<<目次へ 団通信1422号(7月11日)
松井 繁明 | ファシズムと「過去の克服」 |
日野田 彰子 | 「〜市民はえん罪を見抜く!〜えん罪と裁判員制度を考える市民のつどい」開催のご報告 |
秋元 理匡 | 最高検の再審請求対策に警戒を |
馬奈木 厳太郎 | 国と東電を被告とした集団訴訟を! 〜原賠法の枠組みを乗りこえて |
種田 和敏 | 陸自二三区展開訓練 災害訓練の衣を借る「首都制圧訓練」 |
飯田 美弥子 | 八王子革新懇話会の事務局長になりました。 |
板井 俊介 | 「頑張れ!小野寺信勝団員」 |
加藤 啓二 | *追悼* 寺島勝洋弁護士逝去 |
荒井 新二 | 雪原にて ―寺島勝洋君への想い |
東京支部 松 井 繁 明
ファシズムとは?
ファシズムの典型がヒトラーのナチスドイツとムソリーニのイタリアであることに異論はない。ヒトラーが主導したように思われがちだが、必ずしもそうではない。ファシズムという用語自体がムソリーニの党に由来し、ヒトラーがムソリーニの手法を真似たところもおおくある。ドイツとイタリアでは歴史的条件も異なり、二人の個性にも差があった。そのためファシズムの定義も抽象的にならざるをえない。
ファシズムが語られるとき、当然のことながらその暴虐性・侵略性が前面に押し出される。そうではあるのだが同時に、ファシズムの問題は、それを支持・許容し、抑止できなかったことにたいする悔恨・反省として語られることにもなる。
ドイツ
いささかヨーロッパ中心主義(ドイツ人の発想)の記述になるが、ドイツは地球の辺境にある途上国ではない。後進資本主義国だったとはいえ、カント(哲学)、ゲーテ(文学)、ベートーヴェン(音楽)の国である。その文明国の国民がなぜ、ナチスの独裁やホロコーストを抑止できなかったのか。ドイツ国民に深刻な課題をつきつけるものであった。
しかしそのドイツでも戦後、長期にわたってヒトラーとナチス党幹部による犯罪で国民は騙されていた、という考え方が主流であった。六〇年代後半にいたって「過去の克服」が訴えられるようになった。当時の政治家、経済界、官僚組織および教会がヒトラーを支持した責任は重いが、ユダヤ人の強制収容を目にしながら止めようとしなかった国民もまた、責任を免れることはできない、というのである。「過去の克服」によって政治、行政、司法、教育、文化などで大幅な改革がすすんだ。はじめのころ、ドイツ国防軍はナチスと相対的独立性を保ったとして評価する意見もあったが、ユダヤ人迫害に国防軍が手を貸した実態も明らかとなっている。
イギリス
ダンケルクでの敗戦からイギリスは、バトル・オブ・ブリテンの航空戦で勝利をおさめ、ロンドンをはじめとする諸都市への空爆やVI、VIIのロケット弾攻撃にも耐えぬくなど、ファシズムと最も勇猛にたたかった。しかしそれだけに、ヒトラーによるオーストリア併合にたいし一九三八年のミュンヘン会議で「宥和政策」を主導したチェンバレン(当時の英首相)にたいしては、きびしい批判がくだされている。台頭しつつあったナチスドイツにたいしヨーロッパ諸国は軍事力を行使して打倒すべきだった、というのが今日でも揺るがない歴史的評価となっている。
フランス
フランスは第二次世界大戦の緒戦のうちにドイツに敗北し、北部と大西洋側がドイツの占領地とされ、南部はヴィシー政権が統制した。
戦後ながらく、当時のフランスではレジスタンスが活動し、フランスの一般国民も、差こそあれレジスタンスに共鳴していたかのように描かれてきた。レジスタンスは称賛に値するフランスの名誉ではあったが、七〇年代になると、占領地では対独協力者たちが巨万の富を築き、ヴィシー政権下でも官僚主義がはびこるなど、「レジスタント神話」とは異なる実態がしだいに明らかにされてきた。独ソ不可侵条約のもとでのフランス共産党の限界も指摘せざるをえない。
アメリカ
アメリカはそのモンロー主義によって一九三九年からのナチスドイツによる侵略戦争に「中立」を維持し、四一年の日本によるパールハーバー攻撃ではじめてその制約を免れた。また、アメリカもホロコーストと無縁とはいえないという指摘もある。
旧ソ連=ロシア
スターリン独裁下の旧ソ連はヒトラーとの間に独ソ不可侵条約を締結した。コミンテルンの反ファシズム統一戦線を崩壊させ、旧ソ連西部の防衛を怠ってドイツ軍の侵攻を許し、ドイツによるホロコーストを黙認した罪は重い。ソ連崩壊後のロシアでも、スターリン主義は否定されたものの、こうした問題にたいし正面から議論されているようにはみえない。
日本
ドイツ、イタリアとともに三国同盟を結び、みずからファッショ国家となって、弾圧と侵略戦争をおこなった日本の責任はきわめて重い。にもかかわらず、この問題に真摯に向きあおうとしてこなかった日本の政治的土壌が、こんにちの橋下・維新の会の暴走を許容しているとしか思えない。
〈参考文献〉
石田勇治『過去の克服』(二〇〇二年、白水社)
アルフレット・グローセル(山本 尤外訳)『ドイツ総決算―一九四五年以降のドイツ現代史』(一九八一年、社会思想社)
河野健二『フランス現代史』(一九七七年、山川出版社)
京都支部 日 野 田 彰 子
一 今年の五月、裁判員制度は施行後三年、裁判員法第九条に基づく制度見直しの時期を迎えました。
京都では裁判員制度施行をきっかけに、自由法曹団京都支部、日本国民救援会京都府本部、京都マスコミ文化情報労組会議(京都MIC)、京都地方労働組合総評議会(京都総評)、その他十数の参加団体・協賛団体で組織される「裁判員制度を考える京都の会」が組織され、毎年この時期に、裁判員制度について考える市民のつどいを開催しています。
今年は、「〜市民はえん罪を見抜く!〜えん罪と裁判員制度を考える市民のつどい」と題して、五月二七日一三時三〇分から一六時三〇分まで、立命館大学朱雀キャンパスにてつどいを開催しました。
つどいでは、これまでにジャーナリストの大谷昭宏さんや江川紹子さんなどをゲストとしてお招きしてきましたが、今年はえん罪がテーマということで、痴漢えん罪事件を題材とする映画「それでもボクはやってない」の監督周防正行さんと、布川事件の桜井昌司さんという豪華なお二人を、パネリストとしてお招きさせていただきました。
また、今年は初めて立命館大学法科大学院との共催が実現し、立命館大学朱雀キャンパスという非常にアカデミックな場所をお借りして、つどいを開催することができました。
二 つどい当日は、くしくもかの名張毒ぶどう酒事件について再審開始の取消決定がなされた翌々日。ひとたび生まれたえん罪事件を覆すことが、いかに難しいものであるかを皆が感じる中での開催となりました。つどいのコーディネイターは京都支部団員の秋山健司弁護士が、そして司会は私日野田が務めました。
三 周防正行監督からは、「それでもボクはやってない」制作のきっかけとなった旧刑事司法制度への問題意識について、同映画の具体的なシーンに即して分かりやすくお話いただきました。九九・九%の高い有罪率に慣れきってしまった職業裁判官とは異なり、裁判について素人であり人を裁くことに畏れを抱いている裁判員は、無罪推定という刑事裁判の大原則に忠実に判断する傾向があり、そのことが従来の刑事裁判を大きく変化させる可能性を有しているのではないかと、裁判員制度への期待を述べられました。
また、法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」委員として、同会における議論状況などにも触れていただきました。
桜井昌司さんからは、具体的な取り調べの様子、法廷での審理の様子などを交えながら、検察官と職業裁判官がいかにして無辜の一般市民を犯罪者に仕立て上げていったかを、真に迫ったお話で伺うことができました。名張毒ぶどう酒事件について話が及んだ際には、自らが無実を訴えてこられた長い時間を振り返られ、数多くの温かい支援があったからこそ耐えてこられたと涙される場面もありました。
自らの裁判において裁判官から有罪ありきの扱いをされ、「裁判官なら無実を分かってくれる」との期待を裏切られた思いであったと述べられたうえで、常識的な感覚を失っていない裁判員であれば、きっと自分の無実に気づいてくれたし、異なった判断をしてくれたのではないかと振り返っておられました。
四 パネルディスカション終了後、参加者の市民の皆さんから周防監督、桜井さんに対して個別に質問をする時間を設けました。死刑制度に関する質問や、獄中体験に関する質問、また、現に痴漢えん罪事件で係争中の当事者の方からの質問等もなされました。
アンケートの結果、えん罪が誰にでも起きうる身近なものであることや、裁判員制度が従来の専門家による有罪ありきの裁判を正し、えん罪防止の効果を期待されていることなどを、よく理解できたとの積極的な意見が多数寄せられました。えん罪問題や裁判員制度について、参加者の皆さんにより深い問題意識を持っていただく、大変有意義な機会にすることができたと考えています。
京都支部ではこれからも「裁判員制度を考える京都の会」の活動に積極的に賛同・参加し、定期的な集会開催により、裁判員制度について市民にアピールしていく機会を設けていきたいと考えています。
千葉支部 秋 元 理 匡
一 再審の動きを受けた検察庁の対応
一二年六月二日付け朝日新聞に「再審請求対策 担当検事ら集め初会合へ」と題する記事が掲載された。このところ、足利、布川、福井、東住吉、東電OLと、再審開始決定が相次いでいることを受け、担当検事の経験を報告し、今後の対応を話し合うのだという。
足利事件では無罪論告をし謝罪もしたうえ独自の(不十分な)検証をした検察だったが、布川事件では有罪論告をした上「改悛の情がない」とまでいい、無罪判決以来一年検証をするそぶりも見せていなかった。それなのに。
二 かつての死刑再審事件のときの対応
最高裁が白鳥決定(七五年五月二〇日第一小法廷)と財田川決定(七六年一〇月一二日第一小法廷)が「疑わしいときは被告人の利益」が刑事裁判の鉄則であって再審にも適用されること、そして「確定判決における事実認定につき合理的疑いを生ぜしめれば足りる」ことを確認し、その後、免田、財田川、松山、島田のいわゆる死刑再審四事件含め重大事件で次々と再審開始・無罪となった、というのが、再審に関する教科書的基礎知識である。
当時、これに危機感を抱いた最高検察庁は『再審無罪事件検討結果報告―免田・財田川・松山各事件』を作成している。その内容は、法律時報六一巻八号八五頁以下に「誤判問題研究会」名で紹介されているが、最近になって「誤判・冤罪防止コム」(www.enzaiboushi.com)に全文が掲載された。そこには「再審請求の理由として主張されている事実との関連性を問うことなく、不提出記録の全部を開示するようなことは許されない」などというように、冤罪をつくったことではなく証拠開示をしたことに反省をせよということが書かれている。
九〇年代以降、「再審冬の時代」といわれる時期が続く。それにこの最高検報告書や検察庁全体さらには裁判所の動きがどう関わるのかの解明は、私の手に余るのでひとまず措く。ここでは、再審の活性化・最高検の対応・再審冬の時代、という時系列だけ確認する。
三 捜査過程の解明と証拠開示への抵抗
再審を認めるかどうかは、対裁判所では「判決の安定」と「無辜の救済」の相克、対検察では「捜査・公判の無謬性」と「無辜の救済」の相克といえよう。捜査―公判―二つの上訴審を経た過程の無謬性を維持しようとすれば再審を狭く捉えることになるし、「無辜の救済」を実現しようとすればその逆のベクトルが働く。
そして、この「無謬性」ベクトルは新証拠の重視という形で現れがちである。新証拠に高い証明力を要求し、確定判決の有罪認定の根拠となった旧証拠には立ち入らせない。検察庁の活動に引き直せば、捜査段階での不当な供述獲得、公判段階での証拠隠しなどの不当な活動に立ち入らせないということになる。
翻って、先の朝日新聞の記事に戻る。この記事は、警察または検察の幹部による「今後は科学的な視点をさらに養い、有効な反論をしていく」というコメントで締めくくっている。足利事件や東電OL事件でのDNA型鑑定を指していると思われる。布川事件の再審公判では検察官が求めたDNA型鑑定は採用されなかったが、まさかそのことが敗因だと総括するわけではないだろうと思いたい。布川事件は、事件と再審請求人らを結びつける物証がなく、虚偽自白とあやふやな目撃証言だけで有罪とされたものであって、証拠開示の進展が無罪立証に大変役だった。ここで検察庁が反省するべきは科学論争に負けたことではなく過去の捜査・公判活動であることは明白である。
確かに再審開始の要件としては新規証拠が要求されているが、捜査・公判段階で適正な活動が行われていれば再審に至る必要はなかったはずである。田中輝和東北学院大教授の『刑事再審理由の判断方法』では、弘前事件や松山事件を題材に確定一審の弁論要旨と再審無罪判決の共通性を指摘されており、再審で新証拠が要求される意味を考えさせられる。
四 なぜ検察庁は検証をしようとするのか
冒頭の朝日新聞は「『再審開始が増えて捜査機関への信用が低くなれば、治安維持の点から問題だ』という認識が検察内部にはある。」とも報じている。語るに落ちた。警察の「治安維持」活動なるものは、供述を捻り出し、公判で糊塗することによって成立しているのであって、裁判が確定しても不服を申し立てる再審が広がったのでは困るという話である。
このような目的から検証をするというのであれば、捜査・公判の問題点を極力ネグレクトし、新規証拠による科学論争に問題をすり替える懸念なしとしない。
冤罪救済に取り組む弁護士層が、同じように取り組む救援会等の市民団体や研究者とともに、現段階の再審の有り様を体系的に整理し、橋頭堡を共有すべき時期が来ているのではないか。それが、「これ以上は後退しない」という不可逆点を固定化し、今なお冤罪で苦しんでいる人たちの力にもなると考える次第である。
東京支部 馬奈木 厳太郎
一 集団訴訟の構想とその意義
先の五月集会や団通信一四一九号で、すでに南雲芳夫団員からも提起があったように、現在、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団では、国と東電を被告とした集団訴訟について検討し、その具体化に向けた準備を進めている。
この集団訴訟は、東電と国を被告とするものである。訴訟の核心は、原状回復を目指す点に存するが、政治的な意義としては、今回の事故についての国の法的責任を追及し、認めさせる点にある。原状回復を行わせるためにも、健康被害や生活再建に対する対策をとらせるためにも、その前提として国に法的責任が存するのか否かは、対策の構えや内容に大きな差異をもたらす。また、法的責任が認められるか否かは、今後のエネルギー政策の動向を大きく規定することにもなるはずであり、その意味では脱原発の取り組みの一環として位置づけられるものである。
国と東電を被告にする場合、原賠法の扱いが一つの論点となる。原賠法は、「被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発達に資することを目的とする」という第一条の規定に照らしても、人々に被害が生じても原発を続けることを謳ったものであると、弁護団ではその政治的な性格をとらえている。いわば、“金を払うから操業させろ”という宣言である。そして、その宣言は、被害者を金で黙らせるという発想によって支えられている。その法的仕組みが、責任集中であり、無過失責任であり、国の援助規定なのであり、原発事故と相当因果関係のある被害が生じれば、過失の有無を問うことなく賠償する、その主体は事業者に集中させるので国は賠償主体とはならない、ただし賠償原資は国が援助するという関係になっている。その結果、東電は、賠償主体ではあるものの、過失の有無が問われないがために、かえって行為の悪質性を自覚する契機を逸し(あるいは契機から免れ)、原資の多くも国から提供されるため経済的な痛みも伴わず、あたかも事故に対するあらゆるレベルの責任から解放されたかのような観を呈している。同様に国も、原資の提供にとどまることで、その責任が曖昧なままにされている。弁護団では、今回の訴訟を通じて、こうした原賠法の枠組みを乗り越えたいと考えている。
もちろん、かかる政治的な性格と法的解釈とは、団通信一四二〇号において近藤忠孝団員が指摘されているように、峻別される必要がある。法的解釈としては、原賠法が無過失責任を定めているのは、原発が広範で甚大な被害をもたらす危険性を内包するものであり、事故により被害が生じた場合、その被害は原発そのものが内包する危険の現実化に他ならないことから、過失の有無を問わず完全に賠償されなければならないという趣旨であると解されるのであり、同規定が、被害者側の立証負担の軽減を越えて、故意(過失)・有責性の看做し規定でもあるか否かについても、同趣旨の規定を有する鉱業法や、原賠法の立法事実・立法趣旨などを吟味し、鉱業法との異同が検討されなければならない。
二 分断と対立を超えて
国や東電は、事故以来、自ら損害の範囲を決め、損害の水準をも決定してきた。加害者が、誰が被害者たりうるか、どの程度の賠償が適当なのかを、被害者に一方的ともいうべき方法で押しつけているのである。圧倒的な力をもつ加害者の前で、被害者はこの間、加害者の設定した枠組みに取り込まれ、あるいは踊らされてきたといってもよい状態に陥っている。そうしたなか、一部には、本来の相手を見失い、被害者同士のなかでの分断も見られる。加害者が一方的に線引きした土俵に、被害者が知らず知らずのうちに上がってしまっているのである。
また、放射線リスクや国の不透明・不十分な情報提供に対する不信も相まって、事故前の居住地から避難する者もいるが、多くの者は様々な事情から事故前の居住地にとどまっている。避難した者ととどまっている者との間でも、分断と対立が今日生じているが、こうした分断と対立自体が一つの被害なのであり、その克服もまた一つの原状回復ということになる。弁護団としては、避難した者もとどまっている者も、国や東電が被害者として扱っている者もそうでない者も、連帯して取り組むことが不可欠であると確信している。そして、この集団訴訟では、いずれの者もが原告となる資格を有しているのであり、勝訴のためにもいずれの者も原告となることが必須なのである。
もっとも、避難区域内からの避難者や、放射線リスクを恐れ避難した人々のなかには、原状回復、とくに除染に対するあきらめや不信感が強いのも事実である。弁護団が参加する説明会などにおいても、「山林も多いし除染は技術的に困難なのではないか」、「私の家は原発から六キロ。除染などできないだろう」、「除染しても結局のところ拡散させているだけではないのか」といった疑問や意見が寄せられている。この点について、弁護団は、この集団訴訟が原状回復を第一義に掲げていることの意義、すなわち、被害救済の原理的な理念からしても原状回復が本来の姿であること、国の法的責任を明らかにするということに重要な意味があること、要求を実現させるためにも国の責任を認めさせる必要があること、技術的にも除染が困難ということなのであればそれだけに加害責任の重大さと生活再建のための対策が求められることを追及しなければならないこと、金銭賠償による個別救済だけを旗印にしても運動のスローガンにはならずかえって金額の多寡が分断の契機となりうることなどを説いてきたところであるが、引き続き、なぜ原状回復を求めるのかという原点ともいうべき根源的な要求を訴えていくことで、より多くの共感と協働を得ていきたいと考えている。
三 先達のたたかいに学んで
今回の事故に関して、国を被告とし、国の原子力行政にかかる責任を追及する点で、この集団訴訟は、最初の訴訟となるはずである。これまで多くの団員が、四大公害訴訟をはじめとする公害闘争にかかわってきたが、私たちはそうした先達の取り組みから多くを学ばなければならない。
団通信一四二〇号では、近藤団員が、“謝らせない”たたかいについて述べられていたが、“言葉だけの謝罪”など受け取らない、謝罪させないという取り組みからは、私たちとしても大いに学ぶべきである。東電は、「ご被害者のみなさま」(東電請求書の記載)、「みなさまにご心配とご迷惑をおかけし」(東電交渉などでの冒頭の社員のお決まりのフレーズ)、「もしもし、ご迷惑をおかけしております。こちらは福島原子力補償相談室です」(東電オペレーターが受電したとき開口一番に発する文句)など、この間、“言葉だけの謝罪”とすら呼べない態度で被害者に接してきた。そうした東電に対し、“言葉だけの謝罪”を求めても意味がないのは、近藤団員のご指摘のとおりである。原状回復こそが真の意味での謝罪の態度だということを肝に銘じ、今回の訴訟に取り組んでいきたい。
この訴訟の意義を広く世間に訴え、強大な原告団と強大な弁護団、そして強大な支援組織を組織することが、弁護団の当面の最大の課題となる。「生業を返せ、地域を返せ!」をスローガンに、被害者の方々とともに全力を尽くしていきたい。
東京支部 種 田 和 敏
一 はじめに
七月一六日夜から一七日朝にかけて、陸上自衛隊が災害対処訓練と称し東京二三区の全域で徒歩等により部隊を展開する訓練を実施することが、六月二七日に判明しました(以下「本件訓練」といいます。)。本件訓練は、そもそも災害訓練の衣を借りた「首都制圧訓練」であり、道路交通の安全等の観点からも、住民としては反対をせざるを得ない内容といえます。以下で詳述したいと思います。
二 本件訓練の概要
まず、表向きの訓練目的は、「首都直下型地震発生時において車両での被害地域への進出が困難な状況を想定した徒歩による部隊展開要領等を検証し、部隊運用の実効性向上を図るとともに、災害派遣の見直しに資する」ことです。訓練の参加人数は全体で三二〇人を超え、市街地を徒歩等で移動するのは二五〇人にも上り、二名から一五名に分かれて区役所や公園などに向けて前進します。服装は迷彩服で、訓練中の表示はヘルメット側面に「訓練実施中」と記載されているにすぎません。
また、訓練の開始時間は七月一六日午後七時で、練馬駐屯地を出発して幹線道路や繁華街を通行して、被害状況などの情報収集訓練を行う計画です。翌一七日午前中には、徒歩で到着した一部の隊員が区役所等に立ち入った上で通信訓練を実施することとなっており、通信訓練場所に到着後、隊員は区有施設内での宿泊又は同施設内に駐車した自衛隊車両内での宿泊が前提となっています。
三 本件展開訓練の問題点
以下では、日本平和委員会の防衛大臣宛要請書を参考に、本件訓練の問題点等を検討したいと思います。
(1)目的・ねらい
まず、本件訓練は、二三区全域に大規模に部隊を展開するという過去に例がないものであり、先月、板橋区・練馬区で陸上自衛隊によるレンジャー訓練として、武装市街地行進が強行されたのに続くものとして、首都東京の市街地での自衛隊訓練の恒常化を意図したものではないかとの疑念を抱かざるをえません。
また、本件訓練は、「災害対処」を名目にしていますが、(1)一般都民は全く参加せず関係自治体もほとんど関与しない自衛隊単独の訓練であること、(2)戦闘作戦と同様の手順で市街地において訓練が行われること、(3)関係自治体に直前まで知らされないまま計画されたことなど、自治体などが行う通常の防災訓練とは全く異質のものです。これまで実施されてきた「災害対処訓練」は国や自治体との合同の総合防災訓練に合わせて行なわれており、別の日時で自衛隊が主導しほぼ単独で実施するのは今回が初めてです。このような訓練は、自衛隊の災害出動が関係自治体からの要請を前提にする自衛隊法の建前に反する不当なものといえます。
さらに、本件訓練には、偵察、初動対応部隊の活動拠点への進出、区役所と自衛隊との連絡調整や状況把握のための連絡官派遣、通信確保の訓練などが盛り込まれていますが、これらは自衛隊の対ゲリラ、特殊部隊への対処と共通した内容を含むものです。「災害派遣は、有事の際に部隊を動かすためのシミュレーションを兼ね備えている。災害でも防衛出動でも非常呼集をかけて非常勤務態勢に突入し部隊を動かすという意味は同じであり災害任務は自衛隊部隊の練度維持となっている」との専門家の指摘もあるだけに、本件訓練が「災害対処」だけでなく、各種事態に備えた市街地での軍事訓練のねらいがあるとの疑念をぬぐうことはできません。
本来、災害対処の体制整備は、自治体の防災体制の抜本的整備や消防・レスキュー・緊急医療体制の抜本的強化などにこそ力を注ぐべきであり、戦闘を本来任務にした武力集団である自衛隊が中心になる課題ではないと考えます。
なお、練馬平和委員会によると、平成一八年五月一一日付けで、自衛隊から練馬区や近隣町内会に対し、地震災害等に備え日没後のヘリコプターによる離発着訓練を行うというお知らせがあったところ、その後、訓練の命令書の情報公開を求めてみると、出てきた資料には災害訓練の文言はなく、ゲリラ戦闘訓練と記載されていたということがあったそうです。私は、都合の悪い事だからこそ国民には知らせず秘密裏に既成事実を積み上げ、ときにはウソまでついて「地ならし」を進めているのが自衛隊の現状だと認識しています。
(2)道路交通の安全
まず、迷彩服は夜間では識別しにくいものであり危険であるにもかかわらず、本件訓練の計画書において、特に訓練に参加する隊員以外に住民と隊員の安全を確保する保安員が随行する内容にはなっていません。そもそも、迷彩服は戦闘用の服装であり、災害出動においてはむしろ識別困難なため不適切であるにもかかわらず、本件訓練でも迷彩服を着用するとなっています。
また、前述のとおり訓練中の表示は、かなりの至近距離でないかぎりは識別することが困難ですし、正面からはその表示を読むことができないばかりか、訓練実施時間帯が夜間であることを考えると、訓練中の表示を識別することは不可能といえます。
さらに、各区役所や公園を目的地とするため、必然的に繁華街や人通りの多い道路を通ることになるところ、練馬駐屯地のある練馬区やその周辺区を隊員が通過する時間帯は、多くの住民がちょうど帰宅する午後七時から午後一〇時です。それにもかかわらず、自衛隊からは本件訓練についての情報が住民に周知されたことはありません(七月四日現在)。
(3)区有施設の使用
本件訓練の内容には、七月一六日の夜に、迷彩服を着用した隊員が区役所等区有施設で宿泊すること、又は区有施設に迷彩塗装をした車両を駐車させその車内で宿泊することを含んでいます。また、一七日の午前中には、区有施設での通信訓練が予定されており、その実施時間帯は平日で区民が施設を利用する時間と重なります。そうだとすると、そもそも区役所には夜間でも戸籍の届出等で区民が来所することもあり、来所した区民が迷彩塗装の車両を目にしたら何事が起きたのかと不安に思うことは容易に想定されます。また、実施時間帯を遅い時間に変更したり、近隣の自衛隊施設に車両で移動した上で宿泊すれば、区有施設を使用しなくとも訓練の実施に支障はないことから、区有施設内での宿泊や車両の駐車はそもそも必要ありません。加えて、迷彩服を着た隊員が区有施設に出入りし、その利用者と遭遇することも予想されることから、住民に対し不要の精神的ショックと不安感を生じさせることも考えられます。
四 行動予定
以上の問題点を指摘した上で、平和委員会を中心に二三区全体の住民の方々と一緒に、本件訓練が自衛隊単独の実施という点で自衛隊法の趣旨に反することを理由に本件訓練を中止すること、本件訓練を実施するとしても、市街地で迷彩服の着用はやめること、安全保安員を同行させること、訓練中の表示を一見して識別可能なものにすること、実施時間帯を深夜(午後一〇時〜五時)に変更すること、住民に対する訓練実施の広報を周知徹底することなどを防衛省等に対して要請行動を行う予定です。
自衛隊の暴挙を許すことなく、白日の下にさらし、住民の皆さんと平和を守るため闘っていきたいと思います。
東京支部 飯 田 美 弥 子
一 「革新懇」か「九条の会」か
古希の表彰も済んだ斎藤展夫団員から、「八王子革新懇」か「八王子九条の会」かどちらかを引き継いでもらいたい、と話を受けた。どちらにしよう?
私は、革新懇を選ぶことにした。
二 期の若い団員は、どのぐらい「革新懇」を知っているだろうか?
「九条の会」が、二〇〇四年六月、時の政権党である自民党による改憲の動きに抗して、結成されたのに比べ、「革新懇」(正式名称「平和・民主・革新の日本を目指す全国の会」)は、一九八一年結成である。
結成の契機は、前年八〇年一月一〇日の「社公連合政権構想」(一般に、「社公合意」と略称される。)にある。これにより、社会党は、それまでの社共共闘・革新統一の路線から、共産党排除へ転換したのだった。
三 少し私の青春の思い出に付き合ってもらわなければならない。
かつて、社会党が、自衛隊は違憲だが合法的な存在だという「違憲合法論」というものを提唱したことがあった。石橋正嗣委員長の「現実路線」の結実であった。八六年六月、社会党は総選挙敗北。石橋氏は引責辞任。
次に社会党党首となったのは、土井たか子氏だった。憲政史上初の女性党首であった。彼女は、従来から、護憲派として知られ、女性差別撤廃の旗頭でもあった。
八九年総選挙で、社会党は、改選議席の倍以上を獲得。そのとき、彼女は、眼前にひしめき合う取材陣に対し「山が動いた」と確信に満ちた口調で応えた。それは、自立した女性の一つの姿として、喝采を浴びた。「おたかさん」ブームが起こった。
社・公・連合の会・民社党の四党連合は、このときの国会に、消費税廃止法案を提出する。自民党が多数を占める衆議院で廃案となったが、一定の「革新的な」動きがあったことは事実だった。
しかし、先の選挙のときから、おたかさんブームに乗じた、社会党の女性候補擁立策に、私は違和感を覚えていた。女性候補なら当選し易いとして「マドンナ候補」と呼ばれた。それは、女性差別の裏返しではないのか、と感じていたのだ。
案の定、候補者選定をめぐって、他党との調整や党内の人事で揉め事が多発。おたかさんの組織活動の弱さが指摘された。九一年統一地方選挙で、社会党は敗北。おたかさんが引責辞任した。
九三年総選挙で、社会党そのものは敗北したものの、細川内閣に与党として参加した。おたかさんは、女性初の衆議院議長となった。
九四年、社会党は、自民党・新党さきがけと連立政権を組んだが、それでも、翌九五年参議院通常選挙でまたも敗北。社民党と改名し、おたかさんが、再び党首に擁立されたのだった。
政治家としてのおたかさんを思い出すと、やっぱり、学者であって、生活の実感が乏しかったのではないかな、と思われてならない。ブームはあったけれど、党として、筋を通すことができなかった。「マドンナ」という扱いの限界だったような気もする。
四 さて、平成元年生まれの我が息子にとっては、社民党がかつて社会党という名前であったことさえ「歴史」である。おたかさんも、「日本の憲政史上最初の女性党首は誰?」という歴史クイズなのかもしれない。
社公合意は遥か昔、社共共闘なんて時代があったの?の世界である。
二大政党制がいいと言われた。自民党がいやで、民主党に投票した。山は動いたはずだった。しかし、今や、民主党は、自民党より悪くなった。自民党から、「いつまでマニフェストに拘っているのか」と非難されて、民主党は、党内分裂を回避するのに汲汲としている。
どこに投票すりゃいいんだ。どこに投票したって同じだ。誰も、本当に国民のことなんか考えてないんだ。いっそ、維新の会がよかろうか。
息子のニヒリズムが悲しい。
息子よ。母もかつて(高校生のころ)、新自由クラブという新しい政党に期待したことがあったのよ。党首・河野洋平氏は、後に、自民党にお戻りになりましたっけ。目新しさだけで選んではだめだよ。
確かに、「政治革新」の道筋は、社会党が存在した頃より、今の方が見えにくいように思う。
でも、政治革新を願ってずっと活動を続けてきた人達はいたのだ。その経験(成功も失敗も)を生かすべきではないのか。
何ができるかわからないが、私の世代が、「平和・民主・革新の日本をめざす」活動を、若い世代に引き継ぐ役目を果たさなければならない、と思うに至ったのである。
同世代の皆さん、ともに青春時代を伝える活動をしませんか?
二〇一二・七・二
熊本支部 板 井 俊 介
二〇一二年四月より、わが熊本中央法律事務所に属していた小野寺信勝団員が当事務所を退所し、市民共同法律事務所(京都弁護士会)に籍を移すことになった。
数名の弁護士が共同で活動・経営する事務所から、ある団員が「独立」することはままあるが、いわゆる「独立」ではなく、事務所自体を移ることはそう多くないと私は思っている。この度の移籍については、小野寺信勝団員が熊本に残ってもらうことができなかったことについては、私どもの力不足を感じているが、この場を借りて心からのエールを送りたいと思う。
私と小野寺信勝団員は、立命館大学の民主的受験サークルである立法会(りゅうほうかい)で知り合った。ちなみに、立法会出身の合格者は約六〇名おり、ほとんどが団員となって全国で活躍している。私と小野寺信勝団員は、二人きりで答練を繰り返し、受験勉強に疲れた時には酒を飲みながら将来の合格を誓い、「いつかは、二人で先進的な事件に取り組もう」と励まし合った。
合格した小野寺信勝団員は、元来、北海道札幌の出身でありながら、名古屋、京都からの数あるお誘いを断り、この熊本の地において弁護士としての第一歩を踏み出したが、その在野法曹としての活躍は誠に目を見張るものがあった。
小野寺信勝団員の功績としては、第一には外国人研修生・技能実習生訴訟における獅子奮迅の活躍である。当時、全国各地で苛酷な労働実態が明らかになりつつあった外国人研修生・実習生の「労働者性」を認めさせ、受け入れ仲介一次団体の損害賠償責任を高裁レベルでは全国で初めて勝ち取った。
また、この裁判上の活躍は勿論のこと、外国人研修生・実習生全国弁護団連絡会議の共同代表として、制度見直しの政策提言の場面でも重要な役割を果たした。まさに、「地方から全国へ」の格言を体現した人物である。
小野寺信勝団員の第二の功績として、私たちの身近にある労働事件に対して、小野寺信勝弁護士は全人格を費やして心血を注いで取り組んだことである。熊本地裁に係属していた労働審判事件の半数近くが、小野寺信勝団員が担当をしていたことも事実である。彼は、いかなる労働事件であっても、労働者の人生の問題として真正面から向き合い、ともに闘い、ともに喜び、ともに泣いたのである。思い出深いのは、過労うつ病を患った労働者が安全配慮義務違反に基づき企業に慰謝料請求をした事件で、私とともに会社代表者らを尋問した結果、東京高裁から赴任して来た、労働者に厳し目の裁判官の下で、二五〇〇万円の一括支払いの慰謝料を勝ち取ったことである。
受験時代に苦楽を共にした人物と、合格後も一緒に社会的活動に取り組めることなど、そうあるものではない。受験時代に約束した「先進的な事件」への取組は一つに止まったが、それでも、私にとっても大変幸せなことであった。心からお礼を申し述べたい。
彼にとっての新天地である京都の市民共同法律事務所でも、熊本で培った在野魂を遺憾なく発揮することは間違いないと思うが、最後にもう一度、地縁もない熊本の地で闘った小野寺信勝団員にエールを送りたい。
フレー!フレー!小野寺信勝!
どこにいても、心はひとつ。今後とも頑張ろう。
*追悼*
山梨県支部 加 藤 啓 二
一 当事務所所属寺島勝洋弁護士(一九四四年一〇月二八日生、二二期)が、本年六月二七日未明に亡くなりました。六七歳でした。
寺島先生が弁護士になったのは一九七〇年、東京の三多摩法律事務所に入所しました。そして、一年後の一九七一年九月、民主勢力に請われて甲府に初めて自由法曹団の事務所をつくりました。一緒に連れてきた事務局員二名はいずれも三多摩法律事務所の所属でした。事務所を設立してから寺島先生は民主勢力の顔として、選挙や大衆運動に名前を連ね、活動を始めました。また、弁護士会活動の分野でも同じような年代の会員の皆様とともに会務に取り組みました。一九八三年(昭和五八年)、一九九一年(平成三年)と、二期山梨県弁護士会の会長も務め、一九九二年(平成四年)には阿部三郎日弁連会長の下で四七歳という年齢で副会長を務めました。その後も日弁連坂本事件対策本部の事務局長などの活動に従事し、オウム事件管財人の常置代理人も務めました。
二 しかし、その頃から脊髄小脳変性症という原因不明、治療方法不明の難病が寺島先生の体を蝕み、一九九八年九月から一切の活動を停止し、治療に専念することになりました。従って、実動の弁護士歴としては二八年間余ということになります。しかし、その二八年間は実に濃密な二八年間でした。携わった事件を挙げてみても、東京電力渡辺事件、東京電力人権侵害賃金差別撤廃訴訟、自交総連の権利闘争、国労闘争などの労働事件、辰野事件、動労事件などの刑事弾圧事件、北富士闘争、行政訴訟、オンブズマン運動がらみの一連の訴訟などなど、実に多岐に渡るものでした。
三 どの事件においても寺島先生は弁護団の中核であり、裁判所にも一目置かれる存在でした。ある裁判官が言っていました。「どちらを勝たせるか迷った時に、もう一度寺島先生の準備書面を読み返すとスーッと判決が書ける」、尋問技術にも長けていました。特に反対尋問は司法修習生や若い弁護士のお手本となっていました。法廷における異議の出し方も巧みでした。緊張した法廷の尋問のなかで寺島先生が異議を出すと一瞬にして尋問は止まり、裁判官が寺島先生の異議の内容と理由を聞いていました。
四 この一四年間、寺島先生は病気と闘ってきました。さすがにこの一年ぐらいは体力は落ちてきたなあと感ずることもありました。しかし、頑張って生き抜いて、再来年の自由法曹団古稀祝を貰おうと話をしていたところでした。痛恨の極みです。
寺島先生が難病に罹患された後、全国の自由法曹団の皆様から寄せられた励ましの言葉やお志に心より感謝を申し上げます。
東京支部 荒 井 新 二
雷鳥沢は例年にない雪の多さであった。六月二六日の夜は、円転する虚空の星の群れが雪の原に設営したテントに降りてくるような近さにあった。訃報を知らせるメールは、翌日飛び込んできた。その日は寝つかれず、うつらうつらする間に星は通り過ぎていったらしい。剣山はあきらめて、青春時代に寺島と登った山を見ようとしたが、視線は遙かそこまで届かなかった。雪原のうえはしんと静まりかえっていた。
寺島ははじめて私たちの前に現れたとき、検事志望をあきらめ、不正義を真に憎むから弁護士になると語った。尚武の風があり、日本刀を愛した。小説でいえば、孤高の剣士のような趣であった。三多摩法律事務所に入ったが、同期(二二期)の飯塚、仁籐のウルサ型先輩に太刀打ちできる者は、寺島ぐらいであろうと当時思ったものである。
弁護士になると同時に、辰野事件弁護団に何の因果かふたりで入ることになった。弁護団の末席を汚す、というより、一軍の選手団に入れられた育成選手のようなものだ。裁判闘争は既に沸点に達しており、間近に先輩弁護士の充実ぶりを見ることができ、益するところ多かった数年間であった。寺島にとっては、それが機縁となって甲府に合同法律事務所をもち結婚もしたのだから、人生の重大な岐路となったと言える。ひとりで合同事務所を開くのは変だし、若すぎはしないのかと、将来がぼんやりと曖昧であった私が訊くと、皆が応援してくれるから心強い、大勢の人の期待にそって動かなければいけない、と彼らしい答えが返ってきた。
市内の大きなホールでの結婚式で私は閉会の辞で「本日はご苦労様でした、またどうぞ宜しくお願いします」と失言し、寺島から大目玉を食らった。奥様の享子さんは、医者の娘さんらしい、きりっとした美人であったから、彼が少し寛容になれなかったのも無理はなかった。罪滅ばしではない。生前言わずじまいになったが、亡妻が「あなたの弁護士のお友達でいちばん偉いのは寺島さんです」と言っていたことをここで告げておきたい。
甲府市にひとりで、若くして法律事務所をつくることがどのようなことか、事件にどうぶつかっていったかは、私には正直言ってよく分からない。そのことを語るに適した方々がおられるであろう。時たま会う寺島からは、自然の豊かな地にあり、多くは年上の、様々な人々とともに行動をすることの楽しさと苦労を聞かされたが、大人(たいじん)の風格が備わってきたという印象が私には眩しかった。絶えざる活動のうえに山梨県弁護士会の会長などの重責を度々引き受けて地元の信頼を集め、日弁連の阿部会長・堀野事務総長執行部に副会長として連なった。より強い信頼とより高い任務が自ずと向こうから押しよせてきて、彼なりの流儀で正念をもって応接してきたと言うのは間違っているだろうか。
九〇年代前半膠着状態にあった拘禁二法(留置施設法・刑事施設法)問題で、弁護士会で市民集会を行ったことがあった。副会長であった寺島は日弁連代表として挨拶してもらった。東京の活動家たちを前にして堂々とした、集会の意義を的確に射抜いた演説に私は心底驚いた。その夜の美酒の味は忘れがたい。あの時私は、ああ寺島は自己の革新・人生の再構成を見事に果たしつつあるのだな、と感嘆したのだと思う。
それから程なく寺島から厄介な病気を背負い込んだという一報があった。民医連の医者が懸命に調べてくれているが、どうやら治療法がないみたいだとの話であった。運動機能の、恐るべき着実な減退が予知された。彼がどのような自己の歴史を豊かに形づくっていくか、その期待がいやおうもなく膨らんでいく矢先の、なんたる暗転かと嘆じた。なんとも慰めようがなかった。憎みてあまりある病であった。
その後のながい闘病生活に触れる気持は現在の私にはない。加藤啓二団員をはじめとした甲府合同法律事務所の面々の献身、三多摩・八王子・日野法律などの団員諸氏と二二期の弁護士たちの友情に敬意を表すのみである。ただ伝えておきたいことは、身体の漸進的な弱化にもかかわらず、寺島の頭脳は明晰さを維持したということである。
団の憲法施行五〇周年記念論文集「憲法判例をつくる」では、東電の政党所属調査強要事件(渡辺令子さん事件)の執筆してくれ、その原稿をモデル案として活用させてもらうという不躾な願いも快諾してくれた。見舞いに行くと、読んでいた団通信などを話題にした。率直な感想、的確な判断を示したし、団の活動の機微をよく知っていた。私は、そのことが嬉しく、団の全国集会の折などに、行った先々の土産を送り、地元の香りと雰囲気が少しでも伝わるようにした。が、そうしている間にも、奥様からほんの少しいただきましたとの連絡をもらうことが多くなった。それがちょっぴり口をつけていました、に変わり、そして次第に、臭いだけ、寄せ付けません、との話になった。どうぞ気にしないでそうしてください、との奥様の言葉に迷いながらも、切なくて送ることをやめた。
いま寺島は病いからやっと解放されて口許も自由になっただろう。これからは、心ゆくまで味わってもらいたい。集会の土産を送ることを再びはじめようと思う。