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久保木 亮介 *愛媛・松山総会特集その三*
事務局次長就任にあたってのご挨拶
前川 雄司 自主共済継続へ保険業法改正案成立
萩尾 健太 JR雇用実現こそ、これからの中心問題(後編)
中丸 素明 千葉労連との「弁護士紹介制度」が発足
村山  晃 日弁連人権行動宣言と団の人権活動
永尾 廣久 吉野高幸団員の『カネミ油症』を読んで
中野 直樹 岩魚釣りの苦楽



*愛媛・松山総会特集その三*

事務局次長就任にあたってのご挨拶

東京支部  久 保 木 亮 介

 久保木と申します。五六期で弁護士生活八年目になります。代々木総合法律事務所に所属し、日頃は、地元(渋谷・中野・杉並区)を中心に身近で雑多な事件処理に追われる日々です。

 弁護団活動では、現在、葛飾マンションビラ弾圧事件、キヤノン非正規労働者(現在、正社員の地位確認を求める本訴、都労委への救済命令申立が進行中)の弁護団に加わっています。各々の事件を通じて、憲法の基本的人権が重大な危機にさらされていることを痛感しています。

 法律家団体では、長らく青年法律家協会の憲法委員会に所属していました。他方、団については五月集会・一〇月総会に一団員として参加してたまに発言する程度で、これまで、余り関与・貢献してきたとはいえません。今回、事務局次長をお引き受けしましたが、日頃の事件活動・弁護団活動とどう両立させてゆくかについては正直不安もあります。余りキャパシティの広い方ではないので。

 ただ、高校生の頃から、自宅にあった松川事件や三菱樹脂事件の本を通じて、自由法曹団の諸先輩方の闘いの歴史に触れてきました。学生時代のゼミで労働現場を案内してくれる等社会の現実に目を開かせてくれたのも、団員の先生方でした。団の存在がなければ、そもそも自分が弁護士を目指したかどうか分かりません。団の存在は私にとっては憧れ(こういう言葉を使うのは照れますね)であり、事務局次長をお断りする理由がありませんでした。

 普天間をはじめとする米軍基地の撤去、比例定数削減阻止、派遣法抜本改正の実現など、「今」「ここで」勝利できるかどうかで日本社会の未来が大きく左右されるであろう問題が山積しています(いつもそうかもしれませんが)。団が情勢に相応しい役割を果たせるよう、尽力したいと思います。

 健康維持のための水泳とトレーニングに心掛けています。また、趣味はコロコロ変わるのですが、料理(食べるのも含む)・旅行(特にヨーロッパのゴチック建築を見て回ること)・加えて最近は油絵といったところです。上手くリフレッシュを図りつつ、二年間頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。


自主共済継続へ保険業法改正案成立

東京支部  前 川 雄 司

改正の内容

 「保険業法等の一部を改正する法律の一部を改正する法律案」が一一月一二日、参院本会議で全会一致で可決、成立した。

 この法案は、二〇〇五年の保険業法改正で事業継続が困難になっていた共済団体や公益法人の共済事業について、当分の間、引き続きこれらの保険業(共済事業)を継続して行うことを可能とするとともに、保険(共済)契約者の保護等の観点から必要な規制を整備するものとされ、その主な内容は次のとおりである。

 二〇〇五年の保険業法改正の公布の際、特定の者を相手方として保険の引受けを行う事業(特定保険業)を現に行っていた者等は、当分の間、行政庁の認可を受けて、特定保険業を行うことができる。

 一の認可を受けようとする者は、平成二五年一一月三〇日までに申請書を行政庁に提出しなければならない。申請者が一般社団法人又は一般財団法人であること、特定保険業を的確に遂行するために必要な財産的基礎及び人的構成を有すること等の要件に該当するときに、行政庁は認可をする。

 認可特定保険業者が行う特定保険業は、二〇〇五年の保険業法改正の公布の際現に行っていた範囲内とし、特定保険業等以外の業務を新たに行うには、行政庁の承認を要するなど、認可特定保険業者に係る業務について必要な規制を設ける。

 認可特定保険業者に対し、特定保険業等と他の業務との区分経理、財務状況等の開示、責任準備金等の積立てを義務付けるなど、認可特定保険業者に係る経理について必要な規制を設ける。

 認可特定保険業者に対する報告徴求、立入検査、業務改善命令等の監督に関する規定を整備する。

 認可特定保険業者に対する監督等を行う行政庁は、旧民法第三十四条の規定により設立された法人については従前の例により当該法人の業務の監督を行っていた行政機関(従前の社団法人等の旧主務官庁)とし、その他の法人については内閣総理大臣(金融庁)とする。

 この法律は、公布の日から起算して六月を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。

 政府は、この法律の施行後五年を目途に、この法律による改正後の規定の実施状況、共済に係る制度の整備の状況、経済社会情勢の変化等を勘案し、この法律に規定する特定保険業に係る制度について検討を加え、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする。

改正の及ぶ範囲と課題

 改正法の対象は、二〇〇五年の保険業法改正の公布の際、特定の者を相手方として保険の引受けを行う事業を現に行っていた者等であるが、政府の説明では、対象となる任意団体は四三一、公益法人は三二九、合計七六〇とのことである。

 政府の説明によれば、二〇〇五年の保険業法改正で規制への対応を余儀なくされた任意団体のうち、保険会社または少額短期保険業者へ移行したものが一三%ぐらい、保険業法の適用除外となるような事業内容の変更をしたものが四六%ぐらい、保険会社等の商品を利用するようにしたものが三〇%ぐらい、これらの対応をとることができず廃止または維持管理状態のものが四六団体とのことである。

 認可の基準や認可された特定保険業者(共済)に対する規制の具体的内容については、そのほとんどが今後半年以内に策定される政省令で定めることになっている。政省令の策定にあたっては、「関係団体からの意見の聴取や意見の公募等を行いながら、保険契約者等の保護の観点から、適切なものになるように努めてまいりたい」(自見国務大臣の衆議院財務委員会での答弁)ということであるが、共済活動が原状どおり行えるような内容となることが必要である。

改正に至った要因

 「共済の今日と未来を考える懇話会」(以下「懇話会」という。)は一〇月七日、法案の早期成立と、原状復帰できる実態をふまえた政省令の策定を求め、国会議員要請行動と国会内集会を開催した。

 集会には国会議員・秘書(議員七名・秘書一三名)のほか、自主共済団体・労働組合から約一〇〇名が参加した(参加団体は日本勤労者山岳連盟、全国商工団体連合会、全日本民主医療機関連合会、全国保険医団体連合会、全国知的障害者互助会連絡協議会、日本自閉症協会、全国市町村職員互助団体連絡協議会、全国教職員互助団体協議会、神奈川県経営者福祉振興財団、全国労働組合総連合共済)。

 基調報告を行った斎藤義孝・日本勤労者山岳連盟理事長は、「自主共済は市民が自主的に助け合いの制度として作り上げてきたものであり、国はそれを支援こそすれ、潰すなどは時代の流れに逆行する。十分実態をつかまず自主共済を規制したことは大きな過ちであった。全ての自主共済が完全に原状復帰し従来どおり運営ができるような法改正と政省令の策定を国は責任をもって行うべきである」と訴えた。

 懇話会は全国懇話会とともに三三都道府県で設立され、自主共済を保険業法の適用除外とすることを求める意見書の採択数は全国で五県一〇七市八三町四三村の合計二三八自治体に広がり、請願署名は一八〇万筆に上っている。

 今回の改正法案の成立は、不十分な点や今後の課題は残っているものの、懇話会に参加する共済団体をはじめとする共済関係者や研究者など多くの人々の粘り強い活動の成果ということができよう。

団の活動

 団は、二〇〇七年六月二七日に「保険業法の改正を求める意見書」を発表し、二〇〇八年一〇月二三日には総会で「保険業法の自主共済への適用除外を求める決議」を採択し、二〇一〇年三月二九日には「自主的・自治的共済活動を守るため保険業法の改正等を求める意見」を提出した他、懇話会の参加団体との懇談会や金融庁交渉、団員による共済研究会への参加やパブリックコメントの提出など、法律実務家として一貫して自主的・自治的共済活動を守る活動を行ってきた。

 今後とも、既存のものだけでなく、新たなものも含めて、人々の自主的・自治的共済活動の自由を守る活動が求められるものと思う。


JR雇用実現こそ、これからの中心問題(後編)

東京支部  萩 尾 健 太

六 和解条項策定の経緯

 最高裁で確認した和解条項策定に際しても、細かな文言の詰めに関して攻防があった。

 この和解条項は、原告側四弁護団と鉄道運輸機構の代理人弁護士がやりとりして策定したものである。

 和解条項六項(2)には、「一審原告ら及び利害関係人らは、国鉄改革に伴う新規業態への不採用に関する不当労働行為及び雇用の存在について、一審被告に対して今後争わない。」との記載がある。

 これは、当初、鉄道運輸機構代理人が提案してきた文言は、「不当労働行為について、今後主張しない」というものだった。しかし、主張しない、というのは、不当労働行為があった、と文書を書いたり発言することまで禁じるのか、それはおかしいだろう、と拒否した。

 それに対して、鉄道運輸機構代理人は「政府の受け入れ条件通りならいいでしょう」として「不当労働行為の存在や雇用について今後争わない。」と言う文言にしてきた。確かに、「政府の受け入れ条件通り」ならばやむを得ない。しかし、よくよく検討すると、政府の受け入れ条件では「不当労働行為や雇用の存在について二度と争わない。」と書いてあり、政府の「受け入れ条件」とは異なっている。「存在」の位置が違うのだ。「雇用について今後争わない。」だと、原告が希望する鉄道運輸機構に対する採用要請も、今後できないことになりかねない。「雇用の存在」についての争いであれば、いわゆる過去の「雇用関係確認」のことであり、それは確かに和解をするのだから争わないが、鉄運機構側の文言は、わずかな違いだかこのように大きな結果をもたらしかねない。鉄運機構側の狙いはそこにあるのでは、と考えて、修正させた。

 さらに、原告側から要求したのは、「裁判上争わない」と言う表現である。法的手段以外の場であれば(JR株主総会や鉄運機構との交渉など)、不当労働行為を「争う」ことはあり得るだろう。これについては、電話で当弁護団の加藤主任代理人が要求し、鉄運機構側代理人から「文言は入れられないが、そのように解釈して頂いて結構です。」との回答を得た。また「一審被告に対して」との文言は入れさせた。やはり、JRに対して主張する場面がありうることを想定してのことである。

 もっとも、和解したことによって(和解に応じなかった一審原告らの訴訟が逆転敗訴しなければ)高裁判決は法的に生きていることになるから、不当労働行為の存在について、こちらは「争う」のではなく「高裁も認めている」と主張するのであるが。

 こうした攻防を経て、雇用への足かせをはめようとした鉄運機構側の狙いを排除してこの和解条項が策定されたことは、留意されるべきであろう。

七 最後に

 国鉄分割民営化以前の攻撃から数えれば四半世紀にわたる闘いを、原告・家族はよく遂行してきたと思う。

 国鉄分割民営化の過程で、政府自ら公約を破り、犯罪的な組合潰し=不当労働行為を行い、現在の労働のモラルの崩壊した社会が出現した。私は現在、使用者と癒着し腐敗した組合執行部を相手にする事件も担当しており、このことを痛切に感じざるを得ない。

 他方で、原告・家族は、「仲間は裏切れない」「正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると言う」として国労に踏みとどまり闘ってきた。そして、四党合意反対の闘いの中で「私たちの人生を勝手に決めないでください」という主体性の確立から、鉄建公団訴訟を提訴し、今日に至っているのは、現在の社会の風潮と鮮やかな対局をなしている。それが報われる社会にしていくことが必要ではないだろうか。

 また、国鉄の解体が先駆けとなった、公務の解体と労働組合潰しはさらに激化しようとしている。社会保険庁解体、自治体リストラ、そして、道州制への流れの中で、闘争団・争議団員のJR雇用を実現し、この流れに抵抗する一助としたい。


千葉労連との「弁護士紹介制度」が発足

千葉支部  中 丸 素 明

一 弁護士紹介制度が誕生

 本年一一月一日、千葉県労働組合連合会(千葉労連)、千葉労連労働相談センター、自由法曹団千葉支部(鈴木守支部長)、そして千葉労働弁護団(会長は筆者)の四者は、「弁護士委任に関する覚書」を取りかわした。この制度を一言でいえば、千葉労連(全労連のローカルセンター)が設置している「相談センター」に寄せられた相談のうち、弁護士に委任して解決をめざすのが相当と判断されるケースについて、弁護士を紹介するというもの。

二 経過と趣旨

 ここに至る経過を、簡単に述べておく。千葉労連から法曹団体二者に対して、次のような協議の申し入れがあった。二〇〇六年四月、千葉労連は労働審判制度の発足にあわせて相談センターを設置し、専属の相談員を配置した。相談件数は年々増加し、二〇〇九年度には一五〇〇件を超えるに至った。その中には、弁護士が代理人となって解決をはかるのが相当な事例も少なくない。その反面、弁護士を紹介する体制がなく、弁護士費用が分かりにくいこともあって、弁護士への紹介件数は一〇件弱と極めて少ない。本来弁護士が受任するのが相当と思える事案についても、かなり無理して交渉で解決しようとする傾向がある。また少額事件等では、相談センターが本人名義で労働審判を申し立て、実質的には最後まで担わざるを得ないケースも少なからずある。このような状態を解消し、相談者の要求に的確かつ円滑に応えていくシステムの必要性を痛感している。これらを踏まえて、標記四団体で相談体制を整備できないかとの問題提起であった。

 現下の厳しい雇用・失業情勢に照らせば、労働者の権利を擁護するために、弁護士が果たすべき役割は大変大きく、重いものがある。そのような認識の下に、法曹団体二者もこの提起を積極的に受け止め、四者間で協議を重ねた。その結果、覚書を締結する運びとなったものである。

三 主な内容と運用方法

 この制度の骨格は、次のとおりである。

(一)相談員名簿の作成・備付

 相談を担当する弁護士については、登録を希望する者を募り、それに基づいて「相談員弁護士リスト」を作成する。リストは、相談窓口である千葉労連労働相談センターに備え付ける。

(二)弁護士への紹介

 相談センターは、弁護士紹介相当事案と判断したときは、担当予定の弁護士に電話で相談を要請する。担当予定者は、原則として名簿順による(但し、地域性を考慮する場合もある)。担当予定弁護士に連絡が取れない場合等の措置を含め、取扱いの実務は相談センターの裁量に委ねる。

 相談センターは、当該弁護士の承諾を得た場合には、「弁護士への紹介書」(予め様式化)に必要事項を記入の上、FAXで送付する。

(三)相談の実施と報告

 担当となった弁護士は、すみやかに相談を実施する。そして、相談結果を「弁護士からの報告書」(上記「弁護士への紹介書」と一体のもの)に必要事項を記入して、相談センターに報告する。報告義務は、この一度だけ。

(四)委任契約

 相談の結果、受任する事案については、通常の場合と同様に契約書を取り交わし、契約に基づいて活動を開始する。弁護士費用については、覚書第五条(原則的な金額を定めている=ここがこの制度の「ミソ」)による。同条に反しない範囲で、この制度の趣旨を理解した上で、柔軟に対応して構わない。

(五)運営委員会

 この制度について疑義等が生じた場合には、運営委員会(四団体から各一名の運営委員を選出し四名で構成)で、協議・決定する。

四 この制度への期待 

 労働団体と法曹団体とが、このようなシステムを構築している例は全国的に見ても決して多くはないと聞く。書面で協定・覚書を結んでいる例は、あるいは初めてかもしれない。

 このような制度の発足まで漕ぎつけることができたのも、数々の権利闘争はもとよりのこと、憲法を守る取組み、地労委民主化闘争と労働委員選任訴訟、労働審判対策会議、さらには「派遣村」活動などを通じて、信頼と連帯を築き上げてきたことによると思う。それだけに、大切に育てていきたいし、今後のさらなる連帯の発展の礎にもなり得ると考えている。

 ちなみに、現在までに二〇数名の弁護士が登録を済ませている。そして、覚書を結んで一か月も経たないうちに、早くも受任する案件が現れていることを紹介しておく。


日弁連人権行動宣言と団の人権活動

京都支部  村 山   晃

 福岡の永尾団員に、団通信で、「日弁連人権行動宣言」の本の紹介をしていただいた。感謝の念に耐えない。「こんな日弁連に誰がした」とか題する本もあり、日弁連の行方が心配されているが、行動宣言を読めば、そんな悩みを解決する行方が見えてくると確信する。

 価格は、私のところに注文をもらえば、二九〇〇円でお売りできる。一冊だと郵送料込みで三二〇〇円の設定になっている。京都第一法律事務所のホームページから事務所メールか、ファックスでアクセスしていただくと幸いである。

 「人権のための行動宣言」は、一九九九年に最初のものが出され、今回のものは、そのニューバージョンである。もちろん出版は初めてである。これを読むと、日弁連が取り組んできた人権活動の広さと深さが理解できる。その広さと深さは、そこに参加する弁護士の広さと深さでもある。いずれにしても、この一〇年間の日弁連の人権活動の広がりには目を見張るものを感じる。それは、日弁連が、新たな若い力を得て、一連の改革と相まって、前進をしてきた姿だと思う。

 日弁連の今後は、ここを原点に、さらなる発展をどう展望していくかが問われている。今、日弁連では、この宣言を実現していくための仕組みについての検討を重ねている。出しっぱなしの宣言にしないための努力が不可欠である。

 話しは少し変わるが、私は、団にも、こうした行動宣言は、なくてはならないとものだと思っている。個々の団員は、様々な人権活動に、毎日それこそ地を這うように取り組んでいる。しかし、総会や五月集会では、大きな政治的課題が優先され、人権活動がクローズアップされることが少ないような気がしている。そういう意味で、団の活動を今一度「人権」を切り口に検証してみる必要があるように思う。

 多くの憲法判例を団が生み出してきたことを踏まえ、それを本にしたのは、随分前の話である。「人権活動最先端」を語れるのは、やはり団であって欲しいと思っている。実際にそうだと思う。これからもその必要性・重要性は強まっていくに違いない。

 その試みを、日弁連のこの本を手がかりにして始めてみてはどうだろうか。


吉野高幸団員の『カネミ油症』を読んで

福岡支部  永 尾 廣 久

 カネミ油症は古くて新しい食品公害事件です。ふだんはテレビを見ない私ですが、弱小辺境事務所交流会のために宿泊していたホテルで日曜日の朝、たまたまテレビを見ていたところ、カネミ油症事件の特集番組があっていて、著者も登場していました。カネミ油症の被害者が今なお大量に存在して苦しんでいること、原因企業であるカネミ倉庫が治療費をこれまで負担してきていたのに、経営難から負担を打ち切ろうとしていることがテーマとなっていました。

 この本は、カネミ油症事件の弁護団事務局長として長く奮闘してきた著者が、カネミ油症事件裁判について振り返りまとめたものです。ハードカバーで二六〇頁もあります。読むのはしんどいな、でもせっかく買ったので読んでみようかな。渋々ながら重い気持ちで読みはじめました。ところが、なんとなんと、とても分かりやすい文章で、すらすらと読めるではありませんか。これには日頃、本人に接することも多い私ですが、著者をすっかり見直しました。ええっ、こんな立派な分かりやすい総括文が書けるなんて・・・・、と改めて敬服したのでした(失礼!)。

 カネミ油症裁判で何が問題だったのか、どんな意義があるのか、実務的にもとても役に立ち、その教訓が明快に紹介されています。若き団員にぜひ読んでほしいと思いました。

 カネミ油症が初めて世間に報道されたのは、一九六八年一〇月のことです。私は大学二年生であり、東大闘争が始まっていました。初めは「正体不明の奇病が続出」という記事でした。翌一九六九年七月現在、届け出た患者は西日本一円で一万四三二〇人といいますから、大変な人数です。それはカネミライスオイルを使ったからで、その原因は製造過程で金属腐食があってPCBが製品に混入したからだということが判明しました。

 PCBは「夢の工業薬品」と言われていましたが、PCBを食べた例は世界のどこにもなく、したがって治療法がありません。このことが被害者を絶望のどん底に突き落としました。

 一九七〇年一一月一六日、被害者三〇〇人はカネミ倉庫と社長、そして国と北九州市を被告として損害賠償請求訴訟を提起しました。

 このとき、弁護団は訴訟救助の申立をしました。印紙代として必要な数百万円の支払いの猶予を求めたのです。また、弁護士費用についても、法律扶助協会(今の法テラス)に支給を求め、三〇〇万円が認められました。弁護団は訴訟費用を被害者に負担させないという方針をとっていました。だから、大カンパ活動を始め、支援する会は二〇〇万円ものカンパを集めました。

 そして、一九七一年一一月にPCBを製造したメーカーであるカネカを被告として追加しました。

 裁判では一九七三年夏に、原告本人尋問がありました。長崎県の五島にまで出かけ、裁判官が出張尋問したのです。朝九時に現地の旅館前に集合し、「平服でげた履きの裁判所関係者は三班に分かれて出発」し、「各家庭で本人尋問が始まった」と当時の新聞記事にあります。一人の裁判官が四〇時間にわたり、四〇人をこえる被害者や証人から各家庭で証言に耳を傾けました。すごいことですよね。裁判官が被害者である原告本人の自宅にまで出向いて、その訴えに耳を傾けたのです。

 原告弁護団は、損賠賠償を請求するのに、個別に逸失利益などを積み上げて算定するのではなく、包括一律請求方式を採用しました。請求額は死者二二〇〇万円、生存患者一六五〇万円(いずれも弁護士費用こみ)を請求しました。これは患者の苦しみに個人差はないという考えにもとづくものです。たしかに被害者の苦しみについて簡単には格差はつけられるはずはありません。

 裁判の最終弁論は、一九七六年六月に三日間おこなわれました。二日間が原告、残る一日が被告の弁論に充てられたのです。これって、すごいですね。今どき、そんなもの聞きませんね。

 判決に向けて、弁護団は大変な努力を重ねたことが紹介されています。なんと、判決前の六ヶ月間、そのためにずっと大阪に弁護士(今は大分にいる河野善一郎団員)が滞在していたというのです。熱の入れ方がまるで違います。いったい、その間の生活はどうしていたのでしょうか・・・・?

 弁護団は判決直後に大阪のカネカ本社で三日連続の交渉、東京の厚生省で交渉をすすめるほか、大阪で強制執行できる準備を着々とすすめていきました。

 一九七八年三月一〇日の判決は、残念ながらカネカとカネミ倉庫の責任は認めたものの、国と自治体の責任は認めませんでした。しかし、原告弁護団は、カネカの高砂工場で工場内に積まれていた岩塩一万トンを差し押さえました。執行補助者が岩塩に「差押」とスプレーで書いている写真があります。大阪本社では社長の机や椅子も差し押さえました。ところが、カネカには現金や預金がまったくありませんでした。そこで、強制執行不正免脱罪として、弁護団は大阪地検特捜部に告発したのです。これは起訴猶予となりましたが、これ以降は、カネカも刑事罰を恐れて現金か小切手を用意するようになりました。

 原告弁護団は、カネカの強制執行停止申立を福岡高裁の受付で待ちかまえ、その不備を発見して受理させなかったのです。すごいですよね。受付で申立書を点検するなんて・・・・。そして、そもそも執行停止すべきでないと裁判所に申し入れました。裁判所は、結局、一人三〇〇万円を超える部分については執行を停止するとの決定を下しました。ということは、逆に言えば一人三〇〇万円までは執行できるということです。

 判決後のカネカとの本社交渉では、執行停止が認められなかった二〇億円のほか六億円を上乗させることが出来ました。ともかく、あきれるばかりのすごさです。交渉というのは、このようにすすめていくものなのですね。

 さらに、原告弁護団は、第一陣訴訟に加わっていない被害者について、仮払い仮処分を申立して、一人一五〇万円から二五〇万円までの支払いを認めさせたのでした。これによって、カネカによる被害者の分断工作を封じたのです。

 一九八四年三月、福岡高裁は国の責任を認める画期的な判決を下しました。一九八五年二月に、小倉支部でも同様に国と自治体の責任を認める判決を出しました。

 ところが、一九八六年五月、福岡高裁(蓑田速夫裁判長)は国と自治体の責任を認めないという判決を下したのです。私は、こんな冷酷非道な判決を下す裁判官がいるなんて、信じられませんでした。たとえ裁判官が温厚な顔つきをしていても、決してそれに騙されてはいけないと思ったものです。裁判所は、危険性は予測できなかったから、行政に落ち度はなかったとしたのです。いかにも行政追随の非情な判決です。これでは裁判所なんかいりません。

 最高裁で口頭弁論したあと、和解交渉に入ります。カネカには責任がないことにしながら、カネカは二一億円を支払う。これまで被害者が仮払金として受け取っていたものは返す必要がないという和解で一応の決着はついたのです。ところが、あとで、訴訟を取り下げたところから、さらに新しい問題が発生します。仮払金を受け取っていたわけですが、裁判がそもそもなくなったわけだから、もらった仮払金を返せといわれたのです・・・・。いやはや、いろいろ問題は起きるものです。裁判がいかにミズモノであって予測しがたいか、そのなかでどんな知恵と工夫をしぼるべきか、しぼってきたか、手にとるように分かる本になっています。

 ぜひぜひ手にとってお読みください。裁判闘争の実際を知りたいと思う団員すべてに強くおすすめできる本です。 

 これも福岡県弁護士会のHPに投稿(一一月五日)したものをもとにしています。(海鳥社二三〇〇円+税)


岩魚釣りの苦楽

東京支部 中 野 直 樹

行く手を阻む土砂崩れ

 東北道、花巻インターを降りた車は進路を西にとり、花巻温泉郷に向かう。岩手県にはひなびた温泉が多いが、ここは大きなホテルが林立しており別格だ。朝の出発バスに乗り込む客を見送りする仲居さんたちの姿を目の端でみながら、山道に車を進める。この日は、大森鋼三郎・岡村親宜弁護士が発見・開拓したルートから、鍋割川を目指している。両釣り師には内緒にしているので、縄張りへの侵入罪を犯す心境だった。早く山中に入って身を隠したいとの心持ちで山道を五分程走ったところ、行く手の右側の崖が崩れ、大量の土砂が車道に盛り上がっていた。真っ青な秋空に突然暗雲の帳がおりた感である。車の通行は不可能だ。さてどうするか、思案となった。時計をみると八時三〇分、他の谷に転戦するには遅すぎる。

 地形図を開き、入渓地点までの山道の距離を見積もると七キロ以上ありそうだ。

 往復の歩行時間と釣り時間を試算すると、彼岸の中日の暮れまでに帰ってこられるか、ぎりぎりの線だ。迷う心中に次第に岩魚の魅惑が増殖し、よし行こうと決断し、素早く釣り仕度をして、駆け出すように歩き始めた。

蚊群の出迎え

 歩む山中は奥羽山地の東側のすそ野である。東北の山地は全体としてなだらかで奥が深い。地形図をみると、山の名前に「・・森」、「・・森山」と表記されているものが多い。心なしか色づき始めている広葉雑木におおわれた森のなかを、わずかに上り傾斜の道を速歩く。差し込んでいた陽射しが次第に照りつけ状態となり、汗が吹き出してきた。これを嗅ぎ付けた蚊が身体を囲み始めた。私は蚊の好餌体質で、蚊を引き付け、誰よりも早く食われてしまう。夏など庭でほんのわずかの時間用事をするだけで餌食になってしまう。最初の頃はタオルで払いながら進むと蚊もいったん私の身体と一定の距離をとって旋回していたが、三〇分ほど付きあっているうちに汗ばんだ手と手首を中心に巧みに刺すやつがでてきた。その都度、ムヒを塗るがあちこちかゆみが出てしかたない。

 道はいったん谷を離れて尾根に登り、また下降して別の谷沿いとなった。薮に覆われた平沢で、蚊が一段と数を増した。平坦な道に足の裏を痛くしながら歩き続け、ようやく沢を離れて、急な九十九折の登り坂となった。一〇時、やっと目的の鍋割川の林道にたどり着いた。この林道は、谷底のはるか上につくられている。大森さんたちが地図から割り出した下降点の見当をつけた。といっても別に踏み跡があるわけではない。タオルを首に巻き、軍手をして、薮に突入した。

 不揃いに繁茂する薮の斜面を泳ぐように下っていると、時折蔦の罠が潜んでいて、足をとられ転倒してしまう。身体が枝葉をかきわける際に同時的に発する音から時間差をおいて、背後にザザッと音が立つ。ぎくりとして足が止まった。以前、岡村さんが、この薮中で木に上った熊に出くわしたと言っていたことが脳裏を横切った。間近に熊が迫っているのではないか、との瞬時の不安。思わず気合いの大声を出した。そして、そおっと、後ろを振り返った。しかし、薮しか見えない。その薮に向かってもう一度、意味不明な掛け声をかけるが、シーンと静まり返ったままである。気を落ち着けて観察すると、どうもザックにひっかかった木枝が跳ねて周囲の木々にこすれたときの音だったようだ。悪戦苦闘を再開して、ようやく小沢に出た。ヘビがいないか気にかけながら、滑る岩場を下り、本流に降りた。一〇時二〇分だった。

ブヨの襲来

 北上川に注ぐ鍋割川は、標高九〇〇メートルに満たない塚瀬森を源頭とする小さな谷である。川床は滑状の岩盤が続き、川虫の棲息する瀬が少ない。経験では岩魚の棲む渓相ではないのだが、見た目で真実は決まらないものである。

 V字の底は深くて、薄暗く、開放感に乏しい。薮こぎをしているうちに蚊をけちらしたが、今度はブヨが顔の周辺に浮遊し始めた。これは吸血するだけではなく、鼻からはき出される二酸化炭素に引かれるのか、眼の前にしつこくたむろし、時折、眼のなかに飛び込むこともあるやっかいものである。

 美しい渓流水が・・と書きたいところだが、実際には差し込む光が乏しく、岩盤の上を走る水の色がわからない。所々に、岩盤の割れ目があり、その一つに仕掛けを投ずると、瞬間に当たりがきて、合わせると丸々太った岩魚が竿をしならせた。ここまでやってきた甲斐を味合う一投目だった。気をよくして、汗に濡れた顔を洗い、蚊の刺し跡にムヒを塗り直し、ブヨに負けずに、釣りに集中し始めた。不思議な渓である。隠れ家ともならないようなわずかな岩盤の切れ目から岩魚が食いついてくる。一枚岩板を折り曲げてできたような二段の小滝があり、その手前がプール状になり、そこに倒木が浸っていた。日射しが差し込み水面を斑に光らせていた。じっと眼を凝らすと、倒木の脇に、型のよい岩魚がゆらゆらと泳いでいる。腹から尾ひれにかけて濃い橙色で、水面近くまで浮上するとまん丸の目まで見える。そっとカメラを取り出し、フォーカスした。

 餅入りラーメンの昼食をはさみ、型揃いの岩魚を小気味よく取り込みながら遡上した。ポイントに竿を差し出そうとしたとき、前方に何かの気配を感じた。眼を上流に向けると二〇メートルほど先の沢の中の小岩の上に、動物がいることに気づいた。タヌキだった。釣りをしていてタヌキに出会うのは初めてだった。じっと見つめていると相手もじっと動かない。しばらくのにらみ合いの後、写真を撮ろうと考えたが、生憎昼食のときにザックにしまっていた。ザックを肩からおろそうとして目線がわずかにずれた途端に、タヌキはジャンプをして谷岸にあがり、こそこそと引っ込んでしまった。

再び襲撃

 帰りの時間が気にかかり始めた。深く暗く、物の怪を感じさせる幽谷もいつの間にか開けてきて、陽の光がせせらぎに梢の影を落とすようになった。突然、目の前にコンクリートの堰堤が出現する。このすぐ右上に林道があった。源流釣りの納竿の場所としてはいささか興趣を削ぐ。

 時刻は二時四〇分、ここから延々とした復路の山道である。西日に炙られ汗だくになりながら競歩のように緩斜面を下るうちに、恐れていた事態が到来した。私の周りを無数の蚊が取り巻き始めた。そして今度はのっけから吸血の意欲満々の動きである。タオルを振りまわせば回すほど蚊を呼び寄せるのか、私の身体を軸に蚊柱が立つような有様となった。そして、素肌が露われているところはもちろん、シャツの上から、ズボンの上から容赦なく刺してくるのである。四時すぎまでの道程は、蚊地獄となった。

 まるで障害物競争のような釣り路であった。