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村松 昭夫 大阪・泉南アスベスト国賠訴訟
一陣高裁での不当判決を乗り越え、二陣地裁で勝利判決!
佐藤 誠一 日本航空整理解雇事件報告 ―連日にわたる不当判決
佐藤 真理 三・一六比例全活会議と奈良支部の取組
中川 勝之 ハローワークの明日を考えるシンポ開催
―地域主権改革を粉砕しよう♪
青龍 美和子 全国公害弁護団連絡会議 創立四〇周年記念シンポジウムに参加して
石川 元也 大塚一男さんを偲ぶ会に出席して
萩原 繁之 大塚一男団員のこと、偲ぶ会のこと、諸先達のこと
鈴木 亜英 *書評*
メルボルン事件個人通報の記録
―国際自由権規約第一選択議定書に基づく申立 メルボルン事件弁護団編



大阪・泉南アスベスト国賠訴訟

一陣高裁での不当判決を乗り越え、二陣地裁で勝利判決!

大阪支部  村 松 昭 夫

一 不当判決を乗り越えた勝利判決

 去る三月二八日、大阪地方裁判所第八民事部(小野憲一裁判長)は、泉南アスベスト国賠(二陣)訴訟において、国の規制権限不行使の違法を認め、原告ら五〇名に総額一億八〇〇〇万円余りの損害賠償の支払いを命じる原告勝利の判決を言い渡しました。

 泉南アスベスト国賠訴訟は、一昨年五月にも、一陣大阪地裁において国の責任を認める判決が出されましたが、昨年八月、一陣大阪高裁において「いのちや健康よりも、石綿の工業的有用性や産業発展が優先する」、厳格な被害防止対策は「産業社会の発展を著しく阻害し、労働者の職場自体を奪うことになりかねない」などとする、とんでもない逆転敗訴の不当判決(三浦潤裁判長)が出されており、原告団・弁護団とも今回の二陣判決を絶対に負けられない闘いと位置づけ、高裁判決を徹底的に批判する最終準備書面の作成はもちろん、二四万筆を越える公正判決署名の提出や隔週での裁判所周辺での宣伝行動など、法廷内外での必死の闘いを進めてきました。

 今回の二陣判決は、こうした闘いのなかで、高裁不当判決からわずか七ヵ月後に、この不当判決を乗り越えて勝利判決を勝ち取ったものであり、極めて大きな意義を有しています。また、正直ほっとしたというのが弁護団の思いです。

 さらに、今年は、首都圏建設アスベスト横浜訴訟の判決が五月二五日に、尼崎アスベスト問題訴訟の判決が八月七日に、首都圏建設アスベスト東京訴訟も今秋に、それぞれ判決が予定されており、今回の判決は、こうしたアスベスト被害に対する国と石綿建材メーカーの責任追及の闘いをも大いに励ますものです。

二 積極的な内容と不十分性

 今回の判決は、内容的にも一陣高裁を否定するものです。

 まず、労働者のいのちや健康の保護と経済発展の関係については、理由中で、被告の主張が「経済的発展を優先すべきであるとの趣旨ならば、そのような理由で労働者の健康を蔑ろにすることは許されない」と明確に判示し、一陣高裁判決が、被害発生は労働者が防じんマスクを装着しなかった「自己責任」であるかのごとく判示した部分に関しても、「防じんマスクは、粉じん対策としては補助的手段にすぎない上、息苦しさや視野が狭くなることからマスクの装着を嫌う労働者が、規則違反であっても実際に少なからず存在し、これを放置する事業者がいることも、・・・被告は把握していたのであるから、粉じんの発散、飛散防止措置(筆者注記:局所排気装置の設置のこと)を講じなければ、労働者の粉じんばく露を防ぐことはできなかったと解される」と判示して、一陣高裁判決の「自己責任」論も明確に否定しました。

 また、判決は、労働大臣の省令制定権限に関しても、「労働環境を整備し、その生命、身体に対する危害を防止し、その健康を確保することをその主要な目的として、できる限り速やかに、技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正すべく、適時にかつ適切に行使されるべき」と判示して、一陣高裁判決が無視した筑豊じん肺最高裁判決の判断基準を提示し、これに基づいて、昭和三四年ころには、「石綿肺による重大な健康被害が生ずることの予見可能性があった」ものであり、局所排気装置の技術的基盤も昭和三二年には形成されていたと認定し、旧じん肺法が成立した昭和三五年三月三一日までには、省令で罰則をもって局所排気装置の設置を義務づける状況であったとして、国には、昭和三五年四月一日以降、昭和四六年四月二八日に旧特化則を制定するまで、規制権限不行使の違法があったと判示しました。

 しかしながら、判決は、一陣地裁判決が認定した測定結果の報告等の義務づけを行わなかった違法に関してはこれを否定し、昭和四七年以降に就労を始めた労働者に関しては国の責任を否定しました。また、国の責任は、後見的責任であるとして責任割合を三分の一としました。これは、国に全部責任を認めた一陣地裁判決からは後退する内容となっています。

 とはいえ、長期に亘って深刻に発生した泉南アスベスト被害に関して、基本的には国に責任があったことを明確に認める内容であり、原告団・弁護団は、今回の判決を一陣高裁判決を克服した勝利判決と高く評価しました。

三 一日も早い全面解決を求めて

 原告団と弁護団は、判決直後から、厚労省等の行政や国会議員に対して、泉南アスベスト国賠訴訟の早期全面解決を求める多彩な宣伝行動、集会、要請行動等を展開しました。

 判決翌日の二九日は、野田首相と小宮山厚労大臣に対して原告との面談や早期解決を求める要望書を提出し、その後、与野党の国会議員三三名(本人出席一三名)と会場一杯の四〇〇名が参加する判決報告院内集会を開催し、議員らからは、政治の力で早期解決に全力で取り組む旨の決意が次々に表明されました。三〇日には、首都圏建設アスベスト原告団等と共同して、約二五〇名による「早期全面解決を求めるアピール」の賛同を求める全国会議員への大要請行動を展開しました。その後も要請行動を続けるなかで、一週間という短期間で一〇二名のアピールへの賛同が寄せられました。

 さらに、四月三日には、自民党アスベスト問題対策合同部会が、五日には、民主党アスベスト対策推進議員連盟が、それぞれ原告団・弁護団に対する意見聴取を行い、それを受けて民主党議連は五日夕方に、野党は、六日に、自民党議員の呼びかけで自民、公明、共産、みんな、社民、きづな、新党日本の各党議員が一緒に小宮山厚労大臣に面談して、控訴断念と早期解決を申し入れました。これに先立って、原告団も、一日原告団総会で、「二陣判決を基準にした早期全面解決」を国に呼びかける決議を行いました。

四 国の控訴と今後の闘いについて

 以上のような、原告団や弁護団による「政治による一日も早い解決を」の必死の要請にもかかわらず、国は、原告らとの面談も行わないまま、原告らの「命あるうちに解決を」の切実な願いを無視して、控訴期限から六日も早い四月六日に、「上級審の判断を仰ぐために」などとして早々と大阪高裁に控訴しました。

 しかしながら、国が、今後も法廷での争いを続けるならば、泉南アスベスト被害の全面解決は遙かかなたに追いやられることは明らかであり、これは原告らの「命あるうちに解決を」の願いを真っ向から踏みにじるものであり、また、広範な世論にも背を向けるものでもあります。

 原告団と弁護団も、四月九日、国のこうした対応を受けて大阪高等裁判所に控訴を行いましたが、引き続き、国がこれ以上原告ら被害者を苦しめることなく早期全面解決を決断し、原告団・弁護団と解決に向けた協議の場を設けることを強く要望していきます。

小宮山厚労大臣も、控訴にあたって、「一日も早く解決できるよう私としても努力したい」旨コメントしており、そうであれば、一日も早い解決に向けた具体的な道筋を明らかにすることが求められています。

 原告団と弁護団は、今後も、国に対して、泉南アスベスト被害の早期全面解決を強く求めると共に、裁判上においても、第二陣地裁判決の不十分性の克服と第一陣最高裁での逆転勝利に向けて全力で取り組んでいく決意であり、引き続き全国の皆さんのご支援をお願いするものです。


日本航空整理解雇事件報告 ―連日にわたる不当判決

東京支部  佐 藤 誠 一

 日本航空整理解雇事件は一年の審理を経て、三月に地裁判決を迎えました。しかし、二九日(パイロット七六名の原告団・東京地裁民事三六部)、翌三〇日(スチュワーデス七二名の原告団・東京地裁民事一一部)と、そろって不当判決となりました。

 昨年の総会で、小部幹事長からは「勝ってあたりまえの事件」とご紹介を受け、私は翌年の五月集会では「勝利判決」をご報告すると皆さんに申し上げました。残念ながらそれは果たせませんでした。

 「勝ってあたりまえ」とはどういうことなのか。日航は、二〇一〇年一月会社更生手続が開始され、同年一二月九日に解雇通告し、同月末日(大晦日)付の解雇となった(本件提訴は翌年一月一九日)。三月末日、更生手続きは終結するが、日航はこの会社更生手続において驚異的な「V字回復」をとげ、同年度、連結営業利益で過去最高益を計上するなど、経営の指標は抜群の結果を残した。これを受けて二月八日、稲盛会長は記者会見で「解雇は必要なかった」と発言し、法廷へ証人として登場してその発言は、「その当時の収益状況からすれば、誰が考えても雇用を続けることは不可能ではないことがわかる」との趣旨であったとも認めた。これで一四〇名もの整理解雇が許されるわけがない。しかし二つの裁判体はいずれも解雇は有効と結論づけた。

 両判決は多少の違いはあるものの、それは「口数の少ない兄」(三六部の判決は「判断」部分がわずか一六頁)と言いわけがましい弟(一一部の判決はあれこれくだくだ言うが、結局被告の主張を丸呑みするだけ)との違いに類似する。根はいっしょ。更生会社であることが全てあるかのような判決であった。即ち更生計画でひとたび合理的として作成された人員削減計画(しかし解雇を辞さないとまでは言ってない)を遂行することが当然(社会的な義務)であって、解雇の必要性は強く認められると言い、驚異的な「V字回復」を遂げても「更生計画に基づく人員削減の必要性を減殺する理由とならない」と言いきる。更生会社が行う解雇回避措置としても、希望退職を数次にわたり行ったことをもって「十分」と言い、また希望退職における退職条件も「破格の内容」、とまで持ち上げて見せた。

 稲盛証言については、尋問調書を書証として提出したにとどまった三六部では全く無視。証人採用した一一部ではさすがに無視はできなかった。しかしその判示は、記者会見の稲盛発言は、全体として解雇の必要性を否定していない、「苦渋の決断としてやむなく整理解雇」した「主観的心情を吐露」している、と問題をすり替えた。驚異的な「V字回復」によって解雇を避けられた、と記者会見と法廷と二度にわたる稲盛発言はごまかしようがないはずである。稲盛会長は、「その当時の収益状況からすれば、誰が考えても雇用を続けることは不可能ではないことがわかる」と法廷で証言したが、ひとり裁判所だけは、解雇は避けられたと理解できなかったのである。

 原告団は二つの不当判決を大きな怒りをもってうけとめ、高裁で絶対に逆転させようと意気軒昂である。勝利判決をもとに一気に職場復帰すべく予定した諸日程も、怒りの行動として大いに実施展開した。両原告団は(ご事情のある一部原告を除いて)、四月一一日そろって七一名ずつの皆さんで控訴状を提出した。

 以上とりあえずのご報告としてこの記事を投稿しました。五月集会特別報告集には弁護団の船尾徹団員が、詳しい判決の報告を寄稿していますのでご参照ください。また五月集会「労働」分科会では、二日目にこの判決を取り上げていただけると聞いています。当日までに、弁護団から別途資料を用意させていただきますので、討論の素材としてご活用ください。ぜひ多数の団員の方々から、忌憚のないご意見・ご批判また激励を頂戴できればありがたいと考えています。よろしくお願いします。


三・一六比例全活会議と奈良支部の取組

奈良支部  佐 藤 真 理

全国活動者会議

 昨年の団総会での私の発言を契機に、同年一一月二七日に全国活動者会議が開かれ、本年三月一六日に第二回会議が開かれました。参加者は三五名(北海道〜兵庫)でやや寂しく感じましたが、穀田議員の国会報告を始め、大変充実した集会でした。

 特に、消費税増税前に議員が「自ら身を削る」ための定数削減論に対し、政党助成金や議員歳費の削減こそ優先すべきとの反論にとどまらず、もっと積極的に「国会議員の役割論」を打ち出すべきだとの議論が興味を引きました。「国会議員は多くはいらない。」との声が、「大震災と原発事故以後、『国会議員はもっとやるべき仕事をきちんとやるべきではないか。』と変化してきているのではないか。」東北における煖エ議員の活動が出色の評価を受けているのは、その典型ではないか等。

 ただ、求められる運動の水準からすると、私たちの運動の到達点はまだまだと思われます。とりわけ、地方ではなかなか運動の展開が容易でありません。

独自の「県連絡会」の結成

 奈良県では、共同センター(「憲法九条を守れ! 奈良県共同センター」)を母体に、奈労連、団奈良支部、新日本婦人の会奈良県本部、奈商連、奈良民医連、奈良県平和委員会など九つの民主団体が「衆院比例定数削減阻止奈良県連絡会」を発足させ、本年三月二日、県文化会館で結成総会を開催しました。

 田中隆団員に八〇分の記念講演を御願いしました。国会情勢、小選挙区制策動の歴史、小選挙区制の害悪、連用制の問題点、目指すべき選挙制度、運動の到達点と課題等について、詳細かつ情熱的に解明して頂きました。懇親会までお付き合い頂き、団奈良支部の中堅・若手や修習生にも刺激を与えて頂き感謝しています。

 参加者は五八名で、私がこの間にほそぼそと講演してきた例に比べれば、成功と言って良いでしょう。問題は、田中講演と、連絡会の結成を受けて、これから奈良でいかに運動を広げていくかということです。

 当面、共同センターと連携して、隔週の昼休み宣伝に取り組んでいます。四月九日、一〇日の両日、県内選出の九名の国会議員全員の地元事務所への要請行動に取り組みました。すべて秘書との対話でしたが、(1)身を削るなら、政党助成金や議員歳費こそ、(2)国会議員の議席は、議員の私物でなく、国民の代表である、世界で最も議員定数が少ない日本で更に定数を削減するのは、国民と国会とのパイプを細くするだけ、(4)いまこそ、民意を反映する選挙制度をと訴え、団の意見書『連用制を検証する』を是非、読んでほしいとお渡しし、団の意見書『わたしたちの声をとどけよう』の一八頁と一九頁の二つのモデル、比例代表一七ブロック制と大選挙区・中選挙区(広域単位及び都道府県単位)を示して説明させていただきました。「連用制は余りに技巧的と思います。」(民主党N氏)、「定数三、一五〇選挙区の中選挙区制を考えています。」(自民党T氏)との意見が出された位で、秘書からは明確な意見は余り聞けませんでした。

 しかし、私たち民主団体が、いよいよ本気で、比例削減の阻止と民意を反映する選挙制度の実現に向けて、運動を展開していきますよ、という明確なメセージは伝達できたものと思われます。

 「ピンチをチャンスに変える」ために、全国各地で大いに奮闘しましょう。

(二〇一二・四・一〇)


ハローワークの明日を考えるシンポ開催 ―地域主権改革を粉砕しよう♪

東京支部  中 川 勝 之

 三月二七日、さいたま市で自由法曹団、埼玉県国公、労働法制埼玉連絡会が主催する「ハローワークの明日を考えるシンポジウム」が開催されました。全体で六〇名以上が参加しました。

 地域主権改革は憲法二五条の解釈改憲であり、社会福祉、社会保障についての国の責任放棄であるところ、国の出先機関改革の一つとしてハローワークの地方移管も狙われています。今回はその問題をメインにしつつ、広く出先機関改革、さらには地域主権改革の正体をつかんで今後の運動に確信を持つ内容になりました。

 まず、藤田孝典・反貧困ネットワーク埼玉代表・NPO法人ほっとプラス代表理事から、現場、当事者目線からの報告がありました。既に福祉事務所において就労支援は民間委託され、就職させること自体が成果にされる一方、仮に就職できても労働基準法も遵守されない中、多くの就職者が長く働き続けられない実態が明らかにされました。劣悪な労働環境か生活保護かの選択にさらされており、職業紹介が公的責任でなされることが最低限必要と訴えました。

 次に、河村直樹・全労働省労働組合副委員長が、ハローワークの果たす役割とハローワーク民営化攻撃の経緯について報告がありました。ハローワーク民営化が、(1)職業安定法改正による民間事業者参入、(2)市場化テストによる官民競争(東京都足立区)で進められたがうまく行かず、今度は(3)地方移管で突破しようという狙いが明らかにされました。この点は、後の討論の中で、上田埼玉県知事が「国から県へ」と言いながら「県でしっかりやる」とは言わず、仕事を基礎自治体へ丸投げしており、いかに仕事を放棄しようとしているか明らかとの発言で深められました。

 最後に、尾林芳匡団員・構造改革PT座長が、地域主権改革全体について、義務付け・枠付けの見直し、ひも付き補助金の一括交付金化、国の出先機関廃止等の地域改革主権のメニューは一見ばらばら見えるが深くリンクしていること、その狙いは福祉を企業に参入、後退させて予算を大開発に集中させること、その先は財界が以前から推進する道州制であること、橋下市長は首切り・賃下げを行うため公務員バッシングを進めていることを報告し、地域主権改革の正体が一目で分かる団のリーフの普及を訴えました。

 討論では、地方整備局の直轄国道・直轄河川もやり玉に上がっているが、地方移管されると管理水準の低下が心配されるだけでなく建設国債の移管の話もある、既成事実化とともにワンストップサービス等耳あたりの良い言葉で宣伝されており、実態を広く明らかにする必要がある、何でも基礎自治体が担うのが良いように宣伝されるが、予算も人員もない基礎自治体が担えないし、広域的視点の欠落や専門性の形骸化といった問題がある等の発言により問題点が深められました。

 シンポの最後のコメントで尾林団員は「今回のシンポは地域からの運動のモデルケース。全国に広めていこう。」と訴え、懇親会ではその具体化に議論が集中。ハローワークのほか、保育、介護、道路・河川等、地域主権改革は社会福祉、社会保障全般に対する攻撃であるだけに個別のテーマ設定は不幸にも(?)多数可能です。団員の皆様、各地で結び付きのある団体、住民と協力して同じような企画をしてみてはいかがでしょうか?手始めに五月集会の構造改革問題+震災問題分科会への参加をオススメします。特に二日目には地元宮崎県の綾町町長が来られて、地方整備局廃止に異議あり!と語っていただきますので、お見逃しなく。

 地域主権改革の闘いの舞台の中心は自治体レベルに移っています。東京都でもこの第一定例会において保育所設置運営基準の見直し=子どもすし詰め化の条例化が強行されてしまいました。東京支部の一員として地域主権改革との闘いを強化しなければと思っています。


全国公害弁護団連絡会議 創立四〇周年記念シンポジウムに参加して

東京支部  青 龍 美 和 子

 三月三一日に東京で開催された公害弁連創立四〇周年記念シンポジウムに、今回公害弁連に加入した「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団(生業弁護団)の一員として参加しました。その四〇年のたたかいの歴史や、公害弁連を構成している弁護団の活動に非常に感銘を受けましたので、その報告と感想を投稿します。

一 中島晃団員による基調報告

 まず、京都でスモン、水俣病、ヤコブ病、薬害イレッサの各訴訟など多くの公害裁判の弁護団で活躍されてきた中島晃団員から基調報告がありました。

 スモン訴訟のたたかいについて、真の被害者救済のため、企業の責任追及のみならず、国の責任を追及するという新しい課題に挑戦していった道のりが語られました。弁護士が法廷外での運動に取り組んでいくのに、「弁護団員一人一人が悩み抜きながら、真剣に議論を重ねていくなかで、裁判に勝利するためには弁護士としての通常の職分を守るだけでは駄目だ、被害者とともに運動の領域においてもたたかい抜く以外にはないという決意を固めていった」という過程があったことを初めて知りました。被害者が命をかけて団結したたかっているのに対し、全人格をかけて、弁護士の職務外と考えられていた新しい領域にも挑戦するという弁護団の姿勢に、大いに学ばされました。

 また、スモン訴訟の弁護団は、弁護士登録したばかりの三〇歳前後の新人弁護士が中心となって法廷内外の運動を展開していったというお話には、弁護士登録して三か月足らずの私にも、弁護団で果たせる役割は大きいのかもしれないと勇気がわいてきました。中島団員も、原発問題に取り組む若い弁護士に、スモンを上回るようなたたかいをしてほしいと期待を述べられ、同期の仲間や諸先輩方と一緒に、是非その期待に応えていきたいと思いました。

二 パネルディスカッション「原発問題―被害の全面的な救済と脱原発にどう取り組むか」

 後半のパネルディスカッションでは、福島原発被害弁護団の広田次男団員から地元福島住民の現状と弁護団の取り組みについて、生業弁護団の馬奈木厳太郎団員から農家・事業者・沖縄への避難者などの被害実態と福商連会員へのこれまでの賠償支払いの到達や弁護団の取り組みについて、大阪市立大学準教授の除本理史さんから原発事故被害者の調査報告やこれまでの公害訴訟での被害との比較等被害の分析について、琉球大学名誉教授の矢ヶ附飼nさんから物理学者の立場で内部被曝の危険性と政治・学会による内部被曝隠しの歴史・実態について、「原発なくそう!九州玄海訴訟」弁護団の板井優団員からは原発差止訴訟の重要性と弁護団の取り組みや広がりについて、最新の情報や運動の課題なども交えそれぞれ大変勉強になるお話をいただきました。

 会場からの発言も含めて、私にとっては社会科の教科書に載っている歴史的人物ともいえる弁護士が次々と登場し、公害弁連のたたかいの歴史・教訓を生かし、乗り越え、原発事故被害の回復と脱原発を実現しよう!と力強く訴える姿に感激しました。同時に、公害弁連四〇年の歴史に刻まれた数々の公害訴訟について私自身は深く知らないことも実感し、教訓を乗り越えるためにも一から学んでいかなければならないと強く気を引き締められました。

 最後に、熊本水俣病訴訟や「よみがえれ!有明訴訟」弁護団の馬奈木昭雄団員が、三・一一後の今、原発に依存する社会を変えるためには、全世界的に原発事故の被害の実態を伝え、世界的な運動を広げる必要があると述べられ、そのスケールの大きさに驚きました。しかし、未曾有の公害問題である原発問題を解決するには、理論の面でも運動の面でも、これまでの延長線上では考えられない新しいものが求められているということが、パネリストや会場からの発言にも表れていたし、また、これまで既成の理論や運動を実際に乗り越えてきた人たちの言葉だったので、説得力がありました。

 原発問題をめぐって、社会のあり方が根本的に問われているこの時代に弁護士になり、原発事故の被害弁護団に加わらせてもらっている者として、重大な責任を負っていることを感じつつも、大きなやりがいを持てるこの一大事業に一生懸命取り組んでいこうと改めて思いました。


大塚一男さんを偲ぶ会に出席して

大阪支部  石 川 元 也

 桜の花が満開の四月七日午後、東京四谷の会館で、大塚一男さんを偲ぶ会が開かれた。松川事件以来のゆかりの一〇〇人をこえる人々が集まった。大塚さんといえば、松川との思いで参加したが、かっての弁護団員では、松本善明、安達十郎、今井敬弥さんだけであった。

 松川事件元被告の本田昇さん、阿部市次さんの九〇歳とは思われない元気な姿、江津事件、島田事件、日弁連人権委員会、東弁、山登りの会、PTA関係の方、最後に東京合同法律事務所の代表と、多彩な方々のそれぞれの思い出話、中でも、地元の八〇歳を超えた女性の涙交じりのお話には、永くPTA活動を続けられた大塚さんの人柄をしのばせるものであった。奥様のお話や、親戚を兼ねた松本善明さん(奥さんの兄)の松川以来の大衆的裁判闘争、民主主義を守る闘いでの大塚さんの果たされた大きな役割で締めくくられた。

 「大塚一男さんを偲んで」という文集が配られた。私は、その締め切りを失念して、載せられなかったので、この後に、その一文をつけさせていただく。

 この文集での第一のものは、長男の大塚茂樹さんの「父が最後に語ったこと」という文章である。社会的に有名な父親との葛藤の中で、一八歳の大学入試の前に、家を出て、生涯一緒に暮らしていないという茂樹さん。苦学して、社会運動の中で、松川運動に学び、日本現代史を専攻し、岩波書店現代文庫編集部で働く茂樹さんは、大塚さんのもっともよき理解者となったのであろう。末期の肺がんと判明した大塚さんが、「『お前だけに言っておく』と何度も口にした話題である。父が著書で言及してきた松川弁護団の教訓、松川運動の生命力、弘津氏の裁判批判についての弁護団内の認識の違いにも関わる。父とはちがう認識を持ち続けた主任弁護人、父の著書を批判した弁護人の著作等も熟読しつつ…。二人の主任弁護人の相異なる認識を隠蔽せず父が率直に記した点も、それが自らの役割だという信念であろう。」と茂樹さんは書いた。初対面であったが、お話しする時間が持ててよかった。

 そして、この文集の中で、同じ問題意識に立つのは、渡辺脩団員だ。大塚さんが終生愛した東京合同法律事務所の後輩として、「志(こころざし)を高く、私心なく闘う」という共通認識の下で、もっとも怖い先輩だったという大塚さんの眼力に触れ、その闘いに学ぶ重要性を書いている。

 大塚さんが、弁護士一年目で、あの松川事件という大事件に取りくみ、大先輩の岡林さん伍して譲らず、弁護活動を展開した、その芯の強さの原動力はどこにあっただろうか。それのひとつには、一九四九年施行の新刑事訴訟法の研究にかけては、誰にも負けないとの自負もあったであろう。裁判闘争全体の闘いの「主戦場は法廷の外にある」ことを認めつつも、「法廷内の責任は弁護士にある」との立場を堅持した大塚さんである。

 私の文章は、偲ぶ会でのお話やこの文集を読んだ後では、いかにも舌足らずの感があるが、そのままのせていただくことにする。そこに書いた弁護活動を巡る論議を是非起こしていただくためにも、この「大塚一男さんを偲んで」という冊子を求めて読んでほしいと思う。しのぶ会事務局をつとめられた西嶋勝彦団員のお茶の水合同法律事務所(FAX 〇三―五二九八―二六〇二)に余部があるという。一部、二〇〇〇円。


大塚一男団員のこと、偲ぶ会のこと、諸先達のこと

静岡県支部  萩 原 繁 之

 一九七八年から一九八〇年に掛けてのいつだったか、大学内の他学部、第一文学部の、一年先輩だった大塚茂樹さん(現岩波書店勤務)に、僕は頼み事をして断られた。

 大塚先輩は、物静かな、理論家肌の、それでいながら寸鉄人を刺すというところのある方のように見受けられた。法学部でやはり一年先輩だった岡田正則さん(現早稲田大学法科大学院教授・行政法学者)に対しては、僕は、自らを二番弟子(一番は、さしずめ、神戸秀彦・現関西学院大学法科大学院教授か)とも、弟分とも、子分とも、家来とも、自認して、敬愛していたが、その岡田さんが、大塚さんを「じっくり落ち着いて理論学習が深められて、うらやましい」とうらやんでいたのを覚えている。

 で、僕が大塚さんに断られてしまった頼み事とは、晩聲社刊の書籍『弁護士への道』に、著者のサインをお願いすることだった。「民主的法曹を目指す」という生硬な「理想」の下、『弁護士への道』を読んで学ぶ、大塚さんの御父君が松川事件の弁護人で書籍『弁護士への道』の御著者であるということだから、サインを頂戴して、その宝の書籍の価値をさらに高める、という目論見が、大塚さんの拒絶で打ち砕かれてしまった。

 一男団員ご逝去後のやりとりによると、茂樹さんは記憶しておられないようだが、僕は茂樹さんから「何でそんな物が欲しいの」というようなことを言われた様な記憶でいる。書籍に著者のサインを得て喜ぶなどということは、書籍の本質と関わらない、いわば偶像崇拝的なことだ、というような趣旨だったように思う。ああ、僕はミーハーなんだなあ、と、自覚させられた。もっとも、追悼文集の茂樹さんの文章からもうかがわれるように、青春の永遠のテーマ、父子相克が、大塚父子間には、おありだったようだ。偶像崇拝的でも何でも良いと思い、僕は今でも、笹山尚人団員にも、笹本潤団員にも、著書へのサインをねだっている。

 僕の読書ノートには、『弁護士への道』を一九八〇年二月一四、一五日に読んだことと「民主主義と人権を守るため、また真実を明らかにするためには、法に携わる者は最大限に謙虚でなければならない」という読後感が記されている。再読しないといけない。

 一九八八年四月に弁護士登録をして沼津に行くと、ボス弁の田中夫妻が企画運営の中心を担っていた五月三日「憲法記念日沼津市民のつどい」が司法問題をテーマに取り上げることとなっていて、メインの講演者が大塚一男団員と決まっていた。ご子息茂樹さんとの関わりにかかわらず、僕はそれまで大塚団員にお目もじしたことはなかった。五月三日当日に茂樹さんの大学の後輩と自己紹介すると、一男団員はうれしそうな顔をして下さった。

 この日の同団員の講演の内容は、同団員の業績の中に適切に記録されていないのではなかろうか、と心配である。同団員の追悼集には同人誌「群」のことが良く出てくるが、この同人誌は、我が地元である沼津、三島地域の方々が中心となったものである。おそらくはこの憲法記念日のご講演がつながりの始まりを作ったのではなかろうか。

 同月下旬に、僕は、死を約二週間後に控えて癌で入院中だった母を残し、生まれて初めて飛行機に乗って、宮崎で行われた団五月集会に参加した。飛行機の隣席が、何と、三日にご講演いただいたばかりの大塚団員だった。機中で、窓から機外・地上の風景を盛んに写真撮影しておられたことを良く覚えている。(そして、今年は二度目の宮崎五月集会である。)

 何年かして、茂樹さんの結婚祝賀会にお招きいただいた。「父が喜ぶ」ということも茂樹さんが僕を招待して下さった理由の一つだったようだ。茂樹さん自身の交友の広さを感じさせる、著名、多彩な方々が多く参加しておられた。(向かいの席の梓澤和幸団員から「どこかでお会いしたことがあるような。」と言われた。ある沼津の依頼者の示談交渉事件を三人の弁護士で共同受任して、連夜ご一緒したことがあったのだが。)

 松川事件について学び、死刑判決が下された下での、想像するだけで泣きたくなってしまうほどの悲壮で苦難に満ちた日々を勝利につなげた闘いに思いをはせつつ、(同様に、いつ終わるとも知れず、果てしなかったと思われるメーデー事件の闘いにおける上田誠吉団員らの苦難にも思いをはせつつ)も、島田、袴田を含め(ただし袴田事件に大塚団員は関与されておらず、西嶋勝彦団員が関与しておられる)、刑事事件の弁護団などで大塚一男団員から直接の教えを受けるような機会はないまま、ご存命中の大塚団員との、直接の、関わりは終わった。

 そうした名残りを惜しみつつ大塚団員のご生涯から学び、併せて茂樹さんとの再会も果たす機会として四月七日、偲ぶ会に参加させていただいた。司会をお務めの西嶋勝彦団員はじめ、九州からの角銅立身団員、相良勝美団員、篠原団長、小部団本部幹事長、泉澤事務局長を含む団員など弁護士や、ジャーナリストやご親族や地元PTA関係の皆さんや、が、全国から、集まってこられていた。

 松川事件、島田事件、江津事件などについて語られる中で、これまで存じ上げなかった小篠映子弁護士という方が、ごく一般的な刑事事件での無罪獲得に向けた苦闘の中で大塚団員を弁護団に招かれての経験を話されたことが印象深かった。大塚団員は、目先のややもすれば小さく見えるような課題についても決してゆるがせにせず全力を尽くされたこと、それに学んだ方々が成果を獲得されたこと、が語られていた。

 松川事件に関連して、阿部市次さんから、福島県の渡辺さんが、当日の偲ぶ会に参加を予定しておられたのに、お亡くなりになられてしまい、ちょうど葬儀となった、そのため安田純治団員もこの偲ぶ会に参加できない、ということを話しておられた。

 渡辺さんのご逝去については僕も、しんぶんの、訃報欄で見ていた。喪主は純さんと書かれていた。純さんは、団福島県支部の渡辺純団員。

 二〇〇八年の福島団総会の後の半日旅行、松川事件を深く知る旅、列車脱線転覆の現場ツアーの際、渡辺純団員と御父君とは、父子お二人そろって、ツアーの先頭に立って我々を引率、案内して下さった。親子仲良くともに闘っているという風で、うらやましいなあ、と感じた記憶が鮮明だ。あの颯爽としていた御父君も、茂樹さんの御父君、大塚一男団員と同様、世を去られてしまったのだ。

 でも先達は偉大な遺産を残して下さっている。遺された僕たちは、その遺産をどう、失うことなく損なうことなく継承して、さらに大きく良いものにしていくかが、託された課題なんだろう。月並みなようだが、そう感じる。


*書評*

メルボルン事件個人通報の記録

―国際自由権規約第一選択議定書に基づく申立 メルボルン事件弁護団編

東京支部  鈴 木 亜 英

 オーストラリア・メルボルンで起きた刑事事件を自由権規約第一選択議定書に基づいて、自由権規約委員会に個人通報した事件を弁護団がまとめたものが本書である。

 メルボルン観光のために日本人一行五人が、経由地クアラルンプールのレストランで食事中、現地ガイドの車の中に収めておいたスーツケースを車ごと盗まれた。翌日ズタズタに切られたスーツケースが発見され、代わりにガイドから新しいスーツケースが届けられた。実はこの中にヘロインが組み込まれていたのである。善良な旅行者が麻薬の運び屋とされてしまったいわば仕組まれた事件である。

 この事件は到着先のオーストラリアで刑事事件として立件され、日本人全員は有罪となり、一人に懲役二〇年、他の四人に懲役一五年という重罰が宣告され、全員控訴及び上告したものの、有罪が変わることはなく、刑務所に収監された。英語がわからない日本人は外国での思わぬ刑事事件という厳しい状況の中で必死に弁解し、無実を主張した。しかし、捜査段階はもとより、拙劣と云ってよい法廷通訳の誤訳とこれによって歪められた事実をそのまま真実と受け止めてしてしまった裁判官の前に彼らは抵抗する術を持たなかった。

 服役して四年。このことを知った日本の弁護士たちが立ち上がった。証拠を蒐集し、無罪への確信を深めた。オーストラリアは自由権規約第一選択議定書、いわゆる個人通報制度を批准している。管轄内にあれば外国人もこの制度を利用できる。本書は山下潔団長、田中俊事務局長を中心に大阪弁護士会四二人のメンバーがこの個人通報制度と格闘した記録である。

 この事件の最大の特徴は、捜査・公判を通じて、通訳の日本語能力が十分ではなかったため、捜査官、弁護人、裁判官らの訴訟関係者に彼らの弁明が伝わらなかったことである。しかし通訳の出来・不出来はたやすくは判別しえない。残されたテープや調書を吟味してはじめてなしうるところである。弁護団は様々な人々の手を借り時間をかけて漸く自由権規約違反を解明する。しかし本件が自由権規約違反かどうかの審査をして貰うには「当該個人が利用しうるすべての国内的救済措置を尽くしたこと」とする受理許容の要件を充たさなくてはならない。このための審査を突破しなくてはならない。弁護団の格闘はここに始まる。

 この通報を受けた自由権規約委員会はこの問題にどのように対応したか。本書の読みどころはまさにここにある。私は外国で刑事被疑者、被告人になってしまった自分を想定しながら個人通報申立書の克明な記録と検証をヒヤヒヤ、ドキドキして読み進み、自分ならどうするかと自問した。適切な通訳がどれほど大切かを痛感させられるばかりであった。

 個人通報制度を残念ながら日本はまだ批准していない。従って日本でこのような事件が起きても通報はできない。民主党は個人通報実現をマニフェストに掲げ政権の座についた。日弁連で個人通報等実現委員会で活動する私たちには一条の光がさしたかに見えた。しかし、それから二年半、未だに批准は政治日程に上らない。四月五日に日弁連主催で行われた「今こそ個人通報実現を!市民大集会」はクレオ講堂に二五〇名の参加者が集まり、この状況を突破しなくてはと確認しあった。

 刑事司法、雇用問題、言論表現、どれをとっても人権のガラパゴス化が進む日本にとって、いま必要なのは国際基準の人権の風が吹き込むことなのである。いやおうなくグローバル化の進む国際社会。日本もいつまでも人権鎖国は許されない。国際人権の往来時代は間もなくやって来るだろう。本書は個人通報を希望する人々にとって不可欠の指南役になるにちがいない。

現代人文社 三九二頁 本体価格四〇〇〇円