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石川 元也 大塚さんとの「約束」を果たさねば
佐野 雅則 高校教諭の懲戒免職処分が取り消された
谷  真介 大阪市庁舎からの一方的な組合追い出しは許さない
黒 澤 有 紀 子 「完全賠償に向けての気持ちを新たに」
船田 伸子 福井原発からの風向きプロジェクト報告
―私の脱原発市民運動とツイッターへの無謀な挑戦―
種田 和敏 給費制存続問題
〜三党合意を受けて〜
藤木 邦顕 ハーフマラソンを走りました。



大塚さんとの「約束」を果たさねば

大阪支部  石 川 元 也

一 松川事件とのかかわり

 私の弁護士登録は、一九五七(昭和三二)年四月、松川事件は上告中であった。

 登録後、すぐ弁護人選任届を出した。五月の現地調査に参加し、関西での守る会(松対協結成前)の講師活動に専念した。教材は、広津さんの連載中の「松川裁判」であり、被告団のパンフだった。

 翌年一一月の最高裁大法廷の一〇日間の弁論には、関西からも、毛利与一先生をはじめ数人の弁護人が参加していた。五九年八月、破棄差し戻しの判決が出た。

二 皆出席の差戻審公判、弁護団会議

 差戻審が始まる前、岡林、大塚さんをはじめ東京から何人か見えて、関西の弁護人、学者と共同の研究会を持った。毛利与一、佐伯千刃、菅原昌人、佐々木哲蔵各弁護士、平場安治京大教授らに、弁護士三年目の私も出席した。この時の最大のテーマが、「最高裁判決の拘束力」の問題であった。判決は、「二つの連絡謀議」の存在に疑問を投げかけ、それを通じて実行行為などすべてに疑問があるとして、事件全体を破棄差戻した。串刺しにしたんだ。だから、差戻審では、この「二つの連絡謀議」の存否が焦点で、検察が立証できなければ終わりだ、というものであった。

 関西弁護団の役割も決まった。四人の先生にはできるだけ出廷してほしい、冒頭段階と最終段階にはそろって出席する、毎月三回の連続法廷(月、水、金の一週間)には、交代で出ていただく、進行状況を伝えるため、私は全法廷、全弁護団会議に出席するというものであった。差戻審弁護団では、最年少組だったが、懸命にその役割を果たしたつもりだ。この経験は得難い貴重なもので、私の刑事弁護活動の上での大きな財産となった。

 六〇年三月に始まる仙台高裁の審理では、冒頭からの法廷で、拘束力の論議が続けられた。第八回公判での門田裁判長の見解(判例時報二二六号)では、「最高裁判決は連絡謀議も実行行為も事実誤認の疑いありと判断している、それを解消するに足りるような新たな証拠の出ない限り、判決に拘束される」と述べた。事実調べに入りさえすれば、拘束力は解消されるという俗論は排斥された。

 門田判決は、さらに、隠された捜査段階の多数の供述調書を全面的に開示させ、「珠玉の真実」が明らかになったと、積極的に被告らの無実を明らかにした。

 大塚さんの本には、差戻審については、後者を中心に書かれている。

三 大塚さんの「私記 松川弁護団史」

 この本の出版は、松川事件の無罪確定後、一五年後のことである。大塚さんは、冒頭に、「いまなぜ弁護団史か」と、それまで、まとめられていない「弁護団の活動と、重要な教訓等について、資料に基づいて、まとめることにした」と記す。

 この本では、事件発生の一九四九年の情勢に始まり、事件の捜査段階からの弁護活動、一審、二審の弁護活動で、完全無罪の証拠関係にもかかわらず、不当な判決を受けた悲痛な思いを語っている。全段階を通じての圧巻は、絶望的とも思える上告審の壁に立ち向かった十数人の常任弁護団のメンバー、当時の東京合同法律事務所の同人の面々の文字通り血のにじむような努力、とくに二〇日間の合宿に基づく上告趣意書の作成に集中した時期に関する記述である。

大法廷の一〇日間の弁論、破棄差し戻し、「乱」上告審を経て、無罪確定まで一四年。

 それぞれの闘いの特徴が書かれながらも、上告へ向けての弁護団の団結こそが勝利の原動力であったとする、大塚さんの思いがひしひしと伝わってくる。

 これらの積極的な教訓とともに、いくつかの問題点も示される。例えば、一審段階で、ふだんあまり出廷していないのに弁論だけ顔を出すのはどうかという雰囲気もあって、有力な弁護人の参加が控えられたというような話や、逆に、運動の発展もあって、四〇〇人を超す弁護団が結成されたとき、必要な情報がいきわたり、それぞれの活力を引き出す努力、また保守党の有力者袴田弁護士との厚い信頼関係の形成など、大事件・大弁護団での団結上の工夫のいることも書かれている。

 「あとがき」で、大塚さんは、「これからの活動上の参考に役立てられるならば、私の苦心、努力がむくわれるというものである。活用を心から希う。」と記している。 

 私は、この本に感動し、大阪で一二〇冊もひろめた。「石川書店ありがとう」などと、大塚さんからハガキをもらった。(大塚さんからは、著書の贈呈のほか、折にふれて多くの便りをいただいたものだ。)

 しかし、この大塚さんの希いは、不幸にして果たされなかった。それは、岡林さんとの葛藤も率直に語られていたからだったように聞いている。東京では、そして、自由法曹団の中でも、この本をもとに弁護活動を深めるための論議は進まなかったようだ。自由法曹団では、二〇〇八年秋の福島総会の折、「松川事件と大衆的裁判闘争」という企画も行われたが、弁護団活動の在り方にまでおよぶ論議などはなかったように思う。

 私は、大塚さんの「回想の松川弁護」(〇九・一〇)の出版にふれて、「広津さんの散文精神」に学ぶとともに、「私記松川事件弁護団史」の問題提起を受けた論議をいまからでも起こそうと、自由法曹団通信一三二七号(〇九・一一・二一)に書いたが、果たされていない。

 いま、大塚さんをおくるにあたって、弁護団の多くの先輩に先立たれているが、それだけに冷静に、大塚さんの提起を受け止めて、論議をしておかなければならないという思いに駆られている。私も八〇歳を超えた。時間的余裕はそう多くはない。

 在京のゆかりの人々に期待したい。 

二〇一二・四・七


高校教諭の懲戒免職処分が取り消された

静岡県支部  佐 野 雅 則

一 はじめに

 平成二四年三月三九日、生徒にわいせつ行為をしたとして懲戒免職処分を受けた県立高校教諭について、静岡県人事委員会は、当該処分を取り消す旨の裁決をした。静岡県人事委員会による処分取消は、記録が存在する一九五一年以降で、二〇〇〇年四月以来、二回目である。

二 事案概要

 県立高校教諭(Y先生)は、体育教諭であり陸上部の顧問であった。Y先生は、現役時代も有名な陸上選手であり、指導者としても一流であった。また、陸上指導のみならず、生徒指導も熱心に行っており、生徒や同僚教師からの人望を集めていた。

 本件行為の対象となる男子生徒(A君)は、当時陸上部の二年生だった。

 平成二二年八月、A君は、Y先生に相談を持ちかけた。それは、A君の性格のことや思春期にありがちな性器に関することだった。Y先生はA君が自分を信頼して悩みを打ち明けたことに対して、中途半端な気持ちで対応することはできないと考えた。A君の悩みに真剣に答えるため、Y先生は、A君の同意を得て性器に触れてその状態を確認した。Y先生は、(その状態について)問題ないことをA君に伝えた。そして、A君だけが恥ずかしい思いをしてはいけないと考え、Y先生も自分の性器をA君に見せた。大人の性器の状態を見てもらえれば、悩む問題ではないことを理解してもらえると思った。A君の悩みは解決できた。

 ところが、同年九月、A君の両親が学校にクレームを入れた。学校管理職は、Y先生の説明を聞き入れなかった。その後、学校管理職は、保身を優先した予断と偏見に基づく聴取書を作成し、Y先生の真意を理解することなく、教育委員会に報告した。

 同年一〇月六日、上記下線部の行為について、「わいせつ行為」を行ったとして懲戒免職処分となった。

三 争点及び立証活動

 本件の争点は、Y先生の行為が、わいせつ行為に該当するか否かである。

 Y先生側は、本件対象行為は、生徒の悩みに対し、カウンセリング目的でなされた教育指導・相談の一環としての行為にすぎないと主張した。立証方法として、証人五名、陳述書二九名、嘆願書五四九名、その他の書証を請求した。

四 判断

 結論として、本件懲戒処分は取り消された。勝利の要因は、Y先生の行為を信じて止まない同僚や生徒らの支援であった。数多くの証人、陳述書や嘆願書での協力が得られたことが大きかったと思う。

 また、一方で教育委員会の調査方法が不十分であったとこも裁決の中で指摘された。本件の一番大きな問題はその点にあったと思う。すなわち、学校管理職及び教育委員会が公正な観点から事実を見極めようとしていれば、本件が「わいせつ事案」でないことは容易にわかったはずである。ところが、保護者からのクレームに押し込まれ、問題を表沙汰にしないように教師を切り捨て、学校の名誉と自己の保身を優先した。この管理職らの対応が、現場で日々奮闘している教師に与えた恐怖と失望感は計り知れない。

 本件の背景の一つは、学校教育の「組織の疲弊」であろう。静岡県教育委員会は、県内教師の不祥事に関し、「万策尽きた」と表現した。確かに、刑事事件にまで発展した事例もある。しかし、多くの教師は、毎日生徒と正面から向き合い、悩み、努力している。現場の教師のために適正な教育環境を作ることが管理職の役割であり、正当な評価をすることが管理職の役割だと思う。保護者からのクレームに毅然と立ち向かう気概が管理職にあれば、本件のような事件は起きなかったであろうと思うと、教員人生を事実上奪われたY先生が気の毒でならない。


大阪市庁舎からの一方的な組合追い出しは許さない

大阪支部  谷   真 介

 城塚健之団員「橋下維新の会にかき回される大阪から」(団通信一四一三号)でも触れられている大阪市問題の一つに、組合事務所退去問題がある。

 自治労連傘下の大阪市役所労働組合(大阪市労組)は、九〇年に連合・自治労系から分離独立する形で結成、組合員数約五〇〇名という圧倒的少数組合である。

 市労組と大阪市労組連(大阪市労組と全教傘下の市教職員組合らの連合体)は、〇六年七月より、労使合意により、大阪市庁舎地下一階に地方自治法二三八条の四第七項の行政財産の目的外使用許可を一年ごとに受け、組合事務所として継続的に使用してきた。使用料については、毎年減免申請を行い減免が認められていたが、減免率については毎年逓減されてきており、一二年度は五割とする旨の確認がされている。

 しかし、一一年一二月に大阪市長に就任した橋下氏は、就任直後より、「職員組合と市役所の体質をリセットする」、「組合の事務所には庁舎から出ていってもらう」と、あからさまに職員組合を敵視する発言を繰り返し、言葉どおり一二年一月三〇日には、市労組らがまだ来年度の組合事務所の使用許可申請をしていないにもかかわらず、先んじて、「市は来年度の組合事務所の使用許可を行わない方針なので三月末までに退去するように」と通告した。その後、市労組らが二月一七日に四月以降の使用許可申請を行ったが、三日後には早速不許可とされた。それも「組織改編による新たな事務スペースが必要になった」という理由を示したのみで、労使協議は一切なく、代替案すら示されなかった。

 市労組らは、このような労使協議を全くせず一方的に追い出す橋下市長の手法を容認することはできないと意思統一し、裁判闘争に踏み切った。一二年三月一四日、市労組と市労組連が原告となり、上記不許可処分の取消と四月一日からの使用許可の義務付け、また各労組二〇〇万円の国賠を求めて提訴した。行政財産の目的外使用許可は行政の裁量行為であるが、その裁量に逸脱濫用がある場合に違法となるのは当然である。橋下市長が行った組合事務所の使用不許可処分は、何ら行政上の必要に迫られていないにもかかわらず、まさに労働組合の弱体化をねらった不当労働行為である。とりわけ大阪市労組は、大阪市長選挙における交通局での投票依頼の問題のような、橋下市長や当局が問題とする行為すら、何ら行っておらず、仮に他労組に問題行動があったとしてもそれを理由に市労組らに不利益処分をすることなど許されてはならない。しかも組合活動の最も重要な拠点である組合事務所を撤去することは、労働組合にとって極めて深刻な問題である。不許可処分の目的は、まさにこの活動拠点を奪うことで、労働組合の活動を弱体化させるところにある。原告らは、本来使用許可をする際に検討されるべき事情以外の事情を考慮に入れて不許可処分を行っていること自体、裁量権の逸脱濫用があり、同処分は違法だと構成している。

 なお、市労組には現業職員も含まれているので、三月二九日には、大阪府労働委員会に対して不当労働行為救済申立を行った。大阪市は答弁書で、使用不許可の理由について、新たな事務スペースの必要性に加え、市庁舎内で職員の政治活動が行われるおそれを払拭することにあると、堂々と主張している。

 なお最大労組である連合・自治労傘下の大阪市労連も別に、行政訴訟と労働委員会への救済申立を行っている。もっとも市労連の方は三月末で一旦退去した。市労組らは退去すると事実上取り戻せないと意思統一し、四月以降も退去せず、市庁舎の中で必死の闘いを続けている。

 本件は、単に一自治体において一市長の意向で組合事務所の撤去が要求されたという単純な問題ではない。ポピュリズム的手法をとる維新の会・橋下市長による、組合や職員に対する数々の攻撃の一環として行われたものである。このような橋下市長の手法にどう対抗するか、市民への共感を呼ぶ運動をつくりあげるかは、難しい課題であるが、乗り越えなければ大阪の未来はない。市職員の仕事や労働組合の意義や役割について、市民に(もちろん司法にも)伝える努力を粘り強く続けることしかない。


「完全賠償に向けての気持ちを新たに」

東京支部  黒 澤 有 紀 子

一 交流集会への参加

 福島市内の福島大学にて、四月七日と八日の二日間にわたり、福島第一原発事故の被害を司法や医療、報道などさまざまな視点から考える「原発と人権」全国研究・交流集会が行われました。被災者や研究者らが参加し、原発事故による人権侵害や地域社会の絆をどう回復させるかにつき、研究及び交流が行われました。

 私は、交流集会一日目は残念ながら、途中参加となってしまいましたが、二日目の分科会では、第三分科会『被災者救済のための「完全被害回復」・「完全賠償」を』(司会・馬奈木厳太郎団員)に参加しました。第三分科会では、福島原発被害弁護団及び「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団(生業弁護団)をはじめ、淡路剛久(早稲田大学)、吉村良一(立命館大学)、片岡直樹(東京経済大学)の先生方がパネラーとして参加され、完全被害回復について意見交換を行いました。生業弁護団からは、中瀬奈都子団員が事業者や沖縄への避難者などの被害にかかる実態について、秋元理匡団員が財物や慰謝料などの損害について、加藤芳文団員が東電と国の責任について、それぞれ報告しました。

二 交流集会に参加して新たにした思い

 私は、国の原発政策に疑問を持っていたこと、そして今回の原発事故を受け、福島及び日本全土にわたる被害の状況を垣間見たことがきっかけで、生業弁護団の一員となりました。

 原発事故による被害については、加藤団員から、今回の原発事故は、東電や保安院が以前から学者の指摘を受けていたことや地震・津波のシュミレーションをしたことなどを通して当然予測できたものであった、との指摘がありました。このように、東電と国は、福島でも地震・津波が起きる可能性が十分にあり、そうなった場合、大変な被害が生じうることがわかっていたのに、原発政策と原発マネーのために無視されてきたのです。まさに原発事故は人為的に起こされた「公害」なのです。

 分科会には、生業弁護団が受任している福島の直販所や農家の方も来てくださり、お話をしてくださいました。直販所を経営されている事業者の方は、借金に借金を重ねて現在経営をし続けていることなどの切実な現状を訴えられました。農家の方は、親子三代で有機質の土で梨を作ってきたが、原発事故により土から高濃度の放射能が検出され、梨が売れなくなってしまったこと、一センチの土を作るのに一〇年かかるのであり、今まで大切に作ってきた土をどうしてくれるのか、土をだめにされた損害も請求したい、と怒りを込めて訴えられました。

 私は、福島の方の生の話を聞き、改めて東電と国に対する怒りを感じました。同時に、除染も含めた完全賠償を求めることの意義を再確認しました。学者の先生から、完全賠償については、現物賠償が面倒であるから金銭賠償とされているだけで、現物賠償自体を認めないものではないから、特に民法的にみて完全賠償ができないわけではないというお話も印象的でした。

 また、水俣病訴訟やスモン訴訟、多摩川水害訴訟などを闘われてこられた豊田誠団員から、損害賠償の法律論で各弁護団は悩まれているようであるが、できる請求からしていき突破口を作ることも必要だという叱咤激励もありました。

 法的な側面、運動的な側面などで色々と議論もあるところではありますが、原発事故で被害に遭われている方々の声と気持ちを第一に、完全賠償を求めて、頑張りたいと思っております。


福井原発からの風向きプロジェクト報告

―私の脱原発市民運動とツイッターへの無謀な挑戦―

弁護士法人ぎふコラボ  船 田 伸 子

一 三・一一後の脱原発市民運動への参加

 二〇一一年六月一一日、岐阜市で「さよなら原発パレード」が行われた。

 呼びかけたのは、三〇代の無農薬農業を営む男性。インターネットなどの呼びかけで集まったのは、同じ無農薬で造園業を営む三〇代男性、無農薬野菜を売っている八百屋さん、環境に配慮した食材を使用してカフェを自営する若い女性、長年「放射能はいらない岐阜市民ネットワーク」を地道に取り組んでいる市民活動家、インドでヨガ修行をつんだ音楽家、きわめつけは真面目に占い師を職業にしたいという若い男性だった。ツイッターで知ったという、私と同じ地域に住む若いお母さんもいた。総勢で二〇人位だろうか。とにかく、「何をして食べてるんだ?」と思われる方々ばかりだった。

 ここでは法律事務所事務局長の肩書きも意味はなく、ただ原発に反対する一市民であった。

二 岐阜で「市民」が中心のデモ、というかパレードに五〇〇人

 このスタッフ会議に参加し、話についていくのはなかなか大変であった。なぜかというと組織を持たない彼らは、動きがものすごく早い。決めたらすぐ動く。それもメールだけが頼りだ。

 六・一一当日は、トラクターが先導し、宣伝カーなし。アフリカの打楽器が鳴り響き、ギターにあわせてラップ調で「ヘイ、子どもを守れ、地球を守れ、バイバイ原発、農家もNO・・・」それに合わせて身体を動かし踊る人、ベビーカーを引いた若い夫婦や風船をもった子どもたち。何しろにぎやかだ。ツイッターで知った。インターネットで知った。そんな声がたくさん聞かれた。

 初めての「さよなら原発パレードぎふ」は大成功だった。

三 九・一一、一二・一一、そして風船とばし

 このパレードの後、九・一一と一二・一一もパレードをしたが、徐々に参加者は減った。

 二〇一二年。三・一一は震災から一周年。さて冷たいマスコミを振り向かせるにはどうしたらよいか?そこで出て来たのが「福井原発から風船をとばそう」であった。

 一月新年会をかねて初めての飲み会をした。まだこの時点でも顔と名前、職業が一致しない。占い師の正体もわからない。が、若い庭師は脱パン(脱パンツ)であることが判明した。環境系の若者の間にフンドシが流行ってることを初めて知った。

 岐阜は、地形の関係で一年の大半、福井からの西風(卓越風というそうだ)が吹く。福井原発で何かあったら。

 三月三日、土曜日一〇時、福井県美浜原発に近い水晶浜に集合。一〇〇〇個の赤い風船は、飛ばすそばから電線に絡まり、原発を作った関西電力ではなく、北陸電力に迷惑をかけることになった。

 何とか一二時一五分頃、最後の風船を飛ばし、解散。帰りの車の中で一報が入った。「一二時四〇分岐阜県可児市で発見」。

 ええっもう?可児市?私はまだ敦賀にいた。

 私は、この時?のために始めたツイッターで「もんじゅ君」に情報をツイートした。「もんじゅ君」はあの「もんじゅ」だ。ツイッターでもじもじ申し訳なさそうにつぶやく人気キャラである。これで一気に全国にリアルタイムで風船とばしの情報が共有されることとなった。

 岐阜県を恐怖のどん底に陥れた風船爆弾は、四月二三日現在、飛ばした風船の一割、九八個の落下情報が寄せられ、内八〇個が岐阜県内であった。中には長野や静岡まで飛んで行った元気のいい風船もあるが、概ね私たちの意図を見抜いた賢い風船たちは、県内に奇跡のように落ちた。(詳しくは五月集会で資料配布予定)

 これは、私たちにとって願ってもない追い風となった。三月九日には県知事要請を行い、岐阜県民は福井原発の地元であり、大飯原発再稼働に意見を言う立場なのだと訴えた。原発立地のような交付金はない。しかし事故があれば、一時間ちょっとで放射能の町となるのだ。原発再稼働に待ったをかけるよう強くせまった。

四 赤い風船は、行政を変えた

 風船による福井原発からの風向き調査は、新聞・テレビに大きく取り上げられ、今もマスコミが原発や防災体制を語る時、必ず「市民による風向き調査によると」という一文が入るほどである。SPEEDIなどはシュミレーションでしかない。風船の方がより重いのである。

 そんな中、三・一一「さよなら原発パレードぎふ」は、過去最高の八〇〇人を超えた。

 三月一四日には、福井原発三〇キロ圏地域を抱える揖斐川町と、池田町・大野町、本巣市の市町長及び市町議会議長の連名で、県知事あて要望書が出された。大飯原発再稼働の判断基準、今後の手続きについて自分たち近隣自治体の意見を尊重し、原子力施設の安全指針を示すとともに大規模地震に繋がる恐れのある活断層について安全性を検証するよう国に要求せよとの内容だった。

 私は、自分の住む大垣市長に要請に行き、ついでに始めたばかりのツイッターの威力を試してみようと、無謀にも「原発に不安を持つ方、大垣市役所に三月二一日一二時四〇分集合」というツイートを流し、市役所ロビーで待つことにした。

 赤ちゃんを抱いた女性が「あのう、風船の方ですか?」と寄って来た。それも三人。結局六名が集まり堂々と市長要請を行った。

大垣市は、その後岐阜県に対し、防災見直しの要望書を提出した。

 そして岐阜県知事は、ついに記者会見で「大飯原発再稼働について、地元として意見を言うつもりだ」と宣言した。

 四月八日、枝野経産大臣が福井県庁に「再稼働要請」に来るという土曜日の朝、「枝野に岐阜も地元だって言いに行こう」ということになり、「さよなら原発ぎふ」から一〇名が参加した。私は急遽、特急「しらさぎ」に飛び乗り、福井県庁に枝野大臣と同時刻到着。グリンピースと一緒に「えだNO!、EDANO!」と声をあげた。

 四月二四日には、二回目の岐阜県知事要請を行い、二六日には、関西電力本社へ大型バスで乗り込む予定だ。めまぐるしく運動が展開してく。ツイッターで、仕事が首になるかもしれないと冗談でつぶやくと、あちこちから嘆願書を出そうかと励まされた。

 確実に岐阜という原発のない地方でも、全国と繋がりながら脱原発の市民運動が成果を上げている。

 私は、とりあえず、なれないスマホを操り、老眼鏡をかけてツイッターでつぶやいている。

 フォローしてくださる方は、nobuchin_yyへ。


給費制存続問題

〜三党合意を受けて〜

東京支部  種 田 和 敏

一 三党合意成立

 四月二〇日、修習生に対する給費制の存続問題を含む裁判所法改正について、民主党、自民党、公明党の三党合意が成立しました。三党合意の内容は、新六五期及び六六期の貸与制を前提としている点で大変遺憾であるものの、新たに閣議決定に基づく検討機関を整備し、一年間で法曹養成制度全体を検討する中で、給費制「復活」も射程に入れて修習生の経済的支援が議論されることになった点は一定の評価ができます。以下、これまでの経緯を詳述しつつ、今後の展望についても若干触れたいと思います。

二 給費制一年延長と新六四期

 二〇一〇年一一月二八日、給費制を一年延長する内容の裁判所法改正が成立しました。私たち新六四期は、もともと貸与制移行が決定的だったところ、修習に入る直前に給費制維持になった経緯から、自覚的に給費制の意義を思慮しつつ、安心して充実した修習を送ることができました。弁護士になった現在も、国民の血税で育ててもらった意味を心に刻みつつ、権利の守り手としての自覚を持って、がんばっていきたいと思います。

三 貸与制の現実と新六五期

 これに対して、新六五期の修習生は、修習前に給費制が延長されることはなく、昨年一一月から一年間の修習に入っています。司法修習生に対する給費制の存続を求める若手ネットワークのビギナーズ・ネットは、今年一月、新六五期に対し、貸与制の現実を調査するため、アンケートを実施しました。一か月という短期間にもかかわらず、約二〇〇〇名の修習生の内、二〇パーセントにあたる四〇〇名を超える修習生から回答がありました。

 アンケートの回収結果は、今年二月、「当事者の声ブック」にまとめました。アンケートの一部をご紹介すると、「すでに奨学金の返済が始まっており、貸与金で返済しています。」、「最近は経済的不安から、何も手につかなくなることが多く、後輩にはこの道はやめた方がいいと言いたい気持ちでいっぱいです。就職難で就職できなければ、自己破産するしかないのかと不安です。」、「法曹は稼げるから貸与でもいいという前提は既に崩壊している。修習までに借金をし、修習中も借金をする。さらに弁護士の場合、登録費用等によりさらに借金をする。このよう現状で公益のために動けるのか不安を感じる。おそらく生活のために動いてしまうと思う。」という声がありました。

四 国会情勢

 給費制をめぐる政治状況としては、昨年末の臨時国会において、同年一二月二日、衆議院法務委員会に、貸与制を前提として経済的困難者に対して貸与金の返還期間を猶予するという内容の裁判所法改正案が政府から提出されました(以下「閣法」といいます。)。 同時に、公明党から二〇一三年一〇月末までに法曹養成制度全体について検討する間は、賞与をカットした形で給費制を維持するという内容の修正案が提出されました(以下「公明党案」といいます。)。しかし、政局も絡み、採決までいたらず、今年の通常国会で継続審議されることになりました。

 今年の通常国会は、一月二四日に召集されました。ビギナーズ・ネットは、昨年末の臨時国会に引き続き、議員会館前での街宣行動を週二日のペースで継続するとともに、法務関係を中心に議員要請を精力的に行い、前述したアンケート結果で判明した修習生の現実を訴えました。また、日弁連と共催で、シンポジウムや院内集会を開催しました。三月一五日の院内集会には、秘書の代理出席を含め国会議員が約六〇名参加しました。

 翌一六日、予算成立の目途が立ち、昨年末の臨時国会と同様、閣法と公明党案が衆議院法務委員会に提出され、給費制を含めた裁判所法改正の審議が再開されました。同月二三日には、法科大学院関係者や日弁連が参考人として呼ばれ、実質的な審議も行われました。その後、民主党、自民党、公明党の三党を中心とした協議が続けられ、妥結点として閣法と公明党案の中間的な内容の法案が作られました(以下「修正案」といいます。)。そして、冒頭に触れたとおり、四月二〇日、上記三党が修正案の内容に合意しました。

五 修正案の内容

 修正案は、貸与制と返還猶予を内容とする閣法を前提として、公明党案の要素も取り入れ、現在の法曹養成に関するフォーラム(以下「法曹養成フォーラム」といいます。)を改組し、より多様な意見が反映され、設置根拠も閣議決定に格上げした議論の場を作り、今後一年間で結論を出すというものです。また、修正案には附帯決議があり、附帯決議の中で、「司法修習生に対する経済的支援については、司法修習生の修習専念義務の在り方等多様な観点から検討し、必要に応じて適切な措置を講ずること。」と定められています。

 そして、今後の衆議院法務委員会の審議の中で明らかになるはずですが、三党合意には、附帯決議にいう「経済的支援」の中には給費制も議論の対象に入っていること、及び検討期間(法施行後一年間)に貸与制の下で修習をする新六五期と六六期に対する遡及的措置も検討することが含まれています。

 あえて付言すると、公明党が否決されることになるものの給費制存続を内容とする公明党案を取り下げないこと(つまり、公明党は給費制をあきらめたわけではないこと)、及び附帯決議で経済的支援と並んで修習専念義務に言及していること(つまり、貸与制と同時に修習専念義務が裁判所法に明記された点で、修習専念義務を外すという議論は考えにくいところ、修習専念義務を課しながら何らの補償もないのは不合理だという共通理解が根底にあること)からすると、給費制も含めた何らかの給付的措置が検討されることは明らかです。

六 これから

 勝負は、法曹養成フォーラムを改組した「新検討機関」ということになります。上述のとおり給費制も射程に入れて修習生の経済的支援が議論されるものの、情勢はいぜん厳しく、むしろ消費増税が叫ばれ裁判官も含め公務員の給与が削減される中で、より厳しさを増しています。しかし、給費制は、単なるお金の問題ではなく、もちろん法曹界だけの問題でもありません。

 給費のありがたみをかみしめた新六四期の一員として感じるのは、給費制が経済的な問題にとどまらず、司法の一翼を担い、公益的活動を使命とすべき法曹としてのマインドを醸成する点で、市民にとってもプライスレスの制度だということです。給費制は、統一修習と不可分のものとして戦後に創設された制度であることからすると、給費制の廃止がひいては統一修習の崩壊をもたらし戦前に逆戻りすることも杞憂ではないと思います。国家の暴走を止めることは、法律家に課せられた使命だと思います。法曹の使命を全うできる人材を育てることができる制度にしていかなくてはなりません。

 さて、若干暴走しましたが、とにかく新検討機関での議論で決まります。それも一年という短期間で。他方、新六五期は、修習修了まで貸与制が確定しました。また、六六期は、貸与制が確定した状態で修習を開始します。

 給費制の問題は、五月集会でも議題になっています。六五期や六六期のことも含め、これから新検討機関に対してどのような活動ができるのかなど給費制「復活」に向けた闘いについて、熱い議論ができれば幸いです。


ハーフマラソンを走りました。

大阪支部  藤 木 邦 顕

 二月五日、丸亀国際ハーフマラソンに自由法曹団大阪支部の西、篠原、牧の各団員と大津の玉木団員、そして大阪・神戸の若手弁護士・事務局およびその妻子などなどと参加しました。ハーフマラソンですから、距離はマラソンの半分の二一・〇九七五kmです。こんな距離を走り続けるのは、生涯はじめてのことです。ちなみに、私は、中学・高校と陸上競技をしていましたが、種目は四〇〇メートルである上、当時から体重が十数キロ増えているせいで、距離だけで未踏の域という恐怖感があります。しかしながら、昨年の八月ころからの練習の積み重ねで、ネットタイム一時間五九分一一秒で七九六二人の一般男子参加者の中三八五四位、五〇歳代男子の中では、一二三四人中六〇九位と真ん中より少し上というところでした。一緒に走った大阪の弁護士グループの中では最年長なのですが、一四人中の三番目なので、弁護士グループの体力のなさが証明されたようなところもあります。

 丸亀国際ハーフマラソンの全参加者は一万二〇〇〇人以上と言われており、一大イベントです。大会にでてみると、まず、ランニングファッションが時代を経て変わってきたことに驚きました。スポーツ用品店でランニングファッションを見ていると、ウルトラマンみたいデザインで、こんなもの誰が着るんかと思っていましたが、おじさん、おばさんを含めて圧倒的にウルトラマンスタイルです。私など、黒の半袖Tシャツと黒のジョギングパンツで、自分では新しいものを買っていたつもりでしたが、タイツもはかず、半袖Tシャツと半パンスタイルでは、まるでおじさんの夕涼みで、時代に遅れていることをひしひしと感じました。

 スタートから二km位はスローペースで、参加者が多いために、前に出られません。そこでのスローペースが結果的にはタイムを遅らせたと思いますが、反面楽にスタートしたことにもなります。五km以降は大体似たようなペースの人の集団となり、一〇kmから一五kmあたりまでは、練習で走った距離ということもあって、息も足もついてきますが、一七km以降が大変です。特に最後の二kmがなかなかたどりつかないという感じでした。

 走った後、ゼッケンをみせると四五〇円引きの日帰り温泉に入って、グループの仕立てたバスで帰ってきましたが、翌日は、ほぼ高齢者・障害者状態でした。特に階段が上りも下りも大変でしたが、それでも一〇時三〇分に東大阪・石切の不動産会社で売買の決済にいかなければならず、阪急→御堂筋線→中央線と階段地獄にうめきながら行ってきました。

 今回は、五〇代のエース、滋賀の玉木さんがけがのために応援に回り、大阪の西さんも故障のため、同じく欠場。加えて、幹事役をしてくれた若手弁護士が急病で救急車を呼ぶ騒ぎとなり、その付き添いをして、牧さんも欠場というハプニングがありました。大阪の条例問題がたいへんなときに何を暇なことをしているかという声も十分承知していますが、来年は、今年走れなかったみなさんとともに元気でこの大会に出ようかなと思っています。