<<目次へ 団通信1558号(4月21日)
平澤 卓人 | |
成田 悠葵 | |
一由 貴史 | 浅川ダム公金支出差止訴訟、控訴審のたたかいについて |
臼井 俊紀 | |
馬奈木 厳太郎 | 浜通りでの検証が実施されました 〜「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟第一七回期日の報告 |
大久保 賢一 | |
椏c 晃一 | リニアモーターカーは危険な乗り物 |
後藤 富士子 | 「弁護士窮乏」の要因を考える ― 戦前の弁護士の職業史に学ぶ |
玉木 昌美 | |
永尾 廣久 | 「反応工程」と労務課徴用係 |
◎五月集会関連 |
北海道支部 平 澤 卓 人
北海道自衛隊人権弁護団は、自衛隊員の人権を守るため、隊内の事件についての法的手続や自衛隊との交渉、電話相談などの活動を行っている弁護団です。
もともと、弁護団長である佐藤博文弁護士らが、女性自衛官人権裁判(二〇〇六年、航空自衛隊の女性自衛官が隊内で性的暴行を受けた事件)に取り組み、同裁判において五八〇万円の損害賠償を認める勝訴判決を得ました(札幌地判平成二二年七月二九日平成一九年(ワ)第一二〇五号)。同判決では、国の被害配慮義務、環境調整義務、および不利益防止義務違反を認める画期的な内容でした。
この事件を契機として、佐藤博文弁護士を中心に、自衛隊の様々な事件を扱うことになり、現在は常設の弁護団として活動しています。
自衛隊では上命下服の関係、閉鎖的な環境に起因して、いじめやわいせつ行為など深刻な人権問題が発生し、その相談が持ち込まれています。
二〇〇六年一一月二二日、札幌市の真駒内駐屯地において自衛隊員として勤務していた二〇歳の青年である島袋英吉さんが死亡した事件の国家賠償請求訴訟に取り組みました。同訴訟では、島袋さんがいじめにより死亡とまでは認定しませんでしたが、徒手格闘訓練について、生命身体に対する一定の危険が内在しているため、事故の発生を未然に防止すべき一般的な注意義務を負うと判示して、国家賠償請求を認容しました(札幌地裁平成二五年三月二九日労判一〇八三号六一頁・命の雫事件)
また、女性自衛官が、セクハラ冤罪の先輩隊員をかばったところ、上官からパワハラ、退職強要を受け、精神疾患を発症した事件について、二〇一一年一二月に札幌地裁に提訴しましたが、札幌地裁は国の安全配慮義務違反を認めない不当な判断をしました。
最近では、未成年の女性事務官が、歓迎会の後に強制わいせつ行為をされた事案については、札幌地裁は国家賠償請求を認めませんでしたが、加害隊員に対し約二六五万円の損害賠償を認める判決を下しています(札幌地判平成二八年三月一八日平成二五年(ワ)第二五六一号)。
また、自衛隊と交渉し解決している事件もあります。自衛隊員が退職するには承認が必要であり、部隊が承認しないことがあります。そのような事案について弁護士が交渉することで無事に退職に至った事案が数件あります。また、自衛隊では、勤務しながら大学に通える旨をうたって隊員を募集することがありますが、実際には大学に通わせないことがあります。この事案も、交渉によって無事大学に通うことができるようになりました。
この他、二〇一五年九月、二〇一六年三月にそれぞれ自衛隊・家族のための電話相談会を開催し、自衛隊員の家族らの安保法制に対する怒りや不安の気持ちを聞き取り、これを国会に届けるといった活動もしました。
五月集会の新人弁護士学習会では、弁護団の活動を紹介するとともに自衛隊内の様々な人権問題について全国の皆さんと議論できればと思います。実際の自衛隊の関係者にもお話し頂く予定ですので、ぜひ多くの方にお越し頂ければと思います。
北海道支部 成 田 悠 葵
一 札幌訴訟の現状
札幌では平成二六年一〇月二二日に給費制廃止違憲訴訟を提訴しました。原告は一一名、いずれも札幌で弁護士登録した元司法修習生です。私も原告の一人です。
現在、札幌では平成二八年三月一七日に第六回口頭弁論期日が終了しました。訴訟では、原告の給費制廃止に対する思いを明らかにするため、これまで五回の原告意見陳述を行ってきました。
口頭弁論が六回開催されているのに対し、原告意見陳述が五回なのは、第四回期日でひと悶着あり、意見陳述を制限されるということがあったためです。第五回期日以降は、意見陳述の内容を準備書面化し、準備書面の要旨を原告本人が口頭で陳述するという形で、原告の意見陳述を実施しています。
かくいう私も、第三回期日と第六回期日の二度、原告の意見陳述を行っております。同じ原告が二回目の意見陳述をすることについて、国代理人や裁判所から何も言われなかったのが不思議です。
以下、第六回期日における私の意見陳述(準備書面の要旨のさらに短縮版)を紹介します。テーマは「せたな産修習生の修習実態〜生存権侵害を添えて〜」です。
二 せたな産修習生の修習実態〜生存権侵害を添えて〜
(1)生活資金
修習開始時、私に貯えはなく、逆に、奨学金による借金が約八〇〇万円ありました。ただでさえ借金漬けなのに、将来の見通しが不透明な中、貸与により二〇〇万円以上の借金を増やすことは不可能でした。やむなく、親に支援を頼み込み、親から支援を受けることにしました。
親からの支援といっても決して裕福なものではなく、私の場合、親からの仕送りは月一四万円程度でした。貸与金は月二三万円ですので、それ以下の生活資金ということになります。
家計について具体的に説明します。私の実家はせたな町にあるため、札幌で修習するには、市内に部屋を借り、一四万円の仕送りの中から家賃、管理費、水光熱費等を支出していました。
家賃等の固定費用を除くと、手元に残るのは六〜七万円でした。そこから食費や日用品の購入、書籍の購入などを賄わなければなりません。その他に、埼玉県和光市での集合修習にむけて移動費・引越費として五万円程度が見込まれたため、その積立をする必要もありました。正直に言って、生活に余裕は全くありませんでした。
スーツは修習開始時に購入した二着を、夏冬問わずに使い回していました。シャツも同様に三〜四着を使いまわしていました。スーツやシャツは修習期間中に買い足すことはありませんでした。
食事は、通常、昼と夜の二食にしていました。基本的には、昼はコンビニ、夜はご飯とみそ汁に一品程度の簡単な自炊で済ませ、食費を切り詰めていました。朝食はほとんどとりませんでした。これも食費を切り詰めるためです。
健康面で言えば、頭痛や腹痛があっても、費用の捻出ができないため、病院へ行くことはできず、薬を買うこともありませんでした。
(2)司法修習生に求められる修習生活
司法修習生に求められる修習生活を送るには、単に衣食住が賄われるだけでは足りません。司法修習生に求められるのは、修習の目的を達成するための修習生活です。
司法研修所が発行した「修習生活へのオリエンテーション」にはこうあります。「高い識見と円満な常識を養い、法律に関する理論と実務を身につけ、裁判官、検察官又は弁護士にふさわしい品位と能力を備える」。これが修習の目的です。
修習の目的に照らし、司法修習生には、自己研鑽が求められ、また、法律に関する知識や技能だけでなく、法曹としての品位や健全な社会常識の修養も求められています。そのためには法律専門書など書籍の購入・利用による自己研鑽や、先輩法曹や社会との交流が必要となります。
(3)書籍購入費
実務修習では、裁判所、検察庁、弁護士事務所に配属され、そこで現実に行われている実務に接し、実践しますが、日々、新たな知識の修得が必要です。それらの修得に役立つ書籍の購入は、司法修習において必要不可欠です。
司法修習生には二〇冊近くの専門書の購入が推奨されていますが、中には一冊で二万円もするものもあり、費用がかかります。
私が、修習期間中に購入したのは、必要に迫られた四冊だけでした。その他必要な書籍は、都度、借りたりコピーしたりしていましたが、借り物には書き込みはできませんし、コピーにも費用が掛かり、十分にその書籍を利用することはできません。必要な書籍を購入できないということは、修習に支障を来します。
(4)交流にかかる費用
先輩法曹の持っている、これまでの職務経験や法曹としての哲学に触れるには、午前九時〜午後五時の通常の業務時間はもちろん、業務を離れた時間の交流が非常に重要です。こうした個性豊かな先輩法曹らとの交流を経て、法曹人生のスタートを切ることができます。
先輩法曹たちとの交流には費用がかかりますが、先に述べた司法修習の目的に照らすと、これらは必要不可欠な費用です。
私は、当初から弁護士志望だったため、弁護士との懇親会等には費用の許す限り参加しました。例えば、新・北海道石炭じん肺訴訟弁護団の弁護団会議に出席し、その後、参加弁護士と懇親会へ行きました。そこで、じん肺被害の実態や弁護団の戦いの歴史等を聞き、被害者の救済と被害の根絶のために活動する弁護士の姿を肌で感じることができました。そのときの懇親会の費用は先輩弁護士が出してくれたため、気兼ねなく参加することができました。
他方、裁判所部内での懇親会や書記官・事務官との懇親会には、経済的に苦しく、あまり参加できませんでした。
(5)生存権侵害
司法修習生の最低限度の生活は、人権擁護の担い手となるための学習に要する書籍等の購入費用や健全な社会常識や法曹としての品位を修養するための交流費用と切り離すことはできません。充実した司法修習は経済的基盤と表裏一体です。
しかし、給費制の廃止により、充実した司法修習を可能とする経済的基盤は奪われました。給費制の廃止、そして給費制を復活させないことは司法修習生の健康で文化的な最低限度の生活を保障する生存権を侵害するものであり、憲法二五条に反し違憲です。
三 札幌訴訟の今後
札幌訴訟では、原告の主張は概ね終盤に入りつつあり、本人尋問が近づいています。今後、訴訟を通じて、給費制廃止の不合理性や貸与制下の修習生の被害実態をより詳細に明らかにし、給費制の復活・貸与世代の救済につなげられるよう努力したいと思います。
長野県支部 一 由 貴 史
一 長野市の住宅街にほど近い長野市浅川一ノ瀬地域に建設されつつある県営浅川ダムは、一九七一年の予備調査開始以来、田中知事の脱ダム宣言による中止、その後の村井知事によるダム計画の復活など紆余曲折を経て、二〇〇九年からの着工が開始されました。
二 周辺住民、浅川流域の住民四〇〇名以上が、この浅川ダム計画の必要性、安全性に疑問を抱き、原告団を組織し、自由法曹団員を中心とする弁護団(団長:大門嗣二弁護士、事務局長:山崎泰正弁護士)との協力により、二〇一〇年三月、長野地裁に公金支出差止等請求訴訟を提起しました。
三 争点は、ダムの必要性と安全性にまたがります。前者については、(1)ダム建設の必要性についてのすべての出発点となる基本高水流量の設定のあり方、(2)仮に長野県の設定する基本高水流量を前提としても、すでに河川改修の進んだ浅川において、本件ダムを設置することが費用対効果の観点から見て必要といえるのか、後者については、(3)地質が脆く、地滑り地帯に位置する本件ダムの安全性、(4)ダム堤体直下を横切る断層の活動性いかん、(5)穴あきダムの穴詰まりの危険性が主な争点となりました。
特に弁護団が力を注いだ争点(1)、(2)、(4)などについては、奥西先生をはじめとする国土研に所属する学識者、小坂信州大学名誉教授等のご協力を得て、専門家証人の尋問を実施し、被告の主張の矛盾や非科学性を含め立証に尽力しました。特に上記(2)については、原告側専門家証人により、被告資料を前提とした詳細な費用便益分析を行い、被告の主張には、「破堤も溢水もしないはずの地点で破堤する」との誤った前提が存在することを具体的に指摘し、結論としての費用便益比は〇・一二という一を下回る水準でしかないことを理詰めで論証し、被告を追い詰めました。また、(4)の断層問題についても、活断層の兆候を示す要素を具体的に指摘し、活断層の上にコンクリートの塊であるダムを建設することなど許されないと指摘、論証しました。断層問題については、当初、被告が調査を依頼した専門家は、活断層性について歯切れの悪い見解を述べるにとどまり、結局陳述書も提出されず、証人尋問も請求されないまま、突然、被告の主張を代弁する別の専門家証人が登場するという異例の経過となりました。
四 しかしながら、二〇一五年四月に言い渡された一審判決(裁判長:石原寿紀)の結論は、被告の主張をほぼ鵜呑みにした原告敗訴の判決でした。被告主張のあまりに不合理な点を排斥している点はともかく、必要性、安全性いずれについても、原告の主張に正面から真摯に応えるものではなく、「行政のやっていることに間違いはない」との予断に充ちた説得力に欠ける判示に満ちた判決でした。
五 原告団は、直ちに控訴し、現在、東京高裁に事件係属中です。二〇一六年三月一〇日に第一回の控訴審期日が開かれ、詳細な控訴理由書に補足し、大門弁護団長、木島弁護士((2)の費用便益問題の担当)が、一審判決の誤り、矛盾を冷静に指摘する弁論を行いました。当日は、地元からバスで駆けつけた原告団も傍聴しました。被告代理人は一回結審を望んでいたようですが、裁判長は、期日続行することを決め、引き続き一審判決の正当性についての主張を交わしていくこととなりました。
今後も、原告団、弁護団が一丸となって、不当な一審判決を是正するために控訴審でのたたかいに取り組むことになります。ご支援のほどよろしくお願いします。
山口県支部 臼 井 俊 紀
三菱下関造船じん肺・アスベスト訴訟弁護団事務局長
第四章 最高裁でのたたかい
一 最高裁でのたたかいは、三菱重工側の上告受理申立理由書に対する反論から始まった。
じん肺罹患を執拗に否定し、高裁判決を経験則、採証法則違反の事実認定であるという、三菱重工の主張は、根拠がないことは明らかであった。何よりも解剖結果によって、じん肺罹患が確定している一名については、反論の余地はないはずであった。そして、そのことは、そのような被害者すら、独自の仮説(理論)によってじん肺罹患を否定する三菱重工の立論こそが、おかしいことを物語るものである。
だが、三菱重工のミスリードによって、最高裁がとんでもない判決を出さないようにすることが必要である。最高裁が、広島高裁の判決を変更しない時は、口頭弁論を開く必要はないが、それを変更する為には、口頭弁論が開かれる。従って、この反論書は、口頭弁論を開かせないようにする為のものであるが、詳細な反論を加えた。
じん肺弁連の会議で、当時の山下登司夫幹事長は、間違っても最高裁で口頭弁論をしたい等と思うなよと言われたが、勿論、そんな気持ちは誰も持っていなかった。
二 この間に、原告団長の体調が思わしくない中、生命あるうちの解決をと訴えて、私たちは、全国から寄せられた早期解決を求める数多くの署名を持って、最高裁に、口頭弁論を開かずに、早急に三菱重工の申立に対して不受理決定をするように要請し、三菱重工の本社にも赴いて、早期の解決を要請した。
しかし、三菱重工が、受付で要請書を受け取るだけで、交渉にも応じず、早期の解決を拒否する中で、終始、事件解決の先頭に立ってきた原告団長が亡くなってしまった。生存原告は一名になった。
三 そして、二〇一五年一〇月二九日、やっと、上告不受理決定が為された。原告団長が亡くなって二カ月経っての決定であった。
提訴以来七年半、じん肺管理区分決定の時からすると実に九年半が経過しての解決であった。
最終章 さらにたたかいは続く
一 この事件の勝利の要因は、困難にもめげず、助け合い、励まし合ってたたかい抜いた原告団や遺族の不屈の闘志が、まずあげられる。
そして、いわばグループ内の下関の企業が、予想もしなかった不渡手形をつかまされて経営危機に陥ったのを、同じグループ内の東京、福岡、北海道や広島の各企業が支援をして、経営を再建した観のある弁護団の団結力が、逆転勝利につながったものである。
原告団や弁護団を信頼して、最後まで署名やビラ巻き等を続けてくれた全国の支援も、重要な力を発揮した。
二 しかし、訴訟は決着したが、たたかいは未だ終わっていない。
三菱重工は、私たちの再三の要求にもかかわらず、かたくなに謝罪を拒否している。これは、下請労働者に対して、責任を認めることによって補償が拡大していくことを避けたいという、利潤追求の企業の論理以外の何ものでもなく、ここに、企業の社会的責任とかコンプライアンスの重視といった視点は欠落している。
じん肺訴訟は、「あやまれ・つぐなえ・なくせじん肺」というスローガンのもと、「生命あるうちに解決を」という要求でたたかわれる。
三菱重工という日本のトップリーダーたる企業が、私たちのこの当然の要求と、真っ向から対立する企業であることは、日本にとって不幸なことである。
三 この事件の中で、私たちは多くのことを学んだ。
じん肺・アスベスト被害の深刻さ、安全より納期を優先するという企業の安全配慮義務の軽視の姿勢等。また、法律論や医学論についても、認識を深めた。特に、じん肺・アスベスト被害のCT画像読影については、横山(詩土)弁護士、松田弁護士が担当になって、困難な専門的分野に切り込んでいった。
そして、この両弁護士は、今やじん肺・アスベスト被害のCT画像の読影問題では、日弁連の中でも屈指のスペシャリストになったのであった(但し、何本指を折るかは不明)。
また、私たち山口・下関の現地(ネイティブ)弁護団は、全国各地の弁護士の薫陶も受けて、私の独自の評価表に基づくと約四五〇〇ポイントの経験値を獲得し、レベルが2上った。
こうして、マスターじん肺・アスベスト弁護士となり、今後、同様の事件の受任を断れない地位を得たのであった。岩城・鈴木・井上・山本の四天王、原田・深堀・平田の三尊、小笠原・迫田の二傑の各弁護士らは、既にマスターじん肺・アスベスト弁護士の地位にあったが、経験値の上乗せにより、その能力に一層のみがきがかかった。
四 このたたかいの中で、一審提訴直前の準備中に一人の被害者が亡くなり、高裁段階でもう一人の被害者が亡くなり、最高裁の段階で原告団長が亡くなった。また、高裁の段階で、弁護団長の下田泰弁護士が亡くなり、運動の中心人物であった久村信政さんが亡くなった。
早期の解決が為されていれば、これらの方が生きておられる中での解決を迎えることができた。まことに残念である。
五 私たちは、これらの方々の遺志も受け継ぎ、数多くの方から寄せられた支援を推進力として、今後も、じん肺・アスベスト被害根絶のたたかいを続けていくことを決意している。
六 尚、この事件での、原告団や弁護士、支援者のたたかいについて、現在、松竹から山口県にゆかりのある山田洋二監督での映画化や、NHKから新プロジェクトXの再開第一話の企画のオファーが、・・・・・まだない。(終わり)
東京支部 馬奈木 厳太郎
一 検証実施までの道のり
三月一七日、福島地方裁判所の裁判官三名が、浪江町、双葉町、富岡町に入り、検証を行いました。当日は、裁判所関係者一〇名、被告国・東電が二五名、原告らがサポートメンバーも含めて四六名、メディアが二二名同行しました。
私たちが、初めて検証について進行意見を述べたのが二〇一四年五月の第五回期日、初めて検証申出書を提出したのが同年七月の第六回期日なので、実に二年近くかけての実現となりました。この間、検証に関係する提出書面は二〇通を超え、弁護団内部や原告団との会議は優に五〇回以上、そのほか候補地自治体との協議、メディアとの協議、裁判所との協議も複数回にわたって行いました。もちろん、検証対象宅の原告の方との個別の打ち合わせや、検証ルートの確認、周辺状況の調査などのための下見の数は数知れず。先達の第二次新横田基地公害訴訟の方を招いての学習会や検証期日にお邪魔させていただいたりもしました。弁護団の総力を挙げての取り組みであり、原告団の多大なサポートを得ての検証本番ということになりました。被害の実態を知ることなくして、この裁判の判決を書いてもらうわけにはいかない――そうした私たちの決意の成果として、今回の検証を獲得することができました。
二 検証に際してこだわったこと
検証は、被害立証の一手段として行われるわけですが、とくに浜通りでの検証を通じて、次のことを裁判所に意識させたいと考えていました。
・震災と原発事故による複合的な被害が生じていること
・被害が現在も収束しておらず継続していること
・生業を喪失することが営業損害の賠償だけで償えるものではないこと
・中間指針の線引きや東電の賠償基準が合理的なものではないこと
そうした考えから、浪江町では事故前の生業の状況と現在の違いを、双葉町の帰還困難区域では原告宅のみならず無人となった住宅街や駅前商店街の雰囲気を、富岡町では帰還困難区域と居住制限区域との線引きの不条理さといった具合に、それぞれの検証予定地の位置づけを明確にし、検証対象宅の原告のみならず、全体としての被害立証との関係も含めてイメージできるようにすることを重視しました。
また、検証にあたっては、指示説明書や陳述書を準備するだけではなく、検証ルートに所在する自治体の現状や、検証対象には含まれていないものの通過する周辺の状況などについても証拠を提出し、原告と地域のつながりや生活圏全体の被害も意識できるよう心がけました。
さらに、検証は、裁判所が被害現地に赴き、直接現場を観察する貴重な機会となります。現場での説明はもちろん、音(線量測定器の警報音)や匂い(室内にこもる獣臭)、視覚(震災後ほとんど人の立入がなく時間が止まったかのような住宅街や駅前商店街の光景、帰還困難区域と居住制限区域を分かつ境界の道路やその周辺の状況)など、あらゆる五感の作用に訴えて、被害の実情を認識してもらうことに、私たちとしては全力を注ぎました。
検証を終えて、原告の方々は、「避難指示が出されたから年。国や東電は本当に被害者のことを真摯に考えてほしい。検証で裁判官は私の話をうなずきながら、快く聞いてくれた」、「裁判所による検証が行われたのは前向きなこと。荒らされた家の中も視察するなど裁判所は真剣に取り組んでくれていると感じた。生業を返してほしい。そして死んだ牛の無念を晴らすような判決を裁判所には出してもらいたい」と感想を語りました。
三 全国でも検証の申し出を
今回の検証は、福島第一原発事故関連の訴訟では初めてのものとなりました。帰還困難区域などに立ち入ることもあって自治体の立入許可を要することや、防護服を着用しての検証となることなど、実施までには実務的な困難さもありましたが、弁護団としては貴重な成果を挙げられたと評価しています。
しかし、一回の検証で立証を尽くせるわけでもなければ、被害現地を訪れるだけで良い判決が約束されるわけでもありません。浜通りに続き、中通りでの検証も実現させ、被害のとらえかたや評価のありようについても、さらに裁判所を説得していかなければなりません。
また、検証実施は、各地で被害救済を求めている訴訟にとっても、良い影響を与えるものとなったのではないかと思います。私たちとしても、裁判所を飛躍させるためにも検証の実施を本気で求めていくよう、各地の原告団・弁護団に対して、今後も提起していきたいと考えています。引き続き、生業訴訟の動向にご注目ください。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
はじめに
四月一日、政府は「憲法九条は、一切の核兵器の保有および使用を禁止しているものではない。」との閣議決定を行った。これまで、政府は、憲法は核兵器の保有を禁止していないとの見解をとってきたが、使用についてまで踏み込んだ閣議決定は初めてである。背景にあるのは、憲法九条は、自衛のための実力の保有や武力の行使を禁止していないので、防衛目的のための核兵器の保有や使用は違憲ではないという論理である。今般、政府は、我が国の核兵器保有だけではなく、核兵器の使用についても憲法違反ではないと内外に宣言したのである。なぜ、今、このタイミングで「使用」にまで踏み込んだのかについての説明はないが、看過できない閣議決定である。
国際社会への挑戦
現在、国際社会では、核兵器の非人道性に着目して、核兵器の廃絶を目指す機運が高まっている。日本政府も、核兵器使用の非人道的結末に関する国連決議に賛同しているところである。にもかかわらず、あえて、このような閣議決定をすることは、核兵器被害国の政府の取るべき態度ではないであろう。政府は、唯一の核兵器被害国として核兵器廃絶に取り組むとか、G7外相会議で核軍縮に向けた「広島宣言」を発表したいなどとしているけれど、憲法上、自衛のための核武装は禁止されていないとの態度は牢固としているのである。
核兵器の特性
そもそも、核兵器は無差別かつ大量殺傷を目的とする残虐兵器である。これらの核兵器の特性は、被爆者の証言はもとより、一九六三年の東京地裁判決や、一九九六年の国際司法裁判所の勧告的意見からしても明らかである。武力の行使も一切の戦力も放棄している日本国憲法九条が、核兵器を保有したり、行使することを容認していると解釈することは、「専守防衛」の考え方をとったとしても、解釈の域を超えていると言わざるをえない。核兵器保有や使用容認の閣議決定は、憲法解釈から導くことのできない違憲の決定である。
「集団的自衛権」行使を容認に続き、政府は「核兵器使用容認」閣議決定を行ったのである。その好戦的姿勢はあまりにも露骨といえよう。
非核三原則などは縛りたりえない
政府は核保有や核兵器の使用も違憲でない場合があるとしつつも、政策的に非核三原則をとっているので、核保有などは考えていないとしている。けれども、この非核三原則というのは、「国是」とされているが、あくまでも政治宣言であって、規範として確立されたものではない。安全保障環境の変化を理由として政策転換は可能なのである。このことは、安全保障環境の変化を理由として、集団的自衛権の行使に舵を切った政府の態度を見れば容易に肯けよう。そして、非核三原則を非核法としないのは法規範としての縛りを避けるためである。
また、日本は核拡散防止条約(NPT)に加盟する非核兵器国としての条約上の義務があるので、憲法九八条二項からして核兵器の保有は禁止されているとされている。けれども、この条約からの脱退は、北朝鮮がそうしたように、選択肢としてありうるのである。核兵器を国家安全保障の切り札としているという意味では、日本政府も北朝鮮政府も同類であることを忘れてはならない。
更に、原子力基本法二条一項は、原子力の利用は平和目的に限るとしているけれど、その二項に「我が国の安全保障に資することを目的として」との文言が付加されたことを忘れてはならない。
こうして、憲法改正手続きを経ることなく、日本は核武装国家となり、自衛のためを口実として核兵器を使用することがありうることになるのである。
九条と核兵器は相いれない
核兵器の使用が何をもたらすかは、広島・長崎の経験から明らかであるし、地球環境に対する悪影響について研究成果も公表されている。国家の安全保障を「悪魔の兵器」に委ねる核抑止論の愚昧についても多々指摘されている。核兵器の保有や使用は、全世界の国民の平和的生存権を基礎に置き、諸国民の公正と信義に信頼して、国家の安全を希求する日本国憲法とは相いれないのである。
安保法制化での核武装
ところで、安全保障法制は、わが国が攻撃されていなくとも、存立危機事態となれば、自衛権を行使する場合があるとしている。政府や与党は、この法制は憲法違反ではないとしている。多くの憲法学者や元最高裁判事や元内閣法制局長官などの違憲とする意見を無視したのである。
集団的自衛権の行使も、核武装や核兵器の使用も憲法上の制約がないというのであれば、わが国が攻撃されていない状況下での核兵器の使用も憲法違反ではないことになる。
政府と与党は、武力行使の禁止と戦力の放棄を規定している日本国憲法の徹底した平和主義も、核兵器使用がもたらす非人道的結末にも無頓着なのである。私は、最終兵器によって担保される平和は、真の平和とは思わない。そこに、諸国民の公正と信義などはないからである。私は殺傷力と破壊力を背景とする恐怖によってもたらされる平和や安全を望まない。それは幻想でしかないからである。
公正と信義をあざ笑うかのように展開される政府の行為は、再び戦争の惨禍を国民にもたらすであろう。私たちは、このような政府を転換しなければならない。
二〇一六年四月七日記
神奈川支部 田 晃 一
一 リニアは夢の乗り物か
リニアモーターカーは未来の夢の乗り物。そのようなイメージは二〇世紀から言われてきたし、今なおそのようなイメージを持っている人が大半だろう。しかし今進められているリニア計画、知れば知るほど問題だらけである。確実なメリットは「速い」こと、それだけなのに対し、速さと引き換えに抱えるデメリットは数限りない。リニアは決して未来の夢の乗り物ではない。現実の悪夢の乗り物である。多々ある問題点のうち、本稿ではその危険性について述べる。
二 走行ルートからみる危険性
リニアは、二〇二七年に東京―名古屋間の開通を目指している。その後、二〇四五年には大阪まで延ばす予定だ。東京―名古屋間のルートは約二八六Kmだが、その八六%、約二四六Kmは地下トンネルである。大部分が地下トンネルになるのには理由がある。地上だと騒音や電磁波の問題が大きいということもあるだろう。しかし、一番の理由は走行ルートがほぼ直線ということだ。詳細は省略するが、電磁石の作用を推進力とするリニアのシステムは、それ自体がほぼ直線でないと使えないシステムなのである。しかも、最高時速は五〇五Kmにも達する予定であるから、なおさら直線的でないと具合が悪い。そのため、東京から名古屋までとにかく直線的なルートにするために、ほとんどの部分を地下トンネルにしているのである。地下トンネルを作るために、南アルプスの美しい山々に何十Kmもの穴を開けることとなる。
近年、東海ではいつ大地震が起きてもおかしくないと言われている。リニアの走行ルートの大半は、東海地震の地震対策防災強化地域内である。糸魚川―静岡構造線という、本州を南北に貫く活断層群を横切り、また、過去に震度七クラスの地震を引き起こしている市之瀬断層を横切る。そのほかにもリニア走行ルートは多数の断層を横切っており、直下型地震に遭遇するリスクは東海地震のリスクよりもさらに高い。地震が起こった場合、断層のずれにより、リニアのトンネルにも歪みが生じたり、壊れたりする可能性がある。リニアのトンネルは、地下鉄のトンネルのイメージとは全く異なるものである。そのシステム上、車体とトンネルの間の遊びのスペースは非常に少なく、密閉性が高いものである。少しでもトンネルに歪みが生じるということが、そのまま大事故に直結することになる。
また、緊急停車の観点からは、リニアは速すぎる。仮に、リニアが走行する先で地震が発生したとの情報が入り、すぐに停車の操作をしたとしても、時速五〇〇Kmで走行していた場合には、停車まで約六Kmも進んでしまうことになる。地震の主要動が到達する前に停車可能か疑問を拭えない。
三 緊急停車後の危険性
リニアが南アルプスの地下トンネル走行時に地震が発生し、仮に無事に停車できたとする。それで万々歳というわけにはいかない。停車後もさまざまな困難がある。むろん、地震以外で緊急停車した場合にも、以下の困難はそのまま当てはまる。
●人員体制
リニアは、基本的に完全自動運転である。職員はほとんど乗っていない。停車後、乗客はどのように車両を降り、どういうルートで避難し、どこからどのように地上に出るのか、十分な対応が得られるとは考えがたい。山間部の地下トンネルなのであるから、非常時に速やかな救援が来ることも期待できない。
●トンネルの狭さ
前述のように、リニアの地下トンネルは密閉性が高く、遊びの空間が少ない。火災による煙や有毒ガスが発生した場合、すぐにトンネルを埋めつくし、乗客の生命が危険にさらされることになる。
●非常口の間隔
リニアの非常口はおおむね五Kmおきに設置されるとのことである。山間部ではその間隔はより長くなるものと思われるが、仮に五Kmだとしても、非常口のちょうど中間地点で車両が停止した場合には、乗客は二・五Km歩いて移動しなければならない。車両外に出て明かりがついている保障はなく、冬場なら気温も相当低いだろう。お年寄りや乳幼児もいるだろう。その状況下での二・五Kmの徒歩移動というのは、それ自体が相当に困難なものとなる。
●非常口から地表に至るまで
無事に非常口に達したとしても、今度はそこから地表に出なければならない。JR東海は、南アルプスの地下トンネルにおける避難経路等について具体的に示していない。都心部ではエレベーターを設置しているなどと回答しているが、裏を返せば、山間部ではエレベーターは設置していない可能性が高い。乗客は、三〇〇〇メートル級の山岳地帯を地下トンネルから非常口出口まで二Kmから三Kmもの長い距離を歩くかして地表に出ることになるが、非常口出口までの構造も明らかではなく、階段なのかも明確ではない。歩くだけでも大変な上に、それだけ苦労して出た地表は、冬季は雪が深く積もった氷点下の世界ということだってありうるのである。乗客が無事脱出できる保障はない。
三 リニア計画は止めなければならない
ここまでみてきたように、リニア新幹線は、それ自体が非常に危険な代物であるうえに、非常時の避難体制が十分に取られているかについても、大きな疑問が残る。そのほかにも多くの問題点を抱えるが、安全性の一点のみからでも、リニア計画を実現させてはならないことは明らかである。リニア計画の認可処分取消訴訟を、本年五月二〇日に提訴予定である。七〇〇人以上が原告となり(※合ってるか?)、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県、岐阜県、愛知県の七都県をまたぐ計画の取消を求める、大規模な行政訴訟である。ぜひ多くの弁護士に、弁護団に参加していただきたい。
弁護団への参加を希望する方は、下記までご連絡ください。
弁護士 横山 聡(弁護団事務局長、アルタイル法律事務所)
電 話 〇三―六三八〇―五六一三
FAX 〇三―六三八〇―五六一四
東京支部 後 藤 富 士 子
一 戦前の弁護士の職業的特色
戦前は、主権在民ではなかったが、裁判所も独立の機関ではなく、司法省に附置され、判事と検事を「司法官」と称していたから、裁判官の独立もなかった。司法裁判所が扱う事件も制限され、行政裁判所など通常裁判所とは別ルートの特別裁判所があった。
一方、明治二六年に弁護士法が制定されて多くの人材を得た弁護士階層の職業像について問題になったのは、玉石混交と職務範囲である。弁護士の場合、公事師―代言人―弁護士という人的継受がかなりの部分残っており、同じ職業階層の中に玉石混交を生じさせた。「醜弁護士」の類型として、例えば(1)法廷内にて百姓の御奉行様に対する如き言動をなす者、(2)幇間の如く低頭して華主廻りをなす者、(3)示談、延期、その他事々に本人本人といい恰も依頼人の小使たるが如き者などが挙げられている。エリート層は、これに最大限の非難を浴びせたが、理想主義的な職業像を追うあまり、多くの弁護士がおかれている現実を低くみていた。このような専門的職業階層にとって不可欠の職業的使命感の強弱が、後の東京弁護士会の分裂の底流になったと考えられている。
また、弁護士階層の職業的自覚が進むにつれて最も問題にされたのは、その職務範囲が「訴訟」に限られていたことである。弁護士の職務は、法律上は「訴訟事務」に限定されていたわけではないが、代言人制度以来、弁護士の職業としての独占が訴訟代理資格にあったことに由来する。しかも、日本では司法の機能はその比重が非常に低かった。近代的行政官僚国家としての性格が強く、民衆に権利義務の観念の浸透が薄かったことは、紛争の司法的解決を困難にし、「裁判」は特殊なものであり、やむを得ないものであっても好ましいものではないと思われていた。法律的専門教育をうけた大学法学部出身者の大半は、行政官庁や企業に吸収され、そのために、弁護士階層の職業的特色は「法廷の独占」にあり、「法的知識の独占」ではなかった。
弁護士が「法廷」に依存しているということは、その生活が「訴訟事件数」に依存していることを意味するから、社会事情の変化により事件数が減少した場合には、その経済的地盤に直接影響をうけることになる。明治二六年から三三年頃にかけて弁護士数は一五〇〇人台で安定していたが、その職務範囲の狭さからくる過当競争に苦しまざるを得なかった。
二 弁護士の経済的基盤の喪失
大正の終わりから昭和の初頭にかけておそった経済的不況は、弁護士階層の経済的基盤に大きな影響をもたらした。しかも、この不況に反比例して、この時期に弁護士数は急増した。大正一一年から一二年の一年間で一三五二名も増え、以後、毎年二〇〇名前後増加し、昭和四年に六四〇九名に達した。七〜八年のうちに倍増したのである。
昭和四年に初めて生活実態調査をしたところ、有効回答者四一六七名の約六割が弁護士収入によって生活をカバーし得なくなり、生活費の不足者の純収入は非不足者の三分の一であったという。弁護士の生活が窮乏し社会問題になっていることを論じた田坂貞雄によれば、その原因について、(1)人員の過剰、(2)事件数の減少、(3)弁護士収入の減少、(4)非弁護士の侵入、(5)弁護士の質の低下、と指摘している。また、弁護士階層の職務範囲が訴訟事務に限局されていたため、各種の調停法が次々と制定され、裁判から調停へという大勢が弁護士の生活問題に直接的な影響を与えることになった。
前記調査結果のとおり、全体の約六割もの弁護士が生活をその職業的収入によってまかなえていないということは、もはや職業としての崩壊である。なぜなら、このような経済的基盤のもとで、高度の使命感と職業倫理の昂揚を求めることは困難だからである。そして、戦時体制に入り、統制経済の強化により、弁護士は、わずかの例外を除いて、その職業的意義を失い、もはや「正業」と評価されなくなったのである。
三 社会問題と弁護士活動 ―弁護士の受難
小作人条例や工場法制定問題がおこっているときに、在野法曹は何一つ発言しなかったが、その後、時代の進展とともに、特に明治四三年の大逆事件以後、社会問題との関連を意識する者が次第に増えていった。大正八年に自由法曹団が結成され、同九年、布施辰治は「法廷より社会へ」と題する自費雑誌を刊行し、「弁護士の戦線を拡張して法廷の戦士より社会運動の闘卒を任ずる自己革命の告白」を掲載した。布施は、これを機に、無産階級の社会運動を圧迫する騒擾事件など社会的意義を含む事件の取扱に自己の弁護士としての職務を制限することを社会に宣言してその道を歩むのであるが、それには当然大きな危険が伴った。布施自身、昭和七年に懲戒裁判で除名の判決が確定し、同八年には新聞紙法違反で禁固三月の刑が確定し、さらに同年九月には治安維持法違反で検挙され懲役二年の実刑判決をうけた。
大正一三年の伏石事件は、衝撃的である。当時、小作争議が頻発していたが、香川県太田村伏石で起きた小作争議では、地主側は小作料不払への対抗手段として晩稲の立毛仮差押を行ない、換価処分をしてこれを競落した。自由法曹団に属する若林三郎弁護士は、日農の幹部から、仮差押を受けた稲立毛の刈取りが遅れると麦播きができないから何か法律的対抗策はないかとの相談をうけた。若林は、民法の事務管理の規定により、仮差押の立毛を刈取り麦播きをしてよい、刈取り費用は事務管理費として地主に請求でき、その支払がないうちは留置権を行使して稲の引渡を拒むことができる、と回答した。その結果、小作人は地主に通告後、仮差押中の立毛を刈取り保管した。これによって、若林は、窃盗教唆罪で起訴され、大正一四年、懲役一〇月の実刑判決が言渡され、控訴・上告とも棄却されて服役した。出所した三日後の昭和三年三月一日、二歳の長女を絞殺したうえ自ら鋏で頸動脈を切って自殺した。若林、時に三二歳であったという。
社会運動の合法性の枠が著しく狭められると、弁護士は、社会運動の要請と、弁護士たる職務の合法性の限界との間に悩み続けることになる。そして、圧倒的な軍国主義時代の狂熱のもとでは、弁護活動はほとんど効果を上げ得なかった。司法における弁護がその機能を発揮しうるには、民衆の基本的人権が保障され、裁判所が違憲審査権をもつような社会体制であることが前提となることを、これらの歴史は示している。
四 紛争当事者と結びつく弁護士像
戦前の弁護士の歴史に学べば、法曹人口減員、予備試験の制限禁止、給費制復活などがどうして出て来るのか、矛盾している。
弁護士は、紛争当事者が必要とすることであれば、法廷に限らず仕事を創造できるはずである。巷では、「男のための離婚相談」や「離婚カウンセリング」など、弁護士資格不要の相談業が盛んである。これらは、戦前に弁護士が窮乏化しながら非弁活動が盛んであったのと同じことであろう。
また、「給費制」についていえば、国民が貧困化する中で、政治家として知名度の高い弁護士が集団的自衛権閣議決定を主導したり、憲法改悪を画策しているのだから、国民の理解を得られるはずがない。
参考文献:大野正男『職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史』日弁連法務研究財団編(JLF選書)
(二〇一六年三月二四日)
滋賀支部 玉 木 昌 美
私の趣味は走ることであり、市民マラソン大会に出場することである。一九九一年八月、琵琶湖ジョギングコンサートで五キロを走ってから、運動音痴だった私の人生が変わった。走ることは生きることである。また、家族サービスも妻や子をマラソンに巻き込むことにより実現した。一九九五年、子ども達が小四と小二のとき、ホノルルマラソンを家族全員で完走した(ホノルルは妻が言い出したことであったが)。スタートラインに立てることは健康である証である(これまで体調を壊し、膝を壊して休んだこともあったが、奇跡の復活を遂げた)。気力を奮い立たせながら、ゴールに向かう。他のランナーとの駆け引き等心理ゲームの面白さがある。また、ゴールしたあとの達成感と完走後のビールのおいしさは格別である。次の大会のことを考えるだけでわくわくする楽しさがある。さらに、大会で出会う人と仲よくなり、マラソン仲間が増えて行き、再会を楽しみにしていくことになる。
今年二月で還暦になったが、アンチエイジングでさらなる進化をめざしながら元気に走り続けている。加齢による力の衰えを気力でカバーしているといえる。以下は今年の主な大会の結果である。
一月一日 東近江元旦マラソン 一〇キロ
前半飛ばしたが、結果は五一分四一秒。それでも昨年より、二五秒短縮した。途中、百人一首を放送している箇所があり、下の句を言いながら走った。元旦の恒例行事になっている。
一月三日 新春建部ロードレース 四・二キロ
建部大社の周辺を走る地元の小さい大会である。参加者は小学生が中心で、一般は「中学生以上一般の部」に区分けされる。目標は二〇分を切ることと小学生女子のトップに勝つことだったが、いずれも一昨年のようにはいかず、達成できなかった。結果は二〇分四八秒七七で、二九位だった。市街地を走ることから、道路の横断の際には、ランナーが止められ、車を優先させる大会である。
一月二四日 小牧シティマラソン 一〇キロ
ネットタイム五〇分を切ることが目標だったが、結果は五〇分三六秒。完走後、春日井のランナー仲間と、メナード美術館、奇祭で有名な田懸神社等を回った。
二月七日 丸亀ハーフマラソン ハーフ
昨年はどの大会も一時間五五分が切れなかったが、今年はこの大会を一時間五三分三一秒で走った(ネットタイム)。種目別(六〇歳代)の順位は五六九人中ちょうど一〇〇位だった。大阪等の団員弁護士らとバスを手配し、うどん食べ歩きツアー、夜宴会をして翌日走る毎年恒例の大会であり、楽しいかぎりである。
二月二八日 宇治川マラソン 一〇キロ
前半激しい坂を一気に下り、後半逆の坂を上るタフなコースである。タイムは五二分九秒だったが、順位は、五〇歳以上の壮年男子の部で、一六五人中二六位で喜んだ。
三月六日 全国健康マラソン井原大会(岡山) ハーフ
昨年、雨の中、一時間五五分六秒(昨年ベスト)で走ったこの大会だが、今年は一時間五五分をかろうじて切る一時間五四分三七秒で走った。背につけた「変えるな!世界の宝憲法九条」のステッカーに「元気がでました。」と声をかけてくれたランナーがいた。
三月一三日 トレイルランナーズカップ奈良大会
若草山をかけのぼり、一気に下る四キロのコースを二周する大会であった。前半の山頂までの一キロあまりが急激な坂で、最初の坂でめげたものの、下りは得意で気持ちよく走った。タイムは、五〇分四一秒で、順位は五〇歳以上で何と七位。参加者が少なかったとはいえ、一桁の順位は最高だった。
三月二〇日 板橋Cityマラソン フル
団常幹の翌日参加した。膝の故障でやめていて、本当に久しぶりのフルマラソンだったが、歩くこともなく、四二・一九五キロを走り続けた。一万六〇〇〇人の、人、人、人の中を走った。タイムはネットで四時間五三分五〇秒。何とか五時間を切れて満足であった。
仕事をしつつ、また、憲法運動に積極的に参加しつつ、かつ、走り続ける。気分転換として、マラソンが重要な意味を持っているといえる。最近では、団員の中にもランナーが相当増えてきたが、喜ばしいことといえる。私は四五期の方から現在まで弁護修習の個別指導を担当しているが、昨年に引き続き、今年の方も昼休み等に一緒に走ってくれている。板橋の大会で「八三歳」のタスキをかけたランナーに置いていかれたが、私も「一生快走 一生青春」で走り続けたい。
福岡支部 永 尾 廣 久
町田伸一団員が一五五六号で紹介した俳優座が五月に予定している劇「反応工程」は、大牟田に今もある工場を舞台としています。私の父(永尾茂)は、この軍需工場で徴用係の首席係員でした。
東洋一の高さの軍需工場
三井はアリザリン染料の工業化に成功したため、この工場でピクリン酸やフェノールなど爆薬や化学兵器の原料を生産していました。鉄筋七階建てのJ工場は高さが四七メートルもあり、建ったときには東京の丸ビルより高くて東洋一のビルと言われていたそうです。三井は戦時中、軍需品の生産で莫大な利益をあげていました。そして、日本軍が中国各地を占領すると、そこに工場を建て硫安など火薬原料を生産していたのです。
戦争が拡大していくなか、社員が次々に兵隊にとられていった穴を埋めるべく九州各地から集められた一〇〇〇人もの微用工が工場で働くようになりました。この劇の主人公である学徒動員の生徒たちもその一環でした。軍需工場なので、軍人の厳重な管理下に置かれ、父たち労務課の職員は威張りちらす軍人の接待が大変だったそうです。
朝鮮人連行
日本人の微用工だけでは足りなくなって、朝鮮人を働かせることになり、私の父は徴用係として朝鮮へ渡りました。京城に出向いて朝鮮総督府に挨拶したあと、五〇〇人もの朝鮮人を日本へ連行してきたそうです。途中で脱走する人もいて大変だったけれど、当時の朝鮮では人々が食べるのにも困っている状況だったので、むしろ職を求めて喜んで日本に来た人もいたと父は語り、まったく罪の意識を感じていないのに驚きました。ところが、炭鉱での坑内労働とは違って微妙な精密作業が求められるのが化学工場ですから、勤労意欲のない「工員」は工場からみて、とても使いものにならなかったようです。朝鮮から連行してきた人間を工場で働かせるのは一回でやめたと父は言いました。徴用令によって一年間に四〇万人以上の朝鮮人が日本へ連行され、三池炭鉱では坑内採炭夫の八割が朝鮮人だと言われたほどです。
出征そして傷病兵
そんな父にも召集令状が来て、中国大陸へ出征させられます。広東では最前線に送られ、戦友が次々に戦場で銃弾で倒れ、何度も死ぬ思いをしたと言います。「戦争ちゃ、えすか(怖い)ばい」と私に小声でもらしました。ところが父は、戦場で赤痢、脚気、マラリアにかかって、自力で歩くこともできない傷病兵として台湾へ送還され、ついに召集解除で大牟田に戻ることができました。父の所属していた部隊は南方へ送られ、そこで全滅したそうです。
大空襲でも残った工場ビル
アメリカ軍の空襲は軍需工場のある大牟田にも容赦なく襲いかかり、一九四五年の六月と七月に大空襲があって、大牟田市は焼け野が原と化しました。父は空襲のころはJ工場の一階の事務室に寝泊まりするようになっていました。
戦後、焦土となった大牟田の街に残ったのは、市役所と松屋デパートと、このJ工場の三つでした。松屋デパートは倒産して解体されましたが、市役所とJ工場は今も健在です。
「戦争ちゃ、えすかばい」
農家の長男でしたが、農業を嫌って上京し、夜学から苦労して法政大学を卒業して三井に入って徴用係をしていた父は、この劇に登場する学徒動員の生徒たちときっと話していたはずです。どんなことを話していたのでしょうか…。この劇を見て、想像してみたいと期待しています。
「戦争ちゃ、やっぱ、えすかばい」。今、この父の言葉を身に迫るものとして思い出さなくてはいけない時代になったのが、残念であり、怖い思いがしています。
五月の東京公演が成功して、地方巡行で福岡でも上演されることを願っています。
五月集会分科会の内容につきましては団通信四月一一日号でご紹介いたしましたが、憲法分科会と労働分科会については、以下の内容に差し替えて下さるようお願いいたします。
また、貧困社会保障問題分科会につきましては、後記のとおり補足がありますので、ご確認ください。
●憲法分科会(一日目)
日本を取り巻く情勢の討議を行います。
南シナ海での米中の覇権争いや北朝鮮問題・日米軍事同盟など日本をめぐる安全保障環境と安全保障に対する国民の意識、明文改憲をめぐる攻防の現状、緊急事態条項など明文改憲をめぐる諸論点の状況などについて基調報告の上、参加者からご意見いただき討論する予定です。
また、沖縄の辺野古新基地建設問題についても一日目に情勢と運動を討議する予定です。
●憲法分科会(二日目)
一日目の情勢討議を踏まえ、参議院選・改憲阻止の運動について討議を行います。
昨年の戦争法案に反対する運動のなかで、各団員において既存の民主団体で運動をし、弁護士会や各法律事務所独自に運動をし、また、シールズなどの学生組織、ママの会などの主婦の組織など新しい運動とも協同してきました。
分科会では、各団員がおこなってきた運動の経験を踏まえ、参議院選・改憲阻止の運動につなげるためにその実践の教訓と課題を具体的に討議します。具体的には、既存の民主運動団体の現状と課題、他団体との協同の現状と問題点、新しい運動との関わり方、弁護士会での運動方法、団支部と各法律事務所との連携方法、各法律事務所内での弁護士と事務局の役割分担などについて、工夫の仕方や課題を分析的に討議する予定です。
●労働分科会(一日目)
現在進められている労働法制改悪についての議論・討論を行います。二〇一五年の通常国会において、「生涯派遣・正社員ゼロ」、「派遣切り自由」にする改悪労働者派遣法が成立しました。また、同国会において提出された労働基準法等改正案(過労死促進・残業代ゼロ案)は、いまだ衆議院の厚生労働委員会で議論はされていないものの、継続審議となっています。また、金さえ払えばクビ切り自由にできる制度である解雇の金銭解決制度の導入に関して、厚労省内に検討会が設置され、議論が進んでいます。
自由法曹団はこれらの法制を廃案等にするためにたたかうと同時に、「世界で一番労働者が働きやすい国」の実現を目指して、全国各地でアベノ雇用破壊反対の世論と運動を強化するときです。労働法制改悪を阻止するたたかいにどう取り組むかについて、政治情勢を踏まえて、たたかいの経験交流、アベノ雇用破壊に対する今後の運動、さらに同一労働・同一賃金をどう考えるかについての討論・議論を行い、行動提起等も予定しています。
●労働分科会(二日目)
全国の労働裁判闘争の報告と討論を行います。この間も、アンフィニ・資生堂事件、IBMロックアウト解雇事件、関西建設アスベスト判決、退職金減額に関する最高裁判決など注目の事件がいくつもありました。
労働分科会の二日目は、裁判における闘争の経緯・成果や、過労死・過労自殺裁判、労契法二〇条裁判等の各地の裁判闘争について報告・討論する予定です。また、労働委員会でのたたかいについても意見交換します。
これらの取り組みと経験を多くの団員が自由法曹団全体の力にするために、各事件についての報告を受け、討論したいと思います。
是非ご参加ください。
●貧困・社会保障分科会(補足)
分科会テーマの「子どもの貧困」について、講師の方が決まりました。
・中囿桐代(なかぞのきりよ)北海学園大学教授(社会保障論)
専門分野は「女性労働者の就労と育児を支える子育て支援の研究」で、生活保護受給母子世帯についての調査等もされており、『子どもの貧困』について詳しいお話が聞けるものと思います。皆様の参加を心よりお待ちしております。
訂正とお詫び
前(一五五七)号・五月集会特集に誤りがありました。
一五五七号の同封物
「自由法曹団 二〇一六年 札幌・定山渓 五月集会参加申込書」
5/28(土)【プレ企画】欄の(1)
(誤)将来問題→(正)支部代表者会議
以上、訂正させて頂きますとともにお詫び致します。