<<目次へ 団通信1429号(9月21日)
静岡県支部 大 橋 昭 夫
一次から四次にわたり、一八一名の原告が静岡地方裁判所浜松支部に浜岡原発運転永久停止訴訟を提起しています。
現在、原告になっている者は、浜岡原発の立地している御前崎市を中心とした静岡県西部地域の住民ですが、弁護団としては、玄海や泊の裁判にならい、今後、静岡県中部地域、東部地域からも多くの原告を募り、第五次訴訟を年内に、第六次訴訟を来年に提起する予定です。
第四次までの訴訟は、中部電力のみを被告としていましたが、第五次訴訟からは国も被告とすることを決めています。
毎回の口頭弁論には、原告と多くの傍聴人がつめかけ、原告ですら法廷に入れないような状態になっています。
市民のこの訴訟に関する関心は高く、原告団と弁護団は、法廷を単に書面の交換の場にのみするのではなく、毎回四名の原告が、それぞれの視点から意見陳述をし、代理人は提出の準備書面をわかりやすく丁寧に説明しています。
こうした原告の意見陳述や代理人の弁論は、マスコミにより外部に正確に報道され、これが、又、浜岡原発の危険性が風化することを防いでいます。
とにかく、原告団、弁護団は、この訴訟をわかりやすく遂行するため、二ヶ月に一回程度は、研究者を講師として招き、学習会を開催し、共に知識を深めています。
準備書面の作成にも原告に参加してもらい、彼らの考えを尊重した書面づくりをしています。
今、原告団を支える浜岡原発裁判を共に闘う会も発足し、浜岡原発永久停止、廃炉を求める住民の闘いは、燎原の火の如く、県内に広まりつつあります。
とにかく、世界一危険な浜岡原発ですから、この原発の存在に危惧している県民は多数で、いわゆる大衆的裁判闘争を遂行する素地は十分にあります。
訴訟における科学論争を否定するものではありませんが、東京電力福島第一原発の過酷な事故をまのあたりにした時、今までの原発裁判における科学論争がいかに無力で反市民的であったと痛感せざるを得ません。
そして、原発の危険を直接被る市民と隔絶した法廷で匿名裁判をし、国や電力会社を勝訴させ、さっさと転勤し、市民の批判を免れた裁判官の無責任さを考えると怒りすら感じます。
私は、裁判官も原発の危険を免れない一市民であり、原発の危険性については、市民と同一視点に立ち、常識的に判断すべきであると考えています。
その意味で、原告が法廷で自分の生活に即し自由な意見を述べること、原告以外の者が法廷の内外に数多くつめかけ、裁判を見守ることは、判決をする裁判官に対しても重要なことであると考えます。
次回口頭弁論期日には、被告中部電力の原発の安全性に関する準備書面が提出される予定です。
弁護団としては、現在、被告に対しても、何故、浜岡原発が安全なのか、法廷で口頭にて陳述することを求めています。
このようなことを要求するのは、本当の口頭弁論が裁判を活性化させ、被告中部電力に限っては、彼らの主張の危うさが明白になり、浜岡原発永久停止、廃炉の世論が一層高まることに寄与するものと考えるからです。
弁護士法人ぎふコラボ 船 田 伸 子
団通信一四一五(五月一日)号に原稿を寄せてツイッター仲間を募ったが、約二名しかフォロアーが増えなかった。しかし地道に今も続けている。
読まれた方には、続編として読んでいただければ。
さて、振り返れば二〇一二年三月三日、福井美浜原発から二kmの水晶浜から赤い風船を飛ばしたことから、私の怒涛の日々が始まった。
三月九日以降の岐阜県知事への何度かのおどし、いや要請。
三月一一日、「さよなら原発ぎふ」パレードに過去最高の八〇〇名参加。
四月一四日、福井県庁に枝野大臣が大飯原発再稼働要請に来るとの前日情報で、「エダNO!」の一声をかけるためだけに特急に飛び乗った。「エダNO!」も叫んだが、福井原発から意外に遠い福井県庁にも怒りが湧いた。風向きも岐阜県に向いてくる確率が断然高い。「若狭湾の原発で何かあったら、福井県庁より岐阜県庁の方が先に逃げなあかんやん!」。
四月二六日、関西電力大阪本社前に岐阜から大型バスを貸し切って乗り付け、宣伝行動を繰り広げ、大阪府庁で記者会見。関西テレビに大きく報道された。私たちは思いつく限りの運動を展開していった。
五月二日、岐阜県議会は自民三〇、公明二、共産一、無所属五そして政権党である民主八を含む全会一致で「大飯再稼働NO」の意見書を採択し、福井原発の被害地元であることを国に対して意見をいうようになった。
これに先立っ岐阜県で行われた原子力災害検証委員会に、県は、私たちが作成した風船落下地図を御用学者たちに県側の資料として提出した。
びっくりした私たちは、風船落下地図を印刷会社に頼んでしっかりしたものにバージョンアップし、大量宣伝することにした。
六月二二日、古田岐阜県知事は、枝野経済産業相と細野原発事故担当相に直接面談し、大飯原発再稼働について情報提供や安全体制の確立、防災体制への財政支援を求めたが、テレビには私たちが印刷したカラーの風船落下地図が手渡されるところが映っていた(らしい)。
翌日の新聞記事には、「古田知事が両大臣に説明する際、市民団体が実施した風向調査結果を示した地図を示し、一〇〇〇個の風船を飛ばして回収された九九個のうち大半が岐阜県で見つかったことを紹介。『(風船を飛ばした)その日のうちに二五個が岐阜県に届いた。風船と放射性物質は違うが。風向きや大きな流れは結果の通りで、大飯の再稼働には重大な関心を持っている』と述べた」(中日新聞)と書かれている。福井県庁で、枝野大臣に声が届くことはなかったが、風船地図は岐阜県知事の手を通して届けられた。
そして一七万人が東京に集結した七月一六日、私のスマホのユーストリームには東京の集会の様子が流れていた。リアルタイムで赤旗空撮写真がツイッターで流れ、「赤旗すごいじゃん」とつぶやくと、東京で集会に参加していたメンバーが私の流した写真を回し見て盛り上がった。
しかし、同時に「中電ひでえ」「国民の意見を聞くのに何で中電社員にしゃべらせてんだ」というツイートがかけめぐった。あの名古屋での意見聴取会もユーストリームで流れていたのだ。
「さよなら原発ぎふ」は、それまでも国のエネルギー見直しのパブコメをキャンペーンで広めるなどして積極的に取り組んでいたが、国はまともに意見聞く気なんてない。自分たちで意見聴取会をやれないか、と相談して交渉を開始、二週間で民間による意見聴取会にこぎつけた。
何せ時間がない。その際使ったのが、無料でイベントの告知ページが作れて申込みもできる「こくちーず」というサイトだった。ネットで申し込むとリアルタイムで、何番目の申込みかわかる。私にはまったく未知の世界だったが、簡単にできるし便利だ。
とは言うものの時間がなく、当日まで三五人しか申込がなかった。あとは口コミだ。しかし、当日の意見聴取会には一〇〇名が参加、受付で発言希望を出した二〇名全員が発言した。全員「即時ゼロ」であった。当然だ。
国の若い担当者は「カトウ」と最初に名乗ったが、終わりに小さな声で「皆さまのご意見は必ず国家戦略室の担当者に伝えます」と言った。会場からは「カトウくーん。声が小さいよ!」と声があがった程度で、特に文句が出るわけではなく、すばらしい聴取会であった。
「さよなら原発ぎふ」メンバーは、前回の通信でも紹介したように、どうやって食べているかわからない人が多い。無農薬農家、無農薬庭師、IT関係(聞いてもよくわからないがHPのデザイン・作成などをしているらしい)、スローフード店、音楽家(イベントの音響も兼ねている)、そして占い師さん。
三〇代後半の若い(私からみれば)人たちは、これまで運動を呼びかけても参加してこないと言われた層であった。しかし、脱原発の運動をするにはまったく向いている。「儲けよう」とか「出世しよう」とか「会社のために身を粉にして」ということがない。時間も融通がきく。
いわゆる雨宮処凛「生きさせろ」世代は、今の経済優先社会に愛想を尽かしている人が多い。就職しても弱肉強食で病むまで働かせられる。就職できなければどこまでもフリーターという非正規から抜け出せない。そういう時代を生き抜いてきた人たちは、個々の能力が高く、豊かな才能を持ち、そして「金にころばない」という運動するものにとって最も重要な要素を持っているのではないかと思うのだ。
私は、この世代がたぶん新しい社会をつくる主人公になっていくのだろうと思っている。
いろんな弱さも持っているだろう。何せこれまで運動で社会が変わった経験を持っていないのだから。社会情勢は悪化の一途をたどり、平和も人権も守られているとは思っていない。ということは法律も弁護士もまったく信用されてはいないのだ。
彼らは、自分たちの力で政治を変えようと思っているが、本当に社会が変わるとき、市民運動だけでは不十分なこともある。やはり法律家や政治家の出番はあるだろうと思う。
彼らと運動をともにするなかで、自由法曹団の事務所に長年おいていただいた一事務局として、少しは役に立つときが来るのではないかと思いながら、今日も老眼鏡をかけてスマホに向かってつぶやいている。
次のパレードのキャッチコピーは『原発ゼロだぜぃ』である。「九・一五さよなら原発ぎふパレード『原発ゼロだせぇ』。岐阜市金公園一〇時。みんな集まろう!」とつぶやいた。
すると、すぐにメンションが入った。「nobuchin.yyさん。あのう、『だせぇ』になってますが(笑)」。うっ、スギちゃん風「だぜぇ」が「だせぇ」になってしまった。こんな私は本当に「ださい」(泣)。
次号は、私が独自で活躍する大垣市編の予定。
滋賀支部 樋 口 真 也
一 自由法曹団滋賀支部での取り組み
滋賀支部では、まず、二〇一二年三月例会で杉山団員(六四期)が秘密保全法の問題点について報告をし、学習しました。秘密保全法の問題点があまり周知されていない時期であったにもかかわらず、団の意見書の内容を分かり易く報告され、その際のレジュメは、非常に参考になりました。
また、八月二九日に開催した滋賀支部八月集会においても、石川団員(六〇期)を講師に学習しました(尚、石川団員は、労働組合や民主団体で構成する「明るい滋賀県政をつくる会」で講師活動をしています)。事前に各団員に『徹底解剖 秘密保全法』(井上正信著 かもがわ出版)を配布し、これをテキストに、講師養成講座として位置づけたものでした。井上団員の著書は、過去の主要な情報漏えい事件が紹介されており、それらのほとんどが Winnyに絡むものでいかに秘密保全法制定の立法事実が欠如しているかが理解できました。この本は、このテーマで講師をするための必読文献であると思いました。
滋賀支部では、労働組合や民主団体に対し、後記の弁護士会主催の市民集会の案内とともにそれぞれのところでの学習会、反対集会の開催を呼びかける予定です。
二 国民救援会大津支部での取り組み
国民救援会大津支部では、秘密保全法の問題点について比較的早い時期から学習会を重ね、役員、会員間での問題点の共有に努めました。私は、団の意見書や日弁連の秘密保全法反対のパンフレットなどを参考にレジュメを作成し、三月の役員会での学習会、四月の支部総会での学習会の講師を務めました。この頃は、私自身まだまだ秘密保全法の問題点についてやや理解不足でありましたが(現在も決して十分とはいえないが)、玉木団員の助け舟もあって、会員の理解は進んだと思いました。
三 滋賀弁護士会での取り組み
弁護士会では、この六月に憲法学者市川正人立命館大学大学院教授を講師としてお招きし、「秘密保全法を考える」会内学習会を開催しました。当日は、多数の会員が参加し、講演内容も非常に興味深いものでした。表現の自由・知る権利・取材の自由とプライバシーの権利という対抗する人権の観点から、西山記者事件等の解説や、諸外国の法制と比較しても秘密保全法の「特別秘密」が広汎である等のご指摘がありました。とりわけ、西山記者事件の判例分析が印象に残りました。
また、この会内学習会を踏まえ、滋賀弁護士会では秘密保全法市民集会実行委員会(実行委員長玉木団員)を立ち上げ、本年一一月三日には、滋賀弁護士会主催で、沖縄密約事件の西山太吉元記者、上記市川教授、マスコミ関係者を招き、秘密保全法制に反対する立場で講演とパネルディスカッションの市民集会「本当にいいんですか?秘密保全法 知る権利とプライバシーに忍びよる危険」を開催する予定です。また、秘密保全法の問題点をコンパクトにまとめた集会の案内ビラを作成し、これを配布する街頭宣伝も予定しています。
四 これまでの取り組みの成果とこれから
五月、滋賀第一法律事務所と滋賀県内の共産党湖南地区市議会議員団との学習交流会において、私は、秘密保全法の問題点を報告しました。その際の議論がきっかけとなり、同議員団では、湖南地区の各市議会でも秘密保全法に反対する意見書を上げようとの動きに繋がりました。私は、議員団からの相談を受け、それまでの学習を生かして、市議会に提出する秘密保全法に反対する意見書の作成に深く関与しました。そして、同意見書は、湖南地区各市議会の六月議会に上程されました。すると、画期的にも、野洲市議会において、意見書が賛成多数で可決されました。同議会では、議論のうえ「保守系の議員も『制限が広汎にすぎる。』という理由で賛成に回った。」ということでした。その報告を聞き、つい最近まで「秘密保全法って何?国家機密法って何?」というくらい見識のなかった私がついにここまで来たのかと感慨深く(やや言い過ぎ)、本当に嬉しかったです。この点について、八月集会では、県内の秘密保全法反対運動の動きについて質問があり、私はこれまでの活動を報告しました。
これからも、まだまだ周知されていない秘密保全法の問題点を分かり易く、端的にいろんな人に伝えることができるように頑張っていきたいと思います。
滋賀支部 杉 本 周 平
一 きっかけ
私が所属する滋賀弁護士会では、最近まで本格的な法教育事業をほとんど行ってこなかった。各弁護士会が行っている主な法教育事業は、(1)学校等の教育現場に弁護士を講師として派遣する「出張授業」と、(2)子どもたちを集めて模擬裁判やワークショップ等のイベントを行う「ジュニアロースクール」の二つであるが、近畿二府四県の弁護士会でこれら法教育事業を行っていなかったのは滋賀だけという有様であった。
そんな中、法教育のホの字も知らなかった私が、二〇一〇年度より滋賀弁護士会の法教育委員長に任命されてしまった。委員長として日弁連や近弁連の会議に参加し、あるいは他会の法教育イベントを視察させていただくにつれ、法教育の分野で大幅に後れを取っていた滋賀の現状を知って愕然としたものである。
そして、法教育事業を始めようとしない滋賀の姿勢に業を煮やしてか、法教育を積極的に推進されている他会の先生方が、「滋賀がやらないのなら、○○弁護士会が滋賀で『出張授業』や『ジュニアロースクール』をやりましょうか?」などとおっしゃるので、滋賀弁護士会の独立と自主性を守るべく、「二年間の時間を下さい。執行部を説得して、二年以内に滋賀でも『出張授業』と『ジュニアロースクール』を成功させて見せます!」と大見得を切ってしまった。……こうして、滋賀弁護士会でも、本格的な法教育事業に着手する運びとなった。
二 独立委員会化
滋賀弁護士会に法教育委員会が設置されたのは、二〇〇九年四月のことである。設置当初は、人権擁護委員会、公害・環境保全委員会、犯罪被害者支援センター、貧困問題対策PTといった関連委員会をひとまとめにした「人権・公害グループ」の一つに過ぎず、年間予算も二万円という形だけの委員会であった。
しかし、弁護士が法教育に取り組むことの重要性や、他会での実施状況に鑑み、滋賀弁護士会としても「出張授業」や「ジュニアロースクール」といった各種法教育事業に参画すべきであると執行部に働きかけた結果、二〇一一年度からは完全に独立した委員会となり、委員長である私(五九期)を含む若手弁護士九名による少数精鋭チーム(?)が出来上がった。
また、委員会予算についても、二〇一一年度は三〇万円、二〇一二年度は七〇万円と、大幅な増額が承認されるに至った。
三 出張授業の開始
二〇一一年九月より、滋賀県内の中学・高校に無償で弁護士を派遣する「出張授業」を開始した。弁護士の日当はもちろん、学校までの往復交通費も全額滋賀弁護士会が負担するという気前の良さが自慢である。
法教育研修を受けた弁護士のうち希望する者を名簿に登載し、学校側から依頼があった場合は、弁護士会事務局が名簿順に授業を配点していくという方式を採っている。二〇一一年度は三校から七コマ、二〇一二年度も四校から六コマの授業依頼があり(二〇一二年九月現在)、配点を受けた弁護士も、それぞれ個性的な授業を実施してくれたようで、弁護士から直接法律や仕事の話を聞けたとあって、教員や子どもたちからも好評をいただいている。
四 第一回ジュニアロースクールの実施
二〇一二年八月八日には、滋賀弁護士会館にて、滋賀県内の中学生二二名を対象として、滋賀弁護士会初となる「ジュニアロースクール」を実施した。
弁護士の他、若手の裁判官・検察官にもチューター役として参加してもらい、法曹三者の仕事に関する講義、大津地裁の裁判員法廷見学、法曹三者を囲んでの昼食会、そして中学生の携帯電話使用を規制する架空の滋賀県条例案について班ごとに分かれて検討するワークショップなどを行った(なお、ワークショップは、奈良弁護士会が二〇一一年に実施したものを参考にさせていただいた)。
イベント中、中学生が自由に携帯電話を使用することの弊害を説明すべく、弁護士と検察官で二〇分程度の寸劇を披露したのだが、普段は法廷で意地悪な尋問をしている女性検察官が、この日ばかりはアニメ『けいおん!』の制服姿で、私が演じる「大津のスギちゃん」に騙されて連れ去られる女子中学生役を熱演し、会場が沸きに沸いたことは記憶に新しい。
参加した子どもたちも、初めて出会う法曹三者や、初めて目にする裁判員法廷に大はしゃぎの様子で、大変有意義な時間を過ごしてくれたようである。イベント後に回収したアンケートも「また参加したい」という声がほとんどであった。
また、ジュニアロースクールを通して、あまり親しく話すことのない裁判官や検察官と交流する機会を持てたことは、弁護士にとっても有意義であったように思われる。
五 弁護士会による法教育の意義
二〇一一年より教育指導要領が改訂され、小・中・高校の社会科でも法教育が取り入れられるようになった。法律の知識や考え方は、生きていくために必要な力というべきものであり、無用な紛争を防止するという観点からも、子どもたちに広く法教育を実施すべきことは論を待たない。
加えて、法曹志望者が激減しており、法曹界が優秀な人材を確保できなくなる中で、法曹の仕事が本来は自由で魅力あるものだと、子どもたちに広く知ってもらう必要もある。
そんな中、司法書士や行政書士も、「法教育」の名の下に、さして質の高くない出張授業などを行い、「困ったときはウチに来てね」と、幼いうちからの顧客取り込みを先行させている状況にある。併せて、検察庁・法務局・法テラスといった法務省軍団も、職員を学校に派遣する形での「法教育」事業を展開しており、これらは、子どもたちを将来自分たちの味方につけようという長期的戦略のもとに行われているといってよい。
このもとで、弁護士会としても、他業種・他団体よりも質の高い法教育事業を展開し、弁護士が身近な存在であると感じてもらった上で、「困ったときは、とりあえず弁護士さんに相談すればよい」と、広く認知してもらう必要がある。弁護士の取扱業務の広さや、知名度、信頼度、自由度をもってすれば、法教育の分野において、弁護士会は他業種や他団体を凌駕することができる。
そもそも、国家主体の法教育は、「ルールを守りましょう」と規範の押しつけになりがちであるが、自営業者である我々弁護士は、「人は生まれながらにして自由なんだ」というところから話をスタートさせることができる。それが弁護士による法教育の一番の強みであり、ウリなのである。
これまで法教育とは縁のなかった団員各位も、是非、各弁護士会の法教育事業への積極的なご参加をお願いしたい。とりわけ、経験豊富なベテラン団員の方々にも、学校やジュニアロースクール会場を訪れて、ご自身の貴重な経験を子どもたちに直接お話していただきたい。弁護士が真剣に話をすれば、子どもたちも真剣に話を聞き、最後はとても喜んでくれるものである。
なお、「自由法曹団としても、何らかの法教育イベントを考えてみてはどうか」などと書くと、「じゃあ、お前がやってみろ」と言われそうなので、滋賀のことだけで手一杯な私は、ここで筆を置くことにしたい。(了)
大阪支部 愛 須 勝 也
内部被曝の健康影響を明らかにした熊本原爆症認定訴訟の記録集が出版された。
内部被曝の危険性を正面から解明した研究が少ない中、大規模かつ丹念な健康調査でその被害の実態を明らかにした訴訟の全記録であり、ここまで多面的に内部被曝の実態を明らかにしたものは類を見ないと思われる。
ご存じのように、原爆症認定集団訴訟は、二〇〇九年八月六日、「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」で一応の終結を見たが、厚生労働省は認定基準を抜本的に改定しようとせず、認定状況は集団訴訟以前の状況に戻った感がある。八・六合意後も提訴が続き、現在、東京、名古屋、大阪、岡山、広島、熊本などの地裁の原告・弁護団が中心となって、「ノーモア・ヒバクシャ訴訟」として継続している。
国は、原爆症認定における放射線起因性の判断について、初期放射線による影響しか認めず、遠距離被爆者や原爆投下後に広島、長崎に入市した入市被曝者などについては、ほとんど認定してこなかった(この立場は基本的に変わっていない)。これらの遠距離、入市被爆者について残留放射線による内部被曝・低線量被曝の影響が認められるのかどうかがこの訴訟の最大の争点であった。その意味で、原爆被爆者の問題は、福島第一原発事故による被災者とまったく同じ構造を有している。内部被曝による人体影響については、広島、長崎の放射能影響研究所を中心にして今なお研究が行われており、いまだ研究途上にある。三・一一以降、ネット上には内部被曝に関する情報が氾濫しているが、どれを信じていいのかわからない状況である。そんな中で、本書は、原爆症認定集団訴訟のたたかい中で明らかにされた内部被曝に関する到達点をまとめたものである。
本書では、まず、残留放射線による内部被曝の危険を証言した矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授によるやさしい解説がなされている。続いて、弁護団により、原告自身が自らの体験を証言することで、自分の健康被害が内部被曝の影響としか考えられないことを明らかにしてきたことが紹介されている。さらに、牟田善雄医師により内部被曝のメカニズムが医学的に解説されている。これらの中でも特筆すべきは「プロジェクト04」(くまもと被爆者健康調査)である。これは熊本県在住の被爆者二七八名と非被爆者(比較対照群)五三〇名を対象とした熊本弁護団独自の聞き取り調査である。弁護団、一般調査員、医師が総力あげて聞き取り調査を実施し、その内容を独自に分析して、遠距離被爆者及び入市被爆者においても急性症状が発症している事実、非被爆者に比して悪性腫瘍(癌)の発症率が有意に高い事実などが明らかにされている。また、熊本訴訟では、集団訴訟の中で唯一、被爆地長崎の現地検証がなされている。これらの訴訟活動は、何れも水俣訴訟の経験を継承したものである(このあたりは、馬奈木昭雄団員の「たたかい続けるということ」(西日本新聞社)を併せて読めばもっとよくわかる)。熊本弁護団のすごいところは、訴訟で明らかになった内部被曝の成果をチェルノブイリ原発事故で明らかになったことなどをふまえつつ、フクシマにつなげようとしていることである。原爆被爆者たちが被曝後苦しんできたことはフクシマでも起こる可能性がある。そこで、内部被曝による人体影響の危険に注目して、放射線汚染と症状の広範かつ継続的な調査の必要性を提言し、原発ゼロの社会を実現するために、「原発なくそう!九州訴訟」へと活動がつながっていることがまとめとされている。もう、脱帽。すごいよ!熊本弁護団。フクシマの被害回復、各地で原発訴訟に取り組む団員に必読の書である(発行=花伝社)。
東京支部 坂 井 興 一
患者仲間の向さんと最後に遭ったのは、お亡くなりになる少し前の、城南医療協・大森中診療所でのこと。「こうちゃん、シッカリしろよ!」と、諸々の成人病に苦しんでいる私よりお達者な感じでのまさかまさかの急逝で、「少し位看病の真似事させてよ!」とご遺族が嘆く程の、入院せず・苦しまず・迷惑掛けずの最後の見事さも流石!でした。
事務所では開設翌年の昭四四年春からの私の駆け出しの頃と、古希を前に第一LOから戻られた後の十数年は机も隣同士。その別事務所の間の、東弁期成会や遠くから見上げていた自由法曹団でご活躍の日々の中で、ご子女と小生依頼者ご子息とのご結婚の仲人と、長いお付き合いになりました。それで、長らくの東京三会健保組合監事、東弁での図書館・非弁・国選・会史編纂・会則・広報等の委員会や、期成会での代表(当番)幹事などの諸活動も身近なところで目撃する次第となりました。(さて)向さんと云えば本籍は自由法曹団。昔から有名な「考古学」好きで、団の名物行事、総会での古希団員表彰では、風早・守屋・青柳・角田(群馬)氏らあまたの先人は悉く、向さんを通して後進に紹介されており、その様は、かって「実録太平洋戦争」等のナレーターで名を馳せた八木治郎アナ張りの諄々たる名調子のものでありました。で、ご自分の番はどんなものかと思ってましたが、九四年新潟佐渡でのハレの席では、東中(大阪)、三野(横浜)、後藤(昌)(東京)氏らの中で一番の変わり者が身振り付きで歌った後藤氏。次は向さんで、自分のことは一つもなくて、小林為太郎(京都)・為成養之助(埼玉)氏らからの聞き取り調査行のアレコレ。向さんの真骨頂は、子母澤寛(新撰組始末記)流の聞き書き散文随想風。その手法で、若林三郎の伏石事件・岡崎一夫の新潟三・一五事件などの諸先人の活動や、治維法事件関連の様々な論考を残しています。古希後は東弁人権賞を授与された横浜再審事件での特高月報や改造社関連文献と、元々彼の崇敬措く能わざる中野重治や森長英三郎とその周辺の古本の山の中から治安維持法佐藤大四郎氏のことで集めた満鉄関係本のなかで暮らしておられました。こうした嗜好は、生きて、然し出逢えなかった苛烈なあの時代の人たちへの憧憬から来るのでしょうか。ともあれ、これまた元々大好きなカメラ(写真集を二冊も出している。)・パソコンのメカ類を撫で回しながら、混迷する世相に逡巡する後輩を激励し続けておられるのでしょうか。
(尚、「偲ぶ会」は九月二九日、午後六時半〜、JR大森駅近くの「大田区文化の森多目的ホール」、会費五千円です。)