過去のページ―自由法曹団通信:1324号        

<<目次へ 団通信1324号(10月21日)



新垣  勉 日米地位協定改正への取り組みを
板井 俊介 水俣病特措法の成立と司法救済制度への闘い
横山  雅 ピーター・アーリンダー氏の学習会に参加して
高石 育子 異議あり!2016石原オリンピック連絡会の活動結実!!〜コペンハーゲン活動報告〜
松井 繁明 *書評*
大坂じん肺アスベスト弁護団 泉南地域の石綿被害と市民の会
『アスベスト惨禍を国に問う』
総会議案書の訂正について



日米地位協定改正への取り組みを

沖縄支部  新 垣   勉

 自公政権が崩壊し、民主党は社民党・国民新党との間で三党合意を締結し(九月九日)、民主党中心の新政権が誕生した。今のところ、旧来の自公政治を変革しようとする新政権の意気込みが感じられ、沖縄でも新政権への期待が高まっている。自民党の惨憺たる敗退ぶりには、目を見張るものがある。沖縄では、自民党の衆議院議員はゼロとなった。米軍基地擁護の政治をすすめていた自民党議員がゼロとなったことは、実に爽快である。しかし、米軍基地問題の行方は、依然として予断を許さない。なぜなら、三党合意は、次のように合意しているからである。

 「主体的な外交戦略を構築し、緊密で対等な日米同盟関係をつくる。日米協力の推進によって未来志向の関係を築くことでより強固な相互の信頼関係を醸成しつつ、沖縄県民の負担軽減の観点から日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。」

 この合意は、明らかに日米同盟の維持を基軸としている。この点では、旧来の自公政権と同じである。日米同盟は、安保条約を中核とする軍事同盟を本質とするものであり、この点で、新政権の対米外交には、本質的な限界が存することを直視しなければならない。自公政権との違いは、新政権が「対等な関係」を強く意識している点と、この視点から日米地位協定の改定を提言し、現在進行中の米軍再編や在日米軍基地の在り方についても見直しの姿勢を明確にしている点である。三党合意に盛り込まれた合意事項をいかに新政権に実行させるかが当面の緊急課題である。新政権の具体的な基地政策が固まる前に、いかに米軍基地が集中する沖縄の意思を一つにまとめこれを政策に反映させるかが、沖縄県民の重要な課題となっている。その中の一つが、日米地位協定の抜本的な見直しである、これは県民総意の要求事項としてこれまで何度となく政府に突きつけてきた問題であるが、自公政権は、これをパンドラの箱を開けることになるとして、黙殺し、運用改善で対処してきた。旧行政協定時代の内容を引き継いだ現行の地位協定は、一九六〇年以来四九年間もの長い間一度も改正されず、その構造的矛盾・不合理さは耐え難いものとなっている。地位協定改正運動は、米軍基地の存在を前提とするものではあるが、米軍基地の実態と地位協定の構造的矛盾・不合理さを暴露し広めることを基盤とするものであり、人権擁護・救済と基地撤去とを結びつけ、米軍基地撤去に向けた国民的世論を作りだす運動への飛躍を用意するものである。

 現在の駐留米軍は、日本の法律にもアメリカの法律にも縛られず、「無法地帯」の中でしたい放題のことをしている。このようなことを許さず、米軍を「法の支配」の下に置くためには、現行地位協定の構造的問題点を明らかにした上で、あるべき地位協定案を提言する取り組みが求められる。すでに、自民党議員有志は自公政権下で具体的な改正案(妥協的案)を提起したことがある。これに危機感を覚えた沖縄弁護士会は、積極的に対案として、法の支配を徹底する改正案を提案している。小手先の改正案で問題が矮小化されないように、わが自由法曹団も積極的にこの問題に取り組む時期が到来をしているのではなかろうか。団総会での議論を期待する。



水俣病特措法の成立と司法救済制度への闘い

熊本支部  板 井 俊 介

一 水俣病救済特措法の成立と問題点

 本年七月八日に開かれた参議院本会議で、「水俣病救済特別措置法」こと「チッソ分社化」法案が賛成多数で可決された。これまでも指摘してきたように、同法は、形こそ水俣病被害者の救済を謳ってはいるが、その実体はチッソを水俣病認定患者に対する賠償責任、未救済患者に対する賠償責任から完全に解放しようとする加害者救済法案である。

 法案成立に至る中で、ノーモア・ミナマタ訴訟原告団、及び、弁護団は、公害弁連加盟の多くの弁護団員のご協力も頂き、国会周辺で法案の問題点を指摘し、同法案では最終解決にならないと訴え続けた。その結果、マスコミもこぞって同法の問題点を認識するに至り、水俣病問題の最終解決を求める世論は全国規模のものとなった。

 一方で、同法の救済対象者として、これまで長年争われてきた全身性の感覚障害の症状を持つ者も含まれ(同法五条)、時効・除斥期間による制限も存在しないなど、一定の成果もあった。

 この間ご支援頂いた各原告団、弁護団、及び支援の皆様からのご協力に心から感謝申し上げたいと思う。

二 司法救済による解決を求める

 従前より、ノーモア・ミナマタ訴訟では、水俣病関西訴訟最高裁判決及び水俣病第二次訴訟控訴審判決の確定判決を踏まえ、救済対象者を「行政」ではなく、「裁判所」により判定する司法救済制度による解決を提唱してきた。

 今般成立した特措法では、訴訟に参加する患者は適用対象となっていないため、私どもは法案による救済とは別個に裁判所での和解による解決を目指している。現に、法案の趣旨説明に立った園田博之衆議院議員は、松野信夫参議院議員の質問に対し、「裁判の中で和解する場合を含めて」と述べ、裁判原告と裁判上の和解により解決する考えを示している(平成二一年七月七日参議院環境委員会)。

 また同法七条は、国、熊本県及びチッソに対し、相互に連携を図りながら「水俣病に係る紛争を解決すること」、要するに訴訟の解決に早期に取り組むよう義務づけており、同条も訴訟上の和解を促進させる根拠となるであろう。

三 ノーモア・ミナマタ被害者・弁護団全国連絡会議の結成

 このような情勢を受け、平成二一年八月二三日、これまで熊本のほか、大阪、新潟の各地裁で訴訟を続けてきた原告団、弁護団は、熊本県水俣市において合同会議を開き、「ノーモア・ミナマタ被害者・弁護団全国連絡会議」を結成した。

 今後、この全国連を中心に、更なる闘いを展開することとなるが、私たちは、出来る限り連帯を広げ、一人の取り残しも許さない被害者の救済を目指すものである。

四 新政権に決断させる闘いを

 八月三〇日の衆議院議員選挙により、鳩山政権が誕生した。水俣病救済特措法の成立を受け、司法救済制度による解決を実現するには、この新たな政権に「一人の水俣病被害者の切り捨ても許さない解決」をする断固たる決断を求めなければならない。

 平成二一年八月二六日、平成七年の政治解決時に首相を務めた村山富市元首相が水俣市を訪れ、同じく政治解決のために尽力した当時の吉井元市長と面会した。村山元首相は、「最高裁判決を尊重し、国は誠意を持って被害者と和解すべきだ」と述べ、最高裁判決を事実上無視して解決を図ろうとする国の姿勢を批判した。また、村山元首相は、一大臣では環境省や財務省などの抵抗にあう。内閣を挙げて取り組まないと、解決は難しい」とも述べ、政府挙げての取り組みとトップの判断が不可欠であることに言及している。

 現在、手を挙げている未救済患者だけではなく、今後手を挙げるであろう被害者、地域指定外の地域の被害者、及び、昭和四四年以降に水銀曝露したと推測される被害者の救済問題など、未だ問題は山積しているのである。これに目を向けずに真の解決はあり得ないことを、全ての関係者は知るべきである。

 今後は、官僚政治の打破を掲げる民主党政権に対し、水俣病問題において、真の官僚政治の打破を求めることになる。今こそ、まさに立ち上がり闘うべき時である。

 私たちは、自由法曹団の全ての団員に対し、今後の水俣病問題の解決に向けた行動へのご協力をお願いするとともに、全国の公害被害者・弁護団の皆様、及び、国民各位に対しても、ご理解とご支援をお願いするものである。



ピーター・アーリンダー氏の学習会に参加して

東京支部  横 山   雅

 二〇〇九年九月四日及び同五日の二日間にわたって、NLGに所属するピーター・アーリンダー氏を講師に招き、陪審制のもとにおける刑事弁護の学習会が行われました。私は、裁判員裁判が現実に動き出す中で、「陪審制のもとでの刑事弁護」を学べば「裁判員裁判のもとでの刑事弁護」に生かすことができるのではと思い参加しました。

 アーリンダー氏が強調していたことは、陪審制と裁判員裁判の本質的な違いであり、「陪審制のもとでの刑事弁護」で行われている技術や手法は、全て陪審制が前提であり、単純に法曹ではない市民が参加する刑事裁判であるがゆえに行われている技術や手法ではないということでした。

 つまり、陪審制においては、被告人に陪審による裁判を選ぶか否かの選択権があり、裁判官に事実認定権限はなく陪審員のみが事実認定を行うため陪審員が裁判官から独立しており、陪審裁判の結果が非常に予測し難いこと、陪審員による裁判が検察の大きな負担になることなどから、陪審制の存在自体が被告人の防御権を強化する機能を有しているが、他方で、裁判員裁判においては、対象事件は全て裁判員裁判となり、裁判官が裁判員とともに事実認定に関して評議を行うため裁判員が裁判官から独立しておらず、公判前整理手続後の主張制限、証拠制限などにより、裁判員裁判が被告人の防御権を制限する機能を有しているため、「陪審制のもとでの刑事弁護」を単純に市民が参加する刑事裁判であるという共通項だけを強調して「裁判員裁判のもとでの刑事弁護」に生かすことはできないのだということをアーリンダー氏は強調しておられました。

 もっとも、アーリンダー氏の話の中には、今後、裁判員裁判のもとで弁護活動をしていく中で生かすことができるのではないかと思える点もありました。

 例えば、無罪推定の原則を選任手続において陪審員候補に分かりやすく説明した一つのエピソードがありました。

 選任手続の中で、無罪推定の原則を説明した後、ある陪審候補に対して「もし無罪となったら被告人はこの場所から立ち上がって出て行っていいですよね」と質問したところ、「ちゃんと無罪が証明されればね」と陪審候補が答えたため、無罪推定の原則を理解していないとして陪審候補を不選任にしたというエピソードでした。

 無罪推定の原則という刑事裁判の鉄則を市民にわかりやすく伝える方法として非常に参考になるエピソードでした。

 刑事裁判である以上、本質的に守られなければならない原理原則は共通であることから、市民参加型の裁判の歴史が長い国で刑事弁護に取り組んでいる弁護士の話を聞かせていただく機会は非常に有益なものでした。

 私は、今回の学習会に参加し、刑事裁判の本質について考える良い機会となり、「裁判員裁判のもとでの刑事弁護」にいかに取り組むべきかを根本から考え直さなければならないのではないかと感じました。

 現在、裁判員裁判の刑事弁護に関しては、見た目にも華やかなプレゼンテーションの手法ばかりが強調されているため、そこに目がいってしまいがちな若手弁護士も多いことと思いますので、また、このような学習会が行われた際には、多くの若手弁護士に参加していただきたいと思います。



異議あり!2016石原オリンピック連絡会の活動結実!!〜コペンハーゲン活動報告〜

東京支部  高 石 育 子

 支部団員六名を含む七名が、はるばる行ってきましたコペンハーゲン!活動報告をいたします。

一 一日目〜三日目(九・二八〜九・三〇)

 一日目は、現地時間の夜に着いたため、通訳の方と合流して、明日からの行動を確認。

 二日目から行動開始!我々連絡会の意見を通訳の方に理解してもらうための打合せをし、IOC総会の様子が映し出されるビッグビジョンが設置される市内の場所を実際に確認。また、欧州のIOC関係団体にコンタクトをとり、我々の意見書を渡しました。我々の意見に大いに賛同してもらえました。また、南米のある国のIOC関係者(政府関係者)にも面会し、我々の意見書を渡すともに、我々の意見を伝えました。また、アフリカのある国のIOC委員とも電話でコンタクトをとり、意見を伝えることができました。

 その後、IOCの現地本部に面会の要請をするため、IOC総会の会場を下見しました。郊外にある総会会場内に、IOCの現地本部があると予想していましたが、警察官が入り口を取り締まっており、メディア関係者しか立ち入りが許されず、IOCの現地本部は設置されていませんでした。会場の周囲を一周し、総会当日に我々がビラを配る場所、横断幕を出す場所を確認しました。

 三日目は、IOC本部(スイス・ローザンヌ)へ電話にて面会要請をすると、文書で申し入れをして欲しい旨回答があり、文書を送りましたが、すでに我々から複数回にわたって意見書をもらっており、現時点では意見聴取はクローズだとの回答がきました。他方、高級ホテルを一軒一軒まわって、IOC総会関係者が滞在しているホテルには、意見書を渡してきました。

 また、東京から反対派が来ていることをアピールするため、市中心部で横断幕を掲げ、ビラを配りました。人通りも多く、ビラの受け取りは比較的良いものでした。私たちのビラを受け取った地元の青年が、わざわざ自転車を止めて、「なぜ反対なの?」「どうしてTOKYOは賛成が少ないの?」と熱心に質問をしてきたことにびっくりしました。自動車の交通量も多い場所だったので、反対派の存在をアピールできたと思います。

 その後、間寛平のマラソンゴール地点で、メディアにアピールしようと向かう途中、ミシェル・オバマが滞在しているホテルの前に遭遇しました。多数のメディアがミシェルをとらえようと待ち受けていたため、チャンスとばかりに、我々はビラを配りました。ついでに、ミーハーな地元人に混じって、寒空の中、ナマ・ミシェルをウオッチしようと一時間くらい待ちました。ミシェルは、車を降りると真っ先に私たちミーハーな一般人に向かって「ハ〜イ!エブリワン!!」と手を振って応え、皆、ワー!!っ歓声を上げました。さすが、ミシェル・オバマ、人の心を惹き付ける術を心得ている!!

間寛平のマラソンも、我々のメンバーの一人(新スポ連事務局長の井上宣氏)が見に行きましたが、現地の日本人を動員して、必死に盛り上げている感じとのことでした。メディアも半ば冷めている様子だったようです。

 この日はとても寒く、ミシェルを待っている間に、身体が心底冷えてしまいました(ミーハー心で待っていたから、世話ないんだけど)。

二 四日目(一〇・一)

 前日までの情報収集により、IOCの現地本部であり、かつ各国のIOC委員の大半が滞在しているホテルの場所が分かったので、IOC委員にビラを渡して私たちの意見を伝えるため、朝から、当該ホテル前へ行きました。

 ホテル前では、多数の警察官がホテル周辺を取り締まっており、他方、公道からホテルの入り口に至る通路の両側には、多数の報道陣が待機し、ホテルを出入りするIOC関係者を取材しようとしていました。そこで、私たちは、各国からの多数の報道関係者に対し、ビラを配り始めると、一気に多数のカメラとマイクが向けられました。そのため、我々は、各国のメディアに向かって、我々の立場、意見を伝えることができました。そのときの様子は、スペインのマスメディアのネットニュースに掲載されていました(http://es.noticias.yahoo.com/5/20091001/tsp-opositores-a-candidatura-de-tokio-re-4689a74_1.html他)。

 しかし、程なくして、警察官から、「ここは公道で、多数の人が出入りするので、対岸の歩道でやるように」と干渉を受けました。公道だから構わないでしょう、と食い下がりましたが、警察官は認めないし、メディアからのインタビューも受け終わっていたので、その場からは離れました。そして、ホテル正面の対岸の歩道で横断幕を掲げると、入れ替わり立ち替わり、メディアがインタビューを求めてきました。また、二手に分かれて、ホテル正面からは遠ざかったホテル前の歩道でビラを配りました。メディア関係者やIOC関係者と思われる人々にビラを配りました。

 この日は、気温が低い上に、風が非常に強く、とても寒かったため、ホテル前での宣伝が終わった後、私たち(女性陣)は、H&Mで防寒具(ダウンジャケット、マフラー、ニット帽、手袋)を買いました。物価の高いコペンハーゲン(食事などは東京の二倍近い印象でした!)でも、H&Mは安かったです。

 夜は、IOC総会1日目の会場となるオペラハウス前で宣伝行動を予定していましたが、当日はオペラハウス前が完全封鎖されて、立ち入り禁止でした。そのため、ホテルに戻り、明日の投票で開催地が決まった後に出す声明案を起案しました。

三 五日目(一〇・二・IOC総会投票日!!)

 IOC総会当日は、朝七時から、総会会場の前で宣伝活動をしました。会場は、例えれば幕張メッセのような郊外の巨大な会場で、周辺には地下鉄の駅とマンションくらいしかなく、当日は、多数の警察官が取り締まり、厳戒態勢でした。事前の下見の際に、警察官から、会場の敷地内でのビラ配り等は許されない、道路や地下鉄の駅などの公共のスペースで行うように、と言われていたため、当日は、地下鉄の駅から会場へ行く歩道上と、駐車場の入り口の二手に分かれて、宣伝活動をしました。

 駐車場入り口付近に私たちが行った途端、直ぐに警察官が近づいてきて、「ここに何をしに来た?」と質問を受け、緊張しました。ビラを見せ、「ビラを配りに来ただけだ」と言うと、警察官は、「(会場に接する歩道側ではなく)対岸の歩道でやるように。もし、会場に一歩でも立ち入ったら、逮捕されるぞ。」と表情を変えずに私たちに告げ、私たちが了解するのを見届けて、また、入り口側の歩道に戻っていきました。その瞬間はとても緊張しました。

 会場の駐車場入り口は、招致関係者を乗せたバスや、乗用車が多数入っていくので、横断幕を広げ、アピールしました。バスの中の人々の多くは私たちに気付き、指を指していたりしていました。東京は反対派が強い、という印象を与えることができたと確信しています。私たちの横では、オバマ大統領の政策に反対する人が、写真入りの横断幕を掲げていました。また、中国の団体も、横断幕を掲げていました。なお、予想に反しシカゴなどのオリンピックそのものの反対派は、私たち以外にはいませんでした。

 他方、駅から会場にいたる入り口付近では、警察官が話しかけてきたものの、公道でやっている分には問題ないようで、自由にやってよい、という対応でした。メディア関係者等多数の人々に、ビラを配ることが出来ました。おそらく、駐車場からの入り口は、オバマ大統領も含め、各国の要人が入る入り口のため、厳戒態勢だったものと思われます。駅からの入り口付近には、他に地元デンマークの環境団体がアピール活動をしていただけで、オリンピックそのものの反対派はいませんでした。IOC総会が始まる八時半近くまで、宣伝活動を続けました(一〇・二当日は、朝からとても冷え込んでいて、とても寒い日でした)。

 総会が始まった後は、立ち入ることはできないので、市内に戻り、市内のビジョンで、東京のプレゼンテーションの中継を見ました。 東京からの約二五〇人の応援団が、ビジョン前で応援をしていましたが、それ以外は閑散としていました。東京に対する地元の関心は低い、という印象でした。投票結果発表の様子は、市内のビジョンと、中継のテレビ報道で見られましたが、現地の言葉で報道されているのと、(決戦投票に残ると思っていた)シカゴが真っ先に落ちたこともあって、一瞬、よくわかりませんでした。が、次にTOKYOといわれたので、どうやら、シカゴと東京が落ちたらしい、ということが分かりました。ビジョン前の東京の応援団も、ビジョンに東京の落選が映し出されても、分からずに声援を上げ続けており、記者から、東京落選を伝えられて、「え〜!!」という反応に変わっていました。

 決戦投票に移ってから、最終結果発表まで一時間近くあったため、もし、東京が決戦投票に残っていたら気が気じゃない、という状況でしたが、もう東京は落ちているので、安心して待つことができました。最終結果発表は、ご存じのとおり、リオに決まりました。私たちは安心して祝勝会に出かけました。ホテルを出ると、東京の応援団の数人とすれ違いました。残念会に行く方たちと思います。

とりあえず、私たちの闘いの第一ステージは終わりました。

しかし、招致経費一五〇億円の監査や、積み立てた四〇〇〇億円の使い道、メインスタジアム予定地であった都有地の使途、そして、再立候補の可能性など、まだまだ、都政には問題が山積みしていると感じています。

四 カンパの御礼とさらなるご支援のお願い

 コペンハーゲン代表団派遣のためのカンパに多くのみなさまにカンパをいただき、現時点で二〇万円のカンパが集まっており、大変感謝しております。

 一方、通訳費用等の共通経費は、連絡会の全体のカンパで賄う予定ですが、支部団員の現地までの渡航費、宿泊費で、一人二二万円ほどかかっております(六名合計で一三二万円)。そこで、厚かましいお願いとは存じますが、なお一層の暖かいご支援をお願い申し上げます。

【送金先】郵便振替00130―6―87399自由法曹団東京支部



*書評*

大坂じん肺アスベスト弁護団 泉南地域の石綿被害と市民の会

『アスベスト惨禍を国に問う』

東京支部  松 井 繁 明

 本書第一章には被害者原告の手記と短歌などが収められている。

 故岡本郡夫(くにお)さん。父親の経営する石綿工場などで、中学を卒業した一九六七年から八四年まで働き、九七年ごろ発症。二〇〇五年、肺ガンと診断され「余命一年」と宣告される。トイレ、食事、入浴以外は酸素ボンベを外せず、外せば酸欠状態で倒れてしまうこともある。娘が死亡し、それまでタクシーの運転で家計を支えてきた妻もうつ病となる。夫の肺ガン宣告、それでも社長の息子であるからと労災認定が受けられないことを悲観して妻が自殺した。八二歳の母にたすけられている岡本さんは「前向きにならないといけないと思うのですが、できません」、「普通に生きて、普通に死にたかったと思います」と、手記を結んでいる。手記の日付けは二〇〇八年四月二八日、亡くなったのは同年一二月一三日。 享年五七歳であった。

 小学六年のときから約二〇年間石綿工場で働いて発病した藪内昌一さんは、同病で死んだ母や同僚を思い浮かべ「一人でいると気力がなくなりそうになります」と記す。

 幼い娘の陽子さんをつれて石綿工場で働いた岡田春美さんは、自身も陽子さんも発病。

「毎日、深夜目がさめると、陽子の息が止まっていないか、心配になります。夜中に陽子が咳込む声がすると、いてもたってもいられなくなります」という。

 石綿工場で働いたわけではなく、工場の近くで農業をしていたため石綿症で死亡した南寛三さんの娘和子さんは書いています。

 「ある日、介護に疲れ果てた私は『早よ死に!』と罵ってしまいました。父はフーフーと苦しそうに呼吸しながら『もう少しの命や。かんにんしてくれ』と言って涙ぐむのです。このときのことを思い出すと涙が出てきます。」

 故佐藤健一さんの妻美代子さんが一六首の短歌を寄せている。

 その一首。

 「物言えば キツイ 苦しい 言葉だけ 今は亡き夫(ひと) 恋しさつのる」

 歌の巧拙ではなく、真情がつたわる。

 これらの手記や短歌を読みとおすのは、あまりに辛くて容易ではない。しかしそこには、苦痛、うらみ、悔い、絶望、告発などとならんで、さいごまで闘いぬこうとする人間の勇気と高貴さをも、みてとることができる。

 第二章は、「泉南地域の石綿被害と市民の会」事務局長柚岡一禎(ゆおか・かずよし)氏のレポート『隠された被害の現場を歩く』である。泉南地域の歴史や石綿病の実態、そのひろがりなどが詳細に報告されている。

 とりわけ注目すべきなのは、戦前の一九三七(昭和一二)年から四一年(同一六)年にかけて当時の内務省保険院が調査をおこない、石綿被害の実態をほぼ正確に明らかにしていたことである。戦後も、労働省、労基署などによる調書がおこなわれている。

 第三章は、環境問題の専門家宮本憲一教授の『アスベスト災害と国の責任』である。ここでは、アスベスト災害の特徴が、他の公害との比較でわかりやすく解明され、企業と国の責任が鋭く追求されている。一九九三年から九九年にかけてヨーロッパではアスベストが全面禁止されているのに、日本では輸入が続き、二〇〇六年にようやく全面禁止になったのである。

 弁護団長の芝原明夫弁護士が、この訴訟を「知ってた」「できた」でも「やらなかった」国の責任を明らかにする、と位置づけているのも納得できる。

 おそらく紙数の制約があるためだろう、芝原弁護団長もこの訴訟の内容にはまったく触れられていない。弁護士の読者としては物足りない思いだ。しかし本書最後尾の「略年表」をみると「二〇一〇(年) 大坂・泉南アスベスト国家賠償訴訟判決(予定)」とある。とすれば、訴訟はすでに大詰めをむかえているだろう。

 おおくの団員に関心をもってもらいたい。そのために本書は必読文献である。



総会議案書の訂正について


 先日配布した総会議案書に誤りがありましたので、以下のとおり訂正します。

●二五頁右段一三行

 【誤】東南アジアでは、六七年に・・・

 【正】東南アジアでは、七六年に・・・

●九三頁右段下から五行〜六行

 【誤】免田事件、財田川事件、島田事件という四つの死刑確定事件の

 【正】免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件という四つの死刑確定事件の

●一一一頁右段二六〜二七行

 【誤】○公害・環境委員会
      委員長代行 中島嘉尚

 【正】○公害・環境委員会
      委員長 中島嘉尚  事務局長 籠橋隆明
      担当次長 福山和人

●一一三頁右段一三行

 【誤】○裁判員裁判 登録数 二一九

 【正】○裁判員裁判 登録数 一四三