<<目次へ 団通信1433号(11月1日)
野村 正勝 | 久しぶりの団総会 |
南 典男 | 法科大学院と法曹養成制度を考えたい |
星山 輝男 | 「証人尋問ノート」(大塚武一著)のすすめ |
永尾 廣久 | 馬奈木弁護士の『勝つまでたたかう』をすすめる |
湯山 薫 | 新日本婦人の会 創立五〇年の力 |
鶴見 祐策 | 竹澤哲夫さんを偲ぶ会のご案内 |
中野 直樹 | 裏銀座縦走・回想の山旅(二〇一一) |
神奈川支部 野 村 正 勝
私は、何年もの間総会に参加しなかった。団からの古希表彰も辞退してからもう三年過ぎた。語るほどの活動もしていなかったからかも知れない。
今回の久しぶりの総会参加も、参加申込しないままで、九月二二日開催当日の突然の日帰り参加となった。それは、神奈川支部出の団長篠原さんから「俺が団長のうちにも‥‥」と不義理をあとから揶揄されるのを牽制する必要があることに気付いたことと、当日は秋晴れの澄んだ空が私をして焼津へと思い立たせたものであった。
茅ヶ崎午前八時五九分発の東海道湘南電車に乗って、新幹線などでなく、ずっと在来線で車窓を楽しんで一一時三六分には焼津に着いた。途中の吉原駅、富士、由比辺りでは、私が昭和三七年大卒で製紙業界に職を得て、大昭和、本州などの製紙工場を見学し、また廃液でブクブク泡が湧いた汚れ切った河川と悪臭に驚いたことを想起しながら、沿線の製紙工場を頬杖ついて眺めることができた。また広大な裾野からくっきり立ちあがる富士山や、陽光に輝く駿河湾の大海原をのんびり車窓から堪能することもできた。
さて、総会会場「ホテルアンビア松風閣」に入ると、すぐさま「おう!久しぶり、元気か」かと同期の永尾、庄司、守川の総会常連が声をかけてくれた。これは俺を覚えてくれたのかと、やはりうれしくなる。
総会が開会され、いよいよ篠原団長の挨拶となった。そうだ、この勇姿を自分は拝見するためにきたのだ。篠原さんの面目躍如の出来栄えというべきであろう。次いで静岡支部塩沢忠和支部長の歓迎挨拶が続いたが、塩沢さんも私と同期同クラスだ。彼独特の口調は、その真面目さ、その気くばりのよさともにますます冴えたいい挨拶であった。今は浜岡原発でフル回転のようだ。声援を送りたい。
そして団員の古希表彰となり、壇上で団長から一四名の参加古希団員に順次表彰状が授受された。ご苦労様、これからも元気で頑張ってくださいという思いは皆同じである。
だがそこで、一寸気になることがうかんだ。それは、この一年間、古希にも届かず夭逝された団員もいたということだ。なにも年齢を問うというものではないが、総会でその逝去を悼む一言があってもいいではないか。それが闘う団の仲間の同士ではなかろうか。
分散会に移って、私は第二の「松風の間」に入った。ここで、憲法、平和、民主主義、原発について、多くの団員から元気な発言を聞くことができた。それは、この国の矛盾と不正義の渦中に飛び込んで闘う団員の発言で、皆んなその真っただなかで闘っていればこその自分の言葉で訴えるので、はじめて聞くことでもよく理解することができた。特に印象に残ったことを述べれば、広島の井上団員とやはり豊田元団長であった。井上団員はまっ赤なポロシャツで熱弁をふるった。この人が団通信によく投稿して憲法状況を論ずる御仁だとわかり、改めて敬意が湧いたものだ。また豊田さんは原発に取り組む若者の発言を受けて登壇し、かつてのスモンの闘いをふり返りながら、若者に対する応援と指導を熱っぽくあの頭のてっぺんから湯気があがるかの「講演」だった。先輩としての暖かい思い遣りで聞いていて「あぁ、これが団なのだ」と思わせるものであった。
一日目の分散会は午後五時三〇分終了した。私は帰りたくなかったが、やはり日帰りせざるを得ない。すごい刺激をもらって、「余、年七十三。日暮れ、塗遠し。吾が生すでに蹉 なり」の身なれど老骨も若くなったようだ。ノーベル賞山中教授の未来あり得るかも知れない不老iPS細胞を待つよりも、簡便、安全、健やかな若返り術であった。
帰路は新幹線。その座席に座り、一人缶ビールを口にしながら、胸の内でつぶやいた。「そうだ、来年もこようか‥‥」と。
東京支部 南 典 男
一 法科大学院を巡る様々な意見
今、法科大学院について、様々な意見が出されている。
一つは、法学研究・法学教育の観点からみて問題がないかという点である。法科大学院は、司法試験に合格するための場となっていて、果たして豊かな法学研究・法学教育の場になっているのかという疑問である。これは、法学部の弱体化と表裏一体の問題でもある。研究者養成は危機に瀕しているのではないか。
二つは、法曹養成制度という観点からみて問題がないかという点である。法科大学院の存在と関連して司法修習の現状がどうなっているのか。また、法律家をめざす若者にとって、法科大学院で学費を負担し、修習では給費制廃止に伴い収入のない中での生活を余儀なくされ、弁護士事務所に就職することもままならない現状がある。
このような問題がありながら、当事者的立場にある弁護士と学者による忌憚のない議論が十分になされているとは言い難い。
二 政府の動き
他方、政府の動きは短兵急であり、具体的である。
今年四月に総務省が「政策評価」を、五月には法曹養成フォーラムが「論点整理」を、文科省が「公的支援の見直し」や「教育改善プラン」を発表し、八月二一日、内閣官房に「法曹養成制度関係閣僚会議」が設置され、その下に法曹養成フォーラムを改組した「法曹養成制度検討会議」(座長佐々木毅)が置かれ、検討会議は来年三月までに司法試験合格者数や法科大学院の統廃合等の具体案をまとめるとしている。
三 団としても旺盛な議論を
問題は、国民のための法曹養成、法学研究、法学教育という観点から見て、現状を具体的に捉え、問題点を多面的かつ冷静に検証し、団員や法律家団体、法学者、法研究者間で問題意識を共有し、忌憚のない議論によって問題解決の方向性を明らかにすることである。
そのようなおり、司法制度研究集会実行委員会と日本民主法律家協会が、第四三回司法制度研究集会「誰のため、何のための法曹かー法科大学院と法曹養成制度をいま、問い直す」と題して、研究集会を企画している。
学者の立場から戒能通厚氏、浦田一郎氏、吉村良一氏が、弁護士の立場から白浜徹朗氏、渡部容子団員、森山文昭団員が、市民の立場から河野真樹氏が報告し、討論時間を十分にとって行う予定である。
ぜひ、多くの団員とともに議論したい。
日 時 二〇一二年一一月一〇日(土)午後一時〜五時
会 場 日比谷図書文化会館日比谷コンベンションホール
(日比谷公園内旧都立日比谷図書館)
神奈川支部 星 山 輝 男
かつて、東京電力思想差別事件(原告は一都五県の一六五名、一九七六年提訴一九九六年解決)で、共に統一弁護団の団員として活動した群馬の大塚武一団員が、このほど「証人尋問ノート 三〇問三〇答」を出版された。
学歴(高卒)も勤続(三〇年)も全く同じ原告と会社側証人が、会社の処遇では平社員と課長という「天と地の違い」が生じた真の原因について、原告側代理人の立場で会社側証人を鋭く追及した事例が、「意図的に真実を語らない証人への反対尋問例」として紹介されており、東京電力思想差別事件の二〇年に及んだ事件を懐かしく想起しました。
この本は、弁護士の立証活動の柱である証人(本人)尋問を、失敗する証人尋問・成功する証人尋問・応用編に分け、豊富で面白いイラスト付でわかり易く説明しています。
「尋問の 結果はわかる 投下時間」「確認を しすぎていけない 誘導尋問」「反対尋問 外堀埋めて 本丸へ」という川柳は、主尋問・反対尋問の核心をついており、新入団員をはじめてとした比較的経験の浅い団員だけでなく、ベテランの団員にも、日頃の弁護活動のチェックの意味も含めて、御一読をすすめます。
(東京図書出版発行 一六八頁 定価一二〇〇円)
福岡支部 永 尾 廣 久
久留米で古希を迎えた馬奈木昭雄団員に寄せた論稿集です。馬奈木イズムというネーミングには少々ひっかかりましたが、馬奈木団員の果たした成果は大きく、その取組には大いに学ぶところがあります。五五〇頁、四二〇〇円という大作ですので、ずしりと重たく、若手団員には腰が引けるかもしれませんが、ぜひ馬奈木団員が到達した頂に挑戦してほしいと思います。
まずは馬奈木団員の問題提起を紹介します。これは二〇年前に福岡支部の機関紙に寄せた文章です。
同じ問題を抱えた人々が無数に存在している課題であれば(さらに言えば、その提起に取り組むことを存立目的としている大衆団体が、すでに大衆を組織して存在しているのであれば)、その人々から原告団をつくりあげていく運動に取り組むことは、困難ではあっても不可能ではない。しかも、すでに存立している大衆団体にとっては、同時に自分の団体を拡大し強化していく運動にもなる。
なるほど、なるほどと思いました。さすが水俣病をはじめとする数多くの公害裁判をたたかってきた経験からの確信が伝わってきます。
篠原義仁団長は馬奈木語録について、次のように解説しています。
「私たちは絶対負けない。なぜなら、勝つまでたたかうからだ」という馬奈木弁護士の言葉は、たとえば有明訴訟でいうと民事差止裁判をやって敗訴したら、行政処分の取消訴訟を、開発のための公金違法支出差止の監査請求そして住民訴訟をやる、仮処分も事訴も。原告団も地域ごとに、そして、一陣だけでなく、二陣、三陣訴訟もやる。多角的に重層的に、戦いを組織する。そして、運動で相手を追い込んでいくということ。
敗訴すると、運動に悲壮感が生まれ、団結上も問題が生まれる。それでも「訓練された団結」を維持し、たたかい抜くためには、運動の中心、とりわけ弁護団への厚い信頼が絶対的に要求される。馬奈木団員には、強い信念を基礎に、厚い信頼を集める人柄、人間性が基本にあり、それは実践力に裏うちされている。たたかいの源は人間力、実践力で、馬奈木語録のなかに秘められた真意を汲みとることが重要だ。
大阪の村松昭夫団員は、二〇一一年から司法の場で吹き荒れている逆風について、次のように指摘しています。
これらの不当判決の根底に流れているのは、国民の生命や健康を守るべき国の責務について、限りなくこれを後方に追いやり、ごく例外的な場合にしか国の責任を認めない。そのいっぽうで、被害発生の責任を労働者や零細業者、患者らのいわゆる「自己責任」に押しつけるという行政追随、被害切り捨ての思想である。その背景には、国の責任を広く認めると、国の財政が破綻するという「財政危機論」を口実にした、国による司法への「脅し」がある。
さらに、久保井摂団員は次のように書いています。
被害者自身が被害を語る意味・・・。被害者であって、顔を上げ、名乗って、訴える正当な資格のある、人権の享有を許された権利主体なのだという確信こそが、その人らしく生きることを可能にする。
被害を語るためには、自身の置かれた状況を権利侵書として言語化することが必要であり、その前提として、自己の権利を知る必要がある。
筑豊じん肺訴訟原告弁護団長をつとめた故松本洋一弁護士の作成した陳述書は、ひと味ちがった。一人称で書かれていたが、聞き取りの場である居宅の光景、語り手や家族の姿を、観察者松本洋一の視線で再現する常体の文章が挿入されていた、それは、読みながら、部屋のたたずまい、明暗、室温、そこに漂う匂いまでよみがえる気のする、五感に訴える叙述だった。
九州ブロックの幹事長をつとめる堀良一団員の指摘は、いつもながら秀逸です。
運動の議論に時間をさかない弁護団なんて、ろくでもないに決まっている。
注意しなければならないのは、日常業務に引きずられて何か裁判ですべてが解決するかのように思いがちな人々の幻想にきっぱりと釘を刺さなかったり、当事者や支援者それぞれの紛争解決に向けた役割と行動を提起しなかったり、裁判闘争を対裁判所だけの取り組みに矮小化したりすることだ。裁判の果たす役割と可能性が目の前にある社会的紛争を解決するための戦略と戦術のなかに正しく位置づけられはじめて、裁判闘争は紛争解決の真の力たりうる。
まず、状況をきちんと分析する。歴史的、全体的にどこから来て、どこへ向かおうとしているのか。現在の観点からだけではなく、過去の観点から、未来の観点から事実にもとづいて正確に把握する。
次に、何を目標として現在を変革するのか、しなければならないのか。そのゴールを明確にすることだ。社会的紛争を解決するというのは、現状を変革することに他ならない。そして、目標は人々に希望を与えるものでなくてはならない。
そのうえで、目標に行き着くための課題を抽出し、それぞれの課題を達成するための行動計画を明確にする。それぞれの課題と行動は分かりやすく、たたかいの経過に応じて臨機応変に具体化しなければならない。行動計画は、どう動けばいいのか瞬時にイメージできるものでなくてはならない。それぞれの課題と行動計画は、相互に有機的に結びついて、目標達成の確信と、目標達成に向けた人々のエネルギーを沸き立たせ、それぞれの人々が目標に向けて、主人公としてやりがいを持ちうるものにしなければならない。
このほか、馬奈木語録をいくつか紹介します。
弁護士は料理人であり、裁判官はこれを味わい、評価する人。うまい料理をつくらなければ、ダメ。
裁判官は何も知らないと思ってかからなければダメ。
善良だけで相手方にしてやられるような弁護士は、依頼者からみると悪徳弁護士といわれても仕方がない。
専門弁護士といわれるためには、法律家の前ではなく、その分野の専門家の前で講演したり、学会誌に論文が掲載されるようにならないといけない。
馬奈木団員の今後ますますの活躍を心より祈念し、あわせて本書が団の内外で広く読まれることを願います。
神奈川支部 湯 山 薫
平成二四年一〇月一七日、ホテルグランドパレスにて、新日本婦人の会創立五〇年記念レセプションが開催されました。団女性部運営委員会から、中野部長をはじめ五名が出席させていただきました。(九月七・八日に団女性部総会で、中野部員が女性部部長に、湯山が事務局長に就任しましたことも併せてご報告いたします。)
オープニングはソプラノ歌手の塘岡裕紀(ともおかゆき)さん、ピアノの広森アケミさんによる独唱でした。特に、オペラ「ロミオとジュリエット」からの選曲「私は夢に生きたい」は素晴らしかったです。海外でも活躍されているオペラ歌手の塘岡さんが、新婦人東京・大田支部の常任委員だとうかがって、新婦人のすそ野の広さに驚きました。
その後、新婦人五〇年の歩みを六分程度にまとめたDVDを拝見しました。平塚らいてう、いわさきちひろなど沢山の著名な方が世話人となって一九六二年に結成された新婦人の会の活動を改めて拝見しました。いのちと暮らしを守る運動として「ポストの数ほど保育所を」の一九六〇年代、国際婦人年から女子差別撤廃条約批准へ全力をあげた七〇年代から八〇年代、核兵器廃絶の署名を一〇〇〇万も集めて国連に届け、税金の無駄遣いをやめてと草の根の要求を国会へ届けてきて今に至っています。東日本大震災ではいちはやく被災者を個別に訪問して、絵手紙セットなどを届け、精神的ケアをはかる活動をして喜ばれたそうです。その活動は、常に女性の、そして国民の目線で行われてきました。一人ひとりの声が草の根運動を通じて大きな声になってきたのです。そして、二〇〇三年、新婦人の会は国連経済社会理事会の特別協議資格の認証を受け、国連NGOとして認められました。日本の女性の活動が、国際的に評価され、その声を直接国連に届けられるようになったのです。これもすべて、新日本婦人の会の草の根運動のたまものです。あらためて女性のパワーの凄さに感動しました。
その源を来賓の日本共産党志位委員長は、新日本婦人の会の五つの目的にあると挨拶されました。私は、多くの女性が一致できる目標をもつことの重要さとともに、会員それぞれが助け合い、励まし合い、尊重しあい、他団体とも柔軟に共同して活動している組織の在り方にもそのパワーの源があるように思いました。
DVD上映の後、笠井貴美代会長のごあいさつに続いてご祝辞を述べられたのは、共同して女性運動に携わってきた国際婦人年連絡会の山口みつ子さんでした。山口さんはご高齢にもかかわらずとてもお元気で、女性がいかに元気であるか、これから新しい女性の運動を広げていこうと力強くお話をされ、自民党安倍総裁が男女共同参画基本計画に猛烈に反対したことを批判するなど、そのパワーに会場は圧倒されてしまいました。
国政婦人年連絡会には、新婦人の会と同様、自由法曹団女性部も加盟しています。現在の女性部の貢献がまだまだ不足していると痛感しました。
女性を取り巻く環境には、問題が山積みです。パーティ会場で新婦人の笠井会長に、中野部長から、改正労働契約法、パート労働法の活用方法を提案しました。女性部も協力して差別の実態を調査して改善していこうという話をしました。まずは労働問題を突破口として、さまざまな問題について、新婦人のみなさんと協働していきたいと思いました。新婦人のみなさんに、団女性部は頼りになる団体だと認めていただけるよう、頑張っていきたいと思います。
新日本婦人の会のみなさま、創立五〇周年本当におめでとうございます。
東京支部 鶴 見 祐 策
当第一法律事務所の竹澤哲夫さんが本年四月二四日に逝去されました。
一九五一年に弁護士登録(司法研修所三期)をされた竹澤さんは、「占領」下の軍事裁判を手始めに、政令三二五号にレッドパージ、平事件に松川事件、そして、青梅事件と戦後の混乱期に起きた様々な事件に携わり、全農林警職法事件、安保六・四仙台事件、ハガチー事件、全税関賃金差別訴訟など、公務員の労働基本権や諸権利の確立を目指す裁判闘争に力を注ぎ、小繋事件に多摩川水害訴訟、合成写真裁判、さらには、帝銀事件、丸正事件に横浜事件第三次再審、著名事件だけでも、その活動範囲の広さに驚くばかりです。
個別事件にとどまらず、日本弁護士連合会人権委員会の委員として、あるいは委員長として、刑事法学者の方々との連携を深めながら、再審救済の筋道を大きく拓き、自由法曹団の幹事長として団通信の創刊を発案し、廃棄されていく歴史的裁判記録の保存運動を展開されました。朝日新聞の言葉によれば、まさに「足跡をたどると、日本の戦後史が浮かび上がる」、そのような弁護士でした。お人柄は、言うまでもありませんが、真面目で、誰に対しても優しい方でした。そして、弱い者の味方でした。
竹澤さんと共に活動された人々、竹澤さんの謦咳に接して薫陶を受けた人々、そして竹澤さんの人徳を慕う人々が一堂に集うて語り合う機会を持ちたいと思い、このたび左記のとおり「竹澤哲夫さんを偲ぶ会」を企画しました。お忙しいところ恐縮ですが、ご参集いただきたくご案内いたします。
記
日 時 二〇一三年二月九日(土)午後一時〜四時
場 所 スクワール麹町 全錦華(三階) 東京都千代田区麹町六―六
TEL 〇三―三二三四―八七三九 ※駐車場希望、宿泊希望の方は直接会場までご予約下さい。
会 費 (後記文集代込) 弁護士 一万円 / 弁護士以外 七千円
出席連絡・会費送金
期限:二〇一二年一一月二〇日
(1)「ご出席の旨」「文集原稿寄稿予定の有無」「お名前・連絡先」を、後記の第一法律事務所宛てまで、ファックスまたはお電話にてお知らせください。
(2)後記送金先まで会費をご送金ください。
出席等連絡先 第一法律事務所 東京都中央区銀座四―九―六陽光銀座三原橋ビル七階
電話 〇三-三五四三-六八五一 / FAX 〇三-三五四三-六六六〇
会費・文集代金送金先
三菱東京UFJ銀行 銀座支店 普通〇一六〇七二七
名義:竹澤哲夫さんを偲ぶ会 呼びかけ人代表 鶴見祐策
【文集作成のご案内】
右記偲ぶ会開催にあたり、竹澤さんとの思い出を文集として作成し、皆さんと共有したいと考えました。是非とも、二〇一二年一一月二〇日を目途に、皆さんの原稿をお寄せいただきたくお願いいたします。内容、字数は自由としますが、横書きで、できれば、二〇〇〇字以内でお願いします。原稿送付方法については、第一法律事務所までお問い合わせください。
なお、偲ぶ会にはご出席できない方でも、完成文集をご希望の方がいらっしゃいましたら、実費(郵送料込二〇〇〇円)で
頒布いたしますので、第一法律事務所までご連絡ください。
神奈川支部 中 野 直 樹
朝の光
翌朝四時半、みんな起き出した。餅入りラーメンで朝食を済ませた。五時五〇分、向かいの赤牛岳、薬師岳に曙光が当たり始めた。百名山に名を連ねる薬師岳はどっしりとかまえて泰然として風格がある。その手前にのっそりと横たわるその名のとおりの赤牛岳。水晶岳から長く延びていく稜線がこの牛の背となっている。大正から昭和はじめの時代に、黒部渓谷を遡行した探検家の冠松次郎が昭和三年に「黒部渓谷」を著した。電源・観光開発される前の黒部川本流の下廊下、上廊下、東沢、棒小屋沢等を縦横に跋渉して著した紀行文である。鋭い観察と記録、雄大壮麗な黒部渓谷に迫真力をもって迫る描写が山好きの心を揺さぶる傑作である。数年前新田次郎作の「点の記」が映画化され、話題となった。そこのハイライトは剣岳に三角点を設置するための登頂ルートの発見に苦労するシーンである。そこを突破したのは富山の山棲み人の宇治長次郎であった。この長次郎が、冠松次郎の黒部渓谷遡行の案内人兼ポーターとして登場する。
冠は、薬師岳と向き合って上廊下を造り出す赤牛岳から眺める薬師岳の色彩の豊富さ、変化の美しさを感嘆をこめて語っている。深田久弥「百名山」も、この山が日に五たび色が変わると言う。魅了してやまない存在である。
灰色に沈んでいた山塊は次第に色彩を取り戻し、稜線際の天空が桃色に染まり始めた。やがて赤牛岳や薬師岳の山頂に一条の茜の朝陽が差し込んだ途端に、一気に山が赤く焼け始めた。山がもっとも美しい瞬間である。
六時半、宿泊客の最後に小屋を出た。一時間で三〇〇メートルほど高度を稼いで三ッ岳に着いた。ここで、私より年輩と見える女性が、両手ストックを操りながらすたすたと追い越していった。テントまで背負ってこんな速く歩く女性登山者をみたのは初めてである。
二〇〇名山にもなれない野口五郎岳は展望名山
九時一五分、野口五郎岳に腰を下ろした。二九二四メートルの高山だが、頂がなく変哲もない尾根のため三〇〇名山に甘んじている。しかし、ここからの大展望は忘れられない。真向かいに本名黒岳と言われる水晶岳の二つの岩峰がきりっと立ち、カールの下部を覆う草の紅葉が陽光に映えてまばゆいばかりだ。その左手には、笠ヶ岳、鷲羽岳、槍ヶ岳が、北に目を転ずれば、薬師、白馬までの後立山連峰、東は、志賀高原・浅間山・上越の山並み、南を向けば、表銀座山塊、乗鞍、中央アルプス、南アルプス、八ヶ岳、そして富士山・・真っ青な空と澄んだ空気を通して名山のそろい踏みである。
加藤文太郎の死した北鎌尾根
真砂岳までの登りを終え一〇時過ぎ、分岐点に着いた。下を見ると、一旦鞍部に下り、鷲羽岳方面に向かって登り返していた女性が途中で引き返してきた。三ッ岳で追い越された早足の人であった。道を間違えたと言い、わずかな休憩で、竹村新道を下っていった。今日の内に高瀬ダム下の七倉駐車場まで下るという。これからのコースタイムで八時間弱であるから、驚異的な健脚である。
眼前に、左手側からの北鎌尾根と右手側からの西鎌尾根に支えられた槍ヶ岳が凛として天を突いていた。鎌とは痩せた険しい岩尾根を指すらしい。新田次郎の山岳小説のなかでも最高傑作の「孤高の人」のモデル、わが国の社会人登山家の草分け的存在であった加藤文太郎が、昭和一一年の正月に吹雪の中で凍死したのは北鎌尾根であった。この北鎌尾根は、地図に登山道が記されていない、熟練者しか立ち入ってはならない山域である。
北鎌尾根から槍の穂先までの険峻な岩稜を前にして、三〇年前この尾根に挑戦しかけたことを思い出した。
一・七%の壁への挑戦の時代
大学三年、本郷に移ってから、私は誘われて法学部自治会の役員に選ばれ、引き続き学生運動に身を置いた。周りは、公務員試験、司法試験、学者をめざす学生が真剣に勉強をし始めた。刑法の大塚仁教授の息子や山口二郎現北大教授が大教室の一列めを指定席としていたことを思い出す。また司法試験受験界のカリスマと言われ、現在は日本国憲法の啓蒙・擁護活動に活躍されている伊藤真氏もその中にいた。
私は駒場時代から弁護人抜き裁判法案反対運動にかかわるなかで弁護士を志し、四年生の六月、東大司法試験勉強会に入れてもらった。自治会活動、寮自治会活動、セツルメント活動等で大学生活を送り、置きビラと試験のときにしか教室に出入りしてこなかった学生が、いまでいう人権派弁護士になることを目指して、一年で合格することを決意して集団的学習をする団体であった。ここから数多くの自由法曹団員が生まれている。
当時までは営業としての受験産業はまだポピュラーでなく、公刊された受験雑誌と言えば、中大・真法会の受験新報くらいのものであった。
入会した勉強会は、基本書を読込み、合格した先輩たちが整理した実践的な論点表と報告レジュメを参考にレポートをつくり、合格者をチューターとして、週に二回の割合の一日勉強会を積み上げていくプログラムであった。明けても暮れても法律で頭が支配されている禁欲的な日々となった。
二万五千人前後受験をして約四六〇名しか最終合格できない超狭き門であり、一年で合格する決意を実現した優れものもいたが、それは希であった。勉強会は、七名くらいずつ二組つくられ、私たち新人と残念ながら択一試験で失敗した二年目の受験生で構成された。八月は、安曇野の神城駅を最寄りとする民宿を定宿として民法・債権総論合宿を行った。合宿には、論文試験を終えた者が仮チューターとして指導にくるという決まりがあった。
翌年、私は、最初の挑戦で択一試験を突破でき、夏には仮チューターとして合宿に参加した。勉強会構成員の約一か月の間の娯楽と言えば、民宿の納屋に据えられた卓球台と河川敷でのソフトボールだけであったが、発表待ちの仮チューターとなると少しの遊びが許され、先輩の水戸翔合同の谷萩陽一弁護士、代々木総合の生駒巌弁護士、同級の東京駿河台の須納瀬学弁護士と一緒に白馬岳に登ったりした。私たち一年目の仮チューターは全員、秋の論文発表で不合格となり、勉強会に再合流した。
無謀計画
二年めの一九八二年五月、択一試験に臨んだところ、事前情報もなくそれまでの三時間九〇問から三時間七五問の新傾向問題に変わり戸惑った。結果が不安だったが、無事受かり、債権合宿は仮チューターの立場であった。勉強会生活中の白馬登山は仮チューターに許された単発の息抜きであった。ところが、一年後輩の中に、埼玉・けやき総合の南雲芳夫弁護士、和歌山合同の畑純一弁護士がおり、この二人は、掟を破り、本格的な登山を企てた。八二年の七月梅雨明け、畑隊長のもとで、南雲さん、須納瀬さんそして私は、中房温泉から合戦尾根の急坂をあえぎながら登り、表銀座コースに出て、燕山荘にテントを張った。明日は、大天井岳を経て、喜作新道から天上沢を下り、北鎌尾根に取り付こうという計画である。一週間ほど前に奥多摩の岩場に出向いて、畑隊長の指導で、ザイルワーク、懸垂下降の練習をしてきたし、畑隊長のザックはザイルなどの登攀用具がつまっている。しかし、私は岩場の経験は乏しく、須納瀬さんとなると一般登山の経験も乏しく、この一行で熟練者しか入ってはならない北鎌尾根に挑戦しようというのだから、乱暴きわまりない。
ラジオでは、長崎で大雨が降り、眼鏡橋が流されたことが緊急ニュースで流れた。わが国での一時間雨量の最高記録である一八七ミリが降り、死者・行方不明者二九九名という長崎大水害が発生していた。
私たちは不安のもとに眠りについた。(続く)