<<目次へ 団通信1393号(9月21日)
倉持 惠 | 九・四須賀川畜産農家向け相談会の報告 |
吉田 悌一郎 | 取り残される双葉町からの避難者 〜リステル猪苗代を訪問して〜 |
吉田 健一 | 新たな装いで準備される「国家機密法」 ―有識者会議報告の危険性 |
後藤 富士子 | 「共同親権」制の溶融 ―「民法七六六条類推適用」のベクトル |
菊池 紘 | 大塚一男さんへのお別れのことば |
藤本 齊 | 大塚一男団員を悼む |
大久保 賢一 | *書評* 毛利正道著「復興・財源は支え合いでこそ」 |
中野 直樹 | 「百名山」のはざまで |
福島支部 倉 持 惠
一 さる九月四日(日)、福島県須賀川市で、須賀川民商主催の原発事故相談会が実施されました。福島県では、これまでほぼ県内を一巡する形で相談会が実施されており、須賀川市では二度目の相談会になります。
福島県は、東電の原発事故によって、もともと全体として深刻な被害をこうむっていましたが、七月に生じたいわゆるセシウム牛問題により、畜産農家を中心にさらなる価格暴落に見舞われ、被害がますます拡大しているという状態です。そこで、今回は、対象を畜産農家に絞った形で実施されました。このように対象を絞った相談会は今回が初めてとのことです。
二 今回の相談会には、県外から十数名の団員と、県内から二名の団員が参加し、原則として二人一組でペアを組んで相談に対応しました。
私自身は、福島市の弁護士であり、福島県内にいてこの底の見えない原発問題と日々向き合っているつもりですが、それでも、相談会に参加するたびに新たな発見があります。出て行って直接話を聞くことで初めて見えてくる被害の実態というのがまだまだたくさんあるということに毎回ながら反省させられます。
三 さて、今回の相談会でも課題・問題含め、いろいろな発見がありました。
たとえば、被害のとらえ方に関して、次のような問題が明らかになりました。これは、ある相談者の話ですが、牛の風評被害については、売却日における同ランク牛の全国の市場価格と比較し、その差額を被害額として計算しているということでした。牛の値段については、さまざまな要素による変動がありうるため、そのような算定方法も一概には否定できない面もあるかもしれません。しかし、そもそも、全国の市場価格自体が原発事故によって例年に比べ下落しており、原発事故の影響をも含んでしまっている当該価格と単純に比較することは問題があります。
何より、決定的に問題なのは、この算定方法を採用すると、セシウム牛問題以降のもっとも被害が深刻な時期に、「被害なし」となってしまうということでした。要するに、セシウム牛問題直後は全国的にも大幅な価格暴落が生じ、福島牛とその他の牛の価格差がなくなったため、価格は暴落しているのに「差額」としての被害が出てこないのです。この算定方法を採用している畜産農協は、実際に「被害なし」との判定をしているということでした。しかし、原発事故によって被害が深刻化し、被害が全国に広がれば広がるほど被害額が少なくなるなどという計算方法は明らかに欠陥があるとしか思えません。
四 その他、一口に畜産農家といっても、その経営形態はさまざまであり、どのように損害をとらえ、積算していくか、なかなか困難そうであるということも明らかになりました。特に、複合的な経営形態を採用しているところでは、上記のような損害のとらえ方の問題も加わって、本人だけで正しい損害額が算定できるのか、疑問が生じました。
相談会終了後、参加した団員の間で、損害のとらえ方の問題や今後のフォローのあり方等を巡って、いろいろと闊達な議論が取り交わされました。
東電の原発問題は、時間の経過とともに問題点も煮詰まって先行きが見えてくるというような段階には到底至っていないな、というのが私個人の実感です。進んだと思うとぶつかり、はじき返され、また進み…の繰り返しという感覚ですが、ともかく動かないことには何も解決しない、ということで、これからもあちこち進み、ぶつかりを繰り返しながらも頑張っていきたいと思います。
県外の皆さまには、毎度毎度、多数ご参加いただいておりますが、最後まで一緒に頑張っていきたいと思いますので、これからもどうぞよろしくお願い致します。
東京支部 吉 田 悌 一 郎
一 リステル猪苗代への訪問
私は、東日本大震災発生の直後の時期から、東京災害支援ネット(略称とすねっと)で活動を行ってきた。東京災害支援ネットとは、今回の東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所事故で被災して避難している方々を支援するため、弁護士、司法書士、税理士、支援者等によって結成されたボランティア団体である。
我々とすねっとの所に、福島県猪苗代町にある「リステル猪苗代」というリゾートホテルで、双葉町からの避難者約五〇〇名弱が避難所生活をしているという情報が入ってきた。あの震災から約半年余りが経過し、全国の避難者はおおむね避難所を出て、仮設住宅等に移行しているこの時期に、一体なぜこれだけの人数の避難者が未だに避難所暮らしをしているのか。正確な情報を得るためには、やはり現地に足を運ぶことが欠かせない。
そこで、九月九日(金)の夜、他のとすねっとのメンバー三名と私の合計四名は、東北新幹線に飛び乗り、「リステル猪苗代」に向かった。郡山からレンタカーを借り、約一時間程度自動車を運転して「リステル猪苗代」に到着した。
二 分断された双葉町の住民たち
翌九月一〇日(土)の午前中、私たちは「リステル猪苗代」で生活をしている、双葉町からの避難者の方々からお話を聞く機会を得ることができた。
双葉町は、三月一一日の原発事故発生以降、急遽役場機能自体を埼玉県のさいたまスーパーアリーナに避難させ、現在は、同じさいたま県内の旧埼玉県立騎西高校内に役場機能がある。旧騎西高校も避難所となっており、九月一〇日現在で約八〇〇名の避難者が生活している。しかし、約七〇〇〇人いる双葉町の住民のうち、約三〇〇〇名程度は福島県内で避難しており、そのうちの約五〇〇名はこの「リステル猪苗代」で生活している。
一番最初に彼らの口をついて出たのは、町役場に対する不満や苦情であった。町役場の機能が地元になく、遠く離れた埼玉県にあるため、たとえば介護認定に関する手続一つ行うのにも埼玉にある役場まで出向かなければならず、不便であることこの上ない。せめて支所機能が福島県内にできればまだ話は違うのだろうが、現在は「リステル猪苗代」の中に「連絡係」のような部署があるだけで、実質的な役場機能は全くないとのことであった。
このことと関連して、自治体機能が福島県内にないために、福島県内の他の自治体との間の、自治体同士の連携がうまく行かず、そのために、福島県内にいる双葉町からの避難者の仮設住宅入所が遅れているようだ。彼らが未だに避難所生活を強いられている最大の原因がここにあるようである。
ところが、それに止まらず、「騎西高校」と「リステル猪苗代」の二つの遠く離れた避難所に町民が分断してしまっているため、時間が経つにつれて、町役場に近い「騎西高校」組と、町役場から遠く離れた「リステル猪苗代」組との間に、町民同士の感情的対立も生まれているようである。特に、「リステル猪苗代」組には、町役場から見捨てられたとの思いが強い。全国から埼玉の双葉町役場に支援物資が届けられていた頃、「リステル猪苗代」の住民が町役場に対し、支援物資をこちらにもまわしてもらえないかと要請を行ったところ、「ホテル暮らしをしているくせに何を言っているのだ。」とにべもなく断られたそうである。
このように、「リステル猪苗代」の避難者は、総じて町役場や「騎西高校」組の町民に対する不信感が根強いと感じた。福島第一原発事故によって、彼らは住み慣れた自分の家や町を奪われただけでなく、住民同士も分断させられ、全国の避難者の大半が仮設住宅等に移行している現在も、未だ避難所生活を強いられているのである。改めて今回の原発事故の被害の大きさを認識させられるとともに、周辺住民の安全を犠牲にして原発推進政策を進めてきた東京電力や国の罪深さ、責任の大きさに怒りを禁じ得ない。
三 情報からも取り残される住民たち
しかし、私が驚いたことはそれだけではない。私たちは、「リステル猪苗代」の住民の方々に対して、今後の東京電力に対する賠償請求に関する説明をさせていただいた。今各地で弁護士会をはじめとして行われている原発賠償の説明会と同様に、東電に対する請求についての三つの手段、すなわち任意の交渉、原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)に対する和解の仲介の申立て、訴訟の三つについての説明である。
ところが、そこにいた住民の方々は、この原発ADRの存在について何も知らなかった。弁護士会が発行している被災者ノートも配られておらず、三月一一日の原発事故から今日までの行動の記録をつけている人もまったくいなかった。福島県弁護士会においても、大々的に原発賠償の説明会が開催されているはずであり、大盛況であったとの報告も聞いたことがあったが、ここの住民にはまったく情報が届いていないという厳然たる事実が明らかになった。
私は、福島県弁護士会を非難するつもりはない。福島の弁護士も被災者であり、私も個人的に、被災者のために献身的に活動をされている福島会の会員の方を何人も知っている。しかし、福島県弁護士会を支援している東京三弁護士会や日弁連という単位で、もっと実効的な被災者支援ができなかったのかについては厳しく問われなければならないと思う。私たちが最も目を向けなければならないのは、個々の被災者、もっと言えば、声を上げられない埋もれた被災者であり、弁護士会の都合ではないのである。自戒の念を込めて、改めてこのように感じた次第である。
四 今後の課題
「リステル猪苗代」は九月末で閉鎖の予定であり、その後はいよいよここの住民も福島県内の各地の仮設住宅や民間借り上げ住宅等に移行していく予定である。しかし、原発事故は未だ収束せず、果たしていつ双葉町に帰れるのかも明らかではない。また自治体機能も県外に避難したままの状態である。今後、各地に散らばってしまう双葉町の住民たちを、自治体がどのように把握していくのか、今後行われる選挙などは、どのような方法で行うのか、住民たちの生活支援をどのように行うのか、東電に対する被害の賠償請求の支援をどのように行っていくのかなど、残された課題は多い。
お会いした住民の方々からは、「もう少し早く来てくれればよかったのに。」としきりと言われたが、皆さん好意的に接して下さった。改めて私たち法律家に対する期待は大きいと感じた。私たちに突きつけられた課題も大きいが、今後もがんばらなければならない。
東京支部 吉 田 健 一
一 「秘密保全のための法制」を提起した報告書
去る八月八日、「秘密保全のための法制のあり方に関する有識者会議」の報告書が、「政府における情報保全に関する検討委員会」に提出された(報告書本文は首相官邸ホームページに掲載されているので参照されたい)。
報告書は、国家の存立にとって重要な、(1)国の安全、(2)外交、(3)公共の安全及び秩序の維持に関する情報を「特別秘密」として保護する制度を提起している。二〇〇一年に自衛隊法「改正」により制度化された防衛秘密の保護制度も取り込んで、独立の秘密保護法を制定しようというのである。
「特別秘密」には、国の行政機関だけではなく、独立行政法人、地方公共団体、民間・大学などで作成・取得される情報も含まれる。公務員だけでなく、業務委託された民間業者や大学研究者なども対象とされ、漏洩や不法取得など違反行為に対しては、最高一〇年の懲役刑で処罰されることとなる。
かつて国会に提出された「国家機密法案」は、スパイ防止をかかげ死刑を含む重罰を規定するものであったが、団も全力を挙げて反対運動を展開し、国民から大きな批判を受けて一九八五年に廃案となった。それが、いま装いを新たにして準備されようとしているのである。
二 その危険性
いま準備されようとしている秘密保護法制は、国家機密法と異なりスパイ防止目的を明記するものではないようである。
しかし、報告書で保護しようとする「特別秘密」は、防衛・外交という国家機密法案の範囲を超えている。すなわち、「国の安全及び外交」にとどまらず「公共の安全及び秩序の維持」にまで及んでいる。他方、過失犯や共謀・教唆・扇動まで独立の犯罪として処罰の対象としている点は国家機密法案と同様である。また、取扱業務者等から「特別秘密」を取得する行為については、窃盗・脅迫などの犯罪による場合だけでなく、不正アクセスなどによる場合も不法な方法によるとして処罰の対象としている。
これらが法制化された場合の影響は、取材活動や報道の自由はもとより、様々な表現活動、研究活動、平和運動、労働運動などにまで及びかねない。警察による弾圧の危険も無視できない。知る権利や表現の自由、学問の自由などが制限されることになる。
三 秘密を扱う「適格性」の調査・選別
報告書で看過できない重大問題は、秘密を扱う者の「適格性」を評価する制度である。
そこでは、「適格性」を評価するために徹底した調査・選別が予定されている。
例えば、我が国の利益を害する活動(暴力的な政府転覆活動、外国情報機関による情報収集活動、テロリズム等)への関与したことはないかどうか?はもとより、外国への渡航歴、懲戒処分歴、信用状態、精神の問題に係る通院歴、秘密情報の取扱いに係る非違歴、さらには配偶者の渡航歴や信用状態等をも調査される。医療機関や金融機関などに対する「反面調査」まで予定されている。そのうえで、我が国の不利益となる行動をしないかどうか、外国情報機関等の情報収集活動に取り込まれる弱点がないかどうかなどが検討され、選別される。
公務員のみならず関係職場の労働者、研究者などに対する執拗な調査、そして恣意的な差別や排除がまかりとおることになる。萎縮効果だけでも深刻な事態をもたらすことになるだろう。
四 問題点の検討、提起を
昨年一二月策定された防衛計画の大綱では、我が国の安全保障の基本方針に関して、政府横断的な情報保全体制を強化することを統合的かつ戦略的な取組として位置づけている。いうまでもなく武器輸出三原則の緩和、海外派兵の拡大、集団的自衛権の行使容認への動きと連動している。情報保全・秘密保護は、戦争する態勢づくりに不可欠であり、アメリカから再三にわたって要求されてきたことでもある。その意味でも、この報告書で提起されている秘密保護法制づくりは、何時急浮上するとも限らない。
本稿では、とりあえず考えられる問題点を指摘してみたが、さらに様々な視点から検討し、広く問題提起する必要があるのではないだろうか。
東京支部 後 藤 富 士 子
一 家庭裁判所の創設―裁判所法第三章
裁判所法は昭和二二年四月一六日に制定されたが、家庭裁判所は、翌二三年一二月二一日の裁判所法一部改正(昭和二四年一月一日施行)により第三章に加えられ、これに基づいて発足した異色の裁判所である。
戦後、日本国憲法の制定に伴い、家庭生活等に関してこれに掲げる理念を民法の規定上あらわすため、その親族編・相続編の規定を全面的に改正する必要が生じた。内閣の臨時法制調査会、司法省の司法法制審議会が議決答申した「民法改正要綱」では「親族相続に関する事件を適切に処理せしむる為速に家事審判制度を設くること」とされ、家事審判所に関する法律調査委員会は「家事審判法案要綱」を議決答申した。こうして家事審判法が昭和二二年一二月六日制定され(昭和二三年一月一〇日から施行)、これに基づき、家庭に関する事件につき審判または調停を行うための機関として家事審判所が発足することとなったが、家事審判所は、独立の裁判所ではなく、地方裁判所の支部として設けられたにすぎない。
一方、少年については、大正一一年に少年法が制定され、少年に対する保護処分の手続を行う機関として少年審判所が創設されたが、日本国憲法制定時に裁判所が司法省から分離独立したため、法務庁の所管に係る行政官庁となった。しかし、基本的人権、なかんずく人身の自由に対する保障を極めて強く打ち出している日本国憲法に照らし、少年に対する保護処分を行政官庁たる少年審判所の権限に属させておくことはできなくなった。かくして、少年審判所を裁判所に改組することとなり、少年裁判所設置の構想が進められたが、その立案過程で、少年審判所および家事審判所の運営の実績に鑑み、家庭の平和や健全な親族共同生活の維持と少年の健全な育成・保護との間には密接な関連があるとして、家事事件と少年事件とを総合的に運営・処理する必要から、両審判所を統合して新たに家庭裁判所を設置することになり、裁判所法の一部改正が行われたのである。
家庭裁判所は、憲法第七六条一項の規定に基づき裁判所法により設けられた下級裁判所で、その権限は、家庭および少年に関する事件にのみ限られている。これらの事件の多くは、その背景に複雑な人間関係その他の環境的資質的要因が存在し、問題を真に解決するためには、人間行動ならびに人間関係に関する諸科学の力をかりて、これらの要因を十分に調査し、事案に則した措置を講じることが必要であることから、家庭裁判所は、司法的機能とともにケースワーク的機能を十分に発揮させるために設置され、そのための機構として家庭裁判所調査官や医務室が設けられている点において、他の第一審裁判所と異なる。
また、家庭裁判所は、家庭および少年に関する事件のうち、概ね訴訟事件を除くすべての審判・調停事件について裁判権を有する第一審裁判所である。審判事件の審理は、非公開で職権的な手続により行われ、その審判は、具体的妥当性を主眼とし、厳格な法規の適用を受けず、科学的調査に基づく裁判官の裁量的判断によってなされる。この点、公開の法廷で対審を行い、法規を適用して判決する訴訟事件(憲法八二条一項参照)と著しく異なる。
このように、家庭裁判所は、訴訟事件を扱わずに審判という民事行政処分を行うのみとした、いわば官製ADRとして創設されたものである。このことは、協議離婚を原則とする民法の体系ともマッチする。
二 「単独親権」制がもたらす離婚紛争の倒錯
離婚の際、父母のどちらを単独親権者と定めるかは、協議離婚届の必要的記載事項であるし、裁判離婚でも附帯処分として判決で指定される。裁判離婚では、親権者指定のほかにも附帯処分として財産分与や養育費について判決されるのが一般的であるが、いずれも家事審判であることに変わりはない。財産分与のように夫婦間の問題なら離婚により一回的に決着できるが、親権者指定や監護問題は、離婚の前後長期に亘って深刻な紛争を反復ないし拡大再生産している。この傾向は、平成一五年の法改正により人事訴訟の管轄が家庭裁判所に移管されて顕著になったように思われる。
民法第七六六条一項は、父母の協議離婚の際、離婚後の子の監護に関する事項について父母の協議により定めることができないときには家庭裁判所が審判により決定すると規定し、これを裁判上の離婚の場合に準用している(民法七七一条)。「監護に関する事項」として最もポピュラーなのは「養育費」であるが、これは「監護費用の分担」ということで、共同監護の経済的側面である。「親子の交流」としては、実務上「面接交渉」とか「面会交流」といわれるものがあるが、これも共同監護の一形態であろう。したがって、離婚訴訟では、親権者指定だけでなく、面会交流等の監護に関する事項についても附帯処分として判決することができる。しかし、離婚後は「単独親権」制であるために、離婚訴訟では専ら親権者指定が熾烈に争われ、面会交流などの附帯処分の申立がされることは稀である。
実際にも、「単独親権」制のために、離婚後の監護問題を含めて夫婦が協議する過程を経ないで、離婚を仕掛ける配偶者が一方的に子の「身柄」を拉致し、他方配偶者と子の交流を遮断することから離婚紛争が勃発する。すなわち、協議を拒絶し、単独親権者となるために離婚訴訟を利用するのである。しかし、親権者指定はあくまで附帯処分としてされる審判であるから、家裁の理念に照らすと倒錯している。また、協議離婚を原則とする法制度とも矛盾する。さらに、裁判上の離婚原因が捏造され、「破綻主義」ならぬ「破綻させ主義」が横行し、子どもと財産の略奪が露骨で、離婚訴訟はモラルハザードを露呈している。
一方、離婚判決が確定する前の「家庭破壊」にさらされた配偶者こそ悲惨である。人事訴訟の管轄が家裁に移管される前の時期には、離婚前の別居段階における子の監護に関する事項について、民法第七六六条を類推適用し、家事審判法第九条乙類審判により相当な処分を行うことができるとされていた(面会交流について最決平成一二年五月一日)。すなわち、未だ共同親権でありながら一方の親権行使が全的に妨げられている違法な状態を、面会交流等の審判によって救済するために民法第七六六条の類推適用という方法がとられたのである。しかるに、人事訴訟の移管問題は、民法や家事審判手続について何の変化も及ぼさない形でなされたため、離婚後の監護に関する事項を定める審判を離婚前に類推適用することと、離婚訴訟において附帯処分としてされる単独親権者指定が交錯し、あたかも離婚前も単独親権制が前倒しされるような法状態が生じている。すなわち、共同親権者の一方が子どもを連れ去ると、他方は、子どもに会うことさえままならないのである。
皮肉なことに、人事訴訟の管轄が家裁に移管されたことによって明らかになったのは、離婚前の共同親権の下における監護問題について、実体的にも手続的にも、無法地帯に放置されていることである。しかも、家事審判は、裁判官の独裁的行政処分であり、判決のような既判力をもたないことも、紛争の解決を妨げているだけでなく、深刻化させている。
三 結語―家事事件に「法の支配」を
憲法第七六条は、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行うことができない。」と定めている。しかるに、家事審判は、裁判官という司法機関が行う行政処分であり、その上訴手続も司法審査ではない点で憲法に違反する。また、ケースワーク機能を有するのは調査官制度や医務室技官制度であって、審判官自身はケースワーク機能をもたないから無用の長物と化している。したがって、家事審判は、廃止すべきである。そして、実体法的にも手続法的にも、紛争当事者の権利主体性を認める改革が必要であり(たとえば、「共同親権制」と「子どもの代理人制度」)、その見地からも訴訟に一元化すべきである。
すなわち、家事審判が廃止されて訴訟と調停の二本立てになれば、調停による解決が飛躍的に高まるはずである。それは、当事者にとって必要なことであるだけでなく、司法の合理化・民主化に資するはずである。そして、当事者と接する弁護士こそ、離婚紛争の平和的解決を目指し、調停により依頼者の自力解決を援助すべきである。
(二〇一一・九・一一)
団長 菊 池 紘
大塚一男先生のご霊前に、ありし日のご活躍をしのびつつ、自由法曹団を代表してお別れの言葉を捧げます。
大塚さん、いま思い出すのは、仙台の大学一年の夏、この街に多くの人が集まる七夕祭りの日の門田判決です。弁護士になってすぐに松川事件の弁護を担い、長く厳しいたたかいを経て、一七名有罪・四名死刑(高裁判決)を覆した大塚さんの名前は、法学を学ぶ一学生に強く印象づけられたのでした。二年後の一九六三年に全員無罪が確定し、こうして自由法曹団の大衆的裁判闘争は、松川のたたかいとして、語り継がれることになりました。
大塚さん、あなたは長野県に生まれ、早稲田大学に学んだのち司法研修所第一期を経て弁護士となると同時に自由法曹団に参加され、一九七六年度の日弁連人権委員長を務められました。そして加藤老事件、島田事件等の再審事件に力を尽くされました。
それにとどまらず、大塚さんは、警察拘禁二法反対をはじめ、多くの集会で、自由と民主主義をめぐる当面の課題について、講演を重ねられました。こうした時に大塚さんは、演壇の上に何枚も貼り合わせた大きな紙を広げるのを常としていました。その紙には詳細なメモが書かれていたのでしょう。大きな紙のあちこちを広げながら、また演壇の上に置いた書籍を開いて引用しながらの、お話に聞き惚れたことを、つい昨日のように思い出します。
大塚さん、あなたは二〇〇八年秋の自由法曹団・福島穴原温泉総会プレ企画で、「松川事件と大衆的裁判闘争」と題してお話をされています。そこでの戦前派と若手の弁護団の、緊張しかつ充実した仕事について話されました。そして、松川裁判の経験をふまえ、証拠にどれだけの価値があるかということに裁判官には専門的な判断能力はない、要するに裁判批判というものは、これは市民でできることだと強調されました。そのうえで、始まろうとしていた裁判員裁判について、わかりやすい言葉で、聞く相手、裁判員に理解してもらうためには、絶えず研究しつつ行動しなければならないことを話されました。いずれも、私たち自由法曹団の弁護士がよく考え、努力しなければならない課題でした。
三月一一日の東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故は、この国の政治と社会のあり方を、根本から問うています。松川事件から六二年の今年、福島の人々がいわれのない苦難をうけているこのとき、自由法曹団は被災された方の速やかな復興と原発からの撤退をはじめ、多くの課題でひろく自由と民主主義の前進のために力を尽くす決意を、あらためて固めたいと思います。
いまはただ、ご冥福をお祈りするばかりです。
どうか安らかにお眠りください。
二〇一一年九月七日
自由法曹団を代表して
団 長 菊 池 紘
東京支部 藤 本 齊 (東京支部長)
大塚一男支部団員が、九月三日、亡くなりました。謹んで哀悼の意を表します。
大塚さんは、研修所一期、七三年まで東京合同法律事務所で、その後は四谷法律事務所で長く活動され、松川事件の主任弁護人を一貫して務められたのを始め多くの事件で自由法曹団員としての仕事を成し遂げられてきた一方、日弁連人権擁護委員長をはじめ同委員会を中心に弁護士会の中でも大きな活躍をされてきました。
私自身にとっても忘れられない貴重な大先輩の一人でした。東京合同事務所にはいってすぐの事務所の飲み会は四谷事務所に移る大塚さんの歓送会で、その司会をさせられたのは一年生の私でした。実に複雑な思いでしたが、その後も結局は江津再審請求や芦別国賠請求事件等で延々と大塚さんの謦咳に接することで私の弁護士生活は始まったのです。
当時の弁護団合宿は一組しかない正規記録一式を山奥の一室にずらりと並べておいて、いくつかの事務所からやってきた各人、担当関係を黙々と読み、黙々と書き、また黙々と読み書き上げるというものですから、山の中に四、五泊するのが普通で、散歩と入浴以外は他にすることもなく、夜を迎えるわけです。夜の食卓の周りで一番しゃべってたのは大塚さんだったような気がする。色んな裁判官や検察官や弁護士を定点観測して来た大塚さんの個別個人批評を感心しながら聞いたものです。まだ若かった私たちは、個人の個性の問題じゃなくて制度や支配的イデオロギーの問題なのだと、言ってみれば思考省略をしていたのですが、ギリギリ制度を追求して来て見れば、そこから人間も見えてくるものらしいということに不思議な感銘を覚えたものです。でも、未だに、私も又私達の世代もそういう風には到達しえていないようです。
更に夜が更けると、橋本紀徳さんが胴元になってのトランプのブラックアウト(余り知られてないかも知れないですが、実に単純なルールなのに実に飽きない。)に興じることになり、その累積結果が毎朝鴨居に貼り出されてぶる下がっている下で、再び黙々たる合宿が始まるという次第です。でも、大塚さんはこれには参加せず批評的な眼で我々を眺めてらした。何を考えてらしたのでしょうか。
岡林辰雄さんの笑顔について、私はかつて団通信紙上で、顔からはみ出る満面の笑みと評したことがありましたが、大塚さんのそれは、ちょうど顔一杯の過不足なき見事な満面の笑みというべきでしょう。本当に日頃から優しさそのものの様な人でした。それだけに、叱責されたときは怖い。何しろ過不足ないのですから。日弁連の人権委の企画の関係で一度叱責する顔を見たことがある。怖かった。
弁護士になって五年目の七八年四月二二日の九段会館での大塚さんの講演は忘れがたいものがあります。日弁連全国統一行動として日弁連・関弁連・東京三会共催の「弁護人ぬき裁判と刑法・少年法改悪阻止を訴える東京集会」で前々人権委員長だった大塚さんがされたメインの講演です。優に二時間に及んだんじゃないかと思う膨大な講演の最後を、大塚さんは次のように述べて終えました。印象的でした。
「国民とともに歩み、ともに悲しみ、ともに憤りつつ、真実と正義の実現に苦闘してきたところの在野法曹の一〇〇年の歴史というもの、そしてその一〇〇年の歴史を現代において唯一最高の形に結集したのが、日本弁護士連合会であります。どうかみなさん、日弁連とともにこの(弁抜き)法案を廃案に追い込み、代用監獄を廃止させ、少年法と刑法の改悪を防ぐためにいっしょになって立ち上がってください。私はその一人として、乏しい経験の中から感じたことをここにつづってみなさんへのご報告にさせていただきました。」(日本評論社「回想の松川弁護」P二九五〜三三二)
ここには、さまざまな意味で、いかにも大塚さんらしい考え方、センス、配慮、・・・思想がにじみ出ていると私には感じとれました。以降しばらく、このときの大塚さんの講演の発想を下敷きにさせていただきながらあちこちでの講演に活用させていただく日々が続いたことをまざまざと覚えています。
大塚さんの多くの著書の中で、何といっても衝撃的だったのは、「最高裁調査官報告書 松川事件にみる心証の軌跡」(筑摩書房一九八六)と同事件の被告人とされた本田昇さんとの共編著「松川事件調査官報告書(全文と批判)」(日本評論社一九八八)でした。死刑四名を含む一七名に鈴木禎次郎裁判長が「確信をもって言い渡す」とわざわざ言って「確信判決」などと称された大誤判の上告審での調査官報告書です。元来が門外不出・厳重に秘密にされているはずの調査官報告書の現物(ご丁寧に手書きの注や線まである)が、市場で偶然発見されて入手されたということ自体がまずは信じられない驚愕の出来事だったわけだけれども、その調査を指揮し最終的な全体の修訂を行って統一した主任調査官であった青柳氏の内容がまた、被告団・弁護団に対する悪意に充ち満ちたとんでもないものであったことに大塚さんらさえが驚きをかくせないというしろものです。というより、退官して大学教授となった青柳氏の言動がそういう松川有罪論の報告書の存在を推測させていたところ、それが古本屋で発見されたというわけでもあります(もう一人の補助の龍岡調査官の内容やその後の対応等については大塚さんは青柳氏と比べ節度あるものとして区別して評価されているようです。)。この報告書にもかかわらず最高裁がよく差し戻したともいえます(七対五。実際、田中耕太郎長官らの少数意見はこの報告書を下敷きにしたものです。)。松川の裁判闘争が実際目に見えている以上に奥行きの深いものであったことを思わせるものと言えましょう。若い団員のみなさんにはご存じない方も多いかと思いますが是非一瞥を。前出の「回想の松川事件」等にも概略が触れられています。
私たちは、いずれやむを得ないこととは言い条、間違いなく偉大な先輩をまた一人失ったことになります。
でも、今は、心から感謝したいと思います。大塚先生、本当にありがとうございました。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
毛利さんから、「復興・財源は支え合いでこそ」(かもがわブックレット一八二・税込定価六三〇円)が送られてきた。サブタイトルは、「私たちと地球、明日の人類を救え」である。併せて、書評を団通信に書いてくれとの依頼もあった。確かこのようなタイトルの団通信の記事を読んだ記憶もあるし、毛利さんの発言にはいつも括目させられているので、引き受けることとした。少し時機に遅れたかもしれないけれど、約束を果たすこととしたい。
このブックレットは、今回の大震災と原発事故から、私たちが何を学び、どのように「復興」していくかを考えようというものである。六三頁ほどの中に、毛利さんの想いが整理されている。結論は、「地球人類が共生できるつながり社会」をつくろうである。もちろん、それは「日本国憲法の花開く新しい社会」を含意している。
まず、最初に感じたことは、毛利さんはよく泣く人だということである。「幻想曲さくらさくら」や「ノクターン二題ショパン」を聞いてとめどなく涙を流し、寅さんのリリーシリーズ(浅丘るり子)を見て泣き続けるのである。還暦を過ぎた男が(差別語か?)、音楽を聴き、映画 (しかも寅さんだ) を見て泣くのだから、これは尋常ではない純情さであろう。
ぼくは彼のこの純情なところが好きだ。多分、このブックレットを読む団塊世代の団員は、それぞれの青春時代を思い出して、そこはかとなく共感できるであろう(もちろんそれ以外の人たちを除外するということではないが)。
そして、この感懐は、今という時代を生きる上で、基底に置いておきたいものでもある。人間の営みに対する共感や優しい気持(これがこのブックレットの通奏低音である)が欠落してしまえば、不必要な絶望感に取り込まれてしまうからである。
だからといって、彼は徒に抒情に流されているわけではないし、根拠のない希望的意見を述べているわけでもない。地震や津波の原理や、縄文時代の共同体の在り方や、国際的災害救助の在り方についてまで視野に置いた上で、提言しているのである。そこにあるのは、資本主義的生産様式の基底にある「わが亡き後に洪水は来たれ」という発想を唾棄し、大量生産、大量消費、大量廃棄を排除し、「孤立無援社会」からの脱却をという思想である。
彼は、「人類は、多くの未成熟の子どもを同時に育て上げるための安定した家族と、その家族が他の動物のえさになることを防ぐために一〇〇名前後の集団化によって、成立し成長してきたのです…」という。そして、「ご近所社会の再生は、ここ日本にとって、戦後六五年の、ひょっとすると明治以来一四〇年にわたる歩みのパラダイム転換になるのではないでしょうか」としている。
彼は、人間の連帯・共同の力が、私たちの地球と明日の人類を救うことになると結論する。一人の発達が社会発展の基礎であり、社会は一人ひとりの個人の発達可能性を保障するという「未来社会」を展望しているかのようである。
ぼくには、彼が展開している縄文時代の日本社会の実情についてコメントする能力はないし、彼が主張する人類を救うための提案、例えば、儲け本位社会の基礎となっている土地私有制をなくして公有制にするとか、「車社会」を大胆に見直し軽自動車と公共交通社会にする、などについては、その賛否をとりあえず留保しておくこととするが、「火事場泥棒的」に改憲や規制緩和を推し進めようとする支配層に対する怒りには共感したい。
手軽に読めるし、考えるきっかけを提供してくれるブックレットなので、ぜひ一読をお勧めする。
二〇一一年九月七日記
東京支部 中 野 直 樹
目線で百名山を観る高み
翌朝四時一五分起床。灰色に沈む森が白みを帯び始め、やがて色彩を取り戻し出した。不要な荷物を小屋に置かせてもらい、四時四五分出発した。山道は、途中二カ所、小沢にかかる丸木橋を渡る。この丸木橋の一部が腐食して半ば壊れて傾いており、ゆがんだ平均台を渡らされるようで、不安にかられて身体を丸っこく縮めた柴田君がバランスを崩して危うく落ちそうになった。
右手に雪渓から流れ出て白い糸を引く源流をみながら、小尾根を登り始めた。七面山、その向こうに富士山が浮かぶ。南アルプスの稜線歩きはいつも、秀麗な富士山に見つめられている旅となる。針葉樹林帯に入ると急登となり、肩で息をするほどになった。七時三〇分、朝食のおにぎりを一個ずつ食べて元気をつけた。針葉樹の森の限界あたりから、親切過ぎることに百メートル置きに標高の標識が設置されていて励まされる。広葉樹の低木帯に小さな山桜が咲き、シャクナゲが開花を待つ早春の景色である。ハイ松帯をすぎて稜線に出た。反対側の正面に、残雪を斑にまとう、ずんぐり頭の塩見岳がでんと構えていた。そこから蝙蝠岳を経て大井川に下っていく稜線の向こうに、悪沢岳、赤石岳、聖岳という山容も名前も立派な名山が望まれた。
稜線に金属でつくられた方向標識にぶらさげられた鐘を鳴らして、北の農鳥岳へ向かった。女性の三人連れが下山してきた。口々に今日は富士山がきれいですと言い、途中の雪渓ではアイゼンをつけた方がよいとアドバイスをしてくれた。たしかに、二カ所雪渓をトラバースするところがあり、雪渓が右側に急勾配で落ちており、転倒すると百メートルほど滑り落ちそうである。四本歯アイゼンを取り出して、装着した。アイゼンをつけることなど初めての柴田君は不安そのものの顔でそろりそろりと初体験に苦闘していた。
農鳥岳への最後の登りは岩と雪の間をすり歩き、山頂に立った。九時四五分であった。眼前のどっしりとした間ノ岳の風貌、その右肩の向こうに、スマートな頭部が天に向かって突いている北岳の気品ある姿、鳳凰三山の尖塔オベリスク、はるか遠方に座っている甲斐駒ヶ岳、さらに八ヶ岳、奥秩父、丹沢、中央アルプスなどの遠山に目を細めた。
六〇才台の男性が腰をおろしていた。昨晩は星を眺めたくて稜線でビバークしたそうだ。シュラフカバーとシュラフで寒くはなかったとのこと。若い頃、バイクで野宿をしながら旅をしてきていたので苦にならないと言っていた。自分は歩くのが遅いといいながら、これから農鳥小屋を経て、北岳を登り、広河原までおりるという。四〇台の頃、上高地で穂高をみて、どうしても登りたいとの気持ちを暖めて四年かけて初登りしたという。四年を要したのには、家族あるいは仕事上の条件があったのであろう。おじさんは、地図をみると南アルプスの高山がそれぞれ独立峰にみえるが、現実には、尾根でつながっているのですねと感動していた。
山頂に、黒の御影石の歌碑があった。「酒のみて高根の上に吐く息はちりて下界のあめとなるらん 大正十三年 桂月」とあった。これは大町桂月だろう。大町桂月といえば、日露戦争の旅順包囲軍に加わっている二四歳の弟を想って「君死にたまふことなかれ」と歌った与謝野晶子を、「戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものの連中にありしが、今又之を韻文に言いあらはしたるものあり。」と非難した人である。桂月の碑は全国あちこちにあるようだが、誰が、何の目的で農鳥岳の山頂にまでこのような歌碑を設置したのだろうか。
初めての体験だらけで少々ばて気味の柴田君を山頂に残して、私は空身で西農鳥岳に向かった。農鳥岳の西斜面に高山植物の花畑が広がり、白、黄色、紫の可憐な花が夏を待っていた。道は崩れた岩場になり、ガスがわき始めた。西農鳥岳と思われるところに着いた。岳といっても三角点がなく、山頂表示もない。農鳥小屋と農鳥岳の分岐表示のみの通過点にすぎなかったが、三〇五〇メートルを確かに歩いた。霧の薄幕を通して、間ノ岳の左手向こうに仙丈ヶ岳のカールを確認した。
満足して農鳥岳に戻ると、柴田君が寒さに震えていた。おにぎりを腹に入れて、ただちに下山開始した。
苦行下山
ここで、私は柴田君に、下山計画の変更を告げた。燃料がないため、小屋泊まりをやめ、大門沢小屋に看板がかかっていた奈良田温泉の「大家旅館」に予約をして、奈良田まで降りることにする。柴田君は不安気な様子だった。岩場を落石してしまいながら下りだしたが、下山ルートを間違えたことに気づき、登り直す。三〇分ほどアルバイトとなり、一二時、仕切直しで下山開始した。雪渓の斜め下りはアイゼンをつけていても慣れないと難しい。柴田君に、両手で低木の枝をつかまえながらの下りの方法も教えた。急坂の下降にふくらはぎを痛くしながら、一五時三〇分、大門沢小屋に着いた。
管理主に聞くと、期待の大家旅館は営業を停止したとのこと。だったら看板を外しておいてほしいものだ。奈良田温泉の日帰り湯は一九時までとのこと。このまま小屋泊まりをするかどうか迷ったが、天候が崩れ、翌日雨の中下ることも避けたいと考え、思い切って、下まで降りることを決断した。この方針を伝えられた柴田君は泣きたくなるような顔をしていた。急いで荷造りをし直して、一五時四五分再び下り始めた。小尾根を登るあたりから右足の膝が痛くなり始め、下りになると痛みがひどくなり、ときどき立ち止まり、もみながら歩く状態となった。最後の吊り橋を渡って車道にでた後、昨日の往路で歩いたときの感覚よりもはるかに遠く、時計の針は感覚以上に進み、奈良田温泉の駐車場に着いたのが一九時ちょうどであった。すぐに二軒の宿を訪ねるが、いずれも一七時で日帰り客相手の営業が終わりと事務的に断られた。「温泉に入る」を念仏のように唱えながらの下山強行であったので落胆が大きかった。高度差一四〇〇メートルを登り、二二〇〇メートルを降りきった柴田君には申し訳ない限りだった。「大家旅館」の看板がでている館があったので、泣きつこうと考え、玄関戸を開いた。老女が出てきた。精一杯くたびれた様子を作って、せめて湯ぐらいはと頼み込んでみるが、老女は、膝が悪いので客はとっていないとの一点張りで、交渉の余地がなかった。駐車場を借りて着替え、ジュースで空き腹を慰めながら帰路についた。
登山は体力を使い果たした下りで怪我・遭難をすることが多い。筋肉痛だけで安着でき、初体験の柴田君の体力と根性に感謝することしきりであった。(終)