<<目次へ 団通信1317号(8月11日)
松井 繁明 | 残暑お見舞い申しあげます。 |
相良 勝美 |
―長崎総会特集― 西海の歴史断片 |
玉木 昌美 |
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林 治 |
ホンダ、お前もか!ホンダ期間工雇い止め裁判 |
原野 早知子 |
ケーブル工業フルタイムパート解雇事件仮処分勝利報告 |
川口 創 |
「いかなる軍事的暴力の被害者にも、加害者にもならない権利」としての「平和的生存権」 |
中野 直樹 | 鬼門の峪(その二) |
団 長 松 井 繁 明
関東地方では例年より早く梅雨明けが宣言されたのですが、数日で戻り梅雨となりいつまでもぐずついています。中国・九州地方では、それどころではない豪雨となり、心配しています。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
これまで私たちはいつも「激動の時期」と言ってきましたが、いまの状況にくらべればそれらは「微動」にすぎなかったのではないか、と思われるほどです。
リーマン・ショック以降の世界恐慌は、とりわけ日本経済に大きな打撃をあたえ、完全失業率が急速に拡大しています。
麻生政権は、選挙対策もあるのでしょうか「底を打った」などといっていますが、現実はきびしい。これまで世界経済を牽引してきたアメリカでは、なお消費の縮小が続いています。比較的急成長している中国経済も、アメリカの三分の一以下の規模であり、ただちにアメリカを代替できるわけではないでしょう。国民の生活に直結するだけに、これからも注視してゆくべきでしょう。
ほとんど自民党の自壊によっておこなわれる解散・総選挙。ほぼ民主党中心の政権成立が予測されていますが、そのばあい、共産党、社民党の議席が注目されます。民主党政権の樹立によって、労働者派遣法の改正、捜査の全面可視化などの分野では一定の前進が期待されます。
同時にこの政権は、憲法改悪、消費税率の引上げおよび国会議員の定数の削減を公約するなど、きわめて危険な体質をもっています。とりわけ、衆院議員の比例定数八〇の削減は許すことができません。これを〇七年衆院選の比例区の得票にあてはめると、自民と民主で九五%の議席を占め、その他の政党は五%以下に封じ込められる、という試算があります。共産党が三、社民党が二議席になります。 これでは、すくなくとも国会内では、憲法改悪も、自衛隊派兵恒久法も、押しとどめることは不可能になります。
自由法曹団は、この問題を当面の最重要課題として取上げ、阻止をめざして闘う必要があるでしょう。
オバマ米大統領が四月、プラハでおこなった演説を重視すべきです。核兵器を使用した唯一の核保有国アメリカの道義的責任にも言及しながら同大統領は「核兵器のない世界の実現」を訴えました。 これにたいし、この演説の欠陥や限界を指摘する意見もあるようです。誤りではないでしょうが、いまは、この演説の内容を積極的に評価し、その実現のために具体的な行動をとることが大切だと考えます。
核兵器の全面廃止の要求はまったく正当なもので、これまでもその力を発揮してきました。しかし最大の核兵器保有国であるアメリカがこれを拒否していたため、どうしても実現が不可能な「理想論」とみられがちでした。そのアメリカの最高指導者が態度を一変させたことの意義は限りなく大きいものです。
七月の下旬以降、実質的に総選挙となっているなか、ゆっくり夏休みを、という気分にもなりにくいのですが、大胆に休みをとって、心身ともにリフレッシュしていただきたいと思います。
秋には、私たちがかつて経験したことのない、新しい闘いが始まるのですから―。
長崎支部 相 良 勝 美
もともと海に囲まれて列島の南に位置する沖縄と鹿児島に次いで西海の長崎県には島嶼が多く散らばっている。人の住む有人島の数を比べると沖縄の四八よりも長崎では六七島で日本一の離島大国である。日本の国が成立を認められる以前から西は東シナ海、北は対馬海峡から黄海そして大陸の沿岸に至る海のルートを辿って、東アジアの国々と人々の交流があり、朝鮮半島の三国時代季節風と海流に乗って多くの海民が往来を重ねた。六六三年白村江で百済と連合したヤマトの軍勢が、唐と新羅の連合軍と闘って壊滅的な敗北を喫した後に百済の流民と亡命者が無数に海を渡ってヤマトに移り住み、以後の日本文化にも大きな影響を与えた。遣唐の使節はその後も南へルートを変えながら九世紀末まで続けられているが、五島の三井楽町には万葉の頃からの資料を飾った「遣唐使ふるさと館」があり、当時の造船や航海の技術を知る上で興味が深い。
中世以降、肥前の海の領主として名高い松浦党は、現在も地名として残る「御園(みくりや)現松浦市」を根拠地として松浦郡の多島海の浦々や津・泊を支配していた。鎌倉幕府の西国支配下で「文永」と「弘安」二度のモンゴル来襲を切り抜けた後に平戸島に移り、戦国時代を経て秀吉から、徳川幕府の末期まで城を築いて六万一〇〇〇石の所領を安堵されて来た。
歴代の藩主の中で二五代道可隆信は、一五四一年(天文一〇年)に明の王朝の海禁に背いて大陸や半島の沿岸を襲っていた海賊五峰王直に対し平戸港の高台に土地を与え館の建設を許している。平戸にはまた明の海将鄭芝龍が住み、土地の女性田川まつを妻として一子鄭森をもうけたが、後に明に帰ったその子は明の末期成長して鄭成功を名乗る将士となり「反清復明」を奉じ追いつめられつつ転戦して台湾に上陸し、オランダの支配を打ち破った。台湾には各地にその廟が祀られている。王直は五島を本拠地として福江に港を整備して開港の基礎を築いた恩人として同じく廟に祀られているが、種子島までジャンク船でポルトガル人を案内し、鉄砲を領主に伝えた人物としても歴史に名を残しており、大航海時代一五五〇年(天文一九年)平戸に最初のポルトガル船を案内してきたのもこの王直であったろう。
ポルトガルの船はやがて平戸の宮の前で起こった殺傷事件のために島を追われ、フランシスコ・ザビエルの布教活動も排斥された後は、オランダやイギリスの商館と倉庫が築かれて交易が隆盛となった。イギリスは間もなく島を去ったが、天草の乱のあと徳川幕府の禁制は一段と厳しさを増し、平戸のオランダ商館は破却されて長崎の出島に移された。
今年オランダとの友好四〇〇年の記念の年ということで、平戸港近くのこの商館跡には往時を偲ばせる復元工事が着工されている。
「歴史とロマン」をセールスの文句とする観光地としては、他にもキリスト教の宣教師を火刑に処した「焼座(やいざ)」など弾圧の過去もあり、隠れキリシタンの里として名高い生月島の資料も残されている。歴史の中にどのようなロマンを探求するのかはさておき呆然と自然の風景を眺めることこそ観光の真髄である。
滋賀支部 玉 木 昌 美
一 「九条まもり」の憲法ビラ、ポスター
滋賀支部では、常幹や五月集会で報告したように、アニメ風美少女「九条まもり」の憲法ビラとポスターを作成した。これは、若い杉本団員の問題意識から、まず若者に受け取ってもらえるビラで作る必要性を考慮し、滋賀支部で何回もの議論を経て作成した。確かに、滋賀における、どの憲法集会の参加者の顔ぶれを見ても、また、護憲運動を担っているのも、やはり高齢者が多く、若者は少ない。 また、昨年映画「日本の青空」の上映運動をやり、若い人たちにこそ見てもらいたいと思ったが、運動を学生にまで広げることができなかった。憲法九条を変えて、軍隊を認め、海外において武力行使をする国に変える改憲問題については、一番影響を受ける若者に九条の重要性を認識し、判断してもらう必要がある。
滋賀支部では、このビラを武器に中学生や高校生が登・下校する早朝・夕方の時間帯に駅頭で街頭宣伝を行ってきた。ポスターや事務局手作りの横断幕を飾り、にぎにぎしく宣伝した。早朝は本年四月一〇日の膳所駅を皮切りに、四月二一日瀬田駅、五月一二日南草津駅、五月一九日守山駅で行った。夕方は、団支部例会の前などに四月三〇日彦根駅、六月一二日大津駅、七月八日石山駅で行った。毎回、弁護士、事務局一〇名以上の参加であり、一七名のときもあった。これまでのビラと違って受け取ってもらう確率は高く、それなりに好評であった。守山駅ではハンドマイクで訴える私に立命館の中学生が「ガンバレー」と声援してくれる反響もあり、感激した。 また、彦根駅では、坂梨団員に対し、女子学生が「憲法九条を覚えている。」といって諳んじてくれたこともあったそうである。
このビラ・ポスターは常幹等において好評であり、赤旗や京都新聞、滋賀報知で配布活動が報道されると、あちこちから入手したいという希望があった。また、神奈川支部では、支部名を滋賀から神奈川に変更し、自由法曹団の説明等も一部変更して活用されることになった。滋賀支部としてはうれしいかぎりである。
二 七月例会
滋賀支部の七月例会では、ジェンダー問題を取り上げた。これは、支部長が男女平等の問題に認識が薄く、弁護士会の宴会におけるコンパニオン問題で何が悪いと問題発言をし、女性の事務所パールの地下牢において矯正教育の必要性を言われていたことから取り上げたものである。杉井静子団員の『格差社会を生きる 男と女のジェンダー論』をテキストに、講師を二人の司法修習生にお願いして開催した。問題意識をもった報告であり、小川団員を中心に議論し、学習することができた。また、この例会では、向川団員ら吉原事務所のメンバー四名からベトナムのIADL総会に参加したという報告があった。日本から代表団七〇名のうち、吉原事務所が六名を占め、大きく貢献したようだ。憲法九条が日本以上に国際的に尊重されていることに感動したという感想等興味深い報告であった。
三 弾圧学習会
七月一七日、救援会滋賀県本部主催で「のびのびと選挙をすすめる学習会」を開催し、講師として話をした。その前の七月五日の高島支部の裁判員制度と冤罪事件の学習会の講師をしたとき、高齢化が激しい救援会には珍しく若い素敵な女性が参加していたが、彼女は駅頭宣伝のビラを受け取り、興味を持って参加したとのことであった。その話をしながら、ビラ配りの重要性を語り、湖東民商ポスター弾圧事件の教訓を話した。ちょっとした警戒心、問題意識があれば、弾圧事件は避けられることを強調した。滋賀においても、すぐに弁護士が現場に駆けつけ、未然に防止したケースがある。一番の問題は携帯電話の問題と刑事訴訟法二一七条の問題である。以前に常幹において話したが、検討課題である。
四 支部活性化のために
五月集会の支部代表者会議の報告レジュメ案を作成して意見を求めたところ、事務局から、「弁護士と一緒に頑張っている事務局のことに触れられていない。」というきついお叱りを受け、提出した原稿には、一番目にそのことを書いた。確かに、八月集会を見ても、憲法ビラの配布を見ても、バイトの方を含め事務局の頑張りは貴重である。とりわけ早朝のビラ配布活動に遠方から参加していただいた事務局には本当に頭が下がる。
次に、団支部として楽しいこともやりたいという意見もあり、カラオケクラブを作り、例会を始めた。松川事件の守る会の運動においても「時にはみんなでピクニックに行こう」といったものもあり、それに倣った(格調高い)。六一期の向川団員の歌う歌はさっぱりわからないものばかりであったが、ある歌をいい歌だというとそれが私の課題曲に指定された。グリーンの「愛唄」である。そんなグループも、そんな歌も全く知らなかったが、これにより世界が少し広がった。
五 八月集会
今年も本部の五月集会の滋賀版である八月集会を八月一九日に開催する。記念講演は、イラク訴訟の川口創弁護士であるが、楽しみである。
六 日野町事件
鳥越俊太郎の「ザ・スクープ」が五月一七日放映のテレビ番組で取り上げてくれた。日野町事件(強盗殺人事件で無期懲役)の阪原さんが無罪であることを確信できる内容である。動画配信しているので、パソコンを操作し「ザ・スクープ」で検索すればいつでも見ることができる。多くの団員や事務局の方に見てご支援いただきたいと思っている。
東京支部 林 治
一 自動車・オートバイメーカーの本田技研工業(ホンダ)の工場で一一年一ヶ月働いてきた期間労働者の雇い止め無効の裁判を現在たたかっている。
四月一七日に提訴し、七月三日に第一回期日が行われてた。
二 この事件の相談を初めに受けたとき、耳を疑った。
原告は、九七年一二月から〇八年一二月末まで期間労働者として栃木県内のホンダの工場で働いていた。具体的な仕事内容は、エンジンバルブという自動車エンジンには欠かすことのできない部品製造にかかわっており、基幹的な仕事に従事してきたのである。
この間、契約期間は一ヶ月から三ヶ月であり、極めて短い期間の契約を繰り返してしたのである。
しかも、初めの契約時から一年を経過するといったん「退職」させられ、二、三週間の「空白期間」を置いた後に「再入社」することがおこなわれてきたのである。原告の場合、「退職」と「再入社」が一〇回行われたのである。「退職」の際に、「また、働いてくれるか」と言われて働けると返事をすると「二、三週間したらまた(採用を知らせる)通知がいく」と告げられた上で「退職」させられていたのである。この「空白期間」の設置は、雇用継続の事実を形式的に否定し、判例で認められている労働者の雇用継続に対する期待を生じなくさせ、雇い止めをしやすくするために設けられた脱法的なものと言わざるを得ない。
ホンダという企業は、創業者の本田宗一郎が「企業のためではなく、社会のために働け」「企業といっても人間が主体である」「技術およびその産物は人間を豊にするためのもの」などの理念を掲げて経営してきたところである。そのため、同業他社に比べて労働者の労働条件も企業本意ではなく、労働者が十分に力を発揮できるように整備されていると思われていた。ホンダにかかわる人の中でこういった本田宗一郎の創業の理念に共感して仕事を行っているものも少なくない。歴代社長も必ず技術畑出身者がなっており、本業で実績を上げた人物を昇格させるシステムをもっている。どこかの自動車会社のように人件費やコストを削減するためだけに外国から社長が送り込まれてくるような会社とは全く異なるのである。
そのホンダで極めて不安定かつ、脱法的な労働条件のもとで、期間労働者を働かせてきたことに驚いたのである。
なお、私事だが弁護士になる前にホンダ系のオートバイレーシングチームで働いていたこともあり、ホンダに愛着を感じている部分もあったが、この事件を通して完全に裏切られた気分である。世界同時不況を口実に簡単に非正規労働者のクビを切る会社であったことを知り「ホンダ、お前もか!」と叫びたくなった。
三 第一回目の期日では、さすがに裁判所も雇用期間が極めて短期間であり、空白期間が設けられていることの二点については、疑問を持ったようであり、この点について合理的な理由を次回までに準備書面で明らかにするように求めた。
この期日では原告本人の意見陳述の機会が与えられ、
(1)休日出勤の要請について、「断ることもできましたが、契約の更新のことを考えると、余程のことがない限り断ることはありませんでした」と述べ、(2)空白期間については「この空白期間は、雇用の継続をごまかすためのものであったと思っています」、(3)有給休暇については「一旦退職したことにされた時に、その時点で買い上げという形で精算され、次期からはまたゼロからのスタート、つまり加算されることなく、最初の六ヶ月間は有給休暇が無いという状態でした。そのわずかな有給休暇も私のいた職場の期間従業員はほとんど取っていませんでした。それは、決して人員に余裕があったわけではないので、一人休むと仕事が大変になることがわかっていたからだと思います。しかし、正規従業員は、会社と組合との協定で、有給休暇を消化しなければならないということになっていました」、(4)給与についても「私たち期間従業員には、昇給も夏季・年末一時金もありません。期間従業員は日給月給ですが、私自身は一一年間一円の賃上げもありませんでした。しかし、正規従業員は昇給も夏季・年末一時金もあり、期間従業員が低賃金に押さえられていることとは全く違っていました」と述べ非正規労働者が正規労働者と比べていかに劣悪な条件の下で働かされているかを訴えました。
そして、会社の非正規労働者に対する対応、今後の日本の労働環境について「会社は日本に対してどのような未来を思い描いているのでしょうか?どんなにすばらしい製品を作っても、それすら買うことができない人たちを大量に作り出しているという現実をどう考えているのでしょうか?私はこんな働き方が当たり前になってしまっている日本をみると暗澹たる気持ちになります。雇用と労働条件の均等待遇という当たり前のことが普通になる世の中になることを切に願ってやみません」と訴え、この迫力に法廷内は静まりかえった。
四 ホンダはこの不況下であっても黒字を維持しており、同業他社と比べても経営状況は悪くないのである。この利益を作り上げる中で、原告のような非正規労働者が果たした役割は決して小さくないはずである。
原告が訴えたようにホンダ製品を買うことすらできない労働者を大量に生み出している現実を変えていかなければならない。かつてホンダは「Do You Have a Honda?」というキャッチコピーを使用していたが、ホンダの期間労働者は「No」と答えるしかないのではないか。
五 ワーキングプアの解消が叫ばれている今だからこそ、労働者の働き方を根本から問う裁判にしなければならない。基幹的な仕事であるにもかかわらず、期間労働者を使用することの弊害をこの裁判で明らかにし、有期労働について法的な規制を設けるようなきっかけにしていきたいと思っている。
大阪支部 原 野 早 知 子
一 債権者らは、東大阪市内のケーブル工業株式会社で、自動車部品の製造の仕事をしていた女性たちである。雇用期間の定めこそないものの、時間給で働くフルタイムパートの労働者であり、年収は二〇〇万円に満たない「ワーキングプア」であった。債権者らは、独り暮らしか、子どもを育てているシングルマザーで、ケーブル工業での収入で、一家の暮らしを支える大黒柱だったのである。
二 会社は、平成二〇年一一月一四日から一二月二日にかけ、債権者らを含めたパート社員ら十数名に解雇を通告した。解雇を通告されたパート社員のうち五名が労働組合(JMIUと地域労組に二重加盟)に加入し、団体交渉を行っていたが、解雇が撤回されないため、仮処分を申し立てることになったものである。
東大阪市は中小企業の街であり、製造業の工場も多数ある。ケーブル工業は、トヨタ自動車の部品を製造しており、これら中小企業の中でも、経営状況は極めて優良な部類に入る。
しかし、仮処分手続に入ると、会社側は、解雇の原因として(1)原告らのミスが多いことを理由にする普通解雇と、(2)整理解雇の主張を行ってきた。けれども、整理解雇の「人員整理の必要性」の要件については、「会社の売上が落ちている」というのみで、単年度が赤字であるとすら主張できなかった(現実には黒字だからである)。
ケーブル工業は、整理解雇の要件など、そもそも存在しないにも関わらず、債権者らを解雇した。平成二〇年秋から続く不況で、非正規労働者の解雇・首切りが相次いでいるが、その流れに悪乗りし、解雇の必要などない労働者のクビを切った典型的な「便乗切り」であるといえる。
三 仮処分は、六回の審尋を経て、平成二一年七月六日付けで発令された。(担当裁判官は、大阪地裁労働部の足立堅太裁判官である。)
会社側の主張のうち、(1)の普通解雇については、指摘された個々のミスは、一日に大量の部品(一日に数百個、数千個のレベル)を製造・包装などする中で数回発生したにすぎず、必ずしも債権者らに原因があると言えないものもあった。製品検査があるので、不良品が社外に出る事態にもなっていない。到底解雇の合理的理由とはなりえないものだった。仮処分決定においても、指摘されているミスが数個であることなどから「これらを以て債権者において不良品を出さないようにする意識が欠けているとか、良品を造ろうという積極性に欠けているとまで言えるのか、疑問である」などとして、ミスに関する会社側の主張はことごとく退けられた。
また、(2)の整理解雇については、上記のとおり、会社がそもそも売上の低下をいうのみであったことから「差し迫った人員削減の必要性が疎明されたとはいえない」とし、希望退職の募集などを行っていないことから解雇回避努力もなされていないとして、会社側の主張を退けた。
こうして、会社側の解雇に合理的理由がない、として解雇を無効とした仮処分決定は、当然といえば当然の判断である。しかし、不景気を口実に、本来解雇できない労働者、中でも非正規労働者を解雇する会社が横行する中、非正規のパート労働者を「雇用の調整弁」として安易に切ろうとした解雇が無効と判断されたことの意義は大きい。生計の資を断たれながら、立ち上がった債権者らの勇気あればこその決定だったといえる。
四 しかし、一方で、仮処分決定は保全の必要性の判断については大きな問題点があるものだった。
もともと、約一五〜一七万円の賃金仮払い請求に対し、家計表の項目を子細に検討し、「保険料」や「債務返済」などの項目について、必要な生計費とは認められないとして、仮払金額を減額した。その結果、仮払いの金額が最も少ない人で六万二〇〇〇円になってしまった。ちなみに「保険料」というのは、通勤などに使っているバイクの自動車保険料である。こうした項目を無理に削ってまで、もともと年収二〇〇万円に満たない債権者らの仮払賃金額を減額する必要性があるとは到底考えられない。また、仮処分までのバックペイも認められなかった。債権者らの生活状況をおよそ理解しているとは考えられない決定である。
労働組合は、裁判所周辺での抗議の宣伝などを行った。全国的に仮処分でこのような仮払賃金額の減額がなされているのか、非常に懸念されるところである。
五 本件では、仮払賃金額の減額の問題のほか、債権者五名のうちの一人が退職届けを提出しているとして申立を却下されている。この問題を含め、一日も早く、債権者らが勝利できるよう、本訴に力を注ぎたいと考えている。
(弁護団は、当職のほか、城塚健之団員・藤井恭子団員である。)
愛知支部 川 口 創
団通信で国際民主法律家協会ハノイ大会での発言に関する投稿が続いていて恐縮ですが、私もハノイでの発言要旨を投稿をさせて頂きます。なお、発言は英語で行いました。
英語の原稿がほしいという方には個別にお送りしますので仰って下さい。
第一 報告の趣旨
去年、二〇〇八年四月一七日、日本の名古屋という都市、「トヨタ」を抱える地域ですが、その名古屋の高等裁判所で、「イラクへの自衛隊派兵が日本の憲法に違反する」という判決が出ました。日本の高等裁判所が「政府の行為が憲法九条に反する」と判断したのははじめてのことです。
私たちは、二〇〇四年二月に提訴し、三二〇〇人の原告と四年にわたって裁判を行ってきました。今日はこの判決について報告したいと思います。
第二 違憲判決の意義
まず、私たちはイラクで何を行ったのか、確認をしなければなりません。
二〇〇三年、三月、アメリカ、ブッシュ政権はイラクに対し、一方的に攻撃を開始しました。これに対してフランス、ドイツなど多くの国は反対をしました。
しかし、日本の当時の小泉首相はいち早くアメリカのイラク攻撃を支持し、その後自衛隊をイラクに派兵をしました。
二〇〇六年七月、陸上自衛隊はイラクから撤退しましたが、航空自衛隊はイラクに残り、その頃から、バグダッドとクエートとの間の輸送活動を開始しました。その輸送活動は、武装したアメリカ兵を、戦争の最前線のバグダッドまで運ぶ、というものでした。
名古屋高裁は、イラク戦争の実態、航空自衛隊の活動の実態を詳細に認定した上で、「航空自衛隊の輸送活動はアメリカ軍の武力行使と一体化するものであり、憲法九条一項が禁止する武力行使に当たる」との判断を下しました。
日本には、戦争放棄を定めた憲法九条があるため、いかなる戦争にも参加することはゆるされません。そこで、日本政府はイラクへの自衛隊の派兵を「人道支援」と強調し、決してそれを「戦争だ」とは認めてきませんでした。また、マスコミも、政府に対して、イラク派兵が間違っているという批判は十分してきませんでした。
こういった状況の中で、司法が「自衛隊が行っていることは戦争行為であり、憲法に反する」との判断をしたことはとても重要な意味があります。
政府もこの判決と市民の声を無視できず、ついに二〇〇八年一二月に自衛隊をイラクから撤退させました。
私たちは、平和憲法と市民の勝利だ、と主張しています。
第三 平和的生存権の特徴と判決内容。
(1)裁判所は、民間人の死者が六五万人とも言われるイラクの深刻な実態と、自衛隊の輸送活動について詳細な事実認定をしています。
そして、「テロとの戦い」の本質が、罪のない市民への大量虐殺だということを暴いています。
その上で、裁判所は、私たちに「平和的生存権」がある、ということを正面から認めました。今日はこの点について少し詳しく説明をさせていただきます。
(2) 裁判所は、「平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したにとどまるものではない」としました。
判決では、平和的生存権を全ての人権を支える重要な権利だとし、単なる「理念」ではなく、裁判所へ救済を求めることが出来る具体的な権利だとしました。これは、国民ひとりひとりが、「平和」を作る当事者だと認めた点で極めて画期的です。
もちろん、これまで国際社会の中では、例えば一九八四年一一月一二日国連総会宣言などで「平和への権利」は確認されています。ですから、この判決が示した「平和的生存権」は、世界の平和と人権の発展の流れの中にあるものです。
(3) この判決は、さらに「平和的生存権」の中身について詳しく言及しています。判決では、「憲法前文に『平和のうちに生存する権利』と表現される平和的生存権は、例えば、『戦争と軍備及び戦争準備によって破壊されたり侵害ないし抑制されることなく、恐怖と欠乏を免れて平和のうちに生存し、また、そのように平和な国と世界を作り出していくことのできる、核時代の自然権的本質をもつ基本的人権である』などと定義される」と言及しました。
そして、「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」「戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられない権利」「他国の民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく、自らの平和的確信に基づいて平和のうちに生きる権利」「信仰に基づいて平和を希求し、すべての人の幸福を追求し、そのために非戦、非暴力、平和主義に立って生きる権利」などを含む、「極めて多様で幅の広い権利」だとしました。
ここで注目すべきは二点あります。一点は「平和」の内容を、「軍事力による平和」ではなく、非戦、非暴力を内容とする「軍事力を否定した平和」と捉えている点です。
今の私たちの世界では、「テロとの戦い」が続けられています。
アントニオ・ネグリ(Antonio Negri)がマルチチュード(MULTITUDE)などで述べるように、九・一一以降、アメリカでは「防衛」から「セキュリティー」への政策転換がなされました。日本を含む、多くの国も同様です。
ネグリは「セキュリティーを目的とした軍事活動と警察活動とが渾然一体となることで、国民国家の内側と外側との違いはかつてないほど小さくなっている。国外では低強度の戦争を行い、国内では高強度の警察活動が行われるという事態が発生している」と述べています。「防衛」が外からの脅威に対する防壁を含意するのに対し、「セキュリティー」は国の内外の恒常的な戦争活動を正当化し、先制攻撃や予防戦争を正当化しています。
その結果、イラク、アフガニスタン、ガザをはじめ、世界の罪のない多くの市民がこの「テロとの戦い」の犠牲になっています。
私たちは、この「テロとの戦い」「セキュリティー」にどう向き合っていくべきでしょうか。
これまでのように、軍事目的であろうと、警察目的であると、国対国の戦争であろうと、テロのとのたたかいであろうと、いかなる名目の軍事的暴力を否定することから始めなければなりません。
このために、視点を国の側から市民の側に置き換え、全ての市民に「いかなる名目でなされる軍事的暴力をも拒絶する」意味での「平和的生存権」であるということを改めて訴えていくことが大事であると考えます。
国の側に立って国の行動を正当化するのではなく、人民の側から国の行為を規制していくべきです。
第四 さらに、「加害者にならない権利」としての側面
(1)この判決で注目すべきもう一つ点は、「権利」の内容を、「戦争の被害を受けない権利」だけでなく、「軍事的手段によって他者の命を奪うことにかかわらない、戦争の加害者にならない権利」も含むとした点です。
イラクの市民、アフガニスタンの市民、そしてガザの市民に「戦争の被害を受けない権利」があることはいうまでもありません。
しかし、戦争は、被害を受ける市民がいる一方で、加害の国に住む市民もいるわけです。
(2)なぜ、判決は平和的生存権の中に「加害者にならない権利」を含むとしたのでしょうか。
理由は二つあります。一つは、この裁判の三二〇〇人の原告が、裁判官に対して「イラクの市民、子どもたちを殺す立場に立ちたくない」という思いを、それぞれの言葉で裁判所に訴え続けた、という点です。
ある人は自分の戦争体験から。ある人はNGO活動から。ある人は小さなこどもを持つ母親としての思いから。
原告の「戦争の加害者になりたくない」という強い思いが、「平和的生存権」の内容をつくっていいきました。
もう一点は、私たちが裁判所に訴えた、今の日本の軍事国家化の危険性です。
このイラク派兵を行っている間に、自衛隊の海外派兵が本来任務化しました。自衛隊と米軍との軍事訓練が拡大されました。アメリカ軍の陸軍第一司令部が日本の基地に移ってきました。
日本の自衛隊は、米軍の世界戦略を直接支える「外征軍」に変容しています。
また、日本国内では、自衛隊が国民の反戦運動を監視していた事実が明らかになりました。市民が反戦を訴えてビラを配布したことが罰せられる事態も生まれました。
自衛隊の変容と同時に日本社会が軍事国家に大きく変容しています。
海外で戦争をする国は、国内でも国民の権利を侵害していきますが、正に日本はいま、そういった危険な状況にあります。
海外派兵を食い止め、国内の人権侵害も食い止めていくためには、日本の国民が日本政府に対して、海外派兵を止める闘いをしていくしかありません。
名古屋高等裁判所は、現在の日本社会の危険性を認識し、国民が「戦争の加害にならない権利」を積極的に行使していくことに期待したのだと考えます。
以上から、今の日本では、平和的生存権を「戦争の被害者にも、加害者にもならない権利」ととらえることが極めて重要であるということを強調したいと思います。
第五 最後に、戦争の被害者を産み出さないために、「いかなる軍事的暴力をも拒絶する権利」としての平和的生存権を掲げ、国家の戦争を規制していくことが重要です。そして、日本のように、海外に軍隊を出す「加害国」に生きる個人としては、「加害者にならない」ならない、という点も強調していく必要があります。
今日求められる「平和的生存権」の中味とは、「いかなる軍事的暴力の被害者にも、加害者にもならない権利」であると私は考えます。
名古屋高裁は、この意味の平和的生存権を示した、という点で、先駆的な価値を有してると考えます。
私たちは名古屋高等裁判所が示した「いかなる軍事的暴力の被害者にも加害者にもならない権利」としての平和的生存権の価値を世界に広め、国家の戦争行為を規制するとともに、それぞれの国内で「戦争加害国」にさせない闘いをしていくことが大事です。
とりわけ、日本は過去に戦争の加害国としての歴史を有しています。イラクやソマリアなどへの派兵では、過去と違った装いをまとっていますが、再び戦争の加害国となっていることは間違いありません。
私は、日本の軍事国家化に反対する取り組みを全力で行っていきます。
そして、世界中の市民と手を取り合って、あらゆる軍事的暴力を規制する闘いをしていきたいと考えています。
ともに、「いかなる軍事的暴力の被害者にも、加害者にもならない権利」としての「平和的生存権」を掲げ、二一世紀を平和な世紀にするために道を歩んでいきましょう。
東京支部 中 野 直 樹
一 あかつきの弱光が青色のテント地を淡く感光させている。しばらくがまんしながら寝返りを打っていたが、あきらめ外に出た。四時二〇分であった。一応周囲に警戒の目を配りながら、昨夜と同じ場所に立ってこらえていた小用をすませた。沢の両岸や木々が闇を背景に陰翳ある世界をつくっていた。少しずつ光の力が増し、闇を追いやるにしたがって、モノクロの自然界にぽつぽつと彩りが表れだした。晴れていれば空が紫色から青に変化していくところであるが、この朝は雲の白に被われたままであった。川面にも靄がかかり、梅雨明け後の朝の爽快さがない。
テントに戻り寝直すことにした。隣のテントから岡村さんが起き出し、昨夜の焚き火跡に火をおこし、飯盒で飯を炊く準備を始めたようである。相撲部屋では若輩がちゃんこづくりに励むが、この大先輩は実にまめな方でいつも食事づくりでお世話になっている。六時頃、パラパラと雨が天幕を打った。雨か、と言いながら大森さんがおきてきた。通り雨であった。
七時、岡村さんが握り締めたおにぎりとビールなどをザックにつめて、竿を振りながら、遡行を始めた。
二 ブナの密生した森、苔むした岩の間を流れ落ちる穏やかな渓流水。垂涎の岩魚の楽園であるはずなのに、三人の表情がすぐれない。イメージでは、そこの瀬、あそこの落ち込みで岩魚が竿をしならせるはずなのに、魚信がないのである。釣れない、つれないなー、と首を傾げながら、地図をながめた。どこの峪でも、本流に注ぐ枝沢に名がついている。テントを張った朝日沢から、右岸に大祝沢、シャチアン沢、オイノ沢、左岸にマンダノ沢、そして本流は最後に八滝沢、マメマキ沢に分岐し、稜線に突き上げる。いつも、いったい誰が、何を意味して命名したのかと考える。マンダノ沢出合いから上流は、大岩と滝の連続、岩場だと書かれている。
一〇時、比較的滝が小さそうなマンダノ沢に入った。私は、移り気に、毛鉤を振ったり、川虫を流したりするが、岩魚はあいさつもしてくれない。滝壺に大森さん自慢の毛鉤が流れても、岩魚が現れないでは職人芸とならない。岡村さんが長い仕掛けをつくっておもりを重くして底に沈めて粘るが、ほとんど結果に結びつかない。
マンダノ沢は大岩帯と七〜八メートルほどの滝が続く。このようなところを語源は不明だが、ゴーロ状という。私たちはザイルを持っていない。なんとか高巻きをして越えていった。右岸から上天狗沢が注ぐあたりから川原石が敷き詰める緩やかな流れとなったが、岩魚密度の薄さは変わらない。さらにつめると下天狗沢で行き止まりとなった。私の知識では、同一名称は、上流にあるものに「上」、下流にあるものに「下」とつけるものと思っていたが、地図上、ここの「天狗沢」は逆転していた。
一一時、本流との出合いまで戻り、ここで昼食となった。釣果は合わせて一〇数尾と寂しかったが、苦労して運んできたビールで乾杯した。乾麺のうどんをゆで、虫取り網で水洗いをして、大きな蕗の葉に一口サイズに並べた。冷水でひきしまったうどんを、ネギとワサビを入れたつゆに浸して食す。塩のきいたおにぎりも元気の素だ。
二人が近くにあるマタギ小屋を調査してくるというので、私の方は、本流を探釣することにした。立て続けに二尾の岩魚があがり、気持ちも高ぶり始めたが、すぐに二〇メートルほどの二段の滑め滝にぶつかり、撤退となった。食事場に戻ると、二人が、確かにマタギ小屋があり、新しいトタン板で三角屋根が葺かれていたと現場調査結果を報告していた。こんな山奥にこもって熊やウサギや鳥の猟をしている生活史があったことはいまや伝承の世界の事柄だ。
三 午後二時頃にはテント場に戻り、流木を拾ってきて、焚き火の準備を始めた。岩魚を串に刺し、荒塩をエラ部分にぬり、全体に振りかけて、口から竹串を刺して、体内を三回針で縫うように送って、尾の付け根で串先を止める。これで品良い姿に焼き上がる。焚き火にあぶられて油がぽたぽたと垂れ始めると、岩魚の口が大きく開く。まるで命を絶たれた無念さに慟哭するようにも見える。いつもこの瞬間、思わず、岩魚に手を合わせて成仏を念じてしまうのである。
火を囲み、酒を飲みながらの小宴の始まりである。大先輩との飾りのない語り合いは、生き方の知恵の宝庫である。最後は泥酔となるので、話の中身はいつも記憶されないが、ずいぶん人間の幅をつけてもらっていると思う。
後年、岡村さんは、自分史を混ぜた岩魚釣り本を出した。はしがきに次のように記されている。「・・北東北の源流の岩魚釣りの旅を続け、『心のやすらぎ』のある生活をしてきた。この効あってか、私は現在還暦を越えて二年となるが、大病を患うことなく、かつ健康診断も肥満以外は全部パスしてきた。この釣の旅の相棒大森兄との友情も、四〇年近くもこの旅のお陰で続いてきた。見てくれではなく、自然が育てた恵みを頂戴し、手料理で本当に美味い御馳走を食べる腕も磨くことができた。だから、私にとって『岩魚釣りの旅礼賛』なのだ(二〇〇四年「岩魚釣りの旅礼賛」文芸社)。
昨日の日曜日、参議院選挙の投票日であった。ラジオを持参していないので、結果は不明である。私たちは明日三一日川を下り、そして、沈下橋の川底に埋めてきた缶ビールで安着の慰労とまだ不明の緒方靖夫さんの東京選挙区再選を祈願して乾杯をし、町にもどって、電話を入れ結果の確認をすること、当選していれば八月一日夜に緒方さんの地元町田市玉川学園で挙行される祝勝会に参加すること、このことを確認して、残る酒を全部飲み干し、愉快な山中宴をお開きとして、シュラーフに潜り込んだ。瀬音が一瞬支配し、やすらぎのときが閉じた。