<<目次へ 団通信1537号(9月21日)
多々納ゆりか | *改憲・戦争法制阻止特集* 戦争法案必ず廃案へ!たたかいはこれから |
牧戸 美佳 | 七・二六戦争立法反対! ママの渋谷ジャック! |
菊池 紘 | 坂本堤さんと城北法律 ――二〇年追悼コンサートでのあいさつ |
中野 直樹 | 戦後七〇年の夏は越後三山へ(三) |
*改憲・戦争法制阻止特集*
滋賀第一法律事務所 多々納ゆりか
滋賀支部では、弁護士と共に事務職員も戦争法案廃案を目指して様々な取り組みをしてきました。その一部を紹介します。
事務局による昼休み街頭宣伝(七月三一日)
これまでは、弁護士がマイクを握り、事務局はリーフレットなどを配布するという街頭宣伝を行ってきました。リーフレットの受け取りは日に日に良くなり、街頭でのシール投票も好調でしたが、法案を廃案に追い込むために、もっと違う取り組みもしていかなければいけない…と、モヤモヤした気持ちを抱えていました。そんな時、『SEALDs女子はなぜ美人が多い?』という記事をインターネットで見つけました。国会前などを中心に活動するSEALDs(自由で民主的な日本を守るための学生による緊急アクション)は、斬新なアピール方法で新しい運動を広げ、新しい文化を巻き起こし、今や知らない人はいないというほどになっていますが、そこで活動する女子学生の美しさは、『お化粧や装飾品で飾られた美しさではなく、自分の言葉で語ることを第一とし、言葉に力があり、怒りと勇気が伝わる。人を動かす力がある。一生懸命訴え、学び、仲間と語り合い、活動しているから美しい。セクハラやパワハラを我慢して上司の顔色をうかがう毎日より、言わねばならぬ事を勇気をもって主張する人生を選んだのだと思う。ダイエット・整形・フィットネスより、戦争反対を訴えれば、内面から美しくなる。』という内容でした。SEALDsを憧れの眼差しで見ていた私にとっては、難しいことは言えなくてもいい、それぞれが自分の思いを自分の言葉で訴えることが必要ではないかと思い、事務局による街頭宣伝を決行することになりました。
当日は、私が総合司会を務め、三つの法律事務所の職員八人がリレートークをしました。彦根地区の事務職員六名と、お昼当番で来られなかった職員二名からは事前にメッセージを預かり、読み上げました。みんな緊張すると言いながら、それぞれの言葉で思いを訴えました。自分の決意を語る人、今夜の夕食後に家族で法案のことを話題にしてほしいと優しく語る人、今より一歩前へ進んでほしいと強く語る人、母親から聞いた「戦争放棄」を語る人、子どもに伝えた「戦争放棄」を語る人…それぞれ個性があり、いつも一緒に仕事をしている仲間の熱い思いに触れて、私も感動しました。足を止めて聞いてくれる人もたくさんあり、中には激励もありました。そしてこの日は、弁護士五名からリーフレット二五〇部の配布の協力を得られました。最高に暑い日に最高に熱い街頭宣伝ができたと思います。
びわ湖大花火大会でのアピール行動(八月七日)
びわ湖大花火大会は、毎年、関西一円から約三五万人が訪れる夏の風物詩としてすっかり定着しているイベントです。
三五万人もの人が訪れてくれるのに、花火だけ見て帰ってもらうのは惜しい…何かアピールができないだろうかと考えて、『平和だから花火が楽しい』スタンディング&シール投票を実施しました。滋賀支部の法律事務職員を中心に、混雑ピーク時間を避けて、約一時間取り組みました。『平和だから花火が楽しい』とデザインした横断幕は、とても目立ちました。集団的自衛権に賛成・反対のシール投票では、花火のシールを準備して、たくさんの人に参加していただきました。
パートナーが集団的自衛権に賛成なのか反対なのか、お互いにアイコンタクトで探り合いをするようなカップル。普段はそんな会話はしないけど、パートナーがどのような態度なのかは気になるところなのかもしれません。また、みんなで反対にシールを貼ってくれた家族。普段から戦争法案のことを話題にされていることが見てとれました。
反対にシールを貼ってくれた男子に対し、お連れの女子が「私は賛成」と。すると別の女子が「えっ?こいつが戦争に行ってもいいの?」と投げかける場面もあったそうです。
戦争法案について考えるきっかけや話題を作れたのではないか、それだけで価値があったね!暑かったけどやって良かったね!とみんなの顔が爽やかでした。
ちなみに、この取り組みは、当初、事務職員だけで行う予定でしたが、不特定多数が集まるということに鑑み、自由法曹団滋賀支部の幟を掲げて、腕章をつけた弁護士が一緒に行動する、マスコミを呼んでカメラの目があるということで、安心して取り組めました。
これ以外にも、滋賀弁護士会の街頭宣伝や集会・デモ、憲法を守る滋賀共同センターによる取り組み、地元の若者憲法サークル『しーこぷ。』によるアピール、安保関連法案に反対するママの会の取り組みなど、それぞれが自らの意思で、また、民主主義の担い手としての自覚を持って参加しています。
私は、自民党の武藤議員の国会控え室にも抗議の電話を入れましたし、自民党滋賀県本部にも抗議のメールを送りました。個人でもできることはたくさんあると思います。
国会は民意を無視して、今週にも強行採決か(この原稿を書いているのが九月一五日)と言われていますが、全国の団員のみなさん、事務局のみなさんと、最後まで闘いの手を緩めることなく声を上げたいと思います。そして、万一、強行採決されるようなことがあっても、諦めることなく、声を上げ続けていきましょう。
東京支部 牧 戸 美 佳
一 二〇一五年七月二六日のお昼過ぎ、若者が集う渋谷ハチ公前にベビーカーを引いたママや親子連れの家族が続々と集まってきました。この日は「七・二六戦争法案反対!ママの渋谷ジャック!」と称して、子育て中の母親たちでつくる「安保関連法案に反対するママの会」が主催する街宣活動とデモが渋谷で行われました。私は見守り弁護士の一人として、また、二人の子どもをもつ母親の一人として同デモに参加しました。当事務所からは他に二人のママ弁護士と一人のパパ弁護士も見守り弁護士としてデモに参加しました。
二 このデモを主催した「安保関連法案に反対するママの会」は、二〇一五年七月四日、三児の母親である大学院生の西郷南海子さんが発起人として立ち上げたグループです。合言葉は「だれの子どもも、ころさせない」。今ではこの合言葉を掲げて三八都道府県で五〇もの「ママの会」が各地で立ち上がっているそうです。岩波書店の「世界」(二〇一五年一〇月号)には、発起人の西郷さんが執筆された記事が載っていますので是非御覧ください。
三 話しを七月二六に戻しますが、当日は最高気温三六度という立っているだけで汗が流れ出てくるような暑い日でした。お子さん連れということもあって、団扇、保冷剤を持参するなど、みなさんバッチリ暑さ対策をして無理のない範囲で参加されていました。
一二時三〇分に始まったハチ公前の街宣活動では、東京、京都、福岡など各地から集まったママたちが街宣車の上からスピーチを行いました。みな思い思いの言葉で、時には子どもたちのことを思い涙声になりながら、安保法案反対への思いを渋谷のスクランブル交差点で行き交う人々に訴えかけていました。
街宣活動の後は、宮下公園から出発し、神宮前六丁目交差点を右折して丸井や西武百貨店の前を通過して渋谷駅に戻り、再度宮下公園の前を通って神宮通公園で解散というルートで、約一時間のデモ行進を行いました。デモ行進は、ママの会のシンボルであるガーベラの花やかわいいお手製のプラカードを掲げ、「戦争させない」「ママは戦争しないと決めた」と声を上げ、また鳴り物もあってとても華やかに行われました。ママや子どもたちだけではなく、パパやだいぶ前に子育てを終えられたであろうパパやママたちも参加していて、“子どもたちを守る”というみんなの思いが結集した、とてもステキなデモでした。私個人も、保育園のママ友さんに会ったり、知り合いのママ都議さんと一緒に行進したりして、とても楽しくデモに参加できました。
四 この原稿が団通信に載るころには情勢がどうなっているかわかりませんが、この思いを継続的に持ち続け、地道に草の根で運動を続けていくことが大切だということを実感させられた一日でした。
東京支部 菊 池 紘
九月六日は坂本堤さんが新潟県上越市名立で遺体となって発見された日である。あれから二〇年になるこの日、私は、郵産労(板橋)OBの今野強さんと日フィルの松本克巳さんに誘われて、上越市での「坂本弁護士追悼コンサート」に参加した。二〇〇六年から毎年もたれているコンサートの一〇回目である。松本さんのヴァイオリンとピアノ、そして澄んだソプラノの歌、地元の女声コーラス等々に、二〇〇名の聴衆が聴き入った。求められて、閉会の前にわたしは次のように話した。
「地元の多くのお寺さんによって毎年坂本さんの追悼法要が重ねられていると聞きました。また一九九九年に名立で初めて追悼のコンサートがもたれ、それから様々な形で毎年コンサートが行われてきていると伺いました。こうした活動を続けられるには、実に大変な努力が求められていることと思います。また、みなさんがこうした集いを大切に続けておられること、そして地元の方々が慰霊地にいってお掃除をしておられるということもお聞きしました。心から、ほんとうにありがとうございます。
私どもの城北法律事務所は東京の池袋駅のすぐ前にあります。坂本堤さんが私どもの事務所で司法修習をしてからちょうど三〇年になります。坂本さんが城北法律事務所で弁護の修習についたのは一九八五年夏から秋にかけてでした。それは国会に上程されていた国家機密法案が、大規模な反対運動によって、ついに廃案に追い込まれたときでした。
障害をもつ人、そして少年の問題に関心をもっていた坂本さんは、えん罪(ひったくり)の大木博君の裁判の準備に加わりました。大木君と自転車を並べて道路を走り、ひったくりが可能か実験をくり返しました。修習終了間近の一九八六年一二月には大木君の裁判は無罪で確定。その判決はお昼のNHKラジオのニュースにのりました。大木君との交流はその後も続き、拉致事件がおこると大木君は坂本さんの救出署名にがんばり、そのことが新聞でも再三取り上げられました。
当時二八歳だった坂本さんはどういう青年だったのでしょうか。彼は修習生の時に次のような文章を書きました。『世の中変わった、オイラも変わらなくちゃいけないなんて、なにもせっつかれて慌てて小さくなることはない。年寄りも嘆くことはない。昔と同じ心根が僕ら若者の中にもそのまま残っているのだから、』と。先輩の年代の人々と同じく強くしっかりした根性、心根を僕ら若者も持っているよ、と訴えたのですね。
そしてこれに続けて、私たちの城北法律事務所についてこう書いています。『城北の仕事をみていると、それは、弁護士がよく口にする「解決」という営みだけでなく、その中に重要な変革があることに気づかされる。社会の変革、集団の変革、依頼者・関係人個人の変革、そして弁護士自身の変革。』と。この短い文章のなかにくり返しくりかえし『変革』という言葉が重ねられているのです。
さらに坂本さんはこう続けます。『たくさんの変革にまみれることが、若者のためらいと不安を振り払う。僕らはそんなにしらけちゃいないんだ!眼前にある変革の息吹をすら、感じられないほど、臆病でもないんだ。』と。
坂本堤さんの話が出るたびに彼のこの短い文章を口にします。私どもの城北法律事務所についてくり返し『変革の息吹』を言う、この一文が思い出されるのです。
大木君の裁判の主任弁護士として活動した佐々木芳男弁護士は、坂本堤さんと仕事をともにしたことをふりかえり、その思い出としてこう書きました。
『大事なのは「人間らしい営みや互いの生き様を交流する」ことだと思います。・・・そんなことを考えてきた私が、坂本弁護士の死を無駄にしないために心に誓ったのは「流されずに、勇気をもって立ち向かう」ひとびとを、広く仲間に組織するということです。そのために、彼の勇気を引き継いで流されずに生き抜こうと決意している私です。』と。
その佐々木弁護士も病魔に倒れ九年前に亡くなりました。残念なことです。
私は、坂本堤さんと佐々木芳男弁護士が言い残した課題を、人と人の輪をひろげる課題を追い続けたいと思います。
坂本さんが修習した時に一四名の弁護士でつくられていた城北法律はいま弁護士二五名を数え、東京北部地域で最大規模の事務所になりました。
みなさん、あの二五年ほど前、日本の弁護士はあげて坂本堤さんの救出に努力し、走り回り、各地で訴えました。そして今、日本中の弁護士は各地でビラをまいて、声を上げています。「憲法九条を守れ。戦争する国を許さない」と。私たち城北法律事務所の弁護士と事務局員も、毎週、池袋駅西口で安保法制・戦争法を廃案にとの行動を重ねています。坂本堤さんの言う『ためらいと不安を振り払う』今日の『変革の息吹』を感じながら。駅前の交差点で大声で訴えていると、人々の流れを抜けて私たちのほうへ歩いてきてチラシを求める人がいます。別の人は署名をするために列の後ろに並びます。かってない状況です。また、一週間前の日曜日八月三〇日に私たちも安保闘争以来五五年ぶりの、国会を包囲した一二万人の人波の中にいました。
そして、私は思うのですが、横浜法律事務所で仕事に就いていた坂本堤さんがもし生きておられれば、私たちが池袋駅頭に立つのと同じように、きっとあの大都市横浜で行動しているに違いないと。あの関内駅前で、都子さんと一緒に、目の前にある『変革の息吹』を感じながら、戦争法を廃案にと呼びかけているに違いないと。そして、二七歳になっている龍彦さんも一緒に『僕らはしらけちゃいないんだ』といって、憲法九条を守れ、民主主義を守れ、と声を上げたに違いないと。私はそう思うのです。
そして、坂本堤さんと都子さんが目指していた戦争のない社会のために、この社会の変革のために、みんなで手をたずさえ、努力したいとの思いを強くします。
本日はタイトな時間のなかで、私ども城北法律事務所と坂本堤さんの関わりについてお話しする機会を設けていただきまして、ほんとにありがとうございました。」
神奈川支部 中 野 直 樹
挑戦する人、それを追いかける人
突然入ってきた、スキンヘッドの頭から顔、上半身の盛り上がった筋肉、下半身の太い腿すべてが汗まみれの人を見て、思わずこちらから「田中さんですか」と声をかけた。そう、田中陽希氏本人であった。二百名山の八海山・大倉口から縦走してきたとのこと。コースタイムで一七時間というから驚異的だ。遅れて、撮影カメラをもったNHKのスタッフが一人到着した。ほかに五人が、別の中岳登山ルートで来るという。要するに、グレートトラバース2 日本二百名山一筆書の実践・実録中であった。私たちは一階を彼らに引き渡すために、広げたあれこれを二階にあげた。田中氏のブログには「先客がいたが、十分な広さがあるので心地よく使うことができた。」と残されている。小屋前で、田中氏に頼んで集合写真を撮った。行動中は時間節約のため撮影は断っているとのこと。そこに、もう一人の登山者が現れた。聞くと、今日、田中氏がこの中ノ岳避難小屋に泊まるという情報を得たので、ひと目見たいと考え、日帰り計画で登ってきたという。小屋の宿泊日記をみると、昨日にやはり田中氏のファンが田中氏に会いたくて登ってきたが、待てども田中氏が登場しないので落胆した気持ちが表れた書き込みがあった。このファンが小屋の外に小枝を並べて「ヨーキ 127/200」の応援メッセージを残したと推察された。田中氏がブログで公開している計画よりも一日遅れたことがこの落胆となったようだ。最新情報で今日無事に邂逅できた男性は、父が群馬の山岳会のメンバーで、ヒマラヤ遠征隊のメンバーだったと自己紹介していた。彼は名残惜しそうに一人で下り始めた。登山口に着く頃には暗くなっているだろう。
やがて五人のスタッフも到着し、田中氏が今日の出発地である八海山、目の前にある中ノ岳、明日の縦走路となる荒沢岳(悪沢岳)の三つの二百名山を望みながら何かのせりふを発している様子を撮影していた。
私たちは、サンダル履きで中ノ岳に挨拶をしに行った。山頂の小社の前には、木の燃えかすがあった。遠目に見えた修験行者の焚いた護摩木であろう。戻ってきて撮影をじゃましない位置で夕食の準備を始め、持参のウィスキー、ブランディーを飲み始めた。ぶよのような虫がまとわりつき、これを追い払いながらの小宴会となった。私は半ズボンで靴下なしのサンダル履きだった。これが後悔となった。この夜は何も感じなかったが、翌朝両足が赤い斑点だらけで、強烈なかゆみだった。数えると片足で三〇カ所ずつ虫に食われていた。このかゆみは半月ほど続いた。
暑さとのたたかいは最後まで続く
翌朝四時、一階の取材班が出発の準備を始めた。長い荒沢岳の尾根稜線を歩んで銀山平に下るという。スタッフは、突如有名となったドローンを取り出し、中ノ岳の山頂での撮影の方法について相談をしていた。田中氏はこの小屋は三回目だと話をしながら、一階の床を丁寧に掃き掃除をしていた。山小屋日誌をみると、小屋を気持ちよく利用させてもらったことに対する感謝が述べられていた。その住所をみると、町田市から一五分ほどの場所であった。山頂での撮影は一時間ほどかかっていた。その先のカンカン照りの道程が九時間ほどあるのに大変だ。
私たちは七時に小屋を出て、もう一度中ノ岳の山頂を踏んで、十字峡への下り路に着いた。高度が下がるに連れて、右手の八海山の山容が変化していく。山は、見る位置によって全く別の姿となる。五合目の日向山には雨量測定所の建屋があり、そこから、八海山、駒ヶ岳、中ノ岳の三山が座った大展望を頂戴した。地図にはここから急坂、眺望良い尾根とコメントされている。今の情勢に合わせて言葉を換えれば、急激に高温化が進み、日差しを遮るものがないということだ。二合目下に水と表記されているところに当面する最大の希望をもって、崩れ岩場の鎖を握って下った。地図では一センチにも満たないのに、水場の入口までずいぶん遠かった。
ようやく水場への分岐道を見つけ四〇メートルほど下った。コンコンと湧く冷水を想像してきたが、そこはガレた急傾斜の小沢だった。渇水のため、水の流れはちょろちょろで、ペットボトルに直に入らず、コップで拾い受けた。冷たい水を何杯も喉に流し込み、乾きと体温上昇からつかの間の解放を得た。時刻は一一時頃で、昼食をするかどうか議題となったが、誰も食欲がなく、行動食の残りで済ませることとした。ぐずぐず三〇分くらい滞在して、残り一時間の下り再開。
一二時一〇分すぎ、十字峡登山口に到着した。登山センターの飲料自販機に向かったが、センターは閉館、なんと自販機も停止中だった。水道もない。これは一つ目の落胆だった。浅野さんの計画ではここから電話でタクシーを呼ぶことになっていた。ところが、誰の携帯電話も「圏外」なのだ。センター建屋内に公衆電話がないか見たが、ない。タクシーが呼べないとなると、野中バス停まで三国川(さぐりがわ)ダム湖畔のアスファルト道を一時間五〇分の歩きとなる。炎天に陽炎をあげる道は、まるでめらめらと燃える舌を出して獲物を待っているようだ。二度目の落胆は大きく、「圏外」なら公衆電話くらい置くべきだ、役立たない自販機めと呪った。
悲壮な覚悟を決めた頃、一台の車が駐車場に入ってきた。家族連れで自販機を利用しようとして降りてきた。私から自販機が使えないことを説明しに近づき、ついでに、携帯電話が使えるところまで行かれたら、タクシー会社に電話を入れて一台予約をしてほしい、自分たち三人が道を歩いていることも伝えてほしいと頼んだ。同情を獲得し協力が得られることになった。同乗の家族銘々が自分の携帯電話を出して、自分のも「圏外だね」と言い合っていたが、なんと、その場で一人の方の電話が「圏内」でタクシー会社につながったのだ。幾度も頭を下げてその車を見送り、タクシーが到着するまでの時間、荷を整理し、すべて着替えた。仲立ちの役割を果たしてくれた自販機に感謝をしながら、タクシーの運転士に蕎麦屋へと告げた。(終わり)