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板井  優 原発を廃炉へ
種田 和敏 東京電力に対する相双民商第六次請求のご報告
山添  拓 第一回弁護団合宿に参加して
吉田 悌一郎 復興とはほど遠い岩手県沿岸部の惨状
渡邊  純 「反貧困フェスタinふくしま二〇一一」の報告
菅原  瞳 *菅原一郎団員追悼特集
亡き夫菅原一郎のこと
千田 功平 故菅原一郎団員を思う
青木 正芳 在りし日の菅原一郎先生を偲んで
佐々木 良博 一郎先生を偲ぶ
米倉  勉 三鷹事件の再審請求―その意義について
田中 恭子 国民保護実動訓練監視行動に参加して
今村 幸次郎 「労弁」必読・必携の書「解雇・退職」が発刊されました
―徳住堅治団員著「解雇・退職」のご紹介
菅本 麻衣子 団の資料を電子化する提案
森  孝博 二月八日「秘密保全法」学習会のご報告
伊賀 興一
杉本 吉史
高橋  徹
「教育基本条例」「職員基本条例」の制定に反対する署名のお願い
森  孝博 全国紙・沖縄二紙全面意見広告への賛同の呼びかけ
◆自由法曹団結成九〇周年記念出版



原発を廃炉へ

熊本支部  板 井   優

始まった九州での闘い

 去る一月三一日、佐賀地方裁判所に原告一七〇四人が九州電力と国を相手に、玄海原発は操業するなとの裁判を提起した。前夜集会には三〇〇人を超える人たちが集まり、当日の百数十名の人たちが佐賀県弁護士会から佐賀地裁前までパレードを行い意気揚々と提訴行動を行った。

 第二次提訴は今年三月に予定され、年内に万を超える原告団の誕生をめざしている。

 また、鹿児島でも川内原発は操業するなと裁判の準備が進んでおり、この五月にも提訴予定である。

 ちなみに、玄海の弁護団は「原発なくそう!九州玄海訴訟」弁護団で、川内の弁護団は「原発なくそう!九州川内訴訟」弁護団準備会である。兄弟弁護団であり、いくいくは原発なくそう!九州訴訟弁護団として発展する予定である。

 現在のところ、玄海の原告団長は長谷川照(前長崎大学学長)で、弁護団の代表世話人が板井優、池永満、河西龍太郎で、幹事長は佐賀の東島浩幸である。川内は弁護団長は森雅美で、共同代表が板井優、後藤好成が予定されている。

「原発を廃炉に!」

 今、九州で起こった裁判を全ての国民に分かってもらうために、玄海と川内の弁護団は共同編著で、訴状を中心とするブックレットを明らかにした。これは、花伝社から出版され、定価は八〇〇円である。

 私たちは、この裁判の特徴を次の通り捉えている。

 一つは、福島原発事故の被害を二度と繰り返さないという事である。わが国では、去った戦争の恐怖と欠乏を繰り返さないとして日本国憲法が生まれた。また、悲惨な公害被害を繰り返さないために公害根絶の世論が起こった。そして今、壊滅的被害をもたらす原発事故を繰り返してはならないというためにノーモア・フクシマの闘いが始まったのである。

 二つは、個別企業九電だけでなく国をも被告とした点である。私たちは、個々の原子炉に問題があるのではなく、国も原子力政策が前提となってわが国の原子力発電があると考えている。すなわち、国と原子力企業は一体となってわが国の原子力発電を担っているのである。したがって、国の原子力政策を変えることなく、問題解決はできないと考えているのである。

万人の一歩を共に歩もう

 私たちは、国の政策転換を実現するものは、人間の自己保存本能であると考えている。人類は、そしてその一員であるこの国に住むものは、危険なものを排して未来を生き抜く自由と権利を持っている。これは、わが国の一部の人の利益ではなく全ての人の利益であると考えている。例えば、玄海原発に事故が起こると、偏西風の影響で博多の商業地域や北九州の工業地帯はおろかわが国のほとんどの地域が汚染されてしまう。

 富める者も貧しき者も等しく壊滅的被害を受けるのが原発被害の特徴である。したがって、まさに思想や知識ではではなく被害でもって団結して闘うべきである。

 私たちはそのことを福島を中心とする東日本の方々の尊い犠牲の上に学ぶに至った。

 共に、万人の一歩をしるそうではないか。


東京電力に対する相双民商第六次請求のご報告

東京支部  種 田 和 敏

 二月八日、福島県の相双民商は、東京電力に対して、第六次請求を行いました。私は、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団の一員として、今回の請求に同行しましたので、当日の様子などをご報告いたします。

 今回の請求は、福島県庁の会議室で行われました。福商連(福島県商工団体連合会)の役員のほか、会員の方たちが三〇名ほど集まり、マスコミ関係者も約五名取材に訪れました。東電からは、福島原子力補償相談室福島補償相談センターの副所長、課長、主任の三名が出席しました。

 まず、相双民商から、質問要望書に対して回答するよう要求がありました。質問要望書のうち、「漁協・漁船が操業を停止や自粛している限り、当事者とそれに関連する業者への損害賠償(補償)も続けるべきですが、いかがなものでしょうか。」という質問に対して、東電から、「賠償の対象になるためには、国の判断が必要で、私どもはそれに従って賠償させていただく。」との回答がありました。続いて、南相馬市の原町地区で、園芸店を営んでいた会員の方が、「避難している間に、一〇〇年以上のイワヒバ(シダ植物の一種で、希少価値あり。)が盗難にあったが、補償されるのか。」と質問したところ、東電は、「現時点の弊社の立場では、お支払いはできません。」と答えました。

 東電の他人事のような回答に対し、同行した弁護団の馬奈木厳太郎団員が「弊社の立場というが、自分たちで何も決めていない。決めないのが弊社の立場で、それをみんな怒っている。国や紛争審査会で決めたら、弊社の立場で払うと言う。他の人に下駄を預けて、あそこが払えといえば払うと言う。人任せにするというのは考えられない。人任せで、いったい何について謝っているのか。誠意を示してもらいたい。」と参加者の怒りを代弁するように声を上げました。

 その後も、たとえば、コート販売業の会員から「避難している間、閉め切っていたので、在庫品にカビが生えてしまった。カビが落ちないので、売り物にならないが、どうなるのか。」など、会員から質問が発せられました。いずれの質問に対しても、東電は、「今は答えを持ち合わせていませんので、持ち帰って検討させていただきます。」と返答するばかりでした。

 東電の煮え切らない態度に、会場から、「死ぬ前にしてくれないと困る。」「本当にきつい。もう一年も経つ。何回持ち帰ると言ったか。」と悲痛な叫びが聞こえました。

 質問要望書への回答をめぐるやりとりなどに続き、相双民商の第六次分の請求書が東電側に手渡されました。相双民商を含む福商連全体では、本年一月三〇日の時点で、約三六〇名分の請求に対し、二九七名が支払いを受けています。支払総額は約七億七〇〇〇万円で、請求額に対して支払われた額の割合は九割を超えています。今回の請求は、それらに続くもので、五四名分、請求額で約一億三〇〇〇万円になります。弁護団では、早期の一部賠償支払いを求めて、一貫して福商連の取り組みを支援してきましたが、この間の到達は、完全賠償に向けた重要な一歩だと評価しています。

 今回、このような請求に初めて参加させていただきましたが、初参加の私ですらも、東電の他人任せ、その場逃れの発言に、怒りが込み上げてきました。また、会場から上がる切実な声に胸が苦しくなることが何度もありました。

 原発事故被害への取り組みは、私の弁護士人生を賭けたチャレンジになるはずです。被害者と共に闘って、東電と国の責任を明らかにし、完全賠償を勝ち取る日まで頑張りたいと思います。


第一回弁護団合宿に参加して

東京支部  山 添   拓

一 弁護団はじめての合宿

 「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団は、二月一二日から一三日にかけて、福島市内の飯坂温泉において、弁護団初の合宿を行った。弁護団員をはじめとして、福島県商工団体連合会(福商連)役員、復興共同センター役員(県労連議長)など、約四〇名が参加し、両日にわたり極めて濃密な議論を交わした。

二 弁護団の現状と役割

 合宿冒頭、久保木亮介団員から除染や損害賠償についての情勢報告があった。進まない除染の現状と一一日に国が示した除染計画についての指摘、また、一月下旬に東電がしたADR第一号事件に対する回答の限界などを確認した。馬奈木厳太郎団員からは、弁護団員が四〇名となったこと、昨年以来の福商連の賠償請求の実績、法律相談会や説明会の実績が紹介された。

 その後、南雲芳夫団員から基調報告がなされた。日本の公害事件は、炭鉱における労働災害死やじん肺の多発、高度経済成長期の大気汚染やアスベストと、石炭から石油へのエネルギー政策の転換とともに絶えず新しい損害を生み出してきたこと、今回の福島原発の事故により、現在のエネルギー政策の根幹にある原子力政策と国民の生存との間の矛盾が明確になったことなどが指摘された。

三 弁護団の課題

 弁護団の課題は、受任事件のとりくみに加えて、理論面でも深めるべき点が山積している。損害論や責任論は、損害賠償請求の形をとる今回の請求において避けては通れない。責任論については、地震と火山が趣味という加藤芳文団員から、過失の構成について訴状案をもとに提起がなされ、損害論については、秋元理匡団員から、既存の判例、実務、学説の枠にとどまらず、さまざまな被災者の実態を考慮した完全賠償のための理論が開陳された。

 これらの理論面の課題については、他の原発被害弁護団でも同様に課題となることから、相互に連携し、知恵を出し合って乗り越えていこうということが確認された。

四 板井優弁護士による講演

 今回の合宿には、ゲストとして、熊本の板井優団員をお招きし、「原発被害者運動の方向性と弁護団の課題について」と題してご講演いただいた。水俣病訴訟や原爆症認定訴訟の経験を踏まえ、福島・東日本での壊滅的被害を記録し、明らかにしていくことの重要性を語られた。すなわち、原爆においても水俣においても、情報は圧倒的に権力に握られてきた。原発事故から何十年も経って被害を実証しようとするとき、権力側は、自らの都合のよいデータだけを提供して、影響はなかったと主張する。それを許さないために、私たち自身が放射線量や被害の現状を記録していくことが不可欠であると語られた。

 また、裁判は、社会で負けたからひっくり返すという、いわば敗者復活戦であり、本当は、社会の中でたたかうという運動が先であるということも強調された。原発は国の政策であり、必ず作り直してくる、元を断つようなたたかいをしなければならないという話のなかで、板井団員をはじめ九州の団員も多く関わってとりくまれている玄海原発の訴訟にも触れられていた。

 重大な公害訴訟に数多く携わってこられた板井団員の話は重く、これから訴訟をも含めて長く険しい道のりが予想される当弁護団の活動に、大きな意義付けを示唆されたように思う。

五 弁護団員の『カルチャー』

 今回の合宿には、私と同じく昨年一二月に司法修習を終えた新六四期の新人弁護士が数多く参加し、弁護団のなかでも一定の割合を占めるに至っている。新六四期には、懇親会での司会や写真撮影といったものから、受任事件の担当や理論面でのチーム編成に至るまで、さまざまな役割がふられていた。合宿には板井団員をはじめとしてベテラン層も多く参加されていたが、全体としては、新六三期や新六四期といった若い期の弁護士が多かった。私たち新人弁護士は、懇親会においても多くの先輩団員と語り、突っ込みを入れられ、また、当事者団体ともいうべき福商連の方々からも多くを学び、そしてとにかく酒を飲んで、楽しく過ごさせていただいた。

 馬奈木団員は、この雰囲気を「弁護団のカルチャー」と表現されているが、経験が浅い私たちにもこうして活躍の場を与えていただけることは大変ありがたく、弁護士としてのスタートに気が引き締まる思いである。

六 そして、これから

 福島原発事故の被害賠償に向けた動きは、まだ始まったばかりである。

 しかし、震災と原発事故から一年が経とうとするいま、被災者の苦痛は頂点に達している。当弁護団は訴訟をも辞さない構えで各事件に臨んでいるが、被災者に本当に求められているのは、より早く、より柔軟に、そしてより手厚い賠償を、東電と国が率先して、責任をもって行うことであろう。私たちのとりくみは、単なる紛争解決だけではなく、広範な人々による運動と結んで政治を動かすことが求められている。

 弁護団合宿は、私たちが法律家として、また一人の市民として直面している課題を整理し、これからなすべきことを改めて直視する機会となった。


復興とはほど遠い岩手県沿岸部の惨状

東京支部  吉 田 悌 一 郎

一 初めて訪れる岩手県の被災地

 少し前の話になるが、今年の一月一四日〜一五日にかけて、甚大な津波被害の被災地である岩手県の大船渡市を訪れた。ヒューマンライツナウが主催している、岩手県の被災地での法律相談会に参加したためである。

 私はこれまで、福島県や宮城県、茨城県、千葉県の各被災地を訪問していたものの、岩手県の被災地を訪れるのはこれが初めてである。

 昨年の三月一一日、あの巨大な大津波による惨状をテレビで目の当たりにして以来、ずっと岩手県沿岸部の津波被害の現場が気になってはいた。いつか訪れなければと思っていたが、東京からは地理的に遠いことや、私個人は福島県各地での被災者支援や原発賠償関係、あるいは首都圏での広域避難者支援などの活動に日々忙殺されている状況であり、なかなか岩手県の被災現場を訪問する時間的余裕もなかった。

 東日本大震災の発生から約一〇ヶ月後になり、ようやく私にその機会が訪れたことになる。被災地の復興に向けての動きや現地の状況、被災者のその後の生活や現在抱えている悩みなど、私は大きな関心を持って被災地岩手県大船渡市に向かった。

二 岩手県沿岸部の津波被害の惨状

 東北新幹線の一関駅で下車し、そこからレンタカーを借りて自動車で大船渡市に向かうことになった。大船渡に向かう三陸鉄道が未だ復旧していないためである。自動車の運転は、慣れない雪道であることもあり、ヒューマンライツナウのボランティアスタッフの方にお願いすることになった。

 一関から大船渡市までは、自動車で約一時間強の道のりであったが、途中で通った陸前高田市の沿岸部の惨状の光景は忘れることができない。広大な面積の地域が丸ごと津波で流されてしまって何もない状態。私はこれまで、福島県や宮城県その他の沿岸部の津波被害の地域をいくつも見てきたが、およそそれらとはスケールが異なる。まさに一つの街ごと消滅してしまい、砂地ばかりの何もない光景が延々と広がっていた。

 また、こんな所にまで津波が来たのか、と思われるような、かなり内陸地に入った地域にも津波被害の爪痕が明確に残っていた。まさかここまでは津波は来ないだろうと思って逃げ遅れてしまった人も多いと聞いているし、私が会った相談者も、まさかここまで来るとは思わなかったと言っておられた方が複数人いたこともうなずける。

 瓦礫は撤去されていたものの、それは撤去されたというよりは、単に一カ所に集められているだけの状態で、隅々に瓦礫の山がうずたかく積み上げられていた。また、カーナビでは存在するはずの店や道路、橋などが失われており、海が浸食している地域もあった。

 初めて生で見た陸前高田市の津波被害は激烈であり、市内の状況は、震災から一〇ヶ月以上が経過した時点においてもなお、およそ復興とはほど遠いものであった。むしろ、三月一一日のまま時間が止まってしまっている、震災・津波被害の痕跡が痛々しく、剥き出しのまま残っていると言ってよい。このとき、一名の司法修習生(男性)が同行したが、彼も唖然とし、目に涙を浮かべたまま言葉を失った。

三 大盛況だった相談会とその内容

 法律相談会は、一月一四日の午後と一五日の午前の二日間にわたり、大船渡市の三陸鉄道盛駅内にあるふれあい待合室において行われた。ここでは、地元のNPO法人夢ネット大船渡のご協力(相談場所の提供や法律相談会の宣伝等)をいただいた。上記のように、三陸鉄道は未だ復旧していないが、駅は街の中心地であり、その中心である駅が閉鎖されている状態ではおよそ街の復興もおぼつかない。そんな発想で、夢ネット大船渡の方々が主体となって、駅舎内のふれあい待合室を利用し、そこは地元の人々のサロンのような存在となっている。

 法律相談会は、私を含めて弁護士二名で対応したが、相談件数は二日間で合計一四件とかなり盛況であった。大船渡市や陸前高田市内の仮設住宅から相談に来られる方も複数いた。

 相談内容としては、相続や離婚、債権回収や不動産賃貸借、戸籍に関する相談など多様であったが、そのほとんどは震災を原因とする(あるいは震災によって顕在化した)法律問題であった。震災・津波で実際に親族を亡くしたという相談者も複数おり、涙ながらに相談する方もいて、震災から一〇ヶ月が経過した今も生々しく被災者の心に残る傷跡を感じずにはいられなかった。

 また、津波で権利証を流されたがどうしたら良いかとの相談も受けた。これは私も震災直後の時期には各地の被災地で必ず受けた相談だった。しかし、震災から一〇ヶ月が経過したこの時期に、このレベルの相談があったのには驚いた。やはり必要最低限の情報が被災者に行き渡っていない、あるいは行き渡るのが著しく遅いと感じた。

四 今後の課題と決意

 これまで、岩手、宮城は自然災害のみなので、復興に向けて動き出しているが、原発事故が収束しない福島県では復興の視点が全く見えていないなどと言われることがあったし、現場を見ていなかった私も何となくそのようなイメージを持っていた。岩手県沿岸部の津波被害の悲惨さは分かるが、それでも原発問題を抱える福島県よりはましな状態であろうと。しかし、その認識が間違っていることが今回よく分かった。

 私が見た岩手県沿岸部の被災地は、多くの被災者が仮設住宅での不自由な暮らしを余儀なくされ、街全体の雰囲気も、復興とはおよそほど遠い印象であった。また、福島県とは違い、地理的な問題もあって現地の具体的な状況に関する情報が世間一般に入りにくく、それがまた復興を遅らせている部分もあると思う。

 今回の法律相談の件数から見ると、現地での被災者の法律相談の需要は十分にあると思われるが、やはり司法過疎地域であることもあって、必要な法的支援が行き届いていないのであろう。それゆえ、このヒューマンライツナウによる法律相談会のような取り組みは今後も継続されるべきであると思うし、多くの法律家が現地をもっと訪れるべきであると考える。

 なお、この原稿を書いている最中、岩手県弁護士会が本年三月五日に陸前高田市にひまわり基金法律事務所を開設する旨のニュースが飛び込んできた。被災者支援に大いに貢献していただくことを期待したい。

 私自身も、なかなか行く時間がなくて歯がゆいのだが、今後は岩手にも通わなければならないとの思いを強くした。


「反貧困フェスタinふくしま二〇一一」の報告

福島支部  渡 邊   純

 去る二月一一日、福島大学において、「反貧困フェスタinふくしま二〇一一 フクシマからふくしまへ 被災地から貧困を問う」が、地元をはじめ全国からの三五〇名の参加により開催された。

 この反貧困フェスタは、東京の反貧困ネットワークが開催していたものであるが、仙台や愛知など、地方でも開催されるようになってきた。今回、震災と原発事故で甚大な被害を受けた福島県内で開催したいと東京から要請があり、私が共同代表を務める反貧困ネットワークふくしまと福島大学災害復興研究所の共催で開催することとなった。

 集会のテーマの一つは、もちろん、大震災の被災地で露わになった貧困問題とその解決に向けた取り組みを考えることにある。もう一つのテーマは、「フクシマからふくしまへ」というサブタイトルに示されるとおり、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリと並んで核被害の国際的代名詞になった「フクシマ」を、原発事故前の「ふくしま」に戻し、県民の豊かな日常を取り戻すために何をすべきかということであった。

 今回のフェスタでは、午前中、(1)若者・子ども(2)女性の雇用(3)県内の労働と原発被害の実態(4)南相馬生活保護打ち切り(5)外国人(6)支援ネットワーク(7)ウォール街占拠運動の七つの分科会に分かれ、報告と討議が行われた。午後の全体会では、倉持団員(反貧困ネットワークふくしま幹事)の司会で、私の基調報告「被災地から『人間の復興を考える』」、湯浅誠さんの記念講演「東日本大震災からの復興と反貧困運動」及びパネルディスカッション「原発事故からの再生」が行われた。

 パネルディスカッションでは、福島大学の丹波史紀准教授(反貧困ネットワークふくしま共同代表)をコーディネーターとし、三人のパネリスト(渡辺淑彦弁護士、桜の聖母短期大学の二瓶由美子准教授、佐藤栄作久元福島県知事)を招いて、原発事故についての報告と討議が行われた。渡辺淑彦弁護士からは、いわきでの原発事故体験や、福島原発被害弁護団の活動を通じて感じた損害賠償の問題点が語られ、二瓶准教授は、チェルノブイリ調査を通じて感じたリスクコミュニケーション教育の必要性を強調された。また、佐藤元知事は、原発事故が人災に他ならないこと、原発推進政策の見直しが必要であることを力説した。それぞれの活動領域が異なり、視点もそれぞれであったため、十分にかみ合ったかとは言えないかも知れないが、だからこそ、原発事故による被害の多面性と深刻さを浮き彫りにするものであったと思う。

 原発事故により、福島県民は、避難した人も、避難せずとどまった人も、いまだに原発事故と放射性物質汚染により、日々苦しめられ、先々の生活の見通しがつけられない状況に置かれている。賠償や環境回復も遅々として進んでおらず、まさに「生殺し」の状態である。そのような中で、すでに私が当通信で報告したように、南相馬市での生活保護大量打ち切り問題も生じた。被災者は、一体、どこまで苦しめられなければならないのか。私たちのネットワークはまだまだ弱く、被災者全体を救済することはできていない。無力感に苛まれることも多い。しかし、生活保護打ち切り問題では、被害者が、生健会と弁護士のネットワークにつながったことによって三世帯で勝利裁決をかちとり、それが、全体の処分見直しにつながっている。私は、基調報告の終わりで「我々は微力ではあるが、無力ではない」という言葉を紹介した。微力を相互につなげていく、それがネットワークの力である。しかし、裏を返せば、「無力ではないが、やっぱり微力」ということでもある。どのように、微力をつなぐネットワークの力を大きくしていくか、課題は山積している。当日は雪交じりで寒さが厳しく、参加者が集まるかと心配したが、蓋を開けてみると、予想以上の参加者に、会場は熱気で包まれた(それでも寒かったが)。参加者の福島への熱い思いに、励まされた集会であった。

 ちなみに、当日は「反貧困TV」が各分科会と全体会の様子を動画でネット配信したほか、特別ブースでの長時間インタビューの配信なども行っていた。特に、須賀川市で原発事故後自死された農家の後継者のインタビューは必見である。「反貧困TV」でネット検索をすれば、保存された動画を見ることができるので、是非(私のインタビューや基調報告の動画もありますが、見るだけ時間の無駄です)。

 それにしても、当日の福島大学は、とにかく寒かった。


*菅原一郎団員追悼特集

亡き夫菅原一郎のこと

岩手支部  菅 原   瞳

 二〇一一年一一月五日午前七時一六分、夫は入院先の病院で、私と息子と娘に見守られる中、静かに息をひきとりました。

 その日の夜明け前、夫はベットの脇で付き添っていた私の手を両手で包み込むようにして、はっきりした口調で「しあわせだった」との最期の言葉を遺しました。

 二〇〇八年夏、スキルス胃癌がみつかった時、既にステージIVの段階で手術は不可能といわれ、定期的に入院を伴う抗がん剤治療を繰り返していた秋、団総会が福島の穴原温泉で開催されました。この総会で古稀団員として表彰される私は、夫を伴って参加し、並み居る団員を前にして被表彰者の挨拶にはふさわしからぬ夫の病名と症状についての報告をしました。弱音を吐かない、弱っていることを人に知られたくない、不言実行を信条としていた夫が最も仰天、公表されてしまった以上、手術可能の状態に戻さなければという夫の願い、努力が奇跡を生み、二ヶ月後の暮に、胃の全摘、転移していたリンパ節癌も可能な限り切除することができました。

 悪い箇所を切り取ってしまった夫は、二〇〇九年一月中旬頃からの予定を訟廷日誌に書き入れ、活動を再開できると思っていたようです。

 若い頃はいうまでもなく、高齢に入ってからも、とにかく働きづくめ、よく動き廻っていました。闘病中は、痛みや不快感よりも仕事ができないことへの焦りの日々が周りでみていても辛そうでした。

 亡くなる数日前に、「もう仕事しなくてよいかな」と問いかけられ、「それはいいけど、仕事しないで何をするの」といった私に対し「それがなくて困っているんだ」と真剣に考え込んでいた仕事人間。

 四五年前の一九六六年秋、岩教組の一〇・二一闘争を契機に、団員の空白地域であった岩手へ送り出された私たち夫婦は、いずれも前年春に登録をしたばかりのヒヨッコ弁護士。二人にとって、岩手は未知の地。所属事務所を初め、団員や仲間たちのカンパや支援の数々には「岩手に根付け」の期待と不安が込められていたと思えば、「頑張ること」しかなかった。

 一郎は、高校(都立青山)時代にメーデー事件の関わりで自由法曹団を知り、大学(早稲田)当時には、民科や自治会活動を通じて、労働弁護士になりたくて司法試験に挑んだといっていた。

 初志貫徹、労働弁護士として岩手で生涯を閉じることができた一郎は、本当に幸せな人だったと思う。

 一郎を労働弁護士として鍛え、育て、支えて下さった岩手の人々や組織の方々、そして私たちを岩手へ送り出し、励まし、支援して下さった全国の団員のみなさまに一郎に代って心から感謝いたします。

二〇一二・二・七


故菅原一郎団員を思う

岩手支部  千 田 功 平

 「労弁」として生涯を終えたいと菅原団員がどこかで述べられたことを記憶している。

 労弁とは労働者側に立ち仕事のかなりの部分を労働事件に割く弁護士と言われている。

 労弁として活動する弁護士が岩手にはごく少なかった一九六六年(昭和四一年)に瞳団員と共に岩手弁護士会に登録換えをされた。

 弁護士として経験が一年半という短さの中で使命感に燃え、がんばりぬいて奮闘する姿が目に浮かぶようである。

 当時闘われていた官公労の事件をはじめとして金融、医療、交通、農協、私学などの岩手の労働事件に関わったという。菅原団員は労働事件の中で鍛えられ、岩手の労弁として確固たる地位を築かれた。

 私は一九六九年(昭和四四年)宇都宮で修習をしていたが、岩手で労弁として活躍する菅原団員のうわさを聞き、盛岡から宇都宮に転任してきた裁判官から菅原団員の活躍を聞いて確かめたことがあった。

 その後、一般の弁護士であった私は労弁といわれる弁護士に対しいつも畏敬の念を持ってきた思いがある。

 菅原団員は二二年も闘った岩教組の事件をはじめ、多数労働事件で闘いぬき、数多くの勝訴を勝ち取った。

 「冬の時代」とも言われる今日の厳しい裁判状況に比べて、当時戦後民主主義の高揚期だったとは言え、菅原団員がかくもまた数多くの裁判勝利を納めたのかと驚愕するばかりである。

 菅原団員は労働事件だけではなく、選挙違反事件や岩手靖国訴訟でも無罪や勝利を勝ち取ることにも関わった。

 私は労働事件を菅原団員と一緒にしたことはなかったが、ゴルフ場建設差止訴訟で菅原団員が弁護団長となって一〇年間一緒に闘ったことがある。裁判は敗訴ではあったが、情勢の変化でゴルフ場は建設されず、実質勝訴となり、菅原団員との思い出深い事件となった。

 私はいま年金受給者であり、国民年金だけでなく弁護士年金基金からももらっているが、この弁護士年金はわずかではあるものの、菅原団員が初代理事長として創設したおかげであり、その恩恵を被っている。

 御夫婦で活動してきた瞳団員も夫君である菅原団員を亡くされ、いまごろ、その悲しさが日々強くなっていることと思われるが、他方で共に闘ってきた同志として充実した生活であったと感慨を深くしているものと思われる。

 菅原団員が声を荒げたのを見たことがなく、静かで、固い信念の持ち主で、誠実そのものの方だった。

 菅原団員が亡くなる直前、家族を前に「幸せだった」と一言言われたということであるが、これほどステキな最期があろうかと、私は止めどもなく涙が流れるのである。

 安らかにお眠りください。


在りし日の菅原一郎先生を偲んで

宮城県支部  青 木 正 芳

 菅原先生との出会いは、福島地裁の刑事法廷でした。昭和四〇年頃、選挙弾圧事件で福島県下の各地で、多数の労働組合の組合員がチラシ配布を理由に逮捕され、私は、これに抗議し、勾留理由開示の請求や準抗告の提起をしながら、弁護活動のため、各地を飛び廻っていた時のことです。

 東京から若い弁護士が来るということでしたので、勾留理由開示公判に立ち会ってもらい、その後、打ち合わせをしようということで、他所での接見を終えて法廷に駆け付けた時のことでした。

 勾留理由について、私が、しばらく、求釈明を繰り返し、その後で意見を述べ、勾留決定に対する準抗告の前に取り消されたいとして、その場で勾留取消の申立を行ったところ、幸いにも、その三〇分位後に勾留が取り消されたのでした。

 そして、その結果を集まった組合の方々に報告した後、改めて、自己紹介をし合ったのですが、その時、前に何処かで会ってますよねと声をかけ、学生時代に全学連の集会で会っていたことを確認し合ったのでした。昭和三二年、法政大学で「民衆のための法の創造」のテーマでの集会で、ともに司会役を担当した間柄だったのでした。

 その後、菅原先生は、盛岡に拠点となる事務所を開くということで、夫人の瞳弁護士とともに岩手弁護士会に登録替をされ、その後、一緒に東北地方の反弾圧の組合の斗いの弁護士活動を行って来たのです。

 岩教組・国労・医労連等の運動に大きな働きをなされたことは、自由法曹団東北支部の「先輩団員に聞く」に集録されたとおりです。

 先生は、寡黙な方でした。しかし、大切な時には必ず、自分の意見を少し遠慮気味とも思える口論で、はっきり述べるのでした。それが説得力のあるものでしたので、多くの人から頼りにされたのでした。

 岩手県下の運動のみではなく、福島や青森の事件にも参加していただいたものでした。

 岩教組の七四春斗の刑事弾圧事件では、私たちは柳沼八郎主任弁護人(二弁)の下で、ともに弁護団を組んで、一審・二審無罪、最高裁で差戻し、差戻審で一部有罪・一部無罪、上告審で上告棄却と二〇年余の長い斗いもともにしました。

 菅原先生の弁護活動は、労働弁護士としての活動が中心であったものでしたが、さらに、菅原先生の弁護士生活で、注目しなければならないことは、弁護士会の活動でした。

 単位会の会長・東北弁連の理事として、少数会員の岩手会の牽引車(者)でした。

 特に、平成元年、日弁連の副会長になられた時は、直接会員が、東北ブロック選出の副会長候補者を決める選挙では、仙台会以外の会員が対立候補なしで選ばれた唯一の人になりました。これは、現在でも破られていない記録です。

 これは、東北弁連の理事会でのそれまでの活動を知っていた仙台会を含めた他会の人々の信頼の表れと思われます。

 その後、副会長時代に手がけられた弁護士年金制度の充実・発展のため、しばらく、全国の会長として、各ブロックを駆けめぐったのでした。

 先生は、偶々、庭の樹木の手入れを自分で行うということで、早朝の作業中、脚立から足を滑らせて、しばらく倒れていたということがあったと聞かされました。

 その後、少し健康を損ねたことは確かなようです。

 この度の病は、それとは関係ありませんが、療養中、日弁連の人権大会が開かれた平成二二年一〇月には、久しぶりに、岩教組弁護団員の集いを盛岡で開いた時には、短時間ではありましたが出席されて、交歓されたのでした。

 菅原先生のこれらの活動は、瞳先生や、佐々木良博弁護士らにより、確実に承継されており、隣県の私としても安心しているところです。

 ただ、昨年の三・一一震災の対応策について考える時、この時期に先生を失ったことは残念でなりません。

 岩手県下の詳細な情報を的確に把握した上での、佐々木団員らの活躍を期待し、仙台のメンバーもともに歩みたいと思いながら、在りし日の菅原先生を偲んでいるところです。


一郎先生を偲ぶ

岩手支部  佐 々 木 良 博

 昨年一一月五日、一郎先生は享年七七歳の生涯を閉じられました。三年前に発病を告げられたときからいつかこの日が来るとは覚悟していたものの、大きな喪失感に襲われています。

 私が盛岡に来ることになったのは一郎先生から強く勧められたことがきっかけでした。「東京と岩手とでは、一人の弁護士が果たすことができる役割は決定的に違っている。」

 妻の強い抵抗に遭いながらも岩手に来ることを決意させたのは先生のこの言葉でした。その後、私が岩手の地で弁護士として活動し続けることができたのも、この言葉が私を後押ししてくれたからであったように思います。

 盛岡に来る際、先生から「労働事件は全て一緒にやりましょう」と言われ、国労、農協労組、金融共闘、私教連、医労連等々のたくさんの労働事件を担当させていただきました。こうした労働事件を通して事件に取り組む姿勢や尋問の仕方等々に至るまで多くのことを学ばせていただきました。

 先生からは事件のことだけでなく、スキーや釣りなども教えていただきました。先生は運動神経に恵まれ卓球や野球なども大変お上手でしたが、四〇代に入ってから始められたというスキーも一級の腕前でした。なかなか上達しない私に根気よく付き合ってくれました。また、カレイやアイナメ釣りも竿の選び方から釣り方まで丁寧に教えていただきました。

 先生は常に弱者の立場に身を置き続けてきました。しかしそれは単に観念的な理念に基づくものではなかったように思います。先生のことを思い起こすたびに目に浮かんでくるのは、穏やかで優しい眼差しと口元の少しはにかんだような微笑です。しかし、そうした表情にはどこかしら寂しさを含んでいるようにも感じられました。人間の持つ寂しさや、悲しさ、弱さといったものを身をもって理解している者だけが示すことの許される表情のように思われたものでした。

 先生は、弁護士を志した理由を尋ねられるたびに決まって「労働事件に取り組みたかったから」と答えていらっしゃいました。その言葉どおり、昭和四一年一一月に盛岡に事務所を開設した後、公務員の労働基本権に関する事件を初めとして、南光病院事件、岩手銀行男女差別事件、国労差別事件等々多くの労働事件に熱意をもって取り組み続けてきました。

 普段は物静かで紳士的な態度を崩さない先生が、二度、激しい怒りを露わにしたことがありました。いずれも地労委の審問の席上で、相手方代理人が労働組合や組合員を侮辱する発言をしたときのことでした。先生の発した言葉は残念ながら憶えていませんが、労働者の人権を侵害する者は許さない、労働者は自分が絶対に守りぬく、という先生の迫力に圧倒され、審問室中が静まりかえったことを今も鮮明に覚えています。

 先生が亡くなる一週間ほど前に病院に先生を見舞ったときも、起き上がることさえ辛そうな状態でありながら、岩手で携わってこられた数々の労働事件のことを本当に懐かしそうに話していらっしゃいました。

 そして、先生にとって最後の労働事件となった私立高校の組合弾圧の事件が解決するのを待っていたように、旅立って行かれました。

先生は労弁として生き、労弁とて生涯を閉じられた、心からそう思います。

 一度だけ先生と二人だけで旅をしたことがありました。団の五月集会を岩手で開催することになり、次回の開催地としての挨拶をするために佐賀総会に出席し、その後車で唐津まであちこちを巡って歩いたときです。途中いくつかの名所旧跡や施設を見学しましたが、気がつくと一緒に見学していたはずの先生の姿がありません。慌てて出口に行ってみると、先生は早く次の見学先に行きたいといった風情で私が出てくるのを待っている、そうしたことが続きました。先生は、旅行に出かける前に本を買い集めて観光すべき場所を調べ尽くしており、できるだけ多くの場所を巡って本に記載されている事柄を確認したい、そんな旅行の仕方でした。あるとき瞳先生が「うちの人はせわしなくてならないから、一緒に旅行に行きたくないの」と冗談交じりに話していたことがありましたが、何事にもきちんと事前の準備をしなければ気がすまない先生にとって、それが観光のスタイルとなっていたのかもしれません。

 先生が余りに早く旅立ってしまわれたのも、もしかすると、早く次の世界を確認して歩きたかったからではないか、そんな気がしてなりません。そして、私が旅立つ日にも、先生は早く次の見学先に行きたいという表情を浮かべながら、出口で私を待ってくれているのではないか、そんな気さえしています。


三鷹事件の再審請求―その意義について

東京支部  米 倉   勉

再審請求

 二〇一一年一一月一〇日、三鷹事件再審弁護団(五名)は、三鷹事件について、被告人竹内敬助氏の再審請求を東京高裁に申し立てた。弁護団の一員である私から、申立ての概要と意義について報告したい。

 三鷹事件とは、周知のとおり、一九四九年(昭和二四年)七月一五日の夜、国鉄三鷹駅で電車区構内にあった無人の電車が暴走し、駅に突入したというものである。電車は車止めを超えて、ホームから改札への階段を突破して駅前の交番や商店に衝突し、乗降客六名が死亡、十数名が重軽傷を負う惨事となった。

当時の政治情勢と相次ぐ謀略事件

 当時、事件の一〇日前である七月五日には下山事件が発生し、八月一七日には松川事件が起きるという、異常な社会情勢であった。

 「自由法曹団物語・戦後編」は一章を割いて、これら一連の事態について述べている。すなわち、当時GHQが戦後の対日政策を転換して、日本を従属的な同盟国として復活強化させようとした「逆コース」、そして日本の経済復興をアメリカの統制下に置くための「ドッジライン」の下における合理化が始まり、これに伴って治安対策と反共政策が強化された状況が分析されている。

 国家公務員については、現業・非現業の大量首切り、民間大企業でも「企業整理」という大量解雇が断行され、これと平行して、高揚する労働組合活動への弾圧が行われた。その主たる対象の一つは東芝、国鉄であり、松川事件ではその両方が狙われた。そして三鷹事件では、国鉄闘争における国労の活動が弾圧の対象となったのである。私は世田谷国公法弾圧事件を担当する中で、国公法と人事院規則における公務員の政治的行為の禁止規定が制定された経緯と背景を知る機会を得たが、これも当時の逆コースの典型的発現であった。こうした制度改悪と、一連の謀略事件を梃子にした労働組合活動への弾圧が、政策として同時に断行されたのである。

無理な確定判決の内容

 三鷹事件においては、事故直後に国鉄労働者が多数逮捕され、一〇名が謀議による共同犯行として電車転覆致死罪で起訴された。このうち竹内氏を除く九名は共産党員であり、架空の「共同謀議」を理由とする逮捕・起訴という異様な事態は、この事件が共産党と国労の国民的運動の弾圧を意図したものであることを物語る。

 弁護団の精力的な活動により、東京地裁はその後、「共同謀議は空中楼閣」であるとして九名を無罪にしたが、実行犯とされた竹内氏一人を、その単独犯行として無期懲役とした(その後東京高裁で死刑に変更)。

 しかし竹内氏についても冤罪であり、同氏は最高裁で死刑が確定した後も第一次再審を申し立てていたが、その審理の途中で無念にも病死した。

第二次再審申し立て

 今回の第二次再審申立においては、様々な角度から、竹内氏の冤罪を立証している。まず、問題の電車の構造と、現場に残された状況から分析・判断するならば、この無人電車の暴走を単独犯行によって実行することは不可能であったという事実である。これを鉄道工学の専門家による鑑定書によって詳細に立証し、本件が複数人による計画的犯行であること、従って竹内氏の単独犯行であるとした確定判決は誤りであることを明らかにする。

 さらに、竹内氏には事件当時電車区構内の共同浴場で入浴していたというアリバイがある。これを浴場で会話を交わした複数の同僚の供述書によって立証する。

 また、有罪の証拠とされた、現場の近くで竹内氏に会ったという「目撃証言」については、警察による誘導によるもので信用性を欠くことを示唆する供述があり、また月の出ていない事件当夜には、この「目撃」そのものが不可能であるという新証拠も提出した。

 結局、竹内氏の「有罪」を基礎づけているのは、いずれも「自白」及びこれによって導かれた「物証」のみであるが、この物証だけでは客観的な証明力は得られておらず、いわゆる「よりかかり証拠」に過ぎない。そしてこの「自白」は、後述のとおり、検察官による長期にわたる脅迫的な取り調べによって得られたものである。

自白の変転

 竹内氏の自白は何度も変転している。冤罪事件においては、捜査段階での自白が変転する例は数多いが、竹内氏の自白は、公判に至っても、否認、共同犯行、単独犯行の間を揺れ動き、変転した。これが単独有罪判決の原因の一つになっていることは否めないであろう。上記自由法曹団物語は、「この判決は、全員無罪の主張からみれば一部敗北であったが、共同謀議による計画的犯罪というデッチあげの根幹を粉砕した点で大きな勝利であった。しかし、それは例外的な勝利でもあった」と振り返り、その主要な原因が、「竹内被告が、捜査段階だけでなく公判でも無実の主張、単独犯行の自白、共同犯行の自白、単独犯行の自白と動揺をつづけ、そのたびに団員の弁護人を解任したり選任したりし、裁判所に絶好の逃げ口を提供することになった、という特殊な事情」にあったことを指摘している(八四頁)。この虚偽自白及びその変転の原因と心理を、よく検討する必要がある。

 本件における虚偽自白の原因が、上記のとおり検察官による不当な取り調べにあることは明白である。検察官は、弁護人との接見を制限しながら起訴後も執拗に高圧的な取り調べを行い、否認しても死刑は免れないなどと圧力を加えて、共同犯行の自白を得た。竹内氏は、公判を重ねる中で一旦は否認に転じたが、結局「共同謀議による組織的犯行と認定されれば全員が死刑になりかねない」、「全員が否認していると、全員が死刑になる」という呪縛に縛られ、単独犯行の自白維持に陥った。この心理の過程の解明は十分に検討されるべき論点である。

 その後あらためて無罪を主張するに至ってからの竹内氏は、自分を含めた皆が助かるために単独犯行自白を維持した旨を訴えている。確定審判決さえもが指摘した、空中楼閣というべき「共謀による組織的犯行」という虚構のストーリーを構築した責任は、まさに検察にある。現在も続く検察の「冤罪作出体質」は、既にこの時から備わっていたことが分かるのである。

本件の意義

 第一次再審請求の途中で獄死した竹内氏の無念は晴らされず、その遺族の権利回復も実現されないままである。事件から六〇年以上が経過した今、これ以上遅くなっては、真実の解明はますます困難となる。一日も早い雪冤が求められている。

 もう一つの本件の意義は、当時の戦後対日戦略転換時における、労働運動や革新政党への弾圧、謀略についての検証である。当時の団員による精力的な弁護活動によって、確かに松川事件も三鷹事件も、「共産党によるテロ事件」という政治的虚構は否定され、労働者らの無罪は確定した。しかし、これらの事件発生と検挙、そしてマスメディアを動員した政治宣伝を通じて、原則的な労働運動は「致命的な打撃を受けた」のであり、「たたかい波は潮の引くように引いて行った」のである(自由法曹団物語六八、七一頁)。その影響は、おそらく今も続いているのであって、「戦後」の決算と総括はまだ終わっていない。

 三鷹事件が、共産党員による共謀事件として立件され、しかしそれは一人の組合員の単独犯行であったという形で確定していたものが、再審無罪によって「正体不明の複数犯行」という事実が明らかになれば、これは松川と同じ構造である。当時の日本社会において、如何なる勢力がこうした謀略事件を敢行できたのか、改めて検討を加えなければなるまい。


国民保護実動訓練監視行動に参加して

大久保賢一法律事務所  田 中 恭 子

 一月二八日、所沢市内の航空記念公園で、埼玉県と所沢市の共催で国民保護実動訓練が実施されました。この訓練に先立つ昨年一二月四日には、田中隆弁護士を講師にお招きして「有事法の訓練はするな!緊急市民集会」が行われています。訓練当日、九条の会・ところざわが市民に呼びかけた監視行動に私も参加してきました。

 今回の訓練では、航空記念公園内の野外ステージで爆弾テロが起きた、という事態が想定されていました。しかし、この事態はそもそも「国民保護計画」が想定する武力攻撃事態や大規模テロにはあたりません。実のところいったいどんな訓練が行われるのか。この目で確かめよう。そう思って訓練会場に足を運んだものの、当日は予報通りの厳しい寒さ。メモをとるにもデジカメを操るにも、しまいには手がかじかんでまともに動かない。けれど、寒さに震えながらも訓練の様子を見定める価値はあったと思います。

 午後一時二〇分、実動訓練開始にあたり訓練の主要舞台となる野外ステージ檀上から、埼玉県危機管理防災部長の挨拶。ステージ手前には、自衛隊の一団、そして県警と消防隊が整列し、客席には医療機関職員や看護学校生徒らが訓練参加者として着席しています。最初の「?」は、部長が「不安定な北朝鮮情勢」、「三・一一」、そしてその日の朝起こった「山梨県東部・富士五湖地震」を例に挙げて、訓練の必要性を訴えたこと。

 これらは、それぞれ全く異なる性格の“危険”であり、対処の仕方もそれぞれ外交努力、人命軽視のシステム見直し、防災体制の向上、と全く異なるはずです。危機管理防災部長の見識が疑われます。

 さて、一時二七分には、“予定通り”ステージ客席内に設置された発煙筒から鮮やかなピンク色の煙が噴出。「観客役」の訓練参加者の避難が始まりました。ここで二番目の「?」です。その誘導のために、訓練開始からものの三分と経たない内に真っ先に会場に入ってきたのは、航空自衛隊員でした。

 異常事態発生からわずかな時間で、何故、自衛隊員が誰よりも早く現場に到着できるのでしょうか。何かが爆発した、というその時点で爆弾テロかどうかなど知りようがありませんし、まして市民が通報できるのは、地元の警察であって、自衛隊ではありません。公園内の航空発祥記念館に、空自の部隊がたまたま社会科見学にでも来ていた、という設定なのでしょうか。

 「観客役」避難後、ステージ会場は県警機動隊員によって出入りが封鎖されます。その間に、消防隊と陸上自衛隊の車両が野外ステージ外の道路を連なって走っていきました。ステージでは消防隊の毒ガス検知班が、ものものしい防護服に身を固めて検知作業に入りました。

 相当時間を費やして検知作業が終わると、今度は県警の爆発物処理班が発見された爆発物の処理作業を行います。それが済んでようやく、自力で動けない(凍える寒さの中ベンチに横たわったままの)「負傷者役」の救護搬送が始まりました。異常事態発生から、既に一時間近くが経過。「負傷者役」搬送には、トリアージされた負傷の程度によって、軽傷者は陸自が、中・重症者は消防隊が担当することになっていたようです。救護所も陸自、消防それぞれ別個に設置していました。

 これで事件現場の野外ステージからの避難は完了。情けないながら、私も寒さに負け、訓練会場から暖かい場所を求めて避難。そこへ、バラバラバラとヘリコプターの音が降ってきました。午後三時、陸上自衛隊のヘリコプター到着です。事前調査によれば、UH―1という実弾射撃の装備可能な多目的ヘリらしい。遠隔地の病院に搬送する必要のある負傷者を運ぶ、という想定です。

 そして、第三の「?」。訓練現地、航空記念公園のすぐ隣には、防衛医科大学校病院があります(ちなみに、ここの医師も訓練に参加しています)。わざわざ遠隔地に搬送しなければならないような負傷者とは?あまりにも無理な設定です。こんな現実離れした訓練を行うことにどんな意味があるのでしょうか。

 私が見聞した訓練行動の一部だけでも、これだけの「?」が浮かび上がります。今回の国民保護実動訓練は、一言でいえば、自衛隊のプレゼンスを際立たせるための訓練、と断ぜざるを得ません。

 自民党は、四月二八日の講和条約六〇周年に合わせて憲法改正草案を策定し、国会に提出すると表明しました。そこに「緊急事態条項」を盛り込むといわれています。三・一一の記憶も新しい今、自衛隊の災害救助活動への称賛を利用して、憲法「改正」への弾みをつけようというのなら、これほど本末転倒した話はありません。大規模災害への対応は、自衛隊をより「軍隊」化することではなく、その使命を「特別な災害救助」に特化、限定することであり、それは憲法「改正」によってなされることではないはずです。むしろ、「緊急事態」を口実にした人権制限、人権侵害がすすむのではないかと私は危惧しています。

 今回のような国民保護実動訓練を積み重ねて、自衛隊を日常に根付かせることが狙いであるとしたら、私たち市民は両目をしっかり開けて(たとえ寒くても)監視をし続け、その本質を見抜いていくことが重要だと強く感じました。

二〇一二・二・八


「労弁」必読・必携の書「解雇・退職」が発刊されました

―徳住堅治団員著「解雇・退職」のご紹介

東京支部 今 村 幸 次 郎

 徳住堅治団員の「解雇・退職」(中央経済社・税込二九四〇円)が、二〇一二年一月三一日に発行されました。「働く人を守る」シリーズの一冊です。労働者が、解雇・退職という人生の岐路に立たされたとき、また、そうした事態に備えて対処法を学ぼうとするとき、大変心強い味方になる本です。

 この本には、働く人にとっての「生活の知恵」が平易な言葉で書かれています。解雇・退職をめぐるあらゆる事態が想定され、そんなとき「どうしたらよいか」がわかりやすく解説されています。突然、「明日から来なくてよい」と社長(上司)から言われたらどうするか。辞めるつもりがないのに「わかりました、辞めます。」とか「一カ月分の給料は払ってもらいますよ」などといってはいけません。著者は言います。「辞めるつもりがなければ、私は辞めませんとハッキリ言うことです。必ずしも大きい声でいう必要はありません。」と。こういうときに、なかなか大きな声を出せない普通の労働者の気持ちに寄り添う優しい解説となっています。

 そのほか、「能力がないから首だ」と言われたとき、いきなり「懲戒」と言われたとき、病気が治ったのに復職を認めてもらえないとき、「経営が苦しいからやめてくれ」と言われたとき、会社がほかの会社に事業譲渡して解散してしまったとき、契約社員で何年も働いてきたのに「次は更新しない」と言われたときなどに、「どうしたらよいか」の答えがこの本には詰まっています。

 そして、この本を仔細にみると、解雇・退職をめぐる様々な場面に関する判例がたくさん紹介されていることに気づきます。

 私たち「労弁」にとって、知っていなければならない判例、しかし、知らなかった判例のオンパレードです。二四〇頁の中に約六〇〇もの判例が引用されています。公刊されていないもの、和解で解決したものなど、著者の約四〇年にわたる「労弁」生活で経験された興味深い事件も多数紹介されています。

 この本では、こうした判例について、肯定例と否定例がバランスよく紹介されています。労働事件は、事実のちょっとした違いで結論を分ける、どこをどうみるかで結論は変わりうるということを教えられます。結論を決めつけてはいけない、事実を丹念にみて考えなければいけない、当事者の話を虚心によく聞かなければならない、有利そうな判例があったからといって飛びついてはいけない、そんなことを改めて学ばせてもらえる本です。

 これ一冊あれば、「解雇・退職」めぐるほとんどの労働相談に対応できると思います(逆にいえば、これぐらい知っていなければ「危ない」ということでもあります。やはり、勉強が大切ですね。)。

「労弁」として活躍されている皆さん、そして、これから第一線の「労弁」をめざす皆さんに、必読・必携の書として推薦させていただきます。


団の資料を電子化する提案

東京支部 菅 本 麻 衣 子

 私の机は、常に散らかり放題である。週に一度届く団通信、団報、FAXニュース、東京支部ニュース、そして、様々な活動のビラ、集会の議案書、報告集・・・これを整理するだけでも、かなりの労力がさかれている。

 私の机はすでに限界をとっくに超えており、このままでは、団通信も読まずにそのままゴミ箱へ捨てざるを得なくなるのも時間の問題である。

 そこで、もちろん希望する団員のみでかまわないので、電子データとして、団の印刷物を提供できないだろうか。

 現在、団通信は団のホームページに一部記事が掲載されているが、それは一般向けであり、団員向けの情報は省かれている。団東京支部では支部ニュース全部がPDFにて掲載されているが、やはり団員向けの配布より遅れての掲載となっている。団員向けに、団通信と同じものを、団通信の配布と同じ時期に提供する必要がある。

 また、団報や集会の報告集、議案書などは全く電子化されていない。これらを電子化して団員に配布することはできないだろうか。

 電子化のメリットは、第一に、場所をとらないという点にある。

 現在ハードディスクは非常に大容量のものも比較的安価に入手できるようになっており、何十年分のデータを保存することが安価に可能となっている。紙の資料を何十年分保存するためにはかなりのスペースを必要とするところ、古くからある団員事務所でも過去の資料を保存できるほどのスペースを確保できる所は少ないのではないだろうか。整理にかける人手まで確保できる事務所はほとんどないだろう。

 また、最近は、iPadなど最新鋭の機器を用いて電子データを各所に持ち運ぶ団員も増えている。若手団員はノートパソコンを持ち歩きながら各所を飛び回りそれぞれの課題に取り組んでいる。このような団員にとって、様々な資料を気軽に持ち運べることは、活動の幅を広げるための大いなるメリットではないだろうか。

 実際、「自炊」といって、団通信に限らず、印刷物をスキャナで取り込み電子データとして持ち運べるようにする動きも起こっているが、団通信などを自炊するのは団員にとてつもない労力を強いることになる。ならばあらかじめ電子データで配布してもらいたいと思う団員は他にもいると思われる。

 電子化には、団の運営側にとっても、印刷物の郵送費を節約できるという大きなメリットがある。特に重量のある団報、五月集会報告集などの郵送料はバカにならないのではなかろうか。FAXニュースを一斉送信のメールニュースに変更すれば、かなりの電話代が節約できると思われる。

 また、電子化のメリットは、場所を取らない点ばかりではない。電子データにすれば、検索が可能である。

 関心のある言葉を検索すれば、過去の団の資料を一気に検索することが可能である。これにより、過去に団がいかなる意見を表明してきたか、いかなる理論を構築してきたかを振り返り、現在の活動に生かすことが簡単になる。(私も団のホームページをよく検索させて頂き、過去の団通信の記事を引用させていただいている。)

 団の活動に厚みがでること請け合いである。

 さらに、膨大な電子データを蓄積できることから、(過去の資料を電子データにするのは労力を必要とするが)過去の団の活動を若手団員に継承することも容易となる。私たち若手団員は、特に入団前の団の資料に触れる機会がほとんどなく、団の伝統を生かすことがなかなかできないが、かなり前の団の資料が電子化されれば、若手団員、新入団員に、過去の団の資料を基礎とした研修なども可能となってくる。

 さらには団の異なる支部間の情報共有も簡単になり、団員の交流が活発になることも期待できる。

 京都支部のニュースを見てみたが非常に興味深い。

 電子化には手間がかかると誤解するむきもあるようだが、現在印刷物の電子化は簡単になっている。そもそも印刷物の版下はすべてデータにより入稿されるので、印刷物の原稿をそのままPDFとしてデータ化すればよいのである。

 また、FAXニュースも、団で希望する団員全員向けのメール送信を設定し、メールニュースに改めることも考えられるが、メールニュースの原稿も、FAXニュースの文字をそのままメールに書けばよいので手間はかからない。(レイアウトの手間が省ける分メールの方が楽である。)

 配布方法も、団のサイト内に団員専用のページを作成し、パスワードを設定し、そのページ内に、団通信などの団員限定の資料のデータをアップロードすれば簡便である。(もちろん公開してよい資料は公開すべきである。)なおパスワードは、FAXニュースなどで団員に知らせることが考えられるがやむを得ない。

 現在、弁護士業界は電子化が遅れていると言われている。団が率先して、資料の電子化を進めれば、団は先進的な団体として社会に評価され、団の現代社会での発言力が増すことにもつながるのではないだろうか。

 私は団に期待をしている。


二月八日「秘密保全法」学習会のご報告

東京支部  森   孝 博

 去る二月八日、全労連、救援会、自由法曹団の共催で、全労連会館において、吉田健一団員を講師とした「秘密保全法」学習会が開催され、四〇名近い参加者が集まりました。この学習会で、吉田団員が、政府が作成した「秘密保全のための法制の在り方について(報告書)の骨子」をもとに、そのまやかしを一つ一つ明らかにした上、今通常国会への上程が目論まれている秘密保全法の真の狙いと危険性を明らかにしました。

 紙面の関係で要点のみの紹介になりますが、この秘密保全法により、

(1)政府にとって都合が悪い、明らかにしたくない様々な情報について、情報を有する行政機関が思いのままに秘密と指定して国民の目から隠してしまい、処罰覚悟の内部告発等がない限り、国民は秘密の存在すら知り得なくなること、

(2)過失による秘密の漏えい、「社会通念上是認できない行為」を手段とした秘密の取得のみならず、秘密の漏えいや取得がなされなくても共謀、教唆、扇動だけでも独立して重罰をもって処罰するとしており、一般市民の様々な行動が重罰(懲役一〇年)の危険にさらされること。また、未遂と共謀に限って自首による必要的減免規定が設けられていて密告や「おとり捜査」に悪用される危険があること、

(3)秘密の管理の名のもと、対象者のプライバシーを執拗に調査し、恣意的な差別や排除を可能とする「適性評価制度」も導入されようとしており、その対象は公務員のみならず研究者、民間技術者・労働者など広く及ぶこと、

(4)秘密保全法により知る権利、取材の自由が著しく侵害されるだけでなく、表現の自由、学問の自由、プライバシー権、働く権利などの国民の様々な基本的人権が侵害され、国民が自由にものがいえなくなること。そして、オープンな情報と自由な議論が否定され、民主主義、国民主権の原理までも形骸化させられてしまうこと、

(5)戦前から侵略戦争と表裏一体で秘密保護が図られてきたこと。また、原発の安全神話、米軍・沖縄での数々の密約など秘密によって国民の利益が侵害されてきた歴史があり、国民の利益に真っ向から反する法案であること、

(6)日米一体で戦争を進めたいアメリカからの要求や、重要な情報を隠して改憲や国民犠牲の政治を強行したい財界の要求から、いま秘密保全法制定が急浮上してきていること、

 などが、吉田団員から具体例を踏まえて報告され、直ちに秘密保全法の危険を知らせて廃案に追い込もうとの呼びかけがなされました。

 吉田団員の基調報告後の質疑応答でも、ツイッター等のネット上での呼びかけが処罰されるのではないか、起訴されたら刑事裁判ではどうなってしまうのか、など多くの質問、意見が寄せられ、秘密保全法に対する強い懸念が感じられました。

 この学習会を出発点として、急浮上する秘密保全法案の国会上程を許さない世論をいっそう盛り上げていかなければならないと思います。そのためのツールとして「秘密保全法の制定に反対する意見書」が完成しましたので、ぜひご活用下さい。また、三月一日午後一時には衆議院第一議員会館第一会議室で「秘密保全法案反対院内集会」(MIC、JCJ、マスコミ関連九条の会、自由法曹団の四団体共催)も予定されていますので、奮ってご参加下さい。よろしくお願いいたします。


「教育基本条例」「職員基本条例」の制定に反対する署名のお願い

大阪支部長  伊 賀 興 一
幹 事 長  杉 本 吉 史
事務局長  高 橋   徹

 団員の皆様の日頃のご奮闘に感謝申し上げます。

 さて、ご承知のとおり、橋下大阪市長を代表とする大阪維新の会は、昨年九月、大阪府議会に「教育基本条例案」と「職員基本条例案」を提出しました。

 「教育基本条例案」は、教育の政治的中立を図ろうとする地方教育行政法に反し、大阪府知事が教育目標を設定するものであり、教育への政治介入に道を開くものです。また、評価と懲戒処分の脅かしによって、教員の自主性を奪い、学校現場に大混乱を招くものです。また、府立高校の学区制を撤廃し、学力テストの結果を学校毎に公表するなど学校の序列化を進め、三年連続定員割れの府立高校の統廃合を図るなど、競争至上主義を剥き出しにして、子どもたちを更なる競争教育に追い立てるものです。まさに、大阪の教育を根本から破壊するものです。

 また、「職員基本条例案」は、相対評価と処分で強権的な人事管理を徹底し、知事や市長の言いなりの職員作りを進めるものです。

 松井大阪府知事と橋下大阪市長は、二月議会にこれら二条例案の修正案を提出して(修正案といっても、根幹部分に変更はないと思われます)、三月中にも成立させようと目論んでいます。

 自由法曹団大阪支部も参加する「二条例反対大阪連絡会」では、これら二条例の制定に反対する署名運動に取り組んでいます。「連絡会」では、全国組織のある団体においては、全国の力をお借りしようということになっています。団員各位におかれましては、団通信同封の署名用紙に署名のご協力をお願い申し上げます(署名用紙が不足の場合は、お手数をおかけしますが、コピー等により対応して頂けると幸甚です)。各団員の事務所で依頼者や相談者に署名を呼びかけるとともに、交流のある民商や議員さん、各団体を通じて、署名集めを呼びかけて頂くようお願い申し上げます。署名用紙には、大阪府知事宛と大阪市長宛の二種類があります。自由法曹団関連の署名は、当職の方で集約しますので、下記までお送りください(郵送の際は、着払いにして頂いて結構です)。署名の集約日は三月一〇日です。


【自由法曹団関連の署名の郵送先】

〒五四三―〇〇五五 大阪市天王寺区悲田院町八番二六号 

                  天王寺センターハイツ三階

          南大阪法律事務所 弁護士高橋徹 まで


全国紙・沖縄二紙全面意見広告への賛同の呼びかけ

東京支部  森   孝 博

 本年は沖縄の本土復帰(一九七二年五月)からちょうど四〇年目になります。

 しかし、現在、政府は、「基地のない沖縄を」という長年の願いに真っ向から反し、田中聡沖縄防衛局長による前代未聞の暴言、普天間基地移設に係る環境影響評価書の強行提出、沖縄防衛局による宜野湾市長選挙介入など、なりふり構わず名護市辺野古に新基地を押しつけるという姿勢を鮮明にしています。また、高江のヘリパッド建設工事も予断を許さない状況が続いています。

 このような米軍基地の強要を許さないたたかいの一環として、全労連、安保破棄中央実行委員会、沖縄県統一連が呼びかけ団体となって、二〇一二年五月に「辺野古新基地、高江ヘリパッドの建設反対」、「普天間基地の即時・無条件撤去」、「日本のどこにも米軍基地はいらない」等を訴える全国紙・沖縄二紙全面意見広告掲載運動が実施されることになりました(概要は左記のとおり)。すでに自由法曹団も意見広告実行委員会参加団体となっていますが、各団員の皆様へもこの場をお借りして上記意見広告への賛同を呼びかけさせていただきたいと思います。安保破棄中央実行委員会のホームページ(http://homepage3.nifty.com/anpohaiki/)からビラ兼振込用紙がダウンロードできるようになっていますので、ご賛同よろしくお願いいたします。

                 記

掲載紙  全国紙・沖縄二紙全面意見広告

紙 面  「意見」と「賛同団体名」を掲載。「賛同団体名」は四月     二〇日までに登録された団体名を掲載

賛同金  個人一口一〇〇〇円、団体一口五〇〇〇円

     (いずれも何口でも可)

申込期間 二〇一二年一月〜五月

振込先  口座番号:〇〇一二〇―一―五四七二二〇

 名義人:意見広告


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