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加藤 健次 就任のご挨拶
守川 幸男 〜総会感想・古稀団員から〜
古稀表彰を受けて
総会や旅行の感想を含めて
佐藤 欣哉 古希を一区切りにして
大住 広太 〜総会後の半日・一泊旅行の感想から〜
佐賀県唐津―秀吉朝鮮侵攻の拠点と
玄海原発を巡って
伊藤 嘉章 団総会と旅行
森雅 美 大崎再審事件の現状
大久保 賢 一 被団協幹部と日弁連会長の会談に寄せて
鶴見 祐策 大先輩の関原勇さんの思い出
中野 直樹 スキー場から百名山へー後方羊蹄山(一)



就任のご挨拶

幹事長 加 藤 健 次

 七月の参議院選挙で、「改憲派」が初めて衆参両院で三分の二を占めました。同時に七月の参議院選挙は、この間の戦争法反対の共同行動を引き継いだ野党共闘の前進と一一選挙区での勝利、そして私の同僚であった山添拓団員の当選という、新たな可能性の息吹を感じさせるものでもありました。責任の重さをひしひし感じつつ、でも何か新しいことができるのではないかという、やりがいも感じています。
 というようなことを考えている矢先、アメリカ大統領選挙でトランプ候補が当選するという「あっと驚く」結果になりました。世界中が、というより人類史的に大きな分かれ道に立っていると実感させられます。すでに団のメーリングリストでも議論が交わされていますが、大いに議論し、この社会を良い方向に変えていく方向をみつけ、実践していけるような活動をしたいと考えています。
 毎年、総会の古希表彰をみて感じることですが、これだけ経験を積んだ団員と若い団員が一緒に活動している団体はありません。それぞれの世代の持ち味と強みをうまくマッチングさせていくような活動を心がけていきたいと思います。これもまた団の会議に出て思うことですが、全国各地で本当に多くの団員がさまざまに活躍しています。こうした全国各地の活動をもっと交流して、活かしていくことにも心がけたいものです。
 毎日走りながらも、常にいろいろな情報と意見が飛び交う、そんな運営ができれば、と考えているところです。
 次長や事務局長をやっていた時期と比べると、やはり年相応に身体がついていかないことがしばしばです。その分は、皆さんの力で補っていただきたいと思います。
 どうか、よろしくお願いいたします。


〜総会感想・古稀団員から〜
古稀表彰を受けて
  総会や旅行の感想を含めて

千葉支部 守 川 幸 男

一.感謝のことばと記念論文集
 執行部から古稀表彰を含む佐賀総会の感想を書くようにとの依頼があった。しょっちゅう投稿しているので気が引けたがやはり書くことにした。
 毎年表彰を辞退する団員がいるがもったいない。一区切りだし、その団員ごとに文面の異なる心暖まる表彰状がもらえる。
 古稀の前後でこれまでと何も変わらないし、ただの通過点だが、七〇年をふり返る意義はある。総会では、団長からいきなり「もりかわうらゝ」と紹介され「あと二〇年の現役のお仕事」と紹介され苦笑した。私の業績や貢献についても書いてあるのだが、朗読は省略された。
 調子に乗って「古稀記念論文集  七〇年の軌跡  」を発刊してしまった。第一章は「七〇年の軌跡」で、「巻頭論文 古稀ってなんだ?」と「団とともに古稀を祝って」と題する高橋勲さんの紹介文で団総会で配布された。次いで「私の主な役職歴など」「私の経歴とできごと」と続く。第二章は「古稀記念論文集」で、第一「青春の輝き」、第二「自由法曹団を中心に」、第三「健康維持とトレーニングやあれこれ   山行記を含めて」、第四「『特集 みすゞからうらゝへ』とその後」で堂々二六二ページだ(ふーっ)。
 あきれる向きもあろうが、私の机の周りや記録はひどい状態なのに、よくまあ大学時代から五〇年、ほとんどの記録を保存していたものだと我ながら感心した(本当は整理能力はあるのだろうが…)。総会には五冊持参して、どうせ持ち帰りと思ったが、予想外に四冊販売できた。買っていただいた方は、三名はわかるが一名はわからずでじまいである。立ち読みした方はいるかしら? そして残った一冊は、これまでずっとお世話になってきた城北法律事務所の先輩に贈呈した。
 実は私の徹底主義はこれで終らない。記念論文集に予告しておいたが、このあと第三章として計画していて間に合わず、一ヵ月遅れにはなるが、「資料編」(約一三〇ページ)の出版予定である。見当らない資料はほとんどなかった。道楽ではあるが、変なことに金を使わない分、まあ許されるだろうと思う。
二.総会の感想
 かねてから思っていたが、全体会も分散会も、発表会、活動報告会になっている。全体会は仕方ないにしても、また、五月総会の分科会のようにはいかないが、分散会はもう少し議論ができるような工夫が必要である。いつも、発言通告用紙を提出した人の発言で時間切れになる。挙手して、「今の発言について一言」などということも大いにあってよいし、むしろ司会が、議論を呼びそうな発言については発言を促すとよい。今回私は、発言を聞きながら、すぐメモを作って関連発言を三回もさせてもらったが、誰でもこんな図々しいことはできない。
 そこで、多くの分野や課題ごとの討議は五月集会の分科会討議に譲り、総会の分散会ではテーマを絞る、というやり方もあろう。もっとも、二〇〇五年の山形五月集会では(総会の分散会はないが)、「平和の破壊と創造の分科会」「福祉社会の破壊と再編の分科会」「戦争と治安の分科会」の三分科会だけにしたが、これも一つの参考になると思う。また、二〇〇七年の団山口総会議案書の第1章「情勢と私達の課題」は「明文改憲策動と憲法蹂躙」「構造改革と格差社会」「治安と司法」の三本柱でまとめられていた。正しい情勢分析だと思う。治安と司法を統一的に分析したことも当時の新しい試みで私は賛成だった。これも参考になる。
三.一泊旅行について
 趣旨が違うし、長くならないようにほんの一言、二言書いておきたい。参加者のどなたかが詳しく書いてくれればよいのだが……
 月曜日は公的施設が休館日のことが多いが、むりに(?)頼んで開けてもらった県立名護屋城博物館が感動的だった。豊臣秀吉による大義なき侵略の出兵基地として作ったと率直な説明がされている。そして、朝鮮から陶器職人や朱子学の学者を連れてきたからこそ、今日の有田焼や伊万里焼、唐津焼の隆盛があり(二日目に焼物の街を見学した)、また、朱子学が日本の歴史に影響を与えたのだ。
 明治以降の侵略の歴史と合わせて、今の政権の言い分を打ち破る一つの材料になると確信した。
四.古稀の日常生活について
 もう数十年単位だが、私は毎朝のように事務所の鍵を開ける。お客さんとの打ち合わせはとても長い(でも最近は若い弁護士たちとの共同担当が多いので、その打合せや起案のチェックの比重がとても増えた)。
 夕方、追いすがる仕事をふり切って、各種トレーニング(格闘技)に出かけたり、昼間からこっそり映画を見に行くことも時々で、休養日(アウトドアスポーツだが)を取って事務所に来ないこともある。夜はもともと事務所にいない。研修会や会議が多いからだ。集会なども少しはある。これらは以前からのことである。もっとも、自宅で(自主トレもやるが)仕事もする。
 まあ、こんな日常生活で、年寄らしくする予定など全くない。「二〇年仕事を続ける」と宣言した以上、それに向けて努力や工夫を続けるから、宣言して、かつ団長に大勢の前でバラされてよかったと思っている。
 皆さんありがとうございました。


古希を一区切りにして

山形支部 佐 藤 欣 哉

 考えてみれば、「表彰」を受けるなど、中学時代以来だから、私からすれば、滅多にない体験となりました。
 団長から受け取った「表彰状」では、私が山形に戻ってからの活動を評価していただいていますが、私の心境としては、七〇歳を一区切りとして、これからどう生きていけば、などと考えながら、唐津の総会で受賞のスピーチをしたのでした。
 私はこれまで、団の全国集会には、毎年、少なくとも一回は参加することを心がけてきました。その理由は、この国における問題を最先端で闘っている団と団員の方々の闘いの一端に直に触れることができたからです。平和の問題、基本的人権の問題、職場の問題、そしていろんな民主主義の課題に対する意見を聞き、実際の取り組みの内容を知り、私などは、百聞は一見に如かず、ではなく、団の先頭で闘う方の話を、直接聞くことで大いに刺激を受け、山形における自分のあり方を考える格好の機会としてきたのでした。
 その意味では、今年の団総会の議論を聞いていても、参加して良かったと大いに感じています。
 戦争法の問題、実際に自衛隊が南スーダンでの戦闘に参加しかねない状況があって、アメリカでは「トランプでゲームをしようとしている」時、「さて、これからどうするか」などと、うじうじしているわけにはいかない情勢が目の前にあります。
 年齢のことなど言っている情勢ではないはずです。勿論、私の体力との相談は必要な気もしますが、やはり、闘いの「戦列」に並ばなければとの思いを強くしています。
 それにしても、この団の、意気の高い、意義のある全国集会に、山形からは、脇山拓団員と私の二人だけでは寂しすぎます。この唐津の集会への参加者が、全国的にも、いつもより少なかったのが残念な気がします。
 団員の皆さんがより多く、参加し、お互いに刺激し合う、そして各地の運動に活かしていく、名実共に「みんなの団」であることを確認する場であってほしいと願っています。


〜総会後の半日・一泊旅行の感想から〜
佐賀県唐津―秀吉朝鮮侵攻の拠点と
玄海原発を巡って

東京支部 大 住 広 太

 二〇一六年一〇月二四日の総会終了後、バスに乗り込み半日旅行に向かった。唐津名物の松露饅頭からはじまり、豪華な昼食の後、秀吉による朝鮮侵攻の拠点であった名護屋城とその博物館、玄海原発を巡った。
 名護屋城博物館(休館日にもかかわらず特別に入れていただいたようであった。)では、原始から近代までの唐津の歴史に触れることができた。印象的だったのは、日本と朝鮮半島との交流の歴史を再確認できたことである。古くは日本と朝鮮半島との間で様々な人々が行き交い交流し、多様な文化が形成されていったが、秀吉による朝鮮侵攻で一時断絶したものの、江戸時代以降は再び国交を回復し友好な関係を築いた。博物館で見ると数十分で足りることであるが、一方的な侵略によって途絶えた交流を回復させるためには、実際には歴史にも表れない多くの人々の大変な努力があったのだと思う。有効な関係とは言い難い現代の日本と北朝鮮においても、この精神は通ずるはずである。いたずらに脅威として国民の恐怖をあおり、敵対していく現在の政策では有益なことは何もないと改めて感じた。
 玄海原発では、施設を一望できる展望台から各原子炉や安全対策について、そして施設内を巡りながら原子力による発電の仕組みについての説明を受けた。多数の保管エリアを設け、電源の確保及び食料を保管するとともに、毎日のように資機材を使った非常時のための訓練を行っているとのことである。
 福島原発訴訟のひとつである生業訴訟弁護団の一員として活動していることもあり、いくつか原発には足を運んだことがあるが、どの地でも必ず思うことは、施設の豪華さである。莫大な費用をかけて原発の安全性をアピールし、周辺にたくさんの施設を作り、小中高生を招待して原発の素晴らしさを広める。このことはやはり玄海原発でも同様であった。
 福島原発事故が起きてから、確実に原発のコストは増大しているはずである。安全神話も崩れた今、莫大なコストと人々の命、美しい環境を破壊する危険性を負ってまで原発を維持し稼働すべき理由はやはり見当たらなかった。
 東京に戻った翌週、ふとテレビを点けると、唐津くんちのドキュメント番組を放映していた。老若男女を問わず、唐津の人々がこの祭りを楽しみにし、強い思い入れを持っている様子がうかがえた。今回の総会では、懇親会の場で演奏と映像を拝見したのみであったが、次回はぜひ唐津くんちを見に行きたいと思う。


団総会と旅行

東京支部 伊 藤 嘉 章

 六〇歳を過ぎてから、日本という国を考えてみたいとおもいたち、縄文、弥生、古墳時代の遺跡、各国ごとの一の宮参詣、国分寺跡の写真撮影、日本百名城のスタンプラリー、アジア太平洋戦争の遺跡、関連博物館をめぐり、全国を旅することにした。団の五月集会、一〇月の総会の前後を利用しない手はない。
 一〇月二二日、団総会の前振りで、福岡空港におりた。早速、レンタカーを借り、福岡城の石垣に隣接する鴻臚館に入り、福岡城のスタンプを押す。筑前の一宮の住吉神社、筥崎宮に行き、朱印をもらう。筥崎宮では、亀山上皇の「敵国降伏」の勅額をみる。次に、伊都国歴史博物館を訪ね、平原王墓から出土した内行花文鏡の大きさに眼を見張る。脊振山地の三瀬峠を越えて、肥前の一宮、與止日女神社による。次は、肥前の国の国分寺跡に立ち寄り、写真撮影の予定でいたが、見つからず、雨も降っており、当日は午前三時起きで、疲れもたまってきたので、ホテルに入ることにした。
 二三日は、肥前のもうひとつの一の宮、千栗八幡宮に向かう。カーナビの標準ルートで対向車が来たらすれ違えない道を案内され、こわくなって、設定を変え、別のルートから向かう。次に筑後の国の一宮、高良大社に行く。車を返して、電車で佐賀まで行き、佐賀城に行く。江藤新平の他に大隈重信も佐賀県出身であることをあらためて知る。佐賀駅から唐津線で乗り鉄を始める。団総会に大幅に遅れるのも、いかがなものかと思い、唐津、西唐津間の乗車をあきらめる。次回に期待する。
 二四日、総会のあとは、一泊旅行に参加する。普通の旅行会社の企画にはない、何とか反対派の説明、何とか反対訴訟の弁護団による案内など団ならではの企画が楽しみだ。今回は、百名城のひとつである名護屋城にも行くという。入場するや、早速、館長さんに声をかけて、名護屋城の百名城用のスタンプをもってきてもらった。玄海原発に行く。案内人の説明があったが、展示は、個人で今年の六月に行った鹿児島県の川内原発の方が分かりやすかった。ちなみに、宮城県の女川原発にも行ったが、東北大震災の震源地に一番近い原発であり、津波におそわれたものの、事故を起こすことがなかったという事前の対策の説明の行間からは、福島原発を馬鹿にしていることが読み取れた。
 二五日、有田焼の窯元にいく。柿右衛門の極彩色がきれいだった。佐賀県立の有田焼の展示館は無料とのこと。八〇〇円くらいとっても良いのではないかと思う。午後は、有明海の干潟を見に行く。干潮と満潮の時間を間違えたそうである。ムツゴロウを土産に買って自宅で食べたが味をもう忘れてしまった。水族館の説明員の話では、諫早の潮受け堤防によって、影響が出ていることはないという。
 最後に、佐賀空港の展望台からオスプレイ配備予定地をみる。そこには、漁業協同組合が使用している土地建物があり、組合員の三分の二の同意があれば処分できるという。但し、登記は個人の共有であるという。そこで、「個人の共有であれば、国は共有持分を有する者から、一人ずつ買収していけばよいのではないか」という質問があった。以下は、筆者の旅行後の勉強の結果である。漁業協同組合が法人格を得られたのは、一九四八年のことである。それ以前は、漁業組合という権利能力なき社団であった。漁業組合が土地を取得しても、漁業組合の名前で登記する方法がなく、組合の代表者個人もしくは、組合員多数の共有名義で登記をするしかなかった。戦後、漁業協同組合として法人格を得られた後に、共有名義から漁業協同組合という法人の名義に登記を移転することなく、共有名義人の相続が何代にもわたると、共有名義人ごとに、それぞれの全相続人の同意を得て、「委任の終了」という登記原因で、漁業協同組合宛に共有持分全部移転の登記をすることになる。この前提として、共有名義の土地は、かつては、漁業組合に総有的に帰属しており、民法二四九条以下の共有の規定は適用されず、共有名義人の相続人は自己の持分などなく、個人として処分はできないのである。
 旅行は、事前の学習もたのしいが、事後の勉強も、また楽しいものがある。そして、興味のあるところは二度、三度と訪ねると、その都度発見がある。


大崎再審事件の現状

鹿児島県支部 森   雅 美

 大崎事件は一九七九年一〇月、原口アヤ子さんが、アヤ子さんの元夫、義弟と三人で共謀して被害者を殺害し、その遺体を義弟の息子を加えた四名で遺棄したとされる事件です。アヤ子さんは一度も自白することなく、一貫して無罪を主張しましたが、鹿児島地方裁判所は、「共犯者」とされる元夫、義弟、義弟の息子の三名の自白と、義弟の妻の供述により、アヤ子さんに有罪判決を言い渡しました。その後、控訴、上告ともに棄却され、アヤ子さんの懲役一〇年の刑が確定しました。
 確定判決の証拠構造は、みるべき客観的証拠はなく、ただ共犯者とされる人達の自白のみが有罪を支えているという極めて脆弱なものです。しかも、共犯者とされる人達の自白は、合理的理由に乏しい変遷が多数あり、その内容も不合理なものです。
 一九九五年四月に申立てた第一次再審では鹿児島地方裁判所において再審開始決定(共犯者とされる人達の自白の信用性を否定)がなされましたが、高等裁判所、最高裁判所により再審は拒絶されました。二〇一〇年八月に申し立てた第二次再審も、即時抗告審で元夫と義弟の自白の信用性に疑問を投げかけましたが、義弟の妻の供述は信用でき、結果的に共犯者とされる者らの自白も信用できるとし、その扉は開きませんでした。
 第三次再審請求では第一次、第二次再審請求の成果を踏まえ、新証拠として法医学者吉田謙一鑑定人の遺体の法医学鑑定書、高木・大橋鑑定人の義弟の妻の供述に関する供述心理鑑定書を新証拠として提出しました。
 吉田鑑定人の法医学鑑定は、遺体に窒息死であれば認められる死斑・血液就下等の所見や絞頚の痕跡が認められないことから、確定判決が認定した、首にタオルを巻いて力いっぱい絞めたという「絞頚による窒息死」を否定しました。
 大橋・高木鑑定人の義弟の妻の供述に関する心理学的鑑定は、アヤ子さんらが本件犯行に関与したという印象を与える内容をもつ義弟の妻の一連の供述に、一貫して非体験性兆候がみられることを明らかにしました。
 これらの鑑定により、アヤ子さんの元夫と義弟の自白の信用性、さらには義弟の息子の自白の信用性は減殺され、確定判決の事実認定には合理的な疑いが生じることになります。
 弁護団はアヤ子さんの年齢を考慮し、迅速な審理を求め、裁判所はそれに応えました。鑑定人らの尋問も採用し、迅速に実施されました。弁護団は今年一一月末までに最終意見書を提出し、裁判所の判断を待つことになっています。おそらく、今年度中に判断が出るのではないかと予想しています。
 新旧全証拠を総合的に判断すれば、再審開始決定を出さざるをえないと弁護団は確信しています。
 最後に、本再審事件においてつくづく考えさせられたのは、証拠開示の問題です。第一次再審から第三次再審を通じて、検察は開示すべき証拠はないと何度も言明していたにも関わらず、その後新たな証拠が何度も提出されました。再審における証拠開示については、法的な裏付けを早急に確立しなければなりません。


被団協幹部と日弁連会長の会談に寄せて

埼玉支部 大久保 賢 一

 一〇月二〇日、日本被団協(日本被爆者団体協議会)の岩佐幹三代表委員・田中煕巳事務局長・被爆三世の林田光弘さんと日弁連の中本和洋会長・山岸良太憲法改正問題対策本部本部長代行・神田安積事務次長との会談が行われた。被爆者団体である被団協と日弁連の会談は初めてのことである。
 この会談は、核兵器廃絶と被爆者に対する国家補償を求めている被団協が、基本的人権の擁護と社会正義の実現を目的とする日弁連に、被団協の目的と運動に対する理解と協力を要請したいと希望し、日弁連は、核兵器廃絶や被爆者支援を進める立場にあるが、強制加入団体としての制約もあるので、具体的な協力や支援などは難しいとしつつも、実現したものである。私は、その会談に立ち会うことができたので、その感想を述べることとする。

 中本会長は、自身は広島の出身であり、祖父から「ピカ」の話を聞いていたことなどに触れながら、「戦争も核兵器も絶対に駄目だ」と断言していた。岩佐さんや田中さんは、自身の被爆体験(岩佐さんは広島、田中さんは長崎)などにも触れながら、被団協のこの間の取り組み(被団協は今年創立六〇年である)と現在の課題について説明をした。田中事務局長は、原爆投下による被害は人権課題であり、人権擁護を目的とする日弁連に大きな期待をしている、と述べていた。
 山岸代行は、「戦争は最大の人権侵害である」ということは、一九五〇年の「平和宣言」以来、日弁連の基本的スタンスであることを確認した上で、二〇一〇年の盛岡人権大会の決議を配布して、日弁連の核兵器廃絶と被爆者支援の活動について説明した。ちなみに、盛岡宣言は、「核兵器が廃絶される日が一日も早く実現するよう、国内外に原爆被害の深刻さを訴えるとともに、非核三原則を堅持するための法案を提案し、広く国民的議論を呼びかけるなど、今後ともたゆむことなく努力する。」としている。山岸代行は、非核法の提案については、まだ検討課題が残っているので、法案の形にはなっていないということを伝えた。

 被爆三世の林田光弘さんは、「被爆者は、速やかな核兵器廃絶を願い、核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことを、すべての国に求めます」とする国際署名の取り組みを紹介し、二〇二〇年までに人類七〇億人の一割にあたる七億人の署名を集めるためのキャンペーンを展開しているので、日弁連の協力をお願いしたいと発言した。山岸代行は、他団体の署名に協力することはできないけれど、このような署名が取り組まれていることを、憲法問題対策本部などで紹介することは可能ではないかと対応していた。

 会談の時間は三〇分程度であったが、被団協の方たちにとっては、日弁連が核兵器廃絶や被爆者支援の必要性を認め、それなりの取組みをしていることを知る機会になったであろうし、日弁連にとっても、被団協の現在の取組みを知る機会にはなったであろうと思われる。

  私は、会談の最後に、岩佐代表委員が、私は「絶対という言葉は使わないようにしているけれど、核兵器は『絶対悪』だと考えている。」と強い口調で語られたことに強い印象を受けた。岩佐さんは、原爆で母を亡くした経験のある、功利主義哲学の研究者であり、金沢大学で教鞭をとっていた方である。その岩佐さんは、きっと、日弁連の責任者に対して、どうしてもそのことを伝えたかったのだと思われてならない。
 彼も含めて、被爆者たちに残された時間は少ない。その体験を継承することが求められている。その継承は、「核兵器のない世界」を実現するうえで、不可欠であるように思えてならない。
 被爆者が求める国際署名の冒頭は「人類は今、破滅への道を進むのか、命輝く青い地球を目指すのか岐路に立たされています。」という文言で始まっている。いまだ地球には、一万五千発もの核弾頭が存在している。私たちは「核の時代」に生息しているのである。何から始めるべきかが問われているといえよう。

(二〇一六年一一月二日記)


大先輩の関原勇さんの思い出

東京支部 鶴 見 祐 策

一 逝去の知らせ
 突然の訃報に茫然とした。猛暑が過ぎて近況を知るため電話に手を伸ばしながらやめていたのが悔やまれる。私は、これまで多くの優れた先輩との知遇に恵まれたのだが、いちばん影響を受けたのが関原さんだった。
 一〇月一四日。大先輩が眠る棺に感謝を込めて献花をした。
二 独特の法律相談
 弁護士登録の間もなくと思う。法律相談に陪席させてもらった。相談者が訴える。自宅に接して大きな病院が建つ。病棟の窓から家の奥まで丸見えだ。何とかできないか。フンフンと聞いていた関原さんは答えた。「子供の双眼鏡でも買ったら。此方から覗いていれば、向うで『目隠し』するよ」と。私は感服してしまった。
 板橋、荒川、文京など出前の法律相談にも同行したものだが、大体がこの調子だった(これじゃ金はもらえないと思った)。
三 「枝ぶりのよい木」
 今でも折りに触れて人に話すのだが、若い私に強い印象を残す事件があった。年老いた相談者が細君の支えで新橋の事務所を訪ねてきた。二人の着衣は寝巻も同然だったと思う。本人は打ちひしがれた様子。もとは腕のいいトビ職だったが、高所から落ちて半身不随となった。仕舞屋ふうの住居は自分の所有だが借地人だった。相手は地元の著名な地主だ。収入が途絶えて地代が滞った。顧問弁護士から何度か請求を受けたが、ついに裁判所から明渡しの訴状が届いたという。
このときの指導は見事だったと思う。
 「君は地主に会いに行ったか」「行ったが断られた」「地主の庭には枝ぶりのいい木があるだろう」「前はあったが、今は切ってしまった」(私はポカン)「玄関に梁ぐらいあるのではないか」「ありました」「その君の帯が掛かるではないか」。さらに続けて「となり近所に話したか」「まだ」「帰ってすぐ皆に話しなさい」と言ったのだ。本人の顔に生気が浮かんで見えた。
四 仲間に助けを求める
 老夫婦が去ると関原さんは直ぐに地元の区議(看護婦出身で当時では希少の共産党選出だった)に電話した。指定の裁判期日には、直前の日付の委任状を携えた私が出頭した。その頃には、区議の援助を受けた被告本人と近隣住民の一団が集めた署名簿を持って地主宅に押しかけていた。原告の代理人から苦情を聞かされた。
 時間を稼いで和解に持ち込むしかなかった。私は被告本人を裁判官に引き会わせた。裁判官は「どうしてここまで来てしまったのかね」と言ったものだ。原告を強く説得したらしい。紆余曲折の末だが、最後には長期の明渡し猶予と損害金の放棄で和解にこぎつけた。その間に生活保護と公営住宅が確保できた。その報せに近隣住民も喝采したそうだ。
五 本人の知恵と活動が闘いの基本
 これまで持ち前の知恵と工夫で自らの生活と権利を守ってきたに違いない。その原点に立ち戻らせ、その主体的な力量のほどを覚醒させながら当面する苦難の打開に向けて活性化させること。そして「法律家」は請負わない。それが我々の仕事だと私は学んだように思う。
六 職人に徹する弁護士
 私が事務所に入った頃に関原さんは白鳥の再審にも没頭しておられた。弾丸の線条痕だ。その「オタク」振りは並大抵ではない。机上には短銃の模型があって常時の分解と組立てに余念がなかった。当時のハードボイルドで著名の小説家の自宅にも通ったらしい。丸善書店で取り寄せた銃器に関する原書を辞書片手に読んでいた。それらの嵩んだ借金が事務所会議の議題になったほどだ。その努力が再審の門戸を開く「白鳥決定」で実った。知る人ぞ知る話である。
七 多くの冤罪事件との関わり
 それまで戦前の冤罪事件で戦後に再審無罪は二つだけらしい。「石田巌窟王」が有名だが、もう一つが長野の「観音堂事件」である。世間には知られていないが、この弁護人が関原さんだ。 
 いらい冤罪にこれほど多くの事件に関わった弁護士はいないのではないか。八海事件(三度の最高裁を経て死刑から無罪)、菅生事件(警察の謀略を暴いて無罪)のほか、再審では丸正事件、横浜事件(第一次)、島田事件(第四次)などがある(泉澤章さんが「法学セミナー二〇〇六号七月号」に「法曹匠の世界 関原勇の仕事」と題して紹介している)。
八 ハンセン氏病との関わり
 すでに「藤本事件」の名で知られる冤罪との関りは触れずにおれない。罹病を疑われて隔離された被告人が収容所を脱走した。数日後に発見されるが、その間に発生した殺人事件の容疑をかけられた。本人が無実を訴え続けたにもかかわらず、閉鎖された特殊な法廷で不十分な審理の挙句に死刑を宣告された(ハンセン病の罹患を疑われた人々に対する不公正な差別的な裁判については、近年に至って最高裁も認めて謝罪したことは周知のとおり)。死刑の確定後に事件を知った関原さんは、交通事情の悪条件を押して熊本に通い続けたのだ。本人から詳しく話を聞くとともに、裁判の関係者(検察側の証人も含め)からも聴取して被告の無実を確信した。そして再審を申立てた。白鳥決定の前だ。
 棄却決定が拘置所に届いた途端に本人の死刑が実行された。決定が本人に渡されたかも定かでない異常な早さであった。急きょ借金して福岡に飛んだ関原さんは、救援の人達と拘置所に駆けつけ拘置所当局と強談判に及んだあげく、早々に釘打ち済みの棺を開けさせ、白衣を全部ぬがせ、遺体の全身を隈なく調べたという。そして火葬場に臨んで遺骨となった本人を取り戻した。それいらい冤罪と再審がライフワークになったらしい。啓蒙誌「裁判と科学」の出版を続けた。ほとんど自費の事業だったと思う。
 私の手元に「藤本事件資料集」(裁判と科学研究所刊)がある。最後に関原さんの講演が載っている。人前で話した記録は珍しく研究の素材としても貴重なものだ。分厚い冊子に「内部資料」の表示と「慎重な配慮を要請する」との注意書きがある。縁者に向けた配慮に違いない。科学的根拠も否定されて久しいが、今も「差別」は社会に根強い。冤罪の根底にもそれがあった。その底知れぬ恐怖を同じ目線で体感した関原さんならではと思う
九 関原さんを偲ぶ縁として
 還暦のとき谷村さんや岡部さんと「祝う会」を持ち掛けたことがある。関原さんは強い調子で拒否された。その気合に撤退を余儀なくされた。団員のなかでも関原さんを知らない人が多いのではないか。遠ざからないうちにこの先輩を知る人達を中心に輪になって語り合う機会が持てればと願っている。


スキー場から百名山へー後方羊蹄山(一)

神奈川支部 中 野 直 樹

三つの名をもつ百名山
 私が蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山(ようていざん)を初めて見たのはニセコアンヌプリスキー場からだった。富士山よりももっと富士山らしい、どこからみても同じ山容に見える山だった。この山の古来名は後方(しりべ)羊蹄(し)山(ざん)という。
 五月二六日、京都の浅野則明弁護士と私は、新千歳空港からレンタカーでこの山の麓の真狩川(まっかりがわ)沿いの道を辿り、函館本線ニセコ駅付近で尻別川を渡り、ニセコ昆布温泉への上り道を走った。
 東京多摩・甲府の自由法曹団員事務所のスキー愛好有志は、一九七二年から、毎年、日曜日から水曜日までの三泊四日のスキーツアーを恒例行事とした。私が弁護士登録をした一九八七年の冬、法律事務所有志スキーツアーは、初めて北海道に渡り、ニセコアンヌプリスキー場で遊んだ。飛行機で遠征したツアーは、カナダスキーと北海道スキー六回を数え、うちニセコは三回を占める。二〇一二年、このスキーツアーが連続四〇年続いたことを記念して、私も編集委員となり八六頁の記念誌を発刊した。実に六〇数名の方が参加してきていた。評判をききつけた都心の事務所の弁護士も参加し、菊池紘元団長は固定メンバーとなった。記念誌の「キクチ弁護士のメモ帳」が一読もの。門外不出で秘密のベールに包まれてきたキクチ弁護士のスキー上達メモ帳は七冊になるそうだ。二〇〇一年一月に、自由法曹団有志で八方尾根にいったとき、栗岩恵一インストラクター(元ワールドカップ選手・元長野中央法律事務所事務局長、現全国勤労者スキー協議会会長)に、早く雪面を捉えるために何を意識したらよいかと質問したところ、「小指を立てる」「内足を意識する。内足の小指から次の内足の小指へ。体が内側から次の内側へ。もちろん外足で押すのだけれど」とアドバイスを受けたときのメモが紹介されている。二〇〇三年一月に志賀高原で「エッジを立ててくるぶしを雪に埋めるときちっと安定する。進行方向に乗り込んで前に前に引っ張る。」と自己の滑りを分析したメモ等々、常に今日の課題をもち、昼と夕方には反省するという志でスキーの修業に励まれている。この末尾に「解説」として、「中野くんにオチョクラれたり、ひやかされた言葉は絶対にメモしない。一〇回に一回ほど評価された時は、きちんと記録する。」と結ばれている。私の人徳のなさに反省しきりである。それでもキクチ弁護士がこの一文中に公開した六つのメモのうち、二つが中野からの「評価」である。キクチ弁護士の技術と自信の向上に少しでもお役に立てたのであればうれしい限りである。この伝統の有志ツアーも創設の「父たち」が引退し、私より下の世代の後継者の定着が実現せず、絶滅危惧種として四五回目のシーズンを迎えようとしている。
 私は、ニセコというと、初めての北海道のアスピリンスノーがスキー板の下でキュキュと鳴く音を聞いたときの感動が蘇る。私にはニセコは馴染みの地だったが、いつも数メートルの雪に被われた厳冬期であった。今目の前に広がる新緑と残雪のアンヌプリ山塊は、全く違った風景だった。
昆布温泉
 「昆布駅」という名に引かれ、尻別川沿いにある「昆布駅」まで下った。昆布というと海藻をイメージしたが、由来はそうではなく、アイヌ語で「小さなコブ山」という意味だそうだ。無人駅の時刻表をみると長万部方面が七本、倶知安・小樽方面が七本だった。一七時二五分長万部行きの列車を撮鉄しようということになり、駅周辺をブラブラ散策した。「らんこし」と銘打ったモニュメントには「四季の詩がきこえる いで湯とお米の町」と書かれていた。北海道の日本酒は旭川が有名だが、ここには「二世古」という酒造がある。色あせた蘭越町観光案内看板をみると、尻別川の下流に「サケマス補獲場」と書かれており、これは誤字?などと考えているうちに列車の時刻となった。列車というも一両仕立てのディーゼル車だった。いつの間にか駅前には迎えの車が止まり、降車した高校生などを乗せて走り去り、たちまちに閑散とした駅前となった。
 日本秘湯を守る会会員の「鯉川温泉旅館」に投宿した。露天風呂は、新緑の原生林とその間をしずしずと流れ落ちる滝を目の前にした、自然にとけ込んだ趣あるものだった。薄い白濁色の湯に浸かっていると、なんでも写真に撮りまくる浅野さんがスマホを持ち込んで盛んにシャッターを押している。
 そして直ちにSNSの世界に送出している。
 地ビールを飲みながら、魚介と山菜の素朴なメニューを口に運んだ。最近は、話となれば、事務所の経営悪化と自分たちの将来の選択問題が口をつくのは残念なことだ。(続く)