに見舞われ、川下りの最中にみるみる間に増水し、膝が隠れるほどになったときにかろうじて山道にたどり着けたという危ういめにあった。このことは二〇〇一年夏、団通信に釣りエッセイ文「峪間の運そして決断のゆくえ」として投書した。

 二〇〇一年七月二九日、還暦を迎えた二人とともに再び堀内沢に向かった。夏瀬ダム湖畔の穴だらけの林道を、天井に頭をぶつけるほど揺られながら進むと、夏瀬温泉がある。時代を経た板壁の湯治場が深い森につつまれ、寂としている。午後二時過ぎ、少し先の堀内沢の左岸の車止めに着いた。今度も先行車があり、一瞬不安がよぎった。すぐ側で親子四人がアンテナをあげて無線機やパソコンをいじっている。野外でこんな遊び方があるのかと眼をしばたき、釣り人でないことに安堵した。梅雨があけ、天空からまばゆい陽の光が川面に注ぎ、煌めいている。

 三日分のビールと酒が詰まり大きく膨らんだザックを背負い、堀内沢にかかる沈下橋を歩いて右岸に渡った。きよらかな水が、川底の石の凹凸にたわむれて波紋を描きながらせせらぐ。大森さんが、二日後にご苦労さんの乾杯をするためのビールを丁寧に川底に沈めて、無事を祈った。

 薮を抜けると林道があった。取水堰堤がみえた。この林道がどこからきているのか、このときは気にも留めなかった。林道の終点に珍しい告知板が立っていた。「この沢の上流約四・〇キロメートルにあるマタギ小屋(通称お助け小屋)は、平成一二年八月三一日を期限として撤去しますので、小屋に荷物を置いている方は期限までに持ち帰るようにして下さい」(秋田森林管理署角館事務所長)。大森・岡村さんが法律顧問を通称している埼玉の岩魚釣りグループ「根がかりクラブ」のメンバーが堀内沢の源流部にもともとあったマタギ小屋を修復して利用していることが発覚し、会の瀬畑雄三さんたちが屋根に葺いたトタン板の撤去を求められた。二人はこの法律相談にのっているとのことである。要するに、二人にとって、堀内沢の釣り旅は、現地調査もかねてのことだそうだ。ちなみに瀬畑さんは、毛鉤釣りの名人で、二〇〇七年に立ち上がった「渓流・9条の会」の会長である。

 マタギ小屋と修復材の所有権論に盛り上がっているうちに、右岸にあるはずの山道の入り口を見落とし、そのまま広い河原を歩んで、青空と平水に気を許して、川を遡行した。途中、杉の倒木が逆さになって立っていたり、川中に三角錐体の岩が聳えたり、白濁から、青、深碧、翠、黄緑と変化をみせる蠱惑的な深い淵で記念撮影をすることを口実に、息を整える。重い荷を背負いながら川を遡行することは山道歩きよりもはるかに難しく、体力を消耗する。

 四時四五分、ようやく右岸から注ぐ朝日沢の出合いの杉木立の下に二張りのテン場をみつけた。素早くテントを張り、寝床づくりと焚き火の準備。夕食は大森さんがあらかじめ仕込んできたカレーがメインということでその準備をお願いして、私は、竿を取り出して朝日沢に向かった。川幅二メートルほどの小沢で、両岸の石は緑の水苔に被われ、日暮れどきの弱い光のなかで美しい流面をみせている。小さな溜まりごとに投じた川虫を岩魚が食んで跳ね、二八センチを頭に一〇尾ほどとなった。岡村さんも本流から釣果を持ち帰り、持参の竹串に刺して焚き火のまわりに立てた。酒を飲み、コクのあるカレーとおそらく繰り返されている人生談義に腹一杯となった。

 食器洗いをしているうちに、二人はテントに入り、朝日沢の沢音に負けじとイビキがうなり始めた。

青味を帯びた焚き火の煙がゆらゆらと立ち、棚引いている。草むらにむけて小用をたしているとき、ふと暗闇に酔眼をこらすと、星明かりに本流の川面が白くぼーっと浮き上がり、その先に無数の物の怪が潜んでいる心理にとらわれる。ぞくっとして、私もあわてて、焼き枯れた岩魚を新聞紙に包んでテントに入って、枕許におき、その芳ばしい香りとぬくもりのなかで目を閉じると、沢音が聞こえなくなった。



松川事件発生六十周年記念全国集会へお越しください

福島支部  渡 邊   純

 福島支部便利屋(別名「代筆屋」)の渡邊です。

 さて、昨年の団の全国総会は、プレ企画・特別企画・オプションツアーすべて「松川事件」尽くしで行いましたが、今年は、松川事件発生(一九四九年八月)から六〇周年を迎えます。福島で次のとおり、全国集会を計画しています。

集会名称  松川事件発生六〇周年記念全国集会

日  時  一〇月一七日(土)一三時三〇分〜一八日(日)一二時三〇分

場  所  国立大学法人福島大学・大教室(福島市金谷川一番地)

主な企画

 【一七日】

 ・記念講演 「松川事件の全容」 伊部正之(福島大学名誉教授)
 ・同    「松川の闘いと忘れ得ぬ人々」 大塚一男(元主任弁護人)
 ・元被告人の挨拶等

 【一八日】

 ・記念講演 「松川事件と特高警察」 柳河瀬精(治安維持法国賠同盟)
 ・問題提起 「松川事件と人間」 呑川泰司(歴史研究者)
 ・アピール採択など

宿  泊  土湯温泉・向瀧(一七日・一八日とも福島駅・福島大学・旅館を結ぶ 無料送迎バスあり)

そ の 他  申込先等、詳細については決定次第、お知らせします。

 「松川事件って何?」と思われた方のために、ちょっとだけ説明しておきますと、一九四九年八月一七日に発生した列車転覆事件で、当初から「共産主義勢力の犯行」とされ、旧国鉄と東芝の労働組合活動家ら二〇人が逮捕・起訴された事件です。一審・二審では有罪(一部)無罪とされましたが、最高裁で破棄差し戻しされ、差戻審で全員無罪、その後再上告審で検察官上告が棄却され全員無罪が確定しています(一九六三年九月)。多くの団員が弁護人として奮闘、また作家の広津和郎氏をはじめとする国民運動の成果が実り、「大衆的裁判闘争」の原点となった事件でもあり、戦後の団の屋台骨を築いた事件でもあります。

 裁判員裁判がスタートし、足利事件では再審開始決定がありましたが、現在の刑事裁判を考える上でも、また、平和と民主主義を求める国民運動をどのように広げていくか考えていく上でも、松川事件は多くの教訓を残しています。当時の運動の中心となった世代が高齢化している現在、直接のお話を聞ける機会は、もしかしたら、今度こそ最後になるかもしれません(失礼お許しあれ)。

 現在、記念行事実行委員会委員長の大学一団員を中心に、全国の皆さんを迎える準備を進めています。

 団総会(@長崎)の前に、是非福島へお越し下さい。