<<目次へ 団通信1384号(6月21日)
諸富 健 | *島根・松江五月集会特集その3* 民意を反映する選挙制度の実現を 〜五月集会・比例定数削減分科会に参加して |
谷 文彰 | 労働問題分科会に参加して |
並木 陽介 | 「北方領土」・尖閣問題分科会に参加して |
北岡 奈々 | 五月集会事務局交流会 「私たちの『仕事』について考える」分科会に参加して |
出田 健一 | NTT西日本が通信労組に不当労働行為の謝罪文を交付 |
穂積 匡史 | 「君が代」最高裁判決 〜反対意見を多数意見に変える闘いの始まり |
山本 裕夫 | 山川さん、土浦の五月の歓声は聞こえたか |
宮腰 直子 | 団女性部の異業種交流会 |
後藤 富士子 | 司法に対する民衆の不満 ─弁護士報酬は「漁夫の利」か? |
城塚 健之 | *新刊紹介* 自治体の偽装請負研究会編「自治体の偽装請負」 |
永尾 廣久 | 「裁判を住民とともに」をすすめる |
京都支部 諸 富 健
一 分科会で確認できた三つのポイント
私は、五月集会の一日目、比例定数削減分科会に参加しました。この分科会では、大きく分けて三つのポイントを確認することができました。第一に、選挙制度改悪のおそれが切迫していること、第二に、比例定数削減反対の取り組みが各地で行われていること、そして最後に、まだ国民全体にこの問題を周知し切れていないこと、以上の三点です。
二 間近に迫った選挙制度改悪
民主党は、二〇〇九年の総選挙マニフェストに衆院比例定数八〇削減を掲げて以来、一貫して比例定数削減に固執しています。東日本大震災以降も議員定数削減へ向けた動きを着々と進めています。自民党も議員定数の三割削減をマニフェストに掲げていますが、今年の五月、衆議院の定数削減案をまとめました。この案は、衆議院の定数を三五人(比例三〇、小選挙区五)削減し、一五〇人の比例議員のうち三〇人分を少数政党に割り当てるというものです。これは第三政党(公明党)に有利となる選挙制度であり、選挙制度改悪の執念が窺えます。五月集会後の報道によると、まずは小選挙区五人削減を先行することで民自公三党が最終調整に入ったようです。
これらの動きのきっかけの一つとなっているのが、一票の格差をめぐる二〇一〇年参院選についての高裁違憲・違憲状態判決、並びに今年三月二三日に最高裁で下された二〇〇九年衆院選についての違憲状態判決です。公職選挙法の改正は必至であり、民主党も自民党も定数不均衡問題を奇貨として、議員定数削減を目論んでいるのです。震災・原発問題が国政の中心課題となっている一方で、議員定数削減の動きは確実に歩を進めており、事態は極めて切迫しているといえます。
三 各地における比例定数削減反対の取り組み
比例定数削減分科会では、各地の取り組みが報告されました。大きな集会や学習会活動、宣伝行動など、各地で旺盛な活動が実施されています。また、団本部によるリーフレットのみならず、大阪支部や京都支部でも大衆団体と協力してリーフレットが作成されるなど、学習・宣伝ツールも揃ってきています。
報告の中では、比例削減反対と訴えても市民には響かない、積極的に選挙制度を提示する必要があるのではないかとの意見も出されました。民意が反映される選挙制度が望ましいと言えるでしょうが、具体的にどのような対案を示していくのか、今後議論を深める必要があると思います。分科会では、イギリス調査の報告もなされ、イギリスにおける選挙制度の歴史や情勢など、日本ではあまり知られていない実態が示されました。日本における選挙制度を考えていく上で、示唆に富む報告でした。
四 国民に対する周知の不徹底
議員定数削減問題について、各地で取り組みが行われているとはいえ、マスコミの報道が不十分なこともあり、まだまだ国民全体に対してこの問題の危険性が十分周知されていないように思われます。いわゆる民主的団体と言われるところでも、自らの目の前の問題に追われて、議員定数削減問題に関心が及ばないこともあるようです。しかし、選挙制度の問題は、あらゆる分野の要求の根本問題といえます。これ以上、二大政党化が進めば、ますます自らの要求を国政へ届けることは困難になります。選挙制度の問題は、国民一人一人の身近な問題に直結するものであるということを粘り強く訴える必要があります。
五 民意を反映する選挙制度の実現へ向けて
「六・九比例定数削減に反対する大集会」は一二〇〇人以上が参加して、熱気あふれる集会になったようです。これから、民意を反映する選挙制度を実現するための運動を強めていかなければなりません。この問題は、日本の将来に関わるものであり、若手団員こそ先頭を切って取り組むべき問題だと思います。ところが、五月集会の分科会では若手の参加が少なかったようです。私は、所属する京都支部の憲法プロジェクトにおいて、若手が動いている姿を見せる必要があると背中を押され、地元の二団体に学習会の実施を働きかけて講師を務めました。また、私と同期(現行六二期)の神保団員も学習会講師の経験を五月集会特別報告集に寄稿しています。若手団員の皆さん、議員定数削減問題を自らの問題と捉え、学習会活動や宣伝行動などいっしょに取り組んでいきましょう。
京都支部 谷 文 彰
島根県松江市で開かれた五月集会で、昨年に引き続いて労働問題分科会に参加しました。昨年は、弁護士登録半年ということで右も左も分からないような状態でしたが、今回はより主体的に参加することができたように思います。
一 国引きの地にて
今回の会場は「くにびきメッセ」。その名前に、出雲はやはり神話の地なのだということを実感します。というか、僕は岡山県倉敷市出身なのでいつも特急やくも号を横目で見ていたのですが、その「やくも」の名前の由来自体、出雲の枕詞であるということを初めて知りました。島根において、神話とはそれほどに身近な存在なのでしょう。そして、言うまでもなく京都も歴史の街です。普段は仕事に追われて意識することは少なく、歴史を勉強したり訪ねたりすることもほとんどありませんが、改めて自分の住む街のことをきちんと知りたいと思いました。
それにしてもやくも号は揺れますね。乗り物酔いが抜けきらない状態で会場に到着し、全体会を経て労働問題分科会が始まりました。
二 分科会での討議と報告
今年の分科会の大きなテーマは、震災と非正規でした。
まず、大震災に伴う雇用・労働問題への対応について、原発労働者に関する団としての要請書や厚労省との懇談の報告が行われ、Q&Aを活用するという点で認識が共通化されました。続いて、「非正規切り」裁判闘争及び労働者派遣法・有期労働法制の抜本的改正等についてと題して、各地での非正規問題への取組み状況や理論的問題、克服すべき課題とその乗り越え方などについての報告と議論が行われました。質疑では訴訟戦略や証拠の選別、判決において重視された点など具体的な質問が出され、活発な議論になりました。
続いて二日目に個別事件報告が行われ、私自身も社会保険庁元職員に関する事件の報告を行いました。京都では現在、社会保険庁の解体と年金機構の設立に伴って分限免職処分を受けた一五名が、人事院に審査請求を行う一方で、処分の取消しを求めて裁判所に訴えを起こしています。みなさんのご支援をよろしくお願い致します。
その他、各地での非正規問題への取組みや高齢者雇用問題、労働者性の問題についての報告も行われました。労働者性の問題については、新国立劇場やINAXメンテナンスの最高裁判決を踏まえた報告が有意義でした。
三 雑感
昨年の分科会と比べ個別事件報告が減り、全体的な議論に多くの時間が割かれたように思います。やはり東日本大震災後、労働問題は待ったなしの状況にあるためでしょう。震災の影響で職場を失った人、原発労働者、震災を口実に不当な扱いを受ける労働者など、厳しい環境が続きます。それでも国会は政局ばかり。派遣法の抜本改正すら進んでいません。このようなときこそ、運動が重要です。運動を通じて権利を実現していく自由法曹団の行動が求められています。団員として、分科会での議論の成果をこれからの運動にも活かしていたいと思います。
東京支部 並 木 陽 介
五月集会の「北方領土」・尖閣問題分科会に参加しました。五月集会の分科会はいつも魅力的なものばかりで、どの分科会に出ようか迷うことが多かったですが、今年は案内を見てすぐにこの分科会に出てみようと思いました。今までにない分科会で、どんな議論が行われるのかに興味を引かれたのです。
分科会では、まず北方領土問題について、様々な資料を示しながら北方領土が日本の領土だと主張する国際法上の根拠が千島樺太交換条約にあり、ロシアの占領は日ソ中立条約に違反していること、ロシアの国際法上の根拠がサンフランシスコ平和条約にあるということなどが議論されました。尖閣問題についても、尖閣諸島が日本の領土である根拠が紹介され、その後領土問題を議論する際のナショナリズムとの距離の取り方、他国との連帯の仕方などが議論されました。
領土問題となるととかくナショナリズムに偏りがちになりますが、ナショナリズムにとらわれるのではなく、冷静に事実を見つめ、他国との連帯を意識しながら議論を進めるところはさすが自由法曹団ならではの議論でした。
この問題は、議論の中でも発言されていたように、例えば日本政府が尖閣諸島に自衛隊を派遣すると言い出したとき、その他の問題が生じた際などに団としてどのような態度をとるか、どのようなメッセージを発信していくのかということにも関連する大事な問題です。自分自身、深く考えたことのない問題でしたが、議論に参加する中で、いろんな視点があるということが分かり、刺激的でした。
領土問題については、まだまだ団としては議論が始まったばかりで、今後様々な議論が展開していくと思われます。どのような人権侵害があるのかという点を意識しつつ、団としてこれらの問題にどのような態度で臨むのか、今後どのように取り組んでいくのか、注目したいと思います。
熊本中央法律事務所 北 岡 奈 々
「私たちの『仕事』について考える」分科会は、三月一一日に発生した東日本大震災を教訓に、事務所の防災対策・危機管理対策が行われているかどうかという議題から始まりました。防災対策に関しては、避難訓練を定期的に行ったり、防火管理者の資格を取得したりして、安全に備えているという報告がありました。防災対策は、事務所で働く弁護士や事務員のためだけではなく、依頼者の安全を守るためのものでもあるという意見には、はっとさせられました。
危機管理対策に関しては、暴漢対策として、催涙スプレーを常備したり、防犯ベルを設置したり、事務所の入口に電気錠を導入したり、暴漢役を決めて暴漢訓練をしたりしているといった報告がありました。また、相談室に防犯ベルを携帯して入る、弁護士の席を入口側にするなどの対策を講じている事務所もありました。防災対策・危機管理対策は、命にかかわる問題なので、親身になって取り組んでいますという意見もありました。
その後の質疑応答では、私も質問をさせてもらいました。私は、裁判の傍聴をしたり、ホームページに裁判の記事をアップしたり、書面のコピーをするなどして、大型裁判に関わることはあるが、運動に密に関わって、その運動をしっかり理解できているかと言われれば、そこまでは至っていない。大型訴訟をしている事務所の事務員として、葛藤を覚えるときがあるという意見を述べ、皆さんは、事務局としてどのように大型訴訟に関わっていますかという質問をしました。この質問に対して、裁判所前で原告さんたちと一緒にビラ配りをしたり、集会に参加したり、事務局主催で原告さんたちと交流会を催したりしているという貴重な報告をもらいました。私は、弁護士から事務局に対して、大型訴訟にもっと参加してほしいといった意見をもらうことはありますかと、追加で質問しました。弁護士からお願いされることもあるが、やはり、自主的に参加しているという意見が多数でした。弁護士からは、事務局にどこまで頼んでいいか悩むところがあるといった意見もありました。運動は、やはり仕事とは一線を画すものなので、事務所が一丸となって運動に関わっていくためには、自主的な姿勢を持つことが必要なのだろうと感じました。
他にも、事務員の雇用延長に関する問題や、仕事に対する姿勢の温度差の問題など、たくさんの議題について意見が飛び交いました。全国の事務員の方々と、仕事について語り合う機会がないため、分科会での意見交換はとても楽しく、刺激になりました。あっという間に時間が過ぎてしまったので、今後はプレ企画だけではなく、本集会の方でも、事務員交流会が設けられたらといいなと思いました。
また五月集会に参加できることを楽しみに、今後も仕事に励みたいと思います。
大阪支部 出 田 健 一
一 最高裁第一小法廷は、五月二三日付けで、一一万人リストラについて、NTT西日本の通信産業労働組合に対する約一年間にわたる一連一体の不当労働行為を認めた中労委命令につき、会社の上告受理申立を受理しない決定をした。
そして会社は、六月一三日に至って、山田忍委員長に、平成二〇年九月三日付の中労委命令(中労委HPの命令・裁判例DBと全文情報参照)に従った次の謝罪文を手交した。
「当社が、(1)「NTTグループ三か年経営計画(二〇〇一〜二〇〇三年度)」に基づく構造改革に伴う退職・再雇用制度の導入等に関する貴組合との団体交渉において、貴組合に対する提案並びに貴組合の求める資料の提示及び説明において合理的な理由がないにもかかわらず他の労働組合(NTT労働組合)と比べて取扱いに差異を設け、団体交渉期日の設定及び団体交渉における説明・協議において誠実性を欠く対応をし、上記退職・再雇用制度の導入に伴う意向確認(という名の退職勧奨)を貴組合との誠実な協議を行わずに実施に移したこと、(2)(意向確認手続が終了して、配転対象者となりうる「六〇歳満了型」労働者の約七割が通信労組組合員であることが判明した後)貴組合が平成一四年二月五日付で申し入れた組合員の勤務地等に関する団体交渉において、本人の希望を尊重した配置を行うなどの配転の実施方針に関する団体交渉に応じなかったことは、労働組合法第七条第二号に該当する不当労働行為であると中央労働委員会において認められました。
今後このような行為を繰り返さないようにいたします。」(かっこ内は引用者)
中労委自身のコメントによれば、「複数組合併存下での少数派労働組合との団体交渉における使用者の交渉態度及び配転の事前協議における使用者の交渉態度についての労働組合法第七条第二号該当性の判断枠組みを中央労働委員会として初めて示した」と述べ、NTT労組との経営協議会における提示資料や説明内容が、その後の同労組との団体交渉における会社の説明や協議の基礎となっているとして、必要な限りで通信労組に同様の資料の提示や説明を行う必要があるとも判断した(なお、中労委会長の菅野和夫氏の「労働法」第九版五八〇頁参照)。
私はこの命令をもらった時、心の底から感動した。我々も死力を尽くしたが、何と心のこもった事実認定と格調高い定式化だろうかと。
二 取消訴訟において、東京地裁は理論的根拠が昭和六〇年四月二三日の日産自動車事件最高裁判決であると明示し、意向確認(退職勧奨)強行の不誠実性と配転の基本事項に関する事前団交義務につき熱のこもった勝訴判決を下した(団通信一三三九号、労判一〇〇四号二四頁・判時二〇七九号一二八頁参照)。そして、東京高裁は、昨年九月二八日、NTT労組との経営協議会における提示資料の開示について縷々補足した上、配転の基準(理由ないし要件)や手続(組合との協議、同意等)などの実施方針について、協議に応じ、説明する義務があったと判断した(労判一〇一七号三七頁)。最高裁の不受理決定によりこの高裁判決が確定したのである。
三 この労働委員会闘争は、一つには、配転の裁判で勝利するために先行させたたたかいであったが、配転の裁判が確定した後に取消訴訟が終了した点で、手順前後となった。配転の二次訴訟(大阪から名古屋への通信労組組合員の大量配転)は勝利したものの、一次訴訟(地方から大阪への組合員の配転)が敗訴したのはこの手順前後に一因がある。その誤算は、初審の大阪府労委の機能不全にあった。
しかし、平成二一年一月一五日の大阪高裁判決(労判九七七号五頁)直前に中労委の素晴らしい命令が出て、約一年間の一連一体の系統的な通信労組に対する差別と大量配転の事前団交を拒否した違法を認めさせた点で、十一万人リストラの不当労働行為性を最後に公認させた意義は大きい。また、チャンピオン訴訟であった一次訴訟と異なり上記の二次訴訟を全員で提訴したのは、労働委員会闘争によって、通信労組発祥の地であり拠点である大阪支部を破壊する支配介入の不当労働行為であると誰もが直観したからに他ならない。
四 NTTの中央経営協議会とは持株会社が主導するものである。NTT法で持株会社は東西NTTに「助言・斡旋その他の援助」を行うとその支配介入権を明記され、当時の持株会社社長は記者会見で堂々と「東西地域会社が抱える人員を流動させなければならない時に、・・・構造転換のために持株会社は介入する。そのような資源配分の変革は黙ってやらせておいてはとても回らない」と公言し、最終的な集団的団体交渉の場でも、退職・再雇用者の賃金切下げ分の「激変緩和措置」の原資を持株会社が東西NTTに貸し付ける形で資金調達を合意した。このような持株会社の「使用者性」を、団体交渉と一体性・相互補完性を有する経営協議会による複数組合間差別という形で糾弾しえたのではないか。
五 NTTの一一万人リストラは、全労働者の「同意」をとりつけるというリストラ手法のために、たたかう通信労組に情報を与えず、約一年間の一連一体の不当労働行為を不可欠の手段とした。にもかかわらず、会社提案を受け入れたNTT労組の臨時中央委員会では中央委員の二割が公然と反対し、不当配転の脅しにも屈せず一〇〇名以上もの同労組組合員(その一部は通信労組に加入)と約三二〇名の通信労組組合員らが、大幅賃下げを伴う転籍である「アウトソーシング」に不同意の意向を示し、その後多数の通信労組組合員が配転無効訴訟に立ち上がっていった。困難で不透明な情勢の中で、堅実な不当労働行為摘発のジャブを放ちつつ大義名分を貫いた当時の西日本地本の役員を始めとする通信労組の皆さん、本当にご苦労様でした。当初予定していた大阪弁護団の役割もこれで終了します。
神奈川支部 穂 積 匡 史
二〇一一年六月六日、最高裁第一小法廷は、教職員に「君が代」の起立斉唱を命ずる旨の職務命令が憲法一九条に違反しないとする判決を言い渡した。
この事案は、教職員の再雇用の採用選考に当たり、東京都教委が不起立の一事のみを理由に不合格としたものである。こうした不起立を極端に過大視する異常な行政手法について、二〇〇八年二月七日、東京地裁は都教委による裁量の逸脱、濫用を認め、都に損害賠償を命じていた。しかし、東京高裁は二〇一〇年一月二八日、教職員らを逆転敗訴させ、これが今回の判決により確定した。大変に残念なことである。二〇一一年五月三〇日に第二小法廷、同年六月一四日に第三小法廷がいずれもほぼ同様の判決を言い渡している。全ての小法廷が揃い踏みしたことにより、最高裁として「君が代」の起立斉唱命令をめぐる憲法問題について決着をつけようとの意思が感じられる。しかし、多くの補足意見に加え、後述するとおり極めて強力な反対意見が付された結果、最高裁の意思に反して、かえって国旗・国歌を強制する問題の深刻さが浮き彫りにされたというべきである。
上記最高裁判決は、起立斉唱命令が「日の丸」や「君が代」に対する「敬意の表明」を強制する性質を有することから、憲法一九条の保障する「思想及び良心の自由」についての「間接的な制約」となる面があると認めた。しかし、当該命令には「上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」から憲法違反ではないと言う。
しかし、よく考えてみれば、「制約を許容し得る程度の必要性及び合理性」とは、つまり裁判官の胸先三寸に帰着し、審査基準の体を成していない。今日、一応の民主主義社会を標榜する国家において、公権力が必要性も合理性も装うことなく思想・良心を踏みにじろうとすることは容易に想定できないから、結局、上記審査基準は無意味に等しい。この判決は、最高裁が憲法の番人としての使命を放棄したものとして歴史に名を残すことになる。
教育は、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならない。かつて最高裁大法廷は、これを教育の「本質的要請」であると論じ、その背景に、「戦前のわが国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向を帯びる面があつたことに対する反省」を見出していた(旭川学テ最高裁一九七六年五月二一日判決)。
今回の判決には、学テ判決のような教育の本質への目配りを、残念ながら見つけることができない。思想・良心の自由を制約され、命令に面従腹背した教師が、はたして直接の人格的接触を通じて子どもの個性を伸ばすことなどできるのであろうか。それこそ、かつて大法廷が否定したはずの形式的、画一的な教育だったのではないか。教育現場に強制を持ち込むことを許容した今回の判決は、この国の教育を半世紀以上巻き戻してしまったものであり、二重に罪深い。
しかし、悲嘆ばかりしている必要はない。なぜなら、宮川判事の反対意見が、近い将来それが多数意見へと生まれ変わる説得力と深い洞察を備えているからである。
宮川判事は、自身は「自然に、自発的に(起立斉唱を)行う」と告白するが、それに続けて次のように言う。「少数ではあっても、そうした(自然に、自発的に起立斉唱を行うことのできない)人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる」と。この少数者へのリスペクトを出発点に、反対意見は、一般的でない心情や行動であってもこれを過小評価してはならないとし、厳格な審査基準を定立すべきとする。
そして、反対意見は、起立斉唱を命ずる都教委の意図が、式典の円滑な進行の実施にあるのではなく、まさに上記のような少数者を念頭に置いて、その思想・良心に反する行為を強制することにあったと見抜いた。公権力は、常に必要性と合理性を装って、自らに抵抗しようとする少数者の思想・良心を踏みにじろうとする。本件はまさにそういう事案であった。
反対意見は、少数者へのリスペクトと、多数者の横暴に対する警戒という、まさに憲法の真髄から説き起こした極めて格調高い判示である。
また、今回の一連の判決には、起立斉唱命令それ自体が違憲でなくとも、命令違反に対する不利益処分が違法となることを示唆する意見が多数付されている。
思えば、数々のヒラメ判決を生み出すこととなった「君が代」ピアノ伴奏拒否最高裁二〇〇七年二月二七日判決から今回の判決まで四年余りである。その間、ピアノ伴奏の強制が思想・良心の自由に対する制約とならないとした(と読める)判決に対して、当事者、市民、学界等からの強烈な批判が加えられ、最高裁は今回の判決で、起立斉唱命令が思想・良心の自由に対する制約となることを認めるに至った。ピアノ判決の射程ないし影響力は格段に限定され、早くも先例的価値を失ったのである。
このように見れば、ピアノ判決に比べて今回の判決は、思想・良心の自由の保障に向かって半歩前進したということもできなくはない。
これからは、宮川反対意見を足がかりに、少数者の思想・良心の自由が真に保障される社会を我々は築き上げていくことになる。
宮川反対意見は、上告人となった教職員らが、自らの教師生命をいわば犠牲にして勝ち取ってくれた宝ものである。これを大切に守り、そして大きく育てていく闘いが、これから始まる。
東京支部 山 本 裕 夫
山川豊さんが、布川事件弁護団に加わったのは、一九九五年のことだったと記憶している。第一次再審に破れ、第二次再審への展望を描けず、弁護団が混迷しているときに、颯爽と現れて「殺害自白と死体所見との不一致」という重大な争点を提起し、停滞しがちであった弁護団活動に新風を吹き込んだのが山川さんであった。
「自白と客観的事実との不一致を明らかにすることが何よりも大事だ」と山川さんは力説し、「ガラス戸の偽装工作に関する自白と現場の客観的状況との不一致」という論点を担当していた私に、「俺は殺害をやる。あなたはガラス戸をしっかりやってくれ。」と励ましてくれた(発破をかけられた?)ことを記憶している。
山川さんの思い出は、良いものばかりではない。ときに難解な自説を強硬に主張する山川さんに辟易させられたこともあれば、酒の勢いとはいえそこまで言わなくてもと思うようなこともあった。優柔不断組穏健派の私にとって、山川さんは、正直いえば苦手なタイプだった。でも、私は、山川さんが布川事件のためにたたかった二〇〇三年の最後の二か月のことは、いつかどこかで、同時代をたたかった人たちに克明に伝えなければと思ってきた。それは、そのとき山川さんの身近にいた者の義務であるとずっと考えてきた。
六月七日、検察官は控訴を断念し、櫻井さんと杉山さんの再審無罪判決が確定した。その義務を果たすときがきた。
二〇〇二年夏、木村康千葉大名誉教授(法医学)の殺害行為に関する意見書が完成し、弁護団は、この意見書を新証拠として、再審請求理由補充書とともに水戸地裁土浦支部に提出した。山川さんが手がけてきた殺害の論点をようやく世に問うことができたことを、裁判所からの帰りのタクシーで喜び合ったものだ。
そして、二〇〇三年夏、土浦支部は木村教授の証人尋問を決定。いよいよ山川さんの出番だと誰もが思った矢先の八月一九日、山川さんから私に「検査入院をした」との連絡が入った。その後しばらくして、「医師から許可をもらい、主尋問はできることになった」との連絡があり、安堵しながらも、山川さんが病状について多くを語ろうとしないことに私は不安を募らせていった。実はその間に山川さんは、他の仕事はすべてキャンセルし、木村証人の尋問準備に没頭していたのだ。病室に密かにパソコンを持ち込み、尋問事項案を精力的に作成していた。病室、山川事務所、私の事務所、尋問事項対策チームというルートで、山川さんの案とチームの意見がその都度交換され、修正のための議論が重ねられた。その修正意見に基づいて山川さんは病床で推敲に推敲を重ね、八月二六日から九月二三日までの間に作成された尋問事項案は、実に一一版に及んだ。 九月五日、木村先生との打合せには、奥さんが運転する車で、入院先の東京世田谷の病院から千葉までやってきた。その打合せのあとの食事会で山川さんが口にできたのは、小高さん(小高丑松団員。前・弁護団長)が特別に手配してくれたお粥だけ。普通食を受け付けない体で、何時間もの長道中に耐えて、駆けつけてくれたのである。
九月二〇日、木村先生との第二回の打合せには、もう山川さんの出席は得られなかった。その晩、打合せの結果を山川事務所にFAXし、翌二一日、私が尋問前の最後の打合せに病院を訪れると、そこにはすでに尋問事項書の最終版が用意されていた。早朝五時から前の晩のFAXを検討し、作業をしていたとのこと。尋問への執念がひしひしと伝わってきた。山川さんは、木村証人の尋問成功のため、そして布川事件の雪冤のために、彼に残された全ての力を注ぎ込んでくれていたのである。
実はその間に、弁護団の中では、山川さんの体調をおもんばかり、尋問担当者を交替したほうが良いのではないか、という意見が強くなっていたが、山川さんは「誰がそんなことを言うんだ。俺がやると言っているじゃないか。」と小高さんに強く反発したと聞いていた。弁護団の多数意見をふまえて、山川さんの説得という難しい役を買って出たのが、今は亡き清水誠さんである。山川さんの病室を訪ね、「山川さんはしばらく休んで、また大事な時に復帰してください」と話した清水さんに、山川さんは、「そんなんじゃないですよ」と答えたという。山川さんには、「大事な時」はもう二度と来ないことがわかっていたのだと思う。
ところが、二一日の山川さんと私との打合せの最後に、山川さんから私に、三日後に迫った主尋問の「前半部分を担当してくれ」と切り出してきた。そうせざるをえないほど、病魔は山川さんの身体を急速に蝕んでいたのだろう。しかし、それまでの山川さんの様子からみて、私には、山川さんが弁護士山川豊の最後の仕事として、命を賭してこの尋問に臨もうとしていることは、ほぼ間違いないことのように思われた。「ここまでやってきたんだ。山川さんが全部やれよ。」と口にしたのだが、その決断に至った山川さんの葛藤と無念に思いが及んだとき、私は涙をこらえることができなかった。
二〇〇三年九月二四日。奥さんの運転する車でやってきた山川さんは、土浦支部の第一号法廷で、その生涯で最後の尋問に立たれた。すっと背を伸ばし、激痛を微塵も表情に出すこともなく、一語一語に力を込めた尋問の見事であったこと。その姿と声は、いまも私たちの脳裏から消えることはない。大役を終えた山川さんは、「あとは頼む」の言葉を残して病院に戻っていった。この山川さんの研究と尋問の成果を何としても守らなければ。私も含め尋問のバックアップチームの面々は、木村先生の反対尋問に向けて必死の取り組みをした。一〇月二一日、反対尋問が無事終了。その深夜、「山川さんの尋問の成果はしっかり守り抜かれたぞ!」と大きな文字で書き殴ってFAXを送ったのだが、それから二日後、山川さんは、還らぬ人となった。
一〇月二八日の告別式。「豊くん、君の愛した故郷会津の山河は、やがて錦繍の装いを解いて凋落の季節を迎えます」。そう語りかけた同級生の弔辞から、私は、山川さんが工業高校から中大法学部へ苦労して進学したこと、在学中に父親を失う不幸にみまわれながらも文字通り石に齧り付いて大学を卒業し、そして司法試験に合格し法曹となったことを知った。そしてその故郷の風土といかなる困難をも乗り越えてきた強靱な意思が、あの無骨で一途な山川豊という人間を形造ってきたことを教えられた。
「死を目前にして、人はどう人たりうるのか。山川さんの最期に、あらためて考えさせられます。人の、これほど鮮烈な最期に、そして見事な生き様に接することが、果たして今後どれだけあるのだろうか、正直、そう思います。それはまさしく人権擁護と社会進歩のためのたたかいの中での壮絶な死でありました」。山川さんが逝ってから一年後、布川事件関係者で開いた「山川豊先生を偲ぶ会」の小冊子に、私はそう書いた。歳月が流れてもその鮮烈な印象は、少しも変わるところがない。
二〇一一年五月二四日、櫻井さん、杉山さんに、あの土浦支部の一号法廷で、再審無罪の判決が言い渡された。不当な別件逮捕から四四年。二人の雪冤の願いはかなえられた。山川さん、土浦の五月の空に響き渡った歓声は聞こえたか。高く高く掲げられた「再審無罪」の旗はみえただろうか。遅くなったけど、やっとやっと、あなたとの約束を果たしたぞ。
それにしても、あっという間の八年だった。その間に中田直人さんも清水誠さんも旅立たれた。この日をみんな一緒に迎えられたら、どんなに良かったことか。
でも、あとはみな元気でやってるよ。小高さんは団長を退いたけど、その後随分元気になられた。殺害の論点をあなたから引き継いだ青木さん(青木和子団員)の大活躍はそっちにも伝わっているよな。そうそう、あの尋問の際、証拠物の提示を担当した秋元さん(秋元理匡団員)は、いまや布川弁護団で一、二を争う理論家に成長したよ。理論家といえば、あなたと白熱の議論をしていた谷村さん(谷村正太郎団員)、弁護方針にいつも的確なアドバイスをくれ、私が事務局長で苦労しているときにいただいた励ましには本当に助けられた。え?「お前は何やった」って?「事件はみんなのもの」というあなたの言葉を遺言と思って、一人一人が自分の事件として取り組むことができるよう弁護団をつくってきたつもりだ。その点、柴田さん(柴田五郎団員、現・弁護団長)が、弁護団内では互いに「先生」と呼ぶのをやめようと提案してくれたのはタイムリーだった。あれから、あなたの知らない若手も大勢加わって、力を合わせてやってきたんだ。
「おいおい、山本さん。のんきなことを言っている場合じゃないぞ!だいたい、緊張感が足りないっ!」「これからこの成果をどう広げていくかが大事なんだ!」。
「わ、わかったよ、山川さん。わかったってば・・・」。
千葉支部 宮 腰 直 子
団女性部では、去る五月一二日、旬報法律事務所をお借りして、全教の先生方のご協力を得て、異業種交流会を持ちました。
都内のベテラン女性小学校教員四名が参加してくださり、団女性部員七名と、比較的少人数で懇談し食事もご一緒したので、主に小学校現場の具体的なお話や先生方の悩みなどをお聞きすることができました。
特にテーマを絞っていなかったので、話題は多岐に及びました。私の記憶に残ったことを書き連ねてご紹介します。
一 学区によって家庭状況が異なる場合もあるが、貧富の格差が広がっている。給食費の未納が二年前より増えている。教師が回収のため電話架けをしている。(教師に給食費の回収をやらせるとは・・・)
二 発達障害などを抱える子はクラスに六%いる。予算を付けないので現場で対応するための人が不足している。
三 新学習指導要領になり、社会・理科の量が増え、徳目的内容も増えた。徳目内容は教師の意識によって教育内容が変わってくる。
四 教師に「週案」(授業計画のようなものか)を提出させ、教育内容へ介入している。校長・副校長による「授業観察」があり、人事考査(年三回)や若い教師への「指導」を行っている。
五 「教師塾」出身の若い教師が学級担任となったが学級崩壊を起こしてしまったということがあった。(「教師塾」とは教育委員会が教員志望の優秀な大学生を選抜して養成する塾だそうです。二〇〇四年に都教委が始め、全国の教育委員会に広がっているそうです。普通の教職課程と別にコースを作る必要があるのでしょうか。)
六 学力テストの結果を分析して学校ホームページに掲載する。親からアンケートを採り、苦情があれば、教師を指導する。「学校公開」(昔の「授業参観」が変わり一日中ずっと公開しているらしい)が教師のあら探しの場になっている。若い新人教師が、明るかったのに適応障害になり、学校公開前になると学校へ行けなくなってしまい、退職したという例もあった。
七 多くの教師は週の労働時間がオーバーしている。健康診断で平均睡眠時間は年輩教師が六時間、若手教師は四時間。平均残業時間は月四〇〜五〇時間、月一〇〇時間を超える人もいる。朝七時に出勤し、夕方六〜七時まで部活を指導し、その後研究交流をするなど、過密労働で過労死ラインを超えている人もいる。
他にもいろいろ聞きました。私は子どもがいないので、小学校といえば大昔の自分の経験しか知らないのですが、今の小学校の現場がこんなになっていようとは思ってもいませんでした。
今回、愚痴も含めていろんな話を聞けてよかったと思いました。また、先生方のお話を聞いて、数値やマニュアルでは推し量れない、教育者としての経験の豊かさを感じました。一方で、優秀な若い教師が潰れてしまう現状に心が痛みました。教育者が心豊かに教育に専念できるような環境を作らなければと強く思いました。
東京支部 後 藤 富 士 子
一 離婚と子どもをめぐる紛争の実情
一九八〇年に私が弁護士になってから一五年程は、調停で離婚合意が得られない場合、直ちに離婚訴訟を提起しても離婚判決が得られないことから、「別居調停」で着地させるのが殆どであった。また、人事訴訟の管轄が地方裁判所であり、家裁のように調査官がいないことも、訴訟提起を躊躇させる要因であった。しかし、生身の人間のことなので、現状に合わせた法的処理をすることは極めて合理的なことであり、かつ、調停合意=自力解決である点で、当事者の自覚を高め、有益であった。
ところが、弁護士の数が増えて家事事件は「一大市場」となり、マニュアルに従って、有無を言わせない権力的・他力解決を求める手続が取られている。そうすると、弁護士が数で不足しているわけではないのに、費用の点で弁護士過疎が生まれる。
【事 例】
妻が二年前に四歳と七歳の子どもを連れて広島県の実家に帰ってしまった。妻は、東京の弁護士Aに委任して東京家裁に離婚調停を申し立てたが、子どもの親権争いのために調停は不調になった。一方、子どもたちに会わせるように再三申入れしたが妻は応じないので、夫は、子どもたちに会うための法的手続をとるほかなくなった。幾人かの弁護士に相談しても、「監護親が会わせないと頑張ってしまえば、たとえ審判になっても望み薄である」として、子どもの所在地が管轄裁判所なので受任しない。ちなみに、交通費は往復四万円弱であるから、調停期日に本人とともに出頭すると、交通費だけで八万円、それに弁護士の日当(五〜一〇万円)が加算される。しかし、子どもに会えないことを放置できないので、私は日当無料で夫から受任し、調停を申立てたところ、A弁護士は、広島の調停は受任しないで、東京家裁に離婚訴訟を提起した。
二 遺産分割事件―国家による強制分割
民法第九〇六条は「遺産の分割は、遺産に属する物又は権利の種類及び性質、各相続人の年齢、職業、心身の状態及び生活の状況その他一切の事情を考慮してこれをする。」と定め、第九〇七条では、共同相続人の協議による遺産分割を定めている。ところが、遺産分割調停は機能不全に陥っている。
【事 例】
亡父の相続人は、息子二人だけ。父生前には音信不通だった兄は、弁護士Bに委任して、いきなり銀行を被告にして亡父の預金の半分の支払を求める訴訟を提起した。それは、最高裁判決が「預貯金等分割債権は当然分割される」としているからであるが、それなら銀行窓口に行って手続するだけで足りるはずで、その場合、弁護士報酬は不要である。しかるに、銀行は、共同相続人全員の同意によるのでなければ支払に応じないから、訴訟にしたのであろう。そして、B弁護士は、訴訟事件として訴額に見合う着手金・報酬を得たのではないかと推測される。対立している兄弟を遺産分割調停で自力解決に向けて援助することに比べ、「濡れ手で粟」である。そして、個々の遺産につき一件ずつ訴訟手続をとるので、応訴する弟の精神的・経済的負担は計り知れず、弁護士は「忌むべき存在」である。
三 家事事件の解決―当事者の自己決定・自力解決の尊重
二〇万〜一〇万年前に地上に出現した新生人類(ホモ・サピエンス)の前に生存していた旧人の代表ネアンデルタール人は、コミュニケーション能力に乏しく、それが原因で生き残れず絶滅したとされる。コミュニケーション能力とは、社会を構成している多くの他者とのいい関係をつくり維持する社会的知性ともいえる社会性であり、このような進化の過程でヒトの脳は大きくなり性能を高めてきたという。
一方、「人間の本来的利他性」を主張する言説も古くからあった。アリストテレスは「人間は他者とともに生きるしかない社会的動物である」と喝破したが、ヘーゲルは、そればかりでなく、「自分を犠牲にしてさえ他者のためになることに生き甲斐を見出す生き物である」と断言している。さらに、ダーウィンは、人間の道徳性の起源である「苦悩する他者への共感や他者を助けたいという奉仕の心」が、自然淘汰によって強化されつつ遺伝を通して継承されてきた人間の社会的本能であるとしている。
「社会脳仮説」を実証した澤口俊之によれば、「人類の最も重要かつ基本的な社会戦略は、集団内のメンバーたちが互いに利他的行動をし合うことで集団内のメンバーたちの適応度(生き延びる確率)を総体的に高める戦略としての共恵戦略である。この戦略こそがヒトを人間たらしめているといってよい。ヒトが高度に発達させた共感もこの戦略と結びついており、この機能は前頭連合野が担っている。」という。
こうした脳科学の見地に照らせば、家事事件の現状は、人類の進化に逆行するもので、社会的脳機能の劣化・退化を示唆している。換言すると、家事事件こそ、権力や権威がしゃしゃり出ないで、当事者の自己決定・自力解決が尊重されるべきであり、弁護士は、当事者代理人として「漁夫の利」を稼ぐよりも、調停者として、あるいは面会交流援助者としての役割を担うべきであろう。
そこで、家事事件につき、次の改革を提言したい。
(1)家事審判を廃止し、人事訴訟手続と相続訴訟手続に、それぞれ一元化する。
(2)単独親権制を廃止し(民法八一八条三項「父母の婚姻中は」と八一九条全部を削除する)、父母の婚姻関係を問わず共同親権とする。そうすれば、子の監護に関する事項は、民法第七六六条により「共同監護」ベースで調停による解決が容易になろう。
参考文献:門脇厚司『社会力を育てる―新しい「学び」の構想』(岩波新書)
〔二〇一一・六・一二〕
大阪支部 城 塚 健 之
東日本大震災の被災地では多くの人々による献身的な活動が続けられている。大震災後、全労連メルマガ([配信申し込み]http://www.zenroren.gr.jp/jp/melmaga/)がひんぱんに送られてくるようになったが、そこでは全国各地から被災地に駆けつけた労働組合や生協などの活躍ぶりが伝えられている。こうした民間ボランティアももちろんであるが、生存者の救出や遺体の発見、がれきの撤去はいうに及ばず、被災者の生活確保、医療面・精神面でのケアなど、被災者の生活を丸ごと支援しているのは何と言っても公務員である。
それなのに、四月の統一地方選での、「役人天国」などと公務員バッシングをあおる大阪維新の会やみんなの党の躍進を見ると、国民はいったい何を考えているのかとあきれたりもする。そこでは、不信が、やっかみ、そしてバッシングにつながる短絡かつ暴力的な思考回路が幅をきかせているのであろう。マスコミはとかく自衛隊やボランティアをクローズアップするが、現場でがんばっている公務員の姿もきちんと報道してもらいたいものである。同時に、私たちも、公務労働者の果たしている役割を正当に評価し、真面目な公務労働者を支えてあげなければならないと思う。
そこで本書である(ちょっと強引だが)。これは昨年来私たち自治労連弁護団と自治労連とで準備を進めてきたもので、自治体に蔓延している偽装請負の実態と、それが生み出されてきた歴史的背景を明らかにするともに、その法的問題点を整理し、これを正していく方法を論じたものである。
案外知られていないことであるが、自治体には、市民課窓口・学校給食・保育所・病院など、さまざまな職場で偽装請負が蔓延している。それは自治体アウトソーシングの拡大に伴って広がってきたものであるが、それが違法であるのはいうまでもない。
ところで、大企業もそうであるが、自治体も、派遣法違反を指摘されると、往々にして外注先との委託契約を打ち切って済ませようとする。そうなると、そこで働いていた労働者が首を切られるだけで終わってしまう。そんな不条理を許すわけにはいかない。そもそも官製ワーキングプアを便利使いしてきたことが間違いなのだ。したがって形式的な適法性を確保させればよいのではなく、あくまでそこで働いていた労働者の雇用と労働条件を保障することこそが住民に対しても責任ある態度である。本書はこうした観点で書かれている。
また、民間の偽装請負に対しては、大阪の民法協派遣研究会のみなさんをはじめ、各地の団員がこの問題に果敢に取り組み、道を切りひらいてきたが、法的な問題点やたたかい方を書籍にしたものは少なかった。ましてや、「自治体の偽装請負」という名称の書籍はこれまでなかったと思う。本書は、自治体の偽装請負に正面から切り込み、これとたたかうための知識とノウハウを紹介しているおそらく初の書籍ではないかと思われる。
編者は「自治体の偽装請負研究会」という怪しげな名前になっているが、その実体は先に述べたように自治労連弁護団と自治労連である。II部構成で、第I部(実態・理論編)を弁護士が、第II部(運動編)を自治労連の役員が執筆している。第I部の執筆弁護士は、中尾誠(京都)、小部正治(東京)、渥美雅康(名古屋)、城塚健之(大阪)、尾林芳匡(東京)、野本夏生(埼玉)、河村学(大阪)の七名の団員である。
小部幹事長には、職権を濫用してでも、各方面に売り込んでいただくようお願いしているところである―というのは冗談だが、執筆者一同、お役に立てる本という意味では自信を持っている。ぜひ、多くの方に活用していただければと思う次第である。
★なお、執筆弁護士の総意として、本書の印税は、全額、被災地支援のため寄附することにしています。
(自治体研究社 二〇一一年四月刊 定価(税込み)一八〇〇円)
福岡支部 永 尾 廣 久
熊本で活躍している板井優団員の半生記が本になりました。ええっ、早くも自伝なんか出したの・・・、と驚いていましたところ、地元新聞(熊日新聞)が四五回にわたって「私を語る」という連載記事をまとめた本でした。こんなに社会的影響のある事件で勝ち続けているなんて・・・。改めて板井団員を見直しました。
板井さんは、沖縄出身です。幼いころはナナワラバー(沖縄弁で悪ガキ)と呼ばれていました。今を知る私なんかも、いやはや、さもありなんと、妙に納得したことでした。一般民事事件で相手方となったことがありますが、板井さんのもつド迫力に、私の依頼者は恐れをなしていました・・・。
板井さんの両親は沖縄出身ですが、終戦直前に沖縄を離れていて助かり、大阪で結婚し、戦後、沖縄に戻って板井さんが生まれたのでした。ですから、私と同じくベビーブーム、団塊世代ということになります。
たくましい板井さんの母親の姿には圧倒されました。土木所を営む父親が気の優しさから保証倒れで差押えされるのを見て、自ら合名会社を設立し、経営の実権を夫から奪って、オート三輪を乗りまわして会社を切り盛りしていたのです。日本の女性は昔から気丈なんですよね・・・。これは何も沖縄に限りません。私の家でも似たようなものです。小売酒店を営んでいましたが、亭主(父)は酒・ビールの配達に出かけ、母ちゃん(母)が財布をしっかり握っていました。
板井さんは沖縄の激戦地でシュガーローフのすぐ近くで育ったとのこと。この『沖縄シュガーローフの戦い』(公人社)は前に紹介したことがあります。
小学校は一クラス六〇人の二一クラス、中学校は一クラス六〇人の一八クラスでした。私の場合は、小学校は一クラス五〇人の四クラス、中学校は一クラス五五人の一三クラスでした。沖縄のほうがはるかに多かったようです。
板井さんは首里高校二年生のときに生徒会長になったそうですが、私も同じく県立高校で生徒会長(総代と呼んでいました)になりました。何ほどのこともした覚えはありませんが、他校訪問と称して四国や広島の高校まで泊まりがけで出かけたこと、役員になって先輩たちと楽しい関係が出来たことだけは良い思い出として残っています。
板井さんは、国費で日本留学(大学入学)したのでした。ええーっ、という感じですが、まだ当時の沖縄はアメリカ軍の支配下にあって日本に返還されていなかったのです。熊本大学に入り、そこで、今の奥様(医師)にめぐりあいました。弁護士になってから、水俣に法律事務所を開設し、水俣病訴訟を第一線で担いました。九年近い水俣での活動は大変だったようです。それでも、アメリカやギリシャ、そしてブラジルのアマゾン川にまで行って日本の水俣病問題を訴えました。すばらしい行動力です。そして、大変な努力のなかで水俣病の全面勝訴判決を勝ちとっていったのでした。
また、税理士会の政治献金問題訴訟(牛島訴訟)にも関わり、見事な判決を引き出しました。この判決は憲法判例百選に搭載され、司法試験問題にまでなったというのですから、本当に大きな意義をもつものでした。
ハンセン病訴訟でも実に画期的な勝訴判決を得ています。熊本にある菊池恵楓園があるのに、福岡で提訴する動きがあったそうです。やはり、地元の裁判所でないとダメだと板井さんは主張して熊本で裁判はすすめられ、裁判官の良心を握り動かすことができたのでした。
川辺川ダム問題にも取り組みました。熊本地裁で敗訴したものの、福岡高裁で逆転勝訴しました。流域二〇〇〇人の農家の調査をやり遂げたということです。その馬力のすごさには頭が下がります。
以上で一〇〇頁たらずです。あとの三〇〇頁は、板井さんの論文集が連載記事を補充するものとして掲載されています。関心のある部分を読めば、さらに理解が深まります。
板井先生、これからもますます元気でご活躍ください。
これも、私が福岡県弁護士会の書評コーナーで紹介したものの一部を改変したものです。
(熊本日日新聞社から二〇〇〇円+税で出版)