<<目次へ 団通信1327号(11月21日)
新団長 菊 池 紘
私の事務所は池袋西口のビックカメラと丸井の間にある。「ふしぎな、ふしぎな池袋 ♪ 東は西武で、西、東武 ♪ 」の東武デパートのその先である。
衆議院総選挙投票の前日。事務所の六階の窓から見下ろすと、西池袋の交差点で民主党の新人女性候補の選挙カーが、十重二十重に囲まれていた。蝟集する人々はみるみる拡がって、西口では久しく見られない人数となった。
池袋はこの間、激しい選挙戦を続けてきた。四年前の選挙で、郵政民営化に反対した重鎮への刺客として送られ、当選し華やかに構造改革の旗手となった小池百合子。今回これとたたかう民主党の新人女性候補(元東京大学助教授)は選挙カーの上から「介護・教育・雇用」を訴えた。交差点では人々がさきを争って手を伸ばし、「暮らしのための政治を!後期高齢者医療制度の廃止。企業団体献金廃止。」などのマニフェストを求めた。そのパンフはつぎつぎに人々の手に奪われていった。そこに私は、息を吹き返し、いきいきとした民主主義の復権をみた。言論の力の復活をみた。
はたして池袋の東京一〇区も民主党の新人女性候補が勝った。二大政党論とむすびついた「政権交代」の呼びかけがそれなりの力をもったが、選挙の決着をつけたのは、なによりも人々の怒りと民衆の積極的な政治参加だった。
構造改革がもたらした弱肉強食の殺伐とし荒涼とした世の中への、民衆の異議申し立てが国政の転換に結びついた。ほんとうの勝利者は怒れる民衆であった。こうして、これまでのあまりに長い間、なかば永久的に続くとも見えた自民党政権は打ち倒された。
自民党政権を崩壊させたその後のあたらしい段階で、このくにで自由と民主主義を進めひろげる課題は、一層切実なものがある。
ひとりの団員として、力をつくしたい。
新事務局長 杉 本 朗
一〇月の長崎・雲仙総会で、事務局長に選任された杉本です。四五期横浜修習で、そのまま横浜弁護士会に登録しました。事務所は横浜法律事務所です。
事務所に入り、新人のうちは法律家三団体に顔を出すようにと言われ、最初三年くらいは三団体の支部幹事会や支部総会には出るようにしていました。そのうち、なんとなく親疎が出来てきて、青法協神奈川支部でニュース委員会に専ら顔を出すようになりました。その後は、ニュース委員長?支部事務局長?支部副議長?支部議長という、一時期神奈川支部での「出世コース」を歩みました。支部議長になったときに、不幸な巡り合わせから、青法協本部の事務局長になり、三年間(も)、事務局長をやりました。
青法協の事務局長退任後は静かに余生を送ろうと思っていました。しかし、四〇期代の半ばというのはどこも人手不足です。断り切れずに、横浜弁護士会の調査室嘱託を引き受けました。調査室というのは室長入れて四名の弁護士がいて、理事者の下働きとして、会規案の作成や改正案を作ったり、書類の決裁をしたりするところです。ただ、会規の作成というのは、「てにをは」を直したり、「とき」か「時」か、とか、「又は、もしくは、及び、並びに」の使い分けとか、句読点をどう打つか、といった細かい作業が要求されます。分かればどーでもいいじゃん、という性格の私には率直に言って不向きです。それでも現在調査室二期四年目ですが。
調査室へ行った半年後くらいに、団の神奈川支部の人事交代が時期的に話題となりました。岡村共栄支部長、高橋宏幹事長というぶち上げるタイプの人を支えるのも面白いかと思い、だけど一人で支えるのは嫌だなぁということで、渡辺登代美さんを副事務局長に巻き込んで、事務局長をやることになりました。現在三年目です。
私が弁護士になったころは、まだ坂本事件が悲劇的な結末を見ていませんでした。坂本さちよさんが、五月集会と総会には必ずお越しになり、一日目の夜、宴会の後には、さちよさんを囲む集いが開かれていました。私はさちよさんのアテンドみたいな役目もあって、五月集会と総会には大体参加していました。そうやって大体参加していると、習慣みたいなものにもなるし、顔見知りのおじさんおばさんも出来てきたりもするしで、なんとなくその後もずっと五月集会と総会には行くようになりました。
私と団の関わりというのはその程度のものです。何かを読んで感動して団に入ろうと思ったとか、そういう劇的な経験はありません。大学院で牛山積教授の研究室にいたので、いわゆる公害闘争を闘っている団の弁護士の名前は知っていましたし、法律時報の増刊などで団員の手になるものも読みました。その意味で、団に入団するのは自然の成り行きでしたが、何か熱いものをもって団に来たというわけではありません。
今回、何がどうなったのかよく分かりませんが、突然、事務局長を引き受けてくれないか、という要請が前執行部からありました。東京でもなければ次長をやったこともない人間に何を言ってるんだろうと思いましたが、逆にそんな人間に声をかけるということは、それなりに大変なんだろうということも推測できました。私ごときでもとりあえず事務局長を受けることで、いろんなことがうまくいくならそれも運命かな、と思って引き受けることにしました。
ですから、今回、事務局長を引き受けたということそのこと自体で、私の仕事は九九%終了です。あとは、団員のみなさんの出番です。幸い、団長と幹事長のリーダーシップのもと、優秀な事務局次長が揃っています。頑張るみなさんを執行部は応援します。私もそのお手伝いが少しでも出来ればと思っています。よろしくお願いします。
東京支部 三 澤 麻 衣 子
先日の長崎雲仙総会をもって、事務局次長を退任いたしました東京支部の三澤麻衣子です。
二年間の任期中は、一年目は主として教育対策本部、治安警察問題委員会、二年目からは、加えて改憲対策本部も担当させていただきました。
次長をお引き受けする前の私は、団の活動には関わっておらず、たまに出席した常任幹事会でも、皆さんの激しい・・・もとい活発な議論についていけず、その中で発言している若手団員を見て、到底自分がその立場に立つことなどない、このまま幽霊団員の道を歩むのだろうなあ、などと不謹慎にも考えておりました。それが、突然、当時の事務局長だった今村幸次郎先生からお話をいただき、いろいろ考えた末に、これもご縁かと思い、お引き受けすることとしました。最初は、常幹で発言するのもドキドキして順番が回ってくるまで他の人の話が頭に入らなかったり、次長二ヶ月めの時期の京都常幹で、いきなり、京都市長選に立候補されている中村団員の応援演説を街宣車の上からすることとなったり、国会要請では初対面の他団体の人と組んで議員室に押しかけ訴えなければならず、お正月休みに少年法改正反対意見書の担当部分の起案が宿題となるなど、ひとつひとつが初めての経験のオンパレードでした。しかし、三役の皆さんや他の次長仲間、専従事務局、他の団員、関係団体の方々と共同して、フォローしてもらいながらでしたので、そのうち、忙しいといいながらも、その状況を半ば楽しんでいるような感じで過ごすことができました。
次長就任直後、全国いっせい学力調査の結果公表があり、教育担当の私は、その結果公表に関する分析レポートを作成することから、次長としての活動が始まりました。その後、学力調査廃止を訴え、次第に各方面からの批判の声も多くなりましたが学力調査が廃止される気配はありませんでした。しかし、それが、民主党政権にかわった後、早い段階で、学力調査の抽出方式化の方針が打ち出されました。その後、示されている抽出化の具体案には、まだまだ問題は残っていますが、それでも、二年間の次長の任期中に、取り組んだことの結果が良い方向で実現される経験ができたことを幸運に思います。しかし、まだまだ、私のこの二年間の取り組みは、結果の出てないものばかりです。治安警察委員会では、野党であった民主党が提出した取調べの可視化法案の実現をめざして、民主党議員との懇談会、院内集会など積極的に活動しましたが、与党民主党下の今、いよいよ、きっちりと実現されなければならない法案です。また、せっかく団の次長になったのだから、と、二年目からは改憲対策本部の担当を志願しましたが、まだまだ戦力とは到底いえず(他の分野なら戦力なのか?という疑問は置いといて・・・)、私自身の活動自体に歯がゆい思いを残しています。
というわけで、今後も、是非団での活動に取り組んでいきたいと思います。こんなことを書くと、次長終わっても忙しくなるよ、と忠告の声も聞こえそうですが、そこは、まあ、適宜うまくやっていきたいな、と・・・。
とにかく、この二年間、松井団長、田中幹事長、鷲見幹事長、加藤事務局長の下で、(延べ)一〇人の次長仲間と専従事務局の方々に助けられながら、有意義に楽しく過ごさせていただくことができました。
団の皆様、次長に送り出していただいたわが第一法律事務所の皆様に感謝しております。ありがとうございました。
そして、 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
東京支部 宮 里 邦 雄
このたび、古稀団員として表彰を受けました。心のこもった表彰状、それにお祝の品までいただき、お礼申し上げます。頂いた益子焼の急須と茶碗を用いて、おいしい煎茶をいれ、夫婦で一服したいと思います。
一七期の司法修習を了え、弁護士になったのが一九六五年、まだ六〇年安保闘争の余韻が残っていた頃です。裁判官か弁護士か修習中に少し選択に迷ったこともありましたが、労働事件を中心にやる弁護士(当時「労弁」といわれていました)になりたいと思い、黒田法律事務所(現 東京法律事務所)に入所しました。その後一九七二年に黒田事務所の先輩であった角尾隆信先生、山花貞夫先生(没)が創立された東京共同法律事務所に移り、現在に至っています。
黒田法律事務所は、東京都内の中小企業の争議にからむ民事・刑事、労働委員会事件を数多く手がけており、入所後数年間小島成一先生(没)、渡辺正雄先生、上条貞夫先生、坂本修先生など尊敬する先輩から、労働事件に取り組む姿勢や労働者・労働組合との接し方など基本的な労働弁護士の作法を教えていただきました。
黒田法律事務所に入ってすぐ団員となり、弁護士になって数年間は団の総会にも毎年出席していました。
しかし、いつしか活動の中心が総評弁護団(現 日本労働弁護団)に移るようになり(一九八一年幹事長、一九八七年副会長を経て、二〇〇二年から会長を務めています)、すっかり「名ばかり団員」になってしまいました。しかし、送られてくる団の通信や団報にはよく目を通しているつもりですし、団員の多方面での活動から教えられ、刺激を受けることが少なくありません。
今回の表彰は、私の団員としての活動によるものではなく、団員であり続けたことによるものでしょう。
「光陰矢の如し」の心境で、古稀を迎えましたが、人生七十古来稀なりは、昔のこと、今や人生七十近来常なりの時代です。まだ老け込む訳にはいきません。詩人曰く、「青春とは、人生におけるある時期をさすのではなく、心の様相をいう」と(S・ウルマン)。
最近、「ビューティフル・エイジング」という言葉を知りました。いい年の重ね方という意味のようです。
これからも、体力と気力が許す限り、「心に青春」を抱きながら、わが終生のテーマである労働の問題に関心を持つ現役弁護士として、ビューティフル・エイジングを全うしたい、と願っております。
大阪支部 西 晃
一 一一月八日、これ以上米軍基地はつくらせない。沖縄県民の心を一つにした集会(辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会)が、普天間基地に隣接する宜野湾市海浜野外劇場で開かれました。県外からは私と鷲見幹事長、東京の神田高団員が参加しました。
午後二時の開始前から続々と人が集まり、県内外から二万一〇〇〇人の参加者が集まりました。会場となる野外劇場に入りきれず隣接する広場に集まった人も多くいました。
この日の最高気温は二七度、感覚的にはさらに気温は高く、夏を思わせる快晴の中集会が始まりました。開会挨拶ではまず、前々日(六日)の神奈川県松沢知事発言「辺野古でしか解決策はない」に対する厳しい糾弾がなされました。まさに沖縄県民の気持ちを逆なでするこの発言には、本大会の名で抗議決議をあげることが確認されました。また会場には心ある神奈川の市民の方もお見えになり、「知事発言は神奈川県民の総意ではありません」と知事発言への抗議文を配布されていました。
二 その後登壇した主催者共同代表や、各自治体代表、各政党代表は、それぞれの立場から、普天間の県内移設反対、辺野古への移設に対する反対の意思を述べました。革新の立場からは、アメリカの恫喝外交を非難し、それに明確な態度を示せない鳩山内閣の姿勢を批判する発言がありました。一方で、本来は保守の立場ではあるが、政治的立場を超えて、基地の県内移設に反対し、対等な立場で粘り強くアメリカと交渉するよう、鳩山総理を激励する内容の発言もありました。少なくともこれまでの自公政権下での対米従属路線一辺倒ではなく、アメリカにもだめなものはだめとはっきり物を言うことを求めた集会になりました。この集会で出された意見の通り、選挙で示された民意を具体化する方向での施策に対しては、これを積極的に評価しつつ、アメリカの圧力に屈しそうになる姿勢には明確な批判・非難を躊躇しない。今回の県民大会は鳩山新政権に対する私達のあるべき対処方法を示してくれたものでした。
三 さて大会の中でもひときわ大きな拍手を受けていたのが、地元名護市(瀬嵩)から家族五人で集会に参加した渡具知さん一家五人に対してでした。「大浦湾を守れ」の横断幕を広げ、お父さんの挨拶の後、一九九七年生まれの渡具知武龍君(一二歳)は、「僕が生まれた一九九七年に名護では基地はいらない、つくらないと決めたのに何故今もつくることになっているのですか?大人になったら嘘をついても良いのですか?」と問いかけました。
四 大会は、普天間基地の即時閉鎖と県内移設反対、辺野古への基地移設撤回を求める決議と、これに基づく四つのスローガンを採択して午後三時半、参加者全員による団結ガンバローで終了しました。
沖縄県民の意思は明確です。ブレはありません。これを受けて鳩山政権はどうでるか。アメリカのオバマ大統領の訪日(一一月一三日)を前に今まさにその真価が問われています。
最後になりましたが、今回の県民大会参加にあたっては地元の仲山団員、新垣団員をはじめ沖縄支部の皆さんには本当にお世話になりました。大会前の懇親会では仁比聡平団員(参議院議員)にも参加頂き交流することができました。大会終了後には若手の松崎団員・斉藤団員とも意見交換ができ、大変充実した大会参加になりました。この場をお借りして心より御礼申し上げます。今後とも心を一つにして沖縄に取り組んで参ります。
京都支部 諸 富 健
一 はじめに
二〇〇九年一〇月七日、ジヤトコ株式会社の京都工場において偽装請負状態で勤務していた労働者一一名が、労働契約上の地位確認及び賃金支払い等を求めて、京都地方裁判所に提訴しました。弁護団も一一名で構成されており、おそらく京都ではじめての大型労働事件です。
二 事案の概要
被告は、変速機及び自動車部品の開発、製造、販売等を事業内容とする株式会社で、京都工場においてAT(自動変速機)やCVT(無段変速機)の生産を行っています。もともと、この工場は三菱重工や三菱自工が操業主でしたが、企業分割や合併など複雑な経緯を経て、現在被告が操業主として稼働しています。
原告らは、株式会社クリスタルプロトラッドやサーミット工業株式会社等の「請負」会社を通じて、被告京都工場で勤務していました。これら「請負」会社も名称変更や吸収合併など複雑な経緯をたどり、また「請負」から「派遣」へ形式を代えたりしましたが、原告らは一貫して同じ工場で勤務を継続していました。
被告京都工場では正社員と「請負」「派遣」社員が混在して一緒に業務が行われており、原告らも被告従業員の指揮命令の下、業務に携わってきました。さらに、原告らは被告から直接勤務を管理されたり、正社員とともに業務改善を提案したりしており、その勤務実態はまさに「偽装請負」状態そのものでした。
原告らは二〜一〇年もの間、被告工場で勤務していたのですが、二〇〇八年一二月から翌年一月にかけて解雇・雇い止めされました。
そこで、原告らは労働組合に加入し、二〇〇九年二月、京都労働局にジヤトコに対する是正指導を求める申告書を提出しました。すると、同年五月八日、京都労働局は、ジヤトコに対し、原告らの就労は労働者派遣法第四〇条の二第一項の期間制限違反であると断定し、「一一名の雇用の安定を図るように」との指導を行いました。それを受けて、原告ら加入の労働組合は、ジヤトコに対し、直接雇用を求めて団体交渉を申し入れましたが、ジヤトコは労働組合の要求を受け入れず、不誠実な対応に終始しました。
そのため、原告らは一致団結して直接雇用を勝ち取るため、今回の提訴に至ったのです。
三 我々の主張
原告らは、「請負」会社らと形式上請負契約を締結していましたが、現実には被告従業員から直接指揮命令を受けて就業していました。これは、職安法施行規則四条が禁止する偽装請負に該当します。仮に、原告らの就労形態が労働者派遣であったと評価しても、原告らの就労開始時には製造業の労働者派遣は禁止されていましたから、「請負」会社らの行為は職安法四四条が禁止する労働者供給事業に該当し、被告は同条に反して労働者供給を受け入れていたことになります。また、被告が労働者供給の受け入れにより経済的利益を得ていたことも間違いありませんから、被告の行為は中間搾取を禁じた労基法六条に違反します。したがって、原告らと「請負」会社ら及び「請負」会社らと被告との間の各契約は、職安法四四条及び労基法六条に反する強度の違法性を有し、公の秩序に反するものとして民法九〇条により無効というべきです。
原告らの就労関係の実態は、被告による直接の指揮命令を受けながら、被告の事業上で働いてきたという点にあります。したがって、原告らと被告との間には、直接の労働契約が成立していたというべきです。すなわち、原告らは、当初より被告の事業上で被告の指揮命令を受けながら労務に従事し、その対価としての賃金が被告から「請負」会社らを通じて原告らに支払われていたのですから、原告らと被告との間に客観的に推認される労働契約の意思の合致があるといえるのです(大阪高判平成二〇年四月二五日松下プラズマディスプレイ事件、大阪高判平成一〇年二月一八日・最判平成一〇年九月八日安田病院事件)。
四 本件の特徴
前述の通り、操業主や「請負」会社はころころ変わる一方、原告らは同じ場所で同じ業務に従事していました。ここに、原告らと被告との間の労働契約を裏付ける実態があると考えます。
また、本件では、正規労働者の組合である全日本造船機械労働組合三菱重工支部工作機械栗東支部の幹部達が、全面的に原告らの闘いを支援しています。今後の労働運動のあり方に関しても参考になる事案になるものと思われます。
さらに、ジヤトコは、「雇用創出」を名目に京都府から約三億六千万円もの補助金を受け取っておきながら、原告らを解雇・雇い止めしました。このような矛盾する態度が許されるはずがありません。大企業の社会的責任をしっかりと果たしていくことが求められます。
五 さいごに
労働者派遣法の改正が焦眉の課題とされる一方、松下PDP事件で最高裁が弁論再開を決定するなど、非正規雇用をめぐる問題が風雲急を告げる様相を呈しています。労働者をモノのように扱う実態を許していいのかを問うものとして、今回の提訴は非常に大きな意義を有すると考えます。
全国の団員におかれましても、この裁判にご注目いただきますようよろしくお願いいたします。
京都支部 大 河 原 壽 貴
一〇月一日、大阪高等裁判所第一二民事部(安原清蔵裁判長)は、原告ら九名のうち一名のみについて、安全配慮義務違反を認め損害賠償を命じた一審判決を変更し、新たに二名の原告について安全配慮義務違反を認めて損害賠償を命じました。本判決により、原告ら九名のうち三名について、その無定量な時間外勤務が安全配慮義務違反にあたると判断されました。
事案の概要
本件は、京都市内の市立小学校教諭四名、市立中学校教諭五名の合計九名が、二〇〇三年六月及び同年一一〜一二月に各二週間ずつ行った勤務時間調査に基づいて、二〇〇三年度(二〇〇三年四月から一二月まで、ただし八月を除く八か月分)の時間外勤務時間を推計し、違法な時間外勤務を余儀なくされたこと、及び、安全配慮義務違反があったことについて、京都市に対して損害賠償を求めた事案です。また、予備的にではありますが、時間外勤務手当の請求も行っています。
給特法と無定量の時間外勤務
公立学校教員(以下、単に「教員」といいます)の時間外勤務については、「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」、いわゆる「給特法」という法律によって規定されています。給特法とそれを受けた通達により、教員の時間外勤務については、(1)勤務時間の割り振りを適正に行い、原則として時間外勤務をさせない、(2)時間外勤務をさせる場合は「限定四項目」(校外実習等、修学旅行等の学校行事、職員会議、非常災害・緊急の措置を必要とする場合等)に限り、かつ、臨時又は緊急にやむを得ない必要があるときに限るとされています。
しかしながら、教員の勤務実態は全く異なります。組合の調査でも、また、文科省自体の調査でも、多くの教員が過労死ラインを超える時間外勤務を行っている実態が明らかになっています。その結果、現実に過労死に至る事案や、心身の不調から長期間の休職や早期の退職を余儀なくされる事案も少なくありません。そして、現場の教員らは、子どもや父母と向き合う時間を奪われ、十分な教育実践を行うことができない状況に置かれています。
本訴訟は、教員の置かれているそのような現状を是正し、子どもたちに十分な教育環境を取り戻すために、九名の教員が立ち上がったものです。ちなみに、この九名の教員は、他の教員と比べて、取り立てて時間外勤務が多いというわけではありません。それでも、少ない原告でも月六六時間、多い原告になると月一〇八時間もの時間外勤務を行っていたのです。そして、本当に長時間・無定量な時間外勤務に追われている教員は、勤務実態調査や訴訟準備のための打合せすらできない状況にまで追い込まれていて、原告になれなかったというのが実際です。
無定量な時間外勤務に対する安全配慮義務違反を認めた高裁判決
一審の京都地裁判決では、「教育職員についても生命及び健康の保持や確保(業務遂行に伴う疲労や心理的負荷が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことのないように配慮すること)の観点から勤務時間管理をすべきことが求められている」、「勤務内容、態様が生命や健康を害するような状態であることを認識、予見した場合、またはそれを認識、予見でき得たような場合にはその事務の分配等を適正にする等して当該教育職員の勤務により健康を害しないように配慮(管理)すべき義務(勤務管理義務)を負っている」、「教育職員が従事した職務の内容、勤務の実情等に照らして、週休日の振替等の配慮がなされず、時間外勤務が常態化していたとみられる場合は、本件勤務管理義務を尽くしていないものとして、国家賠償法上の責任が生じる余地がある」と判示されました。
本判決では、さらに「使用者に代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う権限を有する者は、使用者の上記注意義務(業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことがないよう注意する義務)の内容に従って、その権限を行使すべきである」と判示し、現場の管理職である校長の責任も明確にしました。
また、一審判決で「教育職員について時間外・休日・深夜労働の割増賃金を支払うという点から正確な時間管理が求められているとまで解することはできない」と判示された部分は、本判決では「少なくとも平成一五年の時点において」との制限が加えられており、教員にも勤務時間管理が必要だとする一連の流れにそった判決だと言うことができます。
本判決が、一審判決をさらに拡大して、三名の原告について、無定量の時間外勤務それ自体について安全配慮義務違反を認めたこと、特に、現実の健康被害がまだ発生していない段階で安全配慮義務違反を認めたことは画期的な判決と言うことができます。
他方で、残りの原告六名も同じように、京都市教委や校長の管理の下で無定量な時間外勤務を行っており、「時間外勤務が極めて長時間に及んでいたことを認識、予見できたことが窺われるが、それに対して、改善等の措置を特に講じていない」という点は全く変わらないにもかかわらず、安全配慮義務違反が認められなかったことは問題です。また、教員の時間外勤務について、教員の「自由意思を強く拘束するような状況下でなされ」た場合以外には、「自主的、自発的、創造的な職務遂行として違法になることはない」と、従前の判例から踏み出すことなく違法な時間外勤務を認めなかった点については、不当な判断であると言わざるを得ません。
本判決に対しては、原告ら教員、及び、被告京都市の双方が上告(被告からは上告受理申立のみ)したことから、最高裁へと闘いが移ります。給特法下での教員の無定量な時間外勤務の違法性を認めさせ、一人一人の教員が十分な教育実践を行うことができるような教育環境、労働環境を確立するために、弁護団も尽力していきますので、ご支援をお願いします。
当事件は、村山晃、村井豊明、杉山潔志、福山和人、糸瀬美保、秋山健司の各団員が弁護団として取り組んでいます。
大阪支部 井 上 耕 史
一 利息制限法一条潜脱の手法
利息制限法一条は、年一五〜二〇%を超える利息を無効としている。しかし、貸金業者は二つの方法によりこの規制の潜脱を図ってきた。
一つは、貸金業法四三条により超過利息支払を有効なものとみなすもの(みなし弁済)。もう一つは、利息制限法四条が遅延損害金は利息の二倍まで有効とする規定を悪用し、「支払が遅れたら残元金を一括して支払う」旨の特約(期限の利益喪失特約)を契約書に入れておき、支払期日に一日でも遅れたら残元金の一括払義務があると称して遅延損害金名目で年三〇〜四〇%前後の金利を取り続けるものである。
貸金業者の期限の利益喪失の主張に対し、期限の利益喪失の宥恕等の法理によりこれを否定する裁判例が積み重ねられてきたが、「損害金」と記載した領収書を送付しながら分割払を続けさせる事例については、特段の事情がない限り宥恕は認められないとする判例(最三小判平成二一年四月一四日・判例タイムズ一三〇〇号九九頁)もあり、現場では混乱が続いていた。
二 本件の概要
自営業者N氏は商工ローン「シティズ」から金利年二九・八%で四〇〇万円を借り、元利金を毎月分割払した。N氏は五回目の返済期日に一日遅れ、その後も期日に遅れて支払うことがあったが、シティズはN氏に一括返済を求めることなく、遅れた日数分の金利だけ付加して分割払を求めるなどしていた。N氏は六年以上にわたり分割払を続け、支払総額は七六九万円余りに達した。
N氏が過払金返還を求めたところ、シティズは、五回目の支払遅れで期限の利益を喪失し、その後六年間の支払は遅延損害金であり年二九・八%は有効だと言い出した。N氏は落とし穴にはめられたのである。
私と辰巳裕規団員(兵庫県支部)が受任し、一審は不当判決となったが、控訴審で逆転全面勝訴(大阪高判平成二〇年一〇月三〇日兵弁HP)。本判決はその上告審である。
三 口頭弁論を経て上告棄却判決
最高裁第二小法廷は、本年六月二六日に口頭弁論を開いた上で、九月一一日、シティズの期限の利益喪失の主張を信義則違反とした原審の判断を是認し、シティズの上告を棄却した。
小法廷において敢えて口頭弁論を開いて上告棄却した例は近年珍しい。これには理由がある。本件より前、期限の利益喪失の主張を信義則違反とした判決(大阪高判平成二〇年一月二九日金融・商事判例一二八五号二二頁、辰巳団員担当)に対し、シティズが上告受理申立てをしていたが、第一小法廷はシティズの上告を受理した上で口頭弁論を開かずに判決期日を本年二月一九日に指定した。信義則違反との最高裁判断が出されることは確実となった。ところが、シティズは敗訴判決回避のために、判決期日前日に上告を取り下げた。そこで今回、最高裁は、シティズの取下げを封じるため敢えて口頭弁論を開いて「ぬか喜び」させた上で、上告棄却判決を下した、と推測される。
四 本判決の意義
本判決は、最高裁として期限の利益喪失主張が信義則違反となることを正面から認めた初判断である。
「(債務者の)誤信を招くような(貸金業者)の対応のために、期限の利益を喪失していないものと信じて支払を継続してきた」といえる事実関係があれば、遅延損害金主張は許されないことになる。「(貸金業者)の対応」という判決文の表現は、担当者の言動に限らず、書面の記載内容や貸金業者の不作為等も含まれる趣旨と解される。例えば、貸金業者のATMで交付される領収書に次回支払期日や次回支払金額等の記載があれば、誤信を招く対応と言えるだろう。
なお、同日、同小法廷は、同一業者の同一争点について、原審(高松高判平成一九年三月二三日兵弁HP)の掲げる事情のみでは信義則違反とはいえないとして、破棄差戻ししたが、差戻審で本判決と同様の事実関係が明らかになるものと思われる。貸金業者は一般的に多少の遅れは通常の取引の範囲内として分割払を続けさせるのであり、本判決の債務者だけに特別なものではないからである。
本件の立証では、償還表、領収書の記載内容からシティズの言動を推測し、さらに文書提出命令で交渉経過記録(貸金業法施行規則一六条一項七号)をシティズに提出させ、その上で、詳細な本人陳述書を作成した。その結果、陳述書に沿った事実認定がされた。事実関係の分析と立証をきちんと行えば、多くの事件が救済対象になる。
本判決は、最二小判平成一八年一月一三日が貸金業法四三条の主張を封じたのに続いて、遅延損害金による主張も封じて利息制限法一条による救済を進めた点に重要な意義がある。同時に、期限の利益喪失後の対応・誤信に関する判断に限定されており、期限の利益喪失前の事情をどう評価するかという問題は残されている。すなわち、特約の文言、誤信による高利支払の継続等、銀行取引と異なる状況があり、そもそも期限の利益を喪失していないと解すべきではないか、と私は考えている。今後、更に救済法理を発展させることが求められる。
大阪支部 石 川 元 也
松川事件発生六〇周年記念全国集会が、本年一〇月一七・一八日、福島大学などを会場に開催された。全国から、実に一四〇〇人の人々が集まったという。
私も、参加申し込みをしていたが、急な用件で参加できず、残念だった。
この全国集会のメインの報告者である松川事件主任弁護人であった大塚一男団員が「回想の松川弁護」(日本評論社)、福島大学名誉教授の伊部正之さんが「松川裁判から、いま何を学ぶか」(岩波書店)を、それぞれ刊行された。伊部さんの本については、石田亨さんがすでに団通信一一月一日号に紹介されているので、ここでは大塚さんの本の紹介とともに、私なりの感慨を報告したい。
大塚さんの「回想の松川弁護」は、私の知るところでは、大塚さんの九冊目の著書となる。その初出一覧によれば、裁判闘争中の論攷から最近までの松川裁判をめぐる回顧と課題、そして松川裁判で大きな役割を果たされた廣津和郎さんに関する論攷などに、これらの解題ともいうべきものを書き下ろして追加されて、つぎのようにまとめられている。
第一章 松対協会長廣津和郎
第二章 松川事件の人と歴史
第三章 闘いの松川事件
私がもっとも感銘をうけたのは、第一章の廣津さんについての文章である。
大塚さんが、わざわざ「松対協会長」と冠をつけられたのは、廣津さんの業績は「松川裁判批判」などの著作活動だけではないんだ、松対協会長として全国津々浦々を巡って講演活動や裁判支援の訴えを続けられた奮闘ぶりに光を当てたいという思いがあったであろうと推察する。
にもかかわらず、廣津さんは、やはり、作家としての鋭い分析で大きな貢献をされたのだと思う。その作家としての廣津さんの「散文精神」ということは、私も聞いていたが、その中身をはじめて、この本で知ることができたのである。ずっと、廣津さんと接していた大塚さんにしても、廣津さんが他界されてから読んだというのであるから、私が知らなかったのも当然ではあるが。
戦時下の廣津和郎 という中で、昭和一一年一〇月一八日の「散文精神について」という講演の一部が紹介されている(もっと長く引用したいのだが、さわりだけ)。林房雄が日本軍国主義のお先棒をかつぐように、「ロマンティシズムの台頭」を主張したのに対し「人民文庫」の人達が「散文精神」を主張した。
「私流にこの言葉がこの時代にどういう意味を持つものであるかという事を述べて見たいと思います。
それはどんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神――それが散文精神だと思います。……じっと我慢して冷静に、見なければならないものは決して見のがさずに、そして見なければならないものに慴えたり、戦慄したり、眼を蔽うたりしないで、何処までもそれを見つめながら、堪え堪えて生きて行く精神であります。」
さらに、昭和二三年一〇月の廣津「再び散文精神について」も紹介されている。
「このフアッショの攻勢と如何にして散文作家は対決しなければならないかという事を自分流に考えて見ようと思って…、述べたのである」と。
おそらく、大塚さんは、廣津さんの精神の拠り所を再発見したのであろうし、また、松川裁判のもっとも困難な時期を乗り越えてきた精神とまったく共通することを感じ取られたのであろう。
私も、改めてこの言葉のもつ重大な意味をかみしめている。私たちの裁判闘争にも、また多くの闘いの場においても、この精神が貫かれなければならないと思う。この廣津さんをめぐる第一章だけでも購読の値打ちがあろう、とも思う。
大塚さんは、さらに、廣津さんの二審判決批判「松川裁判」(中央公論連載)は、弁護団の批判・上告趣意書の水準を超えるものであったことを率直に認めておられる。また、松川の無罪が確定したあとの廣津さん役割などについてもふれている。これらには、岡林辰雄さんの評価が違っていたことへの批判も含まれている。
大塚さんは、一九四九年六月、司法修習一期出身の弁護士としてスタートした。二四歳だった(私とは年齢で六年、弁護士として八年の先輩に当たる)。
その二ヶ月後に、松川事件が起こされた。以来、無罪確定まで一四年間(二四歳から三八歳まで)、二〇歳ほど年長の岡林辰雄さんとともに、弁護団の中心となって奮闘された。
大塚さんの「私記松川事件弁護団史」(日本評論社、一九八九年刊)には、弁護の在り方をめぐるいくつかの葛藤も克明に記されている。そこでも、岡林さんへの批判が見られた。私は、大塚さんの指摘に頷きながらも、もっと早く、岡林さんのお元気なうちに出されたらと思った。わたし自身は、差戻審の全公判と弁護団会議に皆出席したが、これに書かれているようなことがあろうとは思いもよらなかった。岡林さんは、法廷内外で卓越した主導力を発揮されていたし、大塚さんは弁護団の要としての大きな役割を果たされた。弁護団の団結と統一は堅持されていた。当時は外に出されなかった弁護活動をめぐる問題点なども、無罪判決確定後の早い時期に岡林さん自身の意見・反論を含め弁護団の中で論議されたらよかったであろうし、自由法曹団の大衆的裁判闘争の在り方などなどとしても論議されたらよかったと思う。しかし、せっかくのこの「私記」が出版され、当時、かなり多くの団員に読まれながら、論議が深められなかったのが残念だった。今回の「回想」を読みながら、私なりに、もう一度、冷静な論議ができないものかと思う次第である。
事務局長 杉 本 朗
団通信一三二一号(九月二一日号)において石川元也団員が、同じく一三二三号(一〇月一一日号)において庄司捷彦団員が、それぞれ紹介されているとおり、映画『弁護士布施辰治』の製作が、鋭意進んでいます。
九月の常幹には、監督の池田博穂さんもお見えになり、映画の紹介と製作への協力要請をされていかれました。
私たちの先達である布施辰治の姿が映画化され、より多くの人たちが布施辰治の生涯に触れることは、とても意義のあることだと思います。
製作委員会から、映画の企画書と製作支援出資金・協賛金のお願いが寄せられましたので、団通信の今号と一緒に、団員のみなさまにお届けさせていただきます。郵便振替用紙も入っておりますので、ぜひみなさんのご協力をお願い致します。出資金一口五万円、協賛金一口一万円です。
なお、庄司団員が紹介された宮城を中心に結成された「映画布施辰治応援団」でも引き続きカンパを金額自由で集めておりますので、こちらもよろしくお願い致します。
どちらへの送金も、映画製作資金として活用されます。