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三澤 麻衣子 〜共謀罪反対特集〜
全国での共謀罪反対の活動・成果を、団通信に投稿してください!
荒井 新二 共謀罪に特化した訴えを
〜共謀罪と倉敷民商事件〜
齊藤 豊治 共謀罪法案の違憲性
猪股 正 「宿泊所貧困ビジネス・さいたま地裁判決」
佐伯 雄三 借上復興住宅強制退去訴訟提起の暴挙
齊藤 園生 上原国立元市長への求償訴訟事件〜だれが政策変更の責任をとるのか
下地 聡子 三・三〇基地問題学習会に参加して
馬奈木 厳太郎 生業訴訟・結審しました!
〜 「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟第二四回期日の報告
中島 哲 北海道労働委員会労働者委員獲得に向けた
たたかいの軌跡(四)
鷲見 賢一郎 いすゞの非正規切りとの八年間のたたかい(下)
船尾 徹 ―永盛団員追悼―
永盛敦郎さんを偲ぶ
鈴木 亜英 永盛敦郎団員を悼む
加藤 健次 永盛敦郎弁護士を偲ぶ
井上 洋子 ナショナルロイヤーズギルドの総会のご案内



〜共謀罪反対特集〜
全国での共謀罪反対の活動・成果を、団通信に投稿してください!

共謀罪対策本部 事務局長  三 澤 麻衣子

 三月二一日に閣議決定した共謀罪(テロ等準備罪)法案が衆議院で実質審議に入りました。
 しかし、これまでの予算委員会等で金田法務大臣は答弁不能状態に陥り、安倍首相も同じセリフを繰り返すこと以外できておらず答弁は破たんしています。マスコミの世論調査も概ね反対が上回っており、破たんしたまま法案が提出されたにすぎません。
 これは、団員が法律家団体、市民団体、マスコミ、議員と連携して奮闘してきた成果です。そして、これまで、全国の団員が問題意識、各地での活動・成果の報告、ML上でのレジュメの交換などを通じて支えあってきたからです。
 今後の実質審議において、テロ対策の嘘、共謀罪の危険な本質が明らかになることは明らかです。
 しかし、さらに、少しでも早く、少しでも広く、国民に知らせるために、一層の団員の積極的活動が必要です。
 是非とも、全国の団員の奮闘を、数多く団通信に投稿し、毎回、共謀罪反対活動の成果報告で埋め尽くされるくらいにしていきましょう!
 団通信は、原則として一五〇〇字以内、一太郎・Wordいずれも可能です。原稿は、abemiki@jlaf.jp宛てに送付してください。


共謀罪に特化した訴えを
〜共謀罪と倉敷民商事件〜

東京支部  荒 井 新 二

 四月一二日倉敷民商事件の全国支援会議があり、共同世話人のひとりとして挨拶し、そのなかで共謀罪と事件との関係を語った。時間が足りなかったので端折ったところがあるが、ここに補筆して報告することにしたい。

 禰屋さんの脱税幇助と税理士法違反事件で岡山地裁(三月三日)は、倉敷民商が税理士法違反を組織的に繰り返してきたが、禰屋さんの「犯行」もその一環であるとしています。税理士法違反事件は民商あげての「組織的な違法行為」とされた訳です。判決当日四〇名の警察官が法廷内に導入された異常事態も、裁判官をはじめとした権力が抱く認識がそうさせたのだと考えられます。そういう認識は組織集団が税理士法違反という犯罪行為を有償で、かつ継続的におこなってきた、という内容に到達しています。
 私は、今国会の最大の対決法案である共謀罪法案との関係を憂慮せざるを得ない。たしかに確定申告書などの書類作成という税理士法違反それ自体は現在のところ共謀罪法案の適用対象ではないのですが、「特別会費」の存在に着目すると、民商の会員と事務局専従との関連として眺めてみるとどうなるか。会員の委嘱で申告書等の税務書類を「作成する」ときに、「特別会費」などを徴収した場合、共謀罪の適用のある「組織的な詐欺」とされてしまうのではないか。「組織的な詐欺」の法定刑は短期一年以上の懲役で共謀罪の適用対象です。つまり権力側から見て、申告書作成等について、そのことが税理士法違反になることを言わずに、あたかもその法的に作成する権限があるかのように(暗黙にしろ)振る舞って、専従事務員が会員に信用させることが「欺罔」にあたるのだとされる虞があるのです。こうして「詐欺」が成立したとし、冒頭述べたように単位民商という組織集団が税理士法違反という犯罪行為を、(無償でも駄目であるにもかかわらず)「有償」で、かつ継続的におこなってきた、と解釈される虞が高いのです。
 もちろん「作成」ではない、対価ではないという弁明は有効でしょうが、これまでの裁判では遺憾ながらそうなっておりません。専従の「判断」がいったんでも加われば、「作成」にあたるとしています。
 さらに深刻な問題があります。いま最高裁に係属している小原さん、須増さんの税理士法違反事件の二審判決ではこう書かれています。「『特別会費』を支払っていない場合にも倉敷民商との関係が確定申告書の作成に限られていたことから、『一般会費』を(民商会員が…引用者)が申告書作成の対価と認識していたことが認められる」。特別会費のみならず一般会費をも「対価」としてしまっているのです。一般会費が「違法」行為の対価とされ、会費で運営されている民商の民主的な基盤そのものが責められていると言えます。
 こうして「共謀罪」成立のあかつきには、会費のねじ曲げ的な解釈によって「組織的詐欺」の共謀の容疑が、民商で会員の税金申告書の取扱いについて生じることになります。税金申告支援を協議したり方針を決めたり、会員と相談したりすることだけで共謀罪が適用されることになりかねません。そうして申告のために会員の会計帳簿を作成したり、預かったりすることが「準備行為」とされるではないでしょうか。すでに民商全体が禰屋さん一審判決で組織的犯罪集団と認定をされています。さらに権力が会員を「詐欺』行為の被害者に誘導していくことは、この倉敷民商事件全体を通じて調書を取られた会員の供述により、容易なことであるといわなければなりません。
決して民商さんを脅かすつもりはありません。しかし共謀罪が通れば、警察をはじめとする権力は、法規を最大限に利用します。そのことは禰屋さんの四二八日という長期勾留等でいやと言うほど味わっています。最高裁に係属している小原さん、須増さんの税理士法違反事件の行方も気がかりです。共謀罪が成立したときには、最初にその脅威に晒されるのは、一体どのような団体になるでしょうか。
 弾圧されている当事者、全国の民商組織、また本日参加されている支援団体の皆さま、共謀罪の成立阻止の運動にもいま以上に、真剣に、熱心に取り組んでいただきたい。


共謀罪法案の違憲性

大阪支部  齊 藤 豊 治

 共謀罪の危険性をどのように訴えていくのか、多彩な工夫が全国で行われているようです。共謀罪は、刑法の諸原則を侵害するだけではなく、憲法の定める人権を侵害するものであることを分かりやすく説明することも必要だと思います。そのような目的のために、以下のような訴え方もあるのではないかと思い、UPしてみました。

 憲法三一条は罪刑法定主義を含んでいると解されている。犯罪と刑罰は、あらかじめ明確に法律で規定していなければならない、という原則だ。犯罪に関する規定は、いわば「立ち入り禁止」区域を示している。共謀罪法案は、以下の理由から憲法違反の疑いが濃厚である。
 第一に、「立ち入り禁止」区域を大幅に広げ、自由に行き来できる空間を狭めている。行動範囲を不当に制限しているのである。未遂はおろか、予備からも遠い計画や協議を犯罪として処罰する領域にしている。なんと、二七七もの法律で、このような立ち入り禁止区域の拡張工事が行われている。

 第二の問題は、立ち入り禁止区域の表示そのものが、あいまいで、どこからどこまでが立ち入り禁止区域になっているのか、大変分かりにくくなっているという点だ。たとえば、「計画」「協議」とそれを受けて行われる「準備」行為との関係がよく分からない。「テロリズム」という言葉の意味や範囲もきわめてあいまいである。「組織的犯罪集団」というまがまがしい言葉もそうだ。

 第三の問題は、「立ち入り禁止」は、全ての人に対して行われるのではなく、ダブル・スタンダード、トリプル・スタンダードが横行しそうである。政権や官憲に近い人々は「立ち入り禁止区域」がたいへん狭く、政権に批判的な人々には「立ち入り禁止区域」が広がる仕組みとなっている。

 第四の問題は、「立ち入り禁止」地域についての差別的な運用をするには、さまざまな人々やグループに関して、行動や思想・信条に関する情報を集め、振り分けをすることになる。「立ち入り禁止」区域の入り口周辺に監視カメラや盗聴の装置を置き、密告者を組織する。「立ち入り禁止区域」周辺の人々の行動は、ごく日常的な行為でしかないので、立ち入ろうとしているのかどうかは、内心の状態を考慮しないと、判断できない。こうして、いわゆる監視社会が到来する。

 このような状態は罪刑法定主義を無視しており、憲法三一条違反であるだけではなく、思想・信条の自由を保障する一九条・二〇条、プライバシーを保障する一三条、法の下の平等を定める一四条にも違反している。


「宿泊所貧困ビジネス・さいたま地裁判決」

埼玉支部  猪 股   正

 はじめに
 劣悪な施設内に生活困窮者を囲い込み生活保護費を搾取していた悪質貧困ビジネス業者に対し、さいたま地裁は、二〇一七年三月一日、総額約一五八〇万円の損害賠償及び不当利得の返還を命じる判決を言い渡し、同判決は、同月一八日に確定した。貧困が拡大しホームレス状態となる人が後を絶たず、行き場を失った人を次々と囲い込んで暴利を貪る悪質な貧困ビジネス業者が各地で増殖している状況において、貧困ビジネス業者の責任を認めた初めての判決として、本判決の意義は大きいと思われるので、以下、報告する。
 生活困窮者を囲い込んで搾取する手口
 内部で救済係と呼ばれる施設職員が、東京都内の公園や駅周辺などを巡回し、ホームレス状態の人に、食事や住まいを提供できると声をかけて誘い、車で埼玉県内の施設まで搬送して入所させる。すぐに生活保護を申請させ、支給された保護費を封筒毎全額回収し、本人には一日五〇〇円、月に一回五〇〇〇円、合計二万円の小遣いだけを渡す。保護費の額は受給者によって異なるが一二万五〇〇〇円前後であることが多く、その場合は、一〇万円以上が業者の懐に残ることになる。部屋の広さは一人三畳程度と狭小で、食事も昼食は乾麺、夕食もご飯とみそ汁のほかはレトルト食品を中心とした主菜一品のみの粗末なものであった。
 弁護団の結成と裁判内外での攻防
埼玉を中心に、東京、千葉、愛知、京都、大阪など各地の弁護士の協力を得て弁護団を結成し、二〇一一年に七名の原告が訴訟を提起した。訴訟提起後、業者は、施設内で転居費用が出るまで待機していた一部原告の強制連行(未遂)、原告本人への直接接触、訴訟取下の働きかけなど、弁護団による警告を悉く無視して、訴訟追行の妨害行為を繰り返した。弁護団は、施設に乗り込んでの交渉、文書による警告、捜査機関への申告等により対抗したが、二〇一三年一一月までに原告四名から取下書が提出されるという異常な事態となった。弁護団は、二〇一四年三月、弁護士活動の妨害を理由に損害賠償を請求する別件訴訟を提起し、また、検察庁に対し脱税容疑での摘発を要請し資料を提出した。これに対し、業者代表者は、訴訟を取り下げた原告らを利用して原告代理人らを被告とする損害賠償請求訴訟を準備し、マスコミに「貧困ビジネスを食う弁護士」として弁護団を誹謗中傷する記事を書かせて社会的に抹殺することを計画し、その準備を進めていた(関係者の供述等)。しかし、計画実行直前の同年一〇月二日、代表者は所得税法違反の容疑で逮捕され計画は頓挫した。その後、代表者は、二〇一五年六月に有罪判決を受け、この刑事事件記録も書証として活用し、提訴から六年近くの攻防の後、本判決となった。七名いた原告のうち、四名は取下、一名は所在不明となったので、原告二名の請求について判断された。
 判決の概要
 判決は、業者と入所者との間の住居等の提供契約は、対価とサービスの均衡を欠くばかりか、生活保護法及び社会福祉法の趣旨に反し、また、原告らが生活に困窮していた状況に乗じて締結させたことなどその経緯や態様等に照らして、公序良俗に反し、無効というべきであるとし、原告らが拠出した生活保護費相当額から被告より交付された現金総額を控除した金額合計五五七万八〇六九円について不当利得返還請求を認容した。また、原告らの最低限度の生活を営む利益を侵害したものとして不法行為が成立するとし慰謝料の支払いを命じた。仕事をさせられ、中指切断の障害を負った入所者につき、安全配慮義務違反を理由に、総額九九一万三四一七円の損害賠償の支払いを命じた。なお、判決は、原告一名による訴えの取下については、当時、すでに、後見相当と診断され意思能力を欠いていたことから無効であるとした。
 判決内容の詳細は、近く「賃金と社会保障」に掲載される予定である。


借上復興住宅強制退去訴訟提起の暴挙

兵庫県支部  佐 伯 雄 三

 かねてお知らせしているとおり、借上住宅である西宮市営のシティハイツ西宮北口、神戸市営のキャナルタウンウェストの入居者に対する明け渡し請求の訴訟が、次々と提起されました。
 平成八年八月に公営住宅法が改正され「借上住宅」が制度化されましたが、改正法施行前の住宅には、借地借家法が適用され単に「期限」が来たからといって明け渡しを求めることはできません。「正当事由」が必要です。施行後の住宅には、改正法が適用されますが、その場合にも当該住宅には定まった期限があること、期限到来後は退去しなければならないことを事前に通知する必要がありますが(「事前通知」、公営住宅法二五条二項)、いずれの自治体も、改正前の住宅も改正後の住宅も、事前の通知は必要ない、「借上期限が満了」すれば明け渡しを求めることができるんだ、と主張しています(公営住宅法三二条一項六号)。神戸市からは、学者二名の意見書、私たち入居者側からも学者一名の意見書が、証拠として提出されましたが、私たちが提出した学者意見書においては施行前住宅、施行後住宅についても事前通知がない場合には、借地借家法の適用があり正当事由が必要だが、正当事由は、神戸市がURに支払っている賃料と入居者が神戸市に支払っている賃料の差額を支払わない限り満たされないとしています。
 神戸市は、続々と「期限」が到来する借上住宅について、提訴をしていく方針を変えておらず、現在四件(入居数七名)が訴訟として係属しています(西宮市は一件七名)。何としても、世論の力に訴えて、入居者が継続して住めるように、皆さまのご支援をお願いいたします。神戸市、西宮市あての署名も集めておりますので、神戸あじさい法律事務所のホームページからお取りいただき、集めていただければありがたいです。
 また、この借上復興住宅問題を取り上げた書籍が出版されました。「『被災者のニーズ』と『居住の権利』」(借上復興住宅・問題)です。大学を出たばかりの法律を専門としていない市川英恵さんという方が執筆された素晴らしい本です。入居者側の借上復興住宅弁護団ともつながりがあります。是非、お買い求め下さい。団五月集会でも販売予定です。


上原国立元市長への求償訴訟事件〜だれが政策変更の責任をとるのか

東京支部  齊 藤 園 生

一 終わったはずのマンション訴訟が再燃
 国立の大学通りに面して、大手マンション建設会社M社が十八階建て大型マンション計画を打ち出したのが一九九九年のこと。有名な大学通りの桜並木の景観を守るために、長い市民の運動があっただけに、この計画に市民は猛反発。市民は反対運動を展開し、自分達で建物高さを二〇mにする地区計画案まで作り、これを受け市も条例を作り、建物高さ制限を二〇mにした。これに対し、M社が国立市に営業妨害として四億円の損害賠償を請求。最終的に賠償金は二五〇〇万円となり、これを国立市はM社に支払った。M社はお金を取るのが目的ではないといって、そっくり同額を市に寄付した。これで国立市のマンションを巡る紛争は終わった、かに見えた。
 しかし、二〇〇九年、市内の一部住民が、市にたいし、支払った損害賠償金は当時の上原元市長に求償すべきという住民訴訟を起こす。一審で市が敗訴した後、高裁で審理中に、求償容認派の新市長が当選し、市の控訴を取り下げて、住民訴訟は市の敗訴で確定。そして、二〇一一年、国立市から上原氏にたいし、本件求償訴訟が起こされた。
二 公約実現したら違法という矛盾
 そもそも問題とされた上原元市長の行為は、住民集会での発言や議会での発言、行政の担当部署への要請行動など、景観保護を掲げ当選した市長としての、公約実現のための行為というべきものである。それがのちに違法と評価され、個人で損害賠償責任まで負わされるのであれば、政治家が公約を実現するのには、相当な覚悟が必要ということになる。これでは地方自治体における政治革新など望むべくもない。
 本件一審判決は、上原元市長の行為を、「景観保持という政治理念に基づく行為」であり「民意の裏付け」があったと評価したうえ、二〇一三年国立市議会が行った上原元市長への地方自治法上の債権放棄議決を有効とし、債権放棄議決までしたのに現市長が再議にも付さず、債権放棄の意思表示もしないことを権限濫用と評価して、国立市の求償請求を棄却した。
 ところが二審判決は、上原元市長の行為は住民運動を利用した行為であり違法とし、議会の債権放棄議決があっても、一年半後の新市議会の債権行使決議により市長が請求することができることとなったとして、求償を認めた。
 本件では、そもそも市長が政治家として公約を実現する行為が、違法、有責と評価されるものなのか、地方自治法上の債権放棄議決を、政治的要望に過ぎない債権行使決議で否定できるのか、実に多くの論点があった。
 ところが最高裁は昨年一二月一三日、上記論点は事実認定の問題であって最高裁の審理の対象ではないとして、上告棄却・上告不受理の決定を下した。
三 「民主主義のコスト」というもの
 三月二四日の朝日新聞「耕論」に本件事件が取り上げられた。法的観点から論文も書かれていた安藤高行九州大学名誉教授は、本件を「反上原派のリベンジ訴訟」とし、「求償制度を政治目的に使うもので制度の本来の趣旨にかなうかはなはだ疑問」と指摘されている。
 私たち弁護団の懸念もまさにこの点にある。この判決が、政治を変えようとしている自治体首長に対して強い心理的制約を加え、地方政治を住民自治に基づく政治から、国・中央政治の下請け機関としての政治へと変えてしまうのではないか。例えば、オール沖縄の世論を背景に、国に対して辺野古新基地反対を訴え続ける翁長沖縄県知事のような首長は、この判決のもとでも再び現れるのだろうか。国に対してノーと言えない地方自治体ばかりになれば、憲法の保障する地方自治の否定にほかならない。
 国政と違って、地方政治は住民意思が反映しやすく、一つの政策をめぐって市政の政権交代が起きることも珍しくはない。政権交代によって従来の政策が転換されれば、損害を受ける個人・企業も場合によっては出てこよう。問題はその損害はだれが負担するのかである。地域住民の民主主義の結果として選択した結果は、「民主主義のコスト」として政策を選択した地域住民、つまりは地方自治体が負担すべきなのではないだろうか。それを市長が個人で負担すべきものではないだろう。
 最高裁は求償制度の趣旨から考えて本件のような場合に、本当に市長が責任を負うべきなのか判断すべきだったと思う。この判決の及ぼす影響が心配なのである。
四 上原元市長に一円たりとも支払わせない!
 弁護団と運動体ができることは、判決で負けても運動では負けないことを示すことである。私たちは「上原元市長に一円たりとも支払わせない」を合言葉に、賠償金は住民自治に課せられた負担として受け止め、「くにたち上原景観基金一万人の会」(略称「上原ファンド一万人の会」)を作り、カンパで集めきることにした。賠償金は、利息も付けるとおよそ五〇〇〇万円である。カンパ金額はすでに二九〇〇万円を超えている。しかし、長期戦では利息がふくらんでいくばかりである。短期決戦が必要で、ここからが正念場である。
 毎日カンパ金額は更新され、ホームページで公開されている。
http://www.ueharafund.org/)。
 是非、団員、事務所職員の皆さんのご協力をお願いしたい。今度は私たちがリベンジする番である。


三・三〇基地問題学習会に参加して

沖縄支部  下 地 聡 子

 二〇一七年三月三〇日、沖縄弁護士会館にて、基地問題学習会が開かれた。沖縄支部の団員のみならず、国際問題委員会のメンバーを中心に東京と関西から団員が参加された。
 第一部「韓国民弁との平和交流のあゆみ」においては、韓国の弁護士団体「民主社会のための弁護士会米軍問題研究委員会(以下、「民弁」)と自由法曹団沖縄支部の交流について報告された。民弁と沖縄支部は、二〇〇七年から年に一回、韓国と沖縄を交互に訪問し、米軍基地問題の現状報告や現地視察を行っている。交流会の目標は武力によらない平和な東アジアの建設である。二〇一六年は一〇周年を記念し韓国にて国際シンポジウムを開催したところ、沖縄支部のみならず全国の団員が参加した。これだけ長く交流が続いた理由は、互いが交流を必要としている点にある。改憲の経験や韓米地位協定の「運用改善」など、韓国に学ぶべき点は多い。もっとも、交流会の運営については、朝鮮語が使える沖縄支部の団員に過重な負荷がかかっている側面もある。沖縄支部以外の団員が運営に関わることが、交流会の継続にとって必要との意見が出された。
 私は登録一年目であるため民弁交流会には未参加であるが、今年四月、支部団員の結婚式に列席した民弁弁護士と交流した。彼らの明るい人柄に接したあとでは、朝鮮半島の苦難の歴史がいっそう痛切に感じられる。朝鮮半島と沖縄はともに、日本とアメリカに歴史的な禍根をもつ国・地域である。それぞれの弁護士が、各々の活動、政治状況、世論の流れを報告しあうことは、互いの運動の激励であるとともに、二度と同じ過ちを犯さないための地道な実践である。交流以前に聞いていた情報から予想していた以上に、実際の交流は得るものが大きい。ぜひ全国の団員に、共催・参加いただければと思う。
 第二部「沖縄の基地問題について」においては、沖縄支部団員が、沖縄の基地問題をめぐる訴訟について報告した。高江米軍北部訓練場オスプレイパット建設の強行、辺野古新基地建設の強行、普天間爆音訴訟、嘉手納爆音訴訟の経緯と現状である。
 沖縄の基地問題を全国にどう展開させるかについて議論が交わされた。沖縄支部団員からの提言として、他支部の団員において、(1)辺野古新基地建設を止めるための法律構成の検討に力を貸してしいこと、(2)翁長知事に対する支持を表明してほしいこと(例えば、翁長知事支持の声明を出すなど)が挙げられた。
 二〇一四年に翁長知事が当選し、その一ヶ月後の衆院選で沖縄選挙区の全4区でオール沖縄が支持する候補者が当選し、二〇一六年三月に県と国との間で和解が成立し工事が中止するまで、翁長知事の求心力は維持されていた。しかし、最高裁での敗訴、県内首長選挙における知事が応援する候補の落選、県民の承認撤回への期待とそれがなされないことへの焦りから、県内での求心力に陰りが出てきたという見方がある。知事がさまざまな政治的要素を考慮したうえで法的対応を検討していること、法的対応についての結論が出る日も近いという認識の浸透が必要であり、出した結論への支持が全国的に求められる。


生業訴訟・結審しました!
〜 「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟第二四回期日の報告

東京支部  馬奈木 厳太郎

一.盛りだくさんの結審行動
 三月二一日、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟は、結審しました。
 結審に際しては、当日のみならず前日も含め結審行動に取り組みました。前日には前夜集会を開催し、三月一七日に判決が出たばかりの群馬訴訟はじめ、京都、東京などで提訴している原告にも駆けつけていただき、参加者二〇〇名で結審に向け決意を固めあいました。
 また、当日の午前中には、期日前集会、福島市内でのデモ、裁判所前でのスタンディングを行い、一〇〇〇名の参加者が、「福島切り捨てNO」、「原発NO」のプラカードや「福島切り捨てを許さない」などと書かれたのぼりを手に、「原発いらない」、「地域を返せ」とコールを繰り返し、市民にアピールしたほか、裁判所を包囲しました。
 結審行動には、千葉訴訟など各地の原告の方のほか、「原発なくそう!九州玄海訴訟」弁護団、『大地を受け継ぐ』の井上淳一監督、元NHKキャスターの堀潤さん、おしどりマコ・ケンさん、元東電社員の一井さん、元ラジオ福島アナウンサーの大和田新さん、かもがわ出版編集長の松竹伸幸さん、『ルポ母子避難』著者の吉田千亜さん、東京演劇アンサンブル、劇団さんらんなど、この間、生業訴訟を支援してくださっている方々も多数駆けつけてくださり、傍聴席を入りきれない方々向けの講演会には、宝田明さんをお招きし、立ち見も出る盛況でした。法廷の様子を再現した模擬法廷も久しぶりに開催し、こちらも盛り上がりました。小雨のなかでの結審当日の行動となりましたが、雨を吹き飛ばす勢いでした。

二.「お気持ちはわかります」と語った裁判長
 「勇気と正義に則った判決が下されることを切に願います」――意見陳述した原告がそう締めくくると、傍聴席からは自然と拍手が起こりました。静粛を促した裁判長も、「お気持ちはわかりますが」と言葉を添えました。
 提訴から四年余。この日、私たちは六〇〇頁を超える最終準備書面を提出し、原告四名の意見陳述のほか、主たる争点となった@原状回復A責任論B被害・損害論について、代理人八名が弁論を行いました。
 原状回復については、放射性物質汚染対処特措法が「年間一ミリシーベルト以上の区域」の除染費用を「原子力損害」としたうえで、東電に求償できるとしていることなどに触れ、原状回復措置を講じなければならない法的義務を負っていることが強調されました。
 過失については、二〇〇二年の「長期評価」で巨大津波が予見され、必要な対策が求められたにもかかわらず、東電は措置を取らず、国も対策を取らせることを怠ったと詳細に主張、「巨大津波は予見できなかった」とする国、東電の主張を改めて厳しく批判しました。
 被害・損害についても、被告らの責任の重さが損害額の算定にあたって反映されなければならないこと、中間指針等による救済の範囲を面的に拡大させ、水準を引き上げ、期間を延ばすことが必要だと訴えました。
 最後に弁論に立った菊池紘団員は、「誰も謝罪しないで済んでいるこの社会は許されることではない」として原告に加わりながら判決を前に病気で亡くなった一人の女性の想いを紹介。「原告代理人はもちろん、被告国の代理人、東京電力の代理人を含め、司法に携わる者すべてがその役割を果たすことが問われている」と提起。「三八〇〇人の原告は正義の判決を待ち望んでいる。そうしてこそこの判決は歴史的なものになる」と弁論を結びました。

三.判決に向けて
 判決言渡しが一〇月一〇日と指定され、結審しましたが、これで終わりではありません。第二陣の第一回期日が六月一二日に指定されており、この期日の持ち方は第一陣判決にとっても重要なものとなります。
 また、公正な判決を求める署名にも取り組んでおり、結審にあわせて四万八〇〇〇筆を超える署名を提出しました。一〇〇万筆を目標に署名の取り組みは今後も続きます。
 署名用紙は、http://www.nariwaisoshou.jp/activity/entry-686.htmlからダウンロードできます。ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。


北海道労働委員会労働者委員獲得に向けた
たたかいの軌跡(四)

北海道支部  中 島   哲

七 第四二期の任命(続き)
 第三七期から第四一期まで、五期連続で訴訟を行い、第三九期以降は三期連続判決で裁量権の濫用・逸脱を認めさせ、実質的に三連勝して臨んだ第四二期の労働者委員任命において、ついに、二〇一六年一二月一日付けで、道労連の副議長である赤坂正信さんが北海道労働委員会労働者委員に任命されました。二〇〇七年五月二九日付けの第三七期提訴から約九年半かけて勝ち取った委員の枠でした。道労連の皆さんも非常に喜んでくれました。
八 終わりに
 この訴訟は、自由法曹団北海道支部のほぼ全ての団員が代理人に名を連ねておりましたが、実働で主に活動していたのは、弁護団長として佐藤哲之支部長(三二期)のほか、齊藤耕団員(五七期)、山田佳以団員(六一期)、神保大地団員(六二期)、そして中島哲(六〇期)でした。第三七期の提訴時においては、六〇期以降の団員はそもそも弁護士ですらないので、この裁判は、佐藤哲之支部長がほぼ一人で画を描いて作り上げた裁判であり、それを齊藤耕団員が支えてくれた裁判であったと言えます。
 筆者は、二〇〇七年九月に弁護士になり、第三七期の控訴審から弁護団に加入したと記憶していますが、白状してしまいますと、当初は半ば支部長の趣味で勝ち目のない訴訟をやっているな、という目で見ていました(着手金や報酬も一切貰っていなかったですし。)。この裁判に真剣に取り組むようになったのは、第三九期で実質的勝利を収めた次の第四〇期以降だったように思います。
 はじめは勝ち目がほとんどないと思われるような闘いであっても、一歩一歩足場を固め、少しずつ楔を打ち込むようにして闘いを進めて行って、最終的には目標に到達するというその様は、近くで見ていてとても勉強になりました。
 知事の裁量権の濫用・逸脱を問うという通常は原告側圧倒的不利な裁判にも関わらず、裁量権の濫用・逸脱認定は勝ち取れるということを前提に、任期終了前の判決を取りに行った第四一期訴訟などは、それまで積み重ねていった成果が結実した闘いだったと言えます。また、原告となった道労連が、結果を得るまでは、と粘り強くたたかった結果であることも強調したいと思います。
 また、この課題は、道労連という一つの潮流の党派的利益ではなく、あくまでも民主主義の課題、行政の中立性・公平性の問題であるとしてたたかい、その結果、中立系労組や連合内部からも支援、協力を得ることができました。
 そして、それがその他の共通する課題に共闘して取り組む信頼の基礎を導く一つの力になっています。
 全国の労働委員会で、全労連系の組合から労働者委員が任命されるようになってきてはいますが、まだまだ連合系で独占されている地域もあります。各地域ごと、それぞれ特有の事情があるかとは思いますが、まずはやはり、全労連系組合の組織率の拡大と、それを背景にして、各地の団員を中心に、正面から裁判によって労働者委員任命における裁量権の濫用・逸脱を問うというたたかいを展開していくことに取り組むことを提言して、報告を終えさせていただきます。


いすゞの非正規切りとの八年間のたたかい(下)

東京支部  鷲 見 賢一郎

四 いすゞの雇止め、派遣切りとの本裁判のたたかい(続き)
1 東京地方裁判所のたたかい
 一二名の組合員は、いすゞを被告として、二〇〇九年四月二日、東京地方裁判所に、地位確認及び賃金支払並びに損害賠償請求事件を提訴しました。この裁判で、四名の組合員は、二〇〇九年一〜四月初旬のカット賃金の支払い及び同年四月初旬の雇止めの無効と賃金支払い等を請求しました。三名の組合員は、いすゞへの退職願の無効と賃金支払い、派遣切りについての損害賠償等を請求しました。五名の組合員は、派遣切りについての損害賠償等を請求しました。
 東京地方裁判所民亊第三六部は、二〇一二年四月一六日、四名の組合員のカット賃金の支払請求は認めましたが、その他の請求を棄却する不当判決(労働判例一〇五四号五頁以下)を出しました。
 東京地裁判決は、雇止めについて、「不況等の事情の変化による生産計画の変更に伴う要員計画に変更がない限り」との契約更新の基準を設定して、雇止めを有効としました。上記の「要員計画に変更がない限り」との基準は、契約更新の可能性を極めて狭くし、雇止めを有効に導く不当な基準です。また、派遣切りについては、「労働者派遣法に違反する労働者派遣が行われた場合でも、特段の事情のない限り、そのことだけで派遣労働者と派遣元との間の労働契約が無効になることはない」などとして、派遣切りを合法としました。
2 東京高等裁判所のたたかい
 一〇名の組合員は、二〇一二年四月二六日、東京高等裁判所に控訴しました。いすゞも、四月一七日、差額賃金の支払いを不服として、東京高等裁判所に控訴しました。東京高裁では、いすゞの代表取締役社長ら一二名全員の尋問を認めない裁判官三名を忌避するなどしてたたかいました。
 東京高等裁判所第二民事部は、二〇一五年三月二六日、カット賃金の支払いを命ずる点は維持しましたが、一〇名の組合員の控訴を棄却する不当判決(労働判例一一二一号五二頁以下)を出しました。東京高裁判決は、東京地裁判決の不当性をそのまま引き継ぐ不当判決です。
3 最高裁判所のたたかい
 九名の組合員は、二〇一五年四月七日、最高裁判所に上告兼上告受理申立をしました。しかし、最高裁判所第一小法廷は、二〇一六年七月二八日、上告棄却及び上告不受理決定を出しました。違憲・違法な東京高裁判決を認容する不当決定です。

五 全面解決
 いすゞとJMITU(日本金属製造情報通信労働組合)らは、二〇一六年一一月二〇日、両者間の非正規切り争議を全面解決しました。
JMITUらは、二〇一七年二月一七日に横浜市で、三月一二日に栃木市大平町で、いすゞ自動車争議解決報告集会を持ち、争議解決を報告しました。

六 まとめ
 いすゞあるいは各派遣会社による契約期間途中の解雇が無効であること、休業中の四割の賃金カットが違法であることを明らかにし、前記の三つの仮処分認容決定を得ました。休業中の四割の賃金カットが違法であることは、東京地裁、東京高裁の判決でも認めさせました。しかし、いすゞの雇止めを無効とし、地位確認及び賃金支払いを認めさせることはできませんでした。また、いすゞの労働者派遣法違反の事実は認定させましたが、派遣切りを違法とし、地位確認及び賃金支払いや損害賠償を認めさせることはできませんでした。
 弁護団は、栃木、埼玉、東京、神奈川の三六名の弁護士で構成し、非正規労働者に対する大企業の理不尽な取扱いを正そうという想いで、皆、頑張りました。いすゞの非正規切りとのたたかいで学んだものを次のたたかいに生かし、期間労働者、派遣労働者を雇用の調整弁扱いすることをやめさせ、雇止め無効、派遣切り違法を必ず勝ち取りたいと思います。


―永盛団員追悼―
永盛敦郎さんを偲ぶ

東京支部  船 尾   徹

 私と永盛さんとは、一九六八年四月に司法研修所に入所した同期生です。五〇年近いつきあいをふりかえって、若き日の永盛敦郎を語ることにします。
 私たちの実務修習地は長野でした。当時、長野に配属された修習生は、わずかに五人でした。ですから麻雀をするにしても、誰か病気でもすると成立が危うくなります。永盛さんは麻雀がとても好きだった。
当時、独身であった永盛さんは、休日になると新婚まもない私たち夫婦の家庭に傍若無人に訪れては、私の妻も加わっての「三人麻雀」をして、私たちふたりを麻雀指導して楽しんでいたことを、なつかしく思い出します。
 永盛さんは二枚目の独身の好青年でしたから、女性によくもてました。チョコレートをもらっては、この「三人麻雀」の席に戦利品と称してしばしば差し入れてくれました。
 雪深い長野ですから、冬になるとほとんど毎週スキーに行きました。永盛さんは学生時代はスキー部に所属していましたので、そのスキーは私から見ても大変格好良かった。私も彼から指導を受けました。彼の指導はただひとつ、困難になればなるほど「前傾を深めよ」ということでした。この指導に忠実にしたがって滑降した私は、見事に「顔面」を雪の中に突っ込んでしまう事態となりました。このときニヤニヤしていた永盛さんの指導を恨むより、硬すぎる私の膝をなげくべきであったのでしょう。当時は素直にそうした気分にはなれませんでした。
 永盛さんも私も、当時、自動車を乗り回して長野県内をあちこち出かけました。永盛さんの運転する車の助手席に乗って、一緒に彼の実家(埼玉にありました)に帰宅したこともたびたびありました。永盛さんは、前に走っている車があると、挑戦してやまない生来の気性がメラメラ燃え上ってくるのか、必ず追い越さないと気が済まない性格でした。しかし、収入の少ない修習生でしたから、永盛さんのこの性格にふさわしい性能を有した車ではありませんでした。
 こうした車で永盛さんは次々と追い越してはいましたが、追い越しをするたびにかなりのエネルギーを車だけでなく、助手席に座っている私の身体のエネルギーもかなり消耗させました。そこで、永盛さんの実家に帰宅する頃には、ヘトヘトになっていました。
 もちろん私たちは遊んでばかりでいたわけではありません。それなりに勉強もしていました。私たちはいづれも、当時、青法協に参加し、定期的に青法協としての研究会というか例会を開いていました。
 当時の例会には、佐久支部からは公選法戸別訪問禁止規定の違憲判決を出して気を吐いておられた花田政道裁判官、地裁本庁からは道交法報告義務違反事件で違憲判決を出しておられた金野俊雄裁判官、過日、亡くなられた自由法曹団員の冨森啓児弁護士や岩崎功弁護士、修習後半になると、いまは名古屋で活躍しておられる加藤洪太嘯ウん、岡谷で活躍しておられる松村文夫さんなどが弁護士一年生として参加され、大変に賑やかで活発な論議に参加できた幸運に恵まれました。
 当時、日本共産党の衆議院議員の候補者としてエネルギッシュに活動されておられた冨森弁護士は、機関紙赤旗を小脇にかかえて修習生の部屋を訪れては、人権擁護と社会変革のための活動を熱く語っていただいたこともありました。
 こうして一年四ヶ月の長野での実務修習も終わる頃、永盛さんは働く者の自由と人権擁護のためにたたかう弁護士としての道を選ぶことにした、おまえはどうするんだと私に語るようになりました。
 お互い弁護士になってから、たたかう労働者の人権と自由を侵害する労使一体の暴力動員とたたかった北辰電機事件、かけがえのない表現の自由を求めて戦った大田立看板事件に一緒に弁護団員として取り組みました。こうした活動をしながら、永盛さんは、日弁連刑法「改正」阻止実行委員会事務局長として九年間歴任し、多様な思想を有する弁護士会内の合意形成に心を砕くようになっていきます。
 こうした経験を経ての永盛さんの真骨頂は、二〇一五年八月の自由法曹団東京支部ニュース五〇一号の「若手弁護士へのメッセージ」を通して、大変な説得力をもって私たちに迫っています。「自由法曹団員と弁護士会活動」と題するそのメッセージには、「一致点を大切にし、相違点は尊重する」、あるいは、「不一致点については留保しつつ、一致点に基づいて行動する。これは弁護士会に限らず、あらゆる統一戦線的運動の基本である」と静かに語っています。実践に裏づけられたこうした作風は、運動を幅広く発展させていく原動力になるだけでなく、「他者の意見に謙虚に耳を傾けたうえで、自分の中で反芻し、その上で自分の見解を組み立ててゆくという謙虚な姿勢が、お互いの議論をより高いものに発展させる力となる」と語る永盛さんの姿勢は、事物の認識のあり方と発展にとっても大変に貴重な提起をしています。この国の首相の思考のパターンは、永盛さんのこうした姿勢と対極にあります。
 戦争法制の廃止をめざした「総がかり行動」を軸にした安倍政権の暴走を阻止する市民連合と野党共闘の発展が求められるこの時代にあって、永盛さんの提起したこの作風と姿勢は、私たちが継承し大いに活かしていくべきものだと思います。それにしてもこうした作風と姿勢を自分のものしていた永盛さんに、もっと活躍を続けて欲しかった。残念でならない。
 永盛さんは、刑法「改正」阻止実行委員会事務局長を歴任した後、第二東京弁護士会副会長、新宿区長選挙の候補者、自由法曹団幹事長、法律扶助協会事務局長、日本司法支援センター東京地方事務所長など、じつに多くの重責を課せられた役職を、次々と担って活動してきました。そんな彼は、苦しそうな顔、嫌な顔を私たちにみせたことはありません。いつも颯爽とフットワークよく走り続けていました。
 永盛、天国で好きなゴルフを楽しんでいるか。好きな酒を飲んでいるか。俺もあと五〇年もしたら行くよ。楽しみに待っていてくれ。

二〇一七年四月七日「永盛敦郎弁護士を偲ぶ会」から


永盛敦郎団員を悼む

東京支部  鈴 木 亜 英

 永盛敦郎団員が突然逝去されました。どうしてという気持ちが空回りして、時折ふとあのお元気な頃の笑顔が瞼に浮かんでは消えるこの数ヶ月でした。
 私はまだ御遺族にも、御遺影にもきちんとした挨拶ができず、申し訳ないと思いつつ、今日まで来てしまいました。
 永盛団員とは、特に深いおつき合いがあったわけではありません。皆さまにもお伝えしておきたいことがひとつあって筆をとりました。
 あれは、一九九四年四月頃のことでした。当時、本部の幹事長(一九九二・一〇〜一九九四・一〇)をされていた永盛団員から突然電話があり、団本部に来てくれないかとのことでした。その頃、私は団総会に参加する程度で、本部も支部も役員などしたことはなく、従って本部、支部の事務所を尋ねることも皆無に近い状況でした。
 永盛団員にお会いしたところ、話はこうでした。
 「団としても、今後国際問題にも取り組みたい。それが必要な時期だと判断している。すでに役員会でも決めたことだが、国際問題委員会を立ち上げたい。ついては最初の委員長になって欲しい」という依頼でした。
 当時、緒方宅電話盗聴事件の弁護団として、緒方靖夫さんの国連人権小委員会の発言運動を取り組んだのがきっかけで、国際活動はそこそこに足を踏み入れていた私ですが、立ち上げる委員会の委員長はと言えば不安でした。しかし永盛団員は、「大丈夫ですよ。これまでのあなたがたの活動を団活動に反映してくれればそれでいいんです」とこちらの心配を、持ち前のあの笑顔で打ち消してくれました。
 私は、ナショナルロイヤーズギルドとの交流と国連の人権活動についてはやりますが、何もかもはムリですと答えた覚えがあります。
 この当時の団長は小島成一先生で、吉田健一事務局長とともに、ギルドと団の最初の交流を手がけられ、その後の前川雄司事務局長もこうした活動に理解がありました。時はまさに、団としても国際活動を必要としていました。
 こうして、一九九四年七月国際問題委員会は設立され、常任幹事会で経過報告とあいさつをしたことを思い出します。
 しかし、その後はと言えば、委員会活動は私にとって苦楽相半ばで推移しました。毎年渡米しギルドの総会に参加することは、経済的にも時間的にもある意味大変なことでした。その状況を永盛団員に話したことは一度もありませんでしたから、永盛団員とその苦楽を共にしたとまでは言えません。しかし、永盛団員は、委員会の立ち上げに自ら関与されたので、幹事長退任後も傍らから成り行きを見守っておられたと思います。国際問題委員会も徐々にではありますが、軌道に乗ってゆきました。
 数年して、永盛団員が、私に向かって「(あなたに)委員長になってもらって間違いなかった」とポツリと呟かれたことがありました。きっと御自分の選球眼の良さを自慢されたかったのだと思います。私としては、お世辞とは知りながらも、ホッとしたことを覚えています。団の国際問題委員会は“常任”の委員は一〇人程度で大きな世帯ではありません。しかし、様々なテーマに取り組み、時に意欲的に、時に消極的になりながらも、賑やかにやっております。早いもので、委員会活動はいつの間にか二〇年を超えるまでになりました。委員会の陰の創始者である永盛団員には、とりあえず御安心くださいとお伝えしたいと思っていたところでした。
 永盛団員は、最近まで法律扶助協会の仕事を比較的長くなさったこともあって、団の役員としての活動は知らないと言われる方もいらっしゃるので、小さなエピソードですが紹介させて頂きました。
永盛団員安らかにお眠りください。


永盛敦郎弁護士を偲ぶ

東京支部  加 藤 健 次

 永盛敦郎先生は、闘病中であった昨年一二月二六日に逝去された。突然の訃報に驚かれた方も多いだろう。
 永盛先生は、昨年九月に体調を崩して入院し、検査の結果、ガンが発見された。発見時にはかなり進行していたようだが、厳しい現実を直視し、残された時間を有意義に過ごそうとしておられた。亡くなる三日前には、外出許可を得て事務所に顔を見せていた。しかし、一二月二六日に病状が急変し、帰らぬ人となった。
 私は、一九八八年に東京法律事務所に入所した。その時の事務所の責任者が永盛先生であった。実は、私と永盛先生の出会いは、その七年ほど前に遡る。当時永盛先生は日弁連刑法「改正」阻止実行委員会事務局長として活躍していた。その頃、学生自治会で刑法「改正」をテーマにしたシンポジウムを開催することになり、永盛先生に講師を引き受けていただいた。ところが、開会直前に「シンポジウム粉砕!」を叫ぶ暴力集団が会場に乱入するという予想外の事態が発生した。なんとか妨害を排除してシンポジウムを実行したのだが、「日弁連の偉い先生をお呼びしたのに大丈夫だろうか」と私たちは真っ青になった。ところが、永盛先生は、私たちの心配をよそに、涼しい顔をして予定通り講演を行った。当時、刑法「改正」問題をめぐって、永盛先生はじめ多くの団員の武勇伝が繰り広げられたことは、後に知ることとなる。
 このような縁もあって、永盛先生には入所以来大変お世話になり、媒酌人もつとめていただいた。私にとって、父親と兄の間のような存在だった。本当に肉親を失ったような気持ちでいる。
 永盛先生は、一九七〇年に当事務所に入所して以来、労働事件、刑事事件はもとより、第二東京弁護士会副会長、自由法曹団幹事長、新宿区長選挙候補者、法テラス東京事務所所長など実に多彩な場面で活躍された。とりわけ、弁護士会での活動は東京法律事務所では前例のない先駆的なものであった。「要請には応える!」というのが、永盛先生の口ぐせだった。永盛先生は、どの分野でも、求められば嫌がらずに引き受けられた。そして、どの分野にあっても、労働者・国民の権利擁護と社会変革を終始追い求めていた。昨年の参議院選挙では、山添拓団員の当選のために尽力され、当選の報をきいて、心から喜んでおられた。
 永盛先生は仕事のみならず、趣味もまた多彩であった。若い頃は、スキー、登山、晩年はゴルフを楽しんでおられた。お酒とジャズをこよなく愛されていた。カラオケも大好きで、必ず大トリで「すばる」を熱唱した。
 以前、永盛先生に「自宅ではどうしているのですか?」と尋ねた。永盛先生は、「ジャズを聴き、ウイスキーをなめながら、レーニンを読むときが一番いい」と答えられた。原則的でありつつ、柔軟でおしゃれな永盛先生を思わせる言葉だと思っている。
 この激動の時代、労働者・国民の権利擁護と社会変革という、永盛先生が追い求め続けた理想をしっかり受け継いでいきたいと決意している。
 永盛先生、これまで本当にありがとうございました。どうか、安らかにお眠りください。


ナショナルロイヤーズギルドの総会のご案内

大阪支部  井 上 洋 子

 ナショナルロイヤーズギルドは今年二〇一七年が創立八〇周年です。総会が八月二日から六日まで、ワシントンDCのUDC David A, Clarke School of Lawを会場として行われます。国際問題委員会としては、八月三、四、五日の三日間はワシントンDCに滞在して総会に出席することを軸として、あとは自由行動という前提で参加者を募っています。原則としてホテルや飛行機は各自手配ですが、富士国際旅行社へお願いすることも可能です。
 二〇一六年は団で一つの分科会をもちましたが、今年も同じようにできるかどうか、今後、ギルド側と連絡をとって内容を練っていく予定です。交流の持ち方や内容について、団員の皆様もご意見をお寄せ下さい。
 そして、まずは日程の確保を、そして、参加表明をぜひお願いします。

(国際問題委員会より)