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鶴見 祐策 竹澤さんの逝去を悼み送ることば
篠原 義仁 お別れのことば
弔辞
松島  暁 大飯原発を再稼働させないために
毛利 正道 引き裂かれた南相馬の怒り
藤原 泰朗 除染請求一万人訴訟を目指して
〜福島原発事故被害者の会結成のご報告〜
中瀬 奈都子 広島避難者の会「命ひろ異の会」主催
「私が決める未来のかたち〜いのちつなげようあしたへ〜」に参加して
平澤 卓人 徒手格闘訓練死事件で検察審査会「不起訴不当」の議決
坂井 興一 「同情だけでサヨナラですか!」
無差別大空襲、東京高裁二三民判決
樋口 真也 日本国民救援会大津支部長に就任して
大久保 賢一 *書評*
伊藤真「憲法が教えてくれたこと」が面白い



竹澤さんの逝去を悼み送ることば

東京支部  鶴 見 祐 策

一 事務所の大先輩にあたる

 竹澤哲夫弁護士が、本年四月二四日、家族の見守られながら、八五歳の生涯を閉じられた。通夜と葬儀の会場は弔問者であふれた。一二〇通を超えるメッセージが寄せられた。竹澤さんの人徳が偲ばれた。

 竹澤さんは、私が所属する第一事務所の創立者でもある。一九五七年、この事務所は、東京合同出身の関原勇さん、石島泰さん、金綱正巳さん、佐藤義弥さんとともに設立されたのである。いらい権力による弾圧や資本の専横を許さず、労働者・勤労市民層の権利を守り前進させる運動に寄与する事務所を目指して取組んできた。今年まで竹澤さんを筆頭に弁護士一一名に事務局六名の陣容であった。

二 私には生涯の師匠であった

 私ごとになるが、修習の卒業の間際まで私の事務所は決まらなかった。「持ち駒」だったらしい。卒業の口頭試問で「弁護士になる」と答えたら試験官から「事務所はどこだ」ときかれて返答に詰まったおぼえがある。その直後に大移動があって、それまでの予定者が別のところに移ったあとに私が回わされたのが実際らしいが、詳細はわからない。

 そのとき研修所の寮に届いた封書の差出人が竹澤さんであって「何日に何処で会おう」という文面であった。平事件などで著名であったが、まだ面識はなかった。行ってみると「何日に事務所会議をやるから来なさい」だけ伝えられた。それが五〇年前の四月のことである。

 ある人から「いい所に入った」と言われた。「あそこは自由法曹団の正統性を受け継ぐ事務所だ」と教えられた。そして「竹澤さんから大いに学ぶとよい」との助言を受けた。いらい私は、半世紀にわたり竹澤さんを目標としてきたと言ってよい。これでも私なりに努力はしたつもりだが、未だその域には遠く及ばないと実感させられることしきりである。

三 日本の戦後史と重なるその経歴

 竹澤さんは、一九二六年七月、富山県の高岡市のご出身である。京都大学の在籍中に中国、朝鮮、インド、インドネシアなどの留学生と親しく付き合われたようである。その中には戦後の母国の建国の歴史に名を残すような人たちもいた。

 学業半ばの四五年に陸軍に召集され、出立の日に富山の大空襲を目撃され、さらに久留米からの帰路の列車で広島を通過して間もなく閃光と爆音と「きのこ雲」を目撃されたそうである。その強烈な体験と印象が、竹澤さんのその後の生き様に影響を及ぼさなかったはずはないと思う。「私は命拾いをした」が口癖であったが、戦争で命を奪われた人達に対するご自身の思いが込められていた。

 五一年に弁護士登録の直後から自由法曹団の大先輩布施辰治さんらとともに軍事裁判の法廷に臨んで、アメリカ占領軍による「占領目的阻害」を口実とする弾圧犠牲者の弁護に多くの時間を費やされた。朝鮮戦争のさなかアカハタや後継紙の配布が摘発された。有罪を宣告されると収容所に監禁されて重労働を強いられた。ちなみに日弁連の「弁護士百年」には布施さん青柳さん上田さんらと写っている竹澤さんの貴重な法廷写真が載っている。占領軍の軍事裁判を経験された最後の弁護士と言えるのではないかと思う。ちょうど旧刑訴から新刑訴に変わる時期だったから、このアメリカ式の法廷は貴重な経験だったと述懐しておられた。

四 多彩な弁護活動と数々の業績

 その後も引き続き政令三二五号違反事件やレットパージに伴う諸事件など占領下の人権抑圧事件を数多く担当された。占領軍の差し金で掲示板を撤去した警察に抗議して一五九名が騒乱罪に問われた平事件を担当され、ほとんど孤軍奮闘により騒乱罪の被告全員無罪の一審判決を勝ちとられたことでも有名である。控訴審で覆させられるが、騒乱罪の成立要件に関する解明の先進性が、その後に無罪となる吹田事件やメーデー事件の裁判闘争に活かされたと思われる。

 ちなみに最高裁で調査官を経験され、その後の青梅事件では裁判長として関わった岩田誠最高裁判事は「新判例の大部分は自由法曹団によるもの」と語ったと伝えられている(山本祐司「最高裁物語」二五五頁)。その岩田さんの念頭に竹澤さんの存在があった。このことは間違いないと思う。

 松川事件の上告審と差戻審では鈴木信被告の主任弁護人をつとめられ、同じく列車妨害の謀略がからむ青梅事件の主任弁護人として取組まれ、いずれも全員無罪の勝利をかちとった。

 また全農林警職法事件、安保六・四仙台事件、ハガチー事件の諸弾圧のほか、全通産、全気象、全農林、全林野等の懲戒処分取消、全税関賃金差別訴訟など、公務員の労働基本権や諸権利の確立を目指す裁判闘争にも全力で当たられた。

 農民の闘いでは入会権をめぐる小繋事件を忘れることができない。森林窃盗に問われた農民の無罪をかちとっておられる。公害闘争でも多摩川水害訴訟の弁護団長として勝利を導いたことで広く知られている。その他に枚挙のいとまがない。

五 冤罪者の救済と再審の道を拓く活動

 冤罪者の救済には全力を投入された。細川邸園丁若妻殺し事件、小田原事件など弁護活動を通じて無罪をかちとられた。関わられた冤罪事件の多さに驚かされる。

 日本の刑事司法の在り方にも厳しい批判の視点から新たな議論を巻き起こされた。その活動の一環として六三年頃から日弁連人権委員に就かれ、七九年には委員長の重責を担われた。当時では「針の穴に駱駝を通すより難しい」とまで酷評されてきた再審制度の抜本的な改革に没頭されたのである。そして冤罪者の救済の筋道を大きく拓くための活動において指導的な役割を果たされた。とりわけ七三年にドイツから学者を招き先進的な経験を日本に伝えたことが、再審の要件を広げる最高裁「白鳥決定」(七五年)「財田川決定」(七六年)に結実することとなったのはよく知られている。その功績は特筆に価すると思う。ご自身も帝銀事件、丸正事件を担当されたほか横浜事件第三次再審の弁護に献身され再審開始決定にも大きく貢献されたことも忘れられない。

六 講演や著作など啓蒙活動

 労働基本権や刑事裁判に関する講演や論文や著作も多数あって全てを紹介することができないが、いずれも人権活動やその運動に関る人々にとって有益な指針とされている。例えば、講話をもとに編纂された「戦後裁判史断章」(光陽出版社)などは、今では後進に残された貴重な教材と言えるだろう。「検証・帝銀事件」「全農林裁判闘争史」など味読に値する得難い文献である。刑事法学者とも交流を深めておられた。教授らが竹澤さんの古希を記念して出版された「誤判の防止と救済」(井戸田侃、庭山英雄、光藤景皎、小田中聰樹、大出良知教授編)などに成果が示されている。

七 竹澤さんのお人柄

 法廷では、権力の不正には敢然として舌鋒するどく追及されたが、それを除くと大変に相手の立場を思いながら紳士的な対応をされる方であった。だから相手方から恨みを買うようなことは一切なかったし、むしろ私の知る限りでは相手方である裁判所からも検察官からも信頼をされ、かなりの敬意を払われていたように思われるのである。竹澤弁護士のいうことは彼らも謙虚に聴こうという態度が窺われるのが常であった。私のような者とはこの点でも大いに違うのである。

 顧問の労働組合や諸団体、事件依頼者から、これほど尊敬され、信頼され、慕われてきた弁護士を目前にした経験は、私には竹澤さん以外にはない。 

 平事件のときだが、最終弁論を終えたあと富山に帰郷して病気の療養につとめていた竹澤さんのもとに裁判所から電話がかかってきたという。判決の日に出頭できるかという問い合わせであった。書記官の言葉から裁判長の意向が窺われたので、やむなく病躯をおして遥々福島に出向いた竹澤さんは、法廷で「騒乱罪全員無罪」の判決を聴くことになった。左翼に厳しい時代であった。そのなかで言い渡されたこの判決を、裁判官たちは、竹澤さんに直接に伝えたかったに違いない。

八 最後に

 これからももっと多くのことを教えていただきたかった。それがかなわぬ今が残念でならない。その遺訓を胸に今後も努めていきたい。竹澤さんのご冥福を心からお祈りする。


お別れのことば

団長  篠 原 義 仁

 竹沢哲夫先生、突然の悲報で驚き、なかなか言葉を発することができません。しかし、自由法曹団を代表してお別れの言葉を述べさせて頂きます。

 竹沢先生は、京都大学に在学中に招集され、その後一九五一年に弁護士登録され、以来六一年にわたって民衆のための弁護士として活動を続けてこられました。第一法律事務所の仲間の皆さんの言葉を借りれば、竹沢先生の弁護士としての歩みは、戦後の歴史そのもので、戦後の民衆の闘いに符合します。弁護士登録早々から自由法曹団の大先輩布施辰治氏とともに占領時代の軍事裁判での弁護活動に加わり、戦争終結のための講和後にあっては、福島県平の平騒擾事件では、孤軍奮闘の結果、一五九人全員の騒乱罪無罪(一審)をかちとり、列車妨害の謀略がらみの青梅事件でも主任弁護人として全員無罪をかちとりました。

 私が後年、多摩川水害訴訟弁護団でご一緒させて頂いたなかでのお話で、事件そのものの核心的お話しはなかったのですが、収入が乏しいなかでの平事件の福島通いのしんどさを穏和な口調で淡々と語っていたのを思い出します。

 松川事件では、鈴木信さんの主任弁護人をつとめたと聞き及んでいます。

 一方、竹沢先生は、国家公務員関係の事件も、民事、刑事事件を問わず、顧問弁護士として活動しました。

 全農林警職法事件、全農林長崎事件、安保六・四仙台事件、ハガチー事件、大坪国公法弾圧事件等々を担当したと伺いました。

 竹沢先生は、それに止まらず、小繋事件で刑事事件、入会権訴訟をも担当していたというのですから全農林、全林野関係そしてその延長線での全般的な活動の深さを思い知らされます。

 これに加えて、さらに、全税関賃金差別があります。全税関賃金差別事件はいわゆる組合間差別ですが、私も思想信条差別事件である日本鋼管や東京電力の人権裁判を担当し、行政当局や大独占の横暴な労務政策の是正をめざしてともに闘ったわけで、道理に基づく正義感はみな竹沢先生の姿勢に学ぶところが大でした。

 さて、竹沢先生が、一九七九年日弁連の人権擁護委員長となり、一九八五年には日弁連の再審法改正実行委員長に就任し、「針の穴を通すより難しい」といわれた冤罪者の再審救済の道筋を大きく切り拓いたことは、よく知られているところです。

 ところで、このことがきっかけで日弁連活動にのめっていったのかどうかは聞きもらしましたが、帝銀再審事件、帝銀偽証事件が竹沢先生の再審事件の取り組みの大きな柱であったことは間違いないでしょう。そして、丸正事件、横浜事件再審事件、山中事件へと連なっていったのでしょう。

 また、帝銀事件の弁護団仲間の関係で新潟県の加治川水害裁判に加わり、さらに、その延長で一九七四年に発生した多摩川水害訴訟に必然的に加わることになりました。この多摩川水害訴訟から、私は、団長と事務局長という役割で、実に二〇年有余の間、親密な付き合い、弁護士としての基本を教え込まれ、裁判が勝利的解決したのちも親しく交流させて頂きました。

 そこで、この多摩川水害裁判での思い出を最後に述べさせて頂きます。

 多摩川水害訴訟弁護団は、竹沢先生が団長で、団員はみんなきわめて強烈な個性をもった「つわもの」揃いでした。こうした弁護団構成のときは多くの場合、個性と個性がぶつかり合い、不団結が起こりがちですが、この弁護団は、「クセがあるのに強固に団結してい」ました。この絶好なハーモニーを作り出した基礎には、洞察力鋭い議論の持ち主でありながら、温厚できわめて柔軟なタクトを振る竹沢団長が扇の要にいたということで、団結の決め手は人柄で、みんな竹沢先生に絶対の信頼をおいていました。

 さて、裁判は弁護団の旺盛な主張立証活動により、二年半で結審し、三年後に国賠法に基づいて国の河川管理責任を断罪して、原告が全面勝利しました。

 ところが、控訴審の審理が少し長びくなかで、最高裁は一九八三年一二月、大阪大東水害訴訟の上告審審理の最終盤に「水害事件担当裁判官協議会」を開催し、国の河川管理責任を否定的に考える見解を明示して、下級審に対し裁判統制をはかり、同時に翌一九八四年一月二六日、大東水害上告審で裁判官会同の最高裁見解と同一の理由を付して国に河川管理責任なしとして、原告敗訴の逆転判決を言い渡しました。

 ここから水害訴訟は「冬の時代」に入り、それ以前は勝訴率の高かった水害裁判が、改修河川、未改修河川を問わず、連続敗訴となり、多摩川水害訴訟も一九八七年、東京高裁で逆転敗訴の判決が言渡されました。

 逆転敗訴の原因は、司法の反動化というほかなく、具体的には第一に裁判官会同による裁判統制、第二に最高裁判決に示される行政追随主義、司法消極主義、第三に大阪空港控訴審判決で国側の指定代理人の立場にあったものが、東京高裁では判検事交流で裁判長の席につき判決を言渡したことにありました。

 私たちはこの三点を徹底的に追求して最高裁を闘い、一九九〇年に最高裁で逆転勝利し、九四年一二月にも差戻審で勝利し、ようやく一審内容どおりの全面勝利を勝ちとるに至りました。

 しかし、水害発生の一九七四年から勝利までの一九九四年ということは余りにも長い闘いでした。

 「長すぎる裁判は、勝利に値するのか」「長すぎる裁判は、裁判の名に値するのか」

 私たちは、勝利した今でもこの重い命題を投げかけられています。

 竹沢先生、昨年は司法消極主義の極みとして一審で国と企業に勝利したのに、泉南アスベスト大阪高裁判決とイレッサ薬害東京高裁判決が相次いで敗訴しました。

 三月一一日に発生した東日本大震災と福島原発事故は、司法をして、先取り現象としての司法消極主義、行政追随主義に走らせました。

 従前の原発差止訴訟では、最高裁は国家的事業には腰が重く、「専門技術裁量」や「政治裁量」を理由に司法消極主義を採り続けています。

 そして、福島原発事故をうけて各地で続発するであろう原発差止訴訟を前にして今年一月二八日、最高裁は原発訴訟の裁判官会同を開きました。

 司法消極主義は、国家的事案であるJALのパイロット、スチュワーデスに対する整理解雇無効訴訟でも、会社更生を口実に整理解雇四要件の骨抜き化をはかって、三月二九日、三〇日と相次いで原告敗訴の判決を言渡しました。

 竹沢先生、多摩川水害訴訟で私たちが逆転敗訴したときのような逆流の現象が、今では構造改革路線、新自由主義の下での「自己責任」「小さな政府」論として司法の場でも大手を振るうような雰囲気がただよってきました。

 しかし、多摩川水害裁判のときに先生が言われたように「正義の闘いは負けるわけにはゆきません。勝利するまで闘い抜くしかありません。」

 本年三月二八日、泉南アスベスト事件では第一陣訴訟が最高裁に上がるなか、第二陣で大阪地裁で再び勝利しました。

 五月二五日には首都圏アスベスト横浜地裁訴訟で、そして、同じ日にイレッサ訴訟大阪高裁訴訟で判決が予定されています。先生がいわれたように、私たちは、五月二五日の二つの判決を勝ちとり、情勢を再び変えてゆこうと思っています。

 新聞報道では刑事裁判という限定付きですが判検事交流の見直しの開始が伝えられています。

 竹沢先生、二四歳で弁護士になられてから六一年、先生は民衆のための弁護士として闘い続けてこられました。

 また先生は、一九七二年から七四年にかけての二年間、岡崎一夫団長とコンビを組んで、幹事長に就任し、専従の事務局に加え、弁護士の複数事務局次長体制を確立し、自由法曹団の多面的活動の展開を推進し、自由法曹団の今日的活動の基礎固めにご奮闘されました。

 苦しいときこそ、困難なときほど弁護士としての力量が問われ、人柄、人間力が問われるのでしょう。

 私たち自由法曹団は、先生の志を受けつぎ、民衆のための闘いにより一層力を尽くしてゆく決意です。

 安らかにお眠り下さい。

二〇一二年四月二九日
自 由 法 曹 団
団 長  篠 原 義 仁


弔  辞

 突然の弁護士 竹澤哲夫先生の訃報に接し、驚きと深い悲しみの心で一杯です。二年前の夏に行われた故上田誠吉さんの偲ぶ会で、竹澤哲夫先生にお会したのが先生と言葉を交わした最後でした。竹澤哲夫先生とは一緒に弁護活動をしたのは高松の大坪事件(国家公務員法違反という選挙弾圧事件)の最高裁でした。それと、金沢の星野事件の名古屋高裁、最高裁の二つだけです。自由法曹団での活動では集会などで話をして楽しく為になる竹澤先生のお話を聞くことがありました。自由法曹団の「自由法曹団通信」は竹澤先生が幹事長の時の先生の発案で発行されたのです。今、団通信は全国の団員の絆の役割を果たしています。その竹澤先生の功積は自由法曹団にとり大きいものです。

 竹澤先生は八〇歳を迎えた傘寿を記念して「戦後裁判史断章 弁護士の体験から」の本を出されました。私はその本の贈呈を受け読みました。その内の「事件を見る眼と刑事弁護の姿勢」は若い弁護士の参考になると思い先の団通信に紹介しました。そのような竹澤先生を偲び安らかにお眠り下さるをお祈りする次第です。

 お遺族の皆様に心からのお悔やみを申しあげます。

   二〇一二年四月二七日

弁護士  宇賀神 直

葬儀委員長   鶴見 祐策  殿


大飯原発を再稼働させないために

東京支部  松 島   暁

大飯を動かすな!

 一基の原発も動いていない状況は何としても避けたい!という原発推進勢力の願いは叶わなかった。日本の原発五〇基が五月五日すべて停止した。

 原発依存の社会を続けるのか、脱原発に舵を切るのか、日本の原発の将来にとって、停止している原発の再稼働、とりわけ大飯原発のそれを許すか否かが、当面の最大かつ喫緊の課題となっている。梅雨期から夏にかけ一年で最も電力を必要とする季節が目前に迫っている。電力需給が逼迫するといわれているこの夏場を、多少の不便や損失をともないながらも、一基の原発も動かすことなく乗り切ったことが実証されるならば、それは原発推進勢力にとって、福島原発事故に次ぐ大打撃となるからであり、この国が脱原発に方向転換するうえで、圧倒的に有利な条件を築くことになるからである。

 その意味で「大飯を動かすな!」が、原発政策の転換を願う人々の当面の共通のスローガンだと考える。

四〇年前の光景

 今から四〇年近く前になるだろうか、大学紛争の余燼の残る大学キャンパスで、私は、総勢百人ほどの、ヘルメットを被り鉄パイプと竹竿で武装した革マル派とブンド(だったと思うが不確かである)が、ぶつかり合うのを見ていた。

 両集団の勢いは、拮抗しており、なかなか決着がつかなかった。それでも一方が少しづつ後退を始め、ある瞬間、雪崩をうった敗走となった。今となっては、負けたのがどちらだったのかの記憶はない。隣も我慢して踏ん張っているときは、自分も頑張れる。ところが後ろや隣が一人、二人と脱落し始めると自分も持ちこたえられなくなってしまう。そして一気に壊走が始まる。

 私が、現在の日本の原発情勢を考えるとき、この四〇年前の光景が思い浮かばれるのである。原発推進勢力も脱原発勢力も、いずれも様々な困難や内部矛盾をかかえ、どちらも決定打を打ち込めずにいる。原発推進勢力は、玄海原発の再稼働を切っ掛けに再稼働の流れを策したものの、「やらせメール」などで頓挫、今、大飯原発を突破口に、一気に再稼働の流れをつくろうとしている。

今、必要なこと

 原発推進勢力は、電力不足論を背景に、自らが策定した再稼働手続のレールをひたすらに突き進もうとしている。

 しかし、福島原発事故が明らかにしたことは、経産省・原子力安全委員会等の国家機関や行政機関、東京電力や財界・産業界、それらに連なる科学者たち、彼らの言うことなどまったく信用できないということであり、その彼らの敷いたレールによっては原発の安全性など保障されるわけがないという国民的確信(原発推進勢力を含めて)が形成されているのである。この国民的確信のうえで、自分はその「責任」を引き受けたくないと考えている。枝野経産大臣や西川福井県知事がその見本である。「地元の理解が得られたから」とか「政府の決めたことだから」等々、国は地元を、地元は国を、責任の曖昧化に使っている。一人で責任を背負い込みたくないのだ。

 また、福島原発事故が明らかにしたことは、原発被害は、市町村ばかりか県境を越えて拡大する事実であり、原発立地の市町村以外も原発当事者だという認識である。立入制限区域や避難区域の設定が福島県内にとどまっているのは、福島県が北海道・岩手に次ぐ広大な県だったからであり、大飯で事故が起きれば、隣接する小浜市や高浜町はもちろん、京都府や滋賀県にまで被害は及ぶ。それらの市町も、おおい町同様、原発の当事者である。

 確かに、現行原子力法体系は、それらの市町やその住民を手続関与を認めていないし、推進勢力は、それに依拠している。しかし、その法体系は踏み越えなければならないし、その時なのである。

 福井県、おおい町、小浜市、高浜町、若狭町、越前町、京都府、舞鶴市、綾部市、南丹市、滋賀県、高島市、等々(土地勘がないため不正確かもしれない)の、「県知事」「市町長」「県市町議会議長」「県市町議会議員」「県市町議会会派」「民主・自民・公明・社民・共産の各事務所」あてに、(1)大飯原発はおおい町だけの問題ではなく、近隣周辺市町も当事者であること、(2)福島原発事故の原因究明すらなされていない段階での再稼働は将来に禍根を残すこと、等々を、手紙・メール・ファックスを使って送ろう。団本部・団支部・団員が要請行動の先頭に立とう。

 まさに、今が、踏ん張りどころなのだから。


引き裂かれた南相馬の怒り

長野県支部  毛 利 正 道

 「すわこ文化村被災地巡回寅さん映画会」と銘打って、昨年暮れの岩手県釜石・大槌地区仮設での七日間に続き、今年二月中旬に福島県南相馬市中心に仮設で五日間一〇回の映画会を行い、特に福島ではどの会場もほぼ満員に近く計二三九名から泣いたり笑ったりして楽しんでいただいた(私が持参した、募金による映画上映機材ソフト一式を引き継いで現地で上映会をやっていただける方が、岩手に続き福島でも生まれている)。そのときの住民・ボランティアからの見聞やその後注目してきた南相馬に関する情報を合わせてお知らせしたい。南相馬を選択したのは、津波と原発による被害両方を受けている最も大変な地域ということからだった。

二 従前からの住居に住んでいる住民は現在も半数足らず

 三・一一まで七万一五〇〇名いた市民は、(一時は市内居住者が一万人にまで減少したが)今年三月末の時点では、(1)津波などによる震災関連死九〇〇名、(2)震災前からの住居に住んでいる市民三万四四〇〇名、(3)市内の仮設や借り上げ民間住宅などに非難している市民九六〇〇名(うち仮設五一〇〇名、借り上げなど四五〇〇名)、(4)県内の他の施設に避難している市民七九〇〇名、(5)ほぼ全国全県の県外に非難している市民一万四四〇〇名となっている。(4)(5)の市外への避難者のうちのほぼ全員は、知人宅や借り上げ民間住宅に居住している。一家の中でも、避難の有無、原発被害からの避難場所の違いによって、高齢者と若い世代、夫と妻子とで別々に暮らすようになった人も多い。頼りにしていた知人友人学友などと離れ離れになった市民も多い。これだけ見ても南相馬市民がばらばらにさせられていることが分かる。

 とりわけ、従来それなりに存在していた顔の見えるコミュニティに現在も居住している市民は、(1)と(3)のうちの市内仮設居住者合わせても三万九五〇〇名(従前の全市民の五五%)に過ぎず、そのほかの市内外の借り上げ民間住宅などに居住している市民は二万六八〇〇名=従来の市民の三八%にあたる。後者の多くは、釜石の漁村仮設で聞いた「知り合いの姿が見えるだけで元気でいられる」との声とは程遠い生活を強いられているのではないか(全国各地で新たなつながりを創る各方面の努力が実りつつあることも聞いており、決してそれを否定する趣旨ではない)。

三 市内がいくつにも分断された

 加えて、同市は、原発との関係で市内が四つに分断されていた。立ち入り禁止の二〇キロ圏・放射線量が多い計画的非難区域・非難が勧められた二〇キロから三〇キロまでの区域・三〇キロ以遠の地域である(建物の基礎もすべて持ち去ったすさまじい津波被害を受けた地域とそうでない地域という区分もある)。これら各区域によって、東電からの補償金も全国世界各地からの義捐金も微妙に支給基準・金額が異なる。

 この四月一六日からは再編されて、(1)年間二〇mSvを超える居住制限区域(一三二世帯五一四名が対象)、(2)年間五〇mSvを超える帰宅困難区域(一世帯二名が対象)、(3)年間二〇mSv以下の避難指示解除準備区域(一万二七四〇名が対象で、従来の立ち入り禁止の二〇キロ圏とほぼ一致する)と、これら以外の地域に分断され続けることになる。

四 感じ取れない放射線の魔力

 五感で感じ取ることができない放射線であればこそ、人によって影響の見方が異なる。当初、年間一〇〇mSvまでは大丈夫と声高に訴えた研究者がいたこともあり、放射線の怖さや避難の必要性についての認識が人によって大きく異なり、それはまた時間の経過によって多種多様に変化する。それが、家族・地域・企業・学校・団体・知人友人などにおける人と人のつながりを引き裂く。

五 貧富の格差拡大

 今回のような大災害時は、その時点での貧富の程度によって、貧しい者は一層貧しくなり、富める者との格差は一層拡大していく。瓦礫処理・除染などの臨時的不安定な職以外の安定した職に就くことは一層困難であり、安定した堅固な住居を確保することにも格差が広がる。南相馬市では、生活保護を受けていた二〇〇名が義捐金・補償金が入ったことを理由として保護を打ち切られてもいる。

六 母子孤独死、「原発事故死だと思う」

 この二月下旬、南相馬市中心街の住宅で六九歳の女性と四七歳の長男が凍死しているところを発見されて「孤独死」と報じられた。近隣の商店は原発事故後半数が閉店し、一三軒のうち開いていたのは三軒だけであった。母親が通っていた病院も昨年六月まで外来休診となり健康状態が悪化していた。母子を知る近隣の市民は「原発事故がなければこんなことにならなかったんじゃないですか。これは原発事故死だと思う」と唇をかんだ。

七 「つながりが弱まり、深刻さが増している」

 最近の桜井南相馬市長ほか少なくない市民の声である。市外に避難していた市民が次々に帰還している状況だから、「徐々に活気づいている」との声が多くても不思議ではないのにである。上記重畳的且つ多様な分断要因からすれば、当然の声であろう。人と人との仲が切り刻まれそれが一層深刻になってきている(そのなかでも、懸命に戦い続けている人々の存在に気づいていないのでは決してない)。

 これほどでなくても、福島県の浜通り・中通りに住む百数十万の住民にとっては、避難や除染をめぐって「去るも残るもいばらの道、その選択を強いられることは地獄のよう」の日々が続いている。これらが現代における原発大事故による被害の一端なのである。同様の苦痛を他の地域の住民に味あわせてもよいのであろうか。

 (以上の小論は、「毛利正道のブログ」四月二二日掲載の「フィリピン原発から 格納容器のなかから見たフクシマ」の末尾の部分である。関心お持ちの方は本文ご一読を。以下はその冒頭部。)―今年三月、二八年前にほぼ完成したものの民衆の強い反対で一度も運転できないまま現アキノ政権で閉鎖があらためて決定された、フィリピン唯一の原発の格納容器のなかにまで入ってきた。このバターン原発の中に入った日本からの客としては、まだ二組目かも知れない。三〇年前にこの原発を阻むために結成された、全国一二八団体を網羅する「非核フィリピン連合」を長くリードしてきたコラソン事務局長(弁護士)と長時間の懇談を持つこともできた。原発施設内は、放射性物質の漏出を防ぐうえで最重要な格納容器を始め、どこにいっても大中小の配管が縦横に走り、弁も無数にあった。「これでは地震・津波・老朽化による放射性物質漏出を完璧に止められるはずがない」との皮膚感覚であった。日本全土からの原発廃止を考えるためには、なによりも現に起こった「東電福島第一原発クライシス(危機)」で、原発自体がいったいどうなったのかをしっかり見つめる必要があるとも思った。そして、日本では事故が起きたり地震津波などの新しい知見が公表されるたびに、対症療法=一時しのぎ的に大金をかけて原発の補修・改良工事がなされるが、そのようなところよりも省エネと再生可能自然エネルギー創出にお金と知恵を使ったほうがよほど生産的だとの実感であった。以下、そこで得た皮膚感覚や実感を、自身で解析しつつ紹介してみたい。


除染請求一万人訴訟を目指して

〜福島原発事故被害者の会結成のご報告〜

福島支部  藤 原 泰 朗

一 はじめに

 「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団で事務局を務めております、福島支部の藤原泰朗です。この度、福島県において三つの被害者の会(福島市・伊達市・伊達郡の被害者の会、相馬市・新地町の被害者の会、南相馬市の被害者の会)が結成され、弁護団としても被害者の会を支援してゆくこととなりましたので、本稿において被害者の会結成の経緯と今後の展望についてご報告いたします。

二 被害者の会結成の経緯

 被害者の会の結成の経緯としては、当弁護団の団長である安田純治団員が東京電力への原子力損害賠償について、各地の団体から頼まれて福島県各地で講演を行ったことがきっかけです。安田純治団員は講演に集まった住民の方々に対して、被害者の会の結成の必要性を強調しました。

 東電は、被害者からの請求を通じて被害者の情報を集約して把握できる立場にあるのに、被害者の側がばらばらになっていては、東電に対抗することができない、被害者が集団をつくり団結して声を上げなければ、東電や国といった巨大権力に対抗することができない、安田純治団員にはそういった思いがありました。

 この安田純治団員の講演を聞いた住民の方々が刺激を受け、それぞれの地域で被害者の会をつくるということになったのです。そしてその後、弁護団と連絡をとりあい、弁護団としても被害者の会を支援してゆくことが確認され、数回の学習会を経て、被害者の会の結成がなされる運びとなりました。

三 被害者の会の目的

 この福島県内において新たに結成された三つの被害者の会は、会の目的として、単なる金銭賠償にとどまらず、地域社会や環境の回復、東電及び国への責任追及をも掲げています。また、そういった目的に照らして、被害者の会の運動は、原発の廃炉要求・エネルギー政策の転換といった運動へつながってゆくものと思われます。

四 被害者の会の構成

 被害者の会の会員数は、福島市・伊達市・伊達郡(県北地方)の被害者の会では約四○○人、相馬市・新地町の被害者の会では約一〇〇人、南相馬市の被害者の会では約二〇〇人となっています。

被害者の会の構成員としては、すでに直接請求を活発にしているような事業者系団体ではカバーされない、個々の地域住民が主な構成員となっています。

 被害者の会の事務局には、地元の各種団体の代表的な方々が名を連ねています。

五 除染請求に向けて・弁護団が提示した考え

 去る四月一八日、弁護団と被害者の会の事務局との打ち合わせが行われました。そのとき弁護団から被害者の会に対して運動の進め方についての考えを提示しました。

 被害者の会結成当初は、被害者の会の事務局に協力してもらって賠償請求の申立書を整理し、集団申立をするという考えがあり、目的は金銭賠償にとどまらないが、当面は運動として集団申立をしてゆく方向での話が中心でした。しかし、弁護団では、この間の議論や今後の運動としての共通のスローガンを意識した場合、賠償請求だけではなく、原状回復請求としての除染請求を中心に据えて、運動を広げていくという方向性を打ち出そうとの結論に至りました。

そこで、四月一八日の打ち合わせでは、弁護団から被害者の会の事務局に対して、大きな運動にしていくためにも、「元に戻せ!」との除染請求と、それが達成されるまでの間の慰謝料(象徴的な金額での)請求に取り組んでみてはどうかと提起しました。

 弁護団が、除染請求をすべきと考えている理由としては以下のとおりです。

 まず、金銭の請求だけでは運動として成り立つかどうか厳しいものがあるとの懸念があります。個別の金銭賠償請求を集団でやるのでは、被害者ごとに損害額が異なるため、被害者間で分断が生じてしまうおそれがあるうえ、個別の救済以上に運動が広がりをもたなくなってしまうおそれもあります。また、個別の金銭賠償をひとつひとつ弁護士がチェックしてゆくというのも、現状のマンパワーでは限界があります。このように東電の設定した枠組みにとらわれて個別の金銭賠償請求を行ってゆくのでは、運動としての盛り上がりは期待できず、東電の思いどおりの結果となってしまいます。

 そもそも、東電の設定した枠組みにとらわれずに、白紙の状態から被害者の要求を考えた場合、事業者等切迫した事情のある方は別として、個人の方々が本当に求めているものは金銭ではないと思われます。まずもって東電や国への怒りの気持ちがあり、生活を元に戻せという気持ちがあるのであって、運動を広げてゆくためには、率直にその思いを請求にすべきであります。

 それに、金銭賠償であればすでに他の弁護団が受け皿となっています。我々「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団は、地域や環境の回復を目的としているのであって、端的にその目的に直結する請求をすべきと考えます。

 被害者の会の事務局の方々も、打ち合わせを通じて、除染請求について確信をつかまれたのではないかと思われます。一万人を目標に原告を集めようという、積極的な発言も出されました。

 四月一八日の打ち合わせにおいては、その他に、弁護団の考えをふまえて、会の目的や運動のかまえを会の事務局と被害者とで議論して欲しいこと、過去の公害裁判の闘いがどのようにされてきたかについて学習会をもつことを考えて欲しいこと、そのために弁護士を派遣することなどをお伝えし、議論しました。

六 現地住民運動の重要性

 「生活の見通しが立たない」「地域社会がなくなってしまった」「福島の女性は結婚できるのか」「子供達の健康は本当に安全なのか」――我々弁護団は、現地福島においても、避難先の各地においても、先行きの見えない不安に苦しむ被害者の方々の悲痛な声を数多く聞いてきました。これだけの大事故が起きたのにもかかわらず、この問題が十分な救済がなされず終わってしまうならば、日本社会は弱い者を見殺す社会になってしまいます。我々は福島原発事故の問題を、福島のみならず日本全体の未来を決する問題であると考えています。

 しかし、日本全体の問題であるとはいえ、この闘いを全国的な運動にして勝利をつかむためには、まずもって現地福島の被害者が声を上げ、現地での運動が中心とならなければなりません。そうした意味において、今回の被害者の会の結成は重要であり、我々は福島の被害者の会を中心とした現地での運動が今後の運動の核になるものと考えています。今後に向けて我々は、現地での運動を中心としつつ、全国各地の被害者の会や公害弁連等とも連携をとりながら、全国的な運動を展開していきたいと考えています。

 最後に、全国の団の先生方におかれましては、福島原発事故問題へのこれまでのご協力に感謝すると共に今後のさらなるご支援をお願いして、この報告を終わらせて頂きます。


広島避難者の会「命ひろ異の会」主催

「私が決める未来のかたち〜いのちつなげようあしたへ〜」に参加して

神奈川支部  中 瀬 奈 都 子

 二〇一二年四月二〇、二一日に広島県で開催された、「私が決める未来のかたち〜いのちつなげようあしたへ〜」における法律相談会に、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団(生業弁護団)の一員として参加したので、ご報告する。

一 主催団体・「命ひろ異の会」について

 「命ひろ異の会」は、福島第一原発事故の影響で、東北や関東地方から広島県内に避難した家族らが、避難者同士のつながりを広げようと結成された。発起人の渡部美和さん自身も、昨年三月に福島市から広島市安佐北区の実家へ一歳の子どもと避難してきた避難者である。生業弁護団は、今年三月、まだ「命ひろ異の会」が結成される以前から、要請を受けて法律相談に応じてきた。その際、渡部さんら主要メンバーは、「県内にはまだ多くの避難家族がいるが、バラバラに生活している。しかし、東京電力に対する賠償問題は大きすぎて、個人ではとても対応できない」といった問題意識を有していたため、生業弁護団が同様に関わっている沖縄避難者の会の事例を参考にアドバイスしたことが、今回の会の主催につながった。当日は、沖縄での取り組みを参考に、フリーマーケットや民族楽器の演奏、マッサージコーナーなど、避難者の交流を図る企画もたくさん用意され、のべ約二〇〇名の参加があった。法律相談会だけでは決してこれだけの参加者は集まらなかったと思われる。避難者の方々は、長期の避難生活のなかで、こうした交流の場も必要としているのである。なお、当日の模様は、NHKや新広島テレビ、中国新聞などでも取りあげられた。

二 避難者が抱える問題

 前回および今回の相談会にいらした相談者の大半は、小さな子どもを抱える家族での避難者だ。沖縄との違いは、沖縄では母子避難者が圧倒的多数であり、夫婦間の問題が生じてしまっていることが多いのに対し、広島の避難者は、夫婦いずれかの実家が広島にあり、夫婦そろって避難しているか、少なくとも夫の理解が得られており、夫婦間の問題が生じていないことである。しかしながら、沖縄と同様に子どもへの健康被害を案じて避難してきている方がほとんどであるため、沖縄と共通する相談も多い。たとえば、広島での収入源を確保できず、目の前の生活で精一杯で、東電の立場に立っても一定額の賠償金を得られるはずなのであるが、いまだ手続を進めることができないといった相談や、広島県知事が被災がれき受け入れに前向きな方針であるため、がれき受け入れ反対のためにどういった取り組みが可能かといった相談などがそうである。

 また、特に福島県からの避難者は、福島県内に残っている方からの理解が得られないのではないかといった不安も抱えている。東電に完全賠償を認めさせるために、被害者が一丸となって闘うことの必要性を理解しながらも、共に闘うことの難しさに直面しているようだ。

三 これからの取り組み

 このように、避難者は、金銭問題だけでなく、健康への不安や、環境が回復しない限り故郷に戻ることが出来ないといった非金銭的な問題を抱えている。また、被害者の分断に直面し、故郷からの孤立感を感じる人も多い。そういった問題意識を共有し、避難者がつながりを持とうとする動きが各地で広がっていくことに心強さを感じた。運動体の取り組みと、弁護団の訴訟やADRへの取り組みは、車の両輪であり、完全賠償・完全回復を目指すためには、運動体との協力は不可欠である。

 この間、弁護団では、福島現地で結成された三つの被害者の会と連携して、除染などを求めていくことにしているが、こうした現地での運動と避難先での運動が一つの運動として大きな流れになっていくことがなにより重要である。運動体と連帯しつつ、闘いをさらに推し進めるために、全力をつくしていかなければと決意を新たにした。


徒手格闘訓練死事件で検察審査会「不起訴不当」の議決

北海道支部  平 澤 卓 人

 二〇一二年一月一八日、札幌検察審査会は、自衛隊の徒手格闘訓練中に島袋英吉さんが死亡し、訓練を実施していた自衛隊員二名と部隊の隊長が不起訴処分とされていた事件について、三名についての検察の不起訴処分は不当であるとの判断を示しました(以下「本議決」といいます。)。

 この事件は、二〇〇六年一一月二二日、札幌市の真駒内駐屯地において、陸上自衛隊員として勤務していた島袋英吉さん(当時二〇歳)が、徒手格闘訓練中に死亡したというものです。自衛隊は、島袋英吉さんの両親に、訓練中に後頭部を強打して死亡したと説明しました。

 しかし、島袋英吉さんの遺体には、致命傷となった「外傷性硬膜下血腫及びクモ膜下出血」のほかに、口唇の傷害や歯の脱落、三カ所の肋骨骨折、全身の皮下出血、肝臓の裂創、肋間筋出血などあることが分かりました。これらの怪我は、通常の訓練で想定される怪我とはかけ離れています。島袋英吉さんに対し、通常の訓練を超えた暴行やいじめがあったのではないかと思わざるを得ないものです。

 そこで、両親が原告となり、二〇一〇年八月三日、国に対する国家賠償請求を札幌地方裁判所に提訴しました(いわゆる「命の雫訴訟」)。

 同時に、弁護団では、当時の部隊長について刑事告訴を行い、訓練に関係した二名の隊員については、検察審査会に対する審査申立を行いました。検察の再捜査の結果、部隊の隊長は、不起訴となり、二名の隊員についても改めて不起訴とされ、これらの不起訴処分が検察審査会での審査の対象となっていました。

 本議決は、「『受け身に習熟したうえで、投げ技の練習を行う』旨の注意事項を遵守せずに、島袋の練度に応じた段階的訓練を行っていない等、非常に杜撰である」「本件訓練における安全管理体制が適正に構築されていれば、二〇歳の隊員が死亡するという重大な結果を招いた本件事故の発生は未然に防止できたものと認められる」としました。

 もっとも、本議決は、訓練を逸脱した暴行が加えられたという当弁護団の主張までは認定しませんでした。

 本議決は、検察庁が、自衛隊内の警察である警務隊の捜査結果に対して積極的に指揮権を行使しない傾向が強い中で、市民で構成される検察審査会がそれを厳しく批判したことに意味があります。自衛隊員の人権侵害が非常に多い自衛隊組織において、刑事捜査及び訴追権が、通常の市民に対するのと同様に行使されることは、自衛隊員の人権を守るうえで、決定的に重要です。人を死亡させたことに対し責任を取ることが貫かれなければなりません。

 なお、同事件の民事裁判は札幌地方裁判所で審理が続けられています。札幌には同裁判を支援する会がありますが、今般、沖縄でも同裁判を支援する会が立ち上がります。四月二一日、沖縄市において結成集会が開催される予定であり、すでに地元の新聞(琉球新報)が、一か月以上前から大きく報道しています。米軍基地(及び米兵)による被害とたたかい続ける沖縄ですが、ここに自衛隊基地と自衛隊員の人権問題が新たに加わることになったわけです。

 私たちの裁判の目標は、徒手格闘訓練という、テロ対策で強化された「殺人訓練」を止めさせることです。人間の尊厳を否定する暴力やいじめを止めさせることです。私たちは、裁判の全面勝利をめざして頑張ります。(弁護団は佐藤博文、長坂貴之、山田佳以、平澤卓人、神保大地、池田賢太、橋本祐樹の各団員)。


「同情だけでサヨナラですか!」

無差別大空襲、東京高裁二三民判決

東京支部  坂 井 興 一

(遁走法廷)四月二五日の高裁二三民判決は、私たちが詳細且つ厳しく反論した平二一年一二・一四東地民四四部判決を悪い方向で踏襲・上塗りし、「平和条約で放棄したからと云って救済立法する義務はない」、「旧軍人軍属との間の不公平感を感じることは心情的に理解できるが、、他に援護を受けていない戦争被害者はいまなお数多く存在するのだから差別とは言えない、、」と逃げ廻って棄却した。戦災孤児たちが強く求めていた、「大空襲は戦争犯罪ではないか、その被害をいつまで放置するのか、シベリア特措法同様、請求権放棄した国が換わって責任を取るべきではないか」、「軍人軍属との五〇兆を超える極端な差を放置する合理的理由はあるのか、」とか、特別犠牲・防空義務等、どの論点についても真摯に向き合うことがないままであった。法廷では、「棄却します。要旨を配りますのであとでご覧下さい。」と、表情をこわばらせたまま、聞き取り不能の小さな声でボソボソと言っただけで、そそくさと引っ込んでしまった。一律賠償の請求の趣旨故、主文自体で勝つことはそれなりに難しく、棄却の告知程度では判別できなかったが、然し、適切立法を促す位いのことはあって当然と思っていた、、のだが、まさか原審や暮れの大阪判決にも及ばない「不当判決」の、なり振り構わず、アッと言う間もない言い渡しだったとは、、。

(二大争点での逃げ)一審以来の二つの大きな争点は、「戦争犯罪被害であることを認め、而して救済放置は許されない。」とするのかどうか。「軍人軍属との極端な差は、如何に何でも法の下の平等違反ではないか。」と云うものであった。方々への給付は昭二八年以来累計五三兆、平成に入っても一兆円台で推移し、二二・二三年(予算ベース)でも尚、六千億台である。今ひとつシックリしないお気持ちのまま貰っておられる関係者の方々でさえ、「自分らの分は削られてもいいから、民間の方々に廻したら!」と告白する程のひどい格差である。その恩給表を見たら、違いを合理化できる理由有りなんて、どの顔して言えるんだろう思えてしまう。それを強制動員と防火義務の強要と云った、程度の違いと言えるようなことで弁明できた積もりでいる。あまつさえ、他にまだ救済されない方がいるからと、無責任放置の結果をさえ、有利に援用している始末である。また、外交保護義務関係のことについては、帝国政府自身の「米の無差別爆撃は国際法違反」の度々の声明の事実を殊更無視し、放棄の代替措置を取らなくとも違法ではないとしたのだが、これでは「シベリア特措法」での救済を図った趣旨にも反し、その弁明の一言もない。(不作為の上塗り)たとえ戦時下であっても、「犯罪」被害の救済責任は果たされねばならず、官民間の隔絶した救済格差の放置は、世界相場から見ても容認できるものではない。こうした確信から私たちは司法に対し、これまで一四回に及ぶ立法の機会を悉く流した立法府の怠慢について、芳しくない位いの一言があればと思っていた。「受忍論」・「立法論」についての幾らかなりともの微妙な地裁判決を経ての努力で、あとは「全空連」・「同議員連盟」が差別なき救済立法を図るべくそこまで来ていて、高裁もそうした事情を知らぬ訳ではなかった筈である。が、怠慢についてのたしなめの一言もなく、ばかりか、却って不作為不問の上塗りをするものであった。本文一六頁の判決、それも組み替え差し替えの高裁流加除式記述を除けば、たった四頁の「判決要旨」と同様のもの。無内容で素っ気ない、その要旨同様のものが、皮肉にも、これからの上告審と救済立法実現運動の大きな「武器」とはなりそうである。東京だけで一夜にして十万人が亡くなられ、半年にわたって主要三十都市を焼き尽くされ、然し今となっては軍人軍属関係者よりずっと少なくなってしまった要救済者。歴史的大被害についての、五十年以上に及ぶ救済放置と云った無責任な不作為について、「言うのはこう云うことですか、逃げた挙げ句のこれだけですか?!」との、大抵の人が抱いてしまうこの感想を、否定できるどんな言葉があるのですか、、と。


日本国民救援会大津支部長に就任して

滋賀支部  樋 口 真 也

一 はじめに

 私は昨年一二月に登録した六四期で、滋賀第一法律事務所で勤務しています。入所当初から本来の弁護士業務に加え、県労連の旗開き、大津市長選の集会等あちこちの行事に参加し(連れ回され?)、「がんばろう」の歌を歌うなど初めての体験をしました。

二 国民救援会との出会い

 オウム真理教松本サリン事件での河野さんに見られるように、犯人ではないのに犯人とされることによる被害は凄まじいものですが、この事件は冤罪への関心を強くさせました。 

 その後、いくつもの冤罪事件を学習する中で、犯人ではない人が二度と戻ることのない時間と自由を奪われることの恐ろしさと理不尽さを強く感じ、冤罪被害者の支援や冤罪を防止するために私にも何かできないだろうかと思っていました。

 そうした中、玉木団員のお勧め(強要ではありません)で国民救援会を紹介され、その活動に参加するようになりました。

三 国民救援会での講師活動

 一二年二月、国民救援会近江八幡支部総会に玉木団員と一緒に行き、ミニ講演の講師として救援会デビューをしました。その題目は、浜田寿美男教授の「虚偽自白の理論」の中身を説明することでした。

 浜田教授は、日野町事件第一次再審請求の即時抗告審において証拠として提出された、供述心理学の知見に基づいた鑑定意見書を書かれた方です。私は、この意見書を修習生の頃に熟読しましたが、これを読めば、なぜ犯人でないのに自白をしてしまうのかが深く理解できました。そして、この意見書が刑事司法関係者に広く周知されれば、少なくとも虚偽自白を原因とする冤罪防止には資するものと感じました。私は修習生のときの取調べ修習の体験を踏まえて、できるかぎりわかりやすく、「虚偽自白の理論」が伝わるように奮闘しました。聞いてくださった方がどのように思われたかは・・・。力量不足を感じた次第です。

四 救援学校に参加

 次に参加したのが、神戸で開催された関西国民救援学校です。そこでは、国民救援会の長く深い歴史について学習しましたが、講師の講演から国民救援会のスピリッツ、刑事司法の問題点などを学ぶ良い機会になりました。冤罪被害者に対する救援会の方々の親身となった「惻隠の情」に基づく支援には感心しました。

五 大津支部総会 講師活動と支部長就任

 その後、救援会大津支部の再建に向けた役員会議に三回参加し、総会の準備をしました。そして、四月一五日、琵琶湖に浮かぶ沖島(淡水湖の島に人が住んでいるのは日本では沖島だけで、世界的にも珍しいとのこと)にて、大津支部総会を開催しました。

 近江八幡の堀切港から船で渡った沖島は、ちょうど桜が満開で私たちを歓迎してくれました。大津支部の総会には、痴漢えん罪事件の柿木さんの奥さんや東住吉事件支援の関係者も参加され、支援を訴えられました。そして、総会では私が新たに大津支部の支部長に選任されました。

 総会の議事が無事に進行した後は、秘密保全法・共通番号制について、私が講師を務め、学習会をしました。もともと分かりにくく、一般的に浸透してない秘密保全法・共通番号制について、私の講演によって、ますます分かりにくくしてしまったかもしれないとの不安はあるものの、それぞれその基本的な内容と問題点は理解していただけたと思います。総会後は、もろこ・鯉等の川魚料理(玉木団員が絶賛する「鮒ずし」は私にはそれほどでもありませんでした)で懇親会となり、自己紹介や感想を出し合いました。参加者からは、「今日の学習会は勉強になり、よかった。普段新聞をよく読んでいないので知らなかった。」「自由な雰囲気で発言できて楽しかった。」「三月三〇日の日野町事件の再審請求と支援集会に参加したが、よかった。がんばりたい。」等の感想や意見が出されました。総会としては成功だったといえます。

六 今後の抱負

 弁護士としても人間としても未熟ものですが、今後国民救援会の活動を通じて成長できればと思っています。これからは、大津支部長として様々な冤罪事件の学習会などを企画・開催し、冤罪がなぜ起こるのか、冤罪を防ぐためには何ができるのかを自分なりに考え、運動を広めていきたいです。いつの日か、冤罪によって苦しむ人がなくなる世の中が来ることを願って。


*書評*

伊藤真「憲法が教えてくれたこと」が面白い

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 伊藤真さんは、「憲法の伝道師」を自認する人だ。ぼくは、彼の憲法講演を何度か聞いている。話は分かりやすいし、情熱的だ。彼の講演で最も印象に残っているのは、多数決原理と人権の関係を、「掃除当番を、毎日、伊藤君にしてもらいますと、多数決で決めることはできるでしょうか。」と説明した時のことである。ぼくは、なるほどと感心したことを覚えている。まさに「伝道師」の面目躍如というところだ。

 その伊藤さんから「憲法が教えてくれたこと〜その女子高生の日々が輝きだした理由〜」(幻冬舎ルネッサンス)が送られてきた。震災の復興や原発問題などで、憲法的視点が欠如している現状を憂い、この状況を改善し、憲法価値を実現するための一助になればと、駅伝チームに所属する女子高生の主人公が、憲法と出会うことによって、自らを成長させていくという物語を執筆したというのだ。

 これが実に面白い。主人公の女子高校生のナイーブさもいいが、脇を固める登場人物も息づいている。「年齢や性別を問わず、多くの方に憲法の素晴らしさを伝えられる内容になったと自負しております。」という著者の言葉に素直に肯ける著作である。

 登場人物は、高校一年生のうたことその家族、友だちなどだ。(特に面白いキャラは、「美しい日本語」を話すベトナム留学生のリンちゃんだ。)ヒロインうたこが、高校の陸上部に入って遭遇する様々な問題、例えば、茶髪に染めてきた友だちのこと、ヌード写真を教室に持ち込んだ男子生徒のこと、生活保護を受けている生徒のこと、原発事故で避難してきた友だちのこと、万引きをしたと疑われた生徒のこと、日の丸・君が代を受け入れられない友だちのこと、チームワークのこと、先生との軋轢などなどを、おじいちゃんとのメールのやり取りや、家族や友人たちとの会話の中で、悩み、考え、成長していく過程が生き生きと描かれている。おじいちゃんは憲法の条文を適切に紹介し、貧乏弁護士という設定のお父さんの説明も実に分かりやすい。伊藤さんは、おじいちゃんとお父さんの口を通して、「憲法の神髄」を伝えようとしているのだろう。

 この物語が成功しているのは、ヒロインが、単に、憲法を勉強して成長するだけではなく、陸上部での活躍も同時進行することだ。なんと、六人しかいない訳ありの陸上部が、都大路の高校駅伝大会で優勝してしまうのだ。いかにもでき過ぎというストーリーだが、ぼくには、AKBとタイアップして、青春映画にすればうけるのではないかと思えてならない。涙と笑いと感動があるのだ。伊藤さんは、一流のストーリーテラーだと思う。

 おじいちゃんは、ヒロインうたこに、入学祝として、新しいランニングシューズと日本国憲法の本を送っている。「この本は、大根にとっての畑だ。日本国民にとっての大地だ。うたこの大地が揺らぎそうになったときとか、もっともっと自分らしく自由に楽しく生きたなったときのお守りにして欲しい。」といメッセージが込められているのだ。(ちなみにおじいちゃんは大根作り農家だ。)うたこは、「もっと速く走れるヒントが書いてあるのかな」などと思う高校一年生なのだ。そのうたこが、都大路の優勝と先輩の卒業生を終えた後、おじいちゃんにメールを打っている。(彼女は早打ちが得意らしい。)「おじいちゃん、正直、私には憲法は分からないことばかりだけれど、自分の頭で考えることが大事だということはちょっとわかった気がする。…考えないと本当には自由に自分らしく生きていけない気がするから…。あとね、憲法が大地みたいなものだというなら、私たちって大地から空を目指して伸びていく樹みたいなものかな?」

 ぼくは、うたこは、最も大切なことを学んだのだと思う。一人の人間として、自由に自分らしく楽しく生きたいと思うなら、自分の頭で考えることであり、憲法は、そのことを保障しようとしているということである。

 伊藤さんは、あとがきの中で、このことを次のように表現している。「憲法は普段の暮らしの中で何時も応援してくれる味方なのだと知ってもらいたい。何よりも、『自分は今のままで十分に素晴らしいのだ』という絶対的な自信を持ってもらえればうれしいなと思っています。」

 ぼくも、「くらしに憲法を生かそう」をスローガンとして三十数年間の弁護士生活を続けてきた。だから伊藤さんのこの呼びかけには、心からの共感を覚える。ただし、ぼくには、「自分は今のままで十分に素晴らしいのだ」と思うことはできない。穢れや横着な気分に取り込まれているからである。けれども、「疾風怒涛の世代」には必要な激励であることは間違いないであろう。伊藤さんの、熱い情熱はいまだ衰えていないのであろう。ぼくは、若い世代はもとより、熱い気持ちが失せつつある(もともとない人も含めて)世代にもぜひ一読してほしいと思う。必ずや、リフレッシュできるし、良質な「回春剤」となるであろう。

二〇一二年五月一日記