<<目次へ 団通信1319号(9月1日)
鷲見 賢一郎 |
二〇〇九年 長崎・雲仙総会特集 新しい情勢のもと長崎・雲仙総会で未来をつくる討論を! |
熊谷 悟郎 |
ようこそ、長崎へ |
横山 巖 |
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中野 直樹 |
幹事長 鷲 見 賢 一 郎
はじめに
現在、八月十八日公示、三十日投票の第四十五回総選挙がたたかわれています。総選挙の結果、自民・公明両党が少数政党に転落し、民主党中心の政権が発足すると予想されています。総選挙では、民主党が伸びるだけではなく、日本共産党などの革新政党がどれだけ伸びるか、その重要性が指摘されています。
昨年秋以来の大企業による非正規労働者の大量解雇とこれに対する地域ぐるみ、国民ぐるみの反撃のたたかい、この間の「海賊対処」派兵法反対の活動をはじめとする全国各地の憲法を守り、生かす活動等々が、自公政権の退場をうながし、新しい政治の幕を開こうとしているのです。
いま、私たちは、戦後かってない激動の時代に遭遇しているのではないでしょうか。二〇〇九年長崎・雲仙総会では、「総選挙後の情勢をどのようにとらえればよいのか」、「憲法、平和、国民生活を守るために求められている実践は何か」などについて討論したいと思います。
以下には、雲仙総会のいくつかの課題について述べます。
一 労働と貧困をめぐる問題
―大量解雇阻止のたたかいと派遣村活動
昨年から今年にかけて、いすゞ、パナソニック若狭、三菱電機、ホンダ、マツダ、日産、日本トムソンなどの期間工や派遣工は、それぞれの会社を相手に、雇止め無効、派遣先に対する地位確認などの裁判闘争に立ち上がっています。裁判闘争の数は、全国で五十前後にいたっています。厚生労働省は、今年七月三十一日、昨年十月から今年九月までの非正規労働者の失職者が二二万九一七〇人になると発表しています。提訴した裁判闘争を攻勢的に進めていくうえでも、新たに提訴していくうえでも、総会での経験交流と討論が重要です。
年末年始の日比谷公園の「年越し派遣村」を皮切りとする派遣村活動は、全国各地で二〇〇近く行われており、水際作戦を打破し、生活保護行政の大きな改善を勝ち取っています。その経験を全国のすみずみにまで広げ、生活保護行政のさらなる前進を勝ち取ることが重要です。
自公政権の退場を勝ち取り、民主党中心の政権が実現すれば、労働者派遣法抜本改正の条件は広がります。しかし、民主・社民・国民新党の三野党案は、製造業派遣を全面禁止せず、期間制限違反の場合の「みなし雇用」は派遣元から派遣先への期間制限の通知を要件とするなどの不十分点を持っています。民主党中心の政権ができても、運動を強化することなしには労働者派遣法抜本改正を勝ち取ることはできません。
二 憲法と平和、民主主義を守る課題
―衆院比例定数削減反対のたたかい
民主党の総選挙マニフェスト(政権公約)は、「民主党は二〇〇五年秋にまとめた『憲法提言』をもとに、今後も国民の皆さんとの自由闊達な憲法論議を各地で行ない、国民の多くの皆さんが改正を求め、かつ、国会内の広範かつ円満な合意形成ができる事項があるかどうか、慎重かつ積極的に検討していきます。」としています。民主党の「憲法提言」は、「憲法に何らかの形で、国連が主導する集団的安全保障活動への参加を位置づけ」るとし、憲法九条を改変しようとするものです。
さらに重要なことは、民主党がマニフェストで「衆院比例定数の八〇削減」をうたっていることです。現在一八〇の衆院比例定数を一〇〇へ削減するというものです。これでは、たとえば、二〇〇七年参院選の結果にあてはめた場合、自民・民主両党で六七・六%の得票で九五・三%の議席を占めることになります。民主党の幹部は、「政権を取れば法案を作成して提出したい」と公言しています。
総選挙後、憲法九条の改変に反対する運動を強化すると同時に、衆院比例定数削減反対のたたかいを飛躍的に強化することが重要です。あわせて、憲法二十五条(生存権)、二十七条(勤労の権利)などの憲法上の諸権利を生活と労働に生かしていく活動を強化することが重要です。
三 裁判員制度に立ち向かう課題
―被告人の権利を守り、緊急改善要求の実現をめざして
初の裁判員裁判が今年八月三日から六日にかけて殺人罪で起訴された事件について東京地裁で行われ、懲役十六年の求刑に対し懲役十五年の判決が出されました。「情状証人は一人もいなかったのか」、「被害者の言動が犯行を誘発したか否かの解明が不十分だったのではないのか」、「量刑が重めなのではないのか」などの懸念の声があがっています。他方、千葉地裁、津地裁などでは、「類型証拠の開示についてまったく考慮しないまま、二週間以内に弁護人の検察官請求証拠に対する意見書を提出するよう求める」などの、被告人・弁護人の防御権を無視した違法不当な提案や訴訟指揮がなされています。これらの事例からしても、裁判員制度のもとで被告人の権利を守る弁護活動を探求し、実践することは極めて重要です。
民主党、日本共産党、社民党が衆院で多数を占めれば、これらの政党のこの間の対応からして、「(1)被疑者・被告人の取調過程の全面的可視化、(2)裁判員であった者に対する守秘義務規定の削除」などの可能性は大きく広がります。私たちは、総選挙後の新たな情勢のもとで、上記二つの要求とあわせて、「(3)公判前整理手続終了後の弁護人の立証制限規定の廃止、(4)開示証拠の目的外使用禁止規定の廃止、(5)検察官手持ち証拠の全面的開示」の裁判員制度に関する緊急改善要求を実現するため、よりいっそう運動を強化する必要があります。
おわりに
以上述べた課題の他にも、治安強化と言論弾圧に反対するたたかい、「つくる会」教科書採択をめぐる問題、環境・公害問題、国際人権法を活用する活動、地方自治をめぐる問題などの諸課題があります。そして、これらの活動の中心としての、団支部・県を強化することが緊喫の課題として求められています。
雲仙総会では、総選挙後の新たな情勢を踏まえて、以上の諸課題について討論を尽くし、たたかいの道筋を明らかにしましょう。
激動の情勢のもと、私たちの未来を切り開き、創るために、全国から雲仙総会に集まり、充実した討論をしましょう。
多数の団員・事務局員の皆様のご参加を期待します。
(八月二十五日記)
長崎支部 熊 谷 悟 郎
五月集会での総会開催支部からの歓迎挨拶は、我が開催地から誰一人訪れることなく、又、聞くところによると、代読内容も団史上始まって以来の情けないものであったとの酷評であったとか・・。
斯様な面目を一新するためにも、今年の雲仙温泉ホテル東洋館での自由法曹団全国総会は、長崎の団員の総力を持って当たる所存です。
雲仙の温泉街では、一〇月下旬から一一月初旬まで美しい紅葉を見ることができ、赤や黄色になる代表的な樹木に『コハウチワカエデ』『ウリハダカエデ』『イタヤカエデ』『イロハモミジ』など『カエデ』の仲間があり、常緑樹の『ヤマグルマ』の緑の中に、美しいコンストラストを見せてくれます。又、ホテル東洋館は、雲仙の中でも一際目立つ赤レンガの建物で、最上階五階から見下ろす大パノラマ、雲仙初の展望露天風呂や、男女共に内風呂と露天風呂があり、どちらからも『おしどりの池』に沈む夕日を堪能できます。又、女性のお風呂では毎日二〇〇本のバラを浮かべた『バラ風呂』をお楽しみ頂けるとのことで、まさに心の底から疲れを癒すことが出来るでしょう。
さて、雲仙の宣伝はこのくらいに致しまして、二〇〇九年は、アメリカ初の黒人大統領就任(これは本当に感動しました)、長年続いた自民党政権交代の激動期(本当に交代することになるのかは現段階では神のみぞ知るですが)、新型感染ウィルスの世界的蔓延(これもやっとの観ですが)、爆発的自然災害発生(これも温暖化が原因でしょうか、酷いものです)等といった、良いに付け悪いに付け、大規模な動きが目立つ歳でした(未だ終わっておりませんが、・・と、括弧書きが多く、読み辛くて済みません)。
斯様な激動の歳に、長崎で自由法曹団の団総会が開催されることは、まさに名誉と言っても過言ではないでしょう。
長崎と言えば原爆、原爆と言えば原爆訴訟。長崎から発信した原爆訴訟も現在では集団化され、その集団訴訟が時の政府太郎君までをも動かし、政治的に、多くの被爆者の権利を擁護し救済し得る動きとなったことはつい最近のことで、未だ御記憶にも新しいと思います。
又、長崎と言えば炭鉱、炭鉱と言えば石炭じん肺訴訟。長崎から発信した石炭じん肺訴訟も丁度三〇年目となり、今や全国で政府や企業の責任を糾弾し続けていることも御存知のことと思います。又、じん肺問題は、今では、炭鉱のみならず、トンネル、アスベストと、縦にも横に広がっているのが現状です。
斯様に、長崎は、被爆者や労働者と言った、歴史的・政治的・経済的に虐げられてきた弱者の人権を救済する裁判の発祥の地であり、まさに我が自由法曹団員の力が試され、そして、その全力を振り絞って裁判の歴史を変えてきた開拓地でした。勿論、その自由法曹団員の力は、県内の者だけにとどまるものではなく、九州各地から全国に亘って、賛同し、協力し、支援してくれた全ての団員の総力でありましょう。
さて、斯様な歳に、斯様な長崎で、団総会を開催するのですから、是非団員の皆様には、一人でも多く足を運んで戴き、切磋琢磨して戴くと共に、夜の懇親会では十二分に長崎の美味を堪能して貰い、又、翌日のオプショナルツアーでは、半日コースに於いても一泊コースに於いても、長崎を楽しんで戴けることを願って止みません。
以上のように、長崎の団員全員、一人でも多くの全国の皆様のお越しを首を長くしてお待ちしておりますので、宜しくお願い致します。
長崎支部 横 山 巖
全国の自由法曹団団員の皆様、今日は。元売れない漫画家、長崎の横山です。
さて、団総会と言えば、その楽しみは、夜の酒池肉林の懇親会とともに、オプショナルツアーが定番となっております。
今回のオプショナルツアーについて、私の方から、少々御説明させて戴きます。今回も、今までと同様、半日コースと一泊コースに別れています。とは言っても、両コースが全く異なるコースとなるのではなく、一泊コースは半日コース+αであることは既にお分かりのことと思いますので、先ず、「半日コース」、次に「+α」の一泊コースに分けて御説明させて戴きます。
さて、先ず半日コースですが、このコースでは、あの悪名名高き「諫早潮受堤防」道路で諫早湾を横断して戴きます。
御存知の通り、諫早湾は、幾種もの豊穣な海生生物(ムツゴロウ、ワラスボ、タイラギ、エツ、ハゼグチ、ガザミ、アゲマキガイ、ウミタケ等)を育んできた有明海の湾奥部に当たります。有明海は、福岡・佐賀・熊本・長崎の四県に囲まれた一七〇〇平方キロメートルの湾です。狭い海峡で八代海と隔てられ、湾口で千々石湾を経て外海と連絡しています。有明海の干満差は我が国最大で、湾奥部で最大六m以上に達します。したがって、湾奥部や中央部東側では、全国の干潟の実に四〇%にあたる広さの干潟が形成され、潮流が早く、海水はいつも泥色に濁っていました。
一九九七年四月、総事業費二四六〇億円をかけて、諫早湾奥部三五五〇haの海を、高さ七m、長さ約七kmの潮受け堤防(所謂ギロチン)で閉め切り、その内側に内部堤防を築き、九四二ha(一七五九haを見直して事業縮小、西工区と呼ぶ)の農地を造成する諫早湾干拓事業が強行実施されたことは記憶に新しいでしょう。締め切られた堤防内は、干潟の乾燥化と調整池内の淡水化が進み、干潟の生物が徐々に死滅したり、養殖のりが大凶作となったり、貧酸素水塊が発生し水質の富栄養化と赤潮発生を促進し、アサリやタイラギなど、底生動物の生息を困難にしたりといった、所謂「有明海異変」が現れるようになりました。
そして、締め切り堤防の上に、二〇〇七年末に開通したのが、今回横断して戴く諫早湾干拓堤防道路です。是非、横断して戴くことにより、この諫早湾干拓事業の巨悪とも言うべき暴挙と愚かさ、そして、締め切られたことにより絶滅していった生き物たちの絶叫を、身近に感じて戴きたいと思います。
さて、次に「+α」についてですが、午前は平戸市内見学、午後は佐世保基地見学となっております。
午前の平戸市内見学は、平戸オランダ商館跡、聖フランシスコザビエル教会、平戸城を見学して戴きます。平戸城は、平戸瀬戸に突き出したほぼ円形状の標高五三mの亀岡山に築かれ、山鹿流の縄張りによる日本唯一の平山城でした。現在、平戸城跡は亀岡公園として整備されていますが、城跡への入口に建つ北虎口門とそれに続く二層の狸櫓は江戸時代の貴重な遺構で、北虎口門近くには井戸も残っているようです。一層の狸櫓は正式には多門蔵ですが、次のような伝説があることから狸櫓と呼ばれるようになったそうです。櫓の下に狸が住みだし、修理のため床板を剥ぎ取ったところ、小姓に化けた狸が城主の寝所にやって来て「狸の一族を櫓に住まわせて頂ければ、末長く守護します」と嘆願したので、城主は早速床を元通りにしてやったというものです。
午後の佐世保基地見学は、海上自衛隊佐世保資料館、石岳展望台、弾薬補給所などを見学して戴きます。米軍基地関連の見学が主ですが、そうはいっても、米軍基地の内部に入ってのものではなく、基地を周辺から見学し、基地の説明をさせて戴くと言った趣向です。従って、基地内部に立ち入り、銃の試射や米軍兵との語らい等を想像されていた方は、今回は御勘弁下さい。
それでは、皆様に楽しんで戴けるよう「二〇〇九年長崎の旅」を御用意しておりますので、多数お集まり下さい。
では、どっとはらい。
東京支部 中 野 直 樹
一 午前三時、目が覚めた。寝不足の頭が重く眠り直そうとしたが、断続的に降り続ける雨音が不安を呼び、今日これからの展開のいろんな有り様が脳裏をかけめぐった。午前五時、三人は、濡れたテントをザックの上に積み上げ、食事なしでいけるところまでいこうと、行動を開始した。先頭は、岡村さん、続いて私、最後尾は大森さんが、斜面に繁茂する薮に突入して、枝尾根とおぼしき急勾配を登り始めた。
足下にはでこぼこの石があり、倒木があり、蔓が這う。足がとられ、ザックの重さによろめく。背丈を超える草木からシャワーのように雨雫が顔を襲う。予想を超える悪条件の薮こぎに体力が消耗し、一時間半、果敢に草分けとして奮闘した岡村さんがばてた。昨夜インスタントラーメンしか食べていないことから、糖分が枯渇したのである。頼みのおにぎりは六個。何時着けるか、何があるかわからぬことから、がまんして、おにぎりを一個だけとりだし三つに割り、三人で口に入れた。精一杯噛んで味わい、胃袋に送った。本当にささやかな朝食であったが、銀舎利はさすがである。へたった身体に力が入るようになった。
今度は私が先頭に立ち、次第に勾配がゆるやかになってきた枝尾根を這い登った。しんがりの大森さんが、地形をみながら、右、左と舵取りをし、背骨の大尾根に誘導した。大尾根は、見事なブナの巨木の原生林であった。霧が立ちこめているが、時折、風で霧が飛ばされて見通しが生まれた。立ち止まって荷をおろし、濡れて破れかけている地形図を広げ、目的の下り尾根の方向を探る。ふと近くのブナの木に眼を移すと、珍しい現象に眼を奪われた。天にむかってブナは枝をのばし葉をひろげる。落ちてきた雨粒は葉から枝を伝い幹に合流して、ブナの幹に細い流れをつくり、根元に落下していた。私はこれをコップに汲んで、大森さん、岡村さんに渡した。尾根上にも「沢」ができるのだ。カラカラになった喉を潤し、あめ玉をほおばった。後年、テレビ番組で、このブナの樹幹を伝う水が、山で生きる物の貴重な「水源」となっていることをとらえた映像をみたが、このときの体験を思い出した。
午前一〇時、ようやく標高八〇〇メートル弱の山頂とおぼしき場所につき、下るべき枝尾根の方向が見えた。雨も小康となり、ここで昼休憩をとることにした。大きなブナの根元に荷をおろし、雨合羽の帽子を脱いだ。全身ぬれねずみで、頭から湯気がたっていた。ここで昼飯、といっても配給はおにぎり一個ずつとコンソメスープ。岡村さんが力を込めて握ったおにぎりの歯ごたえ、塩加減、梅干しの酸っぱ味、大森さんのこんな旨い物はないとの発言にうなずき合いながら、口にほおばった。
疲労困憊から少し落ち着きを取り戻して、付近を観察するゆとりができると、道なきこんな場所に、ジュースの空き缶やペットボトルが転がっているではないか。これは、山屋か沢屋か釣屋か。このときは、マナーの悪さを非難する気持ちより、人がきている場所だ、と道標を確認できたかのように、ほっと安心を感じた。深い霧が緑一面のブナの森にただよい、つかのま幽玄の世界に感嘆の声をあげた。
二 一一時、水を含んで重さを増しているザックを痛む肩に背負いなおし出発。あとは下るだけとの見通しが緊張をゆるませた。しかし、たたかいの場における心のゆるみが魔の手であることをすぐ知らされた。大尾根から左手にある堀内沢側におりる枝尾根が幾本かあり、遠景のみえない霧中では、どれが地図で目的としているものか判然としないのだ。これまでは緊張の心を共有し、進むべき方向について動物的な感で一致してきた三人が、ここにきて、見方が分かれてしまった。疲労のなかで興奮しているために大声での議論となった。間違った枝尾根をおりてしまうと切り立った崖に直面して、登り直さなければならない。その悲惨さがわかるだけに、必死である。半ば破れて破片となっている地図をみ、地形をみて、改めて意見を出し合ったが二対一となった。ここは多数の二の意見に従った枝尾根を選択することとした。
ブナの森からヒバの林に樹相が変わるなかを下り始めた。急斜面の見えない足下に潜む石、倒木、蔓、濡れた土それぞれが足に負担をかけ、時折、滑って転倒をもたらした。皆、膝が痛み始めた。やがて左手から本流の音が、右手から沢の水音が聞こえ始めた。正しい方向にきているようだ。
一時三〇分、廃道と化している山道に出た。しばらくたどると、勢いある水が岩肌に白くはじける小滝があり、ここで荷をおろし、雨具を脱いだ。これで帰還できたと誰もが思った。残してきた二個のおにぎりを三人で分け、大森さんが気付け薬として残していたウイスキーを濁りの入った滝水で割り乾杯した。
三 山道は三日前に歩いた取水堰堤前の河原に下っていく。二時、私たちは、眼前の光景に口をあけたまま、立ち尽くした。一〇〇メートルはあろうかと思われる広大な河原全体が泥川となり、通り道がないのである。ロープを出して持ち合い、三人で少し顔を出している中州まで渡ってみるが、そこから先が水底である。焦りの中で、三人で肩を組み合い徒渉することを試みるが、泥水の底の深さがわからず、万一、深みにはまったときにザックが浮いてバランスを崩してしまう危険を感じ、やめとなった。この決断に至るまでいささか冷静さを欠いたやりとりもあった。
いったん山道まで戻り、ここで衆議思案し、沢筋を避けるという原則に戻り、大変だけれどももう一度登り返し、中腹を薮こぎしようとの結論となり、崖のようなところの高巻きに取り付いた。気力をふりしぼりながら這い上がっているうちに、微かに踏み跡が横切っていることに気づいた。けもの道かも知れないがこれに賭けようということになり、三〇分ほど眼をこらしながら跡を辿ると、来るときに読んだマタギ小屋撤去の告知板にたどり着いた。三時三〇分であった。
ここで私たちは再び全身の力が抜ける光景に直面することとなった。車は沈下橋を渡った対岸にある。来るときには清らかな清流下に安着乾杯用缶ビールを沈めてきたところがいまや増水激流となり、文字通り沈下橋となって渡れないのである。二〇〇メートルほど先に停車している車に戻れない。私たちはへたり込んだ。
四 林道があり、堂田バス停まで八.三キロメートルとの表示があった。朝五時から苦行の連続で足を痛めた岡村さん、大森さんはこれ以上歩ける様子ではない。日射しが差し始めているが、あと二時間もすれば日没である。うかうかできない。この林道はどこに出るかわからないが、私が、電話のあるところまで歩きタクシーでここまで戻ってくる役目を引き受けた。ザックをおき、財布だけをもって歩き始めた。まとわりつくメジロアブを振り払いながらひたすら下った。自分も膝の痛みがあり。肩で息をするような状態であったが、二人を野宿させないとの悲壮な覚悟と気合いで、足を前に振りだした。四時四五分、田沢湖町最終処分場造成地との看板がかかった場所があった。柵ごしに中をのぞいてみるが、作業人の姿が見えなかった。残念と思い、さらに下り始めたところ、構内からライトバンが一台出てきた。男性運転士ひとりであった。私は、林道のまんなかに立って車を止め、事情を話し、タクシー乗り場のある駅まで乗せていってほしいと頼んだ。憔悴切った姿顔つきで頼み込む私の必死さが同情を生んだのか、この男性は、自ら奥地の二人を迎えにいってあげると言ってくれた。このありがたい一言に張りつめていた気持ちがゆるみ、目頭が熱くなった。カナカナとヒグラシが鳴いていた。
運転士は、三人とザックの重量で重心が下がった車がでこぼこ道に、ガリガリ腹をする音に顔をゆがめながら、会社の車なので、もし破損をしていたら弁償してくださいと言いながら、田沢湖駅まで運んでくれた。
大森さんが自宅に電話を入れ、緒方さんが当選したことを確認した。駅前の定食屋で、運転士の親切への感謝、無事帰還への努力のねぎらい、そして、緒方さん当選の喜びに乾杯した。テレビは、この地域が局地的な大雨に見舞われ、下流域では浸水被害も発生しているとの報道を流していた。