<<目次へ 団通信1544号(12月1日)
白 充 | 二〇一六年一月・宜野湾市長選挙 ―宜野湾市民と私― |
鈴木 亜英 | NLG総会における「戦争法」反対の闘いの報告 |
川合 きり恵 | ママたちの臨時国会召集を求める署名提出行動について |
玉木 昌美 | 戦争法廃止に向けてスタート!! |
関島 保雄 | リニア中央新幹線建設中止の行政訴訟提訴について |
馬奈木 厳太郎 | 原告本人尋問がはじまり、検証実施へ 〜「生業を返せ、地域を返せ!」 福島原発訴訟第一五回期日の報告 |
志田 なや子 | 見て聞いて歩いて ――南相馬市、浪江町、いわき市へ |
後藤 富士子 | 「一時保護」という虐待援護 |
鹿島 裕輔 | 「No More Base Fes アピールウォーク@横浜」へのご参加・ご協力のお願い |
山口 真美 | *宮城・蔵王総会特集* 事務局長退任のご挨拶 |
佐野 雅則 | 退任のご挨拶 |
田井 勝 | 事務局次長退任のご挨拶 |
沖縄支部 白 充
一 二〇一六年一月二四日―宜野湾市長選挙がある
二〇一六年一月二四日、普天間基地が存在する宜野湾市で、市長選挙が行われる。選挙は、現職で自民党推薦の佐喜真淳氏と、「オール沖縄」が推す志村恵一氏の、事実上一騎打ちとなる。
二〇一四年末、沖縄県知事選及び衆院選で「オール沖縄」が大勝して一年。現時点(二〇一五年一一月末)での状況を見ても、国が知事の埋立承認取消しの効力の執行停止をし、県を相手取って代執行訴訟を提起している。後者の訴状で国が「(翁長知事の)承認処分取消しによって生じる不利益が極めて大きい」として、「普天間飛行場の周辺住民等の生命・身体に対する危険除去ができなくなる」などと主張する中での選挙であるため、注目しない訳にはいかない。
しかし、ここまで書き上げたとき、私の手が止まった。ふと、「私が宜野湾市民だったら、どのような思いでこの選挙を迎えるだろうか」と考えたからである。
二 基地があることによる「歪み」と「空しさ」
考えてみていただきたい。ここまで来る選挙、来る選挙で「基地問題が焦点である」といわれるような地域はない。もはや、それ自体が異常で歪んでいるとしか言いようがない。
そして、私が「ただそこで生まれ育った、いち宜野湾市民」であれば、その「歪み」自体に嫌気がさすであろう。
これは、「ただ日本で生まれ育った、いち在日朝鮮人」というだけで、およそ国家に対峙する政治的言論とは遠く離れたヘイトスピーチの前で、“注目”はされつつも、「日本には表現の自由が認められているから」と“日本の法治主義”を語られる「歪み」と、それに嫌気がさす感覚に似ている(と少なくとも主観的には感じる)。
宜野湾市民も、「基地問題」は抜きにして、一人の人間として、朝に目を覚まし、職場に通い、ランチを食べ、たまにある飲み会を楽しみながら、日々を過ごしているに過ぎない。
そのような至って普通の生活の中、様々な関心事があるにもかかわらず、選挙があるというときに“注目”され、「国が総力を挙げて辺野古新基地が作られようとしている。さぁ、宜野湾市長選挙はどのような結果がでるか?!」とあおられたら…。
もし私が、いち宜野湾市民だったら、この「歪み」に嫌気がさすであろう。そして、そのような現状が戦後未だに変わらないことに「空しさ」を抱くであろう。だからこそ、基地は今すぐにでも無くなって欲しいが、現職に投票し辺野古に基地が移れば、今の自分の嫌な思いは辺野古地域の市民が抱くことになる、と悩むのであろう。そして、それ自体の「歪み」にまた、「空しさ」を感じるのであろう。
このような「歪み」と「空しさ」の連鎖を感じたとき、原稿を書き進める手が止まってしまった。
三 なぜ辺野古に反対するか
ここまできて、今一度、自分がなぜ辺野古に反対するのかを考えてみた。
私にとって、辺野古新基地建設、なかんずく沖縄問題が他人事ではないのは、「在沖米軍基地が東アジアの緊張を高めている」という点にある。対立は、軍事力ではなく、対話によって解決されるべきであり、「緊張」を前にして、尊い人命・一人の人生が奪われることがあってはならない。
それゆえ、実質的に軍備拡大となり、東アジアの緊張を高めることとなる新基地を、辺野古に作ることには反対する。
「それだと普天間基地が宜野湾に残ってしまう」という意見に対しては、「即時撤去をすれば良い」と主張する。
「こんなにも脅威にさらされているのに、即時撤去は非現実的だ」という意見に対しては、「脅威を軍備拡大で防げると思っていることの方が、非現実的だ」と主張する。
「緊張緩和まで普天間基地が残ることは、宜野湾市民に我慢を強いることではないか」という質問に対しては、「だからこそ、辺野古の市民に我慢を強いることも是とし得ない。よって、即時撤去と緊張緩和のための努力をセットで訴える。これこそ、待ったなしである」と主張する。
四 「市民に寄り添う」ということ
以上を前提とした上で、「歪み」と「空しさ」について触れ直したい。
二〇一四年の沖縄県知事選挙以来、「日本において一切の選挙権が無い私が、日本の選挙について語ることの是非」について迷い続けてきた。
今回は、宜野湾市民ですらない。
しかし、在日朝鮮人として生まれた私は、宜野湾市民がさらされる「歪み」と「空しさ」を感じ取ることができる。また、軍備拡大で東アジアの緊張が高まるということも感じ取ることができる。そして、戦争によって「歪み」が生じ、「空しさ」が残り続けるということも感じ取ることができる。
であれば、私だからこそ感じ取れたものをもって、市民一人一人の気持ちに寄り添い、手をつなぎ合うことは可能ではないだろうか。それこそがまさに「連帯」ではないだろうかと考えるに至っている。
私は今、少なくない宜野湾市民が感じているであろう「歪み」と「空しさ」を感じ取りながら、なお、宜野湾市民の一人一人と寄り添う者として、宜野湾市民の子孫にも、辺野古の人々にも、そして私の子孫にも、今の「歪み」と「空しさ」を受け継がせる訳にはいかないという思いをもって、「オール沖縄」を指示する。
五 「今回の選挙は、基地問題が焦点である」を超えて
改めて考えるに、二〇一六年一月二四日の宜野湾市長選挙は、結果的には基地問題が焦点とならざるを得ないだろう。
しかし、今回の選挙をもって、「今回の選挙は、基地問題が焦点である」は最後にしなければならない。そして今後は、辺野古を含めた沖縄のあらゆる地域で、さらにいえば、日本のあらゆる地域で「今回の選挙は、基地問題が焦点である」が無くなるべきである。
日本の民主主義が音を立てて崩れ、東アジアで緊張が高まっている今、二〇一六年一月の宜野湾市長選挙は、日本にとっても、そして東アジアにとっても、大変重要な選挙だと言って過言ではないだろう。
【お知らせ】
二〇一五年一二月一八日午後七時から、宜野湾市民会館で「宜野湾から沖縄の未来を考える―基地・経済・地方自治―」と題するシンポジウムが行われる。新外交イニシアチブ(ND)が主催し、地方紙の沖縄タイムス社が後援となっている。様々な形で関心を寄せていただきたい。
東京支部 鈴 木 亜 英
暑い夏を「戦争法」とともに過ごした。可動年数を左程残さない私が、夏季の虫採り余暇をすべて諦めるのは辛かった。強行採決前の四日間、私は国会前に立ち続け、抗議の意思を表明した。緊急学習会には法案の危険性を正確に伝えるために、いつになく勉強した。地域デモに久しぶりに参加し、駅頭宣伝にも立った。歳七五歳に達し、後期高齢者の身となり、かっては体力的には怖いもの知らずだった私も最近では限界というものを意識するようになった。「戦争法」との格闘は案外内なる敵との闘いでもあった。
国会前ではコールを唱和するほかは何もすることはない。しかし貴重な時間を使って、そこに立つことには私なりに意味があったと思う。ゴリ押しの法案の中味はどうみても国民の生命と安全をかえって危うくするものである。では“あべ政治”はいったい何を目論むのか。このことを考える時間と場所が私にとってこの国会前であったと思う。強行採決後も続く「戦争法」廃止の取組みは続くが、政治の力関係を変えるほかに道はないと云う意識が漲っている。
団の国際問題委員会はオークランドで開かれるナショナル・ロイヤーズ・ギルド(NLG)の年次総会に今年も参加することになった。一にも二にもこの日本国民の「戦争法」との闘いを伝えようということで一致した。団総会の合間を利用してスピーチ原稿を近藤ちとせ団員と仕上げた。今年は神奈川の杉本朗団員と私の二人旅となった。毎年配布したニュースレター形式を止め、あの一二万人が国会議事堂を取り囲んだ壮観の航空写真一枚に絞った。
総会は毎年五日の日数をかけるが、そのひとつの行事に、インターナショナルレセプションがある。NLGは国際活動を通じて知己を得た各国からの参加者を一堂に招いて歓迎レセプションを行う。今年は米国とキューバの国交回復を歓迎し、キューバの法律制度の専門家だったデブラ・エバンソン賞の授与が行事の中心であった。NLGのかっての議長だった女性弁護士デブラは、四年前六九歳で肺癌のため亡くなった。この表彰はその功績を讃える意味もあった。
さて日本からの私たちが紹介された。例の事件で精神ショックを受け、痩せてしまったピーターアーリンダーも、すっかり健康を回復して、冒頭の紹介役に立ってくれた。「NLGと自由法曹団は長年共に闘って来た。同じ思想の上に立つ…」と云いながら、「ただし、その過激性は別として」とやって、会場の笑いを誘った。金沢の菅野昭夫団員がいれば私たちはこれに頼り、秀逸のスピーチが期待できた。長旅は控えている彼には頼れず、心細くも今年は私がスピーチ台に立った。
その内容は原稿の末尾に添付したが、慣れないスピーチだけに、文章を短く、内容は明確に、アクセントは正確にと神経を使うばかりであった。
さて、アメリカ憲法には御存知のとおり、戦争放棄条項などない。しかし、これまでのNLGとの交流から、会員は日本の九条の存在をよく知りその果たしてきた役割を評価してきた。私たちの九条をめぐる日本での攻防にも高い関心を示してきたのである。戦争放棄は、彼らにとって、理想ではあるが、アメリカの現状からは夢でもあると云って良い。この平和と紛争のせめぎ合いのなかで、どれだけ九条が踏ん張れるのかは彼らの関心事である。これまでの団からの九条プレゼンテーションへの反応からみても、その注目度が窺われる。
云うまでもないことだがTPP交渉ひとつとっても米国と日本の国益は自ら異なる。度重なる戦争と軍事介入で国力が疲弊し、軍事予算でも日本の思いやり予算を当てにする米国である。紛争地域への自衛隊出動も、やはり“思いやり”派遣と受け止め、これを歓迎する向きもある中で、集団的自衛権の名の下に、日本が日米共同作戦により積極的に紛争に関わることをNLGのメンバーはどう受け止めるのか。
与えられた数分という時間のなかで、分かり易くゆっくりしゃべることを大切にするために、内容を削ることは私にとって辛いところであった。
しかし、あの八月三〇日の一二万人集会の航空写真を杉本団員が広げたときには、オーッというどよめきがあった。米国はデモの国だが、さすがに“一二万人”のラリーとは壮観と映ったのであろう。
「この安倍のひどいやり方は九条を守る連合政府をつくるための運動を発展させ、今反対政党やそれの支持者の間にそれが広がりを見せている」と述べた下りで、拍手も沸いた。ここまでじっと聞いていてくれた参加者にここで拍手を頂けるのは、集団的自衛権の行使を可能にする勝手な憲法解釈に対する日本国民の怒りに同調してくれたからであろう。
インターナショナルレセプションはおわりを迎え、帰ろうとした時、一人の女性弁護士に呼び止められた。「あなたの云っていることに同意しますよ。更なる行動に期待してるわ」と激励してくれた。翌朝、顔見知りになった何人かから、改めて親しみを込めたあいさつを受けた。なかで、女性弁護士が近づき、「あなたの云っていたことはとても大切なこと。私それをメモしながら聞いたのよ」と褒めてくれた。ジョークのひとつもない、米国人からみれば、面白味のない話だったかもしれないが、一日かけて八千キロ余りの距離を飛んでやってきた「同じ思想の上に立つ」ジャパンロイヤーズアソシエーションフォアフリーダム(JLAF自由法曹団)の二人に敬意を表わしてくれていることを肌で感じないわけにゆかない一晩であった。
【NLG英文原稿訳】
今年の九月一九日、日本の参議院が、七月の衆議院に続いて、安全保障法制に関する一一の法律案を可決した。
可決によって、第二次世界大戦以来、武力の行使を個別的自衛権行使の場面に制限してきた流れが、押し広げられることになる。
世論調査では、過半数を大きく超える日本人が、この変化に反対していることが示されている。
日本人の若年層は、しばしば政治に無関心であると非難されるが、その若年層が沈黙し続けることを拒否して目覚めたように見える。
八月三〇日に撮影した写真を見てください。そこでは、一二万人のデモ参加者が国会議事堂を取り囲んで抗議しています。
法案がこれほどに人々の怒りを買った理由は、それが九条という憲法の平和条項に違反したのみならず、日本の民主主義自体を無視したことがあります。
もう少し、これらの点について、説明させてください。
日本国憲法の下で、政府は、個別的自衛権を行使する場合を除いて、武力の行使によって紛争を解決することが禁止されています。
ところが、安倍首相は、自衛隊を集団的自衛権行使の場面でも派遣できるようにするため、この厳格なルールを緩和する術を探してきたのです。
安倍がもし、日本にとって集団的自衛権の行使が必要であると信じるのであれば、九条の改正の賛否を直接日本国民に問いかけるべきことは明らかです。
ところが、安倍首相は、憲法改正と同様の結果を、ずるいやり口で実現することにしたのです。
もし、正式な手続をとれば、憲法改正に対して強い反対を受けることが明らかだったからに他なりません。
安倍は、歴代の内閣が維持してきた九条に関する解釈を変更するという手法を選んだのです。
彼は、単に憲法は集団的自衛権の行使を許容していると宣言したのです。
この解釈変更は、必要とされる厳格な要件を充たさずに、安倍が求める憲法改正がなされたと同じ結果をもたらす点で、九条に違反するだけではなく、憲法改正に国民投票を必要と定める九六条にも違反します。
日本の憲法学者の大半を含む批評家は、このずるいやり口に激怒しています。それはこのやり方が、専制から国民をまもるためにある立憲主義に違反するからです。
しかし、この安倍が用いた非常識なやり方は、あまりに酷く世論を刺激したため、予測を超えた反対運動が起ころうとしています。野党やその支持者の間で、九条を守るための連立政権を打ち立てようという動きがわき上がっているのです。
私たちは、すぐに物事を諦めてしまいがちな、日本人の典型的な態度を変えて、戦争のない世界を作り上げるために努力する所存です。
(訳:神奈川支部・近藤ちとせ)
東京支部 川 合 き り 恵
平成二七年一〇月二三日、自民党本部に臨時国会召集を求める署名を提出しました。
「憲法九条を長年保持してきた日本国民にノーベル平和賞を」の運動を提起した鷹巣直美さんが呼びかけ人です。一〇月二二日にインターネット署名を立ち上げ、翌二三日に自民党本部に提出するまで、署名は二三三二人分も集まりました。子どもをベビーカーに乗せた母親や、戦争法に反対するプラカードを持った人等がそれぞれ自民党本部の担当者に思いを伝えました。その後も署名は増え続け、現在の賛同者は三五二三名です。
鷹巣さんからは、一〇月一七日、安保関連法に反対するママの会@座間・相模原主催の「おやこでつなぐハローウィンピースパレード@相模大野」でお話しをしたご縁で、今回声をかけていただきました。デモは、「Trick or Peace」と、ハローウィンの仮装をしながら楽しくしよう、という企画でした。ガチャピン、魔女、骨人間、ピエロなど、大人も子どもも様々な格好をしながら、相模大野の街を練り歩きました。デモに初めて参加する母親が司会をし、公園にたまたま来ていた人たちも加わり、総勢七〇人ほどになりました。
いずれも、戦争法を廃案にするための必死の母親たちの行動です。「じぶんの子をころされ、ころさせない。」ということでは全然足りない、「だれの子もころさせない。」行動が必要だ、ということで立ち上がった母親たちの集団です。
毎週金曜日一〇時半、国会前で「だれの子どももころさせない」ための国会前デモをやっています。一一月一三日には、午前中に国会前デモをやり、午後は議員会館を回り、野党五党の議員に対して、「安保関連法を廃止するために選挙協力をしてください。」「憲法九条を守り、活かし、世界に広めてください。」などの署名とコメントを、与党議員に対して、「臨時国会をひらいてください。」「憲法九条を守り、活かし、世界に広めてください。」「安保関連法を廃案にしてください。」などの署名に集まったコメントを届けました。
安保関連法が成立し、憲法上の請求権に基づいて臨時国会召集を請求したにもかかわらず無視する現在の政権、選挙協力がなかなか進まない野党に対して、母親たちは危機感を抱いています。行動を少しでも広げ、「誰の子も、殺させない。」ための行動を、今後も続けていきたいと考えています。
滋賀支部 玉 木 昌 美
一一月二〇日、憲法を守る滋賀共同センターは、「戦争法を廃止に!学習・交流集会」を開催した。二〇〇〇万人署名運動のスタート集会として位置づけた。
当日は、元自衛官の泥憲和氏に講演していただいた。泥氏については、京都の岩佐団員から団通信に紹介があり、私は、著書『安倍首相から日本を取り戻せ!』を読んで感動し、大阪の民法協の総会に行って講演を聴いた。そこで、滋賀においても是非講演会を開催する必要があると思い、企画することにしたものである。泥氏は、安倍首相の集団的自衛権の説明を絵空事であると徹底的に批判し、平和憲法を持つ日本ならではの国際貢献の活動を具体的に紹介している。
泥氏は、中国脅威論や北朝鮮脅威論が産経新聞の意図的な誤報であると説明した。また、日本はフィリピンのミンダナオ島でイスラム系モロ族と政府軍との内戦がある場所で、丸腰で入って貧困対策を行い、包括的和平協定にたどり着いたことや中村哲氏のアフガニスタンにおける水路建設等の活動を紹介し、「戦争をしない国」の信頼感が活動を支えていることを強調した。さらに、自衛隊幹部三五〇人しか配布されない内部資料が提供されて国会での追及に利用されたことは、危険があるにもかかわらず自分の保身以上に日本のことを考える幹部もいると指摘した。講演の内容は、平和憲法の持つ意義を具体例でもって確信できるものであった。質疑応答では、中三の女生徒がアパルトヘイトの件で鋭い問題意識を述べて、「ヘイトスピーチにどう対応したらよいのか。」と質問するや会場からどよめきがあった。
講演後は、滋賀九条の会や彦根、近江八幡、長浜等県内各地域からの活動報告がなされたが、それぞれに工夫をし、積極的に街頭に打って出る活動を継続していることがわかった。また、若者の「しーこっぷ」の発言もさわやかな頼もしいものであった。最後には、質問をした中三の女生徒も発言した。
この集会には、平日の夜にもかかわらず一六〇名が参加した。「目からウロコの話が聞けました。特に日本の憲法九条がどんな力をもっているのかという実例は非常に説得力あり。」「平和憲法の輝きをもっと広めていきたい。学習の大切さを痛感しました。」「日本がJICA(ジャイカ)の教育支援のとりくみ、九条があるからこそ自衛隊をおくらず、学校をつくったり、地元の人に喜ばれる支援をしている話は初めてで印象的でした。」「九条がいかに世界の平和に貢献するものか具体的実例で教えてもらって、大変勉強になりました。」「自衛隊にすばらしい人がいるのは良かった。」「中村医師の言葉は、日本だからできる活動に確信を与えるものです。私に九条への誇りを与えてくださいました。」等多数の感想が寄せられた。
このように、この集会は二〇〇〇万署名の取組みをスタートさせるに当たり、参加者が決意を固め合う場となった。泥氏の講演は県内各地で、いや全国でもっと展開すべきであると思う。
その他の活動
一 共同センターでは、一一月一九日の昼、久しぶりに大津駅前に集合して昼デモを行った。急遽設定したこともあり、都合が悪い団体もあったが、それでも四〇名の参加で力強くデモ行進を行った。
二 滋賀弁護士会も法案成立の一九日にちなんで、同日夕方大津駅前において弁護士会主催の街頭宣伝を行った。県労連や一〇〇〇人委員会にも声をかけ、共同してビラを配布したり、署名活動をした。弁護士一五名、その他一五名の三〇名の参加であった。この日、滋賀弁護士会主催のマスコットキャラクター「なやまずん」の着ぐるみもデビューし、特に子ども達にとって目立つ活動になった。滋賀弁護士会では、今後、毎月一九日かその前後に街頭宣伝を行っていくことにした。また、来年一月二八日には弁護士会で集会も予定している。
三 一一月二一日、国民救援会滋賀県本部の大会があった。事件報告では、日弁連からの弁護団となった杉本団員からえん罪東住吉事件の報告があり、その勝利の要因等についてのまとまった説明が印象に残った。
また、共産党の元国会議員の緒方靖夫氏に「盗聴事件の被害者が話す国民のプライバシー権」と題して記念講演をお願いした。平成二七年七月二七日の法務委員会の議事録を資料に盗聴事件の説明があったが、警察の対応に強い憤りを覚えた。また、緒方氏は、戦争法の位置づけをテロ事件等の国際情勢を踏まえてわかりやすく解明し、「戦争法廃止の国民連合政府」について展開した。最高裁で敗れても闘い続け、勝利和解解決をした日立製作所の田中氏の残業拒否の事件の話で「最後まであきらめない。」という点を強調したが、救援会にふさわしいものであった。緒方氏の著書『つながる九条の絆』にも触れてあるが、政府を動かす六〇〇人の官僚幹部の適正評価のための情報収集を警備警察が行い、管理することは盗聴法の拡大強化とともに深刻かつ重大な問題である。
四 以上のとおり、一九日からの三日間の連日の活動は充実した日々であった。
東京支部 関 島 保 雄
一 リニア中央新幹線とは
東京から南アルプスを横断して名古屋から大阪に至る計画で、超伝導磁石で地上一〇センチメートルに浮上させて、時速五〇五km、品川名古屋間を四〇分、品川大阪間を六七分で結ぶ。二〇一四年に東京―名古屋間の工事に着手し、二〇二七年に東京名古屋間開業予定。東京大阪間は二〇四五年開業予定。途中駅は沿線県一つで相模原市、甲府市、飯田市、中津川市が決まっている。運行は一日約一五〇本(七分に一本)、途中駅の停車は一時間一本。運転手はおらず遠隔操作で運行する。ルートの八割以上はトンネルで、都市部は地下四〇メートル以下の大深度地下にトンネルを掘る。工事費はJR東海全額負担の単独事業で、工事費は名古屋まで五兆四三〇〇億円余、大阪まで九兆三〇〇億円余と巨額で、運行の消費電力は現在の新幹線の三・五倍消費する。
二 リニア中央新幹線による事故対応及び環境影響への危惧
トンネル内で万一事故が起きた場合、地下深く非常口出口まで二kmや三kmの場所もあり乗客の安全対策は不十分である。また南アルプスの活断層地帯を横断するため地震の場合の安全対策が確立されていない。
工事による環境破壊の危険性が大きい。大部分がトンネル工事であるため沿線の地下水破壊、南アルプスの自然の破壊、巨大な量(東京ドーム五一杯分)の残土の捨て場による自然破壊、工事及び残土運搬車両による沿線住民の交通騒音や交通渋滞など生活破壊(工事車両が出入りする周辺では一日一〇〇〇台前後のダンプが一〇年間走行する)、リニアの磁力線による健康被害の危険性も指摘されている。現に山梨実験線沿線では地下水被害や残土被害、日照騒音被害が出ている。
三 行政訴訟提起に向けての準備状況
二〇一四年一〇月一七日に国土交通大臣がJR東海に対しリニア中央新幹線工事実施計画を認可したことでJR東海は工事着手が出来ることになった。従って工事の中止を求めて、国土交通大臣の認可が違法であるとして認可取消の行政訴訟を二〇一六年春頃提訴の予定で準備中である。
国土交通大臣の認可に対し異議申立をしている五〇四〇名余の中から一〇〇〇名を目標に原告募集をしている。
弁護団は東京、長野、岐阜、名古屋の弁護士が一〇名程度集まって訴訟提起の準備を進めているが、国土交通省とJR東海という巨大な相手との闘いであり多くの弁護士の参加を強く希望する。
国土交通大臣の工事計画認可の違法性の主張の骨子は全国新幹線鉄道整備法違反と環境影響評価法違反である。交通審議会での審議の不十分性、ネットワーク性が欠如したリニア方式を新幹線整備法による新幹線として建設を認めている点、安全対策が不十分なままリニア方式を採用したこと、財政的裏付けがないまま民間のJR東海に建設及び営業主体を指名したこと、建設工事に伴う人に対する危害防止方法や環境被害の防止策が全く具体的に記載されていない計画を認可した点等が全国新幹線整備法に違反することを指摘する。また環境影響評価法違反の点は、沿線住民や関係七都県や自治体から地下水破壊、残土処理による自然や沿線住民生活等様々な環境影響への危惧が指摘されていることに対し、環境影響を少なくする方法を具体的に検討した形跡は見られず、環境影響評価法が規定する環境影響評価手順は行われなかった点が違法であると指摘し取消を求めることを検討している。
東京支部 馬奈木 厳太郎
一 内田樹さんが来福
一一月一八日付の各紙には、「原発事故訴訟 現地初検証へ」(朝日新聞)、「避難区域で現地検証へ 原発訴訟で初」(福島民友)、「生業訴訟 現場検証へ」(毎日新聞)といった見出しが並びました。
その前日の一七日、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の第一五回期日が、福島地方裁判所において開かれました。この日は、東電から新たな書面が提出されました(国は書面を提出していません)。
東電の書面は、避難指示区域外の福島県の現況や福島県以外の現況、空間放射線量の状況などを紹介すると同時に、農地や住宅の除染が「着実に進んでいる」といった評価を前提に、被害がもはや存しないことを主張するものです(準備書面一七)。
原告側からは、敷地高さを超える津波に対する安全規制によって、全交流電源喪失という結果を回避することが可能であったことを主張する書面のほか(準備書面三八)、IAEA(国際原子力機関)の最終報告書について国が翻訳のうえ証拠として提出することを求める書面(意見書)、東電の株主代表訴訟において提出された証拠を本件でも提出するよう求める書面(送付嘱託申立書)、検証の実施を速やかに決定するよう求める書面(進行意見書)をそれぞれ提出しました。
期日当日は、一一月とは思えない暖かな一日となり、あぶくま法律事務所前には二〇〇名を超える方が集まりました。前回に続き、映画『大地を受け継ぐ』を撮った井上淳一監督、「原発なくそう!九州玄海訴訟」弁護団の板井優団員、原発事故被害救済千葉県弁護団の藤岡拓郎団員、かもがわ出版編集長の松竹伸幸さんが参加されたほか、傍聴席に入りきれなかった方々向けの講演会では、内田樹さんが、「三・一一は日本に何を投げかけたのか」と題して講演され、こちらも大好評でした。
二 原告本人尋問がはじまる
この日から、原告本人尋問が始まり、午前と午後あわせて六名の原告の方が、事故直後の様子や被害の実態、事故から四年以上経過した現在の状況、国と東電に対する想いなどについて、それぞれご自身の言葉で語られました。避難するお子さんや家族との別れの場面、お子さんの健康被害への不安、妊娠中の避難の苦悩、自死した父への想いなどが語られたところでは、法廷内にすすり泣く音が響き渡りました。前回期日までの専門家証人の尋問などを通じて、放射線量の多寡が原告の方々の精神的苦痛の存否や程度を決定づけるものではないといったことを明らかにしてきましたが、原告の方々のお話は、そうした専門家証人の尋問とも重なるものでした。裁判所へも原告の方々の被害はしっかりと伝わったのではないかと思います。それに対して、国や東電の反対尋問は、受領した賠償額がいくらかといったものや自宅から最寄りの線量測定器までの距離を確認したうえで線量の状況を尋ねるといったようなものに終始しました。
また、弁護団では、原告本人尋問に向けて、新人団員も含め若手と中堅以上の弁護団員とがペアとなって準備を行ってきましたが、今回の期日では三名の新人団員が尋問を行い、尋問の成功へと導きました。
三 一年がかりで獲得した検証実施
もう一つ、今回の期日では検証の実施に向けて大きな前進がありました。昨年五月から実に一年以上をかけて、裁判所を現地に向かわせるところまで到達したのです。検証実施は来年三月の予定ですが、原発事故をめぐる裁判で検証を実施するのは初めてですし、避難指示区域に裁判所が立ち入るのも初めてのこととなります。すでに弁護団では何度も現地入りするなどして準備を始めていますし、地元自治体やメディアなどとも協議を行っています。
被害実態を余すことなく明らかにするためにも、原告本人尋問も検証も全力で取り組む決意です。引き続き、生業訴訟の動向にご注目ください。
神奈川支部 志 田 な や 子
〔はじめに〕
二〇一五年一〇月一〇日、一一日に、相模地域労連等が企画した福島県内視察バスツァーに参加した。現地の人々の話を中心に現状を報告する。
〔南相馬市へ〕
一〇月一〇日午前七時に相模原市を出発し、しばらくして、常磐道に入る。バスが常磐道を北上していくと、道路に放射能線量計の電光掲示板が見えてくる。表示の単位は、μシーベルト/hである。最初は、〇・二μシーベルトだったものが、福島第一原発に近づくにつれて上昇してゆき六・〇μシーベルトまで上がり、遠ざかるにつれて下がっていった。
南相馬市に到着、昼食後、バスで浪江町に向かう。バス中で三浦広志さんからお話をうかがう。三浦さんは浪江町で農業をしており、震災前は農民連の一員として農民運動をし、農業では首都圏などに米や野菜を産地直送してきた。震災後は、NPO法人野間土を運営して先駆的に出荷米全部の放射能検査をするなどして、安全・安心の農産物を直売している。浪江町の一部(海側)は避難指示が解除され来年四月から住民が戻れるようになる。原発事故前は人口二万一〇〇〇人であったが、浪江町に戻るのは五〇〇〇人程度であるという。浪江町の一部にコンパクトシティをつくって五〇〇〇人が帰るのを待つ。政府は、原発事故は収束したから戻れといっている。東電と国は、原発事故をなかったことにしてしまおうとしている。しかし、福島第一原発事故で溶け落ちた核燃料がどうなっているかわからない。今のところ、冷やし続けて爆発するということはないが、再び地震などで壊れて冷やせなくなくなり事故が起こる可能性がある。福島第一原発から核燃料を取り出してなくならないかぎり、不安はなくならない。
南相馬市は人口七万人であったが、人口四万人に減った。ただし、四万人のうち一万人が除染作業員である。老人と除染作業員の街になってしまい、たまに若い人と子どもがいるという不自然な状態だと言っていたが、私たちが南相馬市に滞在中、子どもの姿は一人も見なかった。
〔浪江町にて〕
三浦さんとともにバスは浪江町に入る。浪江町に入る道路の入口には監視員が立っているが、三浦さんの顔パスで通る。住民は昼間立ち入ることはできるが、夜間は立ち入り禁止となっている。浪江町内の海岸近くを見ると、建物は津波にさらわれその基礎だけが残っている。除染作業がすすんだせいか、瓦礫はすでに片付けられており整然としている。遠くには、福島第一原発の煙突が見える。海岸から市街地に入ると、震災五年目になるのに、建物は破れた窓ガラス等がそのままになっていて、時間が止まっているようである。コンビニエンス・ストアのウィンドー・ガラスに、ベニヤ板が打ち付けられている。コンビニの窓ガラスがすべて壊されてしまう事件が発生したからである。店内には商品はまったくなかったのに、いったい何のためにガラスを壊したのか、破れかぶれの絶望感が感じられる。町内には、廃棄物の広大な仮置場がもうけられ、除染作業で出た廃棄物が集積されている。環境庁は山林地域の除染作業は不可能と諦めており、放射能に汚染されたままになっている。
バスから見えるのは、除染作業員だけである。三浦さんの話では、福島第一原発から二〇キロ圏内は国が発注しゼネコンが除染作業を請け負っており、これによりゼネコンは莫大な利益をあげている。二〇キロ圏内は「千と千尋の神隠し」の魔界のようなもので、金銭欲に支配された金の亡者や魔物が住む地域のように見えると言う。三浦さんは、人間界と魔界を行き来してきたのだそうである。浪江町見学の最後に、国の殺処分を免れた牛たちが飼育されている「希望の牧場」に行く。バスが通ると、牛たち数十頭が寄ってくる。殺処分を免れたという意味では幸運ではあるが、肉牛が人間に食べられることもなく死ぬまで過ごすというのも不思議な牧場である。三浦さんは畜産を学んだそうで、「複雑な気持になる」とおっしゃられていた。
〔原発下請の劣悪な労働条件と多重搾取〕
一〇月一一日はいわき市議会議員渡辺博之さん(日本共産党)から福島第一原発で下請として働く労働者の実態についてお話をうかがった。
現場では、事故が多発している。二〇一五年一月にベテラン作業員が労災事故死した。八月にも労災事故死が発生した。大型バキュームカーのタンクの蓋に挟まれたのだが、原因は閉所作業にもかかわらず監視員をつけずに作業させたことによる。現在、収束作業に携わる約七千人の大部分が経験一年程度の新人であり、労働者も現場監督も人手不足である。三月には火災が発生したが、原因は整備不良の車両部品の落下だった。下請企業はどうせ捨てるからと古い重機を使用している。七月に相次ぎ火災が発生したが、原因は、クローラークレーンのラジエーターからの出火、電源ケーブルに杭を刺すという初歩的なミスであった。
福島第一原発で緊急作業に携わっていた原発作業員が作業現場での放射線被爆量を低く見せるために、自ら線量計を隠すということがあった。隠した理由は被爆量が増えると働けなくなるからである。東京電力は線量隠しの対策をしたが、当該労働者はクビになったという。不安定雇用では、労働者の安全は守れない。
労働者が未払い危険手当を求めて、二〇一四年九月に四人の労働者が提訴した。この裁判のなかで、労働者が多重的に中間搾取を受けている実態を明らかにした。N氏の場合。二〇一一年八月〜一一月、東電から元請の鹿島建設には日当二万三〇〇〇円と危険手当二万円合計四万三〇〇〇円が支払われた。一次下請、二次下請と下請に出され、三次下請に雇われたN氏の賃金は日当一万一五〇〇円(元請に支払われた金額の二七%、七三%はピンはね)であった。S氏の場合。二〇一一年五月〜二〇一二年七月、東電から元請の鹿島建設には日当二万三〇〇〇円と危険手当一万三八〇〇円合計三万六八〇〇円が支払われた。一次下請に出され、二次下請に雇われたS氏の賃金は日当一万二〇〇〇円と危険手当三〇〇〇円の合計一万五〇〇〇円(元請に支払われた金額の四〇%、六〇%がピンはね)であった。
労働者が裁判に訴え、共産党いわき市議や労組が改善に取り組むなかで、不十分ながら危険手当を支払う会社が増えているという。しかし、いまだに「健康被害があっても訴えない、報道機関からの取材は一切受けない」との念書を労働者に書かせたりしている。実際に、従業員が取材を受けたり、労災などのトラブルが続くと、会社への請負が停止されることがあった。ある会社の作業員が突然全員解雇されたときに、労働者が「機械をぶち壊しやる」と喚いたことがある。無権利・劣悪な労働条件のもとで働かせている労働者が機材を壊す事態になることとおそれていると言う。不安定雇用・劣悪な労働条件は原発事故の隠ぺいには役立つかもしれないが、このままでは核燃料取出しや廃炉に向けた作業が順調にすすむとは思われない。福島第一原発で働く労働者が様々な意見を渡辺博之いわき市議にメールで送信してくるそうである。同市議からある労働者の次のような意見を紹介された。「(1)東電にまかせきりではなく全世界の英知を終結させ、念入りな計画を組んだ国家プロジェクトを発足させて欲しい。(2)資金に惜しみなく最先端の技術や放射線防護対策を用い、作業の効率化や作業員の被爆を極力減らして欲しい。(3)作業員の健康管理と賃金や手当など国のバックアップが欲しい。収束作業で働く作業員を限定に国で雇えるようなシステムの構築が欲しい。」
渡辺市議らや地域住民は、東電のJビレッジの入口で仕事が終わった労働者に果物や缶ジュースを配布して励ましている(二年前から二ヶ月に一回実施)。渡辺市議は「原発ゼロを主張するだけでなく、そこで働く労働者の仕事を確保し生活も健康も保障させていく運動を同時に行うことによって、原発労働者と一緒に原発ゼロを求めていくことができます」と言う。東電もこうした激励の活動を認めざるをえない状態にあるという。
〔原発事故被災者のWさんの話〕
Wさんは震災前、双葉郡富岡町で味噌を製造し販売し、Wさん夫婦、娘夫婦、孫でくらしていた。原発事故で娘夫婦と孫は新潟県の夫の実家に避難したまま、もう富岡町には戻らない。原発事故で家族はバラバラになってしまった。女性は子どもを育てなければならない。だから、原発事故の放射能の影響から逃れること最優先に考える。男性は仕事をして働きたい。だから、仕事のある場所から離れたくない。妻と夫の希望が両立しなくなり、夫婦が分断される。原発事故後、自分は娘夫婦のいる新潟県に避難して、ストレスから造園業で滅茶苦茶に働いて腰を痛めた。自分の周りには、原発事故後、多くの人が不自然に早く亡くなった。事故後の家族の分断などによるストレスで病気になり亡くなったのではないかと思っている。東電との損害賠償交渉もストレスである。加害者である東電が一方的に賠償額を決めてくることが許せない。損害賠償請求をしても「検討します」等々と繰り返し言って資料を出させ、最後は後出しジャンケンで払えないと拒否回答をしてくる。富岡町で味噌の製造・販売を再開したいと思い、再開に必要な費用を請求したが、払わないと拒否回答をしてきた。こうした東電の対応は屈辱的で、このことがストレスになる。被害者が憤って発言すると、官僚や保守党の政治家は本心では「左翼のクソども」なんて思っている。ばれてしまった官僚の発言や石原伸晃議員の「最後は金でしょ」という発言からわかる。避難指示解除によって、政府や東電は原発事故をなかったことにしようとしている。原発事故によって人間としての生活のすべてが奪われているのに、政府や東電は事故(被害)を隠蔽しようとしている。
〔おわりに〕
では、原発に反対する側はどうなのか。私自身、現地に行って衝撃を受けているのだから、やはり風化させられつつあったのである。だから、前述の農民連の三浦さんは、福島の被害を話すとともに、まず、福島原発事故はどんな事故だったのかと、話す。
原発事故当時、原子力委員会委員長は、福島第一原発四号機の使用済み核燃料プールの水がなくなり加熱・崩壊する最悪の事態を想定し、二五〇キロ圏内(東京と神奈川の一部を含む)の住民を避難させることを検討した。四号機が最悪の事態を免れたのは、工事ミスに救われた(二〇一二年三月八日付朝日新聞)。震災前の工事の不手際と意図しない仕切り壁のずれで、使用済み核燃料貯蔵プールは隣のシュラウドとつながり、シュラウドにあった大量の水も入っていたために、貯蔵プールの水温を上昇が抑えられ、加熱・崩壊という最悪の事態を避けることができた。運に恵まれてチェルノブイリ原発事故と同規模の被災を避けることができたのである。
首都圏に住む私たちに、他人事ではないことを認識させようとしているものと感じた。最近、出版された小説、『亡国記』(北野慶著)や『原発ホワイトアウト』(若杉冽著)もまた、危機的な状況をあぶりだす。「原子力村」・「安保村」(日米?米日?)が権力を握り、国民を騙しだまし崖っぷち走り続け、生存を脅かしている。反対運動は間に合うのだろうか。
東京支部 後 藤 富 士 子
一 朝日新聞(一一月二〇日)に「児相から戻って一カ月〇歳傷害致死の疑い」という衝撃の報道がされた。千葉県市原市で昨年一一月に長男(八カ月)を死亡させたとして、覚醒剤取締法違反罪などで起訴されていた会社員の父(二四歳)が傷害致死容疑で再逮捕された。父は容疑を否認している。長男は、昨年五月に右腕を骨折し、県中央児童相談所が一時保護したが、両親の元に戻して約一か月後に死亡した。
昨年五月の骨折時に児相が一時保護し、両親らと一一回話し合い、(1)妻の実家で大勢で育てる、(2)児相と市による定期的な家庭訪問を受け入れる、などの条件を両親側が受け入れたため、一〇月三日に保護を終了し、両親の元に戻した。その後も児相や市が計三回、実家や病院で会ったが、異常は確認できなかったという。
長男は、昨年一一月六日に自宅で意識を失った状態で見つかり、病院に搬送されたが死亡。死因は急性硬膜下血腫による呼吸不全。父が昨年一〇月下旬〜一一月六日の間に、長男の頭部などに暴行を加えて死亡させた疑いがある。
なお、昨年五月の骨折について、父は今年九月に傷害容疑で逮捕されたが、処分保留となっている。
二 児相の「一時保護」のみで保護措置をとらなかったことが全く解せない。昨年五月の骨折時、長男は生後二か月くらいである。おそらく病院から児相に通報されたものと思われる。一時保護が終了したのが一〇月三日というから、四か月以上、乳児院への入所措置をとらずに放置したことになる。
ちなみに、「一時保護」は、児童福祉法三三条に規定されたもので、保護措置をとるに至るまでの経過措置である。一時保護の期間は二か月を超えてはならないとされ、二か月を超えて引き続き一時保護を行うことに親権者が反対する場合には、都道府県知事は都道府県児童福祉審議会の意見を聴かなければならないとされている。とはいえ、一時保護は、親権者の同意も家庭裁判所の承認も要さない点で、児童相談所長の絶対権力による強制処分の様相を呈している。
ところで、本ケースで採るべき保護措置は、同法二七条一項三号に規定された乳児院入所であろう。同号の施設収容は都道府県が採るべき措置であるが、親権者の意に反して採ることはできない。但し、児童虐待の場合には、同法二八条一項一号により、家庭裁判所の承認を得て措置することができる。ところが、このような措置が講じられた形跡はない。
更に異常なのは、乳児は特定の保育者との間で愛着関係を形成する必要があるのに、「妻の実家で大勢で育てる」という条件を提示している。愛着(アタッチメント)は、人間の健常な心身発達を支える核になるのであり、そのような基礎知識を欠く児相など有害無益というほかない。
三 このように検討してみると、ある疑いが浮かび上がる。それは、児童福祉法七条に基づく「乳児院」という施設が存在しないのではないか、ということである。「アタッチメント理論」を持ち出すまでもなく、本ケースでは誰が考えても「乳児院入所措置」の外に策はないから、施設がありさえすれば児相も措置していたのではなかろうか?
一方、一時保護所内に乳児を収容する施設があったのかもしれない。
翻って、現実の「一時保護所」という施設も違法である。児童福祉法一二条の四では「児童相談所には、必要に応じ、児童を一時保護する施設を設けなければならない。」と規定されている。しかるに、実際の一時保護施設は、県中央児童相談所一か所のみで、大規模拘禁施設である。同法二七条一項三号の児童養護施設入所措置と比較すると、たとえば学校にも通えないし、家族の面会さえ自由にできず、外界と遮断して施設拘禁しているだけである。だから、長期収容は子どもにとって全く有害であり、「一時保護委託」という形で児童養護施設に移すのである。「一時保護委託」も「一時保護」であるから、親権者の同意も家庭裁判所の承認も不要であり、制度趣旨に照らすと本末転倒というほかない。
「一時保護施設」は、入所期間が短期であること、子どもに年齢差や問題の違いがあること、子どもの入退所が頻繁であること等により、各児童相談所に附設することは頗る経済効率が悪い。通常の保育所でさえ待機児問題があるのに、〇歳児保育、病児保育となると、現状では公的保育で賄えない。このような社会状況で、虐待されている乳児を入所措置する「乳児院」がないとしても不思議はない。
四 児童虐待について「通報」を社会に促しているが、現実は、虐待されている子どもを救えないシステムになっている。
親によって虐待された子どもは、虐待自体から受ける苦痛、恐れに加えて、保護や愛情を求める人物と危害を加える人物が同一であるという体験、あるいは保護や愛情を求める人物が、自分の存在を拒絶し、無視する人物と同一であるという体験によって圧倒されるような傷つき体験をする。この心的外傷体験こそ虐待の本質である。そして、子どもにとって何をもって心的外傷体験ないし心への攻撃と考えるかは、「基本的には、子どもが人生から何を期待する権利があるかについての社会の積極的な信念の融合物の問題である。」との言葉(ガルバリーノら)が示唆に富む。
二〇一五・一一・二二
東京支部 鹿 島 裕 輔
一 辺野古新基地問題の情勢(二つの訴訟)
(1) 埋立て承認取消処分の執行停止決定の取消訴訟
翁長沖縄県知事は、二〇一五年一〇月一三日、圧倒的な沖縄県民の支持のもと、公有水面埋立法に基づく辺野古埋立て承認に瑕疵があったとして、承認を取り消しました(沖縄県民を対象とした沖縄タイムスによる世論調査では七九・三%が取消を支持しています。)。しかし、防衛省沖縄防衛局は、翌一四日、国交省に対して行政不服審査法に基づく審査請求と執行停止を申し立て、同月二七日、国交省が執行停止を認めました。沖縄防衛局はさっそく同月二九日に本体工事を再開しており、しかも、事前協議なしに着工しました。
沖縄県は、一一月二日、国交省の執行停止決定を不服とし、第三者機関である国地方係争処理委員会に審査の申出を行いました。そして、同月一七日、翁長知事は、埋立て承認取消処分の執行停止決定の取消しを求める訴訟を提起する議案を県議会に提出することとし、一二月中にも提訴する姿勢です。
(2) 埋立て承認取消処分を撤回する代執行手続
一方、国交相は、翁長知事に対して、辺野古埋立て承認を取り消した処分の撤回を求める勧告を行いましたが、その勧告を翁長知事が拒否したため、同月九日、承認取消処分を撤回するよう指示しました。しかし、翁長知事は、同月一一日、かかる指示に対しても取消処分を撤回しないと表明しました。そのため、政府は、埋立て承認の取消処分を撤回する代執行に向けた訴訟を福岡高裁那覇支部に提訴しました。一二月二日に第一回口頭弁論が開かれる予定です。
二 NBFes(辺野古新基地建設に反対する若手有志の会)の立ち上げ
これまで私たちは、辺野古新基地建設に反対する若手弁護士を中心として、「No More Base Fes」と題し、新宿駅周辺でのアピールウォークや街宣アピール、戦争法制と沖縄基地を題材としたシンポジウムなどの様々な企画を行って参りました。
そして、さらに私たちは、沖縄だけではなく、日本のどこにも米軍基地は不要であるとの考えを基に、今後も様々な企画・活動を行っていこうと考え、この度、NBFes(辺野古新基地建設に反対する若手有志の会)という団体を立ち上げました。今後は沖縄県民の辺野古新基地建設反対の声を日本中の声にするために、そして日本全国から米軍基地をなくすためにも首都圏で繰り返し声を上げ続けていきます。
三 「街頭宣伝」と「No More Base Fes アピールウォーク@横浜」
このような思いから、私たちは、現在、ほぼ毎週街頭宣伝を行っています。前述のように沖縄の情勢が刻々と法廷闘争に進んできている中で、私たちに何かできることはないかと考え、辺野古の問題を東京の人たちに知ってもらおうと考え、ほぼ毎週の街頭宣伝を始めました。今後の街頭宣伝は以下の日程で行われる予定ですので、是非、多くの団員の方々のご参加をお願い申し上げます。
一〇月二八日一七:三〇―一八:三〇 JR池袋駅西口(終了)
一一月一三日一七:三〇―一八:三〇 JR四ッ谷駅(終了)
一一月二四日一二:〇〇―一三:〇〇 JR蒲田駅東口(終了)
一二月一〇日一七:三〇―一八:三〇 JR八王子駅(変更の可能性あり)
また、来る一二月二〇日(日)に横浜においてアピールウォーク(明るく楽しいデモ行進)及び街宣アピール(明るく楽しい街頭宣伝)を行うことにしました。神奈川県にも厚木海軍飛行場やキャンプ座間などの米軍基地が存在しているので、日本から米軍基地をなくすための声を上げる場所として横浜が適切であろうと考え、今回のアピールウォークは横浜で行うことに決めました。日時・集合場所についての詳細は以下のとおりです。前回のアピールウォークには約二〇〇名の方々にご参加いただけたので、今回はさらに多くの方々にご参加いただきたいと思っております。若手弁護士のみならず、老若男女、所属にとらわれず、広くご参加いただくことを期待しています。どうぞよろしくお願い致します。
日 時:二〇一五年一二月二〇日(日)午後一時〜午後三時
場 所:山下公園集合(神奈川県横浜市中区山下町二七九)
山下公園〜桜木町
連絡先:nomorebasefes@gmail.com
(竹村和也;東京南部法律事務所)
Twitter:@NO_MORE_BASE
Facebook:NO MORE BASE FES
なお、アピールウォークを行うにあたっても費用が掛かってしまうのですが、当企画は若手弁護士の有志で行っているため、財政面が厳しく、費用を準備するのに苦心しております。そこで、重ね重ねお願いをさせていただいて恐縮ではありますが、先生方におかれましては、是非、当企画の開催にご賛同いただき、カンパをお願い申し上げます(下記の振込口座にご送金いただけると幸いです)。
振込口座(ゆうちょ銀行)
●ゆうちょ銀行からの場合
【口座記号番号】 〇〇一九〇-三-六〇二四三九
【口 座 名 称】 ノーモアベースフェス
●ゆうちょ銀行以外からの場合
【 銀 行 名】 ゆうちょ銀行
【 店名(店番)】 〇一九(ゼロイチキュウ)
【預 金 種 目】 当座
【口 座 番 号】 〇六〇二四三九
*宮城・蔵王総会特集*
東京支部 山 口 真 美
二〇一三年一〇月二一日、岩手・安比高原総会で事務局長に就任した時にやりがいのある情勢だと言いましたが、この二年間はまさにその通りでした。
最初は秘密保護法のたたかいでした。安比高原総会から四日後の一〇月二五日に秘密保護法が国会に提出され、その後は怒濤のごとく秘密保護法成立阻止のたたかいでした。秘密保護法に反対する運動は、「三・一一」以来の反原発の運動とも呼応し、想定を超える広がりを感じさせ、戦争法制のたたかいにつながるものでした。
二〇一四年以降は戦争法制とのたたかい一色でした。五月一五日に集団的自衛権の行使を容認する安保法制懇の報告書が出され、七月一日の閣議決定と続き、一二月には衆議院の解散総選挙があり、二〇一五年五月一五日の戦争法制の国会提出以降は九月一九日の強行採決までの四ヶ月間は意見書やリーフの作成、法律家六団体や共同センターとの共同、院内集会、議員要請、国会前行動や国会包囲行動、日比谷野音での集会やパレード、マリオン前街宣等々が連日のように続く状態でした。
いろいろな人から「たいへんだね」と温かい声をかけていただきましたが、本当にやりがいがありました。それは、「立ち上がる民主主義、その流れの真ん中にいることができた」といえるからでしょう。
八月三〇日に国会前を埋め尽くした一二万人の人々の写真はつくられた絵ではありません。最初は三桁の前半ぐらいだった国会前に集まる人々の数が五〇〇人、六〇〇人、七〇〇人とあっという間に増え、数千人が当たり前になり、日比谷野音には毎回のように数万の人々が集まり、これに呼応して日弁連や弁護士会、元裁判官、元内閣法制局長官、「安全保障関連法案に反対する学者の会」などの知識人、「SEALDs」などの若者、レッドアクションや「安保関連法案に反対するママの会」などの女性、宗教者等々の各分野で戦争法制反対の声があっという間に広がっていきました。そして八月三〇日の国会前の一二万人包囲行動に結集しました。当日、総がかり行動の要請を受けて警備を担当していた私は、国会正門前の道路の真ん中で押し寄せる人々の波を見ました。参加者が「戦争法案廃案」「平和を守れ」「九条壊すな」「安倍は辞めろ」とコールしながら整然と進み、溢れる人、人、人。それが押しとどめることのできない波になって押し寄せて車道が埋まっていきました。コールしながら国会正門前に押し寄せる人々の中には、たくさんの若い人がいました。お母さんと子どももお年寄りも夫婦連れも宗教者もいました。民主主義が波になって押し寄せてきた、そういう歴史的な瞬間でした。この瞬間に立ち会えたのは、まさにこの時期に「たたかう自由法曹団」の事務局長をさせていただいていたからだと思っています。
また、事務局長として、いろいろな出会いがありました。三役として九州ブロック・東北ブロック・北陸ブロック・女性部・京都支部・兵庫県支部・北海道支部の総会に参加し、地方常幹では、京都・沖縄・奈良・静岡、五月集会と総会では和歌山・福井・広島・宮城の各支部の皆さんに本当にお世話になりました。全国各地の団員と出会い、各地でのとりくみに触れ、それぞれの地域が地元に深く根付いた魅力的な活動をしている姿を見て、あらためて自由法曹団の魅力を感じることができました。お世話になった各地の団員の皆さんにあらためて心からお礼を申し上げたいと思います。
最後に、執行部の皆さん、篠原義仁前団長、荒井新二現団長、長澤彰前幹事長、今村幸次郎現幹事長、そして一一名の次長に支えていただきました。次長の皆さんの頑張りなくして本部のたたかいはなく、私も事務局長の職を全うすることはできなかったと思います。本当に感謝しています。
裏方で支えてくれた団の専従の皆さんにもお世話になりました。
団に行ったきり帰ってこない私を黙って見守ってくれた三多摩法律事務所の皆さんにもお礼を言いたいと思います。
楽しい二年間でした。本当にありがとうございました。
静岡県支部 佐 野 雅 則
静岡県支部から初めて本部次長を出すという話が支部内で出たのは、私が知る限り、確か二〇一二年の焼津総会の後くらいからだったと思う。その頃は、はっきり言って他人事のように考えていた。私はそれまで、団総会に二回参加したことはあるが、五月集会も毎月の常任幹事会ですら一度も参加したことはなかった。支部の中でのんびりと支部の活動に参加する程度だった。そんな私が本部に行くなんてことがあるはずがない。まあ誰かがやってくれるでしょうと考えていた。
二〇一三年六月の県支部総会でも本部次長の話が出た。まあ関係ないかと思っていた。県支部総会は一泊二日でやるので、一日目の夜はもちろん酒盛りだ。だいぶ飲んだころで、塩沢支部長が私のそばにすっと寄ってきた。そして「佐野君、本部に行かないか」と。「は?」。「私は佐野君が適任だと思う」。「・・・」。「とにかく考えてほしい」。「はあ、わかりました」。こんな具合で話が劇的に進んだ。
その後は、「勉強になるから」、「二年だけだから」、「月二回東京に行くだけだから」、「交通費は本部から出るから」、「応援するから(何を?)」、などと甘言を弄され、あれよあれよと承諾しない道は閉鎖されていった。
そして、半ば騙された感じで二〇一三年安比総会で就任してしまった。
二年前、引継ぎ事務局会議に参加するため、初めて団本部に行った。当時はまだ後楽園にあった本部である。ここで衝撃的な事実が明かされる。「月二回」の話は事務局会議だけの話で、その他に毎月の常任幹事会、最低三つの委員会が各月一回程度、さらに事務局合宿、裁判交流集会・・・話が違う。もう遅い。覚悟を決め、激動の二年間が始まった。
最初の頃の大きな課題は、何といっても秘密保護法闘争。直接の担当ではなかったが、激動する政治の中心にいるという感覚は初めてだった。安倍政権のもと、その後も各分野で課題山積だった。私の担当だった原発も目まぐるしく情勢が動いた。
まず、二〇一四年四月の「エネルギー基本計画」で原発再稼働方針が明確に打ち出された。そして、川内原発が審査に合格し、続いて高浜原発、伊方原発と続いた。一方で、大飯原発判決、高浜原発仮処分決定では画期的な裁判が出された。「司法は生きていた」まさにそう思わせる裁判だった。ただ、川内原発については再稼働が実現してしまった。そんな激動の二年だった。
そして、二〇一五年の夏の戦争法制闘争は、担当を問わず団本部も一丸となって取り組んだ問題である。私も、日比谷公園まで駆けつけたこともあったし、国会前行動に参加したこともあった。地元の静岡でも総がかり行動がこれまでにない頻度で集会やパレードを実施し、大いに盛り上がりそのたびに駆り出されていた。今年の七月の静岡での常任幹事会の日も午前中に大規模集会を開催し、常幹に参加する全国の団員にも参加してもらった。中央の動きもすごかったが、これほど地元静岡で運動が大きくなったのは初めてだった。生きている政治の真っただ中でたたかいに参加できた経験は何物にも代えがたいものだった。
本部に来ていなければ経験できなかったことがたくさんあったと思う。今まで考えたこともないことを毎日考え続けた日々だったと思う。多くのことを勉強でき、大きく成長できた二年だったと思う。終わってみれば、大変だったけど貴重で有意義な二年だった。支部の歴史にも大きな功績を残せたと思う。
今年、静岡県支部からの次長は出ていない。これは私への評価から静岡枠が取り消されたわけではない。誤解のないように。次の次長を出す準備をしていると聞いている。来年には静岡県支部からの次長が補充されていることと思う。
二年間、お世話になりました。ありがとうございました。
神奈川支部 田 井 勝
一 二年間、無事終えることができた、というのがいまの率直な感想です。
就任する年の五月、神奈川の居酒屋で篠原団長(当時)から、「田井ちゃんも一度、本部の次長をやったほうがいい」と言われ、その時、お酒が入っていて気も強くなっており、「やります」と言ったのが、ことの始まりでした(というか、「やります」という承諾のメッセージを述べたのか否かもあまり覚えていませんが…)。
二 次長時代は、労働、国際、選挙の委員会担当でした。
労働では、鷲見本部長の元、次々と声明・意見書を発表し続け、集会なども定期的に開催。派遣法改悪の動きがあったため、活動も盛んでした。「派遣労働一一〇番」という電話相談会をした際、派遣労働者がこの法改悪に強い不安を抱いていることを肌で実感したのは印象的でした。今後も何らかの形で、労働法制の問題には関わっていきたいと思います。
国際では特にTPP問題。井上委員長の元、多くの学者さんや政治家の方とも懇談し、問題意識を共有できました。もう少し運動の方々と共に活動できればよかったのですが、この課題は次の担当の方に是非とも託したいと思います。
選挙は小選挙区制の問題。あまり情勢は動きませんでしたが、参議院制度の意見書作成のため、芝田委員長、田中団員の元で活動し、勉強になりました。
それから、委員会とは別に、自由法曹団名義でフェイスブック、ツイッターの担当もやらせてもらいました。結構好き勝手に投稿していましたが、毎回の投稿の度、一〇〇〇人から多い時で五〇〇〇人程度の方が閲覧してくれているのはちょっとうれしかったです。
三 就任開始当初から退任に至るまで、特定秘密保護法の成立、集団的自衛権の閣議決定、労働者派遣法の改悪、TPPの大筋合意…。情勢がめまぐるしく動き、とんでもない法制度が次々と成立していく。でもその一方で、いままで声をあげなかった人たちがこの動きに抗して立ち上がっていく。その動きに、少しでも加わることができ、この二年間、次長をやれて、本当によかったなと思います。
少しずつ、私たち市民の中に、政治というものをもっと考えよう、もっと自分の声をあげよう、という意識は芽生え始めていると思います。いつになるかわかりませんが、この芽生えがいつか大きなムーブメントとして花開くために、自由法曹団こそが、皆で頑張って行ければと思います(少し偉そうですみません)。
四 二年間、共にがんばった執行部の皆様、専従事務局の皆様ありがとうございました。しんどい時、互いに協力して仕事を引き取るなどして乗り越えられたのはうれしかったです。これからもまたよろしくおねがいします。
以上、皆様ありがとうございました。