<<目次へ 団通信1583号(1月1日)
荒井 新二 | 新年に思う |
今泉 義竜 | 築地国賠事件、高裁でも勝訴し確定 |
安原 幸彦 | マキさん、おつかれさまでした 池田眞規(まさのり)弁護士を偲んで |
大久保 賢一 | 池田眞規先生を偲ぶ |
団 長 荒 井 新 二
団員の皆さん、あけましておめでとうございます。皆さん、どのような新年を迎えておられますか。
私の所属する東京合同法律事務所は、首相官邸の隣にあります。背後にあった官邸が出張ってきたため事務所のあるビルが官邸正面を塞ぐ形となりました。事務所同人は九・一一後、いつ官邸めがけてジェット機が突入するか、の不安を覚えながら、命がけで日々の仕事を・・・。そんな悪夢とも冗談ともつかないことが昨年には現出しました。米国の大統領トランプの誕生等々、です。国内的にも先の臨時国会でTPP・カジノ解禁・年金カットの諸法あるいは部落差別永久化法が、あれよあれよという間に国会通過となりました。審議の粗雑さと乱暴な議事運営、法案の説得力のなさが審議のうえで共通しています。
首相の多用する「働き方改革」「駆け付け警護」「一億総活躍」なども一種のデマゴーグに近いものです。ほんとうは「働かせ改革」「駆け込み警護」あるいは「一億総動員」と言うだろうが、とつい半畳を入れたくなります。権力があいまい語を使いはじめるようになったら要警戒、それが歴史的な教訓です。満員電車の車内アナウンスも「駆け込み乗車は危険ですからおやめください」と警鐘を鳴らしてくれているではありませんか。
政治的言説のこのような氾濫を見るにつけ、リアルな現実が人々の表層意識から次第に剥離して遠のいていく気が萌します。そこに政治的ポピュリズムが簡単につけいる隙間ができかねません。団が事実に立脚して道理と論理を大事にする作風をおおいに発揮するときであることを肝に銘じて歩を進めていきましょう。
去る一二月の常任幹事会で各地での多様で創意ある取り組みが紹介されました。臨時国会の様子を見れば今日野党が真に共闘して、安倍政治をストップさせたいという思いが強まったと思われます。席上改憲反対の課題で国民の経済・生活の問題にもっと切り込むべきだとの意見が多く出されました。貧困と格差のひろがり、社会的な分配の問題です。今この問題が社会の地下深くにマグマとして存在する、そのエネルギーを地表に汲み上げ、平和と安保法制の問題が焦点化している野党共闘につなげる、そしてこの上と下のふたつが連動し加速しあっていくという具体的なイメージが共有されたと思います。団として、この一年経済的民主主義の課題を今まで以上に、意識的に追求していきたいものです。真の意味での強力な野党共闘をつくりあげることにも引き続き努力を続けるとともに、憲法条項の日常化の実践を積み上げて憲法改悪を阻止するため奮闘することを誓いあいたい。
本年特に重視すべき課題として沖縄の問題があります。昨年の暮れに大きな動きがありました。沖縄に配備されたオスプレイ二機が夜間訓練中に墜落等したが、県民の怒りと抗議を一層かき立てる現地米軍トップの「感謝せよ」の発言、それにすぐ呼応するかのように飛行再開。そして県知事を敗訴させた辺野古新基地埋立工事の最高裁判決の確定がありました。仲井真前知事の行った埋立許可処分の裁量は絶対的であり、後任の翁長知事による取消はまかりならぬとした内容です。何回もの選挙で新基地反対の県民の総意を積み上げ更新したとしても、前知事の判断は揺るがせないとしました。最高裁は形式的な法解釈に終始し、問題の本質を深く糾明しません。原審の高裁那覇支部は普天間飛行場の返還と新基地建設とを交換条件とし、根拠づけに「沖縄は北朝鮮のミサイル・ノドンの射程外」「四〇都道府県の全知事が承認しない場合国の国防・外交の本来的事務が果たせない」などと国の主張を援用しました。北朝鮮の軍事的戦略・思惑の現実的な把握は疑わしいうえ、沖縄県の基地問題に対する原則的な立場と特殊な歴史への思惟を欠きます。司法がここまで言うか、と戦慄を覚えます。今回の最高裁判決は比較的に詳細に亘った判決文のなかで、原審のこの箇所を明示的に擁護することをあえて避けています。そのことに、この間の全国的な反対運動の成果をみることができます。
これから辺野古新基地埋立工事は新しい局面に移行し再スタートします。翁長知事は新基地建設の阻止を県民に誓っています。お隣の強権の主はなにを考え、仕掛けてくるのか。まさに沖縄問題はこれから国と沖縄県が激突する場面が展開され、いよいよ正念場を迎えます。新基地建設を阻止するため、全国の団員が知恵と力を出しあいましょう。そしてこの憲法施行七〇年のこの一年を大きな成果の得られる年にすべく、おおいに力をあわせていきましょう。
東京支部 今 泉 義 竜
一 事案の概要
本件は、神楽坂で鮨店「吟遊」を経営する二本松進さんが、二〇〇七年一〇月一一日、中央区築地市場路上において仕入中、築地警察署交通課の婦人警官二名から、不当な「駐車違反」の取締りを受け反論したところ、突然「公務執行妨害、傷害」をでっち上げられて逮捕され、一九日間にわたって勾留された事件である(事件自体は不起訴処分で終了)。
二本松進さんは、妻月恵さんとともに、不当逮捕と長期の勾留で被った精神的苦痛等について、国、東京都を相手に国家賠償裁判を二〇〇九年一〇月に東京地裁に提訴した。当初は本人訴訟で、提訴後に国民救援会を通じて小部弁護士と私が受任することとなったものである。
二 訴訟における争点
本件における最大の争点は、二本松進さんが警察官らの「公務」の執行を妨害する「暴行」を振るったのかどうかという点であった。捜査資料と二人の警察官の証言の矛盾を徹底的に突いた結果、二〇一六年三月一八日の東京地裁判決は、「暴行のいずれについても、明確さに欠ける部分のほか、看過することのできない変遷または齟齬があったり、仮にその証拠関係のとおりであったとすればそれ自体が不自然であったり疑問が生じる部分を多く含んでいる」などとして、警察官らの証言の信用性を否定し、東京都に対し、二本松進氏に二四〇万円を支払うよう命じたことは既に団通信一五五七号でご報告したとおりである。
三 控訴審
東京都は地裁判決を不服として控訴した。控訴審では、東京都は警察官らの供述の矛盾や変遷は大きなものではないとの主張をするだけで、特段の立証の追加はしなかった。勝っていても攻め続けるのが大事との方針のもと、こちらが改めて一審で却下されていた目撃証人四人の取り調べなどを請求したのに対し、東京都は「必要ない」と述べ、裁判所が「反対尋問をする必要がないということか」と水を向けても、必要はないという立場を変えず、結審となった。この裁判所の発言で、一審判決が維持されることが見込まれた。目撃証人を尋問して信用性をつぶす、という気概までは東京都の指定代理人にはなかったようだ。
二〇一六年一一月一日、東京高裁は、地裁判決を基本的に維持した上、警察官が暴行を受けた部位について「胸」から「切符かばんや腕」に供述を変遷させたことについて、不自然で信用できないと改めて判断するとともに、暴行がなかった旨の目撃者の陳述の信用性を肯定し、東京都に改めて金二四〇万円の賠償を命じた。法廷でのやり取りを踏まえて、目撃者の陳述書の信用性を明白に肯定したのは地裁よりも進んだ判断であった。一方、妻である二本松月恵さんの精神的苦痛に対する慰謝料、二本松進さんの経営する会社の被った損害についてまでは認めさせることはできなかった。
四 教訓など
東京都は上告を断念し、判決は確定した。東京都は一〇〇万円を超える遅延損害金とともに賠償金を支払った。
事件を振り返って勝因として挙げられるのは、(1)逮捕直後に月恵さんが現場で目撃者を必死に捜して三人の目撃証人を見つけることができ、またその後弁護団が現場検証している時にたまたま通りかかり声をかけてきた目撃者も合わせて四人の目撃者を確保することができたこと、(2)国民救援会が粘り強く傍聴支援を続け、また弁護団も不当な訴訟指揮には毅然と対応し、裁判官に緊張感をもって審理させることができたこと、(3)文書提出命令により捜査記録を出させて分析し、警察官らの供述の変遷・矛盾を徹底的に拾い上げたこと、(4)当事者である二本松さん夫妻自身が不当なことは絶対に許さないという執念を事件から九年もの長きにわたって維持し続けて闘い抜いたこと、といったことであろうか。あきらめずに執念を持ってやり続ければ、勝つこともある、ということを学んだ事件であった。
なお、二本松さんの経営する神楽坂の吟遊は知る人ぞ知る名店であり、厳選された旬な魚と全国各地から取り揃えた三〇〇種類ものお酒を味わうことができ、お勧めである(それ相応の値段はする)。
以上
東京支部 安 原 幸 彦
一 マキさんとの出会い
私が池田眞規さん(一八期。愛称だった「マキさん」と呼ばせていただきます)と初めて出会ったのは、一九七七年、私が弁護士一年目の秋でした。この年の八月、分裂していた原水爆禁止世界大会が統一されたことがきっかけで、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)との出会いがあり、被爆者運動が車の両輪としている「核兵器廃絶」と「国家補償に基づく被爆者援護法の制定」に向けて被爆者と法律家が一緒になって取り組むことになったのです。その中心にマキさんがいました。こうして、マキさんが生涯をかけた反核平和運動が本格的にスタートを切りました。マキさんが五〇代を迎えようとしていたときです。
二 基本懇意見書との闘い
一九八〇年一二月、厚生大臣の私的諮問機関である原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇。大河内一男座長)は、原爆被害に対する国家補償を否定し、戦争被害である原爆被害についても受忍すべきだという意見書を発表しました。それからの一〇年はこの受忍論との闘いでした。マキさんは反撃のツールとして、国民法廷運動を提起し、日本中で原爆被害に対する国の責任を裁く国民法廷が開かれました。また、マキさんの提起で、日弁連に被爆者援護法に関する小委員会が作られ、基本懇意見に対する理論的な反撃を構築しました。このようにマキさんが繰り出す反撃のツールは、実にユニークで且つ効果的なものでした。
三 国際活動
私の知る限り、マキさんは英語を含め外国語が堪能ではありません。しかし、反核国際活動を通して、世界中に友達(それも女性が多い)を作りました。国際反核法律家協会の弁護士やドイツ・フランス・ギリシャ、コスタリカなとの反核活動家と広く交流していたのです。その中でも特筆すべきは、一九九二年から始まった「世界法廷運動」でしょう。三つの国際組織が集まって、国際司法裁判所に核兵器の違法性を確認する勧告的意見を求める運動を起こしたのです。マキさんはその中心にいました。そして一九九四年にWHOの申立で国際司法裁判所で審理が開始されたのです。一九九五年一一月に日本政府の意見陳述の際には、マキさんを中心に多数の傍聴団がハーグに行きました。そうした活動の結果、一九九六年七月に「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反する」という勧告的意見を勝ち取ったのでした。
四 マキさん、本当にありがとう
マキさんの本籍は百里訴訟をはじめとする基地訴訟です。そこでも数々の成果をあげてこられました。しかし、私の知る限り、マキさんが本当に花を咲かせたのは、五〇代を過ぎて被爆者運動に参画してからだと思います。マキさん、椎名麻紗枝さん、内藤雅義さんと私の四人で被団協運動のあらゆる場面に関わってきました。いつかしら、被団協の中では、「四人組」などと呼ばれるようになりました(女性一人、男性三人というところがミソです)。ともに過ごした四〇年は私にとって、かけがいのない宝物です。マキさん、おつかれさまでした。そして本当にありがとうございました。安らかにお休みください。
埼玉支部 大久保 賢 一
一一月一四日、池田眞規先生の訃報に接した。最後に先生と話したのは、一六年の正月だった。あの話好きの先生が、なぜか、電話を早く切りたいような雰囲気だったので悲しかった。奥さんの話だと、意思疎通がままならないということだったから、話すのが嫌だったのかもしれない。そのうちにお目にかかりたいと思っていたけれど、それは叶わないままであった。
私が弁護士になったのは一九七九年である。なぜか当初から池田先生は記憶に残る方であった。多分、あの黒髪とギョロ目の目立つ独特の風貌と、通常の感覚とは少し異なる問題意識と切り口に興味を覚えていたからだと思う。
その先生が、しきりにIALANAを引き合いに出したのは、一九八九年頃だった。IALANA(International Association of Lawyers Against Nuclear Arms.)とは、核兵器に反対する国際反核法律家協会ことである。当時、先生は、故松井康弘弁護士たちと、関東反核法律家協会を立ち上げ(一九九四年・日本反核法律家協会に改組)、国際司法裁判所に「核兵器使用や使用の威嚇は国際法に違反する」との意見を求める「世界法廷運動」を展開していた。この運動は、三〇〇万人規模の「公的良心の宣言」署名を集約しただけではなく、広島市長の国際司法裁判所法廷での証言を実現するなどの成果を上げた。
これらの運動を背景に、一九九六年七月、国際司法裁判所は「核兵器の使用は一般的に国際法に違反する。ただし、国家存亡の危機においての使用は違法とも合法ともいえない。」との勧告的意見を出した。この勧告的意見は、一九六三年の東京地裁の「原爆投下は国際法に違反する」との判決を踏まえたものであった。
この勧告的意見は、核兵器使用の違法性についてだけではなく、核兵器廃絶に向けての交渉開始とその妥結を勧告している。これは、核不拡散条約(NPT)六条を敷衍するものであり、「核兵器のない世界」を求める運動に国際法上の論拠を提供するものであった。この「世界法廷運動」は、現在、国連で開始されようとしている核兵器の禁止と廃絶のための法的枠組みを交渉する会議の源流をなすものである。
一九九九年五月、オランダ・ハーグで、世界市民会議が開催され、「各国議会は、日本国憲法九条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである。」という第一原則を含む「公正な世界秩序のための一〇の基本原則」が採択されている。この世界会議には世界から一万人、日本からは四〇〇人からの参加があったが、先生は事実上日本の責任者だったのである。
二〇〇三年には、「原爆症認定集団訴訟」が始まる。原爆被爆者が、厚生労働大臣を被告として、自らの疾病の原因は原爆放射線にあると争った裁判である。先生は、その全国弁護団の団長だった。この裁判は、厚生労働大臣の執拗な抵抗を乗り越えて、各地の裁判所で勝訴判決を積み上げ、二〇〇九年には、政府との間で、定期協議の場を設けるなどの条項を含む「確認書」を取り交わしている。
先生は、この裁判と並行しながら、原爆被爆者のたたかいを継承する主体の立ち上げを構想していた。それが、二〇一一年一二月に発足する「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」である。この会は「ヒロシマ・ナガサキ、ビキニを経験し、そして今、フクシマまでもひき起こしてしまった被爆国の私たちがなすべきこと――それは被爆者が遺してきた原爆被害の実相と、証言、記録、たたかい、未来へのメッセージを確かに受け継ぎ、世界中の人々が共有できる記憶遺産とし、発信しつづけることです。」としている。この呼びかけは、まさに先生の想いそのものである。
先生は、「被爆者は預言者である」と言う。原爆投下がもたらした事態(その生き証人が被爆者)と正面から向き合わないままに、現在や未来を考えることはできないという信念だったのであろう。その信念から、核兵器廃絶、被爆者支援、そして軍隊も戦争もない世界の実現を展望していたのだと思う。そう考えれば、先生が「百里裁判」に情熱を傾けたことも、軍隊のない国・コスタリカに何度も足を運んだこともすべて関連付けられるのである。
先生は、被爆者の山口仙二さんと、世界のあちこちに出かけている。同室でスツポンポンの付き合いをしたと振り返っている。先生は、被爆者と掛け値なしに付き合っていたのだと思う。
そして、コスタリカでは、コスタリカから軍隊をなくした大統領の妻であり、その息子も大統領というカレン・オルセン女史と肝胆相照らす中になっていた。先生とカレン女史は、通訳を介さないと会話が成立しないはずなのだけれど、手を握り合い見つめ合って、何かを語り合っているのである。
私には、先生のように、被爆者と接することも、カレンさんと語り合うこともできない。けれども、先生の遺志は引き継ぎたいと思う。先生の想いの中に、何か大切なものを見るからである。近い将来、池田先生を偲ぶ会を持ちたいと考えている。
(二〇一六年一二月二二日記)