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荒井 新二 この夏に想う
則武  透 JAつやまの職員二一四名、残業代の支払いを求めて集団提訴
河野 善一郎 大分も申立て ―伊方原発差止仮処分―
田中  隆 選挙論から見た二〇一六年参院選(上)
後藤 富士子 「黙秘権」ってなんだ?――自白強要からの自由
大久保 賢一 戦争放棄の根本思想は何か
―「人間の尊厳」と「個人の尊厳」―



この夏に想う

団長 荒 井 新 二

 参議院選挙の結果は、「野党は共闘」のひとつの結実でした。もし共闘ができなければ民進党の惨敗が必至であったという、こぞって新聞が指摘したとおりの結果になっていたでしょう。野党共闘とこれを主導した共産党がそのような困難な情勢を跳ね返して健闘した選挙でした。歴史上はじめての国政選挙での野党共闘の経験、それを産みだした革新的なエネルギーの力を、その源泉を含め今深く考察することが大切となっています。
 団員が東京・京都・和歌山で候補者として大奮闘をしました。また全国の団員がこれまでない経験と無数の努力を重ねながら護憲と国政の刷新の運動に邁進されてきたこと、本当にご苦労さまです。皆さんの活動はこの選挙の歴史的意義に一層の輝きを与えるものと思います。
 東京で、仁比議員に続く国会議員を誕生させました。率直に喜びあいたいと思います。昨今、国会を舞台にする団の活動が多くなっています。私たちは仁比団員の超人的で、もの凄い孤軍奮闘(!?)ぶりを目にしてきただけに、加えて山添拓団員との協働が期待できることは嬉しい限りです。さらに彼の押し上げに目覚ましい活躍をみせてくれた若手団員たちの力も今後の楽しみです。
 その東京で、都知事選が野党共闘の次のステップとして行われています。この団通信が届けられる頃には新しい都知事が選ばれていることでしょう。その結果いかんにかかわらず、鳥越氏の立候補それ自体が野党共闘を前進させるものと評価されます。氏の立候補には権力によるマスコミ統制の動き、これに呼応する報道側の萎縮と劣化等に対する強い危惧があったと思われます。国民の関心に十分に応え切れていない報道の問題は参院選のなかでも痛切に感じられたものです。団としてもこの分野の重要な課題として、思想・信条・良心の諸問題と結びつけながら注力していく必要があります。
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 選挙明けに安倍首相は「いかにわが党の案をベースに三分の二を構築していくか。これがまさに政治の技術だ」と述べました。わが党の案とは、言わずと知れた「自民党改憲草案」のことでしょう。安倍氏は「自民党改憲草案」を下敷きにして、彼の在任中に、宿願の憲法改悪を実現したいとの意図をあらわにしたのです。それを「政治の技術」、つまり手練手管や談合という極めて低いレベルに憲法を引きずりおろしてその「処理」を政治的な操作の対象にする、ーーそういう奢りがここに見られます。立憲主義に反し、憲法改正問題を貶めること甚だしい。先にこの三分の二のハードルを無くそうする憲法九六条改悪の動きがありました。思い起こせば、つい最近のこと。私たちは立憲主義を旗印にし、その企図を挫くことができました。しかし今度の国政選挙という場ではその三分の二が乗り越えられてしまいました。そしてこの九六条改悪の動きと車の両輪の関係にあったのが「自民党改憲草案」です。安倍氏が選挙直後、まず自民党改憲草案に言及したのも、そういう経過を踏まえた自信の表われではないでしょうか。彼の率いる自公政権が国政選挙に連続して大勝し、選挙で争点にあげなかった憲法改悪の野望を次々を実らせてきています。憲法は今秋以降、最大の危機を迎えます。
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 憲法九条について改憲勢力の内部にもさまざまな意見があります。「改憲草案」はこれまで改憲運動を牽引してきた自民党の右派勢力のエネルギーに支えら、かつ改憲運動の駆動力になっていることも見逃せません。憲法九条をあえて外して他の条項で改憲をまず先行させるとの見方もあります。緊急事態条項が突破口となり、さしあたり議論をリードするとの意見も有力です。全体としてどの条項を改めるか、には政党間で大きな相違と対立があります。自民党内の右派勢力が党是である九条外しに簡単に乗るかという疑問もあります。安倍氏のこれまでの強引な政治的な手法に対する自党内での反発・異論が噴出する条件もあります。国会での議論は憲法審査会で行われますが、そこでの議論は錯綜することが予想されます。それを見込んでの安倍氏の先の「政治の技術」の言明であったのでしょう。
 憲法の国民的な論議で大きな影響力をもつものに、国際的な諸事件があります。ISによるものと報じられるテロ事件の世界的な拡大、英のEU離脱の動き、中国の南シナ海での軍事的行動と国際法の無視、米のトランプ現象、あるいは自衛隊PKO部隊の派遣先国での内紛など…枚挙にいとまがありません。日々これらの海外の事象が、深い分析もなしに印象的ときに操作的に視聴者である国民の前に映しだされ一方的に流されます。それは否応なしに深いところで国民の心を揺り動かします。憲法の論議も現在起こっている海外の動きの分析なしに済ますことはできません。こういうことにも留意して運動をすすめていく必要があります。
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 改憲反対運動はあらたなステージで本格的に展開されます。改憲を阻止する対抗的な運動をいかに組織し、広汎で強大な力を培うか。運動の実践的な課題を明らかにし、目標実現への確かなみちすじをしっかりとわがものにしたいものです。気持ちを新たに、更に高い水準と大きなスケールでの改悪阻止運動の展開をめざしましょう。最近の選挙での経験、遡って現在にいたる運動の前進と後退をもたらした諸要因などを明きらかにするため、団は別掲のとおり全国会議として八月常幹(拡大)を開くことにしました。全国の団員が貴重な経験・意見をもちより、夏の暑さにまけない熱い討議をいたしましょう。
 この夏、与えられた休暇の時間は僅かでしょうが、短い閑暇を有効活用ください。疲れて弛緩した身体に十分な休息を与え、おおいに鍛え直すのもいいでしょう。この間読む暇のなかった書物などを取り出し読書にも励みたいものです。オリンピックの声援を暑さ対策にすることも一興でしょう。夏の間、家族・友人との交遊も大事です。一層逞しく心身ともにリフレシュしてこの秋からの活動を力強く再開していただきたい。
 本通信上の恒例の夏の挨拶ですが、話の順序が真逆になり申し訳ありません。どうぞ、この夏を楽しみ、励み、身体と頭脳と精神に豊かで適切な栄養を行き渡らせていただくよう念じております。


JAつやまの職員二一四名、残業代の支払いを求めて集団提訴

岡山支部 則 武   透

 本年二月一八日、原告数二一四名、請求総額約三億円にも及ぶ残業代未払請求の裁判を提訴しました。原告のみなさんは、いずれもJAつやまに勤務する労働者です。JAつやまは岡山県北部にある組合員数約二万名、職員数四〇〇名の規模の農協です。
 JAつやまでは、長年、残業代の未払いが常態化していました。労働組合は団体交渉での解決を模索していましたが、JA側はタイムカードの提出を渋ったり、末端管理職に過ぎない代理級職員(課長代理)を管理監督者にする職員規程の変更を一方的に強行したりするなど、まともに対応しませんでした。津山労働基準監督署の残業代を支払うようにとの是正勧告に対しても、労働者本人から申請のあった一部だけの支払いで済ませるなど、なおざりの対応でした。そこで、やむなく提訴に至ったのがこの事件です。
 私も、これまで多くの残業代未払事件を扱ってきましたが、これだけ多数の労働者が原告となる事件は初めてです。しかも、県北の農村に勤務する労働者が訴訟に立ち上がることは大変に勇気のいることだったでしょう。それだけ、JAつやまの労働者の皆さんが苦しめられてきたということだと思います。
 当初は私だけで対応していましたが、昨年七月末に五名の弁護団を結成しました。自由法曹団からも、私、吉村清人団員、濱田弘団員の三名が参加しています。その後、JAとの団体交渉や計一四カ所の支所別の学習会に弁護士が参加するなどして、労働組合の団結を維持すると共に、労働組合員の不安の解消に努めてきました。
 当初、本事件は、地元の岡山地裁津山支部に提訴したのですが、同支部は合議事件の出来ない小さい裁判所なので、岡山地裁本庁に回付されました。そして、さる六月二二日にやっと第一回口頭弁論が開かれました。第一回口頭弁論では、私は弁護団を代表して、本事件は(1)奪われた残業代を回復すること、(2)労働時間を適正にすることで労働者の生命・健康を守ること、(3)コンプライアンスを遵守することでJAの信頼を回復することの三つが目的であると意見を陳述しました。
 まだ、被告JAは内容に立ち入った答弁をしておりませんが、今後、残業命令の存否、タイムカードと実際の労働時間との乖離、管理監督者などが争点となると予想されます。単なる末端の中間管理職を管理職というだけで管理監督者(労基法四一条二号)にして残業代の支払いを免れることが他の企業でも横行しています。しかし、本来、管理監督者とは、自分の労働時間を自由に管理できるレベル、すなわち経営者と同じ高い地位にある労働者のことを指すものです。マクドナルドの「名ばかり店長」が管理監督者に当たらないとされた東京地裁判決は皆さんの記憶に新しいことと存じます。これから始まるJAつやまの事件でも、この管理監督者をどのように考えるかが最も中心的な争点となるでしょう。
 今、安倍政権は、一定の年収以上のホワイトカラー労働者には残業代を支払わなくてもよいとする「残業代ゼロ法案」を国会に提案しようとしています。しかし、むしろ日本の労働問題の焦眉の課題は、過労死に至るような長時間過密労働をどのように根絶するかであり、「残業代ゼロ法案」は問題を解決するどころか、さらに深刻化させることにつながるものです。
 是非、今回のJAつやまの事件を機に、長時間過密労働の根絶を共にお考え頂きたいと存じます。


大分も申立て ―伊方原発差止仮処分―

大分支部 河 野 善一郎

1 仮処分申立
 現在再稼働に向けて検査中の四国電力伊方原発三号機(愛媛県伊方町)について、さる七月四日大分地裁に運転差止を求める仮処分を申請した。これで三月の広島地裁、五月の松山地裁につづいて、瀬戸内沿岸三県の裁判所で伊方原発差止仮処分の包囲網ができた。大分では七月二一日に第一回審尋期日が開かれ、年度内(来年三月末)の決定を目指して全力で準備中である。

2 原発差止裁判の現状
 原発差止裁判は、約四〇年前から行政訴訟(設置許可取消)や民事訴訟(差止)により全国各地で争われてきたが、もんじゅ(二〇〇三年)と志賀(二〇〇六年)をのぞきすべて敗訴や取下げに終わり、現在係争中は三一件である。九州では九州電力の玄海原発(佐賀県玄海町)、川内原発(鹿児島県川内町:センダイと読む)が係争中である。
 しかし五年前の福島原発災害以来、深刻な被害状況と世論に押されて司法判断の潮目が変わってきた。二〇一五年四月福井地裁が関西電力高浜原発の差止仮処分を認容して衝撃を与えたが(同年一二月保全異議取消)、続いて二〇一六年三月には大津地裁が同原発に対し再び差止仮処分を認容して、稼働中の原発が初めて止まった。また異議申立も棄却した(現在抗告中)。いずれも決定理由に特別奇をてらう論理展開がなく、判断枠組みに新たな展望を示した意義も大きかった。また大津地裁決定は、原発立地県ではない「被害立地県」でも差止ができることを示した点でも期待を広げた。

3 熊本地震の恐怖と県民世論
 大分県では、四月から始まっていまだに続く内陸直下型の熊本地震が、発端の「布田川ー日奈久断層帯」から「別府ー万年山(ハネヤマと読む)断層帯」へ、徐々に大分県まで震源が移動しているのが不気味である。県民は、これが伊方原発の直近五kmを通って別府湾まで伸びている日本最大最長の中央構造線断層帯と連動する恐れを身をもって感じている。大分・別府両市は、伊方から六〇〜八〇km以内にあり、万一の場合は県下全域が直接放射能の被害を受けるのは目に見えている。大分県は原発誘致の恩恵?は何もなく、被害のみ受ける被害立地県である。すでに県下では五市議会が再稼働反対の意見書を採択しており、県民世論は再稼働反対が大勢である。地元紙も繰り返し警鐘を鳴らしている。

4 本訴も九月に
 今回の仮処分は、こうした情勢の進展を受けて、従前から原発反対運動を続けていた地元の市民団体が、脱原発弁護団全国連絡会議の河合弘之弁護士らと連絡をとって「伊方原発を止める大分裁判の会」を立ち上げて要請してきたものである。現在弁護団は、全国連から河合弘之、井戸謙一弁護士らの参加を得、地元弁護士三二名で結成している。今は仮処分に全力を挙げ、本訴は九月頃提訴の予定である。すべて初めての経験なので、全国連の援助を仰ぎながらぜひ世論に応える決定を勝ち取りたいと決意している。いろいろご指導をお願いします。(了)


選挙論から見た二〇一六年参院選(上)

東京支部 田 中   隆

 変わった表題の稿を起こしたのは、運動面での視座が「改憲阻止と一六年参院選」に収れんしていくと思われるため、団通信に投稿したのは、「解析から選挙制度意見書を組み上げる」といういつもの手法が通用しないためである。選挙の対抗が「改憲VS反改憲」だから、解析もこの対抗を基本にしてはいる。
 解析に使ったデータは、改憲阻止などのMLに掲載するとともに、七月一六日の常任幹事会の資料にし、HPの「団員ページ」に掲載する予定である。ご参照いただきたい。
一 全体像 
a 分水嶺と争点

 改憲七七議席(自五六・公一四・お維七)VS反改憲四四議席(民三二・共六・社一・生一・無四)。参院選で改憲四党が三分の二を占める要件の七八議席は実現しなかった。これが動かざる帰結である。一一日未明からの「非改選無所属を加えれば・・」なる報道は、「世論の誤導」というより、「闘争としての選挙」のなんたるかを理解できぬ「メディアの劣化」の所産と言えよう。
 「改憲を叫ばぬ争点隠し」が云々されているが、「有利と思われる政策・争点」だけが押し出されるのはいつものことで、今回に限ったことではない。むしろ確認しておくべきは、「任期中の二年以内に改憲国民投票」を行おうとしている政権与党が、憲法改正を政策・争点として正面から押しだせなかったという事実だろう。
b 前史と結果
 改選議席を選んだ一〇年選挙は民主党政権下で、比例では民主が自民を凌駕していた。逆政権交代後の一三年選挙は民主惨敗で、一人区の勝利は沖縄だけだった。だから、一六年選挙で民主(民進)が後退することは「所与の前提」であり、それを一人区の統一などでどこまで押し返せるかが焦点だった。
 どこまで押し返せたか。選挙区の「サイズ」で改憲:反改憲を対比すると、比例代表=三〇:一八、三〜六人区=二二:一一、二人区=四:四、一人区=二一:一一となる。一人区が大選挙区(中選挙区)以上の「勝率」をあげており、これだけ見ると「民意を最も反映しないのが大選挙区制」となりかねない(だから、選挙制度の意見書には展開できない)。この結果が、統一がなければ絶対に成り立ち得なかったことは、多言を要すまい。
c 一人区
 ほとんどの一人区で統一候補の得票は、反改憲四党の比例得票の合計や一三年参院選の野党候補票の合計を凌駕している。このことはデータ解析からただちに見て取れる事実であり、メディアでも報じられている(七月一二日朝日朝刊等)。
 矛盾が最も深刻化している沖縄と福島で現職閣僚が落選し、被災三県(岩手・宮城・福島)でひとつも議席が取れず、「北の農耕地帯」というべき北海道・東北・甲信越の一道九県で、「勝ったのは秋田だけ」という結果だから、「安倍政権の政治に信任の風が吹いた」などと言えたものではない。
 参院選の全体像は、「よくたたかって押し返した選挙」であることを物語っており、これが筆者の実感でもある。

二 投票動向
 主に比例代表の得票から、それぞれの政党への投票動向などを検討する。
a 自民党
 比例代表で二〇〇〇万票を超え、比例議席(一九)と得票率(三五・九一%)を大勝の一三年選挙より伸ばした。二五〇〇万票を獲得した〇五年の郵政解散総選挙以来の比例得票である。自民党票は政権交代(〇九年)で一四〇〇万まで減少し、政権奪還(一二年)後も容易に回復しなかった。にもかかわらず総選挙での大勝が続いたのは、「小選挙区制のなせるわざ」である。
 自民党票の回復は、消滅したみんなの党票の回帰を抜きには考えられない。政権交代に際して離反した旧地盤層(農民・商工業者)と新自由主義支持層(都市市民)のうち、後者を支持基盤としたのがみんなの党。都市市民層は回帰したが、旧地盤層とりわけ農民層は回帰しなかったのが一六年選挙での自民党である。
 その背景に介在しているのは言うまでもなくアベノミクス、そのアベノミクスをいかなる視座で批判し、いかなる経済戦略を対置するかは、改憲との対抗のうえでも避けて通ることができない課題である。
 (七月一六日の常任幹事会での報告発言に補筆 以下、次号 二〇一六年七月一九日脱稿)


「黙秘権」ってなんだ?――自白強要からの自由

東京支部 後 藤 富士子

1 憲法と刑訴法の間隔
 憲法三八条一項は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」、二項は「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。」、三項は「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」と定めている。
 この憲法の規定が、刑訴法ではどうなっているのか?
 憲法三八条二項および三項に対応する規定が、刑訴法三一九条一項および二項である。しかし、刑訴法三一九条一項は「その他任意にされたものでない疑のある自白」という文言を加えることによって、憲法三八条二項を換骨奪胎しているように見える。
 一方、憲法三八条一項の「不利益供述の不強要」に相当する条文は、刑訴法には見当たらない。そもそも自白が強要されるのは起訴前の捜査段階であるが、刑訴法一九八条一項で逮捕・勾留されている被疑者は取調受忍義務があるとしたうえで、二項は「前項の取調に際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない。」としている。ここで定められた「供述拒否権の告知義務」は、憲法三八条の要請と別の制度とされ、告知を怠った場合、供述の任意性の問題とされている(条解刑事訴訟法第三版三三六頁)。「黙秘権」という文言が出てくるのは、起訴後の冒頭手続であり(刑訴法二九一条二項)、また、公判廷における被告人の供述拒否権を定めた刑訴法三一一条が憲法三八条一項に対応するとされている(同書六一五頁)。
 すなわち、憲法三八条は、自白を強要されないことを被疑者の基本的人権として保障し、それゆえに「強制・拷問・脅迫による自白」と「不当な長期抑留・拘禁後の自白」を証拠排除している。これに対し、刑訴法では、取調官の「自白の強要」は、被疑者の「供述の任意性」に完全に還元される。そのうえで、「任意性のない自白を排除する根拠」が論じられ、通説は、虚偽排除と人権擁護の二つをあげている。これに対し、任意性の観点をこえ広く自白採取の過程におけるデュー・プロセスを担保する違法排除説が有力になりつつあるという(同書六六六頁)。
 しかし、「虚偽排除」も「違法排除」も、所詮、実体的真実の究明と刑罰法令の適正迅速な実現という刑事裁判の目的(刑訴法一条)に従って、被疑者を証拠方法とするだけで、被疑者の人権など考慮の外というほかない。

2 私が「被疑者」だったら・・・
 私は、司法修習生のころから「代用監獄廃止」運動をしてきた。弁護士になったときには、監獄法改正として拘禁二法(刑事施設法・留置施設法)が問題になり、長期にわたる反対運動を日弁連・弁護士会で取り組んだが、ある時期にあっという間に妥結して「留置施設法」という代用監獄恒久化法が成立した。「取調の可視化」が運動課題になったのは、その後のことである。
 しかし、「取調の可視化」なんて、私が被疑者だとしたら、ゾッとする。取調受忍義務のもとで長時間・執拗に自白を強要される「全過程」が録音録画されることに、何の意味があるのか? 私が個人として尊重されるなら、まず、こんな「過程」が存在しないようにしてもらいたい。取調の全過程が録音録画されても、結局、被疑者を証拠方法としか見ない弁護士や裁判官なら、救済されるはずがない。

3 「被疑者の人権」と「弁護士の役割」
 憲法一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定めている。これを憲法三八条一項に重ねれば、被疑者は個人として尊重され、自白を強要される取調から自由でいられるはずである。それが保障されてこそ、基本的人権といえる。
 一方、被疑者が供述したいことは、まず弁護人が受け止めるべきであり、弁護人よりも先に捜査官と対峙させてはいけない。それは、自認事件であれ、否認事件であれ、同じである。弁護人は、依頼者を個人として尊重し、依頼者が当該刑事事件にどのように向き合い、人生の幸福を追求するのかを手助けする立場にあると思う。すなわち、弁護士は、依頼者の人生を請け負うことはできないが、依頼者が自分で解決していくことを伴走者として援助することはできるはずである。
 また、代用監獄制度は、戦前の治安維持法下で猛威をふるった歴史的事実もあり、それ自体が人権侵害システムである。「取調の可視化」問題でも明らかになったように、警察権力が「勾留施設」を持つことは、日本の刑事司法の宿痾にほかならない。このような人間の尊厳を冒涜する制度を改革することもまた、弁護士が取り組むべき仕事であろう。(二〇一六年七月一九日)


戦争放棄の根本思想は何か
―「人間の尊厳」と「個人の尊厳」―

埼玉支部 大久保 賢 一

 七月一六日、日本民主法律家協会で、広渡清吾東大名誉教授の「安倍政権へのオルタナティブ」と題する講演があった。サブタイトルは「個人の尊厳を擁護する政治の実現を目指す」である。
 先生は、「安全保障法に反対する学者の会」のメンバーとして、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(市民連合)の結成を呼び掛け、その「市民連合」のイニシアチブで、野党共闘を実現させた方である。
 先生は、このプロセスの中で、平和主義、民主主義、立憲主義の相互の関係を考えたという。改憲手続きを踏めば九条の改正はできるのだから、平和主義は民主主義や立憲主義という制度的原理では守れないのではないか。だから、平和主義そのものを擁護する国民多数派の形成が核心ではないのか。民主主義や立憲主義なしに平和主義を守れるのか。民主主義や立憲主義は平和主義の前提ではないのか。歴史的経験からすれば、民主主義や立憲主義は平和主義を存立の要件としているのではないか、などと考えたのだという。多分、多くの団員も似たような悩みを抱えているのではないだろうか。
 そして、先生はこれらを「三位一体」として理解する必要があるとしたうえで、鍵になるのは立憲主義の理解である、という。 
 先生は「国家設立の目的は、ピープル(people)の個人の尊厳と幸福追求権の保障である。これは憲法内容を限界づける。国家創設の社会契約である憲法は、個人の尊厳と幸福追求権と本質的に両立しえない権力を国家に与えることはできない。ピープルの殺傷を必然にする戦争をする権力、そのための軍隊を設置する権力は国家に与えられない。」、「憲法九条は、このような立憲主義の帰結と個人の尊厳の保障を原理とする。憲法改正権力(民主主義)もまた、このような意味の立憲主義に限界づけられる。」というのである。先生はこれを原理的立憲主義としている。
 なるほど、このように理解すれば、九条の改正は、平和主義にも立憲主義にも民主主義にも反することになる。私は、いいね!をクリックしたいし、原理主義万歳といいたい。
 先生は、更に「個人の尊厳」について論を進める。「個人の尊重」を規定する憲法一三条と「人間の尊厳は不可侵である。その尊重と擁護はすべての国家権力の責務である。」(ドイツ基本法一条一項)と対比して、峻厳さにおいて差異はあるが、論理は相似している、という。日本国憲法には「個人の尊重」(一三条)と「個人の尊厳」(二四条)はあるけれど「人間の尊厳」という言葉はない。他方、「人間の尊厳」という言葉は、国連憲章や世界人権宣言やいくつかの重要な条約の中で、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である。」などという形で用いられている。ここでは、人間(人類社会の構成員)の尊厳と平和とが原理的に関連付けられているのである。
 ところで、私は「人間の尊厳」と「個人の尊厳」とは違うと思っている。なぜなら、次のような見解に同意しているからである。「戦争は互い敵側の人間を殺すことを当然とする国家の作用である。それは、『人間の尊厳』に対する明白な侵害である。そのような非人間的な仕事に耐えられない者がありうるとの考慮から良心的兵役拒否という制度が設けられている。良心的兵役拒否者は『個人の尊厳』が保障されるかもしれないが、自分の同胞が敵側の人間を殺すという事態を漫然と眺めていることになる。それも奇妙な話だろう。彼が真に自己の『個人の尊厳』を確保したいなら兵役拒否にとどまらず、反戦活動をすべきであろう。」という見解である。これは、故広中俊雄東北大学名誉教授(二〇一四年二月二四日逝去)の「宮城・研究者九条の会」発足集会(二〇〇五年一二月一一日)での「戦争放棄の根本思想は何か」と題する講演の一節である(みやぎ憲法ブックレットNO.8・希望者は連絡ください)。
 広渡先生は広中先生の「人格秩序の二段階的発展:商品交換主体の普遍化による人格から人格的諸利益の帰属主体としての人格へ」を引用していた。これは、私の理解を超えていたけれど、広中先生の講演録の存在は知っていたので、改めて紐解いたのである。
 広中先生は、広島の原爆を体験している。あの閃光と爆風を体験しているし、父親の屍を探して、無残な死者たちの顔を覗き込んだ経験もある。彼は喝破する。「戦争は『人間の尊厳』に対する明白な侵害だから放棄するのだ。」、「国際社会に根を下ろしたスローガンである『人間の尊厳』を論拠の中心に据えて九条改正反対論を展開すべきだ。」と。
 広渡先生は、講演を「『市民連合』は引き続き安保法制廃止、立憲主義の実現、個人の尊厳を擁護する政治の実現のために、次期衆議院選における野党共闘を推進し、目標を実現する活動をする。」と締めくくった。
 九条の思想的、歴史的背景を再確認しながら、その改悪阻止だけではなく、世界化や普遍化のために努力したいと思う。