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早田 由布子 高校生模擬裁判選手権の支援弁護士を経験して
吉原  稔 市が県を国家賠償法、民法七一五条で訴える
地方税解釈について県の「適切な技術的助言」の誤りをめぐって
坂井 興一 *東日本大震災特集*
「逝く夏の日々」七月常幹調査行のことなど
神田  高 “どろ出し”〜石巻・女川へ (上)
馬奈木厳太郎 東京電力に対する第三次仮払請求(八月三日)と
東京電力本社での東京電力との交渉(八月一一日)についてのご報告
吉田 悌一郎 三〇K圏外(区域外)避難者の切り捨てを許すな!
〜原子力損害賠償紛争審査会中間指針を受けて〜
米倉  勉 避難区域の拡大の必要性、そして自主的避難を選択する権利を(下)
井上 正信 原点回帰した自由民主党
(自由民主党国家戦略本部報告書)
中野 直樹 「百名山」のはざまで



高校生模擬裁判選手権の支援弁護士を経験して

東京支部  早 田 由 布 子

 八月六日(土)、日弁連が主催する高校生模擬裁判選手権大会が開催された。私は、第二東京弁護士会から支援弁護士として都立高校に派遣され、ぱっきぱきの新人弁護士三名で、二か月近くにわたり高校生の支援を行った。

 私たちが初めて授業を訪問したときには、すでに、高校生たちは刑事裁判の基礎についてのレクチャーを受けていると聞いていた。しかし、私たちが支援活動を始めてすぐに持った違和感は、「無罪推定の原則が理解されていない」ということであった。「弁護人はどうやって被告人の『無実』を立証するか」「検察官はどうやって弁護人の無罪主張を崩すか」という議論がなされていたのである。

 私たちは、教員の方にかけあい、刑事裁判の基礎についてレクチャーを行う時間をいただいた。刑事裁判では、無罪推定の原則があり、よって検察官が有罪を立証する責任があること、刑事裁判とは「有罪か無罪か」を決めるものではなく、「有罪か有罪とは言えないか(guilty or not guilty)」を決めるものであることを説明すると、それは驚きをもってむかえられた。「疑わしきは被告人の利益に」という言葉を知っていても、それが実務的にどのような意味を持つのかは、経験豊富な教員の方をもってしても、理解されていなかったのである。先生の名誉のために言っておくと、それはその先生の問題ではない。弁護士の常識とそれ以外の人の認識は、これほど乖離しているということである。

 高校生模擬裁判選手権の目的は、刑事裁判に対する理解を深め、ディベート力を高めるだけではない。実務を行っている弁護士や検察官と直接触れ合うことも、模擬裁判の目的の半分を占めていた。

 この点については教員の方針が素晴らしく、弁護士が普段の業務を紹介する時間を設けていただいた。私は、業務のかなりの部分を労働事件が占めること、薬害イレッサ弁護団として活動していることについて話した。また、弁護士と検察官それぞれに対して、生徒全員が一人一つずつ質問をする時間が設けられた。高校生たちは鋭いもので、弁護士に「被告人が、どう考えても嘘だと思われるような主張をしてきたら、弁護人はどうしたらいいのか」だとか、支援検事に「起訴したものの有罪を立証できないと思ったとき、検察官はどうするのか」だとか、遠慮会釈もない質問を投げかけた。これらの質問のおかげで、刑事弁護人の果たすべき役割とその公共性、公益の代表者たる検察官のとるべき行動について、高校生たちに説明することができた。

 最近、弁護士(刑事弁護人)の果たす役割の公共性が、一般市民に一切理解されていないことがわかってきた。修習生の給費制が一般市民の支持を得られにくいことも、橋下知事による懲戒請求呼びかけがあれだけもてはやされたことも、根源的な問題はそこにあるのではないかと思う。弁護士が果たすべき社会的責任や、裁判制度の機能について、市民に知ってもらうことも重要なことなのではないか。また、団員が行っている人権活動について、その一端を知ってもらう機会ともなる。そして、こういった教育を経験した高校生たちが社会に出ていくのである。

 さて、私が担当した高校生たちは、(結果はともかく)素晴らしい取り組みを見せた。この経験を通じて、高校生たちが弁護士の公共的役割について少しでも理解し、将来裁判員になったとき等にこの経験を思い出してくれれば幸いである。


市が県を国家賠償法、民法七一五条で訴える

地方税解釈について県の「適切な技術的助言」の誤りをめぐって

滋賀支部  吉 原   稔

 八月四日に近江八幡市を原告、滋賀県を被告とした損害賠償請求を提訴した。

 私は、地方公共団体を相手に多くの住民訴訟や行政訴訟をしてきたが、地方自治体が依頼者となったのは初めてである。

 事案は、市の私立病院への固定資産税の課税について、地方税法の解釈適用について、県税務課に照会したところ、誤った回答を得たので、誤った課税を継続したところ、後にその誤りが発見され、過誤納金と加算金約二億円を返還したが、それによって地方交付税の錯誤を理由とする修正ができなかった分約八〇〇〇万円の損害を受けたというもの。

 県は、税務課の中に「市町村税に関すること」という職務分掌を設けて市町村からの照会を受けてきた。平成一二年の地方分権一括法によってこれは、地方自治法二四五条の四の「適切と認める技術的助言」、とされた。その技術的助言を誤ったことによる損害賠償請求訴訟は初めてである。そもそも、市が県を訴えるのも初めてである。

 争点は、「技術的助言」は国賠法一条の「公権力の行使」に当たる公務員といえるかであるが、これについては、これを「行政指導」とみて公権力行使に当たると主張している。

 しかし、民法七一五条が適用されるという当たり前のことに気付いて、これも選択的併合として追加した。

 実は、この当たり前のことに今まで判例がないのである(論文はあるが)。国や公共団体相手は国賠法と頭からきめつけて、「公権力の行使」かを議論した判例は数多くあるが、民法七一五条を併合して、それで勝った負けたという判例がない。

 これも、「ミネルヴァのふくろうは夕方に鳴くはコロンブスの卵であった」の一例である。

 もちろん、弁護士費用請求(一割)も追加した。


*東日本大震災特集*

「逝く夏の日々」七月常幹調査行のことなど

東京支部  坂 井 興 一

 遅れましたが、私がふるさと大使を務めております岩手陸前高田や各被災地へのご支援を頂きました団員各位に心から御礼申し上げます。

 ところで「日本百景・高田松原」の夏は、まことに良き季節でした。それが一転、知友のみなさんは復興の足掛かりも見えないまま、架設住宅暮らしのしんどさの中にあります。私も、一体、何人の方々を、こうした便りの住所録から外さざるを得なくなったことか。奈良・平安の頃からの産金地で、世界遺産平泉を支えたわが故郷は、寺も流され、旧盆行事もままならぬ状況でしたが、子供たちの楽しみでもある伝統の「動く山車七夕」を、鎮魂の手向けとして出すのだと、「希望と絆の一本松」保存関係者から聞きました。

 こうして旧盆の墓参りの日に、昼夜にわたって「動く七夕」が高田町で三台、河口の気仙町では一台だけなので喧嘩にならない「喧嘩七夕」が運行されました。方や江戸初期から、方や鎌倉時代かららしい山車七夕とは云え、東北三大祭りの影でさして知られることもなかったふるさとの夏祭り。物心がついた頃からのこの行事の意味に、ホントのところ初めて得心が行きました。秋祭りの飾り山車とは違い、これは亡き人たちと心通わす行事だったのですね。何もかも押し流され廃墟となった街跡に、懐かしくも賑やかな笛太鼓の囃子に手向け晴れ姿の山車。「七夕の廃墟の街に山車灯り/母と参りしあの朝はもう」。気持ちがあの頃に還り、自分が遺児・孤児になったようで、平静ではいられなくなっていました。(七月常幹調査行)七月一五日、平泉手前の一関から入り、気仙沼・陸前高田・大船渡・釜石・大槌を経て花巻経由仙台迄、半日で大駈けした七月常幹調査行から早ひと月。ご一行の各位には、即席ぶしつけのお願いで恐縮でしたが、十数万円もの義援金を頂戴し、廻り中が廃墟で、六十人の職員を失った市役所玄関前説明会に駆けつけて頂いた戸羽市長に、盛岡出身の菊池団長から直接お渡しすることができました。あらためて感謝・御礼申し上げます。そこから徒歩三分のところが家族を含め五人が流された私の実家跡だったのですが、余りの強行軍に立ち寄る間もなく、ひたすら先を急ぎ、お終いの大槌・吉里吉里の説明会場を出た頃はすっかり夕闇の中。その名刹では、世界的指揮者による鎮魂曲が演奏されたり、来る日も来る日もの住職さんの戒名書きや、過去帳復元の大変な努力が紹介されていました。帰途、何かと隣組縁のあった井上ひさし氏が軒昂な実母方に寄寓して癒しの日々に通い続けた釜石から遠野への道は既にして漆黒の闇の中。帰着時間を正直に言ったら恐れをなして参加する人がいないかとサバを読んでたらしい小部幹事長読み通りの仙台へのゴールはシンデレラタイム。それでさして文句も出なかったのは、氏の人徳や予期せぬ晩食によるより、目一杯に歴史的現場を体感した故のことだったでしょうか。

 翌日の幹事会は、青森からのネブタ運行が立ち往生するほど盛り上がっていた「東北(六県)六魂祭」の賑わいにふらつくこともなく、災害・原発対策等、盛り上がった議論展開でありました。そうした報告をする立場ではないのですが、みなさまからの義援金の御礼の一言を申し上げたくての投稿であり、ご海容願います。(新しき戦前)そして今、菅首相の退陣は、何故か肝腎の「脱原発宣言」もせず、これでは執拗に粘った意味もないようで残念です。折から京都五山での送り火での高田松原の薪使用も、セシウムカウントを理由に見送りとなり、一体何処まで拡がるのか見当も付かないと云うのに、後継候補の誰にも真剣対応の決意を感じられず、重ね重ね残念な次第です。私のこの夏は、いつも通りの九条の会、被災者支援活動に加え、東京大田区での不意打ち「育鵬社」教科書採択への巻き返し行動や、両国での「差別なき戦後補償を求める全国空襲被害者の会」の集い等、様々なことに身を添わせながらの日々です。多分、三・一一を境に否応なしに長い戦後が終わり、新しい「戦前」が始まっているのでしょうか。一切の目こぼしもなく手向けの薪にまで仇する放射能、その発生源と手を切ろうともしない国民・被災者不在の政治を変えるため、尊い犠牲に顔向けできるよう微力を尽くさねば…と申し上げるしかないのでしょうね。

 ともあれ、みなさま、ご健勝の程。


“どろ出し”〜石巻・女川へ (上)

東京支部  神 田   高

 七月二〇日夜一一時、ワゴン二台で武三地区(武蔵野・三鷹地区)から一四名が石巻へ向かう(市議二名を含む。神奈川からの参加も入れ一九名となった)。今回は夏休みに入った息子の玄も参加。わが家全員の参加となる。二一日六時近くに石巻救援センターに到着するも、まだ時間が早く、車中で仮眠をとる。救援センターは日本共産党宮城県東部地区委員会内に置かれている。シャッターの閉じた建物の前に中一の息子を立たせると、胸のあたりまで町が浸水された跡が残っている。

 打ち合わせを済ませた後、センター近くの住宅街の“泥だし”作業にむかった。大震災のイメージがあったので、石巻の最初の作業が住宅街の側溝の“泥だし”とは意外な気もしたが、津波が引いた後も、住宅街の側溝にはヘドロが堆積し、腐った臭いだけでなく、暑さとともに大量のハエが発生していた。衛生上も“泥だし”が不可欠であったが、地域が高齢化し、意外なことに重労働の同作業が早急に求められていた。

 “泥だし”には、まずコンクリートの重い側溝蓋を持ち上げ、外さなければならない。初心者にはこれが腰にひびき、手先にけがする者もいた。ゴム長靴で側溝に入ってスコップでヘドロだしをして、それを路上の相方のもつ土嚢袋に入れるが水分を含んでいて結構重い。細めの息子は側溝にスポッと入って“泥だし”には好適で“泥だし隊”に喜ばれた。

 担当地域の“泥だし”を終えると隣家からホースを出してもらい、“泥だし”後の住宅前路上をきれいにブラシかけをする。慣れない“泥だし”をしていると近所の女子生徒が丁寧に「ありがとうございます。」とうれしいそうに声をかけて礼をしていく。少ししんどいがこちらも手を抜くわけにいかない。猛暑下の作業を懸念したが、それた台風のおかげで熱中症は免れた。もちろん、素人だけでなく、地元の石巻労連の屈強の若者がリーダーとして差配してくれていて、効率よく作業は終えた(みな昼は駐車場内で伸びていた)。

 すべての泥だしを救援センターだけで行える訳ではなく、地域の町会の分担もあるそうだが、高齢化のためやりきれない様子だった。たまたま息子が細身を生かして、高齢の女性宅前の“泥だし”をしたが、その方は涙を流して喜ばれていたそうだ。

 “泥だし”と簡単に言うが、これにも継続と忍耐が求められた。大震災の“復興”がまず日常生活の回復にあり、継続性と集団性の重要性が思われた。同時に、地域の住民の方に喜んでいただいたことが何よりのボランティアの励みになった。「ありがとうございます。」には大変恐縮した。

二 石巻漁港から女川(おながわ)へ

 二一日午後は救援センターから石巻漁港へ向かう。途中北上川の辺にいかにも石森章太郎らしい萬画館を見る。奇怪な建物を支える柱などにぶら下がったお陰で命拾いした人もいたとのこと。三〇年以上前に、東北大に進学した友人に連れられて日和山公園から見た石巻漁港の姿のかけらもない漁港を見て、絶句した。津波と火災のため、あたかも広島や東京大空襲の焼け跡を彷彿とさせる惨状であった。漁港近くの学校校舎の窓を突き抜けていったであろう津波と火災の傷痕は震災のすさまじさを象徴していた。しかし、瓦礫撤去作業が進む漁港内に建てられた「がんばろう!石巻」の板看板は、“負けてなるマジ”の心意気を感じさせていた。日本製紙石巻工場の社長は、撤退のいかんを聞かれ、「復興まで頑張る。」と話したそうである。

 また、漁業は全くダメかと思ったが、漁港にはイカ釣り船の入港がみられ、破壊された巨大なタンクからガレキを引き出すクレーンの力強いひびきは、必ず漁港を復興させてみせると叫んでいるようであった。

 地元市議さんの案内で二台のワゴンに分乗したメンバーは心惹かれる漁港をあとにして、女川へ向かった。太平洋側に開いた女川湾の奥に位置する女川町の津波被害は甚大であった。高台にある女川町立病院は別格として、女川町内は石巻漁港と同様な壊滅的状況だった(町立病院敷地まで津波は襲ったそうだ)。中でも、建物ごと横転したままの三つのビルは津波の威力の強大さをリアルに物語っていた。

 「おや?」と思って見た「カンダ familiy plaza」をも津波は突き抜けていった。石巻線の終着駅である「女川駅」は、線路と(たぶん高齢者が多いため設置された)二階までのエレベータの骨組みだけを残し、姿を消した。

三 石巻市雄勝から大川小学校へ

 女川からさらに国道三九八号線を北上し、石巻市雄勝へ向かう。雄勝も女川と同様に太平洋側に開いた雄勝湾の奥に位置しており、高さを増した津波が町を襲っている。津波の激しさを象徴するのが、石巻市雄勝公民館の屋上に“乗っかっている”観光用大型バスである。私も、この光景を見たときは一瞬目を疑ったが、あたかも大江健三郎の作品に登場する山をまたいで走る巨人の仕業のごとく、屋上の一区画に計算されたかのように置かれている。

 雄勝は硯の名産地だそうだが、雄勝硯伝説産業会館には津波に運ばれてきた鉄骨のガレキなどが積み重なり、カラスが早くも住み込んでいるとのことであった。大量の津波に飲み込まれ、残骸となったバスなどが散在していた。

 さらに北上して、北上川沿いの大川小学校へむかう。六〇数名の生徒と教師がなくなられた大川小学校と周辺の堤防の工事が進められていた。小学校を臨む丘には、各地から支援にこられた方が手向けたお花と一瞬にして波に呑まれた子どもたちがのみたかったであろうペットボトルの飲料が捧げられていた。


東京電力に対する第三次仮払請求(八月三日)と

東京電力本社での東京電力との交渉(八月一一日)についてのご報告

東京支部  馬奈木厳太郎

一 第三次仮払請求について

 福商連(福島県商工団体連合会)は、八月三日、東京電力に対して第三次となる仮払請求を行いました。六月二八日、七月一三日に続く仮払請求です(今回は、一一五名、請求金額約一億一八〇〇万円)。

 福島県庁の会議室には、福商連の役員のほか、会員の方たちが四〇名ほど集まり、マスコミ関係者も約一〇名取材に訪れました。東京電力からは、福島原子力補償相談室福島補償相談センターの副所長と担当課長の二名が出席しました。副所長は、今回が初めての出席です。

 冒頭、福商連の副会長が、(1)五月三一日までの八一日分しか認められていなかった仮払いについて、六月一日以降分の迅速な支払いと、上限二分の一と限定されている支払額の撤廃を求め、あわせて、(2)いわゆる「風評被害」について、とくに観光業について、直ちに仮払いを行うよう求める内容の要請書を読みあげ、八月一〇日までに支払い意思の有無を書面で回答するよう求めました。

 続けて、私も発言の機会をいただきました。「今日は県内各地から多くの人が参加しているが、それぞれ業種も異なるし被害も異なる。東電は、一人一人の声や想いをきちんと受け止めて帰ってほしい。そして、速やかに対応してほしい。すでに事故から五カ月近くが経つが、被害はいまも日に日に増している。八月五日には中間指針が示されるが、その内容にとらわれることなく損害は損害として率直に認め、企業としての責任を果たすべきである。そもそも第三者に基準を作ってもらうのを待つという姿勢はおかしな話であり、待ちの姿勢は即刻改めるべきだ。八月一一日には本社での交渉も予定されているが、そこでは今日の要請を受け入れる旨の回答が得られ、その回答をふまえた実りある協議ができることを私たちは確信している」。大要、このような発言をしました。

 請求書を手渡す場面では、フラッシュの音があちこちから聞こえました。私は、パシャパシャという乾いた連続音を聞きながら、ふと参加者の方たちのことが気になり、振り返りました。参加者の方たちは、一様に請求書を受け取る東電社員を見据えています。笑みや明るさなど一つもありません。怒り、憤り、苦痛、もどかしさ、そういったものの混じりあった顔が並んでいます。満身の想いのこもった請求書が、東電に手渡されました。

 その後、数名の参加者の方が発言されました。「何度自殺を考えたかわからない」、「売上げが九割減少してこのままでは仕事を続けられない」、「生活の見通しが全く立たない。早く賠償してほしい」。せっぱつまった様子が、どなたの発言からもうかがえます。東電社員は、静かに聞いていました。「多くの業者の方に多大なご迷惑をおかけしている。本社にしっかりと要望は届けます」。担当課長は、勢いに押されたかのように答えました。

 「誠意を示してくださいっ!」。女性参加者の叫び声が背中に投げつけられるなか、東電社員は会場を後にしました。

二 東京電力との交渉について

 全商連と福商連は、八月一一日、東京電力本社において、東京電力との交渉を行いました。全商連・福商連からは一七名の参加、東電からは福島原子力被災者支援対策本部の部長以下六名が対応しました。団からは、小部幹事長、久保木・震災対策本部事務局長と私が参加しました。

 まず、部長が、福商連から出された八月三日付の要請に対し、口頭で回答をしました。これは、一で記した(1)と(2)に対するものですが、まず(1)については、本払いの準備を鋭意進めており、八月下旬をめどに、支払いに必要な書式や支払方法などの案内をすべく準備中であること、(2)については、仮払いは予定しておらず、本払いを予定しているところであり、過去の売り上げと事故後の売り上げという二種類の資料をご用意していただくことになるだろうといった趣旨の回答がありました。

 続けて、全商連・福商連側から、避難対象者が事業拠点を移転したいと考えた場合、移転に伴う費用の前払いができないか、事故により自殺した人の慰謝料などを損害として認識しているか、民商会員の減少により会費収入が減っているが損害と認識しているかなどの質問が出されました。

 東電からは、民商会員の減少の点については、後日書面で回答する、自殺した人の慰謝料を損害として認識しているかどうかについては、請求が具体的になされてから誠実に協議をすすめていくなかで考えていきたいといった趣旨の回答が、また事業移転に伴う費用の前払いについては、予定していないといった回答が、それぞれなされました。

 会員の方々からは、「先立つものがないと移転できない。一歩が踏み出せない」、「被害を被った業者にさらに負担とリスクを強いるのか」、「売上げ減収や避難で事業ができない状況。銀行はこんな状況では融資してくれない。東電が連帯保証人になって借入れをしろ」といった発言が相次ぎました。

 また、自殺されたキャベツ農家の慰謝料に関しては、「焼香に行くといった約束が過日なされているが、まだ行っていないようだ。どういうつもりか」、「自殺が事故を原因とするのは明らかだ。損害と認めて真摯に対応すベきだ」といった発言がなされました。

 同席した私たちも、「補償、補償というが、正しくは賠償だ。表現にも東電の姿勢が出ているのではないか。なぜ移転費用について前払いができないのか」、「東電は指針待ちのスタンスを変えるべきだ。指針待ち、指針の範囲内での対応ではダメだ。中間指針自体がそれではダメだと言っている。第三者に基準を作成してもらうのではなく、自ら損害を損害として認め、速やかに賠償をすべきだ。それが加害企業の当然の責任だ」、「指針から一歩踏み出すのが大事だ。移転費用の前払いなど、事業者の救済のためのスキームを独自に策定すべきだ」といった発言をしました。

 交渉の中心は、事前の段階では「風評被害」をめぐる扱いになっていたのですが、東電が本払いを予定し、その案内の準備中と回答したために、実際には事業移転に伴う費用の前払いや東電のスタンスなどが中心となりました。

 今回の交渉では、事前の要請に対する回答を得ることと、全商連・福商連が用意していた確認事項についての東電の対応を確認することが大きな獲得目標でしたが、東電が本払いを予定していると回答したことで、一定の成果はあったといえます。ただ、支払方法や支払時期については明確にしておらず、要するに請求の仕方や手続きについて八月下旬ころに案内ができると言っているにすぎないので、その内容次第ではさらに交渉が必要になるかもしれませんし、強く批判しなければならない事態になるかもしれません。

 個人的には、今回の交渉を通じて、改めて東電が責任をより小さく、より少なく、そしてできるだけ支払いを遅くしようとしていると感じました。指針の範囲で対応すれば事足れりと考えている、そんな印象を強くもちました。

 ところで、交渉会場に続く廊下では、至るところに東電社員が立っていて、私たちの存在を認めるや深々とお辞儀をします。一見すると案内役のようにも思えますが、立入警戒中という表示があったことからしても、むしろ監視役なのでしょう。被害者や一般の人を警戒し、社員を張りつけ警備する――こんなところにも東電の姿勢が表れているといったら、穿ちすぎでしょうか。

 全商連・福商連では、東電からの回答を待って、さらなる取り組みの具体化を予定しています。私も、震災対策本部の一員として、今後も頑張ってまいります。


三〇K圏外(区域外)避難者の切り捨てを許すな!

〜原子力損害賠償紛争審査会中間指針を受けて〜

東京支部  吉 田 悌 一 郎

一 八月五日の中間指針

 八月五日に、原子力損害賠償紛争審査会の「東京電力株式会社福島第一、第二原子力発電所事故による原子力損害の範囲の判定等に関する中間指針」が公表された。この中間指針では、事前の大方の予想通り、いわゆる風評被害等を除き、原則として政府による避難等の指示等に係る損害のみを賠償の対象としている。

 この指針では、たとえば第三「政府による避難等の指示等に係る損害について」の[損害項目]の「二 避難費用」のIII)で「避難指示等の解除等(指示、要請の解除のみならず帰宅許容の見解表明等を含む。以下同じ。)から相当期間経過後に生じた避難費用は、特段の事情がある場合を除き、賠償の対象とはならない。」とか、また、同「六 精神的損害」のIV)の(2)に「終期については、避難指示等の解除から相当期間経過後に生じた精神的損害は、特段の事情がある場合を除き、賠償の対象とはならない。」などと記載されている。いわば政府による避難等の指示等を賠償の根拠に据え、区域外、つまり、政府による避難等の指示等のなされていない地域の被害を切り捨てる思想が滲み出ている。

 指針に掲げられた損害項目、検査費用、避難費用、一時立入費用、帰宅費用、生命・身体的損害、精神的損害、営業損害、就労不能等に伴う損害、財物価値の喪失又は減少等、どこを見ても、政府による避難等の指示等があった区域以外の区域の被害についてはひと言も触れられていない。

二 増え続ける圏外(区域外)避難者

 現在、福島県からおよそ四万六〇〇〇人以上が県外に避難している。その中には、いわゆる自主避難者と呼ばれる、政府による避難等の指示等があった区域外、具体的には、福島市、郡山市、いわき市等から避難している人々が相当数いる。さらに、福島県内の一〇〇〇人以上の小中学生が、この夏休みを境に県外の学校へ転校予定だという。

 そもそも、放射線による人体影響は未解明な点が多く、三〇K圏外だから安全だなどと到底言い切れるものではない。実際、三〇K圏外であっても、福島第一原発二〇K圏内の警戒区域よりも高い放射線量が検出されている地域もある。特に、放射線感受性の高い子どもの被曝リスクは、大人の場合よりも格段に高いとされている。こうした状況を考えれば、区域外の地域の住民が健康被害を危惧して避難を選択することは、当然の心理であり、また当然の権利であるともいえる。

三 圏外(区域外)避難者の現状

 しかしながら、この区域外(圏外)避難者は、これまでも様々な不合理な境遇に苦しめられてきた。被災者を巡るあらゆる制度が、政府による避難等の指示等の有無を基準とした線引きが行われていたからである。

 たとえば、東京都は、六月末でそれまで避難所だった赤坂プリンスホテルを閉鎖し、避難者たちは、それぞれ都営住宅等に移行していった。しかし、圏外(区域外)避難者は当初、希望しても都営住宅等への入居を認められていなかった。また、圏外(区域外)避難者は、東京電力の仮払い補償金の対象とはならず、当初は義援金の支払対象からも外されていた。さらに、圏外(区域外)避難者は、地元で仕事を持つ夫を残し、母子で避難するというパターンが多い。しかし、生活保護における世帯分離が認められないため、実際上は二重生活で生活費が嵩んで最低生活水準を下回っても、生活保護を受けることができない。そして、より深刻な問題は、圏外(区域外)避難者は、いわゆる「自主避難者」と呼ばれ、放射線の危険はないにもかかわらず、自分たちの勝手で避難している人たち、このような避難者は自己責任といったレッテルを貼られ、残念ながらそのようなイメージで世間からも見られていることである。実際、私の知る限り、圏外(区域外)避難者はマスコミから実名や顔写真公表の条件で取材を受けることを極度に嫌がる。「自主」避難者というレッテル貼りのために、インターネットの二ちゃんねるなどで、「税金泥棒」などとあらぬ誹謗中傷を受けていることが原因である。

 福島県いわき市から子どもと一緒に東京都に避難しているある母親は、私に対して涙ながらにこう言った。

 「マスコミに出て圏外避難者の問題を訴えることの重要性は私たちもよく分かっています。でも、そういった誹謗中傷が子どもにまで及ぶことを考えると、どうしても実名での取材は受けることはできません。」

 彼女たちは、自分たちの不当な境遇を世間に訴えることもできないのである。

 重ねて言うが、圏外(区域外)避難者は、好きで地元を離れ、家族バラバラの不便な避難生活を選択しているのではない。放射線の健康影響への不安に苛まれ、やむを得ず避難しているのである。しかし、こうした圏外(区域外)避難者に対する補償、支援は完全に置き去りにされているのが現状である。

四 圏外(区域外)避難者に対する今後の見通し

 上記中間指針の公表にあたり、原子力損害賠償紛争審査会における「自主避難者に関する論点(案)」においては、「一般的には、指針の対象区域に居住する者ではなくとも、被曝の危険を回避するための避難行動が社会通念上合理的であると認められる場合には、その避難費用等は、賠償すべき損害となり得る。」とされた。しかし、他方で同論点(案)には、「政府が避難指示等の措置を何ら講じない地点において、自主的な避難をすることが合理的か否かについて判断する適切な基準があるかどうかが問題である。」とも記載され、結局避難指示等の区域での線引きの発想がここでも現れている。

 今後、圏外(区域外)避難者の問題が指針に盛り込まれるか否かは現在のところ不明である。しかし上記の流れからすると、仮に圏外(区域外)避難者に対する一定の配慮がなされたとしても、三〇K圏内と圏外といった明確な線引きを残した上で、見舞金程度の賠償でお茶を濁すという差別的取扱がなされることも十分に考えられる。

 今後、この東電の賠償問題に関しては、原子力損害賠償紛争解決センター(いわゆる原発ADR)が設置され、九月一日から申立の受付が開始されるようである。この紛争解決センターは、文部科学省所管の原子力損害賠償紛争審査会とは一応独立した機関であるとはいうものの、あくまで審査会の定める指針に準拠して和解の仲介等紛争の解決を行うものとされている。したがって、指針の内容が上記のような状況では、この紛争解決センターによっても、圏外(区域外)避難者の被害は救済される可能性は低いと言わざるを得ない。

五 完全賠償の実現を目指して

 圏外(区域外)避難者の被害を巡っては、上記のような今後の予想される状況を見越して、東電に対する集団訴訟提訴に向けた動きもあるようである。もちろん、私も最終的な解決手段としては、訴訟提起を否定するものではない。

 しかし、圏外(区域外)避難者の多くは、上記のような二重生活を強いられ、生活にも困窮し、加えて世間の理解も得られず、今後の見通しも立たない状況の中で、孤独と不安に苛まれて生活している。早急な被害救済が求められているのである。

 したがって、まずこの圏外(区域外)避難者の損害を、十分な形できちんと指針に盛り込ませることが何より重要である。あまり時間はないが、圏外(区域外)避難者の完全賠償の実現のための運動を広げていかなければならない。


避難区域の拡大の必要性、そして自主的避難を選択する権利を(下)

東京支部  米 倉   勉

三 避難を選ぶことによる損失

 但し、それまで生活していた地域から避難を余儀なくされることは、当然、巨大な社会生活上の損失を伴う。その地域で職業を得て働いていた人は、これによって収入を得ていたことはもとより、やりがいや誇り、喜びを見いだしていた人も多いはずだ。学校に通っていた人は学業の場を失い、それぞれの卒業資格を得られなくなるかもしれない。あるいは芸術、スポーツその他様々な社会活動に従事していた人も、地域から離れることで、そうした社会的活動の場を失うことになる。つまり、地域社会そのものが失われるのである。こうした影響には、損害賠償によって填補できる損失もあるが、金銭では填補しきれない性質の価値をも含んでいよう。

 次に、このような避難する個人の損失ではなく、地域社会そのものが陥る事態を観察するならば、地域の様々な産業や経済活動、生活活動によって有機的に構成されていた地域が機能停止することで、当該地域は、おそらく再生不能というべき打撃を受けることになるだろう。

 例えば警戒区域の中でも原発から至近距離の地域は、今後おそらく数十年間にわたって立ち入ることが出来ない可能性があり、もはや経済活動や生活の場である地域社会として、事実上存続不能となってしまうだろう。

 もう少し離れた計画的避難区域等の地域(例えば飯舘村等)においても、今後放射能汚染の低下がどのように実現するかの見とおしが明らかにされていないが、もし今後数年間以上戻れないとすれば、やはり地域社会としての継続性を確保することは、相当に困難になろう。

 さらにこれが、県庁所在地である福島市や、商業都市である郡山市であれば、一体どのような事態になるか。いずれも三〇万人都市であり、それが一時的にせよ一切の機能を停止することになることの影響は深刻だろう。そうなれば、仮に避難の期間が一〜二年で済むとしても、おそらく、その間の経済活動や生産活動の断絶によって産業が崩壊し、経済基盤を喪失することにより、都市としては回復困難な打撃を受けることになると思われる。広範な地域社会が、経済的破綻というべき事態を生じると予想される。このような重大な影響に対しても、適切な保障がなされる必要がある。

四 いずれの不利益を取るかという「選択」の強要

 このような事態を予測するならば、これらの地域において今まで事業を経営し、あるいは職業を持ち、学業や地域の様々な生活を営んできた多数の市民は、その生活を全て失うことには耐えられないかもしれない。仮に適切な賠償を受けられるとしても、それでは補えない不利益が残るからである。

 そうすると、今後、年間二〇mSvという基準を引き下げ、より低い数値での避難をするべきかどうかという「選択」が求められた場合、そのような不利益を受けるくらいなら、むしろある程度の健康被害を被ることを甘受するという選択が主張されることも想定される。「将来、癌を発症して死ぬ率が〇・〇二五%増加するとしても、四〇〇〇人に一人の確率に過ぎないならば、これまで築いてきた全てを失うよりもマシだ」という判断だ。

 それは人間の価値観の問題であり、不合理な判断だとは言わない。しかし、いずれも深刻な不利益の、どちらを選ぶのかという「究極の選択」を強制されているというのが実態であり、それ自体が理不尽な事態である。また、損失補償についての提示も、避難先等についての援助も何もない現状を前提しての「選択」であって、その選択自体が歪められた意思決定であることが懸念される。

五 避難を選択する権利

 しかし、避難を強制することと、避難する権利を行使することは別である。避難区域外の住民であっても、被曝による健康被害があり得る場合には、避難する権利が認められ、適正な補償がなされなければならない。 

 もし上記のような選択によって、政府が、あるいは地域社会の「多数派」が、避難による不利益よりも健康被害を選ぶという政策決定を行うというのであっても、それが価値観による選択である以上、もう一つの選択をする権利が保障されなければなるまい。生命・身体の安全、生存に関わるものである以上、ほかの社会的価値を犠牲にしても避難したいという価値判断、価値観は当然あるのであり、尊重されなければならない。それが多数決によって否定されることは、個人の尊厳を害する。

 特に、自分自身の被曝による健康被害ではなく、子どもの被曝を避けたいという保護者の判断は、一層強く保護されなければならない。子どもの放射線に対する感受性は大人よりも敏感であり、しかも残りの人生は大人よりも長い。さらに、発癌の危険だけでなく、生殖機能や遺伝性の障害という大人にはない健康被害の可能性があるから、その深刻さは質的にも異なっている。子どもを保護すべき立場にある親が、自分の生活よりも子どもの健康を優先したいと希望したとき、その選択を保護することが必要であり、それは基本的人権に属する。避難を選択する権利である。

 この権利は、現在、ほとんど保障されていない状況であり、東京電力も審査会も、避難を選択する住民に対し、これに要する費用の保障を行おうとしていない。現実に、子どもを抱えた地域住民が自主的に避難しようとする場合、それまでの職業(勤務先や自営業)を維持することは困難になり、一時的にせよ職を失う。さらに、住宅ローンを負っている場合、避難先での家賃とローンの二重支払いは不可能である。そして、転居や転校などに伴う様々な支出も少なくない。そうした経済的保障なしに避難を実現することは、実際には不可能に近い。夫だけを残して、母子だけが避難する場合であっても、程度の差はあれ同様の負担が生じる。また、そうした困難の中での不安と矛盾の循環の中で、夫婦が離婚の危機に瀕する事態も少なくない。

 それでも、中通り地方を中心に、自主的な判断によって山形や仙台などに避難しようとする動きが活発に起きている。筆者はこの間、「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」の活動の一環として、福島市内や郡山市内での法律相談に加わったが、汚染の実態を知った親たちの決意が強まっていることを実感している。いずれも仕事や住宅ローンを抱えての移転であり、経済的な負担は重く、悩みは大きい。それでも、子どもを持つ家庭を中心に、そうした動きが確実に増加していることの重みを厳粛に受け止めるべきである。東電と政府は、こうした避難指示地域外からの自主的な避難(「自主避難」と呼ばれている)に対しても、早急に適切な保障を実施しなければならない。

 毎日新聞の七月二八日付社説は、「原発自主避難 実態に即して補償を」という見解を明らかにした。同社説に依れば、福島市だけでも三〇〇人以上の子どもたちが県外などに転校したとされるという。「福島県は、自主避難の経費を賠償対象に」と政府に要望した。日弁連も、年間五・二mSvを超える放射線量を検出した地域からの自主避難者への賠償は、最低でも必要だという見解を公表している。また、同日の共同通信の配信では、枝野官房長官が、自主避難でも賠償の対象になるという見解を示したとされる。こうした報道は、さらに現地の意思決定を押し進めるはずである。

六 被害者同士の価値の衝突?

 ただし、もう一つ深刻な事態として、こうした自主的な避難の選択に対し、同じ地域社会の中での衝突が感じられるという指摘がある。そこには、さまざまな要素があるようだ。

 自分たちだけ安全を確保するのか、残る我々はどうなるのかという素朴な反感もあるだろう。除染の努力による地域社会の維持を指向する住民には、自主避難者が増えては、その努力が困難になるという思いもあるはずだ。あるいは、自主避難者の存在が、さらに「汚染地域」という評価を呼び、復興に悪影響を及ぼすという経済的な判断もあり得る。

 しかし、これはまことに不毛かつ悲しい衝突である。原発事故によって、いずれも深刻な不利益(被害)のどちらを取るかという選択を強要されながら、その選択について被害者同士が対立するというのは、理不尽であり、二重の被害である。そのような事態は何としても避けなければならない。市民社会における、人権保障に対する姿勢のあり方が問われている。それをあるべき方向に軌道修正することも、重要な課題であろう。

(二〇一一・七・三一)


原点回帰した自由民主党

(自由民主党国家戦略本部報告書)

広島支部  井 上 正 信

 自由民主党は、七月一九日国家戦略本部報告書を発表しました(http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/112141.html)。この報告書は、同党が二〇一〇年一月二四日に党大会で採択した新綱領(二〇一〇年綱領)を基本に、中長期の政策の方向性を定めるという位置づけです。新綱領は、政権奪回を目指して同党内に立ち上げた政権構想会議の勧告を受けて作成されたもので、国家戦略本部報告書は、同党の政権戦略上の重要文書になります。国家戦略本部は昨年九月同党内に設置され、六つの分科会で検討を重ねられてきました。外交・安全保障問題を扱っているのが第五分科会報告書です。

 新綱領は、自由民主党の政策の基本的な考え方の最初に新憲法制定を掲げて、憲法の明文改正を明確にしています。

 第五分科会報告書が提起する憲法問題は、国家安全保障会議の常設、集団的自衛権行使を可能にすること、PKO活動の際の武器使用権限の緩和と自衛隊海外派兵恒久法制定、国家緊急権制度を導入するための憲法改正、非核三原則を二・五原則とする、防衛費増額とそのための新防衛計画大綱・中期防の策定などです。これらは、これまで同党が様々な機会に公表してきたものです。

 国家安全保障会議の常設は、安倍首相が執念を燃やしたものです。形骸化した安全保障会議に代えて、米国の国家安全保障会議(NSC)をモデルに安保防衛政策で首相を中心とした官邸機能を強化し、首相官邸とホワイトハウスとが常に意思疎通をできるようにすることを狙ったものです。二〇〇六年四月に法案(安全保障会議設置法改正法案)を国会へ提出しました。しかしながら、肝心の安倍首相が二〇〇七年九月に首相の座を投げ出して辞任したことや、国会のねじれから成立の見込みがたたず、二〇〇七年一二月福田内閣は廃案にすることを決定しました。

 集団的自衛権行使については、安倍首相が設置した「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇と略)」が二〇〇八年六月二四日発表した報告書が提言しました。安保法制懇報告書は、(1)公海における米艦防護、(2)米国に向かうかもしれない弾道ミサイル迎撃、(3)国際平和活動における武器使用、(4)同じ国連PKO等に参加している他国の活動に対する後方支援という四類型を挙げ、憲法解釈の見直しを提言しました。(1)、(2)が集団的自衛権行使を求めるもので、日米同盟の強化という目的のためです。(3)、(4)は武力行使禁止原則の例外を作ろうというものです。(3)は、任務遂行のための武器使用や駆けつけ警護で武器使用を認めようというもので、(4)は、「武力行使一体化論」をやめようというものです。武力行使一体化論は、現行自衛隊海外派兵法制の骨格を形成しているもので、海外で自衛隊が武力行使をしないための歯止めの理論です。つまり(3)、(4)は海外で武力行使をすることを狙ったものでした。

 自衛隊海外派兵恒久法は、自由民主党が一貫して狙ってきたものです。二〇〇二年一二月小泉内閣の福田官房長官(当時)の下で作られた「国際平和協力懇談会」が報告書を作成し、その中で、駆けつけ警護や任務遂行のための武器使用を認め、自衛隊海外派兵一般法(恒久法)制定を提言しました。更に二〇〇六年八月三〇日自民党国防部会防衛政策検討小委員会(石破茂委員長)が、「国際平和協力法(案)」と題する恒久法案を発表しました。この法案は、これまで憲法九条に関する政府解釈からできないとされてきた自衛隊の活動や武器使用権限をことごとく認めようとする内容であり、憲法九条の規範力のほとんど全てを取り払いかねないものでした。具体的には、自衛隊の部隊としての武器使用や任務遂行のための武器使用を認め、治安維持活動、警護活動、船舶検査活動を可能にし、任務遂行の妨害排除のためであれば、刑法第三六条、三七条(正当防衛、緊急避難)でなくても、相手を殺傷できるなど、まさに海外での武力行使を公然と認めるものでした。

 これを受けて二〇〇八年一月、給油新法成立後に恒久法制定のための本格的検討にはいるため、与党内にプロジェクトチームを設置することを決めました。福田首相も法案に意欲を示していました。

 自由民主党防衛政策検討小委員会は二〇〇九年六月九日「提言・新防衛計画大綱について」を発表しました。この提言は、当時麻生内閣で進められていた一六大綱の改訂作業へ、自由民主党の政策を反映させることを狙ったものです。この提言が発表された後の二〇〇九年八月、一六大綱見直しのため総理大臣諮問機関として設置された「安全保障と防衛力に関する懇談会(安保防衛懇と略)」(勝俣恒久東電会長が座長)が、報告書(安保防衛懇報告書)を発表しました。

 自民党提言は、これまでの自由民主党が折に触れて公表してきた解釈改憲、立法改憲の集大成と言ってもよい内容です。詳しくはこの連載コーナー二〇〇九年六月二七日、七月一〇日、八月二二日にアップした「憲法改正を狙う自民党提言」(一)〜(三)をお読み下さい。

 提言は、国家安全保障会議の創設、自衛隊海外派兵恒久法制定と安保法制懇提言の実施(憲法九条に関する法基盤の見直しー解釈改憲のことです)、中国の軍事力増強を強く意識した防衛費の増額など、第五分科会報告書とほとんど同じ内容です。

 安保防衛懇報告書は、安全保障・防衛政策に関するこれまでの基本方針を見直すべきとし、集団的自衛権行使を提言した安保法制懇報告書の全面実施、警護活動と任務遂行のための武器使用を容認し恒久法制定などを提言しました。

 国家緊急権制度については、二〇〇四年一一月一七日「自民党・憲法改正草案大綱(たたき台)」が提案しました。国家緊急権とは、「戦争・内乱・大規模自然災害など、平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置を執る権限」とされています。究極の国家緊急権制度が戒厳令です。戒厳令下では、行政・司法権が戒厳令司令官に集中されます。国家緊急権制度の最大の問題は、憲法の憲法たる所以である立憲主義を停止させることです。立憲主義とは、国家権力を憲法により制約して、市民の基本的人権を保障するという憲法上の機能です。これをわかりやすく言い換えれば、「基本的人権は保障される。但し平時に限る。」ということになるでしょう。これを停止するということは、いわば憲法の自殺行為になりかねません。その後自由民主党五〇周年の党大会(二〇〇五年一一月二二日)に採択された新憲法草案では国家緊急権制度は含まれませんでした。

 東日本大震災以降、改憲派の政治家から国家緊急権制度を創設すべきとの声が出てきました。東日本大震災を利用したあまりにも唐突な議論のように思えたので、私は一過性の主張と軽く受け止めていましたが、国家戦略本部報告書で、非常事態に迅速な対応ができるよう、「憲法を含め必要な整備を行う。」としたことから、国家緊急権制度を憲法改正で導入しようとする自由民主党の改憲政党としての執念を感じたのです。新綱領は政策の真っ先に憲法改正を掲げているなど、同党立党以来の党是である憲法改正という原点へ回帰するものです。

 六月七日自民、民主など超党派の改憲派議員約一〇〇名が「憲法九六条改正を目指す議員連盟」を発足させました。顧問には安倍晋三、麻生太郎、森喜朗の各議員が就任しました。憲法九六条は、改憲案の発議要件を定めています。議連は、衆参各議院の三分の二の発議要件を過半数に変えようとするもので、改憲発議を容易くして九条改憲を狙う、いわば二段階改憲策動です。民主党は五月一〇日憲法調査会を設置し、ごりごりの改憲論者である前原誠司衆議院議員を憲法調査会会長とすることを決定しました。東日本大震災のどさくさで、憲法改正の気運を高めようというのでしょう。国家戦略本部報告書は「日本再興」という標題が付けられています。

 しかし、東日本大震災の被害状況は、憲法を生かした復興こそが求められていることを示しています。憲法を生かした被災地の復興を要求し、改憲論を封じ込めなければならないと思います。

 前回の原稿「より深化し、拡大する日米同盟?」で、日米二国間の「拡大抑止協議」に言及しました。その後もこれが気になり、赤嶺衆議院議員の秘書の方に外務省へ問い合わせをしてもらいました。その結果、二〇一〇年二月一八日と二〇一一年三月三日の二回開催されたこと、出席者は、日本側から外務省北米局審議官、防衛省防衛政策局次長、米国側から、国務省次官補代理、国防総省次官補代理とのことでした。但し開催場所や協議内容には答えられないとの回答でした。この問題は引き続き関心を持ってフォローするつもりです。新しいことが分かればお知らせします。

 この原稿は、News for the People in Japanに掲載されたものです。左記のサイトも是非ご覧下さい。

http://www.news-pj.net/


「百名山」のはざまで

東京支部  中 野 直 樹

百名山から落選した三千メートル嶺

 深田久弥氏が「日本百名山」を著したのが一九六四年である。新幹線も飛行機も利用できない時代に、この数倍の山頂に立って、還暦の年に百を選出したという。深田氏は選出基準として、第一に山の品格をあげ、誰が見ても立派な山だと感激するものでなければならないことをあげる。第二に、山の歴史を尊重し、人々が朝夕敬い、山霊がこもっている山がよいという。第三に個性、その山だけが具えている独自のものを尊重する。この三つを立てたと記す。山容の描写の巧みさとともに、この三つの視点を折り込んだ端麗な文章は味わい深く、私たちを魅了する名著である。「百名山」は登山の世界に入り込んだものの心をとらえ、その踏破の目標ともなった。弁護士仲間にも既に全山制覇した人、この夏もめざして一つ一つつぶしている人の話題が聞こえてくる。同書が世に出て半世紀が過ぎた。名山の観光地化、登山の営業目的化が著しく進行しており、団体登山を嫌った深田氏がいま「名山」を選ぶとすると幾つ残るであろうか。

 日本の三千メートルを超えた「岳」「山」を数えると二三ほどある。このうち、槍ケ岳と穂高岳をつなぐ稜線上にある中岳と南岳、北岳と間ノ岳を結ぶ稜線に位置する中白根山は三角点もなく、「百名山」の選外である。

 三千メートルの嶺の一二座が南アルプスにある。そのうちの一つ農鳥岳(三〇二六メートル)は、北岳(日本第二の高峰)と間ノ岳(第四峰)とともに白峰三山とよばれており、二等三角点が設置されているが、「百名山」の名誉は与えられていない。深田氏は、この山に冷たく、「間ノ岳」の章で、「この堂々たる山に間ノ岳という屈辱的な名をやめて・・農鳥山という個性的な古名を存した方が適切だったろうと思う」「現在の農鳥岳には、南岳或いは別当代の名を当てたかった」と述べている。

再び南アルプスへの道へ

 私は、大学三年のとき、駒場時代からの山仲間と二人で、日本で一番つらい登りと言われる、二千四百メートルの高度差をもつ黒戸尾根をルートに甲斐駒ヶ岳に登り、そこから塩見岳までテント四泊の縦走をした。天候にめぐまれ続けたことは何よりで、南アルプスの一つの一つの山の腰廻りの大きさ、山容の威容さ、山肌の秀麗さに感嘆し続けた。北岳から間ノ岳を経て、塩見岳に向かう高山植物の咲き誇る稜線の山行は今も思い出深い。その後、南アルプスの奥深さから、登山でも釣りでも入山することがなかったが、五〇才になったことを機に、せめてピークにとらわれず三千メートルの地全踏破を自己満足でも記録にしておこうと思いたった。未踏の高地は、御嶽山と南アルプスの南部、そして学生時代に疲れと恐怖で回避した穂高のジャンダルムである。

 二〇〇九年五月、御嶽山へ山スキーで登った。山岳信仰のメッカともいうべきこの日本最大の山塊も標高二一五〇メートルまで御岳ロープウェーがかけられているために、ボーダーやスキーヤーが山頂めざして列をなしていることに驚いた。山頂の「御嶽真大尊神」と書かれた鳥居の直下から高度差千メートル弱のダウンヒルは爽快ではあるが、波打ったザラメ雪が足にこたえ、スキー場ゲレンデ近くの林間でへたばってしまった。

 同じ年六月末、梅雨の晴れ間をねらって、南アルプスの再スタートに農鳥岳とそれより二五メートル高い西農鳥岳(三角点なし)を選んだ。

三千メートルへのいざない

 事務所の若い事務局柴田健君に声をかけた。彼は、大学時代を過ごした神奈川の青年運動や東京の法会労でも活動し、柴ちゃん、しばけん、と親しまれている。彼は山形の中学時代に柔道で黒帯をとり、高校ではレスリングでインタハイに出場した体育会系でもある。山はと聴くと、最近屋久島の宮ノ浦岳に登ったという。具合のよいことに山靴も寝袋も持っている。私は、彼に、三千メートルの魅力を語り、岩魚を食わせる、雨具を揃えれば、あとは私がすべて準備すると説いて、早朝の待ち合わせとなった。

 中央道を甲府南ICで降りて、富士川沿いに南下し、支流早川の上流に向かい奈良田温泉に着いた。ここは、北岳への登山基地・広河原に向かうバスの発着場である。ラジオから三五度の猛暑日だと言われながら、奈良田第一発電所から広河内川の林道を歩み始めた。この日の行程は、大門沢小屋までコースタイムで四時間三〇分である。炎天下に汗を流しながら一時間ほど歩いて河原におり、昼食。餅入りラーメンと清流に冷やしたきゅうり・トマトなどで柴田君の腹を満たした。お湯を沸かしている合間に竿をとりだし毛鈎を振ってみたが、かすかな当たりを感じただけで、岩魚出汁はお預けとなった。

 車道の終点で真新しい吊り橋を渡り、本格的な山道になった。高度感あふれる二本目の吊り橋は三列の板敷きであったが、あちこちの板が腐食して穴が開いており、踏み抜けないか心配しながら、ワイヤーをつかみながらそろりそろりと渡った。発電用の取水口にある吊り橋を右岸に渡ったあたりから、沢から離れ、尾根斜面をじぐざぐにたどる急登にあえぐ。地図には八丁坂と書いてある。小尾根を越えるとブナの森が広がり、一旦遠ざかっていた沢音が戻ってきた。再び沢沿いの山道をたどり一六時四五分、大門沢小屋に到着した。この日はここの冬季小屋で自炊である。

 なにはともあれ柴田君と安着を祝ってビールで乾杯した。私は、急いで米を研いだあと、渓流シューズにはきかえて、釣竿を手に渓に立ち入った。(続く)