<<目次へ 団通信1530号(7月11日)
東京支部 船 尾 徹
戦争法案とガイドライン
昨年二月一二日、安倍首相は、「憲法解釈に責任を持つのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」と、小選挙区制効果による「虚構の多数」をバックに「民主主義」を名乗り、集団的自衛権の行使容認にむけて「暴走」を始めた。
憲法九条と自衛隊の整合性を確保しながら自衛隊を合憲化する最低の要件(個別的自衛権)を軸に展開した「ガラス細工」とよばれる政府解釈は、「専守防衛」がこの国の政治・外交の基本原則として、内閣、国会、裁判所における「法的制約」としてなんとか機能してきた。それは、問題点をかかえながらも、集団的自衛権の禁止、非核三原則、防衛費対GNP比一%枠、対外侵攻用兵器保有(航空母艦、原潜、爆撃機等)の制限、武器禁輸三原則、自衛隊の海外派兵禁止、集団的自衛権の禁止等々となって、この国の戦後政治の場に「政治的縛り」として現実に機能していたのである。
自民党政権は、これらの「政治的縛り」を次々と解き、戦後七〇年の今、「戦後レジームからの脱却」をめざす安倍政権は、「同盟として対応を必要とする可能性があるあらゆる状況に切れ目のない形で実効的に対処するため」(二〇一五年四月二八日日米ガイドライン再改定)、地球上のどこへでも日米「相互」に兵站活動・後方支援しあう同盟へと再編し、平時から日米一体化のもとで日米共同軍事体制を切れ目なく確立する「戦争法案」の成立をめざし、「専守防衛」を根本的に転換した国家へと「暴走」しようとしている。
「戦争法案」の立案に深く関与している磯崎陽輔総理大臣補佐官は、「戦争法案」が「あらゆる事態に備えるためには、あらかじめ法律を作っておいて、後の手続きで政府が基本計画を策定し、国会の承認を得ることにより手続きの迅速化を図る」ことにしているので、集団的自衛権を限定的容認のもとに国会のコントロールが機能すると公言してはばからない(Journalism二〇一五・六)。これに対して柳澤協二(元内閣官房副長官補)は、「何が起こっても対応できる法律というのは、政府が何をしてもいい法律になる」(同)と、立憲主義の根本を蹂躙する憲法解釈の変更のもとに構築された「戦争法案」の構造には限定的な「歯止め」などないと痛烈且つ的確に批判している。政治が軍事的合理性を追求する道を選択する以上、無限定な法構造を求めるのは必然である。
憲法解釈の変更による立法化の手法
この政権が、国会に提出している「戦争法案」の大きな問題のひとつは、憲法九条が否定してきた集団的自衛権の行使を、本来あるべき改憲手続によらずに、これまでの憲法解釈を変更する閣議決定によって容認し、それをベースに「戦争法案」として立法化することによって、最高法規としての憲法を破壊してしまう手法である。
政府権力による憲法解釈の変更によって、憲法そのものを乗り越えて「改憲」を進めるこうした手法に、改憲論者を含め広範な国民的批判が集中し、反対運動は急速に拡がりだしている。
中谷防衛大臣は、「憲法上、安全保障法制はどうあるべきか、(中略)現在の憲法をいかにこの法案に適用させていけばいいかという議論を踏まえて(法案の)閣議決定を行った」(六月五日衆議院平和安全特別委)と、憲法よりも法律を優位に転倒した「逆立ちの論理」にもとづく憲法解釈の変更によって、「憲法の最高法規性」を否定する「戦争法案」の立案経緯を図らずも明らかにしてしまった。
「戦争法案」のもうひとつの問題点は、国会に「戦争法案」を提出し、戦争と平和にかかわる国家のあり方を決定する「戦争法案」の合・違憲性についての国民的論議をいまだ経ないうちに、四月二七日に合意した日米ガイドラインの再々改定によって「戦争法案」の基本的内容を決定し、しかも、これを「この夏までに成就させる」ことを安倍首相は、米国に誓約しているところにある。そこには、「戦争法案」に対する立法府としての国会における審議を徹底して軽視し、国民に真摯に説明しようとする姿勢は毫もない。
それのみならず四月二八日の日米共同記者会見において、安倍首相は戦争法案について、「『戦争に巻き込まれる』といったレッテル貼り的な議論が日本で行われることは大変残念」と持論を展開し、一九六〇年に日米安全保障条約を改定した際も同じように批判されたが、同条約によって「日本の安全は守られ」たとして、「批判が全くの間違いであった」と歴史をねじ曲げて開き直ってさえいる。
しかし、歴史をふりかえってみれば、九条が改憲されていれば、そして、あの六〇年安保の大闘争もなかったら、その後のベトナム戦争への不参加、アフガン、イラク戦争で武力行使させなかった歴史はありえなかったことはいうまでもない。
また、野党の質問に対する安倍首相の答弁は、「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」、「戦闘が起こったら直ちに部隊の判断で一時中止するか退避する。リスクと関係がない」(五・二〇衆議院国家基本政策委員会合同審査会)などと誤魔化し欺瞞に終始し、あたかも政府に立法権を与え、その政府立法には国会の審議は不要であるかのごとき強権的な様相を呈している。
こうした状況のもとで、憲法審査会における憲法研究者の「戦争法案」を違憲とする根本的批判が、国民のなかに「激震」のごとく走った。これを沈静化するため集団的自衛権などまったく論点になっていない「砂川事件最高裁判決」にその根拠を求め、その挙げ句、安倍首相は「その時々の内閣が、必要な自衛の措置とは何かを考えるのは当然だ。国際情勢にも目をつぶって従来の(憲法)解釈に固執するのは、政治家としての責任の放棄だ」(六月一八日衆議院予算委)と、時の政府が憲法解釈の限界を自在に踏み越え、これを立法化した「戦争法案」の成立にむけて「強権的・独裁的」に進めることを正当化しようと焦りさえ示している。
ワイマール憲法とナチスによる手法
「ある日気づいたら、ワイマール憲法がいつのまにか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうですかね」(二〇一三・七・二九)と語ったのは、当時の副首相麻生太郎であった。しかし、ワイマール憲法が改憲され、ナチス憲法に変わったなどとする歴史などない。ワイマール憲法は改憲されずに、そのままその生命を閉ざされたのである。
第一次大戦の敗北による巨額の賠償とおりからの「大恐慌」に直撃される危機のさなか、危機に対応する緊急措置を「決められない政治」に対して、ワイマール憲法の弱点と指摘されている「大統領緊急命令権」が頻繁に濫用され、緊急命令は激増、通常立法は激減した(前者一九三一年四三→一九三二年五九、後者一九三〇年九五→一九三一年三五→一九三二年五)。こうして法の支配は骨抜きにされ、ワイマール共和国議会は立法府としての体をなさず、政治的に破綻の道を歩み、ナチスに政権への道を開いてしまった(岡義武「独逸デモクラシーの悲劇」文春学藝ライブラリー二〇一五年四〇頁以下、大竹弘二「『民主的立憲国家』は生き残れるのか」立憲デモクラシーの会編「私たちは政治の暴走を許すのか」岩波ブックレット所収二〇一四年三七頁以下、大竹弘二・国分功一郎「統治新論」太田出版二〇一五年六九頁以下)。
こうした危機的状況が進行する状況のもとで、ナチスは、一九三二年七月の総選挙で第一党に進出し、同年一一月にもう一度総選挙に勝利し、翌三三年一月三〇日ヒットラーが政権につくと、三月二三日非合法な暴力を実行しながら議会における多数を確保し、あの悪名たかい「全権委任法」(「民族および国家の危難を除去するための法律」)を成立させることに成功する。こうして、最も民主的といわれたワイマール憲法は、改憲されることなく死命を制されたのである。
「全権委任法」は、「帝国の法律は、帝国憲法によってあらかじめ規定されている手続きのほかにも、帝国政府によっても制定されることができる。これは帝国憲法第八五条二項および第八七条に示されている法律についても妥当する」(第一条)として、「立法権」を政府(ヒトラー内閣)にも与えたのである。
次に、「帝国政府によって制定される法律は、それらが帝国議会および州代表協議会の構成それ自体対象とするものでない限り、帝国憲法に違反することができる」(第二条)として、「政府立法」が憲法に優越し得ることを定め、憲法を改変する立法を可能としたものである。
また、「帝国政府によって制定された帝国の法律は、帝国首相によって認証され、官報で公示される。それらは別段の規定がないかぎり、公示の翌日から効力を有する。憲法六八条から七七条は、政府によって制定された法律の適用を受けない」(第三条)として、法律は国会で定めるという憲法六八条の規定は、「政府立法」には適用されず、国会の審議を経ずに「政府立法」の制定が可能となったのである。
こうした「全権委任法」によりナチス政権は、国会審議を経ずにすべての法律(予算案を含む)を制定できるようになる。全面的な委任立法権を政府に与え、政府単独の意思であらゆる法律を立法し得ることにより、ワイマール憲法にとどめを刺す立法を手にすることが可能となったのである(岡義武前掲の三谷太一郎の「解説」一六三頁、池田浩史「ヴァイマル憲法とヒトラー」岩波現代全書二〇一五年一七二頁以下、石田勇次「ヒトラーとナチ・ドイツ」講談社現代新書二〇一五年一五三頁以下)。かくして一九三三年−四五年の間に帝国議会の制定した法律八件、同期間の授権法による政府立法は九八五件に達した(広渡清吾「ナチス法研究覚書」労働法と現代法の理論 西谷敏先生古稀記念論文集(下)所収日本評論社二〇一三年一六一頁)。
安倍政権による「改憲の暴走」をナチスの手法と単純になぞらえるつもりはないが、戦後七〇年の今、私たちは、権力の濫用・暴走を規制する立憲主義を破壊され、人権と民主主義が破壊されたあの時代に、時計の針を逆戻りさせてはならない。
(二〇一五・七・一記)
東京支部 黒 岩 哲 彦
菅官房長官は戦争法案合憲論の「たくさん」の「三人」の憲法学者のひとりとして長尾一紘中央大学名誉教授をあげました。
長尾先生(私には恩師です)は「戦後七〇年、まだ米国の洗脳工作にどっぷりつかった方々が憲法を教えているのかと驚く。一般庶民の方が国家の独立とはどういうことか気づいている」と発言したと報道されています。
長尾先生は一九七二年に中大法学部助教授になりました。私は一九七四年度の中央大学法学部三年時の長尾ゼミ生です。長尾ゼミ同期には団員の友人がいます。
一 初期長尾先生の研究課題は立法不作為論
長尾先生の最初の論文は『立法の不作為に対する憲法訴願―西ドイツにおける理論と実践』(法学新報七九巻一号)です。この「立法の不作為論」の研究は憲法二五条プラグラム説の克服が問題意識にあります。憲法二五条の生存権を「立法府に不作為の違憲確認を裁判において主張しうる現実的権利」としています。
二 初期長尾先生の九条論
長尾先生の教科書『日本国憲法』(世界思想社、一九七八年七月一日初版発行)が手元にあります。
初期長尾先生の九条解釈はオーソドックスですっきりしています。九条一項は「自衛戦争をも含めたすべての戦争が放棄」説であり、自衛隊は「陸海空軍」そのものである。」としています(五五頁以下)。
初期長尾先生の自衛権論もオーソドックスで、集団的自衛権合憲論がでてきる余地は全くありません。
「いわゆる「他国依存主義」の立場を表明したものではない。日本国民みずからが恒久平和の理念を実践することによって、平和を愛好する諸国民との間に信義と信頼の関係ともつことができることは明らかにしたのである。従来の国々は、軍隊を備え、場合によっては戦争に訴えることが自衛のための有効な方法であると考えてきたが、日本国憲法は、これらをいっさい禁止し恒久平和の理念をみずから率先して実践することこそが、国民の安全と国家の主権を維持するうえでのもっとも有効な保障であることを明示したのである。具体的には、国際的な安全保障を確立することこそが、憲法の予定している安全保障の方法でもあると思われる。現実には、国選の安全保障機構を、さらに強固にして、その機能を高めることが要請される。万一、不正な侵略を受けるような場合があったらどうすればよいか。この場合には、警察力の行使を含む、さまざまな形での、具体的状況に適した自衛権の発動が可能である。」(六〇頁以下)。
そして長沼訴訟第一審福島判決を肯定的に紹介しています。
三 長尾先生の現在の立場
・・・『美しい日本の憲法をつくる国民の会』の共同発起人
長尾先生の最新の教科書『日本国憲法全訂第四版』(世界思想社、二〇一一年六月三〇日発行)は「文字どおりの全面改訂」(はしがき)となっています。
「はしがき」で「反日自虐の歴史観が日本の国民意識を蝕みつづけている」と強調して次のように述べています。「戦後体制の顕著な特質のひとつとして、国家意識の欠如をあげることができます。この国家意識の欠如が、外交、安全保障のみならず、日本のすべての局面での隘路となっているように思われます。国家意識の欠如は、現在、あらたな局面をむかえつつあるようです。近時、有力に主張されている「東アジア共同体論」は、日本国の国家主義を相対化しようとする所論です。また「地球市民論」は、「国民」の観念を相対化し、これにかえて「地球市民」を国政の基礎にしようとするものです。両者とも、日本国憲法の枠をこえる所論です。両者は、現在におけるもっとも重要な憲法問題になりつつあります。ところで、国家意識の欠如は、世界でも日本だけにみられる特異な現象です。これが多様な要因によることは明らかですが、戦後の憲法学のあり方も戦後の憲法学には、国家の存在意義を軽視する傾向があったようです。(第四に)、歴史問題を再検討することにしました。なによりもまず、日本国憲法の成立過程、成立法理はどのように考えるべきか、という点が問題となります。反日自虐の歴史観が国民の心を蝕みつづけていますが、その影響は、憲法解釈にもおよんでいるようです。」(はじめてi)。
本書は国家主義憲法学の立場が貫かれています。国民の国家に対する忠誠義務、核武装合憲論、国家緊急事態制度合憲論、改憲論として(1)九条の改正(自衛権、自衛のための戦力の明記)、(2)前文の改正(日本という国家のアイデンティの明示)、(3)緊急事態条項の導入を主張しています。
四 長尾先生の現在の立場こそ「反日自虐」
戦争法案が「対米従属を強める解釈改憲」(小林節慶應義塾大学名誉教授)であることは国民的常識です。
長尾先生は「日本国憲法は、占領軍の手によって、占領目的達成のために作成された。この憲法の正当性を正面から論証することは困難である。」として「占領憲法論」を主張し、「米国の洗脳工作」や「反日自虐の歴史観」を強調します。しかし長尾先生の立場こそ「米国の洗脳工作にどっぷりつかった」「反日自虐」であることは明らかです。
東京支部 菊 池 紘
□ 「平日の夜に集まった参加者は一三五〇名!練馬爆発!」とブログに書いているのは、遠く立川からきて集会とパレードを撮影し、その映像を流してくれたKさん。
「各梯団にコーラーがいて、とぎれることなく続くショートコール。」「元気があって力強く、ドラム隊も先頭集団にいて盛り上げてくれました。」「感謝&リスペクト。雨も上がって暑くも寒くもないベストな天気の中、気持ちのよいデモでした。」と。
また、他の人も「平日の夜のローカルデモとしては画期的な人数になった」と。
□ 東電などの連合練馬のほかに、区労協、全労協、労連と、ローカルセンターが三つもあるところに練馬の複雑さと面白さがある。六月一〇日の第一回実行委員会で、今回この三つが連名で集会を呼びかけたことに、「豊かさとはなにか」の暉岡淑子さんは「ほんとうにありがたい」と述べた。そして続けて「労働組合はいまこそゼネストに決起すべきだ」といって、労働組合幹部をあたふたさせた。
実行委員会は原案の「戦争法NO練馬区民集会」を、練馬で働く人もということで「戦争法NO!練馬集会&パレード」に変更。労働三団体が、ここ数年で最高の五〇〇人を目指すと提案すると、総がかりで一〇〇〇人!という声もでて周りから笑いもでた。とてもとてもムリということだ。
二五日の第二回実行委員会をふまえ、集会前日に「毎日」と「東京」に二万五〇〇〇枚のチラシを折り込んだ。そこには「私も参加します」として、有原誠治、高畑勲、暉岡淑子、永田浩三、の名前が載せられた。
□ 七月一日の当日朝から休みなく続くシトシト雨。気をもんで何度予報を見たことか。四時にはようやくあがり、そして超党派の戦争法反対合同演説が練馬駅頭で始まる。演説には、民主党、共産党、生活者ネット、市民の声ねりま、社民党、新社会党の議員らが並んだ。一聴衆として聞いていた私も求められて飛び入りの訴えをする羽目に。こうして一年前の区長選の候補者がすべて並ぶことになった(現職の自公の候補を除いて)。民主の白石さん、市民の声の池尻さん、そしてみんなの会の菊池が。ここで訴えた人々はそのまま集会に参加した。
□ 「七・一戦争法NO!ねりま集会&パレード」は松平晃さんの高らかなトランペットでスタートした。練馬駅近くの平成つつじ公園で夕暮れが迫る舞台から、ピースナイト九の早稲田大生は、貧困層の若者が追い込まれるアメリカの「経済的徴兵」を日本に持ち込ませるなと訴え、戦争を経験した八八歳は「上陸を想定したソ連のタンクに爆弾を背負って体当たりをする訓練をした。命を考えない戦争する国にしてはいけない」と述べた。暗闇が迫る中で照明をあびて若い母親は「息子を絶対戦争に行かせないために」と訴え、元レンジャー部隊自衛官は「戦争法が成立すると防衛予算は今の一〇倍以上になる」と語った。
集会の途中には「一千名あまりの人が集まっています。まだまだ来ます。雨模様を見て八〇〇枚しか作っていなかったプラカードが無くなってしまったので、緊急に増刷中です」との報告に、会場がどっと沸いた。
アピール確認の後、暉岡淑子さんは閉会のあいさつで「言わないことが日本人の慎みなんかと思っているときではない。おかしいことはおかしいと発言していきましょう」と呼びかけた。
□ パレードの先頭は親子づれなどの市民。私たちはここのグループに「戦争法ストップ・城北法律事務所」の黄色い横断幕をもって加わった。ベビーカーの子供連れで歩く加藤幸さんをはじめ、家族連れが多い。すぐ前の梯団を高畑勲さんがみんなと一緒に歩いた。速いテンポのコールが続くパレードは道行く人の途中参加でふくれあがり、沿道やマンションの窓とベランダからは手が振られ、対向車からは賛同のクラクションが鳴らされた。
隊列後半には、実行委員長の出身母体である自治労区職労からの多数の参加があった。
桜台駅から帰途についた人々は、皆ちょっと興奮し、一様に満足の笑みを浮かべていた。
□ 練馬で過去最高の集まりは二〇年以上前の八〇〇人だという。一三五〇人は文字通りの空前の数字だ。
この間の憲法学者の違憲発言や首相応援団のマスコミとくに沖縄の言論抑圧とあいまって、幅広い超党派のよびかけが、この数字に結びついた。
これだけ集まったのは練馬の良心に真摯に呼びかけたからだ。実行委員会は、もっとも幅広く最大限の集まりを実現することに手だてを尽くした。「国会までは行けないが地元であれば声を上げたい」という人々のすべてに、こぼれなく呼びかけることを心がけた。
地域から、各地からもっとも幅広い呼びかけをして、それぞれの場で空前の参加を実現し、その勢いを国会に集中することが求められている。その先に国会を空前の規模で包囲するなら、廃案を実現できることだろう。
城北法律事務所 新 庄 聖
司会「城北法律事務所では、二〇一三年に自民党憲法改正草案を批判する集会を開催した際に、職員の有志で結成された劇団による寸劇を披露し、参加者の皆さまからご好評をいただきました。そのことに味を占め、また戦争法案が強行的に採決されようとしているという緊急事態に接し、前回のメンバーを中心として、所員有志が「劇団キンキュウジタイ」を結成してしまいました。」
ナレーション「これは、豊島区西池袋に五〇年間も住んでいる、城北家のお話である。」
(一家の団欒風景。父は新聞を読んでいる。母は掃除をしている。娘はスマホをいじっている。祖父は居眠りをしている。ポチは尻尾で遊んでいる。)
父「オレ、仕事辞める!自衛隊、辞める!!!」
一同「ええ〜!?」
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一 上演決定までのいきさつ
七月三日に事務所創立五〇周年記念企画「戦後七〇年 今こそ平和憲法とともに立つ―私たちは海外戦争法に断固反対します―」を開催するにあたって、当事務所では昨年秋ごろから集会プロジェクトチーム(PT)を設け、企画を立案してきました。その一つの柱となったのが、事務局による寸劇でした。
冒頭の司会の紹介にもあるように、二年前にも寸劇を上演しました。そのときは一〇〇人程度の会場で、メイン講師が決まっており、単なる前座扱いでした。しかも、あすわかの紙芝居もスライド投影するという“保険”をかけての上演だったのです。
しかし今回は、前座とはいえ五〇周年の記念企画で、昨年秋の段階では講師は未定、かつ最大八〇〇人の会場での上演ということで、本当にうまくいくのか、前回は練習が大変だったじゃないか、台本は五〇周年にふさわしい良いものが書けるのか、事務局が裏方に徹しないで集会が運営できるのか、など様々な論点が噴出し所内で弁護士事務局を超えての大論争が巻き起こりました。
集会PTの内部での「寸劇推進派」がそんな論争や批判をひとつずつ説得し、上演決定となったものの、それでも所内の不安や葛藤は消えませんでした。
二 台本作りと役者の苦労
そういった不安や葛藤を払拭するためには、まず良い台本が必要でした。そこで昨年末までに私は、台本の核心として(1)笑いで権力に対抗すること(2)難解なことを市井の人に易しく伝えること(3)城北法律事務所とともにたたかいに立ち上がる人を元気づけ、勇気づけること(4)事務所の宣伝になること、を位置づけました。
ちなみに(1)(2)は劇作家の井上ひさし氏が生前に常に考えていたことでもあります。
そのような台本をつくるために、(1)失言やウケそうなキーワードをチェックする(2)政治情勢や集団的自衛権行使容認の論理を学び、それぞれの理屈や批判を系統的に理解する(3)七月上旬までの情勢を予測する、情勢に合わせて改訂するといった作業をしました。
同時に役者に対しては、昨年夏の集団的自衛権の行使容認の閣議決定、その具体化としての戦争法制が整備されようとしているという情勢のなかで上演する意義をA4で一枚にまとめ、出演を依頼したときと稽古開始日に配布しました。練習は一ヶ月前から、お昼の三〇分間しかとれません。裁判所回りや受付、お昼当番など交替業務の関係や、子育てのため夜の練習はできないなど、なかなか思うように練習時間が確保できませんでした。しかし最後まで頑張れたのは、あらかじめ上演する意義を各々が理解しているからでした。
当日は、狙ったところで笑いが起こり拍手喝采の大成功でした。事務所ビルの清掃の方やコピー機リースの担当者も観に来て下さり、「テレビの中の難しい話が、急に身近な問題になった。」と絶賛していただけました。
三 運動における事務局の役割について
今回の寸劇には、事務局の三分の一以上、六名が出演するということで、日常の交代業務や当日の運営について他の事務局にはかなり協力してもらいました。また、弁護士も演技やセリフ内容に積極的に意見を出すなど、事務所の多くの方の協力なしに上演は成功しませんでした。
なぜ事務局が寸劇をやるのか。城北では偶々演劇経験者が複数いたことが寸劇を上演する契機になりましたが、本来は事務局が裏方を全うすることで弁護士が輝くのが普通でしょう。もっとも、事務局の仕事は事務作業だけでなく、依頼者と弁護士の意思疎通を助けたり、弁護士が手の届かないところを補うことでもあります。そういう意味では、寸劇は「分かりやすく伝える」という点で事務局の得意分野なのかも知れません。
当日のアンケートのなかに七〇代男性から「寸劇で、城北法律事務所の決意を感じた。」とありました。寸劇は最後にこう締め括ります。
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父「よーしわかった!じゃあ、そういうことで、戦争法制を廃案にするためにコールをしよう!」
一同「おお〜!!」(祖父、急に元気になって拳を突き上げる)
(家族でコールが始まる。祖父とポチも参加し、会場からも一緒にコールが起こる。)
父「集団的自衛権 ダメよ〜、ダメダメ。」
姉「もっと平和を 感ジターイ」
弟「総理ならポツダム宣言くらい、読んどけ〜」
母「戦争法制はんたーい。」
(会場が一体になったところで、一同礼をして手を振りながら暗転。)
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私たち事務局も、集会タイトルの通り「平和憲法とともに立つ」ことを決意しました。そして五〇周年を契機に、改めて「城北法律事務所とともに立つ」ことを決意したのです。
東京支部 小 口 克 巳
民主党が政府案にNoを突きつけ
限定的捜査可視化、盗聴法大改悪、司法取引の導入という性格の全く異なる三法案を抱き合わせにした刑事訴訟法一部「改正」案の問題点が次々と明らかになって来た。当初、日弁連も賛同したことで三月一三日の法案提出後一気に成立するかに思われた法案に対し、自由法曹団も問題点を解明した意見書を作成・配布するなど、可能な限りの手だてをつくして反対運動に取り組んできた。
国民各層の批判が強まり、ついに民主党は、六月三〇日にいたり、対案を作成し野党各党へ賛同を求めることになった。決して十分なものとは言えないまでも、民主党が政府案に対決する内容の対案を提示したことは反対運動がもたらしたものであり、その意義は大きい。これを契機にいっそう法案の問題点を広く国民に広げ、法案の廃案に追い込んで行かなければならない。
民主党案は、録画除外の例外を限定。盗聴拡大、司法取引を否定
録音録画についての民主党案の特徴は、録画の例外を「災害によりやむを得ない場合、被疑者が弁護人の同意を得て拒否した場合」に限定するというものである。政府案は、「被疑者の言動により、被疑者が十分な供述をできないと認めるとき」や「(被疑者や親族への侵害のおそれで)記録をしたならば被疑者が十分な供述をすることができないと認めるとき」などと定め、捜査官の判断でいかようにも録画停止ができるものだった。政府案の本質は、相も変わらず捜査の便宜優先で、本音は自白をどうやって得るかがある。これは、三年後の見直し規定にも表れている。民主党案が、録画対象事件をすべて事件への拡大を検討することとしているのに対し、政府案は、「取調の録音・録画に伴って捜査上の支障その他の弊害が生じる場合があること等を踏まえ」て、制度の在り方について検討、措置を講ずるなどとして、範囲等縮小も含めた、もっぱら捜査上の便宜を重視するものである。
民主党案は、司法取引の導入や盗聴の対象犯罪の拡大は「骨子」には盛り込んでいない。「新たな冤罪の火種を生むものであり、改正の本旨に反し到底容認できない」盗聴拡大は、「さらに広範なプライバシー侵害を生む安易な対象拡大は認められない」「『警察署で警察官のみ』での傍受が可能となり、適正担保がなされず認められない」として、これらの導入を認めない。民主党は、この点でも政府案とは相容れないものである。
「一括」法案となったことに問題の核心がある
民主党案の重要な特徴は、可視化、盗聴、司法取引を切り離してそれぞれの問題点を解明しようとしたことである。各法案は、目的・性格がそれぞれ違う。例えば、盗聴による人権侵害は、捜査の可視化で解消しない。個別に利害得失、人権侵害の危険などをきびしく吟味しなければならない。「証拠収集手段の多様化」の側面のみが注目されたための「一括」としか見えない。「一括」による、権力側主導のある種の「取引」の危険を指摘せざるを得ない。法案とする以上、「一括」自体が許されない(団の意見書その二《二〇一五年四月一五日》法案の一括審議を特に強調してきびしく批判した)。そして、一括審議に無理があることが、法案の危険性に対しての厳しい批判とそれへの理解が広がるなかで、いっそう明らかになった。民主党対案は、「一括」に対して断固としたNoを表明したものである。
たび重なる日弁連会長声明の異例、異常
法案の危険性を直視し、盗聴法拡大、司法取引導入についてきっぱり反対、取調の録音・録画の例外を(民主党なりに)限定させないことを目指した民主党に対比して、日弁連会長声明に見られる姿勢は異常である。国会内外の国民的議論に背を向けたものではないだろうか。
二〇一四年七月九日の答申案がまとまった時点、二〇一五年三月一八日の法案提出時それぞれの声明がある。この時期も日弁連内外で多くの批判があった。さらに、その後事態は大きく変わっている。多くの単位会からの反対や危惧の意思表明がなされている。最近では、千葉県弁護士会、三重弁護士会、そして横浜弁護士会(常議員会で承認)の各会長声明が出された。盗聴法拡大の危険性、司法取引がえん罪の新たな温床となることなど、次々と問題点が指摘され、五月一〇日は、刑事法学者連名の意見(「刑事訴訟法等改正案に対する刑事法会社の意見」)も明らかにされた。国会内での批判的論戦も広がった。
五月二二日付声明は、法案強行を後押しするもの
二〇一五年五月二二日の日弁連会長声明には、あらたに登場した部分がある。本来ならば、日弁連も一括審議には否定的なはずであるにも拘わらず、この期に及んで、一括審議の擁護をはじめたのである。
「本法律案については、多くの制度がひとつの法案に盛り込まれていることに批判もあるが、答申にも述べられているとおり、複数の制度が一体となって新たな刑事司法制度として作り上げられているものである。」
国会と国民的議論によって、「一括」の各部分の問題点がえぐり出された。可視化についてもえん罪被害者から「この法案ではえん罪はなくならない」との厳しい批判まで登場した。日弁連会長声明よりも時期は後ではあるが、桜井昌司さんの参考人意見陳述は注目を浴びた(六月一〇日)。
上記の声明は、法案の問題点をえぐり出したり、国民に軸足を置いて厳しい批判を取り上げていくのではなく、批判を封じ、法案に対する法案の問題点を押し隠すことになる。「約三年間の議論を経て全会一致で取りまとめられた答申に基づく本法律案」との声明の表現から、国会で出された疑念に答え、国民的議論に答えるとの姿勢を感じられない。法案提出者の立場に立ってしまったのではないかとの疑念を禁じ得ないものである。
「人権侵害や制度の濫用がないように対処していく。」とか、「いわゆる司法取引についても、引き込みの危険等に留意しつつ、新たな制度が誤判原因とならないように慎重に対応する。」と幾ら言っても制度を運用するのは、日弁連ではない。成立してから「監視」すればいいのではなく、成立前には、濫用可能な法律案にダメ出しをするのが弁護士会の責務である。それとも、一旦決めたからには、何が何でも突き進むということであろうか。国民の立場(在野)を堅持するなら、日弁連は何もおそれるものはないと思うのだがどうだろうか。
今後も日弁連内でも、旺盛な議論が重要
前述の通り、昨年七月の答申以後、連合会の判断に対して単位会からきびしい批判が会長声明等の形で噴出している。五月二二日の声明で、「当連合会は、市民・関係者、全ての弁護士、弁護士会とともに、改革をさらに前進させるために全力を尽くす。」と述べているが、この記載部分も新たに登場した部分。「(単位)弁護士会」を取り上げている。
連合会として単位弁護士会や各会員の活発な法案反対の動きを牽制したり、嫌悪する、ましてや禁圧などしないことを願う。単位会を基礎とした自由闊達な議論は日弁連の活力を支えるものと思うのである。日弁連の在り方もまた、厳しく問われている。
国民各層での反対運動を強化しながら、日弁連内でも沈黙に転ずるのではなく、各単位会からの活発な意見発信をはじめ引き続きの議論と運動がなされるべきである。人権擁護を目指す弁護士のよってたつ基盤が国民、人民の立場であることをかさねて確認したい。
埼玉支部 上 田 月 子
一 はじめに
団は、全労連などと共に、二〇一五年七月二日、午前一〇時から午後八時まで、「派遣労働一一〇番」を行いました。
私は最初の電話(五〇代女性)と最後の面談(五〇代女性)、その間にもう一つ電話相談(三〇代男性)を担当したので、その報告をします。
二 相談の概要
(1)相談一(Aさん・五〇代女性)
Aさんの電話は兵庫県からでした。今日は仕事が休みとのことです。専門二六業務三か月更新で、六年近く今の派遣先で働いています。
Aさんの派遣先に、障害者枠で大卒の新卒者が正社員として入って来ました。仕事を教えるように言われたので、「先に私を正社員にしていただけないか」と派遣先に聞いたところ、「正社員にはできない」と言われました。派遣元からは以前から正社員にして欲しいと申し入れをしてもらっていました。そのような申し入れで正社員になった派遣社員は何人かいました。ところが、トップが交替してしまい、今のトップからは、「派遣を正社員にしない方針」と言われました。
Aさんは、労働者派遣法「改正」案が通ると、専門二六業務であっても三年で契約終了となることを知っていました。年齢的に直接雇用の確率が低く、一から新しい仕事を覚えるのもキツイ。何のための「改正」か。派遣労働者のための改正ではないのではないかとの思いがありました。「改正」案に不安を感じ、何か今できることはないかという思いから、電話をかけた旨述べていました。
(2)相談二(Bさん・三〇代男性)
Bさんの電話は福岡県からでした。仕事の休憩中にかけてきてくれたようでした。専門二六業務三か月更新で、九年半ほど今の派遣先で働いています。
「派遣法が「改正」されると困る。だから電話した」と言っていました。憲法のデモはあるけど、労働はないので、何かしたくてもできないと言っていました。
Bさんも、労働者派遣法「改正」案が通ると、専門二六業務であっても三年で契約終了となることを知っていました。そして、打ち切り上限のカウントはいつからかと質問されました。
議員に伝えたいことは、「改悪してほしくない。職場でこのまま働きたい。議員は派遣の実態が分かっているのか?派遣で働いてみてほしい。自分は今まで一度も正社員になったことがない。」でした。
(3)相談三(Cさん・五〇代女性)
Cさんは神奈川県から仕事が終わってから面談に来てくれました。更新期間は変動しており、四年半ほど今の派遣先で働いています。最初は専門二六業務でしたが、上司が変わったため、途中で自由化業務に変えられました。
公開叱責やミスを押し付けられるなどの上司のパワハラがありました。また、上司のクレームで、派遣元がCさんを別な人に変えようとしたりしました。しかし、上司のさらに上司に訴え、注意してもらえたようで、パワハラも沈静化に向かっていたので、ここで「改正」案が成立しては困るとのことでした。
Cさんは、まず、「改正」案はもう成立したのか知りたいとのことでした。参議院ではまだ審議・採決していないので、まだ成立していないと伝えました。上限期間のカウントがいつから始まるのかも聞かれました。
議員には、「職場に慣れるのも大変。年齢の高い人もいっぱい働いているので、その年代の人のことも考えて「改正」案を絶対に通さないようにしてほしい。」と伝えたいとのことでした。
三 まとめ
以上のように、私が担当した三人全員から、「改正」案を絶対に通したくないという強い思いを感じました。この法案が通っても何も派遣労働者の為にならないどころか、不利益は甚大です。必ず廃案に追い込みましょう。
大阪支部 三 上 孝 孜
大阪の大川真郎弁護士(二一期、元日弁連事務総長)が「裁判に尊厳を懸けるー勇気ある人びとの軌跡」(日本評論社)という書物を出版しました。
内容は、和歌山大学生のビラ貼り弾圧抗議公務執行妨害事件、杉山弁護士接見妨害事件、部落解放同盟と闘った八尾市議会議員除名事件、四日市公害訴訟、日本シエーリング賃上げ八〇%就労条件裁判、近畿大学医療過誤裁判、豊島産業廃棄物不法投棄事件を取上げ、当事者の闘いを書いたものです。
大川さんは、あとがきで「心に残る社会的に重要な事件を取り上げ、その事件当事者らがどのような思いでたたかい、困難を乗りこえ、成果をあげるに至ったか、それが社会にどんな影響を及ぼすに至ったかについて書き残そうと思った。」と述べています。
この本は、困難な長期裁判における、当事者の心情を中心に書かれており、感動的です。裁判当事者の苦しい思いが良く伝わっています。
福岡の長尾廣久さんが、早速、福岡弁護士会のニュースに、好意的な感想文を書かれています。
皆さんに一読をお勧めします。
福岡支部 永 尾 廣 久
心が激しく揺さぶられる思いがしました。とてもいい本です。一人でも多くの団員に読んでもらいたいと思います。
冒頭で紹介される、和歌山大学生「公務執行妨害」事件は圧巻です。何より、書き出しがうまい。読ませます。判決宣告人言い渡そうとした裁判長が途中で言葉に詰まり、涙があふれ出したというのです。一九七六年一一月二五日午後六時すぎの和歌山地裁法廷での出来事です。
この日、弁護人が午前一時から詳細に無罪弁論をし、被告人となった元大学生二人が最終意見陳述をした後のことです。よほど、裁判長は二人の言葉に心打たれたのでしょう。
事件が発生したのは一九六六年(昭和四一年)一〇月です。私がまだ高校三年生、受験勉強のラスト・スパートをかけていたころ、つまり、私が大学に入る前のことです。
いったい二人は何をしたというのか。要するに何もしていないのです。
夜中、三人の巡査が勤務時間外に上司の自宅で飲食し、酒に酔って帰宅しようとしていると、電柱に三人の学生が「ベトナム戦争反対」の張り紙をしているのを発見した。三人の巡査は、いきなり追いかけ、そのうちの学生一人をつかまえ、近くの派出所に連行した。すると、つかまった学生の釈放を求めて大勢の学生が集まってきた。その学生たちに向かって、一人の巡査が「アホンダラ」と叫んだため、学生たちは激しく抗議した。警察官もパトカーで応援に駆けつけ、巡査を救出して本署(和歌山西署)に逃げ帰ろうとしたあたりで、その場にいた学生二人が警察官に捕まった。この二人の学生は、日ごろからリーダーとして警察に目をつけられていたのだった。
学生二人は警察官たちから暴行を加えられた被害者なのに、逆に暴力を振るったとして、「公務執行妨害」罪で起訴された。
それから裁判は一〇年かかった。なんということでしょう。わずか一時間ほどの出来事のために、警察官たちが口裏をあわせて嘘の証言をくり返したことから、無罪の立証に一〇年もの歳月を要したのです。証人は二一人。
著者は司法修習生として裁判を傍聴し、のちに弁護人となったのでした。
二人の「被告人」の最終陳述は、胸をうつものがあります。自然に涙があふれ出てきます。
「この一〇年間は、苦しみの一〇年間であったと同時に、友情と連帯というかけがえのない貴重なものを得た期間でもありました」
このとき、年老いた母親、そして就学前の子どもたちを法廷に来てもらっていたそうです。これって、なかなか出来ることではありませんよね・・・。
裁判長は、無罪を言い渡したあと、こう言った。
「裁判所としても、裁判がこのように長くかかったことについては、被告人の諸君に対して、申し訳なく思っています。・・・これからの人生に向かって、どうか幸せな御家庭を築いてください」
検察官は控訴せず、無罪は一審で確定した。捜査当局は、一言の謝罪もなしに、一つの事件を終了させた。
この二人は、今もお元気なのでしょうか。著者によって、久しく忘れられていた事件に光が当てられました。この二人が、必ずや今もお元気に活動しておられることと祈念します。
続く第二話の杉山彬(あきら)弁護士の接見妨害事件のとりくみも驚嘆すべきものです。弁護人が面会切符をもらわないと被告人に自由に面会できないという、今では考えられない制限を受けていた当時の不屈のたたかいの記録です。ぜひ、今の若手団員にも知ってほしいと思います。
著者の本は、単行本としては四冊目のようです。ますます文章も洗練され、読みやすくなっています。いろんな点で、私の見習うべき先輩として敬愛しています。今後、ますますの健筆を期待します。
(日本評論社。一七〇〇円+税)
静岡県支部 佐 野 雅 則
七月一八日に静岡で拡大常任幹事会が開催されます。多くの団員のご参加を静岡県支部団員一同お待ちしております。全国から多くの熱い団員が結集するこのチャンスに、静岡では戦争法制反対の大規模集会を企画しています。しかも、午後からの常任幹事会に参加することに全く支障のない午前中に開催されます。
この間、静岡では大小様々な集会やパレードが実施されてきましたが、特にこの集会は総がかり行動として、静岡県弁護士会も後援となり、一大イベントとして重要な位置づけをしています。
みなさん、普段とは違う土地で戦争法制反対の声をあげて、見慣れない街を歩いて楽しんでもらい、いい汗を流して連帯感を強めた上で、常任幹事会に臨むというのはいかがでしょうか。
当日は「午前中からの結集」を是非ともお願いいたします。
記
七月一八日(土) 「いのちを守る 戦争させない・九条壊すな!静岡総がかり行動」
場所:駿府城公園内 午前一〇時 アトラクション
午前一〇時三〇分 総がかり集会・アピール
午前一一時四五分 総がかりパレード
※JR静岡駅より徒歩一〇分
事務局次長 佐 野 雅 則
全国での連日の国民的運動が安倍政権を追い詰める中、憲法学者たちが違憲の表明をして以来、戦争法制に対する世論の潮目は確実に変化してきています。しかし、まったく予断を許しません。そのような情勢の中、七月二四日は日本の将来を左右する重大な局面を迎えている時期です。歴史の節目になりうるこの時期に、戦後七〇年平和を堅持してきた日本を再び戦争する国にさせないために、平和を願う大群衆が首相官邸を包囲し民主主義の力で戦争法制を廃案にすべく結集することは、極めて重要な意義があります。
七月二四日の首相官邸包囲行動は、自由法曹団も実行委員会に参加しており、団としても重要な位置づけをしています。当日は、オール団で結集されますよう全国に呼びかけます。団ののぼり旗も出しますので是非ともご参集ください。
七月二四日(金) 一八時三〇分〜一九時一五分 日比谷野音集会(大音楽堂)
一九時〜二一時 首相官邸包囲
※詳しくは、http://abe-no.net をご覧ください。
自由法曹団のぼり旗・二ヶ所建てます。