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<<目次へ 団通信1399号(11月21日)


菊池  紘 【自由法曹団九〇周年&東京・お台場総会特集 その二】
この二年のこと
永尾 廣久 九〇周年、団総会、そして・・・(その二)
愛須 勝也 事務局次長退任のごあいさつ
近藤 ちとせ 退任のご挨拶
篠原 義仁 具体的に実践的にどうたたかってゆくのか
─団長就任のあいさつに寄せて─
森  孝博 新事務局次長就任のご挨拶
藤野 善夫 九〇周年東京総会一泊旅行に参加
再認識した上野・浅草下町
鈴木 麻子 JFE・共和物産不当解雇事件・全員職場復帰の完全勝利和解
岡田  尚 自衛官の命と人権を守る裁判の現状と意義
安田 純治 「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団結成のご報告と弁護団参加の呼びかけ
萩尾 健太 反原発デモへの刑事弾圧
吉原  稔 「原発の脅威からいのちと琵琶湖を守る」滋賀原発訴訟の第二弾として
日本原電の敦賀原発一・二号機について再稼働禁止の仮処分を申請
笹本  潤 「平和」を「人権」として捉える
〜スペイン国際人権法協会来日にあたって〜
上野  格 自転車生活



【自由法曹団九〇周年&東京・お台場総会特集 その二】

この二年のこと

東京支部  菊 池   紘

(一)

 団長としての二年間にはいろいろなことがあった。

 昨年五月にナショナルロイヤーズギルドのピーター・アーリンダーがルワンダで拘束されたのには驚いた。鷲見幹事長を先頭に世田谷のルワンダ大使館に乗り込んで開放を求めた。このとき近藤ちとせさんの堪能な英語に感心した。帰ろうとしたらルワンダ大使が特産のコーヒーをくれるというので、コーヒー豆には目のない私は舌なめずりした。しかし残念ながら、鷲見幹事長が断固断った。アーリンダーはしばらくして放免されたが、ルワンダのコーヒーには今も諦めきれない意地汚さだ。

 昨秋、北陸支部総会があるというので、馳せ参じた。菅野昭夫さんとは大学以来の友達だから。行ってみると北陸三県の団員がそれぞれ頑張っているのが分かった。ホテルに泊まって翌朝チェックアウトしようとしたら、宿泊料を請求された。あれと思ったが、支払って帰った。二月後に電話があり、「申しわけありません。宿泊料は金沢合同法律が支払い済みなのに、二重に請求してしまいました。お返しします」とのこと。金沢は何度か行ったが、落ち着いたこの街にまた行きたい。

 沖縄へくりかえし行ったほか、東北、神奈川、大阪、京都、福岡等々の支部総会その他に招いていただいた。

 団長として行く先々で初めて会う人に、ああこの方が有名なあの人かと思う。そして、団員のみなさんが、その地元の住民の権利の実現のために創造的なたたかいを進めていることに驚く。これが団長の役得だ。そして自由法曹団とはなにかと問われれば、それは全国各地で、営々として進められているこうした活動の総体がそれだと答えることになろう。

 勝手なことを書いているときりがない。

(二)

 団長になったのは、戦後いっかんして続く自民党政権をうち倒した歴史的な政権交代の、すぐ後のことだ。

 この二年で民主党は政権交代を裏切り、いま辺野古への基地移設を強行しようとし、TPP参加の道を走ろうとしている。しかし、その主体的な政治参加により政権交代を実現した広範な人びとの経験は、かならず次につながるものだと思う。

 昨年は一月に沖縄で常任幹事会をもち、その足で訪問し激励した稲嶺さんが名護市長となった。これを転機とする普天間返還の声のいっそうの高まり。そしてあの四月の沖縄九万人集会に参加した。一四○万人の沖縄で自治体ぐるみで集まってくる九万人の人びとに、確固とした沖縄の決意をみることができた。

 そして三月一一日の東日本大震災と福島第一原発の爆発は、誰もがいうように、この国の社会と政治のあり方を問うている。被災者のための自主的な復旧・復興か、これを金もうけの機会としようとするカッコつきの上からの「復興」か。そして原発撤退か推進か。この対立のせめぎ合いは厳しいものとなっている。沿岸ではないが盛岡出身の私には、多くの方から声をかけていただいた。団員の皆さんとまわった三陸、なかでも陸前高田と大槌は文字どおり「なーんにもなかった」。夕闇せまる中の大槌の光景は忘れることはできない。

 七月二日の明治公園の二万人集会では、呼びかけ人として原発撤退を訴えた。そして一○月末の福島集会で聞いた浪江町長の怒りの訴えには、この国のあり方をあらためて考えさせられた。

 自由法曹団への期待の大きさを実感した二年間だった。

 退任するのはどこか体調に問題あるのかと心配してくれる人もいたが、幸い健康そのものだ。有能な篠原さんと元気な小部さんのもとで、自分なりにできることを努力したい。


九〇周年、団総会、そして・・・(その二)

福岡支部  永 尾 廣 久

篠原義仁団長への期待

 私(二六期)が川崎合同法律事務所に入ったとき、杉井厳一(二一期)、篠原義仁(二二期)といううるさ型の先輩弁護士二人がいるので、周囲はいたく心配してくれた。こんな先輩にしごかれてどれだけ私が耐えられるだろうか(すぐ逃げ出すのではないか・・・)という心配だ。

 幸いというべきか、私は三年あまりで郷里・大牟田へUターンした。そのとき、先輩たちの「いじめ」にあってドロップアウトしたのではないかと真面目に心配してくれた人もいた。実のところは、篠原さんからそれほど「鍛え」られることもなかったのが、今から思うと残念なほどである。

 篠原さんと言えば、公害弁連の名幹事長としての活躍が印象深い。というより、公害なのか「口害」なのかというほど舌蜂鋭く、機関銃のように切れ目なくよくしゃべる。私などはその「口害」の被害にあわないよう、昔も今も、ただひたすら篠原団員の前ではおとなしくしていた、というのはほんの冗談。

 久しぶりに会ってみると、かつてのやせぎすの体型が、今ではまったくの中年太り、顔まで丸くなってしまっている(性格も円満になったのかな・・・)。

 篠原さんが自由法曹団の団長として、性格的に向いているかどうかは別として、それにふさわしい能力・識見をもっていること自体は間違いない。なにとぞ、健康のために減量に努め、「口害」はほどほどにして、大いに活躍していただきたいと、不肖の後輩として心から願っている。

古稀団員表彰

 今回の総会が例年と違って一日だけの行事日程となったため、古稀団員の挨拶が松岡康毅団員(奈良)のみであったのは残念だった。今回、九州から河野善一郎(大分)と立山秀彦(熊本)両団員が出席していたので、ぜひお二人の話も聞きたかった。

 その代りに、いつもの顕彰文集を読んだ。その一人、表彰された藤原精吾団員(神戸)は私の直前に日弁連副会長をしていたので、面識がある。兵庫県から県弁会長を経ずして日弁連副会長選挙に出て圧勝した経緯も、この文集によって知ることが出来た。

 藤原団員の活躍のスケールは実に大きい。国内でいくつもの生活保護など生存権をめぐる裁判で勝訴判決を勝ち取ったほか、国際的にも活躍してきた。藤原団員はドイツ語に堪能で、法律相談までこなすことが出来るらしい。

 事前に、私の名前を文集に書いておいたよと予告されていたので、何のことかなと思って読んでみると、ドイツ語検定試験の二級に合格したこと、それに「はりあって」私がフランス語の検定試験を受けているなどと書かれているのを見つけた。しかし、事実は違う。私は三級から仏検を受け始め、今では準一級には何回も合格していて、一〇年以上も前から一級を受験し続けている。ところが、その実力たるや法律相談をうけるなんて、とんでもない。今でも日常会話に毛がはえた程度のものでしかない。藤原団員の語学力は、私よりはるかに上であることを、悔しいことに認めざるをえない。

欣哉先生

 ロースクールについての評価はさまざまであるが、出来た以上は少しでも良くするための努力をするしかないと私は考えている。

 それはともかくとしてロースクール生の実情を知りたくて、『ロースクール修了生二〇人の物語』(民事法実務研究会)を読んでみた。すると、そのなかに山形の佐藤欣哉団員のもとで弁護修習した人の手記があった。見出しは「弁護修習での衝撃」というもので、「この先生のもとで修習できたことは、修習生活において最も幸運なことだった」と書かれている。

 「極めて明晰な頭脳と比類ない情熱をもった人権派の弁護士」、「裁判所や検察庁からも一目おかれている存在」、「欣哉先生は、弁護士業に全人生を傾ける一方で、簡素清貧を貫いており、私は『こんな弁護士が本当にいるんだ』と文字どおり衝撃を受けた。弱い者を助け、強い者を挫く。映画や本で見知っていた『弁護士』という職業のイメージから一歩もはみ出ることなく、それをはるかに上回る人物だった」、「私は、弁護士としても、人間としても、今後の人生において、すべての基礎となる資質を、欣哉先生から学んだと感じている」とあり、最大限の賛辞に貫かれている。生半可なお世辞ではここまで書けない。

 この本を読んで、それこそ我が身を改めて振り返り、修習生からここまで評価されるのは難しいにしろ、せめて初心は忘れないようにしようと自戒し、佐藤団員にその思いからFAXした。すると、佐藤団員は、この本の存在自体を知らなかったとのことで、お礼のFAXが届いた。そんなわけで団総会のとき佐藤団員に会って挨拶したとき、私は本当にうれしかった。やっぱり真面目にやっていると、世の中、評価してくれる人はいるものなんだと思った。 

新人弁護士学習会

 九〇周年行事のなかで自由法曹団の歩みと取り組みが映像で紹介されたが、なかなか見ごたえのある映像だった。映像構成もナレーションも団員弁護士によるものだと知って、団員の能力の幅広さに驚嘆した。

 団の歩みと言えば、松江の五月集会での則武透団員(岡山。四五期)の講話を記録集で読んで感銘を受けた。東京から地元の岡山に移って活躍している則武団員は、パワーポイントをつかって『自由法曹団物語』を紹介しながら、自らの体験も付加して自由法曹団とは何かを語っている。

 則武団員は東京の南部法律事務所に所属していたとき、たくさんの失敗をしたことを正直に告白する。そして、自由法曹団の本部事務次長をしていたとき、地方に発信するけれど、何の返事も返ってこない。「なんで地方の弁護士は、今、労働法制の問題で東京は大変なのに、助けてくれないのかという不満をずっと持っていた」。ところが、地方に帰ってみると、本当にあらゆる事件をやらなければいけないし、なかなか団の総会とか五月集会に行く機会がない。ただ、私は、それでもぜひ地方の団員は総会や五月集会に参加すべきだと思う。経験主義に陥って視野が狭くならないようにするためだ。アクト・ローカリ―、シンク・グローバリーは弁護士人生を豊かにするものでもある。

 弁護団活動について、その有用性を則武団員は強調し、相互批判のなかでこそ弁護士は成長していくと語り、そのうえで徹底的に批判しても打撃的な人格攻撃になってはいけないとする。そして、批判を受けた弁護士をフォローする役割の人も必要だという。まことに適切な指摘だと私も思う。新人のときに厳しく批判されることに慣れておかないと、年数たってからでは辛いものがある。

 弁護士会の活動を担うことの意義を則武団員は強く訴えている。これは私もまったく同感だ。これがきちんとしていなければ、我々の職業のバックボーンが揺らいでしまう。

 則武団員は趣味としてピアノ教室に一〇年ほど通っているとのこと。偉いものだ。そして、この講話は、最後に小島成一元団長の次のような言葉を紹介して締めくくられている。

 自由法曹団の弁護士は一生懸命に大衆のために、大衆運動のために闘っている。単に仕事に付随する面白味さというよりは、自分の人生、全人格をかけた使命というようなものに価値を見いだせたときに、初めてその人生は輝くのだ。歴史的な展望というか、その中に自分をおいてどう生きていくかということ、それは考えようによっては夢みたいなことだが、そんな夢をもてないような人間に何ができるというのだろうか。夢を持つ、価値をかけるというのは若い人の特権である。民主主義、自由、人権を守る仕事というのは生きがいというか、歴史の中に自分をおいて輝かすことが出来るのだと思う。

 すごくいい講話だ。これを直接聞くことのできた新人弁護士は幸せだと思った。それにつけても自由法曹団物語は少々古くなった(もちろん内容ではなく、出版時期のこと)が、ぜひ多くの新人弁護士に読んでほしいものだ。

 いま、西日本新聞には馬奈木昭雄団員(久留米)がこれまでの弁護士生活を縦横に語るインタビュー記事が連載されていて、すこぶる面白い。近くは板井優団員(熊本)が熊日新聞で同じようにインタビューを受けて連載記事となり、それは単行本となった。先輩団員は、引退する前に自らの活動を団活動の一翼を担ってきたという確信のなかで若手団員に語ってほしいものだ。


事務局次長退任のごあいさつ

大阪支部  愛 須 勝 也

 二年前の雲仙総会で次長に就任し、無事二年間の任期が終わりました。

 思い起こせば、二年前の九月に行われた団大阪支部の宴会後の二次会で、石川元也団員をはじめとする多くの団員から本部次長にという声をかけていただいたのがことの始まりでした。その後のいきさつは、就任時の団通信でも書き、先日の団総会の退任あいさつでも話しましたので省略します。二年間次長を務めさせていただいて、人とのつながりや新しい分野での活動など本当に様々な経験をさせていただきました(温厚な(?)私でなかったら激怒するのではないかと思うほど執拗で強引な勧誘をしていただいた鷲見前幹事長には、社交辞令ではなく、心から感謝しています)。担当は、改憲阻止対策本部、司法問題、将来問題、そして二年目からは公害環境、九〇周年実行委員ということで多岐にわたりました。私としては、大阪支部の代表、ひいては地方の代表として次長を担当させていただいたつもりです。この二年間、大阪支部では小林徹也事務局長をはじめ支部団員の奮闘により近年にない活発な団活動ができましたが、私も支部と本部をつなぐパイプ役になれたのではないかと自負しています。次長を経験して、団の活動は団本部、とりわけ、専従事務局と首都圏の次長を中心とした執行部が極めて大きな役割を果たしていることを実感しました。特に、首都圏の若い次長の活躍には頭が下がる思いです。しかし、東京だけでは団の活動ができないのは言うまでもありません。全国二〇〇〇名の力を結集していかなければ運動は前進しないだろうと思います。最近、常幹に参加する地方の団員も固定されているように思います。私は、首都圏の次長のように東京での会議に参加したりすることはできないので、せめて担当分野の情報発信だけはしたいという考えから、特に沖縄問題に関しては、沖縄タイムスや琉球新報のホームページをチェックしてメーリングリストに投稿してきました。最近は日弁連などの会議でもテレビ会議が実施されていると思いますし、団でも公害環境委員会では、スカイプ(インターネットを利用した電話会議)で会議を開催しました。インターネットが導入されて情報の格差は一気に狭まっていると思います。全国の団員が一同に会して議論する五月集会や総会も重要ですが、地方の団員とネットで繋がって団活動に参加することができれば、団の活動も一気に拡大するのではないかと思います。福岡や仙台、札幌などの地方から次長がネットで参加できれば、地方から次長の負担も大きく軽減されるし、地方の活動はブロックを中心に活性化するのではないでしょうか。この間、本部事務局のMLで飛びかったメールは、事務局MLだけでも二年間で三五〇〇通を越していますし、担当委員会のメールを加えればもっと多くの情報交換がメールでなされています。大阪支部でも、大ベテランの団員が自らメールをチェックして投稿もされています。さらには、メールに留まらず、フェイスブックやツイッターなどで情報交換している団員も多数います。ぜひ、ネットなど大いに利用しながら、団活動への参加の方法を工夫してもらいたいと思います。 最後に、二年間、お世話になった菊池団長、鷲見幹事長、小部幹事長、杉本事務局長はじめ執行部の皆様、専従事務局の皆様と、わがままを許して頂いた京橋共同事務所の皆様に深く感謝したいと思います。ありがとうございました。


退任のご挨拶

神奈川支部  近 藤 ち と せ

 二年前のいまごろ団通信で「就任のご挨拶」を書いてから、本当にあっという間の二年間でした。

 思えば二年前は、普天間基地の辺野古移設問題が喫緊の課題(いうまでもなく今も重要課題のままですが)であり、名護市長選挙も間近ということで急遽沖縄で拡大常幹がもたれました。沖縄常幹のプレ企画では、伊波前市長の話を聞いたり、当時の稲嶺進名護市長選候補者(現市長)の応援訪問をしたりしました。このときの伊波市長の話は大変わかりやすく、おもしろかったことが強く印象に残っています。しかし、それと同程度に強く印象に残ったのは、プレ企画後の飲み会で、全国から集まった常任幹事の方々が沖縄民謡にのって踊りまくる姿でした。この時初めて、団員の方々の底知れぬパワーを見た気がしました。

 こうして沖縄から始まり、本部の方々と一緒に、大阪、青森、島根、愛媛、宮城、福島、岩手、新潟と多くの土地を訪れました。大阪での国内人権機関設置問題の企画における地元団員の活動報告では、大阪での団員のたたかいの歴史を知り、そのパワーに感動しました。また、毎月の常幹や、年に数回おこなってきた大量解雇阻止全国会議等でも、全国の団員の方々の取組に触れ、大いに刺激を受けました。さらに、次長として担当させていただいた、労働問題委員会、国際問題委員会、構造改革PT等では、本部で継続的に問題に取り組む委員の皆様の活動に触れました。ここでも皆様と時間を共有できたことは、誇張でも何でもなく「すばらしい経験」でした。

 そのような中、三月一一日には団本部の事務局会議中に大震災に遭遇しました。本部のビルが「ギシギシ」といやな音をたてて揺れ、警報装置は鳴りやまず、私は、とっさに「本部はビルの二階だし、上の重みに耐えられないで押しつぶされる」「ここでは死にたくない」と思い、ビルから飛び出しました。ビルの外では、路上の電信柱がぶつかり合わんばかりに柱ごとユサユサと左右に揺れていました。

 このときから、本部での活動は、大きく大震災や原発問題へシフトしました。東北三県へ行く機会が増え、岩手、宮城では関東の被災とは全くレベルの違うすさまじい被災の光景を目にしました。特に、岩手県の陸前高田市、大槌町や、宮城の名取市閖上地区で目にした光景は、忘れることができません。また、数回足を運んだ福島では、比較的整然とした福島や郡山の町、美しい三春の里とは対照的に、放射能の目に見えない恐怖がどれほど絶望的なものかも住民・団員の話から強く心に残りました。そして、そのような過酷な状況の中でも力強く、粘り強く活動する東北の団員のパワーには、圧倒され続けております。

 二年前、次長になったとき、私は「自分に何ができるのかわからない」と思っていました。その思いは今でも変わりません。しかし、それぞれの地で頑張っている団員の方々に圧倒されているばかりで終わるわけにも参りません。私も、本部で経験したこと、出会った皆様とのつながりを大切に、地に足をつけて一つ一つの仕事や課題に取り組んでいきたいと思います。これからもよろしくお願いします。

 団の事務局次長としての仕事は、忙しいものではありましたが、同時に有意義で、そして何より楽しいものでした。お正月に菊池団長の家で山の話をしながら奥様のおいしい料理をいただいたこと、鷲見幹事長の真面目な人格や、小部幹事長の寛大な人格に触れたこと、杉本事務局長のクールなジョーク、他の次長・専従の方々とみんなで飲んだこと等々、楽しい思い出も沢山できました。

 最後に、このような経験のきっかけをくれた神奈川の神原団員と、私を支えてくれた横浜合同法律事務所の皆様に感謝の意を表します。本当にありがとうございました。


具体的に実践的にどうたたかってゆくのか
─団長就任のあいさつに寄せて─

新団長  篠 原 義 仁

 「東京、大阪から出るのが団長と思っていた。それが、どうして神奈川で、しかも場末の川崎なのか」と問いかけた私に対し、松井前団長と菊池団長は、いろいろ説明したなかで、結論として「団長の任務は、結局、あいさつ要員だ。気軽にやればいい」と回答してきました。

 その「あいさつ要員」の任務は、すぐ始まり、一〇月二八日の京都第一法律事務所の開設五〇周年、一一月五日の千葉中央法律事務所の開設四〇周年のつどいで「即デビュー」となりました。

 そのつどいで実感したことは、京都でも千葉でも団員の皆さんが、地域に根ざして、地域住民の、そして、地域の諸団体の要求を汲みあげ、あるいは要求をまとめあげ、その要求実現のために奮闘しているということでした。

 地域の力に支えられ、共同の力できわめて具体的、実践的に活動しているということでした。

 大衆的裁判闘争とひと言でまとめるわけにはゆかず、取り組む分野、取り組む時期に対応してその闘いは実に多面的で創造的でした。

 憲法と平和の擁護、自由と人権と民主主義の前進など、掲げる旗は共通で、団の作風の伝統がそこでは強調されていました。

 そうだからこそ、会場いっぱいの参加者を得て、盛大につどいは成功のうちに終了したのだと確信しました。

 これは京都や千葉だけでなく、団員事務所の献身的戦闘性、地域の力に支えられた実践的戦闘性、闘いの豊かな発展を求める創造的戦闘性に裏うちされた、各地の共通の姿だと実感しました。

 二〇〇〇年一〇月から二年間、幹事長をつとめ、その際は総会議案書作りに関与しました。今回は、前執行部がまとめあげた二〇一一年総会議案書を、少し距離をおいて通読してみました。

 そして、団の活動分野は、さらに拡がり、課題も山積していると把握しました。見出しを並べてみただけでも、東日本大震災・原発問題、憲法と平和、安保条約の課題、比例定数削減反対の取り組み、教育問題、構造改革路線・TPP反対、労働問題、市民の権利擁護、弾圧・治安の闘い、司法問題、国際問題、そして、団の組織問題と課題は尽きません。

 団全体としては、いずれの課題についても最大限の力を尽くすしかないのでしょうが、そのなかでも東日本大震災に係る復旧、復興、生活基盤・環境の再生とまちづくりの取り組みや比例定数削減反対、民意を反映した選挙制度の改革の追求、改憲策動を阻止し、「九条の会」運動に示される国民の側からの反撃のたたかいは喫緊の課題として目前に提起されています。

 最近の私自身が関わってきた闘いの分野は、あきもせず四〇年余にわたって活動してきた公害闘争を基本に、神奈川での「九条の会」運動、オンブズマン活動であり、これに加えて近々のうちに連続して判決を迎える米兵犯罪における米軍と国の責任の追及、それに連なる安保条約に基礎をおく地位協定の見直し問題でした。

 とりわけ、今まで闘いに関与してこなかった安保条約の問題は、六〇歳をすぎたら本格的に取り組もうと勝手に自分でそう判断し、六〇歳前の上瀬谷基地の返還訴訟につづき、今は米兵犯罪の構造的責任の追及の取り組みに肩書きなしの弁護団の一員として参加しています。

 団本部の諸課題についても、自分で具体的、実践的に責任を負いうる取り組みに少しでも関与し、「あいさつ要員」を超えた役割も団長の責務の一端と理解して、これをやり抜こうと思っています。

 他方、団執行部の現有勢力で、前記諸課題に全て取り組むのは力不足で、各委員会、闘争本部等への結集、常幹での討議、各地、各支部の協力なしには、課題の解決、取り組みの前進ははかれないことは歴然としています。

 団長就任のあいさつのむすびとしては、各支部、各団員のご協力をまずもってお願いするしかありません。

 よろしくご協力のほどをお願い致します。


新事務局次長就任のご挨拶

東京支部  森   孝 博

 東京・お台場総会で事務局次長に就任しました森孝博です。期は旧六一期、所属する事務所は渋谷共同法律事務所です。

 おそらく六〇期代の団員が次長に就任するのは今回が初めてのことと思います。私自身、昨年の愛媛・松山総会に参加した際には、翌年に次長に就任することになるとは夢にも思っていなかったのですが、二〇一〇年五月のNPT再検討会議の際に小部幹事長とニューヨークまでご一緒させていただいた縁で、次長就任のお話しをいただきまして、後述のように少しあれこれ考えて現在に至りました。

 今は弁護士になって三年強というところですが、登録直後から原爆症認定集団訴訟と首都圏建設アスベスト訴訟に取り組んでいます。来年はおそらく、原爆症認定集団訴訟は被爆者援護法の改正問題、首都圏建設アスベスト訴訟は第一審の結審・判決という一つの山場を迎えることになりそうです。そのような状況に加え、本部の次長はなんだか大変そうな役職だという先入観(?)もあったので、次長就任のお話しをいただいた当初は私に次長の職が務まるのだろうかと若干躊躇しました。しかし、本年三月一一日の東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故を契機に日本社会の歪みが一層顕著になっている中、団の存在意義はますます高まってくるはずで、そのような時期に次長就任の話が来るのも何かの縁ではないか(ちょうど創立九〇周年という節目の年でもあるし)というような気がしてきて、お引き受けした次第です。

 新しい事務局体制の下、改憲阻止対策本部、司法問題委員会、原発問題委員会を担当することになったので、諸先輩方に学びつつ力を尽くしていきたいと考えています。

 最後に同じ新次長の瀬川団員のご挨拶にならって、趣味の話をしようと思ったのですが、最近は特にこれといった趣味がないことに気付きました。ただ、学生の頃から時折さぼりつつもウエイト(筋力)トレーニングをずっと続けています。何でわざわざ重い物を持って苦しい思いをしているんだろうとたびたび疑問は浮かびつつも、終わった後に妙な達成感があるので不思議と長続きしています。あと、修習生の頃にはハーフマラソンなどにも参加していたので、また走ろうかとも考えています。

 適度に運動をして健康に留意しつつ、これからの二年間を頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。


九〇周年東京総会一泊旅行に参加
再認識した上野・浅草下町

千葉支部  藤 野 善 夫

 九〇周年の東京一〇月総会時に企画された一泊旅行に参加した。九〇周年シンポや二〇一二年度総会参加者の感想文等が、参加団員から寄稿されている。感動的な感想や意見が投稿されている。私は、一〇月二二日総会終了後からの隅田川屋形船貸切りクルージングとその翌日(二三日)の「東京大空襲・下町見学」行動について、報告します。

 東京支部が「東京」でも、全国から来る団員のために…と、苦心して用意してくれたこの折角の企画に、参加せずしてそのまま帰宅するわけにはいかないと、強く感じて、参加しました。

 貸切り屋形船クルージングでは、船上で夜景を楽しみ、揚げたての天ぷらに舌鼓打ち、カラオケ歌い、そして「浅草」終点で、楽しいものでした。ただし、参加者は、神奈川支部のグループ、熊本支部、群馬支部の団員、松井繁明元団長、静岡支部萩原団員、私、そして富士国際旅行から添乗員の方々で二〇名弱、やや寂しい人員でした。

 そして、翌・二三日に東京大空襲の跡巡り、下町見学行動が早朝から開始されました。

 川杉元延氏(東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会委員長)に、東京大空襲の跡巡りと上野・浅草などの下町を見学し、関連する参考資料や軽妙な口頭説明を受けながら、そして、錦糸町の「東京大空襲・戦災資料センター」にて室長よりお話しを聞くという次の行動でした。

 上野東照宮(広島・長崎原爆の火を見学)→上野公園(海老名香葉子さんの碑)→横綱町公園(三重の塔・朝鮮人犠牲者慰霊碑)→浅草寺(仲見世通りと平和地蔵尊見学)→東京大空襲・戦災資料センター→江戸東京博物館→東京駅(午後五時頃)という行程でした。

 その行程で上野公園の歴史(徳川「東照宮」が明治維新政府に敷地の大半が取り上げられ天皇からの「恩賜公園」へ変わったこと)、何故 上野東照宮に「広島・長崎原爆の火」がともされているのかその経緯、横綱町公園に朝鮮人犠牲者慰霊碑があるが、そこに東京大空襲での死者も慰霊されていること、浅草「三社祭り」の由来や御輿のことなどを川杉氏のうんちくを交えての話しを聞き、この地区を再認識しました。

 一番印象に残ったのは、浅草浅草寺の杉の樹木に、東京大空襲時の火災の痕跡が刻まれており、水分を多量に蓄えることが出来る杉の樹木が、火炎を食い止める役割をして、寺の山門の消失を防いだと言うことでした。

 また、東京大空襲・戦災資料センターでは、軍事施設が全くの無い墨田・台東地区へのアメリカ軍が無差別爆撃をした状況や経過を、また、戦闘時に諸国で実行された同様な無差別爆撃を、国際的に検証し糾弾する運動があることなどでした。

 見聞を広げられ、それなりに知っている東京のこの地区を再認識させられる良い企画でした。東京支部の準備に感謝し報告致しますが、ただ、この良い企画に参加したメンバーが、三名(萩尾団員、私、団本部薄井職員)という状況でしたのが、とても残念でした。


JFE・共和物産不当解雇事件・全員職場復帰の完全勝利和解

神奈川支部  鈴 木 麻 子

 二〇〇九年三月末、JFEスチールの事業場内下請会社である共和物産の契約社員二〇名が、一斉に雇止めをされました。リーマンショックを口実にした派遣切り、期間工切りが横行する中、共和物産は、原告ら四名に対して、解雇予告もなく、突然口頭で「ロッカーを整理してカギと通門証を置いて帰れ」と即日解雇を宣告しました。

 原告らは、形式上は契約期間三か月の契約社員でしたが、八〜一七年にわたり契約更新を続けており、実質的に期間の定めのない雇用が成立していたことは明らかでした。原告らのうち二名は、親会社であるJFEスチールの指揮命令下で偽装請負に従事させられていました。また、原告らは、いずれも川崎地域合同労組の組合員であり、中心メンバーのNさんによる積極的な組合活動の結果、組合員が増加しつつあった矢先、組合員を狙いうちにした本件解雇が行われました。

 二〇〇九年七月三一日、原告らは、共和物産及び(原告ら二名については)偽装請負派遣元のJEFスチールを相手に地位確認と慰謝料請求を求めて横浜地方裁判所川崎支部に提訴。提訴から二年七か月、一〇回の口頭弁論と八回の和解協議を経て、二〇一一年一一月一日、原告らの言い分を全面的に認める内容の和解によって解決することができました(福島節男裁判長、鈴木千恵子裁判官、渡辺健一裁判官)。

 和解条項では、共和物産が原告四名に対する雇い止めを撤回し、雇い止め前と同じ条件の労働契約を締結して、四名を共和物産の職場に復帰させること、バックペイ合計約二九〇〇万円の支払うこと、さらに、JFEスチールと共和物産が連帯して原告らに解決金を支払うこと(金額については守秘条項あり)などが取り決められました。

 今回の和解は、なによりも原告四名全員の職場復帰が認められたこと、また、派遣元である親会社のJFEスチールが連帯して解決金を支払うことで偽装請負について一定の責任を認めたことが大きな成果であり、原告らの完全勝利と評価してよい結果となりました。また、原告らにとっては辛く長い闘いでしたが、提訴から二年七か月、人証調べに入る前の段階で和解がまとまり、早期の職場復帰を実現できたことも大きな成果です。

 本件訴訟では、長年にわたり多重偽装請負を行ったJFEスチールに対する地位確認と慰謝料請求の成否、共和物産による不当労働行為と雇止めの許否等、争点は多岐にわたっており、二〇〇八年末以降、全国でたたかわれている同種の派遣切り、期間工切りの事件と同様に決して容易な事件ではありませんでした。

 そんな中、今回、職場復帰、派遣元による解決金の支払いという勝利和解が実現した背景には、原告ら四名の奮闘はもちろんこと、原告らを物心両面で支えてきた労働組合、支援組織、とりわけ親会社であるJFEスチールの現役・OB社員らによる強力な支援があったことがあります。

 本件では、裁判と平行して、組合、支援組織が共和物産、JFEスチールと自主交渉を継続してきました。原告らや組合に加えて、原告らと一緒に働いていたJFEスチールの現役社員や、OB社員が地道な宣伝活動やJFEスチールの役員宅訪問などの要請活動を精力的に行って原告らを支援し、株主総会でも本件訴訟について質問をして、JFEスチールの副社長から早期解決を目指したいとの答弁も引き出しました。また、JFEの偽装請負の実態を立証するため、JFEスチールの現役社員の方を証人申請するなど、現場の社員の協力があったため、偽装請負のリアルな実態について主張、立証を進め、JFEスチールを追い込んでいくことができました。

 その結果、今年の六月、共和物産からの申出により、人証調べ前に訴訟の場において和解協議が開始されました。実際には、JFEスチールのイニシアティブのもと、自主交渉の場、訴訟の場でそれぞれ原告らの職場復帰を条件とする和解交渉が進められ、最終的には、二〇一一年一一月からJFEスチールの増産により下請けである共和物産の業務量も増加することなどから、原告ら四名が共和物産の職場に復帰することで決着がつきました。

 神奈川県内だけでも、いすずや日産、資生堂といった大企業とその下請け会社による違法な偽装請負、派遣切り、契約社員切りの裁判闘争が山場を迎えています。親会社であるJFEが一定の責任を果たした本件解決が、他の訴訟への追い風になればよいと思います。

 実働弁護団は神奈川支部の西村隆雄団員(弁護団長)、渡辺登代美団員、山下芳織団員、石井眞紀子団員(以上、川崎合同法律事務所)、穂積匡史団員(事務局長)、神原元団員、それに私(以上、武蔵小杉合同法律事務所)です。

 最後になりましたが、本件訴訟を進めるにあたって、団の大量解雇阻止対策本部での議論、全国の団員が手がけている先行訴訟での実績等に大いに助けられました。この場をお借りして御礼申し上げます。


自衛官の命と人権を守る裁判の現状と意義

神奈川支部  岡 田   尚

 団九〇周年記念のつどいのリレートークは、メンバーの多彩さとその発言内容の素晴らしさに感動しました。

 川口創団員(イラク自衛隊派遣差止訴訟名古屋弁護団事務局長)の「流れを変える…そして」の最後の発言で、全国で闘われている自衛官自殺訴訟に触れられていました。発言に触発され、また私も関係していることもあり、同種裁判の現状と意義について報告します。

 自衛官の自殺は、ここ一〇年一〇〇名前後/年を推移しているが、その自殺率は、一般国家公務員のそれの一・五倍となっている。自殺やイジメに対する自衛隊の責任を問う国賠訴訟は、この一〇年北海道から九州まで全国にわたって闘われてきた。

 二〇〇八年八月二五日の海上自衛隊護衛艦「さわぎり」自殺訴訟の福岡高裁による逆転勝利判決によって様相は一変している。その後、札幌地裁で「現役女性自衛官セクハラ裁判」、静岡地裁浜松支部で「航空自衛隊浜松基地パワハラ自殺訴訟」について、原告側の完全勝利判決が出され(団通信一三九二号参照)、しかも、いずれも自衛隊側は控訴せず判決は確定した。また、判決に至らずに自衛隊側の責任を認めたことを前提とする勝利和解が大阪地裁、仙台地裁で続いた。自衛隊側はかつてのように、あくまで責任を否定し上訴して闘う、という姿勢はとっていない。

 二〇一〇年三月四日、札幌市で、北海道の佐藤博文団員(前記セクハラ裁判)、浜松の塩沢忠和団員(前記浜松基地自殺裁判)、宮崎の西田隆二団員(前記「さわぎり」自殺裁判)、私(横須賀の護衛艦「たちかぜ」自殺裁判)の四名で呼びかけ合い、協議して「自衛官人権裁判全国弁護団連絡会」を結成し、相互の裁判支援にとどまらず、シンポジウムを企画し、裁判の意義や(ドイツにならって)「自衛隊にオンブズマンを」と呼びかけたりしてきた。

 近々、浜松基地自殺裁判の一審勝利・確定を受けて、「裁判を支える会」が社会評論社から「自衛隊員の人権は今」(仮題)を発刊することになっている。そのなかに私も一文を寄せているが、その末尾に「自衛隊員の人権裁判を闘う意義」について記述した部分があり、それを基本にし、以下報告する。

 私は、自衛隊は憲法違反の存在だと考えている。少なくとも、今のような軍備を持ち、日米安保条約の下、アメリカと一体となった軍事体制の為に機能している自衛隊は失くさなければならないと思う。しかし、そのことと自衛隊のなかの自衛官の人権を守るために闘うということとは別問題だ。より正確にいうなら別問題ではないどころか、繋がっている同じ問題だと思う。人が個人的恨みもないところで人を殺すことは正常ではあり得ない。国や愛する人を守るためという大義名分を持つかカルト集団のなかで精神に異常をきたしているかあるいは生きていることに絶望し、他人の生命に対する想像力を失っているか、しかない。  

 軍隊もカルト集団も、どこか人間を「物化」して、正常な判断力を喪失させるところに特徴がある。「物化」しなければ、恨みもないところに人は殺せない。人間の「物化」を防ぐ最善の措置は、人間を人たらしめること。人たらしめるために必要なことは、その人の基本的人権が守られること。自分の基本的人権が守られ、人権の尊さが肌身にしみた人は、他人の基本的人権にも想像力が働き、その人の基本的人権も守られねばならないと考えるはず。恨みもなく殺そうとする相手方にも人権があると頭にひらめいたら、人は殺せない、と思う。

 私は自衛隊を憲法の精神に沿って軍隊という人を殺す集団から、真の意味で国や人を守る集団(例えば「災害救助隊」のようなもの)に変えていくために、自衛隊内の自衛官という生身の人間の人権を問う裁判が重要だと思う。

 「九条かながわの会」で、昨年(二〇一〇年)一〇月九日「やっぱ九条inヨコスカ、基地の街で平和を考える」というイベントを開催した。そのうち一つの分科会のテーマを「憲法九条と自衛『官』」とした。九条と自衛「隊」については、これまで議論されてきた。しかし、「憲法九条が自衛官の命と人権を守っていると考えたことがありますか」という問いかけは、これまでの護憲運動には欠けていたもしくは重要視されていなかった視点ではないか。私のこの考え方に「結局それは、自衛隊を改良してその存在を認めることにつながり、現実に呑み込まれることになる」との批判もある。議論したいところである。

 私が「たちかぜ」裁判を担当することになったのは、「さわぎり」裁判の担当弁護士であった鹿児島の井之脇寿一団員の紹介であった。浜松基地人権裁判弁護団の責任者である塩沢忠和団員については、故吉岡吉典元参議院議員から相談を受けて、「浜松なら塩沢弁護士しかいない」と私が紹介した。

 このように、団員のつながりで、前述の「自衛官人権裁判全国弁護団連絡会」の結成までに発展した。団が百周年を迎えるころには、自衛官の人権を巡る状況はどうなっているのであろうか。自衛隊はどうなっているのであろうか。


「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団結成のご報告と弁護団参加の呼びかけ

福島支部  安 田 純 治

一 はじめに

 去る一〇月三〇日、福島市で「なくせ!原発」大集会が開催され、福島では近年まれに見る規模の約一万人という人々が参加しました。まさにその同日、集会参加者がデモに出発した後のまだ熱気冷めやらぬ会場で、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団は結成されました。福島原発事故発生以来、団では福商連などからの要請を受けて、福島県内各地で開催された法律相談会に多くの団員が参加してきました。この間、団通信でもたびたび取り組みが報告されていますが、そうした団員と被害者の方たちとの結びつきのなかで、今回の弁護団は結成されました。

二 弁護団の特徴 ― 私たちは何を求めるか

 私たちは、弁護団の方針として、被害の完全な賠償と地域環境の全面的な回復を要求し、実現に努力することを目的としています。また、東京電力のみならず、国をも責任の主体として明確にしていることも、私たち弁護団の特徴の一つです。これは、私たちが、今回の事故を「公害」として位置づけていることに基づきます。私たちは、今回の事故を単にお金だけの問題などとは考えていません。被害者の方たちからの聞き取りなどでも、誰もお金だけの問題だとはとらえていません。除染や健康被害への対策など、国にも重大な責任があることは明らかです。私たちは、こうした被害者の方々の想いと私たちの決意とを込めて、今回の弁護団を「生業を返せ、地域を返せ!」と称することに決めました。

 東電や国との交渉から訴訟まで一貫して取り組み、税理士など専門家との協力体制をとっていることも、この弁護団の特徴です。被害の全体像を徹底して明らかにすることは、被害者救済のため、そして同時に加害の所在とその責任の重さを明らかにするためにも、不可欠な作業であります。弁護士のみならず、他士業や医療関係者、科学者など広範な専門家との連携は、そうした作業を進めていくうえでも、政府の不完全な被害像を克服するためにも必須であると私たちは考えています。

 また、各地で原発の差止や廃炉、再稼働の阻止などを求める取り組みが始まっていますが、脱原発を望む広範な人々が連携し、過去にない勢いで拡がっています。今回の事故の想像を絶する被害実態を見ても、原発政策の根本的転換は不可避であります。私たちの弁護団でも、一致点を大事にしながら、こうした各地の取り組みと相互に協力・協同していきたいと考えています。

 現在、弁護団には、こうした想いを共有する約三〇人の弁護士が結集しています。福島県内はもとより、宮城、埼玉、千葉、神奈川、東京からの参加もあり、新人も多く参加しています。体制としては、次の通りになります。

・弁護団長 安田純治(福島)・弁護団幹事長 南雲芳夫(埼玉)

・弁護団事務局 渡邊純(福島)、山崎徹(埼玉)、渡辺登代美(神奈川)、久保木亮介、馬奈木厳太郎(以上、東京)

三 弁護団の課題

 今回の事故は、まさに未曾有の「公害」であり、その被害も複合的で広汎かつ多種多様であります。損害論にしても、この間の蓄積をふまえ、それを乗り越える理論構築が求められており、理論的な研究も不可欠です。恒久的な医療対策など、立法的な手当てが必要とされるものも少なくなく、運動の面でも大きな取り組みが要求されます。こうした課題をふまえると、まだまだ弁護団の人手が足りないというのが現状です。

 団では、公害訴訟をはじめ、多くの経験と知見を有しております。こうした団の歴史を承継すべく、私たちの弁護団は最大限の努力をする決意でありますが、このたたかいを勝利するためにも、全国の団員の協力が不可欠であります。

 私たちのたたかいは、長期にわたることが予想されますが、このたたかいはまさに歴史的なものとなるはずです。ぜひ多くの団員の方々に弁護団にご参加していただきたく、お願い申し上げる次第です。あわせて、全国からのご支援につきましても、よろしくお願い申し上げます。

【弁護団参加の連絡先】

 弁護団に加わって頂ける方は、東京合同法律事務所の馬奈木厳太郎弁護士までご連絡ください。

電話:〇三‐三五八六‐三六五一


反原発デモへの刑事弾圧

東京支部  萩 尾 健 太

一 世界の体制変革への権力の危機感

 今、世界は変わりつつある。エジプト、チェニジアでの革命を実現したアラブの春、ウォール街から世界へ広まった占拠運動、EU体制を揺るがすギリシャでのゼネスト、そして、三・一一以降の日本での反原発デモへの若者などこれまで参加したことのなかった人々の万単位での結集である。

 今年の二月、沖縄の高江への米軍ヘリパッド建設反対のため、アメリカ大使館へのデモが計画され、デモ申請をしたところ、デモの直前に、公安委員会によってアメリカ大使館前を通らないようにコース変更がなされた。そこで、私が代理人となって行政訴訟法上の「仮の義務付け」を同日申立てると、公安委員会側から提出された分厚い答弁書には「最近のデモはインターネットで呼びかけるため、エジプトのように多くの者が参加して膨れあがり、統制もとれず、アメリカとの外交問題に発展する危険がある」旨記載されていた。なんと大げさな、と思ったが、現在まさに多くの民衆が結集する動きになっている。 

 そのもとで、刑事弾圧も頻発している。私が知る限りで三月三一日のデモでは三人、五月七日には二人、八月六日には三人、九月一一日には一二人が公務執行妨害等で逮捕された。このうち、五月と八月の件は、私が接見などで関与した。

 特徴としては、第一に、それまで運動に関わらなかったような人も逮捕されていること。第二に、いずれも起訴されていないことである。

 それは、公安警察が過剰なデモへの規制を行い、およそ起訴ができないでっち上げの逮捕を行って、新たな層がデモに参加することを抑えようとしていることを示している。変わりつつある世界への権力の危機感の表れである。

二 排外主義・差別・分断との闘い

 もう一つ、インターネットなどを通じて新たな層を組織しているのが、排外主義の動きである。「在特会」などのデモも少なくない若者を結集している。現在の体制への不安と不満のはけ口として、排外主義が民衆を引きつける素地がある。九月一一日の逮捕者の中には、排外主義者へ抗議をしたら逮捕されたフランス人もいたし、九月二三日には、排外主義反対のデモの際に、反原発運動の中心になってきた若者が逮捕された。権力はこのように排外主義で民衆の運動をねじ曲げ、ひいては弾圧の道具としている。

 銘記すべきは、原発の被害の前には、日本人も外国人もない、ということである。東北被災地には少なくない在日の人や外国人労働者、農村・漁村に「嫁いだ」外国人がいたことを忘れてはならない。

 若者を街頭での運動に立ち上がらせているのは、非正規労働者や失業者として職場でも差別・分断され不安定な状態におかれている「情況」である。そうした若者たちと労働組合といった組織が、さらにこれまで反目してきた原水爆禁止協議会と原水爆禁止国民会議といった組織同士が、共同の取り組みをするに至ったのが九月一九日に六万人を結集した反原発の大集会であった。このような反原発の共同の動きが、更に発展し、世界の民衆の運動と具体的に連帯したとき、権力が危惧するように、真に体制を揺るがすことになる。

三 一人の弾圧も許さずデモの自由を勝ち取ろう

 九月一九日には、過剰な警備のもとでも一人の逮捕者も出さなかった。これは共同の力の成果であるが、油断することはできない。「表現の自由を守れ!一人の弾圧も許さない!」との世論を広げて行く必要がある。そして、弾圧の道具となっている公安条例の違憲性を明らかにしその無化を目指すとともに、公安警察の暴虐を運動の力で抑止していかなければならない。


「原発の脅威からいのちと琵琶湖を守る」滋賀原発訴訟の第二弾として

日本原電の敦賀原発一・二号機について再稼働禁止の仮処分を申請

滋賀支部  吉 原   稔

 一一月八日に日本原電の敦賀一・二号機について、再稼働禁止の仮処分を大津地裁に申請した。

 八月二日に関西電力の定期点検で休止中の美浜、大飯、高浜の七基について再稼働禁止の仮処分を申請した後、多くの人が自分も原告になりたいと言ってきたので、第二次訴訟をすることにしたが、どうせするなら日本原電の敦賀一・二号機の再稼働の差止めをすることにした。

 敦賀一号機は、出力三六万kWで比較的低出力であるが、一九七〇年の大阪万博の時にスタートしてすでに四一年たった老朽原発で、脆性遷移性温度も五一度に達している。また、一・二号機のすぐ東側に活断層の浦底断層があり、分岐断層が二号機の直下を通っている。

 若狭湾の原発は、石橋神戸大学名誉教授が国会で「浜岡の次に危険なのは福井の原発である。活断層の一km以内にあるのは世界でも敦賀、美浜、大飯、高浜だけ」といった。ここには、谷の屈曲による活断層があるのに、二〇〇九年の耐震基準を決める分科会で学者である副分科長が「これを活断層とみないのは犯罪的だ」と指摘したものである。しかも、この浦底断層は、滋賀県の東部を走っている大活断層の柳ヶ瀬断層ともつながっているので、連動して大地震を引き起こす可能性がある。又、敦賀一号機は福島第一原発と同じ沸騰水型、アークI型であるから、危険性はより高い。

本件各原発では、津波対策が極めて不十分である。

 又、応力腐食割れと中性子照射脆化(敦賀一号機)がすすでいる。

 敦賀一・二号機は敦賀半島(東西六km、南北一二km)の西方ヶ岳(七八九m)、蠑螺ヶ岳(六八六m)のある直下にある。半島の東岸に敦賀一・二号機、「ふげん」、西岸に「もんじゅ」と美浜一・二号機があって敦賀半島は「原発銀座」というより「原発マンハッタン」といった方がよい。この原発に行くアプローチは、片側一車線の海岸沿いの道しかなく、ここで深層崩壊による地滑り、がけ崩れが起これば、たちまち「陸の孤島」となる。特に敦賀半島の両岸にある敦賀原発一号、二号と美浜一号は「老朽化」、「活断層の近く」、「深層崩壊による陸の孤島化」、「使用済み燃料プールが満杯になっている」、「津波対策がない」という点で、その危険性は特に高い。

 滋賀訴訟の法的根拠の一つである安全指針失効論は、現行の安全指針は失効したので事故原因を解明し、新安全指針をつくり、それを技術的基準として定期検査をし、合格証が出るまで再稼働をするなというものであるから、新安全指針ができない限り、現行の安全基準により認可され安全とされた原発にも通用するはずだが、不法行為なので、「仮に安全指針が失効しても、うちの原発は安全であることを立証する」という電力会社の主張に対して、立証責任の転換はあるものの、過酷事故発生の危険性を一応疎明する必要がある。

 今後は、関電と日本原電の九基の原発(定期点検で停止中の)を対象として、脱原発訴訟を進めていく所存である。


「平和」を「人権」として捉える
〜スペイン国際人権法協会来日にあたって〜

東京支部  笹 本   潤

 現在、国連を舞台に「平和への権利」を権利宣言という形で国際法典化する動きが進んでいる。団通信一三六七号でもお伝えしたように、世界のNGOが平和を権利として宣言するように国連に働きかけている。

 ここでなぜ「平和」を「権利」として捉えることの意味について考えてみよう。

 戦争と平和の問題は、国家間の問題だから、各国の政府同士が国連や国際条約、外交交渉などによって取り決めをしてきた。

 しかし、国家間の取り決めが常に正しいとは限らない。国連憲章も武力行使の禁止を原則としており(二条四項)、日本国憲法でも九条で戦争の放棄、武力行使を禁止しているが、実際の世の中は、アフガン・イラク・リビアと軍事力の行使が続き、自衛隊も海外に派兵されている。

 そういう中で、国同士には任せておけないという世界の市民の声が大きくなって形になりつつあるのが、この「平和への権利」の権利宣言といえる。

 「権利」化するということは、新たな権利、人権を創設することを意味する。六〇年余り前の世界人権宣言も当初は、法的拘束力のない「宣言」にすぎなかったが、その後国際人権自由権規約、社会権規約という形で法的拘束力が徐々に強化されてきている。

 権利とは、個々の個人が政府や国際機関に対して直接物を言うことができることを意味する。戦争と平和をめぐる問題に、各国政府だけでなく、世界の市民やNGOが直接関与できる可能性が増えるのである。

 この「平和への権利」の権利宣言化の動きを一番恐れているのがアメリカである。

 国連の人権理事会での「平和への権利」国際法典化の促進決議に反対しているのは、現在、アメリカ、EU諸国、日本、韓国などの先進国グループだ。アメリカは国連人権理事会やその諮問委員会の場でも堂々と反対意見を述べている。

 反対意見の中で一番大きい理由は、「平和への権利は、安全保障理事会など他の場で扱うべきであり、人権理事会で扱うべきではない」、というものだ。ニューヨークにある安全保障理事会では、国際平和に対する脅威を認定し、武力行使の可否も決めることができる強大な権限を持っている。しかし、五大常任理事国が拒否権を持ち、自らの国に不利になる決議がされない非民主的な仕組みになっている。現代世界で最も軍事力の行使を振りかざしているアメリカにとって、この安保理や常任理事国の権限が制約されることに対しては激しく反対する。

 しかし、このことが、まさしく「平和への権利」法典化の最大の意味ともいえる。つまり、アメリカなどの強大な国連安保理における権限に対して、ジュネーヴにある人権理事会が制限をかけることができるか否かというのが、平和への権利の国際法典化における最大の争点でもあるのだ。

 このような国際政治における意味だけでなく、平和への権利が国際法典化、つまり国連宣言→国際条約という形に発展していくと、世界と日本の市民にとって平和の実現に役立つ強力な道具を手に入れることになる。

 平和的生存権のような憲法規定を持たない諸国にとっては、国連の権利宣言によって国内で平和への権利を成文化したり、また政治や司法の場で権利を主張する大きなきっかけになる。

 世界で唯一平和的生存権を憲法に掲げる国・日本にとっても、大いに意味がある。この国際法典化の動きは、いわば平和的生存権の世界化の動きでもある。憲法前文も「全世界の国民」が平和的生存権の権利主体となっており、世界化していくことが予定されている。

 司法の場でも、平和的生存権が長沼訴訟判決や自衛隊イラク派兵違憲訴訟の名古屋高裁判決で法的権利あるいは裁判上救済可能な権利として認められたとしても、まだどの訴訟でも平和的生存権違反の違憲判決を裁判所に書かせるほどには、平和的生存権は実効化されていない。平和的生存権や平和への権利が、国連で採択されて「世界標準」の権利になっていけば、このような日本国内の情勢も変わっていく可能性がある。

四 来日集会について

 二〇一一年一二月には、国連の動きに大きい影響を及ぼしてきた、国際NGOの中心をになってきたスペインの国際人権法協会のメンバーが来日する。二〇〇六年から五年間かけて世界各地でNGOの集会を開き、世界の市民の声を集めてきた団体だ。

 彼らは、日本の憲法や平和的生存権のことに大いに着目している。名古屋、大阪、沖縄、東京で開かれる来日集会では、世界の平和に対する動きと、日本の平和運動の接点をさぐり、これから世界的な平和運動の進め方を考えるきっかけにしたい。そして、何よりも平和への権利促進決議にアメリカとともに反対し続けている日本政府に対して要請活動をして、日本の憲法の内容と国連での日本政府の矛盾した態度を問う機会にしたいと考えている。

 集会の日程、場所は以下のとおりなので、多数の方の参加をお願いしたい。

■名古屋集会 一二月三日(土)午後一時〜五時

   会 場 名古屋国際センター三階第二研修室

   連絡先 日本国際法律家協会東海支部事務局

       電話 〇五二-九六一-〇六五一

■大阪集会  一二月五日(月) 午後六時三〇分から

   会 場 エル・おおさか 南館一〇一号室

   連絡先 日本国際法律家協会関西支部事務局

       電話 〇六-四七〇七-八〇〇四

■沖縄集会  一二月七日(水) 午後六時三〇分から

   会 場 那覇市八汐荘 大ホール

      (沖縄人権協会第四八回定期総会内行事として)

   連絡先 沖縄人権協会事務局

       電話 〇九八-八五四-三三三五

           (那覇第一法律事務所)

■東京集会  一二月一〇日(土)午後一時三〇分〜五時

   会 場 明治大学リバティータワー一一一四教室

   連絡先 日本国際法律家協会

       電話 〇三-三二二五-一〇二〇

*なお各集会のチラシは、平和への権利 web site からもダウンロード可

http://www.right-to-peace.info/


自転車生活

東京支部  上 野   格

 「ライフ・ワーク・バランス」について書くように、と団女性部事務局長に命じられて一年が経過してしまった。私は、女房と共働きであり、子どもが三人いるが、家事を概ね半分、分担している。よって週に三日はお迎え当番である。一七時過ぎに事務所を出、末の子を保育園に迎えに行き、夕食をつくって子ども達に食べさせ、小学生の子の勉強を見、風呂に入れて寝かせる。仕事する時間が足りないことはあるが、一方で半ば強制的に仕事を打ち切られることで働き過ぎの防止にはなる。

 団女性部事務局長殿は、たぶん私の体験を書かせて、働き過ぎの団員の皆様に、生活と仕事のバランスについて考える機会にしてほしかったのだと思う。しかし、どうしても自慢げになってしまったり、特殊で個人的な話になってしまったりで、うまくない。それに皆さんは、私に言われなくても常に生活と仕事のバランスは考えているはずだ。あるいは、私に言われても過労状態は変えられない方も多いだろう。現に私だって、数年前までは子どもを寝かしてから事務所に出て起案したりしていた。これは明らかにバランスがとれていない。

 そんなわけで、私の家事の分担の話はこのくらいにして、私が今ハマッている自転車の話にする。私は、家事に加えて自転車を漕ぎつつ、生活と仕事のバランスをとっているのである。事の起こりは今年五月の健康診断である。酒を飲まないのに「脂肪肝」はかなりマズイ。とりあえずは食事を制限して体重七八キロを七三キロに落としたが、十月になって下降が止まった。そこで自転車を始めることとし、ドロップハンドルのスポーツ用自転車(ロードバイクという)を購入した。

 早速乗り出してみると、一漕ぎでどこまでも進む。車体が軽く、チェーンやギヤ、回転部分の精度が高いのでロスがない、らしい。背中を丸めた走行スタイルは、全身の筋肉を動員するための工夫である。労力はママチャリの数分の一である。初日から二〇キロも走ってしまったが、一時間の運動としてみれば疲労は少なく、膝も痛まない。

 これはイイと、今日まで毎日走り続け、現在は一日三〇キロくらい走る。勉強して姿勢やポジションを最適にすれば、疲れにくい体幹の筋肉を使えるようになる。脂肪が燃え出すのは、運動開始後二〇分を経過してかららしい。軽い負荷の運動でいいから長時間続けることが減量の秘訣である。水泳やジョギングを一時間半も続けることなんか、私には無理である。毎日続けたら死んでしまうのではないか。ジョギングをしている人はエライと思う。

 自宅近くの荒川は、信号もなく車が入らないサイクリングロードが何十キロも東京湾まで続く。軽めのギアから走り出し、徐々にスピードを上げていく。後ろから押されるような加速感に気分が高揚する。どうしても走るのは夜になってしまうが、街の明かりや高速道路、鉄橋を渡る電車が美しい。月や星も美しい。秋ヶ瀬橋から武蔵野線の鉄橋、外環、笹目橋をくぐって走る。笹目橋を過ぎたところに、いつも黒猫が行儀良く座っている。やがて戸田橋が見えてきて、その向こうの埼京線の鉄橋をくぐったところで折り返しである。私の自宅近くにお住まいの工藤裕之団員は、週末限定走行であるが、奥様と一緒に東京湾まで走ることもあるらしい。すごい。

 復路は緩やかな登りになり、おおむね逆風であるので、スピードを落として無理しない。風のように走る速い人とすれ違う。本当に速い自転車は、見るからにスムーズで雑音がしない。秋ヶ瀬橋付近にはアザラシがいるらしいが、私は見たことはない。秋ヶ瀬橋で荒川を離れ、遠回りして自宅に帰れば三〇キロである。あー今日も気持ち良かった。これで約九〇〇キロカロリーを消費し、全部を脂肪で換算すれば一〇〇グラムである。見る見る腰回りが細くなった。無理なく続けられるので、やせたい方には、かなりお勧めである。なお、多摩川のサイクリングロードはもっとイイらしい。

 自宅から事務所まで約二五キロあるが、自転車通勤もあり得るのではなかろうか。また、自転車を持って行き、団総会終了後に現地で漕ぎ出すことを夢想している。

 東日本大震災や原発被害、長引く不況に貧困問題と、自転車に乗る前に団員としてやるべきことはたくさんある。こんな記事を団通信に載せるのは不謹慎極まりないが、「ライフ・ワーク・バランス」について書けと命じられ、今、人生で初めてバランスがとれているような気がするので投稿した。