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四位 直毅 【安保条約五〇年 安保を語り、安保とたたかう(7)】
安保と私と、今このとき
田篭 亮博 福岡生存権裁判 福岡高裁で逆転勝訴
糸瀬 美保 著しい外貌醜状についての労災障害等級表は憲法一四条違反
黒澤 いつき 派遣労働者の勝利のご報告
〜NHKサービスセンター直接雇用の巻〜
吉原  稔 官制談合損害賠償で過去最高(一八%)の損害率の判決を獲得
田川 章次 韓国民弁との交流
西   晃 *書評*
仲山忠克外編 「憲法と沖縄を問う」(法律文化社)を読んで
石川 元也 東中光雄・関西合同法律事務所編著
「特攻隊から共産党代議士へ 東中光雄という生き方」の紹介
中野 直樹 釣り竿と憲法(二)
後藤 富士子 亡国の司法―単独親権・DV防止法・人身保護請求
松島  暁 戦後民主主義の体現者としての上田さん
―九・四「しのぶ会」へのお誘い―



【安保条約五〇年 安保を語り、安保とたたかう(7)】

安保と私と、今このとき

東京支部  四 位 直 毅

アンポってなあに

 アンポを知らない人が今、多いのではないか。

 かつて拘禁二法案反対闘争のころ、コウキンって公金?と聞かれた話を、耳にした。

 アンポとは安保、つまり日米安全保障条約のこと、といっても、やはりキョトンとする向きが少なくないのでは。

 このことと、安保で守ってもらう、だから安保は必要、という声がよく聞かれることと、表裏一体の関係にある、と思われる。

 安保条約の内容と意味するもの、解釈運用の実態、安全保障のあり方をめぐる歴史と世界の動き、などが、広く国民に知られていないし知らされていないことが、最大の要因(少なくとも、その一つ)ではないか。

安保と私

 高一のころ(一九五二)、一般社会の宿題で、朝鮮戦争をめぐるトルーマン(当時米大統領)とマッカーサー(同司令官)との確執に触れたレポートを提出した。ネタ元は新聞記事。どうしたわけか、教師にほめられた。安保以前のことではあるが、これが、日本を基地として日本を再び戦争の惨禍にまきこむアメリカの動き、にかかわる私の初体験、といえるかもしれない。

 伊達判決から安保闘争のころは、バイトなどにかまけて国会デモにも行かず、行くほどの問題意識にも欠けていた。それでも、家庭教師先の小学生から「センセー、テレビでやってるデモに行かないの?」と問われて、内心ギクリとした覚えがある。

諸事件で

 弁護士登録後、参加した諸事件で、いや応なく安保に直面した。

 恵庭事件で、内藤功さんを先頭に、自衛隊の対米従属性、侵略性、人民弾圧性が、きびしく追求された。

 百里基地訴訟で、民事訴訟とはいえ、安保・米軍と憲法・自衛隊との関係と問題点が、するどく解明された。

 朝日訴訟で、バターか大砲か、再軍備と社会保障(今風にいうと九条と二五条の関係)が論じられた。

 家永三郎さんを原告とする教科書検定訴訟で、ニクソン(当時米副大統領)の憲法九条制定ミステーク発言や、これにつながる池田・ロバートソン会談で再軍備推進のための「教育と広報」については日本政府が責任を負う、と合意されたこと、これらをふまえて、侵略戦争を教科書で「明るく描け」などという第一次教科書攻撃がくり広げられたこと、つまり、教科書攻撃は、再軍備と憲法改悪の企ての一環、として意図的大々的に展開されたものであることが、克明にあきらかにされた。

 その後も、憲法と安保をめぐる相克の深まりの節々で、第二次、第三次教科書攻撃がくりひろげられた。

 上述した第一次攻撃とあい前後して、鳩山一郎内閣が、九条改悪とそのための小選挙区制(ハトマンダー)の企てを車の両輪で進めたが、国民にきびしく審判された。

 横田基地訴訟で、「せめて静かに眠れる夜を返せ」の願いを掲げ、安保賛成派も反対派も広く共同して、要求実現のたたかいを進めた。この訴訟でも、安保・米軍基地と憲法・いのちと健康と平穏なくらしとの矛盾、という厳然たる事実に直面せざるをえない。そこから、統一要求の枠内ではあれ、この訴訟にふさわしい形と内容で、米軍駐留と基地をめぐる問題が論じられた。のちには、対米訴訟が提起された。

 このようにして私は、遅まきではあったが、再軍備と自衛隊、安保と憲法の矛盾・相克とのかかわりと、対峙を深めた。

安保が見えてきた

 改訂五〇年の今、「普天間から安保が見えてきた。」(三沢五月集会での神奈川・岡村共栄さんの発言)

 多くの沖縄県民が、普天間問題を通じて、安保を見すえはじめている。これと呼応して、普天間無条件撤去と共に、安保なくせ、の声が、全国各地で、広がりはじめている。

 派遣村や、消費増税と法人減税のセットの企てなどから、安保条約二条を法的手がかりとする安保とくらしやしごと、とのかかわりが、改めて人々の眼にはっきりと映りはじめている。

 つまり、今、かつてのような憲法訴訟や国会安保論戦にとどまらず、全国各地で日々とりくまれている草の根のさまざまなたたかいそのものから、安保が見えはじめている。

 イラク、アフガン、インド洋、ソマリアなど、世界各地でアメリカなどの戦争に自衛隊が出動する動きが進んでいる。この事態は、すでに安保五条、六条をこえている。でありながら、安保は、これらのうごきの根っこにすわっている。

 派兵恒久法は、ひき続き、消費税などと並ぶ「大連立」の柱であり続けている。

 軍事面だけではない。先にふれたとおり、くらしと経済面でも、「両国の間の経済協力を促進する」(安保二条)として、「日米経済協力」の名目で、日米の政府と財界によるあくなき利益追求と国民いじめが、ますます広がり深まりつつある。

 ドル基軸体制維持のしくみでもある超低金利の長期化と多額の米国債保有、莫大な公共投資計画、軍需生産と宇宙軍事協力の拡大など、枚挙にいとまがない。農業、流通、金融、電気通信、情報、投資、航空、医療、医薬品、エネルギー、建設、雇用破壊と「派遣の全面自由化」などから大店舗の進出に至るまで、国民のしごととくらしと経済の全面にわたり、「日米構造問題協議」(一九八九〜)、「日米包括協議」(一九九三〜)などでの企てと施策が、進められている (シンポジウム「軍事同盟のない世界へ」所収増田正人レジュメなど) 。

 つまり、安保は、平和とくらしから民主主義に及ぶ国民への加害を深め広げている。そして、この国のあり方を、根幹から歪め続けている。

 だからこそ今、眼をしっかりと見開くと、団と団員のかかわるどのたたかいからも、安保のこのような実像が見えてくる。

 安保をなくさない限り米軍基地はなくならず、諸要求の抜本的実現のためには憲法にもとづく国民本位の国政へと転換をはかるほかないことが、日々、具体的事実で、国民の眼にあきらかになりはじめている。

いくつかの点

 団と団員は、次の諸点のたたかいを進める任務をも担っている。

憲法と安保

 二つの法体制の矛盾を、安保廃棄による憲法への一元化で克服し、憲法の全面実現をめざすこと。

 この矛盾と解決の方向を、広く、そしてわかりやすく、国民に知らせて、国民との共同をひろげること。

安保と基地被害、基地犯罪

 たとえば、横田、横須賀、厚木、小松、岩国、嘉手納、普天間、名護などで、すでにとりくまれている。

 米軍の自衛隊基地共用、訓練空域での低空飛行なども、各地で被害を拡大していることを看過、放置できない。

安保と地位協定

 治外法権の法的担保として、協定と密約が機能している。

 思いやり予算は、協定をもこえている。

 このような事態をこれ以上許さないための批判と追求をつよめる必要があろう。

 (地位協定については、新垣勉さんの研究と蓄積が、よく知られている。)

今このとき

 内外激動の今、この国も、アジアも、世界も、歴史の転換期にさしかかりつつある。

 今このとき、日ごろたずさわる草の根の切実な要求の実現をはかるとともに、これらの諸要求実現のためにも、国政のあり方を見すえて、安保の壁をとり除き、国政革新をめざすとりくみをつよめることが求められている。

 これらの課題は、たしかに一朝一夕で実現できるほどたやすいものではない。

 だが、私たち団と団員が、広く国民と共同して、これらの声をあげ、とりくみをつよめることにより、主権者国民による歴史の転換に向けての新たな一歩を力づよくふみだすことになるだろう。

 このような声ととりくみが強まれば強まるほど、団と団員の活動と団通信から、安保とこの国の国民本位のあり方が見えてくるのではないか。

 今、草の根の要求とたたかいを通じて、安保をなくし、国政革新をめざすとりくみを草の根からつよめるとき、ではないか。


福岡生存権裁判 福岡高裁で逆転勝訴

福岡支部  田 篭 亮 博

一 事件の概要

 福岡生存権裁判は、北九州市在住の七〇歳以上の生活保護受給者四一名が、二〇〇六年三月に提訴した訴訟です。この訴訟は、一九六〇年に創設された老齢加算が、二〇〇四年から二〇〇六年にかけて段階的に廃止されたことを受け、この段階的廃止の取り消しを求めるものです。

 老齢加算とは、生活保護費のうち高齢者特有の生活需要を満たすために原則七〇歳以上の生活保護受給者に対して支給されてきたものでした。この老齢加算は、四〇年以上にわたりその存在が認められ支給されてきていたのですが、小泉政権下で行われた社会補償費削減の一環として段階的に廃止されてしまったのです。

二 第一審敗訴

 二〇〇九年六月三日に、福岡地裁における一審判決がでましたが、ここでは全面的に敗訴してしまいました。

 老齢加算の段階的廃止をめぐっては、全国八カ所の裁判所(四地裁、二高裁、二最高裁)において約一〇〇名の原告により裁判が闘われていますが、本判決は初めての原告側勝訴判決です。また、生活保護基準に関する厚生労働大臣の判断を争う裁判では朝日訴訟第一審判決以来、五〇年ぶりの勝訴判決です。

 一審判決では、生活保護の基準改定においては、厚生労働大臣の専門的判断が尊重されるとして、被告(北九州市)側の主張に沿った内容で、老齢加算の段階的廃止は違法ではないとの判断が下されました。

 一審判決は、内容面に着目して、老齢加算の段階的廃止においては、厚生労働大臣に認められる裁量権の逸脱や濫用は認められないと判断したのです。

三 控訴審逆転勝訴

 他方、控訴審判決では、内容面ではなく、決定過程の手続面に着眼して判断を下しました。以下、控訴審判決について簡単に説明します。

(1)まず、福岡高裁判決は、生活保護を受けることが単なる国の恩恵ではなく法的権利であるとし、すでに決定された保護は「正当な理由」なく変更されないことを具体的権利として認めました。保護基準を改定するのであれば、改定について「正当な理由」が必要であるとしたのです。

(2)そして、その「正当な理由」の有無については、一定程度厚労大臣の裁量に委ねられるとしつつも、判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し、その判断が重要な事実の基礎を欠くか、又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠く場合は裁量権の逸脱となると判断しました。

(3)老齢加算は厚生労働省において設置された専門委員会が二〇〇三年一二月一六日に発表した「中間取りまとめ」を根拠に廃止されたのですが(争いなし)、判決では、その「中間取りまとめ」が出されるに至る議論過程を詳細に検討し、老齢加算を廃止の方向で見直す場合に、「中間とりまとめ」の中で(1)高齢世帯の最低生活水準が維持されるよう検討すること、(2)老齢加算を廃止するにしても被保護者の生活水準が急に低下することのないよう激変緩和措置を講ずることが必要がであると指摘されていたことを重要視し、(1)(2)は老齢加算廃止に至る判断過程での「重要な事項」であると認定しました。

 その上で、老齢加算廃止に至る判断・決定の経過も詳細に検討し、厚生労働省が「中間取りまとめ」の発表されたわずか四日後(二〇〇三年一二月二〇日)に老齢加算を段階的に廃止することを実質的に決定していたことを指摘し、その決定過程において重要な事項である(1)(2)について何らの検討がなされていない、又は、十分な検討がなされていないと判断しました。

 判決は、以上の点から厚労大臣の行った老齢加算廃止の保護基準の不利益改定は考慮すべき事項を十分考慮しておらず、又は考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠き、その結果、社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものであるとし、「正当な理由」はなく生活保護法五六条に違反し違法であるとの判断を下したのです。

四 福岡高裁判決への評価

 このように、福岡高裁は、行政庁の専門的技術的判断能力を尊重して、判断の内容面に立ち入ることを控えつつ、判断過程において考慮すべき事項が考慮されたかどうかを、手続的に検討する手法を採用しました。この手法は、昨今の最高裁判例の流れに沿うものであり、今回の福岡高裁判決が特異な判断を下したものではないと、弁護団では評価しています。

 老齢加算の復活を求める「生存権裁判」は、全国九都道府県で行われていますが、今回の逆転勝訴判決まで一度も勝訴判決はありませんでした。

 残念ながら、この福岡高裁判決は、二〇一〇年六月二五日に上告されてしまいました。しかし、全国の原告団と弁護団は、この福岡高裁での逆転勝訴で勢いづいています。必ずや老齢加算の復活を勝ち取る決意です。

 全国の自由法曹団員におかれては、引き続きのご支援とご指導のほどをよろしくお願い申し上げます。


著しい外貌醜状についての労災障害等級表は憲法一四条違反

京都支部  糸 瀬 美 保

違憲判決確定

 二〇一〇年五月二七日、京都地方裁判所は、業務上災害による男性の著しい外貌の醜状障害について一二級と定める労働者災害補償保険法施行規則別表第一「障害等級表」を違憲と判断し、原告に対する労働基準監督署長(処分行政庁)の障害補償給付の支給に関する処分を取り消しました。

 外貌醜状について男女差を設けている「障害等級表」に対する初めての違憲判決です。しかも、六月一一日、国の控訴断念を受けて本判決は確定しました。

労災事故で全身大やけど

 本件の原告男性は、一九九五年、勤務先で金属の溶解作業に従事していた際、水蒸気爆発により高温(一〇〇〇℃以上)の溶解炉から溶けた金属が吹き上がるという労災事故に遭いました。吹き上がり、飛散した高温の金属で作業服が燃え上がり、原告は大火傷を負いました。

 二〇〇四年二月には労災保険による治療は打ち切られ、同年一二月までの約一〇年間で一六回に及ぶ手術を受けましたが、右頬、顎、頚、胸部全域、腹部のほぼ全域、腹から背中にかけて、上肢、下肢に瘢痕及び瘢痕拘縮による著しい醜状が残りました。原告は、症状固定後も火傷した皮膚のかゆみや痛み、炎症などに苦しみました。

男性であるがゆえに一一級の認定

 処分庁は、原告の上肢及び下肢の醜状障害と胸部、腹部など露出面以外の醜状障害について準用第一二級とし、これと外貌の著しい醜状障害を併合して一一級と認定しました。ところが、これが女性であれば、併合五級の認定を受けることになります。

障害等級表の男女差別

 これは、「障害等級表」が外貌醜状障害について次のように規定しているためです。

第七級の一二  女性の外貌に著しい醜状を残すもの

第一二級の一三 男性の外貌に著しい醜状を残すもの

第一二級の一四 女性の外貌に醜状を残すもの

第一四級の一〇 男性の外貌に醜状を残すもの

 そこで本件では、この「障害等級表」は、憲法一四条一項後段において明示的に禁止されている性別による差別的取り扱いを規定するものであり違憲であるとして処分の取消しを求めました。

障害等級表の沿革

 「障害等級表」の前身は、昭和一一年に改正された工場法の別表です。現在の「障害等級表」は、男女平等を謳った憲法の下、一九四七年九月に施行されましたが、醜状に関しては、工場法別表で規定されたのと全く同様の男女差別規定が置かれました。

 その後、男女雇用機会均等法が制定・改正され、労基法が改正されるなどして、労働法制の分野では女性への差別のみならず男女双方の差別禁止、男女平等の徹底強化が指向されてきたにもかかわらず、「障害等級表」は一九四七年当時のまま現在に至りました。

 「労災補償 障害認定必携」によれば、「社会生活において醜状障害により受ける精神的苦痛を考慮し、女子のそれが男子のそれに比較して大であるという社会通念に基づく」と解説されています。おそらく制定時においては、「女は顔」「女は外見」という男性社会が作り上げた価値観に基づいて、女性の方を上位に格付けたものと思われます。

 しかしながら、性差に関する社会的評価や国際的情勢が大きく転換した現在、外貌醜状に関する「障害等級表」には何の合理性も認められないというべきです。

本判決の意義

 被告国は、外貌の醜状障害が第三者に与える嫌悪感、本人の精神的苦痛、これらによる就労機会の制約には男女に差異があることを理由に本件差別は合理的であると主張し、その根拠として、労働力調査、化粧品等の売り上げや広告費に関する統計、交通事故の裁判例、国政調査の結果を挙げました。

 本判決は、国勢調査の結果を除いていずれも合理性の根拠とはならないとしました。また国勢調査の結果についても、外貌醜状障害について損失補償が必要である職業につく割合が男性に比べて女性の方が大きいということがいえるとはしたものの、本件の差別的取扱いの合理性を説明するには根拠が弱いとしました。また、外貌醜状障害により受ける影響について男女間に差異があるという社会通念自体は否定しなかったものの、その根拠は必ずしも明確ではないとしました。

 その上で、著しい外貌醜状障害について男女の性別によって五級もの差を設けた「障害等級表」は、合理的理由なく性別による差別的取扱いをするものとして、憲法一四条一項に違反すると判断しました。この点はやはり、男女の性差だけで、方や年金、方や一時金というように補償に大きな差を生じさせる五級もの等級の違いが判断に作用したと思われます。

 本判決が、障害等級の策定に厚労大臣の広い裁量を認めた点、根拠を示さずして外貌醜状障害により受ける影響について男女間に差異があるという社会通念を認めた点、男女に差を設けていること自体が直ちに違憲であるともいえないとした点には不満がありますが、「障害等級表」が外貌醜状についてのみ性別で差別していることの不合理さを素直に認め、違憲判断を下したことについては高く評価することができます。

新しい障害等級表の策定

 厚労省は、本件違憲判決の確定を受けて、「障害等級表」の外貌醜状障害の等級を見直す作業を開始するとしています。

 素直に考えれば、男性について規定した一二級が違憲とされたのですから、女性について規定した七級に統一することになります。ただ、本判決が「男女に差を設けていること自体が直ちに違憲であるともいえない」としていることを捉えて、あくまでも男女の等級に差を設ける形で著しい外貌醜状に関する障害等級表を改正することや、単なる外貌醜状については二級の差をそのまま残す可能性が考えられます。あるいは男女を統一するとしても、「厚労大臣の広い裁量」を根拠に女性の等級を下げることによって差異をなくすという手法をとることも懸念されます。

 しかしながら、外貌をめぐる考え方は近年特に多様化しており、職業や対人関係においては男女を問わず外貌が重要な意味を持つとすれば、外貌醜状障害の等級について男女に差異を設けることは許されないし、女性について規定した七級の等級を引き下げるなどもってのほかです。

 労災保険法の「障害等級表」は、自賠責の後遺障害別等級表や国家公務員、地方公務員の災害補償における障害等級表など様々な障害等級を定める際の参考とされており、同様の内容を持つ等級表が数多くあることから、その改正が及ぼす影響は甚大です。本件「障害等級表」を改正するにあたっては、慎重に議論されなければなりません。

原告の救済方法について

 実は厚労省では、原告に対して新しく策定する障害等級表に基づいて処分を行うことを検討しており、現在まで結論が出ていません。

 しかしながら、そのような遡及適用を認めるとすれば、現在の「障害等級表」に基づいてなされてきた全ての処分を見直さなければならなくなります(見直しを行う事自体は非難されるものではありませんが、混乱は必至と思われます)。

本判決によって原処分は遡及的に効力を失っているのですから、処分時において効力を有する現行の「障害等級表」に基づいて判断するより他ないはずです。その際、原告の著しい外貌醜状について、違憲であると判断された一二級を適用することは許されない以上、女性について定めた七級を適用するのが当然であり、新しい障害等級表における等級の定め方によっては、再び違憲の問題が出てきかねません。

今後の課題

 このように、事態は流動的であり、予断を許さない状況ですが、少なくとも、原告男性については、現在の「障害等級表」に基づき、女性について規定した七級を適用し、併合五級の認定に基づいた障害補償給付を速やかになすべきことを求めて、厚労省との交渉を継続しているところです。

 また今後、新しい「障害等級表」が策定されるにあたっては、著しい外貌醜状障害だけではなく単なる外貌醜状障害についても、男女に差異を設けるべきではないこと、そして、現在社会において外貌が持つ重要性に照らせば、男女を問わず等級を引き下げるべきではないことを訴えかけていく所存です。

 (京都支部の村井豊明、村松いづみ、大島麻子各団員が弁護団に参加しています)

二〇一〇年七月二三日


派遣労働者の勝利のご報告

〜NHKサービスセンター直接雇用の巻〜

東京支部  黒 澤 い つ き

一 はじめに

 労働者派遣法改正をめぐり、その抜け穴だらけの改正案に対し激しく反対運動が展開されていた中、業務偽装された派遣労働者の事件で直接雇用を勝ち取った。相手は天下のNHK。ここのその経過と課題について報告させて頂きたい。

二 事案の概要

(1)庶務として一三年

 Aさん(女性)は、一九九六年からNHKサービスセンター(以下、SC)の直接雇用のアルバイト(長期臨時職員)として勤務していた。上司から「Aさんは庶務だから」という言葉と共に、「備品の管理・発注」「切手の管理」等々箇条書きに庶務業務がズラっと書かれたA4用紙を手渡されて以来、Aさん自身「私は庶務」という認識で業務に従事していた。

 一九九九年、長期臨時職員という地位の廃止に伴い、SCはAさんに対し「今まで通り働いてもらうためには派遣会社に移籍して、そこからの派遣社員という形をとってもらうことになる」と説明をした。その際、上司は「業務内容と待遇は今までどおり」という約束をし(!)Aさんはこれを了解して、派遣元(当時NHKプリンテックス、現NHKビジネスクリエイト、以下BC)と労働契約を結び、SCに派遣されるという形で勤務することになった。以来、Aさんは一年ごとの更新で庶務業務をこなし続けてきたのであるが、この労働契約は、Aさんを「一〇号」「八号」「五号」の専門二六業務の担い手とする契約だったのである。

(2)直接雇用の申し入れと雇い止め

 二〇〇九年五月頃、ここまで長期間勤務し続けているのだからそろそろ直接雇用を、と思い立ったAさんは、上司に直接雇用を申し入れた。途端に上司の態度は「硬化」し、BCに相談しても話は全く進まなかった。不審に思ったAさんは、自分の置かれている状態を徹底的に勉強した。首都圏青年ユニオンのHP等を見て、自分の契約が業務偽装されていること、違法状態に置かれていることを知ったのである。

 二〇一〇年三月二六日、Aさんはついに雇い止めを通告された。

三 東京労働局への申告

 四月上旬、Aさんが首都圏青年ユニオンに相談に訪れたことから、顧問弁護団の中川団員から同じく顧問弁護団(入って間もない)の私に連絡が入った。六日夜に初めてAさんから詳しい事情を聞き、八日朝に労働局へ申告することに決めた。「今年の大晦日はNHKホールの前で紅白の観客に向けてビラまきだ〜」と皆で笑いながらも、作ったこともない申告書を三〇時間で作れというのか、鬼だ、と不安と緊張で泣きそうだった。

 八日、Aさん、ユニオン事務局長河添氏、中川団員、私の四人で東京労働局へ申告した。

四 団交と是正指導

 労働局は私達のしつこい「調査結果の開示と是正内容の通知」の要求には応じないものの、調査に入ったこと自体はその日のうちにAさんに伝えられた。これを受けてユニオンは当初の計画通り、

とBC双方に対し団交を申し込んだ。双方とも「違法であるという認識は無かった」と許し難い発言を繰り返し、その点をめぐって紛糾したものの、SCは団交申し込みの時点でAさんの直接雇用を明言した。一年ごとの更新ではあるが六〇歳の定年まで働けることが慣行化している嘱託職員という身分である。

 初回の団交の一週間後である六月一四日、SCに対して東京労働局から是正指導が出た。内容は明らかにされていないが、SCによれば「違法な派遣であり直ちに中止すること」「雇用の安定を図るための措置をとること」が指導された、とのことである。次いで六月一五日にはBCに対しても是正指導がなされた。

 団交を重ねても違法についての認識を明確にした謝罪はとれず、不誠実な姿勢も散見された(後述)が、「東京労働局からの是正指導が出た」ということははっきりと口頭で述べたうえでの配慮が足りなかったという言葉を得、また直接雇用という大きな目標は勝ち得たので、矛を収めることとした。

五 残った問題点

 労働局は結局、SCに対する是正指導で四〇条の四違反の認定をしなかった。「形式にだけとらわれて、違法状態を助長することになるんじゃないですか?一歩踏み込むのが労働局の仕事じゃないんですか?」と何度抗議しても、「そうしたい気持ちは山々なんですが…」どまり。この壁を突破したいものである。

 また、業務偽装とは別の違法な点として、Aさんが派遣労働者に切り替わった時の事情を振り返って頂きたい(上記二(1))。これは、究極の事前面接ではないか!

 今後の問題として、BCに対する闘いが残っている。派遣先SCは、そうはいっても直接雇用して事実上責任を取った。それに対して派遣元のBCは何の責任も取らないばかりか、団交の席で「この団交は、違法か適法かについて議論する場ではない」と暴言を吐いたのである。この不誠実団交を見逃すわけには行かない。

六 終わりに

 ひとたび直接雇用の声をあげれば、それまでの一〇数年の積み重ねをひっくり返されて雇い止めされる。ユニオンに相談に行く前、Aさんは一人で労働局に相談に行った。その際、労働局はAさんに申告を勧めるのではなく、「このまま派遣で続ければいいのでは」と応えたという。国家権力のくせに情けない、としか言いようがないが、派遣労働者の使い捨て地獄の根深さを見た。紅白歌合戦でのビラまきを待たずにAさんの直接雇用を勝ち得たことは心から嬉しいが、今後のBCとの闘いを含め、派遣労働者の人権と生活を守るために、さらなる努力を続けたい。


官制談合損害賠償で過去最高(一八%)の損害率の判決を獲得

滋賀支部  吉 原   稔

 大津地裁(石原稚也裁判長)は七月一日、滋賀県旧愛知川町で町長と助役が主導した官制談合事件の損害賠償住民訴訟で元助役と談合参加業者に約六二〇〇万円の損害賠償を認めた。これは、元助役と業者四社が公正競争入札妨害罪と収賄罪で逮捕、起訴され有罪判決が確定した。そこで現町長が談合業者に損害賠償訴訟を提起すべく議案を提出したが、談合業者の意をうけた議員が否決した。

 そこで、三〇〇名の住民が原告になって住民訴訟を提起した。相手は官制談合を主導した元町長、元助役と逮捕されなかった一業者を含む五業者である。

 判決は、談合によって形成された落札率と新町長もとでの談合なしの落札率との比較から談合による損害を落札価格の一八%とした。これは損害割合としては過去最高例である。談合による業者への損害賠償の住民訴訟には、監査請求の期間制限が及ばないのは、最高裁判例によって確定しているが、裁判長が、元町長は「財務会計職員の特定の財務会計上の行為」だから一年の期間制限は及ぶのではないかと言い出して、判決では元町長への請求は却下された。 官制談合が認められて首長への損害賠償を認めた判例はないから、初判例になると期待したのに、門前払いとなった。その代わり助役は、権限ある財務会計職員ではないとして元助役への損害賠償は認めた。

 最高裁判決で談合の期間制限は大丈夫と安心していたのに、思わぬところで落とし穴があったが、官制談合(元助役でも官制談合には違いない)で最高の損害率を獲得したことに一応満足している。


韓国民弁との交流

山口県支部  田 川 章 次

 東アジアの時代という言葉を近時耳にすることが多い。当事務所にも、今年に入って、中国福建省における企業進出をめぐるトラブルや、下関の水産業者が韓国釜山の業者に輸出した水産商品代金の回収が不能であるといった相談が寄せられている。

 昨年一月、日弁連の国際関係担当副会長として香港リーガルイヤーの記念式典に出席した際に語られていたアジアとの交流がいよいよ我が身にも迫ってくる状況となった。

 そこで、まず隣国韓国の法律事情を知ろうと、日弁連自由権ワーキングのメンバーである新倉修弁護士に、韓国の民弁(民主社会のための弁護士会)所属の金晋局弁護士を紹介して頂いた。そして、当事務所の未来を担う林貴士、大賀一慶、三井隆宏の三弁護士と共に四月一五日から一九日まで、ソウル、釜山の裁判、弁護士事情の調査等という目的で渡韓した。

 初日は、ソウル弁護士会を表敬訪問した。会館を見学させて貰ったが、館内に子息のための保育園があり、一二名の幼児のために六名のスタッフが配置されていることを知り、さすが男女共同参画の先進国だと感心した。夕刻、金弁護士の事務所を訪ねた。事務所には、弁護士一五名が所属しており、現職一名、元職一名の国会議員がいるということであった。前大統領のノ・ムヒョンさんは民弁に所属していたとか、現在の弁護士会幹部は保守的な傾向が強くなったというお話を聞いて大変興味深かった。

 最終日は、金弁護士から紹介して頂いた崔成柱弁護士に釜山の裁判所等を案内して頂いた。いろいろな収穫があったが、それについては三人の弁護士の感想に譲りたい(二〇一〇年四月三〇日)。

 *    *    *    *    *    *

 それでは、私たち三人のイソ弁がこの視察を通して学び感じたことを少しばかり述べてみたいと思う。

一 韓国の裁判制度について

 民事裁判では、日本と異なり、原、被告ともに裁判官を向いて座り、証人は裁判官側の右の別枠の席に座る。金弁護士から聞いた話では、韓国では、書証と同様に、証人も重視し、契約書等書面がない事件においては、裁判官が積極的に証人尋問を進めて、事実関係の把握に努める傾向にあり、書面主義より口頭主義、直接主義が志向されているとのことであった。また、少額事件審判もあり、傍聴したところ、当事者が直接行う割合が高く、声を荒げ請求している様子は、国は違えど変わるものではなかった。

 刑事裁判でも、日本と異なり、被告人は弁護人の隣に座る。これは当事者主義として当然という考えがあるとのことで、日本でも見習うべき点であろう。また、少年事件については、審判が非公開なのは同様であるが、罪名、名前も列挙されて張り出されており、更生に影響はないのかという疑問を抱いた。

二 慶州ナザレ園を訪問して

 仏国寺や石窟庵などの世界遺産で知られる慶州市の静かな田園の中に慶州ナザレ園はある。戦前戦中に朝鮮人と結婚し、戦後に朝鮮半島に渡った日本人妻の方々のための福祉施設(老人ホーム)であり、今から約三八年前、韓国人の故・金龍成さんによって設立され、日本財団の寄付によって建設された。ナザレとは、イエス・キリストが幼少期を過ごした現イスラエルの地名だそうである。

 金さんの父は抗日運動の闘士で、金さんが子どもの頃に日本の官憲に捕えられて獄死したそうである。しかし、金さんは、韓国人を愛してくれた人を粗末にはできないとの思いから慶州ナザレ園を設立された。日本に対して想像を絶する憎しみを抱いたであろう金さんが、寛容と勇気をもって憎しみの連鎖を断ち切った行動には感服したが、同時に強い罪悪感を感じずにはいられなかった。

 現園長の宗美虎さんによれば、今までに約三〇名を帰国させ、間接的な援助も含めると一〇〇名以上の帰国を手助けしたが、日本の戸籍が失われているなどの理由により帰国の手続は困難を極めたとのことである。もっとも、現在は皆さん高齢になり、帰国を望む方はいないそうである。

 慶州の田園の中で静謐な日々を送る日本人妻の方々と話しながら感じた無力感と罪悪感を少しでも払拭しようと、団通信を通じて皆さまにご紹介する次第である。


*書評*

仲山忠克外編 「憲法と沖縄を問う」(法律文化社)を読んで

大阪支部  西     晃

 憲法規範と安保体制、この相矛盾する二つの法体系の軋轢・矛盾がもっとも明確な形で表れている地域の一つが沖縄です。そこで生起する様々な諸問題から憲法を見てみる、それと同時に憲法の視点から沖縄で起こっている問題を考える。この双方向的な分析により問題の本質を浮き彫りにし、そして解決の方向性を探るというのがこの本の狙いです(はしがきより)。

 取り上げられている問題点も、「米軍基地問題」(第二〜四章)に重点が置かれていることはある意味当然としても、それ以外にも「自然環境保護」(第五章)「平等・家族」(第六章)「内心の自由と沖縄靖国訴訟」(第七章)「集団自死を巡る歴史教科書検定問題」(第八章)「防衛情報と知る権利」(第九章)「沖縄における生存権」(第一〇章)「沖縄における学問の自由・大学自治等の問題」(第一一章)「沖縄の雇用・失業問題」(第一二章)「沖縄と地方自治」(第一三〜一四章)「国家主権と人権」(第一五章)等々、様々な観点から沖縄と憲法を交錯させ論じています。

 個々の論考の内容も、問題の所在と本質が大変わかりやすく書かれており、法学部の学生や広く一般市民の方にも気軽に読んでもらえるものとなっています。だからといって平板で陳腐な内容では決してなく、最新の情報に基づく高い水準の議論が展開されています。執筆陣は沖縄県内の大学教員(元を含む)とともに、法律実務家として我が団員が多く関与しています。編者の一人として仲山忠克団員、そして新垣勉団員、加藤裕団員、上原智子団員という陣容で、私がいつも沖縄で共にたたかい、また交流のある団員が名を連ねており、大変嬉しいところです。

 本書は、研究者の論考を含め実践の書です。沖縄で日々発生し続ける諸問題を単に論評するのではなく、沖縄の目線で見て、そして憲法の視点から見て、あるべき回答はどこにあるのか、これを真剣に考え抜く。その観点が貫かれています。本文中に一一のコラムがありますが、それぞれに様々なエピソードがちりばめられ、非常に興味深いです。一九九六年職務執行命令訴訟最高裁大法廷判決後の「鳴りやまぬ最低裁コール」、「沖縄国体と日の丸焼却事件」、「全国初!生活保護における仮の義務付判決」、「琉大事件とその後の名誉回復問題」「子どもの学習権とアメラジアン問題」等々、コラムを拾い読みするだけも興味深いものがあります。

 鳩山(元)総理の置きみやげとなった普天間基地移設に関する「日米合意」、これが今後どう推移するか予断を許さない情勢です。私は再び(三度か?)団の総力を結集するべき場面が近いと思っています。そんな情勢下、ベテラン・中堅団員はもとより、若手の団員の皆さんに是非とも読んで頂きたい一冊です。「憲法と沖縄を問う」を心より推薦いたします。


東中光雄・関西合同法律事務所編著

「特攻隊から共産党代議士へ 東中光雄という生き方」の紹介

大阪支部  石 川 元 也

 今日、七月二三日は、東中光雄さんの満八六歳の誕生日である。

ひところ、「生き様」という言葉がはやったように思う。この言葉には、生きる勇気を与えるような生き方、人を幸せにするような生き方というような意味も込められているのだろうか、ただ、その語感があまりよくなく、余り使われなくなったようだ。この本の「東中光雄という生き方」という題名の付け方には、そんな思いも込められているのではなかろうか、と推測する。

 今年は、三〇年余努めた代議士を引退して一〇年になる。それを期して、その生い立ちから今日までの生き方を記すことにした、という。

 さて、一九二四年(大正一三年)七月二三日、東中さんは奈良県の尼ヶ辻でうまれた。尼ヶ辻は、薬師寺(名管長といわれた高田好胤さんとの交流も)の所在地として知られる。軍国少年は、中学五年生当時の一九四一年一二月(大戦勃発の直前)、海軍兵学校に入校した。敗色濃厚の中、繰り上げ卒業で、一九四四年九月、海軍少尉。翌四五年三月には海軍中尉、七月には、特攻機二四機の隊長として出撃命令を待つ間に終戦を迎え、生還できた。この間の幾つかのエピソードは、選挙の応援演説で、私も話したこともあるが、今回初めて知ることが多い。

 敗戦後五日目には、自宅に帰り、この敗戦をどう受け止めるべきか苦悩した。この時期に、「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「プレスコード」「日本占領共同政策」など英文を含め全文筆記したというからただ者ではない。

 その中で、翌一九四六年四月には、同志社大学政経学部政治学科に入学し、憲法学者・田畑忍学長の教えを受けることになる。その後の人生にとって大きな意義を持った。司法試験受験にさいしての助言、激励も田畑先生らしくおもしろい。田畑先生には、私も関西憲法懇話会などで親しくしていただき、その後東中さんが参議院に立候補して以来、先生の自宅へ伺っては、推薦の署名をいただいて来るのが私の役割になった。晩年の先生は、東中君と土井たか子君に日本の政治の革新を期待してきたが、土井君は私の反対にもかかわらず、衆議院議長などなってだめになってしまった、あとは東中君に期待するのみだ、と述懐しておられた。

 一九五一年、修習三期で、弁護士となり、当時衆議院議員であった加藤充さんの事務所の「城代家老」となった。まだ占領下だった。朝鮮戦争における米軍の蛮行を批判した「朝鮮情報」紙が占領目的阻害だとして、軍事裁判にかけられた。東中さんは、ポツダム宣言を引用しつつ、かつ、在朝鮮の国連軍と日本占領軍とは違うと弁論を展開した。閉廷後、東中さんは憲兵に拘束され、裁判長から「君は弁論の中で言ってはいけないことを言った。今後軍事裁判での弁護活動は許さない」と弁護権を剥奪された。こんな活動の中で、東京からきた岡林辰雄さんに勧められて日本共産党に入党したというのである。三年後の一九五四年、東中法律事務所を創設する。折から高揚してきた労働運動などに応えるためであった。

 そして、一九五七年、私・石川が、五八年、小牧英夫(現兵庫県)、五九年、宇賀神直(元団長)、荒木宏(衆院議院二期、死亡)などが参加し、関西における一拠点事務所へと発展していく。東中さんが持論としていた「社会的正当性を法的正当性に高める」は、事務所全員で受け継ぎ、事務所綱領などにも明文化した。一九七四年、関西合同法律事務所に改める。ここには書かれていないが、事務所OBから五人の日弁連副会長、そして団長二人が出たということも紹介してよいだろう。

 参議院地方区の候補者を三回やって、一九六九年一二月、衆議院議員に当選し、以後、三〇年余り、共産党議員団の中心の一人として奮闘した。

 最後に、東中さんの近況を紹介する。本年五月二〇日、大阪大学付属病院、心臓血管外科で、大動脈弁の取り換え手術をうけられた、何でも、厚生労働省の治験第一号患者という新しい手術だそうだ。経過良好で、事務所にも出ておられる。今日は誕生祝いをしておられることだろう。

 数少なくなった団の長老のお一人、長寿と健康を祈っている。

【本の注文】 関西合同法律事務所まで
         FAX 〇三―六三六五―五二二三


釣り竿と憲法(二)

東京支部  中 野 直 樹

岩魚庵の朝まだきの音

 在りし日の大森鋼三郎さん、明け方のイビキが収まったかと思うと突然「おしっこにいく」と大声で宣言し、板の間をどたどたと踏みならしてトイレに向かう。復路の騒々しい音が止んだ途端に、すかさずごうごうというイビキがうなり出すことが日常だった。この音が永久に消えた。

 岡村さんは前夜どれほど深酒をしようとも五時過ぎには台所に立ち、包丁がまな板をたたく音が響いてくる。六時半頃には八人分の朝食が食卓に並び、皆でいただきます。ここは変わらぬ風景。

 昨日開所した「渓流文庫」の管理方法、次の「渓流九条の会」の集いを木曽福島で開催し、日本の林業の再生を考える学習会とすることなどが確認され、再会を約束して散会となった。

渓流界のナベさんに誘われて

 世間では、渡辺姓の男性が、「ナベ・・」と呼称されていることが多い。「渓流九条の会」の事務局を引き受ける渡辺政成さんもその一人である。ナベさんは、埼玉土建の支部専従者を生業の本業としながら、地域労連の事務局長として労働運動を担う。人生のもうひとつの本業としてイワナ釣りの遊びに傾倒し、埼玉県人を中心とする渓流釣り団体「根がかりクラブ」を会長として一〇年ほどまとめてきた。フットワーク軽やかで、世話好きな、まとめ役にぴったりの人物だ。

 ナベさんから、昨日の宴会の御膳に出たイワナとキノコを採りにいきませんかと誘われて、車に同乗させてもらった。雪の下に出るキノコを採りたいという夫婦が後続の車となった。

 ナベさんは話題豊富だ。埼玉土建を定年退職したあと、埼玉憲法会議の専従事務局となっており、埼玉の団員の名前が次々と登場する。全国の自然保護団体と交流し、渓流サユリスト連合代表なる怪しげな自称もあり、大人の休日倶楽部で素敵な笑顔をむける吉永小百合さんのポスターの蒐集家だともいう。

早春の幸に歓喜

 車は花巻温泉から山道に入り、豊沢川沿いの道を登る。雪解けのぬかるみ、崩れ落ちた岩の割れ石の障害、狭い道での山菜採りの車とのかろうじてのすれ違いなど、しばらく運転を注視していると、ナベさんは、ここから一〇分ほど歩きますと言って、車を止めた。素早く釣り装束となった。

 残雪と枯れ葉のつもる道に、陽光が芽吹き前の梢の影を落とす。白やうす紫の一輪草やすみれがやさしい色彩を与える。ナベさんがここですと指した朽ちた倒木に、黄褐色のキノコがびっしり生えており、皆から喚声があがった。キノコといえば秋との先入観があるが、これは別名ユキノシタのとおり、雪の下で育ち春を待つ種。傘がナメコのようだが似て非なるもの。鍋料理などにおなじみのエノキ(ナメタケ)の自然の姿だそうだ。このキノコは茎が発達することに着目され、暗室栽培で、もやし状に育てて日常的な食材とされている。自然のエノキともやし状のエノキはおよそ連想し合える形状ではないが、昨日のナメコのような味を思い出しながら、袋を取り出して夢中で採取した。

 キノコ組とはここで別れることになり、釣り師であるナベさんと私は、一時間の釣りと決めて、竿を出した。キノコ組がイワナの釣り上がるところを納めようとカメラをかまえる。こんなときは格好良く釣り上げようと心がはやるが、現実には主のイワナ次第である。一投め、ブドウ虫がむなしく流れる、一つ上のポイントでも当たりがない。キノコ組もあきらめ顔でカメラをしまおうとする姿が目の端に映ったときに、三つ目のポイントの白濁した流れの底で仕掛けに手応え。きた、きたと興奮しながら、右手に慎重に、あせるなと声をかけ、息をつめて、エイと合わせたところ、黒く錆の残るイワナが勢いよく水面を跳ね、宙に舞った。笑顔をキノコ組に向け、得意げの被写体となった。

 昨日この渓で一〇数尾のイワナをあげたナベさんの釣りのスタンスの取り方、仕掛けを投ずるポイントを観察しながら、わが竿にかかるイワナを大事に取り込む。自然の山葵の群落があった。白い花を咲かせた山葵をワサビ根から採取し、清らかに流れる瀬で泥を洗いながら、茎を噛んだ。五官が研ぎ澄まされる春の旬であった。


亡国の司法―単独親権・DV防止法・人身保護請求

東京支部  後 藤 富 士 子

一 「子の拉致事件」に変貌する離婚紛争

 ある日突然、わが子が配偶者に拉致され、行方さえ分からない。行方が分かっている場合でも、会うことができない。ありふれた離婚事件なのに、「子の拉致事件」になっている。これが、北朝鮮ではなく、日本の現実である。

 このような理不尽な目にあわせられて、善良な親は、うつ病になり、自殺する者もいる。苦悩煩悶する親を見ると、どのような理由があれ、夫婦の一方が他方の「親としての存在」を否定・抹殺するなんて、このうえない暴虐・迫害で「不法行為」というほかない。ところが、司法の世界では、これが通じない。配偶者に対する親権侵害とも、親権の濫用とも看做されないから、自力救済する以外に、拉致された子を取り戻すことも、会うこともできない。それなのに、自力救済すれば、略取誘拐罪で弾圧されたりする。

 一方、子を置き去りにした妻が、居所を秘匿したまま「監護者指定・子の引渡し」の審判・保全処分を求めると、それが認容され、子の引渡しの強制執行が行われる。その強制執行は、「未成年者目録」に特定された「家畜」の「捕獲」「拉致」さながらである。そして、執行不能になると、「最後の手段」と称して人身保護請求がされ、「拘束者」たる親は、勾引、勾留の脅しにさらされる。

離婚後の「単独親権」制は、親権喪失事由がないのに、裁判官が片方の親から親権を剥奪できるということ。これ自体、不正義というほかないが、離婚成立前は共同親権なのだから、さらに酷いことである。

二 「DV防止法」――子の拉致・隠匿を権力が「援助」

 裁判所に「DV保護命令」を申立てるのは、必ずしもDVの被害が深刻だからではない。むしろ、深刻な被害を受けている「真正被害者」は、保護命令の申し立てができないことも想像に難くない。保護命令申立がされるケースで多いのは、離婚を有利に運ぶための便法と思われる。

【ケースA】では、夫婦の共有不動産(自宅)から夫を追い出そうとして、妻が子どもを連れて家出し、居所不明のまま、DV保護命令申立をした。居所が不明であるから「接近禁止」など無意味であり、真の狙いは「退去命令」にあった。しかし、「退去命令」は「明渡命令」ではなく、妻が自分の荷物を搬出するために一時的に夫に退去を命じるものである。そこで、夫は、妻の荷物を梱包して、妻の職場に連絡して引き取りを要請したところ、妻は、怒り狂って自宅に警察官と乗り込んできた。結局、夫は、荷物を倉庫に預託し、その旨妻に連絡した。一審も妻の申立を却下したが、抗告審では、妻を「DV防止法一〇条一項にいう被害者には当らず」、申立を認める余地はないと決定した。それにもかかわらず、二年経過する現在まで、妻は住民票を残したままで、夫は子どもに会うこともできないのである。

【ケースB】では、妻がDV被害者支援団体の指南を受けて周到に準備したうえ、子どもを連れて失踪した。朝、夫婦で談笑したのに、夜、夫が帰宅すると「もぬけの殻」であった。夫名義の預金も全部持ち出されている。そして、妻代理人弁護士から通知が来て、離婚と婚姻費用分担の調停申立がされた。偶然、妻の居所が分かったので、四ヶ月後に夫と弁護士とで妻の居所に子どもに会いに行ったが、子どもに会わせてもらえず、夫に対して保護命令申立て、弁護士に対して懲戒請求がされた。保護命令申立は一審で却下され、抗告、特別抗告でも変更されなかったが、診断書により「暴力があった」と認定されたことが禍根となった。離婚訴訟手続で、カルテ・検査結果など資料一式の送付嘱託申立をし、妻側から任意に提出されたところ、虚偽の診断書であることが判明した。また、妻が、保護命令申立事件の審尋で治療内容について嘘を述べていることも明らかになった。

 ことほど左様に、DV保護命令の手続自体、適正手続を保障した憲法三一条に反するもので、あっという間に「保護命令」が出されてしまう。それは、「配偶者間」という気易さと、命令の効力が六ヶ月ということもあるのだろう。六ヶ月後に再度の申立がされて、初回から却下されるべきであったとわかる「却下決定」がされたケースもある。

 ところで、「DV防止法」の本当の害悪は、平成一六年の改正で「援助」の規定が盛り込まれたことである。それは、「子どもを連れて夫の知らないところに引っ越す際に、警察に対して、夫が捜索願を出してきても受理しないでほしい」という「捜索不受理届」がされると、夫は妻子の行方を知ることができなくなる。しかも、妻が「DV被害者」と自己申告しさえすれば、その他に何の要件も必要としない。これでは、「DV冤罪被害者」が世に溢れるのは当然である。ちなみに、平成二〇年の警察への「相談」は二万五〇〇〇件、裁判所への保護命令申立は三〇〇〇件。かように、保護命令の申立などしなくても、妻は目的を達するのである。換言すると、DV防止法の運用実態は、家庭破壊を教唆したうえ、子の拉致・隠匿を権力的に援助するものとなっている。

三 人身保護請求――誘拐犯よりも迫害される「親」

 平成一九年一二月、妻が「DV被害」を装って、子を夫に託す置手紙を残して単身家出した。その後、気が変わって、子の親権を主張し、「監護者指定・引渡し」の家事審判・保全処分を申立てた。裁判所は、「DV」ということに気を取られたのであろう、いずれも認容する決定をし、保全執行がされたが、子が嫌がったため、執行不能になった。すると、本案審判が確定しているのに、人身保護請求をしたのである。「請求者」である母は、「本案強制執行は子どもを傷つけるから・・」というのである。しかし、これは「拘束者」である父に勾留の脅しをかけて、嫌がる子どもを差し出させることには平然としているのだから、人倫にもとるし、人間性に対する冒涜というほかない。

 ところが、裁判所は、人身保護命令を発し、被拘束者が出頭していないのに第一回審問期日を行い、第二回審問期日には勾引状を発したうえ、認容の判決をしている。

 このケースでは、そもそも妻が子どもを残して家出したのだから、人身保護法にいう「拘束」の事実が存在しない。家事審判で妻が監護者と指定され、夫に子の引渡しを命じたことで夫の監護が違法となるにしても「拘束」が生じるものではない。また、請求の要件である「他に適当な方法がない」という点でも、本案審判の強制執行ができるのだから、要件を充足しない。したがって、人身保護命令を発する要件に欠けている。

 さらに酷いことに、弁護士会の推薦で選任された子どもの国選代理人は、「被拘束者不出頭のまま審問期日を開いても不利益はないから異議がない」と述べている。そうであっても、法律上、第一回審問期日を開くことはできず、「延期」しなければならないのに、裁判官たちは無知なために開いたのである。人身保護法の第一回審問期日は、刑事手続の「勾留理由開示公判」に擬せられるもので、憲法三四条後段に基づくものなのだ。

 しかるに、父母間の「子の身柄奪取」の手段として、家事審判と連動する形で運用されている。親権喪失事由のない親が、どうして国家権力からこれ程の迫害をうけなければならないのか。誘拐犯でさえ、適正手続保障を受けたうえ、刑罰は懲役七年以下である。結局、親権喪失事由のない親から離婚時に親権を剥奪する単独親権制に根本原因があると思われる。

四 「親権喪失宣告」を離婚で流用するな!

 「DV被害者」と称する妻は、それを理由に夫の親権者不適格を言い募る。しかし、それなら「親権喪失宣告」の申立てをしたらよかろう。DVをでっち上げて行方をくらまし、子どもを隠匿している妻が、申立てをするはずがないが、それは夫に親権喪失事由がないからである。

 また、人身保護請求をする配偶者も、他方配偶者に親権喪失事由がないことを熟知している。「監護者指定・引渡し」という、単独親権制を離婚前に準用した司法判断を錦の御旗にしているにすぎない。

 かように、離婚後単独親権制は、親権喪失事由のない親から親権を剥奪する不正義なものであり、それを活用する親こそ、親権濫用として、親権を喪失させるべきではなかろうか。そうすることによってのみ、「家庭に正義を、子どもに愛を」という家裁の存在意義を達成できると思われる。

(二〇一〇・七・二四)

(既に事務所HPにアップしたものを引用しました。)


戦後民主主義の体現者としての上田さん

―九・四「しのぶ会」へのお誘い―

東京支部  松 島   暁

 「上田誠吉さんをしのぶ会」が、九月四日(土)午後二時〜、学士会館(東京・神田錦町)で開かれる予定です。

 後藤昌次郎さんと共著で出された岩波新書の『誤った裁判』が上田さんとの最初の出会いという方も多いかと思います。上田さんが司法修習(二期)を終え弁護士登録をされたのが一九五〇年四月。前年の四九年に松川事件(列車転覆致死事件)、一九五一年には白鳥警部射殺事件、メーデー事件(騒擾罪)等々、戦後の民主主義運動や左翼運動に対する謀略的手段を使った刑事弾圧事件が多発する中で、弁護士登録をされました。刑事弾圧事件の弁護人として忙殺されることになります。

 上田さんの関わった事件は、松川・メーデー・白鳥といった刑事弾圧事件にとどまりません。危険海域への出向命令を拒否して解雇された千代田丸事件をはじめとする多くの労働事件(労働運動の記録として最も権威のある大原社会問題研究所編の『日本労働年鑑』の「労働協約」の項を修習生時代から長年にわたり執筆されています)、一大消費者運動として展開された鶴岡灯油訴訟や警察の違法盗聴を告発した緒方盗聴裁判等々、数々の事件に関わっています。

 一九九五年からの約一〇年、私は基地関連訴訟でたびたび沖縄に足を運びました。安保条約の違憲性や国連憲章への適合性の主張をまとめるために、公表・公刊されている憲法や国際法関連の論文・書籍を収集したことがありました。その際に、最も参考となったのは、憲法学者や国際法学者の近年の論文ではなく、上田さんの砂川事件最高裁弁論(一九五九年九月七日〜一八日)―「集団安全保障と軍事同盟」(前衛一六〇号)と「新安保条約は国連憲章に違反する」(前衛一六七号)でした。四〇年近くも前に書かれてものであるにもかかわらず、その水準の高さには、驚きの念を禁じざるをえませんでした。

 上田さんの追悼文集の編集をしながら思うことは、上田さんこそが、その行動を通し、平和・人権・民主という憲法的価値あるいは戦後民主主義という価値ないし運動を体現した人だったということです。人びととの絆を大事にし、常に民衆の立場に身を寄せながらその一生を全うされた人でした。

 上田さんを語るとき、その論理の明晰さや証人尋問での切れ味、弁論の秀逸さが指摘されます。同時に上田さんは「情」の人でもありました。追悼文集に寄せられた国民救援会の山田善二郎さんの次の一文はそのことを示しています。(九月四日発行予定のものですが、フライングであること承知でご紹介します。)

 「メーデー事件の控訴審の法廷での、次の情景はわたしの脳裏に深く刻まれています。弁護団の一人が力をこめて弁論をしていた時、被告団の一人笹川慶治さんがニタニタしながら法廷に入り、しばらくすると出て行ってしまいました。笹川さんは、この事件で逮捕されたのが原因で精神的変調を患うようになってしまい、被告団の事務局にも、ニタニタしながら出入りしていたのです。予定されていた弁護団の弁論が終了したその直後、『裁判長』と上田先生が立ち上がり、笹川さんのことについて述べはじめたのです。これは予定外のことでした。皇居前の広場で笹川さんを逮捕した警察官らは、身動きのできない笹川さんの両足をもって、広場から日比谷交差点を経て警視庁まで、物を引きずるようにして連行したのです。彼の頭は階段やでこぼこした路面にぶつけられ、そのために脳内に異常な後遺症が生じてしまったのでした。・・・・・・じっと裁判官席を見据えて、一つひとつ丁寧に言葉を選びながら、説き諭すようにことの経過とそれがもたらした深刻な実情について語る上田先生の両の眼には、光るものがありました。弁論が終わった時、笹川さんのこの奇異な行動に不快な心証を抱いたかもしれない荒川正三郎裁判長・谷口正孝・柳瀬隆次の二人の裁判官をはじめ、傍聴席を含めてだれ一人として座席から立つ人はなく、法廷はしばらくのあいだ沈黙の空気につつまれました。」

 常に法廷の隅々に目を配り、今この瞬間、この場において何が必要なのかを常に考え続けていなければ、「予定外」の訴えは生まれないと思われます。

 ヴァイツゼッカー大統領の有名な演説に「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目である」(荒野の四〇年)というものがあります。一般には戦争責任の文脈で引用されるのですか、私は、これを私たち民衆の側の問題として受けとめたと思います。上田さんたちの過去の運動と成果の系譜として私たちの現在があると思うのです。

 七月常幹(静岡)の懇親会の席上、「上田弁護士ってどういう人ですか」という声が若い次長さんから聞かれました。私たちにとっては既知の存在ではあっても、上田さんが第一線を退いて一〇年、上田さんを知らない団員がいても不思議がないのかもしれません。過去を知ることが現在を知ることに役立つはずだと思います。

 尚、荒井新二弁護士からは、

(1)団通信の案内を読んで参加するつもりなのだが、回答書を出し忘 れている、出したつもりになっている、

(2)団主催なので団員以外参加できないと思っている、

(3)知られていない、

(4)団の正式行事で堅苦しいに違いないと思っている

―の各点を指摘し、団員以外にも広く参加を呼びかけるように、チェロ演奏やスライド上映もあって優しく楽しい企画であることを、宣伝するように指示されていることを、申し添えておきます。