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篠原 義仁 退任のごあいさつ
山添  拓 「公務員賃下げ違憲訴訟」
一〇・三〇東京地裁で不当判決
黒岩 哲彦 東京・足立区民一三九四人が住民監査請求
―戸籍業務の外部委託問題
後藤 富士子 「紛争解決」を創造する
―「事件」ではなく「当事者」を見よ
山添  拓 TPP・道州制による地方の破壊、山梨で懇談
永田  亮 *福井・あわら総会特集・その三*
プレ企画第二部に参加して
海渡 双葉 第四分散会に参加して
菊池  紘 アラセブ・アラコキ(古希)三人組、針の木大雪渓に挑む!
中野 直樹 猛暑の朝日連峰縦走(三)



退任のごあいさつ

神奈川支部  篠 原 義 仁

 二〇一一年一〇月に団長に就任して三年。団員各位には団活動にご協力頂き、まずもってお礼を申しあげます。
 憲法問題を中心に、今さらあげるまでもなく数多くの課題が団には提起されました。これに対し、そのときどきの幹事長、事務局長、そして各担当の事務局次長が情勢負けせず適切に対処してきたなあ、と実感しているところです。
 ご苦労さまでした。
 さて、私のことについていうと、松井さん、菊池さん、吉田さんが事務所に団長就任の要請に来た際、到底、そんな大任はつとまらないと固辞していたところ、「なあに、団長は所詮、あいさつ要員だから、気楽に受けたらいい」と口説かれました。ところが、ことは「あいさつ要員」に止まらなかったのですが、あいさつの点では、いろいろ気を使うことが多々ありました。
 団や団長に要求されるあいさつは、諸企画の冒頭部分が多く、それも、三分、五分メドで、時に全労連大会のように七分、あるいは原発問題、安保問題では基調報告的あいさつ、ということで一〇分の時間が与えられました。
 主催者側事務方になると、だれでも気にすることですが、あいさつが時間どおりに収まらないとその集い、企画は押せ押せとなり、会の全体的運営に支障を来すところとなります。
 私としては、それだけは避けなければいけないということで、毎回何分原稿ということで字数を数え、原稿を準備して「あいさつ」にのぞみました。
 その結果、時間厳守の指示は基本的に守れたのですが、原稿の棒読みで抑揚がなく面白くない、基本の論点ははずしていないが、たたかいに資する勢いがないとか、果ては下ばかり見ていて写真の撮りようがない、と批判の多い「あいさつ」となってしまいました。
 本人は、時間厳守が一番、これを守らなければ、なお批判されると頑なに心に決めて原稿を書き、その場に臨みました。
 「あいさつ要員」というのは、ハタで見るより結構きついものがありました。
 次に、団の常幹での私の対応のことです。以前、幹事長をやった際に当時の宇賀神団長に言われたことが、ずっと頭に残っていました。
 「大阪の若手から、あなたもよく話すと聞いているが、私もよく話す。二人が話していたら常幹にならない。私はガマンして話さない。だから、常幹の運営をうまくやってくれ」と言われました。
 そこで、主要な委員会や対策本部の参加と何よりも事務局会議の討議を重視して、常幹の運営にあたりました。私にとっては普通の運営だったのですが、何人かの団員に「随分と話をする幹事長だった」とのちに冷やかされたことがあります。
 しかし、常幹は幹事長中心の運営でやっていいと宇賀神団長に言われ、私は随分と助かった思いがあります。その経験から、団長就任後の常幹は、小部幹事長、長澤幹事長の仕切りに任せることとしました。
 もっとも、団長としていくつかの委員会、対策本部に出席し、時折り発言し、事務局会議ではかなり発言し、担当次長には諸準備をしてもらい、幹事長運営の常幹に臨んでもらいました。
 従って、事務局次長の間では、常幹では無口なくせに事務局会議と夜の飲み会ではうるさい(口数が多い)団長ということですっかり定着してしまいました。 
 いずれにしても、幹事長、事務局長、事務局次長には頭が下がる思いでいっぱいです。重ねて、ご苦労さまでした。
 団活動の基本は、常幹を中軸に各種委員会・対策本部があり、全体の運営、業務の執行、常幹の準備等のために事務局会議が月二回開かれています。
 団長としては、事務局会議がスムーズにゆくために、事務局同士が団結して和気あいあいとして執務してゆくためにということで、気配りをする(??)、といっても簡単なはなしで、事務局会議後は毎回飲む、という「慣行」を確立しました。
 この飲み会(食事会)では、飲む人も飲めない人もみんな、日頃のウサを晴らすという点も含めて率直な交流がはかられ、団結の基礎になったように思います。
 団結とは飲むことか、というところです。
 これまでの体制では、なぜかそうなってしまいました。今期の体制の団結の基礎は、どこにおかれることになるのでしょう。
 いろいろウラ話を書いてきましたが、大変ではありましたが、この三年間、楽しく過ごさせて頂きました。
 古稀を迎えた今、体調を整え―飲み会を減らすのとウォーキングで運動不足を解消することが一番でしょうが、「トシ相応」の活動の場を見い出して、適度に団活動には参加してゆくつもりでいます。
 ともあれ、三年間、ありがとうございました。 


「公務員賃下げ違憲訴訟」
一〇・三〇東京地裁で不当判決

東京支部  山 添   拓

一 二年間、平均一〇〇万円の給与カット
 国家公務員の給与は、「給与改定・臨時特例法」に基づき、二〇一二年四月から二年間、人事院勧告に基づかずに平均七・八%(一時金は一律九・七七%)の減額が実施された。二年間で一人当たり平均一〇〇万円もの減額であった。
 二〇一二年五月二五日以降、日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)と組合員三七〇名が、差額賃金の支払いと損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。
 国家公務員は、争議権と労働協約締結権が剥奪されている。一九七三年の全農林警職法事件判決は、憲法二八条がすべての勤労者に労働基本権を保障しているとしつつ、その制約が許されるのは、代償措置があるからだとした。国家公務員の労働条件である給与に関しては、言うまでもなく、人事院勧告が代償措置に当たる。その人事院勧告に基づかず、七・八%もの給与減額を行う以上、国家公務員の労働基本権を制約する前提が失われる。そのような立法は、憲法二八条に違反するというのが、原告の主張である。
二 東京地裁二〇一四・一〇・三〇判決
 東京地裁は、原告らの請求を全て棄却した。
 判決はまず、国家公務員の労働基本権制約の代償措置としては、人事院勧告制度が「中心的かつ重要なもの」であることを指摘し、国会が国家公務員の給与を決定するに当たっては、人事院勧告を「重く受け止めこれを十分に尊重すべき」だとする。しかし、一方で勧告はあくまで「勧告」に過ぎないとして国会の裁量を認め、人事院勧告や民間準拠原則に基づかずに給与を減額する立法が合憲となる余地を認める。そして、(1)当該立法の必要性がなく、または、(2)人事院勧告制度がその本来の機能を果たすことができないと評価すべき不合理な立法である場合には、「立法府の裁量を超えるものとして当該法律が憲法二八条に違反する場合があり得る」とした。
 その上で、(1)必要性について、立法当時、国の財政事情は極めて厳しい状況にあったことに加え、東日本大震災の発生により復旧・復興に当たって巨額の財源確保が必要となり、人件費を含む様々な歳出削減等の措置を講じる必要があったとして、国の主張をそのままなぞってこれを認めた。原告側は、東日本大震災は経過として後付けの口実に過ぎず、しかも復興予算は目的外支出が横行している、年間約二九〇〇億円の減額は国の財政赤字をいささかも改善しない、等と主張したが、いずれも必要性を否定しないとして退けた。
 さらに判決は、(2)合理性に関して、本件給与減額が個々の国家公務員に予想外の、また著しい打撃を与え得ることを認めつつ、(1)の必要性の下で、二年間という限定された期間の臨時的な措置として、平均七・八%という減額率で実施された本件給与減額については、人事院勧告制度がその本来の機能を果たすことができなくなる内容ではないと断言した。判決は、人事院が設立以来数十年にわたって重要な役割を果たしてきたとし、政府が「今後とも人事院勧告を尊重している姿勢を示し」たとか、国会議員が法案審議において政府と同様の認識を示した、などと認定した。後に述べるとおり、本件給与減額に至る経緯に照らせば、とんでもない事実誤認である。
 誠実交渉義務違反を理由とする損害賠償請求に対しては、まず、国の団交義務には勤務条件法定主義の観点から限界があるとして、その範囲を極めて限定してしまった。その上で、本件では、政府提出法案に関する実質的内容についての協議が行われなかった、それは違憲性についての基本的な見解の相違が理由である、六回の交渉で一応の資料も示していた、などとして、合意達成の意思がないことを当初から明確にした交渉態度とは言えないとした。政府は交渉打ち切りを前提として決裁文書を起案していたが、その事実すら「やむを得ない」などとし、インターネットで得られるような資料しか提供しなかった事実にも目をつぶった。
三 労働基本権を有名無実化する不当判決を許さない
 人事院勧告に基づかない給与の減額は、史上初めてである。本件給与減額は、元々民主党政権のマニフェストであった公務員の人件費二割削減に端を発する。その方針は、東日本大震災の四か月も前に閣議決定され、人事院廃止を視野に入れた「自律的労使関係制度の創設」とセットで提案されたものであった。人事院勧告を尊重するどころか、人事院を無視し、なきものにすることが目指されていたのである。
 判決は、(1)必要性について、「厳しい財政事情」が理由となり得ることを簡単に認め、後付けに過ぎず実質を伴わない「東日本大震災からの復興」をことさら重視して必要性を支えるものだとした。給与減額について「高度の必要性」を要求する就業規則の不利益変更法理に照らせば、極めてラフな認定に堕してしまった。(2)合理性に至っては、期間と減額幅を取り上げて、ほとんど評価を加えることなく合理性ありとしている(ちなみに、必要性・合理性という判断基準は、本件訴訟で証言に立った政府役人の口から、尋問当日に初めて語られたものであり、それまで団体交渉はもちろん、国の準備書面にすら表れていなかったものである。)。
 公務職場では、統廃合・民間委託や新採抑制で人員不足が進み、震災対応でも過大な業務量が求められた。一貫した公務員バッシングの効果もあり、ただでさえ疲弊しているなかでの本件給与減額である。さらに今般国会は、来年四月以降国家公務員の給与を二%減額する立法を可決した。憲法二八条の労働基本権にもかかわらず、国家公務員の労働条件は、次々と切り下げられつつある。しかし国家公務員の給与水準は、国家公務員だけの問題にとどまらない。地方公務員や独立行政法人など六二五万人に影響し、地域経済を冷え込ませ、やがては民間の給与水準を押し下げる、強力な波及効果をもつ。
 一一月六日付の連合通信は、国の主張をそのままなぞって合憲判断をした今回の判決を「時の政権の意向を最大限尊重した『ポチ』判決」と評している。憲法と最高裁判例を軽視した地裁判決に対し、国公労連と個人原告の多数がすでに控訴した。全国の団員のみなさんには、この場をお借りしてこの間のご支援に心から感謝の意を表するとともに、憲法に基づく基本的人権の保障をめざし、原告団・弁護団はいっそう奮闘する決意であることをお伝えしたい。


東京・足立区民一三九四人が住民監査請求
―戸籍業務の外部委託問題

東京支部  黒 岩 哲 彦

 東京・足立区民一三九四人は二〇一四年一一月七日に、近藤弥生足立区長が戸籍業務を富士ゼロックスシステムサービスに外部委託した問題について、足立区監査委員に住民監査請求をしました。請求書提出行動には、平日午前中にもかかわらず一〇〇人が参加しました。
 私は請求者本人兼請求者一三九三人の代理人です。
一 足立区政史上はじめての取り組み
 住民監査請求は、違憲・違法な戸籍業務の外部委託をきっぱりとやめさせるとともに、区民の反対の意見を無視して強行した近藤区長の責任を追及することを目的とし、監査委員に対して(1)戸籍業務の外部委託の公金の支出の差止めと(2)近藤区長が、近藤氏個人に対する損害賠償請求と富士ゼロックスシステムサービスに対する不当利得返還請求をすべきことを勧告することを求めています。請求者団の共同代表には、私と時宗(踊念仏の一遍上人が宗祖)の住職がなりました。
 目標の一〇〇〇人を大きく越える請求者が立ち上がったことは区民の怒りの大きさの表れです。私に届いた手紙の声です。
・「個人情報漏えいは(信用金融機関までも)日常茶飯事のようにニュースになっています。
 税金を徴収している区が区民に責任をもって行政しなければならないという自覚を区長にしっかりともってもらわなければならない。→でなければ何も信用できない世になってしまします。経費や時間短縮より何より信用・信頼できる足立区であり続けて欲しいと願っています。」
・「みんなとても怒っています。外部委託をやめさせ私たちの権利を守るためよろしくお願いをします。」
二 足立区政のお先棒担ぎと闘いの到達点
(1)足立区政は二〇一二年七月に各地の自治体をメンバーにして「日本公共サービス研究会」なるものを立ち上げて幹事自治体となり、第一回研究会を足立区内で行い、自治体の市場化、アウトソーシングのお先棒担ぎをしてきました。
 近藤区長は、二〇一三年三月に富士ゼロックスシステムサービスと「足立区戸籍・区民事務所窓口の業務等委託」契約を結び、は富士ゼロックスシステムサービスには初期二年間の二〇一三年七月から二〇一五年九月まででの間に四億円が転がり込むようにしました。富士ゼロックスシステムサービスは足立区での「成功例」を突破口として自治体の外部委託で大もうけをしようをして、足立区役所政策経営部長などが同社のホームページに登場して「当区を足がかりに全国へ拡げていってもらいたいと考えています。」などと広告塔になり下がっています。
 「あだち広報(二〇一四年三月一五日)は、「『民間活用』で更なる『おもてなし』」との見出しで、「区では、区民サービスの更なる向上のために、戸籍や国民健康保険業務などの民間委託を進めています。それにより、窓口での待ち時間短縮や必要急務な施策に人と財源を投入できるなど、戦略的な区政運営が可能になります。」などと宣伝をして大企業に大もうけさせるという真の目的を誤魔化そうとしています。
(2)足立区民は戸籍業務の外部委託はプラシバシー侵害であるとして「足立区政の外部委託を考える会」を結成し、署名一万三〇〇〇筆、足立区当局との交渉、二回の大きな集会、区役所前・北千住駅前・ショッピングモール前での宣伝、チラシの全戸配布、チラシの新聞折込など精力的な活動をしてきました。日本共産党区議団の論戦と日本共産党の仁比聡平参議院議員の法務委員会での法務省民事局長との論戦、日本共産党の小池晃参議院議員や吉良良子参議院議員の法務省との交渉、自治労連・東京自治労連・足立区職労の活動、東京自治労連弁護団の意見書の提出などが精力的な行われています。
 法務省、東京法務局、東京労働局との交渉により当局から足立区の戸籍業務の外部委託は違法であると見解を引き出すことに成功をしました。
 東京法務局は「戸籍事務現地調査結果(二〇一四年三月一七日)」において、「戸籍法上の受理決定は、行政処分である。しかし、業務手順では、区職員の審査前に民間事業者が受理決定(処分決定)の入力行為を行うことになっていて民間業者が行政処分をしている。戸籍法に違反している」としました。
 東京法務局の指摘を受けて、富士ゼロックスシステムサービスは、四月一四日に「マニュアル」を改め、「疑義が生じた場合には職員様にエスカレーションします」としました。ところが、「エスカレーション」について東京労働局は業務請負を装い実態は偽装請負であると断罪して是正指導をしたのです。足立区当局は戸籍法違反を解消しようとすると労働者派遣法に違反するという二律背反の事態に陥ったのです。
 近藤区長はこの二律背反から逃れるため、八月一八日に外部委託を一部の撤回をするとの「是正内容」を示しました。「是正」は二〇一五年四月までに段階的に解消するというもので違法状態が継続します。「是正」には(1)フロアマネージャー問題、(2)戸籍「移記」問題など戸籍法違反があいかわらずあります。
 近藤区長は九月の区議会で「改革の歩みを止める考えはございません。」と戸籍業務のみならずさらに国民健康保険、介護保険、課税業務などの外部化を推進すると居直っています。
(3)足立区議会では日本共産党区議団が反対の立場で奮闘してきましたが、九月からはじまった区議会の代表質問は様変わりをしています。推進派であった自民党は「石橋を渡るぐらい慎重」、公明党は「再度検証して慎重に」、民主党は「一度たちどまって」など批判・懸念を表明するにいたっています。
三 なぜ、大規模な住民監査請求の方法を選んだか
 区民運動の政治的・社会的な正当性を、法的な正当性に高めることは政治的・社会的な力になり、区民運動のエネルギーをさらに高めることになると思いました。
 最初は、大飯原発福井地裁判決に刺激を受けて「憲法一三条の人格権に基づく差止め請求訴訟と国賠訴訟」を考えましたが、「直接の被害」の立証はなかなか困難であり、区役所に金銭請求をすることは区民感情にそぐわないように思いました。
 そこで地方自治法の住民監査を請求して、請求者は戸籍の問題であることにちなんで人生の「揺りかごから墓場まで」に関係する専門家の「医師・弁護士・住職」が面白いのではないかと思い、医師や住職に声をかけました。
 しかし、「考える会」に結集して運動をしている区民を主人公にしない少数の専門家の取り組みでは、区民運動のエネルギーをさらに高める点でも政治的・社会的なアピール力の点でも適切ではないと考え直しました。闘いの到達点を力にして近藤区長を追い詰めるには、思い切って一〇〇〇人以上の大規模な住民監査請求が良いのではないかと考え、九月一八日の「考える会」幹事会に正式に提案をしたところ全員の賛同を得ることができて取り組みが決定し、九月二六日に各団体に説明をして取組みをスタートしました。集約日は一一月五日という短期間の取組みでしたが、区民は怒り心頭ですので、新婦人、公害患者会、地域九条の会、生活と健康を守る会、年金者組合、民商、革新懇、区労連などが精力的に取り組みました。私も相談者・依頼者にお願いをし、足立公害患者会の一日ぶどう狩りバス旅行でもお願いをし、事務所のホームページでも協力を呼びかけました。
四 安倍政権との闘い
 安倍政権は、アベノミクスの第三の矢(毒矢)の「民間投資を喚起する成長戦略」で「官業開放等による新たな市場の形成」を打ち出し、法務省は首相官邸の圧力に屈して二〇一三年三月二三日付「法務省民事局民事第一課長『戸籍事務を民間事業者に委託することが可能な業務の範囲について(通知)』(三一七号通知)において「補助的行為・事実上の行為の民間委託は可能」とした動揺した見解を公表しています。法務省三一七号通知を撤回させることは闘いの重要な目標です。
 足立区の戸籍業務外部委託問題は近藤区長の暴走だけではなく、背景には安倍政権があり、容易な闘いではないことを自覚はしています。運動と論戦で引き出した法務省・東京法務局・東京労働局の見解を闘いの武器とするとともに、当局の見解に安易によりかかることなく、憲法、地方自治法、戸籍法、労働者派遣法を武器として、正面から議論・論戦をしていくつもりです。
 私たちは、監査委員が不当決定をした場合は、住民訴訟を提訴して戸籍業務外部委託の全面撤回を実現するまで闘うことを意思統一しています。


「紛争解決」を創造する
―「事件」ではなく「当事者」を見よ

東京支部  後 藤 富 士 子

 朝日新聞一一月八日「私の視点」に東大医学部六年の岡附K治さんの論考が掲載されている。東大医学部の臨床研究不正疑惑に関するもので、〈「患者第一」の精神今こそ〉のタイトル。八月下旬に学生を対象として開かれた「臨床研究について考える会」での説明について、(1)社会からの信頼を損なったことに鈍感であること、(2)研究に貴重な税金が使われていることへの認識の甘さ、を指摘し、(3)新たな倫理教育プログラム導入を示すことによって、「自分たちが今後どうすべきか」という当事者としての問題の明確化や相互批判を回避していくように感じられた、という。そして、問題の本質は「プロフェッショナリズムの欠如」にある、と斬り込んでいる。
 岡浮ウんは言う。「プロフェッショナル」とは、自らの使命を神に公言(プロフェス)する人のことであり、医師にとっては「患者第一」の精神にのっとって人を救うことである。臨床研究の不正は、目先のお金や業績に気が取られ、常に見据えるはずの患者の利益を見失った結果ではないか。
 そして、来年から医師になる抱負について、〈診るべきは「患者さん」であり、決して研究標本を扱うがごとく、「病気」を見たくはない〉と明快である。
 私たち弁護士も「プロフェッショナル」とされている。では、弁護士にとって神に公言する「自らの使命」は何なのか?
 在野法曹たる弁護士が大好きな弁護士法一条は、「弁護士の使命」として、一項で「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」を掲げている。しかし、同条二項で定められた、誠実に職務を行うことや、法律制度の改善に努力する義務は、顧みられているとは思えない。さらに、第二条の「弁護士の職責の根本基準」など、存在しないかのように扱われている。ちなみに、岩波の判例基本六法でも、第二条は〔省略〕である。弁護士法二条は「弁護士は、常に、深い教養の保持と高い品性の陶やに努め、法令及び法律事務に精通しなければならない。」と規定するが、この規定こそ、弁護士が「プロフェッショナル」であることを示している。
 ところが、現実はどうか。日本の弁護士は、「得意分野」を「民事全般」などと広告する有様で、「法令及び法律事務に精通する」という点では、極めて専門性が低い。家事事件では、当事者よりも「ど素人」の弁護士が少なくない。会社法や遺産分割事件など、法体系を理解しないで、マニュアルで対処するから、「紛争」が陳腐化する。そうして、当事者は、どうにもならなくなった「紛争の残骸」を押しつけられる。
 すなわち、弁護士法一条と二条の倒錯が、日本の弁護士を「プロフェッショナル」とは程遠いものにしていると思われる。
 このような司法の現状を等閑視して、弁護士会主流派は「司法試験合格者減員」を叫び、「事件が入らない」からと非行に走る弁護士が続出する。依頼者からの預り金や被後見人の財産を横領するのは、弁護士倫理以前の、単純な犯罪である。
 弁護士が「プロフェッショナル」たり得るのは、当事者のために紛争解決に役立つことである。しかるに、紛争も多様であり、適用すべき法令も多岐にわたる。したがって、実体法と手続法を駆使して紛争を解決に導くには、特定分野での熟練が必要である。それができて初めて「プロフェッショナル」といえる。そして、各弁護士が特定分野で熟練するには、弁護士全体として相当多数の人員を必要とする。
 専門性が低く、紛争解決を創造することができない弁護士は、「無用の長物」である。税金で養成しながら、そんな役立たずの法曹しか持てない日本国民は、不幸である。

二〇一四・一一・一四


TPP・道州制による地方の破壊、山梨で懇談

東京支部  山 添   拓

 自由法曹団・構造改革PT(座長・尾林芳匡団員)は、去る一一月一一日、山梨県甲府市において、「TPP・道州制は地方に何をもたらすかin山梨」と題した懇談会を行った。山梨農民連会長や山梨県民医連事務局長など地元団体から五名にご参加いただき、山梨県内の団員三名、PTから座長の尾林団員をはじめメンバー六名が参加した。
 構造改革PTではこの間、構造改革の全般的な状況をにらみつつ、自民党政権が導入に向けて動きを本格化してきた道州制について詳しく分析し、意見書「住民の声とくらしを切り捨てる道州制を批判する」やリーフレット「県がなくなる日」を作成、総会や五月集会でも地元首長や公務労組を招いたシンポジウムを開催するなど、道州制の問題点を指摘し団内及び社会的にその危険性を告発する運動を進めてきた。
 ところで、道州制にしてもTPPにしても、その危機感は、中央から切り捨てられ、海外との競争にさらされる地方においてより強く、多国籍企業が跳梁跋扈する都市部においては弱い傾向にある。しかし、団員の多くは都市部で活動しており、PTメンバーも全員が東京または神奈川在である。そこで、地方における農業や医療をめぐる実情をうかがい、地方での取り組みの状況や今後の計画、団との協同の可能性等に関して交流し、今後の運動につなげるべく、今回の企画に至った。山梨県を選んだのは、TPP加入で農業や医療への顕著な影響が生じうる地方であり、道州制が導入されれば関東州に編入され、そのアイデンティティーが大きく損なわれると思われるからである。
 当日は、東京では思いもよらなかった山梨県内における具体的な実情が多々語られた。
 山梨県の農業は、果物や野菜がほとんどで稲作など基幹作物は多くない(コメの自給率は二〇%程度)。宅配や直販など消費者に密着した農業を進めている。都会に新鮮な果物や野菜を提供できれば価格を維持できるとして、TPPへの危機感は薄いという意見も出た。しかし、では安泰かと言えば、そうではない。青森や山形の桃、長野のぶどうなど、他県の果樹栽培の拡大が脅威だという。背景には、温暖化の影響のみならず、従来の米どころがコメでは食べていけなくなり、作物を転換してきているという事情がある。基幹的作物を中心に海外との競争が本格化すれば、国内農家同士が食い合う結果となることは必至であろう。農業に従事したいという意欲ある若者が、農業生産法人で低い労働条件の下に就労しているという実態も、外国人研修生問題を想起させる。
 山梨県民医連に加盟する勤医協(社団法人山梨勤労者医療協会)は、「友の会」の会員で約二世帯とのつながりがあるという。かつて倒産の危機に病院再建を図る際、住民のための病院をつくるという理念のもとに、地域と密接なつながりを築いてきたそうだ。再建後は住民との関係が薄れ、住民要求に応える地域医療を提供できていないのではないかという問題意識が語られた。とはいえ、県内の民医連病院で構成される班で合計数百回もの班会(学習会など)がもたれているというから驚きである。TPPが成立・発効して混合診療が解禁されれば、民間が販売する医療保険の需要拡大のために保険診療が後退することが指摘されているが、地域密着型の医療は、こうしたなかで大きな打撃を受けることは間違いない。
 すでに行われている市町村合併の影響についても、生々しい実態があった。笛吹市では、合併によって水道料金が上がった。合併により笛吹市に組み込まれた旧町村では、従前なかった都市計画税も導入されようとしている(反対運動も盛り上がっているそうだが)。かつて村長さんは、隣のおじさんのような存在だった。要望も気軽に伝えられた。隣町まで行かなければ首長に会えなくなってからは、会ったこともないという人が大勢いる。「行政が遠くなった」という発言が印象的だった。
 県内の運動は、集団的自衛権の行使容認や消費税、労働法制など全国的な課題のほか、リニアの問題など数多くの課題を抱えているという(余談であるが、リニアモーターカーはトンネルばかりのところを延々と気流の影響で揺れる飛行機と同じように揺れる車内で過ごすことになるらしく、試乗した方の中では「二度と乗りたくない」という感想が聞かれるらしい。)。若手団員も若者デモの先頭に立つなど精力的に活動している。課題の山積そのものが課題とも言える。しかし、構造改革は産業、労働、医療、福祉、あらゆる局面に影響を及ぼし、憲法で保障された人間らしい生活を根底から覆す危険性を孕む。今回の懇談会を機に、県内の民医連や農民連でも、もっと地域の人々のなかに入ってTPPや道州制の問題を伝えていきたいという声や、団支部としても学習の機会を提供できるよう取り組んでいきたいなど、積極的な意見が出されたのは、そうした危機感が共有されたからこそであろう。
 PTの地方企画第一弾が成功裏に終わったのは、お集まりいただいた現地のみなさんのおかげである。急な企画にもかかわらず、時間を割いてご参加いただきお話をお聞かせくださった地元のみなさんに感謝しつつ、PTは、地方企画第二弾を実現するべく、各地のリサーチを始めている。我こそはという地域があれば、ぜひご連絡いただきたい。


*福井・あわら総会特集・その三*
プレ企画第二部に参加して

神奈川支部  永 田   亮

一 福井あわら総会に行って
 弁護士になってもうすぐ一年です。昨年一二月の特定秘密保護法成立から、集団的自衛権の行使容認の解釈変更など、社会がおかしい方向に行っているのではないかという焦燥感を日々感じています。
 そのような中で、平成二六年五月二一日の大飯原発地裁判決は、久しぶりの明るいニュース(寂しいことですが)であるとともに、「司法は生きていた」と評される画期的な判決でした。
 先日福井のあわら温泉で開催されました自由法曹団の福井総会の一日目、新人学習企画「もんじゅ判決から大飯原発判決へ」におきまして、弁護団員である吉川健司団員及び原告団員である中嶌哲演さん(明通寺住職)による学習会がありました。企画の詳細な内容は、先だって佐野雅則団員からご報告がありましたので、私は新人として感想を述べさせていただきます。
二 第一線でたたかわれてきた当事者のお話
 私も団員のはしくれとして、いくつかの弁護団に所属しておりますが、自分の参加していない弁護団の活動についてお話を聞く機会はそう多くありません。ましてや原告ご本人のお話を聞く機会は非常に限られています。
 そのような中で、原発訴訟という長年にわたって争われてきた事件の、しかも画期的な勝利判決に携わっていた弁護士からのお話は、従前の裁判での苦悩から、最新の裁判への変化などを詳細に伝えてくれるもので、非常に参考になりました。
 また、原告である中嶌さんも、もんじゅ訴訟の頃からどのような気持ちでたたかってきたのか、これからもどうたたかっていくかという点について理路整然と語られていました。
三 たたかいの原動力
 お話を聞いて私が強く感じたのは、弁護士も原告も、これからどういう社会になって欲しいか、どういう社会で暮らしていきたいかというビジョンを具体的に持っているということでした。
 原発訴訟自体は、法的には原発の安全性への疑問に基づく訴訟ではありますが、企画でのお話を聞いて、当事者の皆さんが目指しているのは、原発の不安を感じることない社会、地域の活力を生かして発展していく社会、過疎地への負担の押しつけのない健全な社会であり、そのようなビジョンの実現の方法の一つとして原発訴訟があるというように感じました。
 そして、福島原発の大事故を経て、原発が存在することが社会に与える不安、地域の活力の喪失、原発必要神話への懐疑など、当事者の方たちが訴えてきたことが、客観的事実として明らかになりました。
 生命を守り生活を維持する利益は人格権の根幹であるという福島地裁の判断も、単純な法的判断を超えた、住民の不安に応える形のものと感じました。不安を抱えて生活している個々人がその場所にいるということこそが、たたかいの原動力であり、今回の判決の基礎にあるものだと思います。
 中嶌さんの「自利」と「他利」のお話も、みんなが幸せに過ごせる社会にしたいという、とても当たり前の願いであり、だからこそ大勢の力になるのです。
四 これから自分のなすべきこと
 新人として学ぶことの多い一年を過ごしてきましたが、今回の企画でまた一つ指針となる考え方を学ぶことができました。当事者の声に耳を傾け、誠心誠意努力することは当然ですが、その事件の背後にある社会の不安にどう応えるか、その事件を通してどのような社会を目指していくべきかという視点をもって、これからも事件に取り組んでいきます。


第四分散会に参加して

神奈川支部  海 渡 双 葉

第一 はじめに
 二〇一四年一〇月一九日〜二〇日、福井県あわらにおいて、自由法曹団の総会に参加しました。私が参加した第四分散会は、新人六六期の同期が多く参加しており、比較的、若手弁護士が多いように見受けられました。
 以下、印象に残った点を報告させて頂きます。
第二 討論内容
 まず、討論テーマとして最初に挙げられていた「憲法と平和・民主主義をめぐるたたかい」についての発言が、最も多く寄せられました。憲法と立憲主義を破壊する政権の動きなど情勢報告と、集団的自衛権の徹底解析本の紹介などに続いて、弁護士会を中心にして運動を広げていき、解釈改憲に反対する右派勢力も巻き込むことの必要性などが訴えられたり、自衛隊内部での隊員の人権侵害の問題提起がなされたりしました。また、地域での憲法学習会の講師活動の報告や、インターネットを利用した集団的自衛権に関する情報拡散の影響力についての言及もあり、参考になりました。
 このほか、秘密保護法の適性評価制度における外国人差別の問題や、慰安婦報道をめぐる元朝日新聞記者へのネット上の攻撃の問題、ヘイトスピーチ問題などについても意見が交わされました。沖縄支部の白団員からは、沖縄の情勢報告をして頂きました。団通信一五〇五号などでも詳しく書かれているため、ここでは詳しくは説明しませんが、沖縄県外からでは分かりにくい肌感覚のようなものも含めて説明して頂きました。
 次に、討論テーマの「治安警察 主に盗聴法拡大・司法取引導入について」では、盗聴法に関しては、以前の日弁連の実績にもかかわらず、日弁連が法制審で最終的に丸呑みしてしまったことから、団の役割大きいことが強調されました。また、司法取引については、供述義務を負わせるものであり、冤罪の危険性が高いことが指摘されました。
 また、討論テーマの「労働者の権利を守り、労働法制の改悪を許さないたたかい」では、残業代ゼロや、労働者派遣法改悪などを中心に討論がなされました。STOP!アベノ雇用破壊のリーフレットを活用した、地域での街頭宣伝などについても報告されました。
 紙面の都合上、すべては書けませんが、このほかにも多岐にわたるテーマについて、活発な討論がおこなわれました。日頃は地元地域での活動に追われていますが、全国各地で、さまざまな活動が展開されていることが分かり、充実した分散会であったと思います。


アラセブ・アラコキ(古希)三人組、針の木大雪渓に挑む

東京支部  菊 池   紘

 北アルプスの針の木大雪渓は、白馬大雪渓、剣沢大雪渓とならぶ日本三大雪渓のひとつである。荒井新二(東京合同)、石崎和彦(第一)、菊池紘(城北)が、無謀にもこの雪渓を登り針の木岳をめざそうと思い立った。七月末のことである。三人とも古希前後だ。正気の沙汰とは思えない。
 針ノ木峠と針の木岳はどこにあるのか。アルペンルートの黒部平からロープウエイで登り、展望台となる大観峰から見おろすと、黒部湖の上に連なる山並みの右端に目立つ鋭鋒が針の木岳だ。その頂上から針の木峠に下って登り返すと蓮華岳になる。その昔富山の佐々成政が、秀吉憎しの一念で家康との同盟を求め、厳冬の十二月に五色が原の北・ざら峠から黒部川をわたって雪深い針の木峠を越えて、信州に出た。そしてようやく浜松の家康に会うことができたが、体よく断られ失意のまま戻った史実は、よく知られている。
 三人は新宿駅西口の高速バスターミナルから信濃大町をめざす。バスの中では、石崎の国立大付属名門高校山岳部の話に花が咲く。かの東大闘争の前の昔話だ。
 その夜は大町にある石崎の別荘に泊まる。菊池は「ここのところ坐骨神経痛で、膝の裏側とふくらはぎがピリピリするからゆっくり登るので」という。のんびりマイペースで登るための前振りだ。

 翌朝、三人は別荘を早朝に出発し、アルペンルート長野側入り口の扇沢から大沢小屋を目指す。大沢小屋は「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し」と書いた百瀬慎太郎が開いた由緒ある小屋で、その怖い小屋番も有名だ。先導するのは石崎。あとの二人は黙々と続くが、間もなく菊池は歩けなくなる。菊池の少なくない山登りの経験でも、朝は食事をとってから歩き出すのが常で、空腹のまま登るなどおよそあり得ない。ところが先頭の石崎は、朝食も取らせないまま大沢小屋へ向かい一時間以上も歩かせる。昔の某国立大付属の山岳部は朝飯も食わせないまま、えんえんと歩かせたのか・・・・。我慢できずに菊池が勝手に自主休憩をきめこみ、座り込んで持参した一口大福をふたつ頬張ると、途端に息を吹きかえす。仕方なく一緒に大福を口にした荒井と石崎も元気になる。現金なものだ。
 大沢小屋で朝食をとってから三〇分ほどで雪渓にとりつき、アイゼンを着けて幅広い雪渓の真ん中を登る。菊池が前に歩いた時は紅がらがまかれて道を指示していたが、今回は見あたらない。三人は好き勝手に道を選ぶ。思いのほか斜面は急だが、陽を受けた雪原はまぶしく輝き、アイゼンが小気味よく雪をとらえ、冷たい風が頬に心地よい。真夏の登山にはない快感だ。
 雪渓の中ほどで、太いダケカンバが横たわっていた。登ってきた雪原を見おろして腰掛け、一休みする。雲の上にピラミダルな山影が途方もなく高い。菊池が「あれは爺が岳」というと、石崎が「違うだろう」という。いや、爺が岳に違いないと思う。このとき登ってくる年季の入った山の服装の二人に「下を向かないで上を見なさい。落石があるから」と教育的指導を受けた。まことに的確な指導で、見ると周りには大きな石がごろごろしている。「ありがとう」といって、向きを変え座りなおして、山を見上げるようにした。休憩を終えて歩き始めてからは、急に落石が怖くなり神経質になる。
 急斜面の「ノド」を越え、まもなく雪渓も終わる。ここからは赤土の中のつらい急登になる。「写真を撮りながら登るから、先に行ってくれ」と二人を先に行かせ、菊池はほしいままのマイペースで歩く。雲海の上に浮かぶ鹿島槍が岳などの写真を撮りながら、焼けつくような耐えられない暑さの中で急斜面を黙々と登る。突然右足の大腿四頭筋がブルブルと激しくけいれんする。あちこちの山を登ったが、初めてのけいれんに慌てふためく。カメラを投げ捨て、急いで手で太ももを抑えつけても止まらない。どうしよう。ふと思いついて、右足をたたんで、足首を尻に押しつけるストレッチをするとけいれんは止まった。ほっとする。思いつくことを何でもやってみるものだ。・・・・
 しかし、菊池の足取りは遅々として進まず、荒井と石崎からおおきく遅れてしまった。ここへきての三歳の年齢差は大きい。ようやく黒部湖にむかう峠の針の木小屋にたどり着く。蓮華岳に登るという荒井と石崎に、菊池は「ぼくは今日はこれまで」と降参。コースタイム五時間を一時間以上もオーバー。針の木小屋に泊る。

 翌日もいい天気。荒井と石崎は西へむかい針の木岳に登る。十年ほど前に登っている菊池は一人で東の蓮華岳に向かった。蓮華岳は「高山植物の女王」コマクサで有名だ。
 一時間ほど登った頂上付近で白く開けるザレバ(粒の細かい砂礫地)に、うす赤いコマクサが広がっている。今までに岩手山、秋田駒ガ岳、白馬岳、そして八ヶ岳の赤岳・硫黄岳などでもコマクサを見ているが、それらを超える、とんでもなくおおきな広がりだ。
 雲一つない晴天のもと三六〇度の景観。北には遠く鹿島槍、五竜、白馬、そして近くに剣岳と立山が連なる。眼前のザレバには見渡す限り一面に、朝の柔らかい日を受けてコマクサの群落が燃え立つ。南をふりかえると雲一つない青空をバックに、槍、穂高、大天井、水晶、鷲羽、そこから西に黒部五郎岳と薬師岳が雄姿を見せる。かつて登った北アルプスの山並みをひとつひとつ同定しながら、菊池は茫然となる。至福の時というのだろうか。今この時に針の木岳の頂上で荒井と石崎は同じ夢の様な眺望を堪能しているのだろうか。
 針の木から小屋に戻った荒井、石崎と蓮華から下りた菊池は下山にかかり、雪渓をもどる。ここでも菊池は「写真を撮りながらゆっくり降りるから、先に行ってくれ」と二人を行かせる。リズムよく下った雪渓を離れると、その先はまた足が重くなる。どこまで歩いても大沢小屋につかない。あまりに長く歩いたので、いつのまにか大沢小屋を見逃して通り過ぎたに違いないと思い、「どうにでもなれ」と登山道の横でぺたっと座り込んで、ウィーダーインを飲んだ。しばし休んでから「よっこらしょ」と立ち上がり二十歩も歩いたと思うと、行く手を隠していた木立が切れて、そこが大沢小屋だった。暗い中に小屋番が二人いる。「こんにちは。お世話になります」と声をかけると、それは小屋番でなく荒井と石崎だった。「とっくに先に行ってると思ったが」というと、荒井はさえない顔で「転んでばかりいる」「膝に力が入らない」と。菊池は「よくわかる」と同病あい哀れむ。膝に力が入らずカクッとすると、つぎの瞬間には転んでひっくり返っている自分に気がつくのだ。大沢小屋までくれば扇沢はすぐだ。

 この三人組の登山で菊池に印象深いのは、夕食後に針の木小屋前庭のベンチで見上げた無数の星のきらめきだ。そして石崎がこの時のために持参した舶来のウイスキーの豊潤な味わいだ。「飲む前の手順が大切だ。まず口に水を含み、口中で回したら吐き出す。それからおもむろにウイスキーを含み、鼻から香りを嗅ぐ。そしてゆっくり舌の上で味わう」と石崎。残念ながら、菊池は鼻から香りを得ることはできなかったが、降るような満天の星を見上げながら味わうウイスキーは絶品だった。これだから、山はやめられない。


猛暑の朝日連峰縦走(三)

神奈川支部  中 野 直 樹

月山、鳥海山を展望しながら
 竜門山を経て西朝日岳への登りで北東方向に振り返ると、中腹に雪渓を蓄えた月山がどっしりとかまえ、ずっと北方向に鳥海山が遠望された。ここからみる二つの名山は、西の稜線が東のそれよりも急な角度となっておりよく似た姿勢である。地図にはヒナウスユキソウと書いてあるが、時期が遅いのか目にできなかった。同じキク科ウスユキソウ属のハヤチネウスユキソウは、日本のエーデルワイスとして人気だが、我がカメラにバッチリの写真が収まっている。浅野さんの早池峰山登山は季節はずれでしかも雨登山だったようで、この花の一点では、浅野さんはもう一度登り直してこなければならない。カタカナ名もいいが、薄雪草との漢字名も季節感にあふれ、好ましい。これも時期はずれだがハクサンシャクナゲが一輪残っていた。
 一〇時一五分西朝日岳の標識の前に荷を下ろした。三角点もない扁平なところだが、大朝日岳の四角錐の眺めがすばらしいビューポイントである。ここで早い昼食となった。吹き上げて来る風があるおかげで、昨日はとても食べようとの気にならなかったラーメンをつくった。寒江山・竜門山・西朝日岳の西斜面は三面川の源流部の岩井又沢である。太田蘭三という作家が「殺意の三面峡谷(渓流釣り殺人事件)」という推理小説を書いている。レジャー・ライターの釣部渓三郎と女子大生のアキを主人公として、山で見かけた岩魚釣師が三面渓谷で転落死をした事件の真相を追うストーリーである。荒っぽい筋だが、朝日連峰の登山道、峻険な沢を克明に描き、とりわけ岩魚釣りの描写は迫真性抜群である。私などにはとても入り込める渓ではないが、ところどころに雪渓を残した岩井又沢の見えない渓底を泳ぐ岩魚に想像をめぐらせた。
 空全体に雲が沸いてきた。大朝日岳も消えたり、見えたりとなった。西朝日岳から中岳への平坦な尾根は、湿原と足下の花が目を楽しませてくれた。中岳から下って鞍部にでると、金玉水という標識が傾きながら立っていた。これは読み方に注意をしなければならない。ここが、竜門小屋の管理人が言っていた雪渓・水場である。荷を下ろして、水入れやペットボトル、ビニール袋を手にして、雪渓まで下った。水場にはスコップがおいてあり、これを手にして雪渓上に立って、かちんかちんの氷となった雪を削って袋につめた。周辺は、白い五片の花弁と雄しべ雌しべの中心の黄色が美しいチングルマ(稚児車)の大群落であった。
山頂の不運と運
 一二時半、大朝日岳山頂避難小屋に到着。早速三本の缶ビールをビニール袋のの雪渓氷の中に入れ、空身で山頂に向かった。霧が山頂を被い、ホワイトアウト。浅野さんは、昨夏の雨の飯豊山頂と同じ霧中の人となって八六峰めの百名山の写真に収まった。
 小屋に戻って寝場所を確保し、つまみをもって外に出て、恒例のビールでの長話となった。小屋の前の空き地には高さ五〇センチほどの社があり、その側に借入人東北電力山形支店長と書いた杭が立っていた。管理人の話では、もともと東北電力がこの山塊を水力発電の水源としており、昔はこの地にもっと大きな社を据えていたが、磐梯朝日国立公園となったときから、東北電力が正式に国有地の一部を社の敷地として借り受けてきたとのことである。毎年、東北電力の社員がこの社に詣で、その後ここで大宴会をすることがしきたりとなっているという。
 現在の小屋は三代目で一代目、二代目の敷地は花畑になっていた。その一画にクルマユリの群生があった。鮮やかな朱赤色の花弁は人目を引きつける。浅野さんは、葉が茎の中央部で五〜一〇枚と輪生しているところから、「車」と命名されたと講釈していた。三本目のビールは夕食にとっておくことにして、めいめい持参のウィスキー、焼酎に切り替えた。
午後四時過ぎ、山頂の霧が晴れた。出直し登頂しようということでカメラをもって向かった。南西方向には、飯豊山塊の長い稜線が横たわっていた。はるか天空には絹雲が、目線の高さから天空に向けて綿飴ができるように雲が沸き上がるショーに堪能した。全容をあらわした月山をバックに山頂写真を撮り直すことができたのは心のアルバムとしても幸運であった。
山道具あれこれ
 小屋での着替えのとき、私の右足首から膝上にかけて一〇数個の赤い斑点ができ、痒みがあった。昨夜のシュラーフに入っているときに食われたものとしか考えられない、藤田さんは、ダニではないかと言うので、とりあえずシュラーフを小屋の外の杭につるして虫干しと風に曝した。この赤いシュラーフは大学時代に買ったもので、夏用に使ってきたが、これで引退だと決めた。昨夏の雨の飯豊山行では、とっくに耐用年数が過ぎた山靴でひどい目にあい、下山後すぐ靴を買った。今山用品店に行くと良い素材の見た目も華やかな商品が物欲をあおるが、他方で、苦労を共にしてきている山道具は愛着があり、簡単に手放せないのである。昨夏、百名山を達成した京都の村松いづみさんのお気に入りのピンクのTシャツはかなり前の写真にも写っているということが道中の小笑話になっていたことを思い出した。私たちの登山道具は、大半がヨレヨレである。
 夕方、女性登山者が小屋に着いた。まず、単独行であることに感心した。続いて、私の目にも、彼女の身に付けている道具や衣服がブランドものに見えた。すべてにくたびれたところがないのである。浅野さんは最も道具に凝り、金をかけているので、ブランド名やおおよその価格を頭のなかで計算したに違いない。ほどよく酔った私たちおじさんが声をかけるのはなんとなくはばかられ、目の片隅にとどめるだけにしたが、翌朝出発のときに、浅野さんが彼女のもっているカメラに目をつけ、最新の一眼レフであることを聞き出していた。
朝日鉱泉へ
 最終日は霧に包まれ、三度めの山頂はやめて六時、五時間四〇分の下山の人となった。途中、小朝日山への直登はきつかった。鳥原小屋は管理人が留守だった。この敷地には、「大自然の心の碑、朝日連峰の名案内人を讃える」、「朝日岳人の碑」が設置されていた。山を生活の場所としてきた歴史の一端である。そこに、昨年まで二六年間タキタロウ小屋の管理人をしていたという男性が、引退後の挨拶にこれから各小屋を回ってこようと考えて登ってきたと話しかけてきた。山ブームとなっている現在も、朝日山地を訪れるハイカーは少なく、管理人の手間代の確保も難しいですよと話していた。
 一一時四〇分、朝日鉱泉ナチュラリストの家に着いた。二八蕎が旨く、おかわりをした。そして、「朝日連峰の狩人」の著者である主の西澤さんから、日帰り湯客で、生ビール四杯も飲む方は珍しいとあきれられながら、一二杯の代金を支払った(終)。