<<目次へ 団通信1354号(8月21日)
毛利 正道 | |
石川 元也 | 団通信を面白く、波紋広がる |
阪田 勝彦 | 横浜市教育委員会による教科書問題に関する不当介入事件について |
菅本 麻衣子 | 全労連・国民救援会・自由法曹団の 司法修習生に対する給与の支給継続を求める各界懇談会の感想 |
川本 美保 | 司法修習生の給費制維持を! 〜七月二八日各界懇談会の報告〜 |
神田 高 | 反戦と反貧困の詩人・山之口貘さん |
玉木 昌美 | 修復腎移植と林さんのこと |
笹山 尚人 | 夏の札幌、一日出張記。 〜みなさん、九月の札幌に来て下さいね!〜 |
折本 和司 | うた9CD♪ついに完成!! |
長野県支部 毛 利 正 道
「パーソナル社会」
日本を含む現代世界のほとんどの国では、企業が物・文化・エネルギーなどの「商品」をできるだけ多く売ることによって利益を上げることが、社会の重要不可欠な要素になっています。そこで、商品をできるだけ多く売るには、なるべく多くの人間から買ってもらう必要があります。究極は、すべての人間一人ひとりが、無数の商品を買って持っている状態です。現代日本は、その状態にどんどん近づいているように見えます。
例えば・・・
部屋です。昔はかなりの人間が数人で長屋などの一つの部屋に住んでいましたが、商品単位としての一つの家かアパート一区画に数人で住むが部屋は一人一部屋とは限らないという現在もまだ支配的な形態を通過しつつ、ワンルームマンションなど一人が一区画に居住する、ないし、普通の人が一人ないし二人でたくさんの部屋がある住居に住んでいるようになりました。
テレビは、五〇年前頃から商品として出始めましたが、始めの頃は、一家に一台でした。それが、今では一人一台にかなり近づいています。複数の部屋に一台ずつ置いて、観る人がTPOに応じて観ることも稀ではないかもしれません。
車もそうです。一人で数台保有している人も稀ではなくなりました。
電話もそうです。一家に固定電話一台の時代から、今では携帯の普及でほとんど一人一台になり、一人で複数持っている人も珍しくありません。
映画についても、昔は映像ソフトを個人が持っていることなどほとんど無く、みんな映画館で観たものですが、今では、ソフトを買うかレンタルするかして個人で観る人がかなりいます。
食べ物も、たくさん作ってそれを数人で食べるパターンから、近くにコンビニがあればもちろん、なくても弁当を運んできてもらって、あるいは家族がいる家でも孤食で、それぞれ一人で食べるようになりつつあります。
コンピューターも、昔は一企業に一台あれば良いほうでしたが、今では、一家に一台から、一人で一台ないし複数台になっています。
仕事(労働力)はどうでしょうか。ここに同様の視点で入れるべきかはともかく、昔は、一人の人が一生涯に携わる仕事は多くの場合一つでしたが、今ではそんなことは稀になり、同時に二〜四の仕事に携わっている人も珍しくありません。
このような「パーソナル社会」では、昔の社会に比べて、商品が種類・個数ともに爆発的に売れて、売れたことによる利益の総額も大きく伸びています。その総体がGDPに近いものとなり、経済成長の根幹となるわけでしょう。
他方、良く言われる一家四人の平均家庭単位で、五〇年前と現在の姿とを比べてみた場合、四人の生活にかかっている生活費の総額は、どうなっているのでしょうか。価格競争があるため爆発的と言えるかどうかはよく分かりませんが、大幅に増えていることは間違いないでしょう。例えば、一家四名の携帯電話料金の総額は、昔の固定電話一台のそれと比較にならないでしょう。
このような現代社会、とりわけここ日本では、次のような、問題とすべき特徴があるように見えます。
(1)人間一人当たりの生活費が高くなっているため、それに比例して収入も伸びないと、暮らしていけない人が増えて来ます。現在、このような人が増えていることには異論がないでしょう。
(2)企業が競って多くの商品を多くの人間に売ろうとするため、販売価格を下げようとします。そのため、人件費・原材料費などの経費を下げるため、国内でギリギリまで落としつつ、経費が低い外国(中国・東南アジアからついにはアフリカなど全地球規模で)で造るようになり、国内で多くの人が働く機会を失われています(例えば、街で旗めいている「のぼり旗」も、日本の印刷零細企業が中国の企業に製造を委託すると、従来と同質のものが七割も安く販売できるとのこと、国内の従業員が大幅に不要になることでしょう)。
(3)企業が、「我が亡き後に洪水は来たれ」という本質的姿勢で、安い経費と高い販売価格(=その差額としての高い利益)を世界的規模で追求するため、地球温暖化による環境破壊、水・食料危機とこれによる戦争発生、多種多様な新たな病原体の発生など、地球人類の生存条件が著しく脅かされています。
(4)他方で、個々人毎に商品を持っている状態であるため、その商品一つひとつに目をおいてみると、それを使っていない時間がかなり多いという「壮大な無駄」が生じています。通常は、ワンルームマンション、テレビ、車、パソコンなどほとんどの物について、だれもその商品を使っていない時間がたくさんあるのです。この面で、地球資源の浪費とも言えるのではないでしょうか。
(5)一人ひとりがバラバラになり、今では、小学校高学年頃以降の多くの人びとが一日中誰とも口を聞かなくとも暮らしていける社会にまでなっています。日本で、他の「先進国」に比べ、子どもから高齢者まですべての年代・階層で「孤立・無縁社会=非社会化」が著しく深まっているのは、人間関係が極めて濃かった一九四五年頃から現代までにあまりに短期間に資本主義化が進んだという特質があると思いますが、上記のような世界的規模での現代社会における「パーソナル化」が基底にあることは否定できないでしょう。
私自身も享受している「パーソナル社会」の居心地のよさを全否定するわけにはいきませんが、現代日本は、「パーソナル社会」における上記のようなマイナス面が一挙に顕在化している由々しき事態にあると言えるように思えます。とすれば、顕在化している個々の問題点に対する対策(例えば、(1)については社会保障、(2)については派遣禁止法、(3)についてはグローバル化に対する規制・課税、(4)についてはルームシェアなど共同使用、(5)については自殺対策等)も対症療法としては必要ですが、その根底にある「パーソナル社会」自体に大きなメスを入れ、根本的対策を立て実行していく必要があるのではないでしょうか。その根本的対策とは、人間のすべての生活部面において、「つながり社会」を築いてゆくことだと思うのです。個々人の人格・人権の尊重という前提は決して侵すことなく。
私のイメージする「つながり社会」の到達点とは、例えば・・・
アパート:ワンルームでは各戸に大きな費用が掛かる水回りが付くため、賃料は安くならない。一人用三畳部屋三つと共用部屋・水回りを持つ、三人用一賃貸区画を持つアパートを建設する。そうすれば家賃が下げられる。行政が必要な財政的・精神的・広報での支援をする(この点は、以下同じ)。
一〜二人だけが住む住宅:空いている部屋を第三者に賃貸する。必要なら改造する。
知人同士がグループホームを保有したり、賃借したりする。
一般住宅:ご近所数軒が集える部屋を備える住宅を増やす。
車:保有している人から空いている日時に有償で借り上げ、車を必要としている人に有償で貸与する事業を行政か民間が行う。また、必要な人がレンタルする場合、三名以上で一緒に借りる時にはレンタル料を安くする。三名以上で共同で購入する場合に支援する。
旅行:三名以上でツアーするときには、費用が安くなる。
その他:いろいろな商品(ソフトなものも含む)についても、三名が一緒に買ったり借りたりする場合に、安くなるようにする。今も、高校生三人で映画を観ると大幅割引になる仕組みが一部にあります。
仕事:北欧のように、ほとんどの人が午後五時には仕事を終えている。現在、過労死しそうになりながら行っている仕事をワークシェアリングすればできる。
アフターファイブ:社会構成員ほとんど全ての手が空き、文化・スポーツなどいろいろな場に、老若男女が多種多様に集い合っている。
家庭菜園:全国各地でもっと普及させ、三名で一緒に借りる場合はより優遇する。
三名で起業:今、新人弁護士の就職先がないと問題になっていますが、私からみるに、新人三名が一緒に始めから地方都市のアパートの一室で開業すれば、互いに相談できる、依頼者に対して謙虚になる、経費節減になる一方必要な文献は充実できる、等の利点から、十分やっていけると思っています。弁護士に限らず、「一人親方」が典型であった士師業の多くに当てはまるのではないでしょうか。
このほか:各人が、自分の関係する分野で以上のような発想を生かすとするとどのようなになるのか、そのためにはどのような政策的支援が必要なのか、周りの人々と考え合ってみていただけませんか。
ところで、このような「つながり社会」だと、(ソフトを含む広義の)商品の売れ行きが落ちて、経済不況に陥ってしまうのではないか、との不安が出てきますよね。この点は、経済研究者の助けが必要だと思っています。ただ、こういうことは思います。
(1)国民所得向上のために経済成長をめざすと、どうしても「パーソナル社会」になりがちであり、それでは地球人類の破滅になってしまうでしょうからある程度の摂生(せっせい)は不可欠です。「この程度の(高くない)国民一人当たり所得であっても十分幸せに暮らせる」、そのようにすべての国民が思える社会が目指されるべきではないでしょうか。
(2)大金持ちと財界から溜め込み利益を吐き出させて、軍事費も削り、国民すべての生活レベルを実質的平等に接近させることはむろん必要ですが、その政策だけでは国民が将来とこれを実現する世直しムーブメントに夢・希望を抱くことは困難なように思います。
(3)「環境破壊と貧困・孤立のパーソナル社会」から、「地球人類が共生できるつながり社会」に、とのキャッチコピーなら、環境破壊・貧困・孤立・無縁社会を憂う、日本と世界の人びとに希望と力を与えてくれそうな気がするのは、私だけでしょうか。
大阪支部 石 川 元 也
団通信七月二一日号に掲載された「団通信を面白く」との投稿は、さいわいにして多くの団員及び団員外の読者の目にとまったらしい。団通信がよく読まれているという例証であればうれしいことだ。
まずは、憲法学者の浦田賢治さんからの手紙が、団通信の配達と同じ日に届いた。東京への配達は一日早く、見てすぐに発信したのであろう。
“「無償提供」されている一人だが、よく読んでいる。上田誠吉氏の偲ぶ会の企画も、団通信で知り、「偲い出の記」も書き送った。前には、小林武教授の寄稿もあったし、交流の場が広がればよいが。”とお叱りを受けた。
その翌日には、山梨支部、甲府合同法律事務所の加藤啓二さんからのFAXが届く。“「人権のために」は、一九五〇年代で終わったのでなく、一六号が一九七二年八月、一七号が一九七三年五月、一八号が一九七四年一二月に発行されている”というご指摘である。更に、一九七六年五月に一九号もだされていることもわかった。 私が幹事長になる五ヶ月前だ。あやふやな記憶で書いたことをお詫びし、訂正させていただく。
また同じ日、福岡支部の永尾廣久さんからも賛意を表しながら、団報もさることながら、まずは、団通信の速報性の充実をという意見であった。
投じた一石の波紋の広がりを見る思いである。
神奈川支部 阪 田 勝 彦
一 答申無視の教科書採択
横浜市における教科書採択は以下のような手続きになっている。まず、条例上、教科書取扱審議会という諮問機関が調査委員などを用いて調査し、対象教科書の評価を答申する。その答申を受け、市教育委員会が教科書採択を行うという仕組みになっている。
二〇〇一年度までは、諮問機関の調査段階で、学校票という意見を出すことができ、現場の声を教科書採択に反映させることができていたが、条例の改訂によってこの制度は廃止されてしまった。二〇〇五年度教科書採択では、六名の教育委員のうち、前横浜市長中田宏から肝入りで任命された今田忠彦委員だけが「つくる会教科書」に票を投じたが、残り五名の教育委員は票を投じず、つくる会教科書の採択は見送られた。
しかし、この結果を受けて、前中田市長は、今田委員以外の教育委員を全員入れ替え、今田委員を教育委員長に任命する。そして迎えた二〇〇九年度教科書採択において、この教育委員会は暴挙に出る。即ち、採択の前の諮問である教科書取扱審議会においては、最低評価だった自由社版教科書(六つある推薦項目のうち、全一八区で自由社版は九区でわずか一項目の推薦を受けるにとどまった。残り九区では評価ゼロ)を一八行政区のうち八区(港南区、港北区、青葉区、都筑区、金沢区、緑区、瀬谷区、旭区)で採択したのである。諮問機関の答申を完全に無視した異常な採択であった。
二 教組への攻撃
横浜市教職員組合(浜教組)は、自由社版の中学校歴史教科書が採択されたことを受けて、「教員の指導上の戸惑い払拭し、子どもたちの学びを保障する観点から」、組合員有志および専門の研究者の協力を得て他の教科書との比較研究を主な内容とする「中学校歴史資料集」を作成し、二〇一〇年四月一日付浜教祖教文ニュースNO・一七九号として組合員に配布した。
これに対し、市教委は二〇一〇年四月二八日付で各校長宛の「通知」を発し、かつ浜教組に対し「警告」書を交付した。
「通知」は、「資料集」の内容に「採択された教科書以外の資料のみを用いて授業を展開していく例」が掲載されていることをとらえ、そのような授業展開は教科書使用義務に違反するとして、各校長に通知し、「資料集を作成し教員に配布した行為は、法令に違反する行為をあおり、教職員に対する市民からの信頼を傷つけるおそれがあり看過できない」として、「一.今後、このような文書を教員に配布しないこと。二.学校ポストについては、今後、職員団体活動に使用しないこと」の二点を浜教組に対し要求した。
三 浜教組・自由法曹団神奈川支部の対応
(1)前述のように、二〇〇九年度教科書採択は、諮問機関の答申を完全に無視しており(答申で評価ゼロであった金沢区・緑区で採択している)、これは群馬中央バス事件上告審が示した審議会答申尊重義務(原則として答申に従い、これに反した行政処分を行う際には特段の合理的理由を要する)に違反する疑いが濃厚である。
(2)このような教科書を子ども達が使用しなければならないことから、その不十分な点を補うべく、浜教組は前組合員に資料集を配布したのであるが、その資料集の記載上、教科書を全く使用しないよう促す記載はなかった。
また、資料集は、組合ニュースの形で配布されており、組合誌配布について、当局がこれを禁止するのは、法定の職員団体である浜教組への不当介入となるものであった。
(3)そこで、団神奈川支部としては、上記採択(ここまで含めるかは未だ議論があるが)と通知・警告の誤りを法的に追求し、市教委に対し、通知警告の撤回を求め、各学校長にもこれを周知させるべく、自由法曹団神奈川支部、青年法律家協会神奈川支部、神奈川労働弁護団、社会文化法律センター神奈川支部の法律家四団体で声明及び意見書を作成することとした。
(4)現在、横浜市では、一八区あった採択区が、一区に統合され、現在の教育委員のもとで教科書採択が続けられると、市民や学校現場の意図に反して、横浜市全体で、つくる会教科書が蔓延してゆくおそれがある。また、この動きは他県にも拡大してゆく恐れも高い。今、ここで食い止める必要がある。
東京支部 菅 本 麻 衣 子
司法修習生に対する給費制を維持する運動については、団内で議論がありましたが、やはり市民の皆様に知られていないのではないかということになりました。そこで、七月二八日、自由法曹団と関係のある諸団体の皆様に、ご理解いただこうと言うことで各界懇談会を開催することとなりました。
最初に市民連絡会の清水鳩子代表幹事のご挨拶、金子日弁連副会長の活動紹介、菊池団長の発言がありましたが、やはり心を打ったのは、法科大学院生と、市民の皆様のご発言でした。
現役法科大学院生の方は、自らが一〇〇〇万円以上の負債を抱えていることを話してくださいました。自らの負債の金額を公の場で話すことは、多重債務被害などをみていても、やはり勇気のいることだと思います。しかも一〇〇〇万円以上なのです。それを若い法科大学院生がやってくれたことはすごいことだと思っています。
そして「米軍の思いやり予算は司法修習生に対する予算の三〇倍もある。国は米軍に対して修習生の三〇倍思いやりがある」との発言に会場はどっと沸きました。
年金者組合の方は「この運動は広く支持されるのではないか。」「司法修習生に対する貸与制は、お金がないと何かができない、ということの一つだと思う」と力強いご支援のメッセージをくださいました。
布川事件の杉山さんからは「裁判官は馬鹿ばっかりだ。でも金持ちしか裁判官になれなくなったら今より馬鹿な裁判官が出てくると思っています」と率直なご意見が出されました。
派遣切りの当事者の鈴木さんからは、今回の話を聞いて一〇〇〇万背負っている人に僕らは助けられているんだなと思いました、僕よりも若い人がお金がなくて弁護士をやれないのはとても心苦しいとメッセージをいただきました。
アスベスト原告団長の宮島さんからも、弁護団の先生方には大変なご迷惑をおかけしています、大変だと感じています、何年もかかる裁判では何年も無報酬であり、このような裁判を手がける弁護士が減ってしまうのではとお話くださいました。
急遽共産党参議院議員の井上哲士先生がいらっしゃって「二〇〇四年成立の貸与制は間違いというより当時予想できなかったことが起こっていると議員を説得すべき。受益者負担を乗り越えよう」と力強いメッセージをいただいたことはとてもうれしかったです。共産党の先生方は二〇〇四年当時から貸与制の問題点を考えて貸与制に反対してくださっていましたが、これを全体的な運動に盛り上げていくことも考えてくださっていて、とても心強く思いました。
正直なところ、懇談会開催まで、市民の皆様に給費制維持を本当に支持してもらえるか、懇談会に各団体の方が来てくださるのか、ちょっと不安なところがありました。しかし、思っていたより力強いメッセージをたくさんの方からいただいて、むしろこちらがしっかり運動をしなければならないとの思いを強くしました。また、労働問題などの様々な問題で戦っていらっしゃる方々からは自分たちも生活が苦しいのだから弁護士の生活が苦しくて当たり前と思われないか心配だったのですが、逆に心苦しいとか弁護士を気遣うメッセージをいただいて、こちらも期待に応える仕事をしなければならないと考えさせられました。
また、私個人としては、この運動は受益者負担を乗り越える運動の一環であると考えており、今度は法科大学院含めた高等教育における多額の貸与奨学金の問題も改善しなければならないのではないかと思っております。
司法修習生に対する給費制維持に対しては、市民の支持はかなり得られていると思います。いろいろなところで給費制維持の話をすると、給費制維持が市民に幅広く受け入れられていることを実感します。市民の理解が得られないなんて怖がる必要はありません。
団員の皆様におかれましては、今後とも司法修習生に対する給費制維持に向けての運動に各地でご参加くださいますようお願いします。
神奈川支部 川 本 美 保
去る七月二八日、自由法曹団、全国労働組合総連合会、国民救援会の共催で「司法修習生の給与の支給継続を求める各界懇談会」が開催された。司法修習生の給費制問題については、過去にも何度か団通信に掲載されているので、本稿は、各界懇談会の報告にとどめる。
当日は、懇談会としては異例の八〇名を超える参加者があり、給費制問題に対する関心の高さが窺われた。また、自分たちの窮状を市民のみなさんに訴えようと、仙台の法科大学院生や大阪の若手弁護士らビギナーズ・ネット(※)のメンバーも全国から集まり、会場は熱気に溢れていた。
まず、全労連の小田川事務局長の挨拶から始まると、続いて、司法修習生に対する給与の支給継続を求める市民連絡会の清水鳩子代表が給費制の廃止が市民に与える影響などについて市民の目線で語ってくださった。
次に、日弁連の金子副会長から、給費制存続のための日弁連の活動について説明がされた。その中で、この運動の特徴は若手と地方が積極的に動いていることにあるとのことだったが、この各界懇談会の参加者を見ても、そのとおりだと思った。とにかく、若い参加者が多かったのだ。また、給費制の問題を取り上げた新聞記事の数は、四月にはわずか四件だったのが、七月になると毎日のように全国各地で掲載されているとのこと。新聞記事数の急激な増加ぶりは、給費制維持活動の拡がりを実感させてくれた。
そして、菊池団長からは、弁護士の特権や弁護士自治は、弁護士自身のためにあるのではなく、市民の人権を守るために国家権力と対峙する必要があるから、国家権力の統制を受けないという趣旨で認められたものだ、というお話を伺った。ともすると、給費制廃止問題は、受益者負担論で片付けられそうになる。しかしそれは、弁護士の仕事の経済的側面しか見ていないのではないか。弁護士には、市民の権利の最後の担い手として公益的な役割があるからこそ、市民が弁護士を監視すべきだし、弱者に共感できる弁護士を市民が育て上げる必要があるのだ。給費制問題は、弁護士に対して、国家権力と闘う公益的存在としての自覚があるかを問うているような気がした。
その後、当事者である法科大学院生、修了生と若手弁護士らの訴えが続いた。とくに、すでに数百万円の奨学金を借りている当事者の話は切実で、このまま貸与制に移行したら恐ろしい事態が生じるのは間違いない、と感じさせる迫力があった。
さらに、各界を代表して、首都圏建設アスベスト訴訟の宮島氏、布川事件の杉山氏、民医連の谷川氏、東京生存権訴訟の八木氏、井上哲士参議院議員らから給費制維持の必要性が訴えられた。多方面からのご支援を有り難く思うとともに、当事者や関係者である我々が活動を引っ張っていかなければならない、との気持ちを新たにした。
どれだけ語っても参加者の熱い思いは止まることを知らず、終了予定時間を大幅に過ぎてようやく、国民救援会の瑞慶覧事務局長から今後の行動のお願いがあり、鷲見幹事長の挨拶で締めくくられた。最後まで熱く盛り上がった懇談会は、若手と中堅・ベテラン勢が一致団結すれば、給費制の維持は必ず実現できると感じさせる爽快なものであった。
※ 給費制維持を求める法科大学院生、修了生、修習生、若手法律家による任意団体
東京支部 神 田 高
その一・反貧困
「座蒲団」
土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ
貘さんは、明治三六年(一九〇三年)沖縄県那覇で生まれた。県立一中では、「方言札」(方言を口にすると罰札を渡され、操行点一点減点を回避するため外の方言使用者を見つけ罰札を押しつける)に抵抗し、「意識的にウチナーグチを使ったりして左右のポケットに罰札を集め、それを便所の中へ棄てたり」していた。大正一一年(一九二二年)上京し美術学校に一か月籍をおく。徴兵検査を受けた後詩稿をもって再度上京するが、定職なく、夜は土管にもぐり、駅のベンチなどの仮住まい生活で、一六年間畳の上で寝たことはなかった。放浪生活の中で詩を書き続け、佐藤春夫らの支援もえるが、生涯貧乏生活を続け、昭和三八年(一九六三年)五九歳で没す。
昭和三三年(一九五八年)仲間らの支援をえて、沖縄に帰る。しかし、貘さんを産み出した「沖縄は、ぼろぼろだ。もう、昔の面影は、全くない。」ものとなっていた。貘さんの娘さんの泉さんは、「父の沖縄をぼろぼろにした戦争は、島自体を焼けこげた岩野原にしてしまっただけでなく、その場に居合わせなかった島の人々の心をもぼろぼろにしてしまった。」と語る。
「父は確かに沖縄県に生まれたのだが、私が育つ頃、沖縄は、ただのオキナワであった。私が学校で社会科の時間に習った一都一道二府四二県の中に、沖縄は、含まれていなかったのである。まるで外国便のようにして沖縄から届く航空便の差出人の住所は、なるほど、如何にも不安定で、宙ぶらりんの沖縄そのままの姿をさらしているように見えた。」が、貘さんは、沖縄に便りをする時、全くそしらぬ顔で、「沖縄県」と宛先を書き出すのだった。
泉さんが生徒であった時分、沖縄は当時の子どもたちにとって、外国にも等しい所だった。父が沖縄出身だと知ると、「沖縄の人って、みんな英語をしゃべってるんでしょう」などと言う友だちもいて、泉さんを面喰らわせた。東京の人の沖縄への関心度は『会話』の頃から殆ど変わっていなかった。
貘さんの死後、八年たって、オキナワは、「沖縄県」に戻った。泉さんの子どもたちは、皆、沖縄を「沖縄県」と呼ぶのを当たり前のこととして育っていく。「沖縄が、日本の県ではなく、さりとて、アメリカの州なんかでもなかった、あの空白の時間を、彼らは知らない。そして、それに先立つ戦争を。それらをいやというほど知り尽くしている人々の数は、次第次第に減っている。父の友人達の多くは、既に旅立ってしまった。」
しかし、泉さんは、「少なくとも今は未だ、私は忘れることができないでいる。母国のない宙ぶらりんの沖縄に向かって、故郷を失くした宙ぶらりんの父が頑なに書き続けた、沖縄県の「県」の字を。『沖縄は日本だ』と、死ぬまで繰り返し続けた、断固たる沖縄訛りの声音と共に。」(一九八七・一〇・五)
※以上出典は『山之口貘詩集』(現代詩文庫・思潮社)
滋賀支部 玉 木 昌 美
最近、映画「孤高のメス」を観た。アメリカで移植手術を学んだ医師が地方の病院で脳死肝移植に挑戦する物語であったが、医療をめぐるさまざまな問題や医師の生き方が浮き彫りにされ、興味深かった。観終わったあと清涼感があった。医師と弁護士は、いずれも職人的な面があり、たとえば、病気や事件の見通しをどのように説明するかなど共通しているところも多い。渡辺淳一の自伝的小説『白夜』では何も知らない新人医師が経験のある婦長らに教えてもらいながら、失敗を重ねて一人前の医師になっていく過程が描かれているが、新人弁護士が経験のある事務局に教えてもらいながら仕事を覚えていくことと重ね合わせて印象に残っている。また、『神様のカルテ』という小説は、大学病院での出世を求めず、地方で頑張る医師(主人公)が大学病院に見放された患者を診ていく中、逆に患者から勇気をもらうことを描いている感動作であったが、「孤高のメス」にもつながっていると感じる。
この映画を見て、同期の弁護士のことを思い出した。三年前、岡山県井原市で開催された「ぶどうの里ふれあいマラソン」五キロに初めて参加した。マラソン大会の会場で、走る前に着替えながら、近くにいた同世代の男性ランナーと雑談した。走り終わってからも少し雑談したところ、彼から「ひょっとして玉木さんじゃないの。」と言われてびっくりした。何と彼は同期の弁護士の林秀信さんであった。二〇数年ぶりの再会であった。修習生のときに一緒に青年法律家協会の活動をした仲であったが、彼は東京の共同事務所に就職したはずであり、まさか岡山で会うとは思わなかったからである。
彼は腎不全で体調を壊し、東京から地元の岡山に移り、ひとりで事務所をしていた。腎不全で死にかけたが、「病気腎移植」=「修復腎移植」により、生きることができるようになったという。そして、走ることも泳ぐこともできるようになり、世界移植者スポーツ大会で入賞するまでに回復された。
このほど林さんは、『修復腎移植の闘いと未来』(生活文化出版)という本を出された。帯には「病気腎移植患者の渾身の記録」とある。その本によれば、彼は高校生のときに慢性腎不全が見つかり、三七歳のときに透析導入。一度妻からの生体移植に失敗した経験をはさんで、約八年間の透析生活を送ったが、頭痛等の症状に悩まされ、弁護士としての業務に支障をきたしたという。彼の病気腎移植は、社会的に非難をあびた万波誠医師ら「瀬戸内グループ」の医師よるものであった。「孤高のメス」でも、命を救う方法がそれしかないのであれば、迷うことなく、手術に踏み切ると決断する場面があった。癌の部分を切除した腎臓の移植は危険がないとはいえないが、「移植手術をしなかったら、私はおそらくいま生きていないであろう。」という言葉は重い。万波医師の問題の真相が伝えられていない中、この本は一読に値する。
また、彼が蘇った人生をいかに生きるか人生設計をした内容等は印象に残った。ストレスを解消するために、マラソンや水泳をし、また、無駄と思えるものはいっさい控えたとある。「儀礼的なこと、形式的なこと、付き合い酒を飲むこと、つまらない会議に座っているだけなど、すべて敬遠した。」という。生き方を考えるうえでも彼の生き様に学ぶことは多い。
東京支部 笹 山 尚 人
一 夏の札幌へ
夏休み。私の言いたいことを団員諸氏にお伝えすべく、パソコンに向かった。近時の団通信の議論にあるように、出来るだけ短く(でも番号はつけざるを得なかった…)。
今回は、形式として、当日のメモをもとに、日帰り出張の旅行記を書くことにした。二二年七月二六日(月)、青法協が数年に一度開く大イベント、「人権研究交流集会」、その第一四回が札幌市で九月二五日、二六日の日程で開催される。その準備のために実行委員会が現地で開催されるので、私は本部事務局長としてこれに出席するため札幌市に日帰り出張したのである。とはいえ、旅行記だから、旅行で目にしたこと考えたことを以下に記すこととなる。
二 涼しい。
このところ保育園に行くのを嫌がる息子を無理矢理なだめすかして保育園に送ってから、羽田空港へ向かう。途中品川駅で銀行のATM機に寄ったのだが、そこで名古屋場所の帰りと思われる大荷物の力士さんと列になった。思わず、「大変ですね。でも頑張って下さい。」と声をかけたら、「はい、ありがとうございます。頑張ります。」との返事。相撲界の刷新と変革、なるか。しかし、彼の対応は涼やかで、好感が持てた。
午前一一時出発のフライトでは、読書と依頼された講演のレジュメ作成で時間を過ごす。
降り立った北海道、思わず漏れた一言、「す、涼しい…」。七月下旬、日本列島は酷暑が続いていた。北海道出身で暑いのと湿気が多いのは大の苦手の私は、関東の夏が大嫌いである。それに比べると、北海道のさわやかなことと言ったら!
新千歳空港から札幌市中心部へJRで移動。車窓から北海道の雄大な風景を楽しむ。いつ見ても心が安らぐ。忘れがたき、ふるさと、だ。
三 焼きそば屋。
さて、地元に戻ってくればB級グルメである。今回は昼食で、「焼きそば屋」に行くことにした。「焼きそば」なのに、味がついておらず、テーブルのソースで自由に客が味付けするという変わった店である。しかも量も自分で選択できる。一玉から、たぶん一番多いのは、一〇玉くらいか。「信じられねェ!」とか言ったタイトルがついている。
私は、高校時代、ここに週に一度は通っていた。キムチソースが大好きだったので、今回もそれをかけて味付け。
「ここのキムチはうまいぞ。」と教えてくれた、高校時代の友達は、北海道拓殖銀行(たくぎん)に入り、そこでの業務に耐えかねたか、自ら死を選んだ。たくぎんが破綻したのは、それから二年後だった。北海道民にとっては、あの「たくぎん」がつぶれるなんて、という出来事だった。しかし、破綻に向かうたくぎんの中で、彼は何を思い、どんなつらさに耐えていたのか、そして耐えられなくなったのか。彼の心の悩みを苦しみを、聞けなかったことが重い後悔として残る。彼の死は、私が労働弁護士としてやっていこうと考えるのを決定づけた。思い返して、苦く辛いキムチソースだった。
四 人権研究交流集会の準備。
午後二時から、北海道合同法律事務所会議室で開かれた実行委員会に参加。
人権研究交流集会では、全体会と分科会が行われるのだが、全体会はすごいことになっている。全体会は、「企業の社会的責任(CSR)を問い直す〜人権の視点から」という企画だが、中嶋滋さんがパネリストとして来ることが決定した。中嶋さんは、ILO理事として、労働の国際基準をつくるという観点で辣腕をふるっている。以前彼の講演録を何かの雑誌で読んだが、その実践的な議論に感銘を受けた。既に決定している大島和夫京都府立大学教授や、ILOに私を引率して連れて行ってくれたこともある牛久保秀樹弁護士などもパネリストとして参加するので、労働問題が国際基準からみていかにあるべきかについて、実践的な議論がされるであろう。私は期待に胸が高鳴るのを覚えた。
しかし集会は二ヶ月後である。それにしては参加申込数が少ない。これはまずい。この日の議論の中心はこの点であった。この団通信を読んでいる団員の方には青法協会員でもある方は多数いらっしゃると思う。ぜひ秋の札幌に、お越しください!九月二五日、二六日です!そうだった、参加申し込みしなきゃという方は、いますぐ青法協本部に電話だ!(〇三―五三六六―一一三一)
五 お土産(一)。
午後五時の会議終了後、新千歳空港にとんぼ帰り。ここでお土産を求める。
まずは、私の青法協活動に十二分な理解と協力のある、わが東京法律事務所へのお土産は必須である。お土産は何が良いか。何せ所員が四〇人以上いる事務所なので、お土産はこれしかない!「白い恋人」。ド定番だが、なにせ、一袋一袋が小さく、多くの枚数のものを買っても軽く、かさばらないのでお土産にしやすい。そして―もっとも重要なことだが―美味い。
「白い恋人」をつくっている石屋製菓は、賞味期限の表示偽装で、一時企業の信頼を失墜させた。地元企業の不正に、多くの道民が衝撃を受け、嘆き悲しんだ。しかし今では、「白い恋人」は、問題発覚時以前をしのぐ売れ行きで、石屋製菓も立ち直ったという。このV字回復のために会社はどのようなことをしたのだろう。そして、これから北海道という地域社会のために、どのような責任を果たすのだろう。
六 お土産(二)。
おっと、家族へのお土産も忘れてはならない。今日のお迎えは妻の長尾詩子団員がしてくれているわけだ。私がいない夜、息子も長尾団員と二人で待っていてくれている。
新千歳空港は、お土産の宝庫だ。カニなどの海産物のほかにも、お菓子、ラーメン、スープカレー等々、お土産に困らない。しかし、その中で私が選んだのは、「ジンギスカン」だ。それもここは北海道民なら誰でも知っている松尾ジンギスカンではなく、生ラムを使った「千歳ラム工房」を選ぶのが通というものであろう。
それから息子へのお土産。息子は、動物のお人形を買うことで、今日の夜間、私が家を留守にすることに手を打ってくれた。動物のお人形売り場には、旭山動物園グッズがならぶ。トラやチーターが絶滅危惧種になるなど、地球規模で生物の生存環境はおかしくなっている。動物園は、今や動物保護の機関になってきているのだ。そして、旭山動物園が始めた「行動展示」は、動物の本来の有り様を私たちに描き出し、命の素晴らしさ、私たち人間の果たすべき役割を教えてくれる。
こういうことは、子どもが興味を示さなかったらたぶん知らなかったであろうことだ。私は、息子のお土産にヤギとヒツジの小さな人形を買った。
一九時二〇分発の飛行機の機内で、この団通信のもととなるメモを書き、さらに準備書面の原稿を書いた。羽田着は二一時。関東は、またねめつけるように暑かった…。
七 まとめ。
みなさん、私の言いたいことはわかりましたね。
九月の札幌に来て下さい。そして、北海道の秋を満喫して、家族と事務所にお土産を買って、また、秋のたたかいに戻っていきましょう!
神奈川支部 折 本 和 司
うた9のご説明
まず、うた9とは、僕を含む横浜弁護士会に所属する弁護士たちが二〇〇四年の秋のある平和集会の控え室での会話をきっかけに結成したバンドだ。
それまで、神奈川では、自由法曹団や青法協のメンバーが、繰り返し、平和集会を企画し、開催していたが、自由法曹団事務局長のS本朗氏や同じ横浜法律事務所のY野芳子氏の、開港記念会館の控え室での発言をきっかけに、ストリートライブを中心とした音楽、平和活動をやろうということでスタートしたのだ(詳しい経緯は以前に書いた原稿でご参照ください・・・と手を抜く)。
うた9のメンバー、マネージャーのご紹介
うた9のオリジナル構成員は、小賀坂徹(切なさ&辛そう系ボーカル&アコギ)、栗山博史(熱い系ボーカル&アコギ)、井上泰(バンドの良心的ベース)、菊地哲也(やはり辛そう系ドラムス)、そして私こと折本和司(多動系&シャウト系ボーカル&向上しないサイドギター)だが、ほかに、スーパーサブ鈴木健(ヒロミゴー系ボーカル&合いの手囃子)、今井史郎(めちゃうまマルチプレーヤー系リードギター)をはじめとする強力メンバーもいる(そして、常に新メンバーを募集中だ)。
あと、関守麻紀子(時にすこぶる献身的だけど、時にまったくやる気のなくなる気分屋さん的マネージャー)と、芳野直子(言いだしっぺの一人でゼネラルマネージャーなのだが、最近は、大切な愛犬りんちゃんのことがとても気になっているらしく、マネージャーについては、ややさぼり気味だが)も、実は、バンドにとって欠かせない存在だ。
うた9の特徴と魅力的なオリジナルナンバー&うた9活動の歴史(こちらについても、自由法曹団、青法協なんかの過去の原稿をご参照ください・・・と、またまた手を抜く)
うた9〜ついに、やっと、CD完成へ〜
実は、過去に書いた、うた9紹介の文章の中でも幾度となく、公言していた・・・というより、ほとんど単なるホラ話にとどまっていたのだが・・・うた9のCD化がついに実現した。
かなり前に書いた原稿を読んだ他の支部の方が、「CD出たら買います」という趣旨のとてもありがたいご連絡までいただいたので、そういうことからすると、出す出す詐欺みたいで、赤面の思いでもあったから、出せてよかったと思っている。
といっても、もちろん、メジャーレーベルではなく、あくまでも現時点では自主制作なのだが(あくまで現時点であり、将来的には、メジャーレーベルからのお誘いが来るに違いないと妄想を抱いている・・・ここら辺がホラ話との評価をいただくゆえんだが)、楽曲は、かなりグッドなパフォーマンスとなっているのだ。
曲は、2曲。
1曲は、「相生橋から」
この曲は、広島での原爆投下の目標となったといわれている、原爆ドームの脇に掛かるT字の橋から見た、現在の広島の風景をモチーフに、平和への願いを籠めて作った歌だ。
僕は広島の被爆二世、ベースの井上泰は長崎の被爆二世、さらには、ボーカルの小賀坂は原爆症認定訴訟の神奈川弁護団の事務局長を務めているということもあって、被爆の悲惨さや、核の放射線被害を矮小化し、被爆者を切り捨てようとする日本政府の姿勢に苦しむ被爆者の訴えを聞く機会も多く、平和のために歌い継がれていくような曲をとの思いで作った曲だ。
詩は相生橋のそばで生まれ育った僕の原体験を基に、実にすらすらとできてしまった。
ちなみに、歌の中に出てくる学校は僕の出身小学校だし、同じく歌の中に出てくる時計塔は、毎朝八時一五分になると、被爆のそのときを知らせるようにメロディが流れており、僕はいつも遅刻ぎりぎりで、平和公園の中を走りながら、そのメロディを聞いていた。
もう一曲は、「平和の詩」
この曲は、うた9結成よりも前、アメリカのでっちあげのイラク攻撃がまさに始まろうとしているころに、ある平和集会で、オリジナル曲を演奏すると宣言してしまい、そのプレッシャーの中で作った曲だ。
弁護士の日常業務でも、いつも期日ぎりぎりに書面を出すという悪癖が治らない僕らしく、集会の直前に作ったのだが、当時もボーカルは小賀坂で、その小賀坂が、僕が最初に作った曲にダメ出しをしたため、そこから部屋にしばらく閉じこもってさらにぎりぎりの時間で作った曲なのだ。
ところが、小賀坂に聴かせると、曲自体は気に入ってくれたものの、さびは自分が作ると言い出して、それからは、二人で曲をいじり回し、結局、小賀坂がさびの部分と、さらには、「もはや祈っているだけじゃだめなんだ」という意味の熱い歌詞まで作ったわけで、まるで全盛期のレノン・マッカートニーのような感じの共作という雰囲気で、あっというまに完成させた、本当に思い出深い曲だ。
そして、この曲は、その後の平和集会では必ずといっていいほど演奏し、まさにうた9の活動の原点となった曲でもあり、また、曲自体の出来も非常にいいと思う。
とにかく、そんないろんな思いを籠めて、まずは、この二曲をCD化することにしたのだ。
もちろん、いうまでもなく、才能豊かな、われわれうた9には多種多様なレパートリーがあるのだが、バンドのメンバーがいろんな活動にかかわっているため、スタジオに入るための十分な時間が確保できないのが最大の悩みの種だ。
しかし、そんなことを理由に、活動を停滞させてしまってはいけないとも思っている。
今の社会状況は本当に不透明で、真面目に生きている人がちゃんと報われない、そんな時代だからこそ、これからも、平和や人権の大切さを訴えるメッセージをはじめ、真面目に暮らしている人たちを励ます歌からピュアなラブソングまで、聴く人の感性を揺さぶるような素敵な音楽を神奈川から発信し続けなければならないと思っている。
そのためにも、全国各地で頑張っておられる団員の方々にも、まずは、今回CD化した二曲をぜひ一度聴いてみてほしいのだ。
そして、もし気に入ったら、ぜひ応援よろしく!