<<目次へ 団通信1472号(12月1日)
田中 隆 | *秘密保護法特集* 衆院審議が投げかけるもの |
長澤 彰 | 国会議員の自殺行為と国会の死滅 秘密保護法案は憲法違反 |
山口 真美 | 秘密保護法がもたらす取材の自由の侵害と暗黒裁判 |
齊藤 豊治 | 秘密保護法制における法則性 |
熏閨@ 暢 | 「憲法改悪も秘密保護法もノー」 |
横山 雅 | 「STOP!秘密保護法」大集会に参加して |
石田 享 | 「特定秘密法案」は廃案に |
西 晃 | 秘密保護法反対!大阪での取り組み |
愛須 勝也 | STOP「秘密保護法」一一・二一大集会in大阪 |
寺内 大介 | 「秘密保護法に反対しよう!」 熊本の取り組み |
菊池 紘 | 「いわて復興一揆」と南部三閉伊一揆 |
大久保 賢一 | 核兵器使用の非人道性と原爆投下の違法性 ―原爆裁判・下田判決五〇年記念シンポのご案内― |
青龍 美和子 | 生業(なりわい)訴訟 第三回期日が開かれ弁論しました! |
久保木 亮介 | 「想定外」という虚構を暴け 〜生業訴訟第三回期日、文書送付嘱託申立の採用 |
吉田 健一 | 「軍隊と住民」を問い続けた「町の弁護士」 榎本信行弁護士を偲んで |
盛岡 暉道 | 弔辞 |
湯山 薫 (女性部 事務局長) |
女性部主催勉強会のお知らせ |
田井 勝 | 「労働法制の規制緩和と貧困問題を考える市民集会」の参加呼びかけ |
谷 正幸 | 書評 「税金裁判の手引き」改定版をお勧めします |
横山 雅 | *岩手・安比高原総会特集* 事務局次長就任のご挨拶 |
齋藤 裕 | 岩手総会一泊旅行感想 |
*秘密保護法特集*
東京支部 田 中 隆
一 連日の集中審議 …… なぜそれほどまでに急ぐ
一一月七日の審議入りから二週間余、衆議院安保特別委員会は、土日を除いてほとんど連日の審議を続けてきた。審議時間は一〇日で実に四三時間、裁判員裁判でもこれだけの集中審理を強行することはまずないだろう。
秘密保護法の制定を急ぐ必要が、いったいどこにある。
公務員法違反が五件あったが、現行法で対処した・・とすれば、国内的な立法事実はないことになり、「外国との情報共有」だけが強調される。だが、その外国=アメリカは、この国を盗聴の対象とは見ていても、「信頼しあうパートナー」とは考えていない。
たまりかねた推進派からは、「福島原発事故がテロリストに情報を与えた」だの、「スパイ防止法をつくっておけば拉致事件のかなりの部分は防げた」だのの、「本音」が吐露されることもになった(一一月一九日参考人陳述)。
そんな衆院でどんな法案審議が行われたか。
警察と地方自治体にかかわる論点と修正案を取り上げる。
二 秘密保護法と警察 …… 解明されなかったもの
軍事法が本籍だが治安法の側面も無視できない。現代の戦争では軍事と治安の境界が溶融しているから・・自由法曹団意見書で指摘したところだが、この側面の問題はまったく解明されていない。
基本構造を箇条書き的に抽出しておく。
(1) 地方自治体の機関のうち警察だけには特定秘密が提供されるが(七条)、「受け手」は公安警察しかない。
(2) 「漏らすおそれ」を疑われた公務員等にはいつでも適性評価がおこなえるが(一二条一項三号)、「疑い」を探知する能力は公安警察しか持っていない。
(3) 共謀・教唆・扇動が処罰されることになり(二四条)、政治性をもった共謀罪が登場する。摘発には、自首減免(二五条)を活用した「内通者」や「スパイ」が使われるだろう。
(4) 共謀や教唆の摘発には通信傍受や会話傍受が威力を発揮する。その盗聴の拡大は、法制審議会の「新時代の刑事司法制度分科会」で実現がはかられようとしている。
この四つのファクターを重ねあわせたものが、「新しい治安」のイメージということになる。秘密保護法と「新時代の刑事司法」がひとつに結びつくことは、ともに「アメリカのような国とシステム」をめざしていることからも理解できるだろう。
実を言うと、秘密保護法案は体系性など感じ取れない粗雑な法案で、法務省・検察庁や警察庁がイニシアチブをとったとはとうてい思えない。治安法の側面からのアプローチが乏しいのは、そのためかも知れない。
だがしかし、警察権限拡大と治安再編の好機を警察が見逃すはずはなく、軍事と治安と司法を分けて考えてくれるほど国家はなま易しいものではないのである。
三 秘密保護法と自治体 …… 思わぬ「回答」があったもの
地方自治体は特定秘密から疎外されている……このことを問題にしたのは、たぶん自由法曹団が最初だろう。
この問いへの「回答」は、思わぬかたちでもたらされた。
一〇条一項一号で地方自治体にも特定秘密は提供できる・・これが政府答弁である。一項一号は厳格な要件のもとで国会(イ)と捜査機関(ロ)への提供を許容した法文と考えられており、自由法曹団の緊急意見書もその理解にたっていた。
他方、一項一号本文では「公益上特に必要があると認められるこれらに準ずる業務」への提供も可能になっている。この「準ずる業務」に検察審査会や裁判官弾劾裁判所などの審査機関だけでなく、自治体や国会議員個人を含ませるのが政府解釈である。その結果、地方公務員にも「知得者の漏えい罪」(二二条二項)が適用されることになる。
この解釈の意味は小さくない。一〇条一項一号本文が「マジックカード」に使えれば、提供の恣意的な操作が可能になる。○○市は基地を容認しているから提供するが、××市は撤去を要求しているから提供しない。あの□□議員には危なくって提供できない・・。
一項一号本文をこんなところまで広げていいのだろうか。
武力攻撃事態や緊急対処事態での避難にかかわる情報は、さすがに「知る者の範囲を制限」するこの提供では解決できない。だから答弁は、「避難に必要な情報は秘密指定を解除する」となる。
だが、秘密保護法にも国民保護法にもそのことを義務づけた法文はなく、「作戦にかかわる情報」と「避難にかかわる情報」は当然ながら重なり合う。そのとき、「米日統合軍の作戦遂行を危うくしても、住民保護のために秘密指定を解除する」との決断を、だれができるというのだろうか。
四 そして四党修正案 …… 連日審議の果てに
一一月二五日夜、自・公・維・みの四党修正案の趣旨説明が行われた。「二六日に委員会と本会議で採決」が与党のタイムテーブルだから、「衆院審議の終焉」は旦夕に迫ることになるだろう。
修正項目は以下のとおり(表現補正を除く)。
a 「安全保障」を説明する形容句(一条)。
b 指定する行政機関の限定らしきもの(三条、附則三条)。
c 有効期間上限は原則六〇年、永久秘密も(四条)。
d 指定・解除・適性評価につき首相の指揮監督権。
特定秘密を含む資料の提出・説明要求、改善指示権(一八条)。
e 指定・解除・適性評価の実施の状況につき国会報告・公表
(新一九条)。
f 取得罪の「目的犯」化(新二四条 旧二三条)。
g 基準等の検証機関の設置等、必要な方策の検討(附則九条)。
h 提供を受けた秘密の保護方策の国会での検討(附則一〇条)。
i 「その他の情報」を「国民の生命及び身体の保護に関する重要な情報」に置き換え(別表二、三、四)。
一見して明らかなとおり、法案の基本構造にメスを入れた部分は、どこにもない。それどころか、
(1) 最長三〇年だった指定の指定期間を、事実上六〇年に延長して永久秘匿を認め、
(2) 珍無類の「首相=第三者機関」説で、権限も責任も不明確な首相の関与を認めて、「秘密の闇」をいっそう深くし、
(3) 重要な(はずの)問題を、附則で先送りして実現を遠ざけ
(4) もともと複雑怪奇な法案をますます奇妙奇天烈なものにする
など、およそ修正と言える代物ではない。
性急な連日審議の結果がこの修正では、議会そのものの劣化や形骸化を証明することにしかなるまい。
五 政府と議会の軽佻浮薄 …… ふたたび三〇年のときを経て
あのとき、自民党は五年の歳月をかけて国家秘密法案の提出に持ち込み、反対運動は再提出阻止まで八年にわたってわたりあった。有事法制と国民保護計画をめぐる攻防は、国会で三年、自治体で三年と、あわせて六年におよんだ。しかして、中曽根康弘政権も小泉純一郎政権も、いまの政権よりはるかに強力な政権だった。
本格的で重厚だった二つの攻防に比べれば、秘密保護法案では政府と議会の軽さと薄っぺらさが際立っている。
その軽佻浮薄がもたらすであろう災厄に、慄然たる思いを禁じ得ないのは筆者だけだろうか。
(二〇一三年一一月二五日脱稿)
幹事長 長 澤 彰
一一月二六日、秘密保護法案は衆議院で強行採決された。この法案は、国会に認められた国政調査権を否定する憲法違反の法案である。行政監視機能の中核的権能である国政調査権を行政に売り渡し、国民代表機関としての国会の権能を放棄したものである。この法案を推進した自民・公明・みんなの各党と修正案に賛成した維新の会の所属議員の行為は、「国政調査権を売り渡した売国的行為」として記憶にとどめられなければならない。
法案は、国会による特定秘密提出の要請があっても、行政機関の長が「我が国の安全保障に著しい支障を及ぼす」と判断すれば、拒否できるという規定に全く手をつけずに可決した。国会の国政調査権を行政権がその裁量で拒否できるのであり、国会のコントロールの及ばない行政領域を法律上認めた。これは、憲法が予定する議会制民主主義、国会による行政権の民主的コントロールを踏みにじるものである。
国会議員が、秘密会で知りえた特定秘密を漏えいすれば、五年以下の懲役に処せられる、国会議員は、その場合だけでなく、特定秘密を「管理を害する行為」による取得した場合は、一〇年以下の懲役に処せられる。この取得行為に対する処罰規定は、新聞・放送などの報道関係者だけでなく、一般市民も国会議員も対象となる。しかし、この処罰規定は、様々な情報を収集し、国政に活かす国会議員の活動に著しい規制を加えるものであり、国会議員の活動を放棄するものに等しい。従来なら、国会議員は、特定秘密に該当する事実に関して内部告発があったり、別ルートで重要情報を取得したりすれば、その情報の真偽を確認し、国政に重大な影響を及ぼすものと判断すれば、それを国会で取り上げたり、マスコミに訴えたりして、行政監視をはかることが可能であった。国会議員の当然の活動として、捜査の対象とされることはなかった。その行為により、国民の政治的関心がひきおこされ、国政に対する国民意識が高まり、行政に対する民主的コントロールを果たすことが出来た。まさに、憲法が予定していることである。
しかし、この法案が成立した暁には、国会議員が特定秘密を漏えいする行動をとれば、公安警察は国会議員のその行為を必ず捜査の対象とする。特定秘密の漏えいの嫌疑ではなく、取得行為そのものについて、教唆・共謀はなかったか、管理を害する行為はなかったかという嫌疑がかけられる。いきなり強制捜査が入ることもあれば、任意の取り調べにさらされることは必至である。国会議員や秘書や党関係者は、尾行され、盗撮され、盗聴にさらされるであろう。石破茂自民党幹事長は、特定秘密を漏えいした国会議員に失職などのペナルティを科す国会法改正の必要性を表明した。
この法案の危険性は、国会議員の特定秘密の単純漏えい行為を直接処罰するのではなく、取得行為に対する嫌疑をかけ、必ず捜査の対象とするということである。国会議員が、重要情報に接することは国会議員としての地位を失うことになりかねない。このような恐ろしい事態にまきこまれたくないという国会議員の意識が醸成され、その行動を委縮させ、自制させることになる。行政の不正と疑惑をただす国会議員の行動は、明白に阻害される。そこにこの法案の重大な狙いがある。この法案は、国会議員の自殺行為であり、議会制民主主義は危機に瀕し、国会は事実上死滅する。
国会議員は、参議院の審議を通じて、この法案のもつ重大な危険性を直視し、歴史に恥じない行動に立ち上がることを訴える。
事務局長 山 口 真 美
一一月二六日、与党とみんなの党によって衆議院で強行された秘密保護法は、取材・報道の自由に著しい萎縮効果をもたらし、国民の知る権利を奪うものである。
法案では、「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為」は、一定の要件のもとで「正当な業務による行為」(法案二一条二項)とされている。しかし、この規定は、違法性阻却事由と解釈しうるだけであり、捜査機関による捜査を何ら制限するものではない。
捜査機関は、個別事件ごとに捜索押収や逮捕の必要性を判断し、必要と判断すれば裁判所から令状を得て捜索押収や逮捕を強行する。正当行為かどうかの判断は捜査当局の裁量に委ねられ、令状を発する裁判所のチェックは十分に働かない。「出版又は報道の業務に従事する者」であっても捜査の対象とされ、任意の事情聴取はもちろん強制捜査を受ける危険にさらされることになる。報道機関には「ガサは入らない」との答弁(森雅子担当相)は捜査の実情とかけ離れており現に谷垣禎一法務大臣によって事実上変更されている。
仮に「特定秘密の取扱者XがYにそそのかされてYに漏えいした」という事案で、Yに紹介されてXを取材した新聞記者Zはどうなるか。
Xは漏えい罪(法案二二条一項)、Yはその教唆(刑法六一条、六五条)の嫌疑で逮捕され、自宅などに捜索差押が行われる。Yと親交がありXを取材していたZは、連日のように警察から呼び出され、Xへの教唆やXとの共謀がなかったか追及される。捜査機関の判断ひとつで、Zの自宅やZが勤務する新聞社の支局に捜索差押が行われ、パソコンや資料、メモなどがすべて押収される。
それだけではない。
逮捕されたXが連日の取調べで虚偽の「自白」を強要され、Zの「教唆」かZとの「共謀」を供述すれば、Z自身が逮捕され、起訴されるだろう。その取材行為が「専ら公益を図る目的を有し」(法案二一条二項)ていたか、「法令違反又は著しく不法な方法によるもの」(法案二一条二項)かを、最終的に判断するのは裁判所だから、判決が確定するまで、Zは被告人として裁判をたたかわなければならない。
公判でも特定秘密の壁が立ちふさがる。
検察官は、「当該捜査又は公訴の維持に必要な業務に従事する者」(法案一〇条一項一号ロ)として、特定秘密の内容の提供を受ける。他方、Zや弁護人にはいっさい特定秘密は明らかにされない。公判前整理手続における証拠開示判断のためのインカメラ手続での裁判所への提示はあるが、証拠開示するか否かを判断するのは裁判官である。裁判官が証拠開示をしないと判断すれば、何が秘密かは公判で明らかにされない。検察官は、特定秘密の内容を記載しない起訴状を朗読し、弁護人が特定秘密の内容を尋ねても、「特定秘密に指定されている以上、明らかはにできない」として開示を拒否する。Zと弁護人は特定秘密が何かも分からないまま、公判において正当行為であることを立証しなければならない。
結局、特定秘密の内容は明らかにならないまま結審し、裁判長は「当該情報は外形立証により実質的な秘密であると推認できる」と判示し、一〇年以下の懲役(たとえば懲役三年、執行猶予三年)の有罪判決を宣告…秘密保護法の下では十分想定される事態である。
秘密保護法の強行は取材、報道の自由に対する重大な脅威となり、取材する側にも取材される側にも著しい萎縮効果が及ぶであろう。
秘密保護法は絶対に廃案にすべき法案である。参議院での廃案のたたかいに全力を尽くそう。
大阪支部 齊 藤 豊 治
秘密保護法制には、法則性と言える特性があり、それは秘密保護法案を見るうえでも、基本的視点を提供するであろう。
第一の特性は、秘密保護法は軍事の基本的性格の変化に即応して変化するという点である。
日本でも外国でも、秘密保護法制での変化は、軍事力の在り方の変化に即応している。近代日本の本格的な軍機保護法(一八九九年)は、大陸侵攻・植民地主義が本格化する日清戦争と日露戦争の間に成立した。一九三〇年代に中国との全面戦争が太平洋戦争へと拡大する時期に、軍機保護法の全面改正(一九三七年)と国防保安法(一九四一年)が成立した。敗戦後軍隊の解体に伴い、これらは廃止された。朝鮮戦争・日本の再軍備の開始に当たり、在日米軍の刑事特別法(一九五二年)とMDA秘密保護法(一九五四年)が成立する。二〇〇一年にアフガン戦争時に、自衛隊法改正で防衛秘密の保護が強化され、自衛隊が派遣された。今回の法案は、九条改憲・集団的自衛権の行使容認と不可分である。二〇一二年四月の自民党の改憲草案は、自衛権の明記、国防軍の創設、軍法会議法と機密保護法の制定、国民の協力義務を規定する。軍法会議と機密保護法なしには、海外での本格的な戦闘はできない。
集団的自衛権によって外国の戦闘に自衛隊(国防軍)を派遣したり、東アジアの近隣諸国との領土紛争や軋轢を武力の行使や武力の威嚇によって対応し、「解決」しようとする場合、秘密保護は格段に強化される。九条に基づく平和外交を基本とする限り、秘密保護は最小限に抑えられ、秘密保護法案は要らない。
第二の特性は、秘密保護法制は自己増殖するという点である。
戦前の秘密保護法制に関する当局側の説明に「蟻の一穴」という言葉がある。蟻が掘った小さな穴から水が漏れ、やがて堤が決壊する。機密の情報は、どこから漏れ出すかわからない。これを埋めようとすると、完全主義に行きつき、自己増殖は止まるところがない。
こうした自己増殖は、不正防止競争法における営業秘密の保護の拡大にもみられ、この種の法律の病理現象である。
秘密は、官僚制そのものによっても自己増殖する。秘密のベールの内側で、外部からのコントロールなしに思うままに権力を行使することは、権力の源泉である。また、官僚たちは責任の追及を免れるために、「疑わしい場合には、秘密に」という態度決定をとりがちである。法案における長期の秘密指定、業務を退いた後の守秘義務の存続および罰則の適用なども、完全主義という視点から捉えることができる。自己増殖は、官僚や政治家の自己保身と結びつき、批判と責任追及からのがれることを保障する。三〇年後、六〇年後では、関係者はだれもいなくなっている。
第三の特性は、秘密事項は、時代を映す鏡であるという点である。
法案では、四つの領域で特定秘密の指定を規定している。「防衛に関する事項」は、現在の自衛隊法の「防衛秘密」に関する「別表の第四(第九六条の二関係)」と全く同じで、自衛隊の運用、防衛施設、武器等の性能、それらの将来の計画や研究開発が含まれる。八〇年代の国家秘密法案の秘密事項に比べて、電波情報、画像情報などの情報収集と整理能力が重視されている。法案三条一項では、特定秘密は、MDA秘密保護法の「特別防衛秘密」を含まないとされており、自衛隊法の防衛秘密と同様である。
秘密保護の範囲と程度は、国際的な環境およびこれへの我が国の対応によって大きく変化する。平時には何でもない情報が、戦時では秘密とされる。法案は、自衛隊法の防衛秘密条項を基礎とした増殖であり、MDA秘密保護法との一体化が図られている。外為法の安全保障条項の拡大、JAXA法改正による宇宙開発研究への安全保障規定の導入、原子力基本法改正による「安全保障」目的の導入、武器輸出三原則の大幅な空洞化も、法案と緊密に結びついている。とりわけ、兵器産業を中心とするから経済界の圧力が、アメリカからの圧力と並んで、現在大きいと言われている。
法案の「特定秘密」は包括的であり、集団的自衛権の行使を承認し、自衛隊が海外で本格的な戦闘に参加する事態となっても、これをカバーするものとなっている。刑事特別法は、在日米軍に関する機密を保護する罰則を設けているが、それは在日米軍の機密に限定している。自衛隊がアメリカ軍や多国籍軍と海外で共同作戦を展開する場合、この法案が刑事特別法でカバーされない領域について、秘密保護を行うものとなろう。自衛隊が多国籍軍に参加し、参戦する場合に、アメリカ以外の同盟国の軍事機密も法案により行われる。集団的自衛権の行使の局面で、この法律は、戦争の真実を知る権利を制限し、否定する役割を演じる。
第四の特性は、一般に同盟国の軍事機密は自国のそれと同程度に保護することである。
一八八〇年の旧刑法から始まり、現在の刑法にも終戦まで間諜罪規定が置かれ、戦時同盟国につき日本のそれと同様な保護を与えている。四〇年の改正刑法仮案でも同様であった。同盟国の秘密保護の中核は、「戦時」同盟国の機密保護である。
第二次大戦後、わが国は敗戦後の民主化、非軍事化のなかで秘密保護法制も撤廃された。日米安保条約の下で、米軍の駐留と極東の範囲での基地の利用、日本の再軍備、日本の攻撃に対する日米の共同作線が日米関係の柱とされた。
しかし、日米安保条約は、相互防衛条約ではなく、海外でアメリカと戦闘を共同することを義務づけてはいない。日米関係では、アメリカ側の軍事機密の保護が先に作られ、集団的自衛権の行使の承認に関連して、日本の秘密保護が整備されようとしている。同盟国のアメリカが一貫して、秘密保護法制の整備を要求してきたことは、周知の事実である。法案の罰則は、MDA秘密保護法のそれに近似している。
法案は、二〇〇七年の「軍事情報包括保護規定」(GSOMIA)の締結をも基礎としており、秘密へのアクセスできる人は適性評価をクリアしていることが前提となっている。法案では特定秘密の取り扱い業務者を公務員だけではなく、民間の適合事業者の従業者等に拡大している。
第五の特性は、機密保護は戦時から平時へと拡大し、一般行政にまで広がるという点である。
古典的な機密保護は、戦時の機密保護が核にある。しかし、その外苑は著しく拡大している。すでに一八九九年の旧軍機保護法の段階で、軍機保護は「戦時」から「平時」のそれに拡大した。戦時に肥大する軍事機密は、平時にも高い水準で存続する傾向があり、平時と戦時の融合が生じる。
法案の特定秘密は、防衛だけではなく外交や特定有害活動およびテロ対策の分野に及ぶ。安全保障の視点が、固有の軍事から流出し、行政各部にも及ぶ。行政の秘密が軍事機密化するといってよい。類似のことは、一九四一年の国防保安法で生じている。この法律は、「国防上外国に対して秘匿することを要する外交、財政、経済その他の事項」であって、「御前会議、枢密院会議、閣議」や「帝国議会の秘密会議」に付された事項、議事、会議に付すため準備した事項、その他「行政各部の重要なる機密事項」を「国家機密」とし、漏泄・公表、探知・収集には死刑を含む厳罰で臨んだ。法案の特定秘密は軍機保護法と国防保安法をあわせた広さを有する。この点は一九八〇年代の国家秘密法案も同様であった。
現代の安全保障は、軍事や防衛をコアの領域としつつも、その外延は遙かに広い。食料やエネルギー、環境が「安全保障」の角度から扱われる。一九九〇年代には「総合安全保障」の考え方が打ち出された。しかし、安全保障のコアの領域が軍事・防衛である。法案は第一条の目的規定で「わが国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿する必要であるもの」を保護することで、「わが国及び国民の安全の確保に資する」としている。
安全保障の概念は、あいまいで定義が困難である。TPP交渉や原発情報、首相の動静などが特定秘密に当るかどうかを巡って、担当大臣や政調会長を含む政治家たちの言はぶれまくったが、その最大の理由は安全保障の概念自体のあいまいさ、無限定さにある。法案の衆議院での修正によって、安全保障に関して定義規定が設けられ、「国家の存立に関わる外部からの侵略等に対して国家及び国民の安全を保障することをいう」とされ、法案の軍事立法であることが一段と鮮明になった。各行政機関の長に横並びで特定秘密の指定の権限を与えることの合理性も問われるところである。
北海道支部 焉@崎 暢
一 久しぶりに、市民の方と一緒に「手作り集会」に取り組んだ。
一一月九日、憲法改悪と秘密保護法に反対する集会「北の国から『平和・憲法・市民』―いま、声をあげ、動くとき―」である。北海道内の地域や職場などで活動する一〇四の「九条の会」が実行委員会をつくり主催した。会場は、約八〇〇人の参加者で埋まった。
二 はじめは、沖縄県無形文化財(八重山古典民謡)保持者の大工哲広さんの沖縄民謡や平和を願う曲を堪能した。それは参加者に対する励ましでもあった。
次に、目加田説子教授(中央大学)が「行動する市民が世界を変える」と題して講演された。目加田氏は、非政府組織(NGO)が各国政府を動かした例として、一九九九年に発効した対人地雷禁止条約の成立の経緯を説明。「市民の運動は世界を変える力を持っています。特定秘密保護法の成立を阻止するために、多くの人たちが声をあげる時です」と強調した。その話は、聞く者に希望と勇気を与えた。
三 さいごに、「私たちは、戦争する国づくりを許すのか否かの瀬戸際にいる。臨時国会で、戦争の司令塔となる国家安全保障会議設置法と、暗黒社会・秘密国家を招来させる特定秘密保護法が審議され、採択されようとしている。残る会期は一二月六日まで。この三六日間、行動を点から線、線から面にひろげて、憲法改悪と特定秘密保護法を阻止する歴史的な戦いを!」と、私が、実行委員会を代表して閉会のあいさつをした。
集会参加者一同の名で、「今日、私たちは、目加田さんの講演から『行動する市民が世界を変えられる』ということを学びました。いまならまだ間に合う、そのいまに、私たちは行動に立ち上がりましょう」という集会アピールを採択した。
その後、私は、講演のたびに、誰でもできる行動の一つとして、国会議員に、FAXや手紙で直接働きかけようと訴えている。そして自らも実践している。
事務局次長 横 山 雅
ご存知の通り、去る一一月二一日、特定秘密保護法案に反対の声をあげる「STOP!秘密保護法」大集会が、日比谷野外音楽堂で開催されました。開催前の午後三時、私は、「憲法改悪反対共同センター」の秘密補法反対の院内集会に参加していましたが、この院内集会は、急遽、決まったもので、参加人数を心配しておりましたが、大阪や奈良から新婦人の皆様が駆けつけ、五〇名近くに上る盛況ぶりで、六時三〇分から始まる集会には想像以上の人が集まるのではないかと感じていました。
日比谷野外音楽堂の会場は開始時間前からすでに埋まり、会場の外に参加者があふれている状況でした。開始時間ギリギリに到着した私は、日比谷野外音楽堂の中に入ることはできず、会場の周りの状況を見ようと散歩していたら、日頃見慣れた皆さんがたくさんいました。報道によれば、参加者は一万人以上だったようです。ちなみに私が所属する東京合同法律事務所からの参加者は事務局を含めて二〇名を超えていました。そんな中で会場の周りを散策していた私は、突然背後から名前を呼ぶ声が聞きました。その声の主は以前に私が担当したとある労働事件の依頼者Kさんでした。Kさんは、組合員や活動家ではありませんし、メディア関係等の仕事をしているわけではないいわゆる普通の一般市民です。奥さんと一緒に来ていたKさんは私に「秘密保護法は、日本を駄目にすると思って、インターネットでこの集会を知りいてもたってもいられず、夫婦で来てみました。こんなに人が集まるなんて日本もまだまだ捨てたもんじゃありませんね。来て良かったです。」と笑顔で話してくれました。Kさんのような普通の市民が「いてもたってもいられず」集まってきたという事実にこそ、国民が特定秘密保護法案の危険性に気づき、強く反対しているという事実が示されていると思います。
会場の中に入れなかったため、集会での各報告を聞くことはできず、その点は残念でしたが、それと同じように価値のある市民の声を聞くことができました。集会後のデモは九時を過ぎても絶えることなく続いていました。
特定秘密保護法案が表現の自由を奪いこの国の民主主義を破壊する危険な法律であることが国民の中に広く浸透していること、国民の反対の声が力強くあがっていることを実感できる夜でした。
この国民の声を国会に届け、特定秘密保護法案を廃案に追い込みましょう。
静岡県支部 石 田 享
日本帝国主義の一敗北まで、治案維持法や軍機保護法は人権弾圧の道具として権力によって、欲しいままに使われた稀代の悪法でした。
経験した訴訟の一例ですが、港を見ただけのことが軍機保護法違反とデッチ上げられたものです。
昭和四五年四月八日東京高裁第一一民事部は、一審原告・控訴人ヴィクトル・ア・ポロセウィチさんに対し、軍機保護法違反容疑による取調ベ過程の拷問を認め、不法行為にょり取調官の一人に対する損害賠償を命じました。
その不法行為は、竹刀による叩打、手掌による頭部殴打、両手挙手を強制し、手が下がると靴で腕のひじを競飛ばして挙手を続けさせる、膝を足で踏みつける、文鎮で手指を叩打、水入りバケツを両手で頭上に支えさせる、タバコの火を手に押しつける、床上の角棒の上に正座を強制、また角棒膝の内側にも挿入する、など??悪辣な拷間の数々でした。(判例時報五九四号六八頁)。
昭和一七年はじめ頃から春にかけて樺太庁大泊警察署でなされた虚偽自白の強要で、ポロセウィチさんは昭和二〇年九月四日頃に釈放されるまで「刑の執行」ということで拘禁され続けました。
そのため彼は、所有していた養孤場や二万円という大金の預金をも失うこととなり、その人生を目茶苦茶に踏みにじられました。
釈放後、無実を訴えるべく非常な苦労を重ね、やがて、ようやく拷問警察官の一人を探し出し、本人が東京地裁に賠償請求の提訴をしました。
故寺本動さんと私が一審の代理人で頑張りました。
しかし請求は棄却されて了い、東京高裁では代理人一人でやることになりました。
幸いにも首尾よく拷問を認める供述を引き出すことができたのでした。
そこで更なる充実した判決を求めて上告し、西嶋勝彦さん、白石光征さんらの新鋭と共に充実したと考えられる上告理由を出しましたが、一審被告の上告と共に上告棄却となり、高裁判決が確定したものでした。
この一例だけをみても軍機保護法の過去の歴史を直視すれば、憲法が保障する基本的人権は、主権在民、民主主義とともにすべて踏みにじられることは明らかです。
幾重にも憲法に反する「特定秘密法案」は廃案にしなければなりません。
なお、この件のことは前記の判例時報や昭和四五年四月二五日救援新聞などに載っていますし、またポロセウィチ氏については沢田和彦氏が「異郷に生きる」成文社二〇〇一年で若干ふれています。
大阪支部 西 晃
極めて緊迫した事態のもと、大阪憲法会議・共同センターと大阪弁護士会、それと私個人の行動を中心に報告します。なお大変申し訳ありませんが、大阪支部全体の取り組みを把握しておりませんので、全体の報告になってはいませんことをご了承下さい。ここで記載している以外にも、多くの支部団員が連日学習会・講師活動・宣伝等を懸命に行っておりますこと、申し上げるまでもありません!
一 秘密保護法反対・大阪共同センターでの取り組み(一一月二〇以降)
一一月二〇日「ストップ!秘密保護法案」緊急パレード 二〇〇人
一一月二一日 寝屋川(二〇人)・京橋(二六人)宣伝
一一月二五日 南森町宣伝
一一月二六日 天王寺駅東口宣伝 ヨドバシカメラ前宣伝
一二月 一日 戦争はいや!御堂筋パレード(予定)
二 大阪弁護士会(秘密保護法反対対策本部)での取り組み
大阪弁護士会では、法案上程前から対策本部を設置。九月一七日には、法案に反対する意見書を発表。一〇月一六日には法案の上程に反対する会長声明を発表しています。またこの法案が成立した後の、刑事事件がどのようになるかに関する市民シンポでは、「秘密」が全く明らかにならないままの滑稽な刑事法廷の寸劇が披露され、大変好評でした。
法案上程後、一一月一二日には、昼デモを企画。予想を大きく上回る六〇〇人もの参加で大きく盛り上がりました。関西のマスコミ・テレビも大きく取り上げ、夕方のニュースで報道されました。
一一月二一日には緊急市民集会を開催、急遽決まった集会にもかかわらず、(第二会場も必要となる)四二〇人もの参加を得ました。
また一一月二〇日での議員定数不均衡に関する最高裁大法廷判決を踏まえ、一一月二二日には、「審議を直ちに中止して廃案とするよう求める会長声明」を発表しています。
さらに一二月二日には、第二派となる弁護士会昼デモを企画しており、一〇〇〇人規模の参加を期待しております。
三 私個人の取り組み
一一月一二日 寝屋川、ストップ!「秘密保護法」寝屋川緊急学習会(八〇名)
(※ この集会で九年前の二〇〇四年二月二五日に開催された、寝屋川での「国民保護法」反対市民集会(私も弁士として参加)が、陸上自衛隊情報保全隊により、「情報保全」されていたことが判明しました(自分の言った宣伝内容が、報告文書に載ってました!)。
一一月二五日 堺からつぶせ!「秘密保護法案」反対緊急市民集会(一二五名)
一一月二八日 大阪府保険医協会理事会学習会
四 一一月二六日現在、法案は衆議院で強行採決の危機にあります。どのようなことになろうとも、最後の最後まで、廃案目指して頑張りましょう!
大阪支部 愛 須 勝 也
「秘密保護法に反対!」「秘密保護法は廃案にしよう!」「知る権利を守り抜こう!」
一一月二一日、東京の日比谷野外音楽堂を中心に全国各地で同時多発的に行われた「STOP!『秘密保護法』一一・二一大集会」の全国一斉抗議行動の一貫として、大阪弁護士会主催の集会でのシュプレヒコールである。弁護士会主催の集会でシュプレヒコールが行われるのは異例であるが、希代の悪法『秘密保護法』を粉砕し、廃案にする決起集会ということから、あえて異例のシュプレヒコールで締めくくられた。緊急集会として急遽開催されたにもかかわらず、会場は超満員、会場に入りきれない参加者数十人が別室でモニター視聴しながらの参加となった。主催の発表によると、参加者は四二〇名。参加者全員の熱い思いが伝わる集会であった。集会では、弁護士会主催の集会で既に行われた寸劇の映像なども交えながら、法案の問題点がクイズ形式でわかりやすく解明された。また、刑法研究者の立場から斉藤豊治団員(甲南大学名誉教授)が、「麻生さんは『国民が騒がないうちにこっそり憲法を改正したい』と言ったが、いま、国会がやろうとしている秘密保護法案は、まさにそれを実行している」、「麻生さんは、ワーワー騒がれるのが嫌いなようだ。我々はワーワー騒いで、この法案の危険性を訴えていこう」と力強い訴え。大阪市立大学の、渡邊賢教授(憲法)は、「リンカーンは、『人民の人民による人民のための政治』と言ったが、情報を政府がコントロールするというのは、政府がすべてを統治していくということにつながっていく。この問題は裁判所がコントロールするのは難しい。政治のプロセスの中で押さえることが重要」と訴えた。その後、新聞記者(新聞労連)、市会議員、関西MIC、労働組合、消費者団体など各種団体から、この法案に対する危機感が訴えられた。集会のまとめは、大江洋一秘密保全法制対策大阪本部本部長代行のコールによる冒頭のシュプレヒコール。集会の様子はIWJで中継され、テレビでも報道された。さらに参加者がツイッターやフェイスブックなどのSNSで集会の様子を拡散し続けている。
一一月一二日には弁護士会主催で六〇〇人の参加によるデモ行進が行われ、それに引き続く緊急集会であったが、さらに、一二月二日には、第二弾のデモが行われる予定である。
安倍政権の暴走に参加者の危機感は高まり、かつてない盛り上がりをみせている。日本を暗黒社会へ導く希代の悪法を粉砕するために、あらゆることをやり尽くして、廃案まで闘い抜こう!
熊本支部 寺 内 大 介
「日弁連」による緊急行動の呼びかけ
日弁連は、いち早く同法案に反対する意見書やQ&Aを発表するとともに、各単位会に対して、声明の発表や地元選出国会議員への働きかけ、市民への宣伝活動を呼びかけていた。
そして、熊本県弁護士会長から、憲法委員会に対し、一一月五日、「市民に法案の危険性を伝える緊急集会を開催してほしい」との要請がなされるに至った。
「熊本県弁護士会」による緊急行動
憲法委員会は、弁護士会が同法案に反対している姿を市民に示すには、パレードが一番効果的と判断し、同月二〇日の昼休みに、緊急集会とパレードを敢行することにした。
通常この種の行事を行うには、執行部会と常議員会の議決、予算稟議等、様々な手続と時間を要し、その結果、時期を逸してしまい、企画を躊躇せざるを得ないこともあるが、今回は会長からの具体的要請があったため執行部から反対意見も出ず、スムーズにすすんだ。
「弁護士九条の会」の街宣行動
弁護士九条の会くまもとは、同月一二日、会員約一五名が、熊本市内の繁華街で、のぼりを立て、日弁連のチラシを配布しながら、リレートークで市民に法案の危険性を訴えた。
「革新懇」による学習決起集会
県内在住の名誉教授、元保険医協会長、元弁護士会長らの呼びかけにより(事務局は熊本県革新懇)、同月一八日、「『特定秘密保護法案』反対学習決起集会」が開催され、約一二〇名の参加で、同法案を廃案に追い込む意思統一がなされた。
熊本支部の小野寺信勝団員が「特定秘密保護法とは?」と題する基調報告で法案の危険性を明らかにし、共産、社民、新社会の各党代表からも廃案に向けた決意表明がなされた。
「弁護士会から市民へ」のパレード参加の呼びかけ
弁護士だけのパレードでは寂しい状況になることが目に見えていたので、くまもと九条の会や脱原発のグループなど、市民団体にもMLなどを通じて参加を呼びかけた。
結果、リレートークとパレードに、弁護士約二〇名のほか、市民約八〇名の参加も得ることができ、会独自のチラシ七〇〇枚を配布した。翌二一日には、熊日、朝日、毎日、赤旗の各紙が、「秘密保護法に反対しよう!熊本県弁護士会」との横断幕でのパレードを、写真入りで大きく報道した。
求められる団と弁護士会の役割
今回の緊急パレードを準備して感じたのは、(1)団の機動力と弁護士会のブランド力で市民との共闘を広げる必要性と、(2)情勢に呼応したチラシの必要性である。
東京支部 菊 池 紘
(一)
岩手県民集会に呼ばれて一一月一一日に盛岡に行くことになった。求められた演題は「安倍政権はなにをめざすか ―― 海外で戦争する国へ」である。集会後は「いわて復興一揆」の県都大行進をおこなうという。
講演の内容を準備しているさなかに、しんぶん赤旗がいわて復興一揆を伝えた。「いわて復興一揆大行進二〇〇三の北コースが、洋野(ひろの)町を出発しました。南部三閉伊一揆で使われた「小○(困る)」ののぼり旗を持った人々が駆けつけました。いわて労連の金野議長は、『被災者再建支援金の(現行三〇〇万から)五〇〇万円への増額を国に求めていこう』とよびかけました。来賓の洋野町長は「みなさんの活動を心強く思う」と期待の言葉を述べました。」と。報道は、北コースはこの後、あまちゃんの久慈市、野田村、それから楽天・銀次の普代村を行進し、南コースは陸前高田市から北上して、釜石市で合流するとしていた。
公会堂での県民集会には四〇〇名が集まった。私は、憲法九条とこれを支持する幅ひろい世論があいまって、この国の政府に、一貫して集団的自衛権の行使はしないと言わせてきたことを話した。そして、安倍政権がこの国のあり方を一八〇度転換しようと画策しているが、これを許してはならないことを強調した。また、秘密保護法は憲法改悪の先取りというより、改悪そのものだと訴えた。演壇から、聞く人々の共感を感じ取ることができた。
話の後半は、改憲を阻む運動の課題。そこで被災地の復興について話した。
まずは南部三閉伊一揆について述べた。三閉伊一揆は幕末の一八四七年と一八五三年に南部藩の沿岸部で起きた。野田、宮古、大槌の三閉伊通りで人口六万人のうち一万六千人が参加し、農民、漁民、鉄鉱山の工夫、職人、商人、そして多くの女性が加わった。「小○」と書いたむしろ旗をかかげ、田老、宮古、山田の村々を押しだし、その半数が釜石から越境して仙台藩領に入り、仙台藩を通じて南部藩に御用金その他臨時税の撤廃、租税請負の廃止から藩主の交代まで、五二カ条を要求した。南部藩は藩主交代以外のすべての要求を受け入れ、指導者の処分もできなかった。いま、被災者と岩手の人びとは、この一揆の伝統をうけついで、いわて復興一揆を進めようとしている。
そして被災者の支援にかかわって、小田実の話をした。阪神淡路震災で村山首相は「生活再建は自助努力が原則」といい、棄民を進めた。自宅を被災した小田は生活基盤を回復するための公的支援を拒否されることに怒り、「自分らで市民立法でやろう」と呼びかけ、団員伊賀興一さんが試案を書いた。小田は「全壊世帯に三〇〇万円?そんなんで足りるのか」と五〇〇万円に修正させたという。
あの三月一一日からちょうど一月後、早川教授と伊賀さんらは、東日本大震災への緊急提言を発表した。そこでは「私たち被災者は、政府責任による公的支援を行うため・・・・壮絶な被災者運動を展開して『被災者支援法』を実現しました。・・・・被災者が救われることは国からの『お情け』でなく、憲法一三条(幸福追求権)に基づく国民の『権利』です」と呼びかけている。
かねて「復興一揆」については、佐々木良博団員も復興県民会議で「被災者本位の復興をめざすというが、そもそも被災者自らが声をあげ、行動していくことが求められている」といっている。
私の講演のあとには、一揆大行進にとりくんだ沿岸各地の代表が、洋野町のほかにも、野田村長、普代村長が賛同を表明してくれたことを報告した。運動は、支援金の増額など六項目を求める一〇万人署名を進めている。
そして、いよいよ「いわて復興一揆二〇一三県都大行進」。隊列は県公会堂まえから出発した。おりからの強い風のなか、林立する「小○」ののぼり旗をはためかせて歩き、桜山神社を右折して大通りを直進した。シュプレヒコールの呼びかけは長あああいものだったが、皆は前半を省略し、最後の「はんたあい」「まあもおれ」だけを唱和した。リズムに乗って快い唱和になった。街の第一の繁華街・大通りをねり歩いた行進は櫻城小学校前で解散した。北上川と交差して駅と市街をつなぐ開運橋のたもとにあるこの小学校は、私と兄二人が通った学校。もうはるか昔のことだ。
(二)
一泊した翌日、盛岡城址ではもみじが赤く燃えていた。その横に啄木の歌碑「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」がある。私が十五歳の時にはここから望むことができた雄大な岩手山は、無機質で冷たいビルの壁に遮られて見ることができない。かつて深田久弥は「盛岡の風景は岩手山によって生きている。一つの都会に一つの山がこれほど大きく力強く迫っている例は、他にないだろう」と書いたのに。
帰京してすぐ一四日に「憲法改悪を許さない・練馬集会」がもたれた。私は呼びかけ人を代表して開会のあいさつをしたが、盛岡で三閉伊一揆といわて復興一揆の話をしたことを述べた。舞台のそでに戻ると、司会の女性が「かつて社会科の授業で先生が熱心に三閉伊一揆の話をしてくれました」といった。渡辺治教授が意気高く講演したこの集まりにも四〇〇名が参加し、憲法改悪とともに秘密保護法を許さないという熱気に満ちた集会となった。
この一文を書いていたら、京都の中島晃団員から手紙が届いた。いわて復興一揆について「民衆のたたかいの歴史がこうして受けつがれるのは、うれしいこと」とあった。中島さんは秋田・大森町(その後横手市)の出で、そこでの年貢米不納と、藩と農民の間に立たされる肝煎らを逃亡させた経過をまとめている(「宝暦の板井田事件」― 近世農民の抵抗の歴史に学ぶ)」)。抵抗に大きな役割を果たし代官所に呼び出され入牢した百姓は、中島さんの先祖だという。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
今、国際社会において、核兵器使用のもたらす壊滅的な人道的結果についての懸念が共有されている。過去における実際の使用(広島・長崎)や核実験、国際会議の成果などからして、いかなる国家や国際機関も、核兵器爆発がもたらす人道的危機に対処しえず、被害を受けた人々に十分な支援ができないという懸念である。
この懸念に基づき、二〇一三年一〇月二一日、国連総会第一委員会において、一二五か国の賛成で、「核兵器が、ふたたび、いかなる状況下においても、使用されないことに人類の生存がかかっている。」、「すべての努力はこれらの大量破壊兵器の脅威を取り除くことに割かれなければならない。」、「核兵器が二度と使用されないことを保障する唯一の方法は、それを全面廃棄することしかありえない。」との声明が採択されている(日本政府も賛同している)。
この声明の特徴は、核兵器使用を、国際法上違法であると評価していないが、非人道的な結末をもたらすことを理由として、核兵器の全面廃絶を主張しているところにある。核兵器の使用は、単に非人道的というだけではなく、国際人道法に違反するという立場からすれば、もう一歩の踏み込みが欲しいところではある。けれども、法規範の根底には、人道と正義があることを想起すれば、非人道性に着目する核兵器全面廃絶の主張は、積極的な意義を持つといえよう。
けれども、核兵器国は、この動きに賛同していない。
核兵器国が廃棄の意思を持たない限り、核兵器はなくならない。核兵器国に核兵器廃絶の意思をどのように持たせるか、それが問題である。
この壊滅的人道的な結果に着目して核兵器の全面廃棄を求める潮流は、核兵器国に対して、「あなた方は、非人道的結果をもたらす核兵器を使用するのですか。それを恥としないのですか。核兵器の使用は非人道的ですよ。」と問いかけ、核兵器使用の正当性を剥奪しようとしているのである。核兵器国に核兵器使用を思いとどまらせる一つの有効な方法であることは間違いない。非人道的手段での政治的意思の実現は、決して国際社会の共感を得られないからである。
このアプローチは、核兵器は不必要と考えていたコリン・パウエルが、二〇〇二年、対立するインドとパキスタンの首脳に対して、「もう一度、広島・長崎の写真を見てはどうか。」と迫って、核兵器使用を思いとどまらせた手法と相通ずるところがあるといえよう。
ところで、私たちは、広島と長崎への原爆投下について、単に写真にとどまらず、法的判断を持ち合わせている。一九六三年の原爆裁判(下田事件)東京地裁判決である。
判決は、「原子爆弾による爆撃が仮に軍事目標のみを攻撃の目標としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目爆撃と同様な結果を生ずるものである以上、広島・長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法から見て、違法な戦闘行為である。」としている。判決は、米軍による広島・長崎に対する原爆使用は、「無差別攻撃」を禁止する国際法に違反すると判断しているのである。
さらに、判決は、「広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下により、多数の市民の生命が失われ、生き残った者でも放射線の影響により一八年後の現在においてすら生命を脅かされている者のあることはまことに悲しむべきことである。原子爆弾のもたらす苦痛は、毒、毒ガス以上のものといっても過言ではない。このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反している。」としたのである。判決は、原子爆弾は「残虐な兵器」であり、国際法に違反すると断言しているのである。
五〇年前、東京地方裁判所は、「無差別攻撃の禁止」や「残虐な兵器の使用禁止」は、国際人道法の基本原則であり、その違反は、非人道的という非難にとどまらず、法規範に違反することになる。よって、核兵器の使用は、道義的非難に値するというだけではなく、違法だということを明言しているのである。
そして、この判断枠組みは、国際司法裁判所の「核兵器の使用、使用の威嚇は、一般的に国際法に違反する」とした勧告時意見(一九九六年)にも共通するものである。
このように、核兵器使用は、道義的、政治的責任のレベルを超えて、法的にも容認されないものであるとされつつあるのである。むしろ、違法というにとどまらず、犯罪であるという言説も説得力を持って展開されているのである。
けれども、核兵器国や核兵器依存国は、いまだに核兵器の安全保障上の有効性を理由として、核兵器廃絶に消極的である。例えば、日本政府は、核兵器の非人道性を認めながら、核兵器の抑止力に頼ろうとしているのである。仮に、軍事的に有効であったとしても、無差別攻撃や残虐な殺傷を禁止するのが、国際人道法(戦争法)の存在理由である。日本政府は、国際人道法についての初歩的理解がないのである。
安倍晋三首相は、「化学兵器はいかなる場合でも禁止されるべきである。」いう。であるならば、核兵器も禁止されてしかるべきなのである。首相には、思考を途中で止めないでほしいと注文しておきたい。
化学兵器、生物兵器、対人地雷、クラスター爆弾などは、国際社会から放逐されている。核兵器についても同様の処置がとられなければならない。そのための政治的意思の形成の根底におかれるべきは、核兵器使用の壊滅的人道的結末への懸念であり、現実に使用された核兵器使用に対する違法判断である。
人道的結末に懸念を抱く者たちには、広島と長崎への原爆投下がもたらした現実と法的判断を想起して欲しいし、広島と長崎の現実を知る者は、人道的結末に懸念を抱く者たちに、被爆の実相と原爆裁判の現代的意義を伝えなければならない。
来る一二月八日(午前一〇時開場、一〇時三〇分開会)、明治大学リバティタワーで、「原爆投下は、国際法に違反する」とした原爆裁判五〇年周年記念のシンポジュウムが開催される。
松井芳郎名古屋大学名誉教授の「原爆裁判判決の現代的意義」についての基調講演、朝長万左男(長崎原爆病院院長)、山田寿則(明治大学・国際法)、小沢隆一(東京慈恵医大・憲法)、田中煕巳(日本被団協事務局長)、川崎哲(ICAN共同代表)、野口泰(外務省軍備管理軍縮課長)各氏によるパネルディスカッション、映画「人間であるために」(原爆裁判を担った岡本尚一弁護士の物語)の上映などの内容である。
皆さんの参加を心から呼びかけるものです。
二〇一三年一一月一八日
東京支部 青 龍 美 和 子
二〇一三年一一月一二日、福島地方裁判所で、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故原状回復等請求事件の第三回口頭弁論期日が開かれました。
今回の期日で、今年五月三一日に提訴したふるさと喪失訴訟と九月一〇日に提訴した原状回復の第二次訴訟が併合され、合計約二〇〇〇名の原告が一つの裁判でたたかうことになりました。
第一回、第二回期日に引き続き、今回も三名の原告が意見陳述しました。福島市内に同居していた娘家族がバラバラに避難してしまったお母さん、南相馬市小高区を終の棲家にしようと考えていたのに戻れなくなってしまったラーメン店の店主など、今回も原発事故による多様な被害の実態が明らかにされました。
続いて、弁護団から提出した準備書面を口頭で説明する弁論を行いました。私も準備書面の起案に参加し、初めて福島地裁の一番大きな法廷で弁論させていただきました。内容は、国が、安全の確保よりも原発推進をしてきたという背景から、今回の地震・津波のようなシビアアクシデント対策を法規制としない決定をしたという責任の重大性を明らかにしたものです。私は、国の原発の安全規制を検討する各種会議等の資料を調査したのですが、私たちの主張全体の中での位置付けを理解し、国側が公表している膨大な量の資料を元に国の責任を追及する主張を構成するのは難しかったです。しかし、国の規制方針を策定するにあたって、規制する側の国が規制の対象である電力会社を会議に出席させ、作文させたことがわかる資料を目の前にして本当に怒りがわきましたし、濃い議論に加わり事実の捉え方を学べて非常に勉強になりました。
とはいえ、今回の最大の成果は文書送付嘱託です。詳しくは久保木団員から投稿がありますが、弁護団の激しい(?)攻撃の結果、裁判所がまだ一般には公表されていない津波の試算データを東京電力に出すよう決定しました。この決定の合議のために十分間の休廷のはずが二十分以上経っても裁判官たちが戻って来ないので不安な空気が漂いましたが、裁判長が「採用する」と言った瞬間、傍聴席が「わっ」と沸きました。裁判長が採用した理由を一つ一つ説明する度に、傍聴席からも「よしっ」という声が何度も上がりました。
別会場では同時進行で模擬法廷が開かれました。本来は法廷で裁判に出席する権利があるのに、裁判所の都合で法廷に入れない原告に向けて、第一回目から行っているものです。難しい書面の中身や裁判用語をパワーポイントで解説したり、意見陳述する原告の写真を映したり、原告がわかりやすく楽しく参加できるよう工夫しています。意見陳述は、法廷と同じ原稿を他の原告や弁護士が読み上げるのですが、書いた本人ではないのに読むほうも聞くほうも涙する場面がよくあります。今回の模擬法廷では、裁判長が文書送付嘱託の結論を先送りするなど、実際の法廷と違うことも起こりますが、「本物の裁判よりもわかりやすい」と原告には好評です。
期日後の報告集会では、法廷を傍聴した原告から、「元気になった」、「今日のことを周囲に伝えたい」、「原告をもっと増やそう」等々、やる気満々の積極的な発言が連発されました。
次回の第四回期日は来年一月一四日です。原告からの責任原因に関する主張はまとめに入ります。弁護団は準備書面や陳述書の起案に燃える年末年始になりそうです。次々回から被告国と東京電力の反論が始まり、裁判所は責任論についても正面から審理する姿勢です。また、二月には第三次提訴も予定しています。原告一万人を目指して、来年も当弁護団は走ります!
東京支部 久 保 木 亮 介
一 未だ隠されている東京電力らの津波試算の全容を追及する
「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故原状回復等請求事件において、私たち弁護団は、津波による全交流電源喪失を予見し回避しえたのにこれを怠ったとして被告東京電力および被告国の過失を主張している。
三・一一以前に東京電力が行っていた様々な津波のシミュレーションについては、インターネット上で公開されているものもあるが、いずれも、津波は福島第一原発の海側四メートル敷地上に備え付けられた非常用海水ポンプのモーター下端にも達せず、よって「安全」とされている。
しかし、より高い津波が来ると結論付けた、東京電力や電気事業連合会による複数の試算が存在することが、政府・国会事故調の調査や報道を通じて明らかにされている。そして、これら試算の全容は未だ公開されていない。
一一月一二日の第三回弁論期日において、私たち弁護団はこれら未開示の試算に関する全資料につき文書送付嘱託を申し立て、採用された。その内容は津波による過酷事故の発生を「想定外」とする東京電力の主張を覆し、東電と国の過失を根拠づける重要な証拠となる可能性がある。以下、弁護団が特に注目している試算について紹介する。
二 二〇〇八年における、東京電力の二つの試算
第一。二万人以上の犠牲者を出した一八九六年の明治三陸沖津波地震と同タイプの地震が、日本海溝沿いのより南側、福島沖で生じたと仮定して実施した東電の試算である。試算の具体的な中身は未公開であり、三・一一の四日前に東電が保安院に報告した結果部分のみが公開されている。それによれば、敷地南側で十五・七mの津波遡上高となり、高さ一〇m敷地上の四号機付近で二・六m浸水するという(国会事故調本文八四頁)。一〜四号機は地下に非常用ディーゼル発電機、電源盤などの重要機器が設置されており、しかも水密化等の津波対策はなされていない。浸水による全交流電源喪失→炉心損傷は不可避であると予測できたはずである。
第二。上記の津波地震に比べ、北米プレートと太平洋プレートの間の、より深い位置で生じた八九六年の貞観津波に基づく東京電力の試算が二〇〇八年になされている。
一〜四号機における想定津波高さは八・七mであるが、東京電力は「不確実性の考慮のため、二〜三割程度津波水位が大きくなる可能性あり」と認めている。そうすると、想定津波高さは一一mを超えることになる。やはり、浸水による全交流電源喪失→炉心損傷は不可避と予測できるだけの数値である。
三 二〇〇〇年時点での電気事業連合会の試算
さらに、東電ら電力会社が結集する電気事業連合会(電事連)は、二〇〇〇年時点で当時最新の手法により、かつ津波数値解析の不確定要素を考慮して試算数値を一・二倍、一・六倍、二・〇倍とした想定結果をまとめている。一・二倍の場合津波高さ五・九m〜六・二mとのことであるから(国会事故調本文八三頁)、二・〇倍の場合、高さ一〇mを超える想定結果を得ていたはずである。この点も、電事連が資料を開示すれば明らかになるであろう。
二〇〇〇年の時点で、すでにここまでのシミュレーションがなされていたこと、にも関わらず東電が何ら津波による全交流電源喪失につき見るべき対策を講じていなかったことに、怒りを禁じ得ない。
四 終わりに
青龍団員も紹介しているが、裁判所が申し立てを採用した際、傍聴席で見守る原告らから「よし!」との声が上がった。翌日は、津波試算の開示につき注目する新聞報道が複数あった。
東京電力代理人は「いつ出すかは文書の所持者である東京電力が決める」と述べ、国の代理人は「申し立てられた文書の中には我々の認識していないものもあると思われるので反対」等と述べ、申立採用に反対した。責任を免れるためなら重要な事実を隠ぺいして憚らない体質は、事故以前と何ら変わっていない。
弁護団は、この裁判を梃子に、東電と国の責任を明らかにする事実を徹底的に明らかにしてゆく構えである。今後もご注目を頂くようお願いします。
東京支部 吉 田 健 一
去る一〇月二九日、榎本信行弁護士の訃報が新横田基地公害訴訟弁護団のMLに流された。病気で入院したとは聞いていたものの、今年になってからも弁護団会議に出席して発言されていたので、あまりにも突然の悲しい知らせであった。
三四年前、弁護士一年生の私が横田基地公害訴訟弁護団に加わった当時、榎本さんは弁護団事務局長を担当していた。すでに一審の最終準備書面を作成する段階にさしかかっており、訴訟の争点を整理し、経過をまとめ、弁護団や訴訟団住民に報告・提起していた榎本さんの姿が未だに思い浮かぶ。その姿を見ながら、私は、弁護団の活動、弁護士の仕事のあり方を一から勉強させてもらったのである。
基地の街・立川で生まれ育った榎本さんは、学生時代から砂川闘争に参加し、弁護士になってからは、長沼ナイキ訴訟などの基地訴訟や松川事件国賠訴訟等の弁護団活動を経て、横田基地公害訴訟を提起し、弁護団事務局長、弁護団長をつとめるなど弁護団を引っ張ってきた。
横田基地公害訴訟では、安保条約の違憲性を棚上げし、逆に安保地位協定にもとづく民事特別法を根拠とする請求を立て、「被害に始まって被害に終わる」という「公害訴訟」として取り組むこととなった。長沼や砂川など自衛隊や安保条約の違憲訴訟に取り組んできた弁護士には当初抵抗感もあったようであるが、被害住民の中には安保条約は必要という住民もいる。被害は共通という立場で多くの住民を原告として組織するとともに、周辺自治体や町内会の会長さんをまわって共感を広め、原告住民が裁判所に行くバスを自治体が提供するという支援まで獲得してきた。
「大阪伊丹の爆音も 東京横田の爆音も 音に変わりがあるじゃなし 受ける被害はみな同じ」という横田小唄(もと歌は「お座敷小唄」)に込められた住民の思いが、米軍機の飛行を違法として損害賠償を認めさせる判決に結びつくこととなる。
一九八九年の自由法曹団福島五月集会は、司法反動下の裁判闘争というテーマで議論され、榎本さんは、全体会で問題提起を行った。横田基地公害訴訟における裁判内外でのたたかいや弁護団の組織・運営を含めて報告したのであるが、裁判闘争を進めるうえで、松川事件のたたかいから多くを学んで生かしてきたと語っている。
榎本さんは、一九九三年に「軍隊と住民」(日本評論社刊)という単行本を出版した。砂川、長沼などの憲法訴訟から横田基地公害訴訟に至るまで基地や軍隊の問題について住民との関係にも焦点をあてながら、まとめ上げたものである。横田基地公害訴訟においても、住民の被害立証を地道に積み上げ、その中から軍隊の本質を解明しようとしてきたとの思いが述べられている。その後、榎本さんは、沖縄の反戦地主のたたかいと連携し、代理署名を拒否して米軍用地の強制収用に抵抗した大田沖縄県知事が国から訴えられた職務執行命令訴訟でも、知事の代理人をつとめた。基地問題では、基地対策全国連絡会議や「平和的生存権の確立を目指す懇談会」の活動に継続的に取り組み、実践と理論を深め、「日米地位協定逐条批判」を共著で出版している。
榎本さんは、日本民主法律家協会の事務局長や代表理事、公害弁連の代表委員など法律家団体の役員も歴任しているが、自らは「町の弁護士」であるという。自由法曹団の古希表彰にあたって寄せた文章で次のように述懐している。
「厳しい世の中で必死に生きている人の相談ごとを聞くと、何とかしてやらなければという気になる、そして自分なりに一生懸命法的な対処をするという生活が私にとって一番生きがいを感じる時間であって、それはいまも変わりはない。自由法曹団に入ったのも、私と同じ指向性を持った人たちの集まりと思ったからにほかならない。大衆的裁判闘争も、この世をまじめに真剣に生きている人たちとともに闘うというところに理屈なきに私はすきなのである。そんな生活をこれからも続けられる幸せをいまかみしめている。」
前述の著書「軍隊と住民」についても、「借地借家、貸金、手形、離婚、相続と町弁護士の雑多な事件処理の合間合間に、この本のために調査したり、書いたりした」と「あとがき」に記している。しかし、それをやり遂げて一冊の本にまとめあげた執念と努力は、並大抵のものではない。
横田基地でも新たな公害訴訟が開始された今年、榎本さんがいなくなったことは、未だ信じられない気もするが、榎本さんの歩んできた道から、これからも学び、それを自分なりに生かしていきたいと思う。
東京支部 盛 岡 暉 道
榎本さん
貴方は、弁護士登録以来、四八年間にわたる弁護士生活の全期間をあげて、米軍基地に対する裁判と運動に、一年の休みもなく、その身を捧げてこられた。
私たちは、いま、貴方との別れに際して、このことに心から感謝を申し上げたい。本当に、有り難うございました。
私は貴方と同い年ですが、私が貴方よりも六年遅れで弁護士になったとき、貴方は、もう、自衛隊基地や米軍基地は平和憲法に違反していると主張する長沼、百里、立川などの基地訴訟に取り組んでおられましたが、一九七一年、ここ米軍横田基地の爆音のために街と住まいを破壊された周辺住民が、大阪国際空港の周辺住民と同じように、自分たちも裁判による救済を求めたいと声を上げ始めたことを知って、これに応える活動を決心されました。
一九九三年の貴方の著書「軍隊と住民―立川・横田基地裁判を中心に―」の中で、貴方は、この訴訟は、いままでのように米軍基地は平和憲法に違反していると主張する方法ではなく、被害救済を第一として、公害弁護士たちにならって、住民の被害の証拠を地道に積みあげる方法を取るべきだと考えたと述べておられます。
こうして、一九七六年、わが国初の、米軍基地に対する公害訴訟が提起されました。
そして、この米軍基地公害訴訟という新しい取り組にふさわしく、団長森川金寿、副団長高橋修、中村高一、江尻平八郎、事務局長島林樹(たつる)というユニークな顔ぶれの弁護団をもつことができたのは、榎本さん、貴方がおられたからこそでした。
この横田基地公害訴訟は実に三三年の長期訴訟となりましたが、貴方は、この全期間で、弁護団事務局長や弁護団長などの重職を担い続けられました。
しかも、この裁判が終わりに近づいた二〇〇五年ころから、貴方は、横田基地からの公害の救済一本に絞ったこの裁判の結果、長い間、肝心の地元で横田基地の撤去を求める闘いがおろそかになってしまっている事実を直視して、横田基地の存在そのものを問題とする地元の運動を始める必要性を繰り返し主張されてきました。
そして、二〇〇八年に、主として立川、昭島の住民による横田基地問題を考える会を組織し、その代表世話人となって、平和憲法に違反する米軍や自衛隊の基地をなくして行く運動を展開されてきました。
さらに、二〇一〇年、第二次新横田基地訴訟が提起されると、貴方はこの弁護団の顧問にも就任し、基地撤去運動と基地公害訴訟の両面で活動を続けられました。
私たちは、ほんの数ヶ月前まで、貴方が、横田基地問題を考える会の世話人会や第二次新横田訴訟の弁護団のどちらの会議にも、いままでどおりキチンと定刻に出席して、おだやかな声で、貴重な意見を述べられている姿を、忘れることができません。
しかし、貴方が、遂に、病におかされて、私たちの集まりに顔を見せられなくなって、私たち横田基地問題を考える会の世話人や第二次新横田訴訟の弁護士、原告たちが、何度か貴方をお見舞いしようと試みても、貴方の病の進行が早く、とうとうそれがかなわないまま、今日、このお別れの日となってしまいました。
でも、貴方の終生にわたった軍事基地反対の闘いは、貴方と志を同じにする人びとの中に、しっかりと引き継がれています。だから、もう、榎本さん。どうか、ゆっくりお休みください。そして、安らかにおねむりください。本当に、ご苦労様でした。
榎本さん。本当に、有り難うございました。
二〇一三年一一月二日
横田基地問題を考える会世話人 盛 岡 暉 道
神奈川支部 湯 山 薫(女性部 事務局長)
「子ども手続き代理人」制度の勉強会についてお知らせいたします。
家事手続き法の成立にご尽力された杉井静子部員に講師をお願いして、運用が始まった子ども手続き代理人制度について勉強をします。
日 時:一二月三日午後三時から五時
場 所:弁護士会館 東弁五〇三号室
参加される方は、当職(湯山)までご連絡下さい。
川崎北合同法律事務所 〇四四―九三一―五七二一
yuyama@kawakitalo.org
直前のお知らせになってしまって、申し訳ありません。
以上、よろしくお願いいたします。
事務局次長 田 井 勝
二〇一三年一二月一三日(金)午後六時〜午後七時半まで、日比谷野外音楽堂において日弁連の主催で、「労働法制の規制緩和と貧困問題を考える市民集会」が開催されます。
内容は、大阪市立大学西谷敏教授に労働法制の改悪問題に関する講演、経済学者による貧困問題に関する報告、労働者からの訴え等々が予定されております。また、全労連・全労協・連合の労働組合が参加し、各団体からの挨拶もあります。そして、集会終了後、実行委員会の主催でデモも行われる予定です。
政府は現在、産業競争力会議、規制改革会議の構成員を軸に、派遣法の改悪、限定正社員の導入、解雇や労働時間に関する特区構想等々、労働者の権利を制限しようとする動きが加速しています。特に、派遣法に関しては、年内に労政審から答申が出される予定ですが、派遣労働者を派遣のままでいつまでも使えるようにすべく、派遣期間の制限撤廃、事前面接の解禁等々、様々な角度から改悪されるおそれが極めて大きいです。
この政府の動きを阻止するためにはこの集会の成功が不可欠です。
団員の皆様、年の瀬のあわただしい時期ですが、防寒対策をしっかりされ、日比谷野音に集いましょう。
全国商工団体連合会 谷 正 幸
「税金裁判の手引き」改定版を自由法曹団の全面協力で発行することができました。改めてお礼を申し上げます。現在、普及は二〇〇〇部を突破して、各地の法律事務所や税理士事務所からも注文を受けているところです。
全商連は今年で創立六三年を迎えます。これまでも全国の民主商工会(民商)は、自由法曹団の支援も得て数々の税金裁判を闘い、大きな成果を上げてきました。そのとき役立ったのが「税金裁判の手引き」でした。私の手許にあるので古いものは一九八七年三月発行のもの、一九九五年発行の不服審査手続や消費税仕入税額控除否認の問題が追加されたものです。今回は、国税通則法改悪に対応できるよう大幅に補強したものになっています。
ここ数年、会内での税務調査の件数は漸減し、不当な課税に対する不服申立てや税金裁判で争う案件も少なくなってきています。その結果、納税者側も弁護団も税金裁判の経験等、闘いの蓄積が薄くなってきています。
一方、国税当局は、全納税者に「記帳義務」を押し付け、国税通則法の改悪で、税務調査における物件の「提示・提出」「留め置き」の新設、更正期間の五年延長などを実現させました。その上、消費税増税と中小業者への事務負担軽減として設けられてきた、免税点や簡易課税制度などの改悪も狙われています。
現在、改悪通則法をも踏みにじるような強権的な税務調査や乱暴な行政指導などが報告され、今後、いっそう違法不当な課税処分が濫発され、再び税金裁判が一気に増加しそうです。
早速「税金裁判の手引き」改定版を読んだ税理士から、「この本は『税金裁判の手引き』となっているが、裁判をやる人だけが読むものではない。税務調査や、税務署から電話や文書が届いたときのためにも読んでおくべきもの」「税金裁判など縁がない人も多いが、税金裁判もありうるつもりで税務署と係りがある人は絶対読んでおくべき手引きだ」との感想が寄せられています。
税金裁判では、税務署の不当な課税に対して納税者の権利主張がどうだったのか、異議申立てや審査請求でどのように課税庁に反撃したかなど、納税者の権利の自覚や闘いがどうだったかが裁判を左右することになります。
鶴見祐策弁護士は、「この『手引き』は、納税者自身の裁判に対して望まれる姿勢に力点を置きながら、税金裁判の仕組みの全体について明らかにし、裁判の要点を網羅的に解説したもの。税金裁判に取り組む弁護士にも、参考の素材として役立つに違いありません」と「発刊に当たって」で述べています。
多くの弁護士の皆さんにもお読みいただくことをお願いします。
二〇一三年一一月二一日
*岩手・安比高原総会特集*
東京支部 横 山 雅
この度、事務局次長に就任いたしました東京支部、東京合同法律事務所の横山雅(よこやままさる)と申します。六一期で弁護士になり事務所に入所してから、ちょうど五年が経過したところです。私は、事件に大きいものも小さいものもないというモットーのもと、刑事事件や労働事件を中心として色々な事件に取り組んで来ました。この五年間は事務所の諸先輩に見守られながら、目の前にある事件と向き合っているうちにあっという間に過ぎてしまったという感じです。
私と自由法曹団との関わりですが、弁護士になりたての一年目、二年目くらいまでは、司法問題委員会や治安警察委員会等に積極的に出席していました。しかし、忙しくなるとともに徐々に各委員会に出席しなくなってしまいましたので、ここ最近は五月集会や総会で団員の皆様の活動報告を聞かせていただく程度のものになっていましたので、今回の事務局次長就任を契機としてまた積極的に活動に携わって行きたいと考えております。
私が所属する東京合同法律事務所と自由法曹団との関わりは大変深く、いずれ私にも事務局次長になる順番は回ってくると考えておりました。今回の事務局次長就任をきっかけにして従前より自身の視野を広げ、目の前にある事件だけでなく社会のあるべき姿にも目を向けられるようになって行きたいと考えております。
今回、次長に就任するにあたり、あらためて、なぜ、自分が弁護士という職業を選択し、自由法曹団に関わりの深い東京合同法律事務所に入所したのかを考えてみましたが、思い出されるのは、事務所の故上田誠吉弁護士の言葉です。当時、まだ修習生だった私は、事務所訪問に来た際に、幸運にも上田先生と面談の機会を得ました。刑事弁護に興味を持っていた私は、「誤った裁判」を読んでいたことから、この人が著者の上田先生かと感動していたところ、上田先生が開口一番、私に話しかけた言葉は「なぜ、弁護士になってうちの事務所に入りたいんだい?」でした。私は、深く考えることなく「困っている人のために働きたいからです。」と答えました。これに対し、上田先生が言った事は、「君は馬鹿かい。世界中どこのどんな法律事務所にも困った人しか来やしないよ。どんな問題困っている人々のために働きたいと考えているのかを君に聞いているんだよ。」でした。
この時の上田先生の言葉は当たり前のことを指摘したにすぎないものかもしれませんが、私にとっては事あるごとに思い出される重要な言葉です。情勢は厳しく普通の人々が普通に生活することにすら困ってしまう社会になろうとしているように映ります。課題は山積の厳しい状況ですが二年間次長として奮闘したいと思います。宜しくご指導ご鞭撻の程、お願い申し上げます。
新潟支部 齋 藤 裕
岩手総会のオプショナルツアー(一泊二日)に参加させていただきましたので感想を述べさせていただきます。
一日目の一〇月二一日は宮沢賢治記念館を見学し、釜石周辺の宝来館に宿泊しました。宝来館ではおかみさんから津波当時の話を聞かせていただきました。
二日目の一〇月二二日には、大槌町、陸前高田町で被災者の方々等から津波当時、及び復興過程の話を聞かせていただきました。
大槌町では、町職員の労働組合の方から話を聞かせていただきました。地震直後に町職員が町役場前に集まって対策会議を行い情報収集等を行っていたこと、その後津波が来たが津波が町役場を襲う直前まで職員らは津波が来ることに気付かなかったこと、そのため町長を含め多くの町職員が命を失ったこと、本来は高台で対策会議を行うべきであったので前町長の対応に問題もあり得ること等のお話をしていただきました。対策会議の状況を写した写真等も見せていただきました。その中の多くの人が数分後に亡くなることが分かっている写真は衝撃的でした。
また、職員らによる災害救助活動の中で職員らも被災者であったが住民の目もあり職員らが食糧等を受け取りにくい等その状況が苛酷になりがちであった、その点組合からの意見表明等があり助かったという声も聞かせていただきました。
宝来館のおかみさんらからは、一四メートルの高さの防潮堤建設の問題点について聞かせていただきました(この点については、プレ企画で町長さんもお話されていたところです)。海が見えなくなることに対する違和感があるということでした。確かに、大槌町の高台から町を見ながら、一四メートル防潮堤ができた場合、どんな感じになるかイメージしてみましたが、そこに暮らす人たちが刑務所の中に閉じ込められたような感じで生活していくことになるであろうことを実感しました。
報道等だけでは感じ得ない被災地の実情の一端を覗き見ることができた気がします。
気になったのは中堅若手の参加が少ないことです。これは今回だけではなく、新潟の五月集会のときもそうでした。総会に参加し、さらに一泊二日のオプショナルツアーに参加するのは事務所や仕事との関係上困難だというのも分かりますが、各事務所で支援をするなどしてもう少し中堅若手が参加できるようになればよいと思います。
なお、末尾になりましたが、充実したオプショナルツアーを企画して下さった岩手の佐々木先生、上山先生に感謝申し上げます。