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工藤 勇治

―沖縄常幹特集―
全国拡大幹事会に参加して

中村 照美

自由法曹団の真髄

石井 英智

沖縄てーげー(適当)日記

山元 久恵

沖縄米軍普天間基地・辺野古調査に参加して

津島 理恵

沖縄を訪れて

西   晃

名護市長選勝利と今後の課題(日米安保再考へ)

小林 善亮

「国会法」改悪阻止学習決起集会報告。各地で学習会を!

黒澤 いつき

女性部新人学習会&懇親会のご報告

中野 直樹

将来問題アンケートのご協力のお願い



―沖縄常幹特集―

全国拡大幹事会に参加して

東京支部  工 藤 勇 治

 沖縄の人たちの生活を支え、命を育んで来た辺野古の海は、その日も静かで、きらきら輝いていた。

 しかし、海辺の砂浜は、鉄条網で仕切られ、その先には行けない。米軍は、監視カメラで行動を撮影している。地元の人から、ヘリ基地反対の闘いについて説明を受け、あま藻が育ち、ジュゴンや青サンゴの棲息する自然を破壊させてなるものかの思いを強くする。そして設置してから一〇年余を越える、普天間の代替ヘリ基地反対協議会のテントを訪れた。

 記憶はさかのぼる。今からちょうと四三年前の一九六七年二月一七日の夜。私は、那覇市から程遠くない具志川村昆布地区の、米軍による土地取り上げに反対する団結小屋に一晩泊めてもらって、地元の人たちから、泡盛と食事をご馳走になって闘いの歴史を語ってもらったことは忘れられない。

 一九六六年七月、日弁連では沖縄問題に強力に取り組むことになり、先ず大規模な調査団を派遣することになった。その調査団に東京の団員としては、煖エ融(一三期)、斉藤義雄(一六期)、私(一三期)の三名が入ることになったのである。

 その頃の日弁連の委員会は、単位会の長老クラスで構成されていたもので、その中に登録三〜五年の若造が投げ込まれたわけである。聞くところによると、委員会の中心的存在だった二弁の寺嶋芳一郎弁護士の提案で、若手の実動部隊が必要だということになったらしい。

 調査団は元日弁連会長奥山八郎を団長とする総勢一三名、現地では特に芳澤弘明弁護士の大きな支えがあった。

 戦後二〇年余り経ってもまだ占領状態にある沖縄、私たちはパスポートを取って出発した。山本忠義弁護士は、奄美復帰運動を闘ったという理由で旅券の発行が危ぶまれた。

 折柄、沖縄では「キャラウェー(高等弁務官)旋風」が吹き荒れ、大きな三つの問題が噴出していた。

 「友利事件」「サンマ事件」と呼ばれた、民事裁判を米民政府 裁判所に移送させ、軍政の下に裁判をしようという問題、

 米軍人軍属による殺人をはじめとする犯罪の多発、

 新たな土地取上げ、

である。

 米軍は敗戦が決まった段階で、あらかた今見られるような規模で、県民から土地を取り上げてしまった。

 沖縄県は、講和条約後も米軍の戦略下におかれる。朝鮮戦争が始まると、米軍は基地拡充強化のために、各地でブルドーザーと銃剣をもって強制接収に出た。これに対して県民は島ぐるみの闘いを敢行した。

 四三年前に私たちが訪れた時も、同じように土地取上げと犯罪の多発があった。米国は一九六五年ヴェトナムへの北爆を開始し、本格的軍事介入をはじめた。B52爆撃機は、給油のためにB52と間違えるようなKC135(空中給油機)を伴って嘉手納を飛び立ち、また戻って来る。海兵隊は、ヴェトナムへ送られるという不安と、生き返れた安心感で、婦女暴行など犯罪に走る。爆音が充満し、路上では米軍車輌が、我が物顔で動きまわる。

(この調査は、沖縄報告書として一九六八年三月法律時報の別冊で刊行された。)

 三〇〇〇日を越える闘争を続ける辺野古の団結小屋を訪ねたその前日、問題の普天間欠陥飛行場を見たあと、ヘリ墜落地を経て宜野湾市役所を訪れた。伊波市長が、グアム移転を実現しようと熱く訴えるのを聞き、いろいろなやり方でこれを広め、その確信を強める必要を感じた。

 数回に及ぶ沖縄訪問でいつも思うのであるが、沖縄県民の闘いに比較する本土の闘いの弱さである。決して沖縄の人たちは言っているわけではないが、私は「沖縄は一生懸命やっている、本土の人たちよ、もっと闘ってくれ」という叫びを感じるのである。

 全国の米軍基地のうち、その七割以上を占め、しかもその主力が、ベトナム、湾岸、アフガン、イラクなど、米軍の侵略戦争の尖兵となっている沖縄基地の「役割」は米国からみれば失われていない。残念ながら沖縄は、基本的には、戦後一貫して変わっていないという思いを深くする。

 名護市長選は勝った。拡大常任幹事会として稲嶺新市長を激励する機会に参加でき、私は限りなく嬉しい。

 沖縄問題の根源にある日米安保条約が改定された年から今年で五〇年。五〇年前から私たちは、廃棄もまた可能であることを知っている。これに向けて、それぞれに力を尽くしたいものである。

 最後に、沖縄にいる多くの友人のなかで、親しかった団員の深沢栄一郎、本永寛昭両氏はすでに亡くなっている。彼の地でいろいろ想い出す機会を与えてくれた拡大常任幹事会に心から感謝する。



自由法曹団の真髄

沖縄支部  中 村 照 美

 一月一五〜一六日、沖縄基地調査と常幹が開催された。

 常幹に参加して、まっ先に想い出したのは二〇年前の出来事だった。

 本島長崎市長は、市議会で「天皇の戦争責任はあると私は思います」と発言し右翼から銃撃され重傷を負わされた。

 本島市長が職務に復帰した時、団はいちはやく常任幹事会を長崎で開くことを決め、本島市長に会い激励した。市長は「全国から弁護士さんが励ましに来てくれた」と、まるで百万の味方を得たかのように、うれしそうに話していた。

 問題を抱える人々が生活する現地に駆けつける、これこそ、自由法曹団の真髄である。

 沖縄基地調査は、辺野古の海を守る人々、市長選挙を闘う人々、そして、爆音訴訟の原告等をはげましたのである。

 名護市長選挙で稲嶺進氏が当選した。沖縄支部の団員一同祝杯をあげた。常幹に参加された皆さんもさぞかしうれしいだろうと思った。

 私は、九年前に長崎から沖縄に移り住んだが、沖縄の基地の現状を知るにつけ、沖縄は「構造的差別」を受けていると実感している。

 一九五二年から六〇年ころまでに日本本土の米軍基地は四分の一に減少した。一方当時は日本ではなかった沖縄の基地は約二倍に増えたのである。その後、本土の基地はさらに減少したが、沖縄の基地はわずかしか減少せず、日本の米軍基地の約七五%が集中したのである。

 普天間基地に隣接する小学校の生徒は、六年間の間に、一年間の授業時間を超える時間騒音に晒されている。慢性的な騒音によるストレスは脳にダメージを与え記憶力の低下をもたらすとされている。

 このような深刻な被害をさらに拡大してはならない。辺野古に新たな基地をつくること、高江にヘリパッドを建設することは子どもたちを騒音地獄に追い込むことになるのである。

 辺野古基地建設に対する政府の態度は予断を許さない状況である。高江ヘリパッドに抗議する住民二人に対して防衛省は通行妨害禁止の本訴を提訴した。

 「構造的差別」を受ける沖縄の基地問題を今後とも団の重要な課題として取組んでほしいと願っている。



沖縄てーげー(適当)日記

群馬支部  石 井 英 智

 「飛行機のタラップを降りると、そこは南国だった」…はずが、けっこう肌寒い。そりゃそうですよ。沖縄といえども、一月中旬の真冬ですから。でも、バスは冷房が効いている(泣)。

 沖縄拡大常任幹事会ツアーへの参加である。

 一日目。団員を乗せたバス(弱冷房車)は、まず普天間飛行場へと向かう。沖縄国際大学のヘリ墜落事故の現場には、燃え落ちた木とブレードの傷跡の残る校舎の壁のモニュメントがあり、この飛行場の重大な危険性を物語る。宜野湾市長からは、米軍のグアム統合計画という大変に興味深い話を聞く。

 その後、名護市に向かい、夕食交流会で気勢を上げると、大挙して街へ繰り出し、沖縄民謡スナックを占拠して、飲めや歌えや踊れやと、大いに盛り上がった。

 二日目。辺野古湾を視察し、辺野古の現状について説明を受ける。シュノーケルすればジュゴンに会えるかな?スーツの下に海水パンツを穿いときゃよかった。砂浜に照りつける日差しが暑い。日焼けしそうだ。手のひらをかざして顔に日陰を作る。最初に肌寒いとか言ってすいませんでした。

 その後、那覇市内に戻って、常任幹事会。活発な報告がなされた。大西照雄さんの「平和、環境、生物の時代」に深く頷き、美しい写真スライドの数々に見惚れる。

 さて、常任幹事会も無事終了し、自由時間となった。観光するには半端な時間であるし、飲みに行く知り合いもいない。そこで、下っ端の特権を活用すべく、ホテルのロビーをウロウロして、出かけようとしている先生方にすり寄る。物欲しそうな顔で「先生方はこれから何処か行かれるのですか?」などと聞いてみると、先生方は、私の考えを見透かしながらも、心優しく、「一緒に来るかい。」などと言ってくださる。私は、「えっ、いいんですか。じゃあ是非。」などとわざとらしくも述べて、岡村共栄団員、長澤彰団員、神田高団員の後にコバンザメのようについていく。我ながら如才がない。

 国際通りから商店街を抜け、牧志公設市場へ。新鮮なエビや貝をその場で調理してもらい、海ぶどう、ゴーヤ、ミミガーなどの沖縄料理にも舌鼓を打ちつつ、オリオンビールを五臓六腑に流し込む。河岸を変えて、泡盛七種類を飲み比べると、絶好調の神田団員から、「断る理由はありません。」という名言が披露され、夫婦の愛の素晴らしさをコッテリと聞かされる。さらに、沖縄民謡ライブ、シャンソンの店とハシゴして、ホテルに帰り着いたのは午前一時ころ。

しかし、沖縄の夜はまだ終わらない。私は、一人再び夜の街へと繰り出す。アントニオ猪木酒場で飲もうとしたが、残念、別の店になっていた。街を徘徊し、小腹のすいたところで、沖縄そばを食べる。さらに、ああ、そういえばサルサ(ラテンダンス)のクラブがあったなぁ、などと思いつき、無謀にも米兵率九八パーセントの店に踊りに行く。夜中の三時にもかかわらず、店は米兵でごった返していた。米兵女性をダンスに誘うが、指先でバッテンされ、泣きながら店を出て、忍び足で部屋に戻ったのは午前四時半ころであった。

 三日目。沖縄唯一の鉄道「ゆいレール」にて、首里城見学。天気も良く、初夏の陽気であり、一月の真冬ということを忘れてしまう。おやつにサーターアンダギーを食べつつ、那覇空港に向かい、お土産のちんすこうを大量購入すれば、旅は終わりに近づく。家に帰るまでが遠足です。

 今回、私自身、団の大規模集会への初参加でしたが、団員の皆さん、事務局の皆さん、関係者の方々は、見知らぬ新入り団員の私にも暖かく接してくださり、たいへん楽しく有意義な三日間となりました。この場を借りて心から御礼申し上げます。



沖縄米軍普天間基地・辺野古調査に参加して

小林和恵法律事務所  山 元 久 恵

 団の普天間基地・辺野古の調査ツアーがあることを知って、どうしても行きたいと思い三多摩法律事務所の小林善亮弁護士にこっそり「事務局も参加していいんでしょうかねえ」と聞いたら「いいと思いますよ」の返事(後で団通信をよく読んだら事務局にも参加を呼び掛けていました)。そこで思い切って参加させていただきました。

 一九九六年四月一日、沖縄米軍楚辺通信所(象のオリ)の反戦地主知花昇一さんは賃貸借契約が終了しているにもかかわらず土地を返還しない国を相手に福岡地裁那覇支部に仮処分申請をしました。事務所長であった今は亡き小林和恵弁護士はじっとしてはいてはいられないと急遽沖縄に飛んだのです。なんとしても日米安保に風穴を開けたいと元気に精力的に行動していた和恵先生でした。しかし、和恵先生は病に倒れその年の七月に急逝してしまいました。

 一九九五年に三人の米海兵隊員による少女暴行事件が起きて沖縄の怒りは頂点に達し、政府は九六年に普天間基地を移設条件付きで返還させる約束をとりつけました。その移設先としたのが名護市辺野古沖です。

 和恵先生が亡くなって一四年。残念ながら沖縄は米軍事戦略に組み込まれたままです。安保条約五〇年の今年、基地移設を争点とした名護市長選を目前とした日程でもあったので私もじっとしていられない思いでの沖縄行きでした。小林善亮弁護士は和恵先生の息子さんです。事務局次長で活躍されていることを天国の和恵先生が知ったらどんなに喜ぶことか。

 嘉数高台から普天間基地を望みました。市のどまんなかに基地があり人家がぎりぎりまで迫っており飛行場としての安全基準をクリアしていない「世界一危険な基地」。フェンスのすぐ隣には米軍機が墜落した沖縄国際大学があります。滑走路もよく見ると起伏があり、ようするにポンコツです。使い古したポンコツを手放す代わりに法外な代替を要求するアメリカは、私にはチンピラ暴力団に見えます。

 普天間基地を擁する宜野湾市の伊波市長が、市議会の直後というお忙しい時間でしたが基地の現状とグアム移転の可能性について市長自らパワーポイントを使って一時間も熱のこもった説明をしてくださいました。「普天間基地の返還は決まったものの、移転先が決まらないため一四年も待たされ市民は危険と隣り合わせのままだ。だけど基地を辺野古に持っていってほしいと思う市民はいない。基地が来たら大変なことになると知っているから」と語った市長。行政の長がどちらを向いて市政を進めるか。あらためて私たちの代表を決める選挙の大切さを感じました。

 二日目、名護市辺野古は白い砂浜と美しい海が広がっていました。しかし、砂浜には有刺鉄線が張られ監視カメラが。陸上一帯はすでに広大な米軍キャンプシュワブと辺野古弾薬庫となっています。この上、ジュゴンが棲むサンゴ礁を壊してこの美しい海に新たな滑走路を作るとは。沖縄北部の「やんばる」は農業も漁業もままならない経済的にも厳しい土地で、政府は大量の札束で市民を二分させながら基地移転を進めようとしました。戦争がどんなものであるか一番わかっているはずの沖縄県民が基地を容認してきたのは、まさに苦渋の選択に違いありません。その名護市長選は基地移設反対の稲嶺進氏が当選しました。私たちは基地賛成と反対のそれぞれの一票の重さを受け止めるべきだと思います。

 沖縄の仲山弁護士、新垣弁護士にご案内いただきながら、運動当事者の方や宜野湾市長との対談など団ならではの充実した内容でした。

 鳩山政権は沖縄をどうするのか。これは私たちに問われている問題であると思います。

二〇一〇・〇二・〇四



沖縄を訪れて

京都支部  津 島 理 恵

 昨年一二月に弁護士登録を行い、自由法曹団に入団させていただきました。

 新人弁護士であるにもかかわらず、沖縄拡大常任幹事会に参加させていただきましたので、そのご報告をさせていただきます。

宜野湾市にて

 二〇一〇年一月一五日のお昼過ぎに那覇空港に集合し、バスで宜野湾市内にある嘉数高台(カカズタカダイ)展望台に向かいました。展望台に登って辺りを見渡すと市街地と海が広がっていました。ふと方向を変えて眺めると、長大な滑走路をもつ普天間基地がありました。普天間基地は危険な基地だと聞いていましたが、まさに市街地に隣接して基地が置かれているという異様な光景を目にして、何ということか!と衝撃を受けました。

 その後、米軍ヘリ墜落事故の現場である沖縄国際大学を経由して、宜野湾市役所に行き、伊波洋一市長と懇談しました。

 伊波市長は、パワーポイントを用いながら、普天間基地の危険性や基地移設問題になどについて丁寧にお話してくださいました。

 軍事基地周辺の障害物を排除し、離発着の際の安全を確保するためのエリアをクリアゾーンといいます。普天間では、このクリアゾーン内に公共施設や民家が立ち並んでいます。アメリカ合衆国では許されないような危険な状態のまま放置されてきたのです。普天間基地周辺では、民家や公共施設の真上を米軍機が訓練飛行するため、住民は深刻な騒音被害に悩まされるとともに、いつ墜落事故が起きるかもしれないという恐怖感に苛まれています。あってはならない場所に置かれた危険な普天間基地、そのため、普天間は「世界一危険な基地」ともいわれています。

 伊波市長は、普天間から一刻も早く基地がなくなってほしいとおっしゃっておられました。同時に、基地が存在することで住民がどんなに危険な状況におかれるか、そして、一旦設置された基地の撤去を求めることがどれほど難しいことかを実感しているので、辺野古への基地移設には反対の考えなのだと切実な表情で述べておられたのが印象に残りました。

 懇談の最後に団員からいくつかの質問がなされました。予定されていた時間を超えていたにもかかわらず、伊波市長は、その一つ一つに答えてくださいました。

 ところで、宜野湾市役所で配布された資料の表紙に、「宜野湾市基地渉外課」と記載されていました。どんな仕事をしている所なのか気になったので、後日、市のホームページで調べてみました。

基地政策部基地渉外課の業務内容

・基地渉外に関すること

・基地被害の調査に関すること

・基地返還促進に関し、国・県との調整に関すること

・その他、基地問題に関すること

専門の課を設置しなければならないほど、基地問題は宜野湾市民にとって重大な問題なのだと改めて思いました。

 宜野湾市には「基地跡地対策課」という部署もあります。市のホームページによると、米軍基地が撤去された後の土地の利用計画の策定などを担当しているとのことです。計画案を読み進むうちに、基地の返還を願う市民の思いがじんわりと伝わってくるような気がしました。

辺野古にて

 翌一六日には、名護市辺野古区を訪れました。晴れた青空の下に穏やかな海が広がっていました。砂浜を歩いていくと、突如、その場に似つかわしくない鉄柵が現れました。鉄柵の上には監視カメラが設置されています。そこが、普天間基地の移設先候補として名前が挙げられている場所でした。

 ヘリ基地反対の運動をしておられる方が語ってくださいました。「海を守りたい」「昔、戦後の貧しい頃に海産物をとって生活した、海さえあれば何が起ころうとも生きていける、だから、子孫にきれいな海を残したい」「攻撃部隊が沖縄から海外に攻撃に出かけるということは、沖縄が攻撃の対象となりうるということだ」。浜辺の一角には、白いテントが張られ、「−座り込み−二〇九九日」と力強く書かれた立て看板が立っていました。

最後に

 沖縄を訪れて、普天間基地が想像以上に危険なことが分かりました。また、基地が存在することの苦しみを直に感じ、そして、基地問題の解決のために日々行動されている方から直接お話をお聞きすることができたことは貴重な経験になりました。

 先日の名護市長選で、辺野古への基地移設に反対する稲嶺進氏が当選しました。普天間、辺野古、沖縄、そして、日本から米軍基地がなくなる日が一歩近づいたのではないでしょうか。



名護市長選勝利と今後の課題(日米安保再考へ)

大阪支部  西     晃

一 画期的な名護市長選勝利と統一の重要性

 全国的(海外にも)に注目された名護市長選挙は、周知の通り、辺野古新基建設反対派の稲嶺進さんが当選しました。先頭に立って奮闘された稲嶺新市長、良識を示した名護市民の皆様、関係者の皆様に心よりお祝い申し上げます。勝利に至る要因には様々なものがあると思います。その一つとして忘れないでおきたいことがあります。それは、普天間基地の辺野古移設絶対反対の一点を貫き、統一のために、自ら候補を降り、裏方に回って稲嶺さん勝利のため尽力された比嘉靖さんの勇断です。今回の市長選挙では、「基地受け入れの是非」「基地依存体質からの脱却と経済振興策」というように大事な争点をわかりやすく整理し、広く市民の意見を糾合することに成功したことが勝利の主要因だったと思います。その点でも辺野古新基地反対での候補者統一が決定的だったと思います。

二 市長選勝利の政治的意義と現状分析

 政治的な意味合いとしては、普天間移設先としての辺野古新基地建設はなくなったものと理解するのが常識的です。一方で日米安保と権益・利権に群がる日米の政治家・高級官僚・大手マスコミは、「結局辺野古移設が最善でありこれしかない」「もし辺野古が頓挫すれば、普天間をそのまま使うしかない」などと、相も変わらずの脅し作戦を展開しています(皮肉なことに平野官房長官や岡田外相という鳩山政権の重要閣僚も含まれているのでややこしいのですが)。しかしながら、この間の沖縄県民の世論と〇九年総選挙結果、今回の名護市長選結果、さらにはアメリカ国家の相対的な影響力の低下、米軍再編の展開状況、アメリカ議会(本国)の動静等を総合的に考えるならば、「同盟の危機」を声高に叫ぶ日米安保至上主義者の主張は、これまでのような主導的影響力を発揮し続けることはもはや困難でしょう。このような流れの中、鳩山政権としては、公言し続けている、「普天間問題の五月までの結論」に向けて、政権の命運をかけて全力を尽くすということになるのだと思います。残された時間は僅かです。

三 想定される普天間問題解決の方向性

 具体的な解決策はまだ見えて来ません。ただ、解決策を想定するにあたって入力すべき前提条件はかなり整理されて来ています。

(1)鳩山政権は日米安保の安定的継続・強化と深化を目指しつつ、相対的な対米自立を模索している。

(2)鳩山総理は在沖海兵隊の「抑止力」の観点から、グアムへの全面移転については否定的見解を繰り返し表明していること。

(3)普天間代替基地としての辺野古案は、沖縄県民と名護市民により明確に否定されたこと。

(4)アメリカの世界的軍備再編は進んでおり、普天間からグアムへの移転も(公式に日本国民が説明されている以上の規模で)進められていること。

(5)アメリカにとって、米軍再編とそれへの日本の援助は絶対に不可欠であり、普天間移設問題で、強硬に従来の主張(辺野古代替施設)に固執することは得策ではないとする慎重な意見が(アメリカ本国内で)出始めていること。

 これらを総合して考えるならば、普天間基地の海兵隊司令部を含む主要部隊と軍人・家族の大部分をグアムに移しつつも、なお残る部分(主に訓練機能移転と一部部隊の駐留基地)を沖縄県外に分散移転するという大きな方向性が見えて来ます。また(沖縄県内に新たな基地をつくる訳ではないという大義名分で)、既存米軍基地内(キャンプ・シュワブ内)に新たにヘリパッドを建設し、そこに部隊を一部移転させる可能性もあります。

四 在日米軍の「抑止力」とは何か・・日米安保再考へ

 三で述べた方向性はあくまでも可能性の一つであり、日米同盟至上主義派による必死の巻き返しにあう危険性もあります。また仮にこの方向性によるとしても、移転先の地元自治体の同意を得るのは極めて困難となりましょう。鳩山政権の前途は多難です。

 結局のところ、私達がこの普天間問題を根本から解決するためには、この問題を通じて、日米安保の存在理由、在日米軍「抑止力」とは何か?抑止の対象となる「脅威」はどこから来るのか。誰にとっての「脅威」なのか。平和構築の原動力をどのように考えるのか・・・これらの問題を真剣に考え抜くしかないのではないか、そう思うのです。なぜなら「日米安保」それ自体が大事なのではなくて、一番大事なことは私達一人一人が幸せに暮らすことなのですから。その観点からすれば、普天間基地は即時閉鎖、無条件全面撤去しかない。それが私の思いです。

 日米安保再考へ、私達の責任で平和構築のあり方を決めるべき時期です。



「国会法」改悪阻止学習決起集会報告。各地で学習会を!

東京支部  小 林 善 亮

一 「一・一四院内学習決起集会」

 民主党は政権交代後、「政治主導」のかけ声の下、「国会改革」を進めようとしています。

 すでに、民主党議員の法案提出を制限したり、陳情を幹事長室に一元化するなどを所属国会議員に徹底しており、今国会では、国会法等を改定し、内閣法制局長官を政府特別補佐人から外すことや官僚答弁の禁止をもくろんでいます。

 一月一四日、全労連、自由法曹団、憲法会議の呼びかけで、この「国会法」改悪に反対する学習決起集会が衆議院議員会館で開かれ、四五団体から八二名が参加しました。

 まず、穀田恵二衆議院議員(日本共産党国会対策委員長)から、「国会法」改悪のねらいと国会の動きが報告されました。ねらいについては、政府が、内閣法制局長官の答弁に縛れないことで従来の憲法九条の政府解釈の歯止めもなくし、海外での武力行使を可能にする意図があること、官僚答弁を禁止することで国会の行政監視と立法審査の機能を弱め、議会制民主主義のプロセスを否定するものであるとの話しがありました。また、国会の動きについて、与党は「国会法改正」を野党の賛成がなくとも多数決でやると言明していること、法案要綱が各党に配られたこと、今国会の議院運営委員会に対し、内閣が政府特別保佐人として内閣法制局長官を呼ばないとの提案をし、「国会法改正」を先取りする動きをしていることなどが報告されました。

 集会参加者からは、「派遣法の問題で民主党議員の地元事務所に要請に行ったが、『民主党県連で受ける』と言われた」、「国会請願について、これまで紹介議員になってくれた民主党議員から断られた」など、政権交代後、民主党が進めている「国会改革」によって、国民の声を国会議員に届けにくくなっている実情について発言がありました。

 また、民主党のマニフェストに書かれている衆議院比例定数削減についても、選挙に反映される民意を現状よりもさらに歪め、政権党に実態以上の力を与えてしまうこと、民主党の「国会改革」と衆議院比例定数削減がセットになると、強権的な政治が実現し、国民が反対する政策であっても通ってしまうという危険性が指摘されました。

 そして、この問題での宣伝活動の強化、民主党への抗議や、引き続き国会周辺での行動を行っていくことを確認しました。

二 ぜひ各地で学習会を!

 集会に参加して一番感じたのは学習会の必要性です。

参加者の中からは「ここに参加して『国会改革』の危険性が分かったが、『民主主義』や『政治の仕組み』は一般の人には抽象的で難しい。そこをどれほど深くつかんで訴えられるか」と、運動を広げるにあたっての課題についても発言がありました。

 民主党「国会改革」や衆議院比例定数削減の問題性は、まだまだ国民一般に認識されているとは言えません。ただ、確かにその問題性を掴むためには、国民主権や議会制民主主義の機能を理解した上で、「国会改革」のねらいを明らかにすることが不可欠です。団は、この学習決起集会に合わせ、「『強権的国家』づくりをめざす民主党『国会改革』に反対する」、「衆院比例定数の削減に反対する―専制政治への道を許してはならない」という二つの意見書を発表しました。まさに法律家こそが、国民の権利を守るために議院内閣制や選挙制度がどうあるべきかを語ることができるのではないでしょうか。各地で学習会を開催し、民主党「国会改革」や衆議院比例定数削減のねらいと問題性を地域に広げることが、今何よりも大切だと感じます。地域で、様々な要求を掲げて活動している人たちにとっても、要求を実現するためには、国民の声を反映して十分な審議をする国会が必要であることは明らかです。このことを知らせることができれば、運動も広がるはずです。手遅れになる前に始めなければなりません。

・「『強権的国家』づくりをめざす民主党『国会改革』に反対する」

・「衆院比例の削減に反対する―専制政治への道を許してはならない」

二つの意見書は、団本部のホームページからダウンロードできます。団員、法律事務所の方はダウンロードをしてご活用ください。



女性部新人学習会&懇親会のご報告

東京支部  黒 澤 い つ き

 去る一月二九日、自由法曹団女性部の学習会・新人歓迎会が開かれた。参加させて頂いた新人は、私を含め東京・横浜で登録したばかりのうら若き(?)六二期の団員、六名。女性部で活躍する多くの先生方が、暖かく歓迎してくださった。

一 先生方のお話

 学習会では、三人の先生方が、それぞれの個性を生かされた、パワフルな仕事ぶりについてお話された。

 西田美樹先生は、ご自身が長年学び続けてきたアロマテラピーの効用について詳しくお話くださった。実際に持ってきてくださったご自身が作られたハンドクリームの瓶を開けると、ラベンダーとサンダルウッドの精油を混ぜたとのことで、慣れない新生活に多少緊張している私たち新米団員の心身をときほぐすような、やすらぐ香りが、あっという間に部屋中に広がった。驚いたのは、香りは、精油自体の香りと、使った人自身の匂いとが混ざるので、同じハンドクリームを使っても、違う香りになる、という話であった。精油の知識だけを詰め込めば済む話ではない、アロマテラピーの奥深さが、とても興味深かった。先生ご自身は、依頼者との打ち合わせの際、依頼者の精神状態によって香りを使い分けているとのことである。その細やかな気遣いに、どれだけたくさんのお客さんが癒されてきたのであろうか。また、少年事件を専門的に取り扱いたいという熱意から公設事務所さらには独立開業へというお話や、一〇〇万円あれば事務所は立ち上げられるし、月二〇万円入れば事務所は続く、というざっくりとしたソロバン弾きに、新米のみならずベテラン団員の先生方からも驚きの声が挙がり、大変盛り上がった。

 千葉一美先生のお話は、夫婦で司法試験の合格を目指した時期から始まった。夫や恋人と共に司法試験を目指すことの独特の苦しみは、今も昔も変わらないようで、苦悩の日々を振り返り、思わず眉間にしわを寄せてうなずく新米団員もいたとかいないとか。修習生の間に一人目のお子さんを出産なさったのをかわきりに、合計三人の子育てに奮闘したお話は、まるでドラマのようであった。結婚し(てみ)たい、出産し(てみ)たい、しかし仕事も一人前にこなしたい、どうすればいいんだ、と思い悩む新米団員たちにとって、先生の選択や歩みは、最上の参考書であった。「修習中に出産」という知恵をもはや活かすことができないのは残念だが、夫との家事の分担方法として「日割制」を採用したことや仕事の選択、また子育てしつつ仕事をするある種の「うしろめたさ」を抱かずに済む事務所の報酬形態等々、具体的な局面ごとの先生ご自身の選択とその訳を伺えたことは、本当に有益であった。その弾けるような笑顔を拝見すれば、先生が今現在、充実した日々を送られていることは一目瞭然なのだが、伺うところによると、娘さんと一緒に好きなロックバンドのライブに行ったり、かたや茶道の師範としてのステップアップを模索したりなど、仕事と子育てのみならず、ご自分の時間を大切にして幅広い好奇心をフルに発揮し、内面を深めておられた。女性とか弁護士とか、そういう範疇を飛び越えて、人として理想な生き方ではないか、と思った。

 土井香苗先生は、(今さら説明不要の)並はずれたバイタリティで世界を舞台にご活躍されている。この日参加した新米弁護士の中には、修習生時代は青法協で活動していた者も多く、夏の集会に土井先生を講師としてお招きしたご縁もあって、「身近な巨人」的先輩である。現在は弁護士の活動はなさらずにHRWの東京オフィスでのお仕事に邁進なさっているとのことであるが、ファンドレイズ(抽象的に言えば、金持ちににじり寄ったり詰め寄ったりして寄付金をかき集める、欧米のNGOでは普通に行われている手法、とのこと)のお話などはとても新鮮で、民間の団体との連携を図りながらDVや児童虐待の問題に取り組みたいと真剣に考えている新米たちのモチベーションを、とても高めてくださった。

二 懇親会での交流

 学習会の後の懇親会では、終始にぎやかな雰囲気の中、女性部の先生方と新米が心ゆくまで交流を深めることができた。まだまだ知らないことだらけの不安な心境を新米が語れば、先生方が「なんとかなるわよっ」と笑いで吹き飛ばしてくださり、そのお心遣いに、感謝の気持ちでいっぱいである。学習会でお話くださった先生方は、弁護士が「自由」業であることを改めて教えてくださった。今抱えている事件の率直な悩み、出産・子育てへの夢と不安、相手がみつからない苦悩…「なんとなく」な心配事を挙げれば枚挙にいとまがないが、とにもかくにも、先生方と共に団の女性部を盛り立てていけば、自分らしい充実した弁護士人生が切り開けるのではないか、と明るい確信を抱いた夜であった。



将来問題アンケートのご協力のお願い

東京支部  中 野 直 樹(将来問題委員会 委員長)

 団員事務所の基盤・展開・ネットワークの新たな実践が始まっています。

 二〇〇三年団総会議案書には「一五年間で支部団員数が同数または減少した支部が一三もある」ことが指摘され、「毎年五〇人程度の新入団員を迎えていかないと団の財政も大変な困難に直面する」などの危機意識が表明されています。その後、毎五月集会、総会ごとに将来問題を考える全国会議を重ね、団員事務所の発展方向を模索してきました。そして、合格者人口増を背景に六〇期、六一期では、団は、新旧合わせて一〇〇名を超える新人弁護士を迎え入れるまでになりました。地方においても長年の新入団員空白が解消されつつあります。全国の支部で若い団員が非正規・貧困問題、裁判員裁判に積極的に飛び込む姿が見えます。また、各地で、法人化して団員過疎地に支所展開をしたり、事務所を分割して周辺地域に事務所を展開していく挑戦が広がっています。中国五支部では年四回の開催地持ち回りブロック例会が開かれるようになりました。

 他方、地域における弁護士増、団員事務所の所員増、歴史的な経済不況、過払い金バブルのはじけ等が原因して団員事務所の経営が厳しい状況に直面していることも事実です。

 このような情勢の動きのなかで、団では、引き続き、意欲と力のある新人弁護士を迎え団員事務所を発展させる課題について、多くの団員の皆様のご意見を集約して、組織的な討議をしたいと考えています。

 アンケートは、集団事務所・個人事務所を問わず、ご自身の事務所のみならず、普遍的・客観的な視点からもご回答をいただけると幸いです。

 ご多忙のところ恐縮ですが、ご協力をお願いいたします。

 (お願い文及びアンケートの回答用紙は、各事務所に一部ずつ同封させて頂いております。回答期限は二月二六日ですのでよろしくお願い致します。)