<<目次へ 団通信1601号(7月1日)
加藤 健次 | 安倍政権による改憲の暴挙を阻止するために活発な討議を 〜団通信への積極的な投稿を呼びかけます |
鈴木 雅貴 | 二〇一七年七月福島拡大常任幹事会と 「原発事故被災地をめぐり思いに触れるツアー」 |
谷 真介 | デルタ航空整理解雇・雇止め事件 |
中村 和雄 | 求人詐欺事件京都地裁判決をうけて |
馬奈木 厳太郎 | 第二陣が始まりました 〜「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟(第二陣)第一回期日の報告 |
村田 智子 | 性犯罪の罰則改定について、広い視野に立った議論を |
渥美 玲子 | 性犯罪についての刑法改正 |
伊藤 嘉章 | *五月集会特集(4)* 群馬集会一泊旅行 「後世に伝える事実とは」(その二) |
大久保 賢一 | 「核兵器禁止条約」の実現を目指す日弁連シンポの覚書 |
盛岡 暉道 | 横田で行動し、沖縄に行く(4) |
中野 直樹 | 五月の風渡る 春山三山―白山 |
幹事長 加 藤 健 次
安倍首相は、本年五月三日、憲法九条の一項、二項はそのままにして、自衛隊を明記することなどを内容とする明文改憲を二〇二〇年の東京オリンピックに施行することを打ち出しました。
その後、安倍政権は、自らの加計学園疑惑に蓋をするために、参議院の委員会審議を省略してまで共謀罪を強行成立させました。まさに、国民を無視した政治の私物化もここに極まれり、といわなければなりません。直後の世論調査で、内閣支持率が急落したのは当然です。
ところが、国民の批判に対する反省もないまま、自民党はこの秋の臨時国会に憲法改正案を提案し、来年の通常国会で発議、来年末に衆議院選挙と同時に憲法改定の国民投票、という路線を突き進もうとしています。憲法改定についての国民の審判を受けていない、虚構の多数に頼んで九条改憲を強行することには、何らの正当性もありません。しかし、安倍政権が無理を承知で九条改憲を強行しようとしていることに対して、われわれは、総力を挙げて阻止する体制を早急につくらなければなりません。
自衛隊の明記は、単に自衛隊の現状追認にとどまるものではありません。これまでの制約を超えて、九条一項、二項を空文化させ、海外での戦争に道を開く結果になることは必至です。他方で、武力によらない東アジアの平和構築といった課題に正面から答えることが求められています。
ご案内のとおり、団本部では、八月三〇日、三一日の二日間にわたって、渡辺治先生をお招きして、憲法討論合宿を行います。しかし、相手の構えを踏まえれば、合宿から運動を始めるというのでは間に合いません。憲法討論合宿に向けて、様々な準備と討論を始めなければなりません。
この間の常任幹事会では、共謀罪をはじめ、沖縄の新基地建設問題、「働き方改革」に対抗して労働者の権利を守る課題、貧困と格差をなくす課題、原発をなくす課題など、どの課題をとっても、安倍政権打倒を結びつけた運動が必要だということが確認されています。そのためには、市民と野党の共同をさらに大きく発展されることが必要です。
そこで、安倍改憲の動きをどう見るのか、現行の憲法九条を生かすために何が必要なのか、明文改憲阻止で多数派を獲得するために何が求められているのか、安倍政権打倒のためにどのような運動を構築していくのか、という点について、各支部と事務所で活発な議論を開始しましょう。そして、団内での討議を進めるために、団員の皆さんの様々な意見を団通信に投稿することを呼びかけます。
福島支部 鈴 木 雅 貴
原発事故から六年が経過しましたが、原発事故の被害は、終わりを迎えることはなく、今も新たに発生し続けています。最近では、自主避難者への住宅支援が打ち切られました。対象世帯は約一二〇〇〇世帯(三二〇〇〇人)です。避難先での生活再建が困難となり、経済的に困窮する避難者が増大することは目に見えています。
今村前復興担当大臣は、本年四月の記者会見において自主避難者は自己責任であるという認識を示しました。大変な暴論ですが、安倍政権が原発事故被害は終わったものと考えていることを端的に示しています。
安倍首相は、今村復興担当大臣の辞任を受けて、「東日本大震災からの復興は、政権発足以来、安倍内閣の最重要課題であります。そして被災地の皆様の心に寄り添いながら復興に全力を挙げる、これは揺るぎない内閣の基本方針であります。」と記者会見で述べました。被害者の心に寄り添うのであれば、自主避難者への住宅支援を打ち切ることはあり得ませんし、オリンピック招致のために原発事故は大したことがないことにすることもあり得ません。
現在、安倍政権は森友問題、加計問題、共謀罪の強行採決等で支持率を落としています。福島県内では、安倍内閣の支持率は「支持する」が三〇・六%、「支持しない」が五一・七%です。特筆すべきは、三〇代の支持率です。全国だと安倍内閣の支持率は、若い世代が高いようですが、福島県内だと、三〇代の「支持しない」が六四・三%です。
福島県民は、政府が原発事故被害者に寄り添っておらず、被害の切り捨てを行っていること見抜いています。
生業訴訟は、一〇月一〇日に判決を迎えます。全ての原発事故被害者の救済のためには、運動をこれまで以上に盛り上げていくことが大事であり、原告団、弁護団ともに県内外に支援のお願いに回っています。
団の先生方と連携を取り、アドバイスをいただきながら、原発事故被害者救済のための国民的運動を作っていくことができればと考えております。
被災地ツアーは、生業訴訟原告団の協力を得て、実現が可能となりました。一人でも多くの団員の先生方にご参加いただければ幸いです。
最後に、福島支部の団員は、先生方との懇親の機会も大変楽しみにしております。福島県は、全国新酒鑑評会において五年連続金賞受賞数日本一を記録しており、美味しい日本酒は県民の誇りです。懇親会場は、福島市で一番の美味しい日本酒が飲めるお店です。マスターには、福島の日本酒をたくさん振る舞ってくださいとお願いしておきました。
呑兵衛の先生はぜひご参加ください。
大阪支部 谷 真 介
アメリカのアトランタに本社を置く世界有数の航空会社であるデルタ航空が空前の利益を上げながら、国際競争力の向上を図るとして原告を含む客室乗務員(契約社員)五名を解雇したため、地位確認と賃金等の支払いを求めた事案で、本年三月六日、大阪地裁で勝訴しました。なお、東京地裁や福岡地裁でも同様の訴訟が起こされています(福岡地裁の事件では、原告が労働契約法二〇条違反の主張をされていると聞いており、判決が注目されます)。
原告の女性は、二〇〇五年四月に雇用期間を一年とする契約社員(IFSRと呼ばれていた。関西空港を拠点)として当時のノースウエスト航空に採用され(二〇〇八年にデルタ航空と合併)、その後一年間の雇用契約が反復更新され、本件解雇まで約九年間、客室乗務員(契約社員)として就労してきました。
ところが、デルタ航空は、二〇一四年七月、原告が当時乗務していたミクロネシア路線の機内サービスを簡素化(調理を要するホットミールから調理を要しないコールドミールに変更)するため一便につき一名の客室乗務員を減員する、拠点を中部国際空港・関西空港を閉鎖して成田空港のみとする、そのため契約社員を二〇名の希望退職を募集する、と通告しました。最終的に一五名が応募し、継続雇用を希望した者のうち入社日が若い五名(原告を含む)が契約期間途中に解雇されました。
本件の主たる争点は、(1)本件期間途中の解雇は有効か(労契法一七条の「やむを得ない事由」があるか)(2)二〇一五年三月末での雇止めは有効か(労契法一九条に該当するか、雇止めに客観的合理的・社会的通念上相当な理由があるか)でした。そして、大阪地裁は、(1)の解雇も(2)の雇止めも無効として、原告勝訴の判決を言い渡しました。
判決は、争点(1)について、期間満了前に解雇しなければならない「やむを得ない事由」はなかったとして、解雇は無効であるとしました。そして争点(2)については、まず、九年間雇用契約が更新され継続してきたこと、契約書に更新あり得ると明記していること、原告ら契約社員がデルタ航空で継続的な役割を果たしていたこと、これまで大半の契約社員が長期間契約更新されてきたこと等から、原告には契約更新について合理的期待がある(労契法一九条二号)としました。その上で、整理解雇の四要件(要素)を検討し、人員削減の必要性について、会社は多額の収益を上げるなど業績は好調に推移し、二〇一四年には過去最大のプロフィットシェア(賞与の一部)を支払い、米国で過去最大数の新規採用をするなど、人件費を削減しなければ経営状況が悪化するという事情はなく、またサービスの簡素化に伴い人員を削減することに高度の必要性は見出しがたいと判断しました。また、解雇回避努力については、本件雇止めの時点で一五名が希望退職に応じていたことから人件費を維持したまま雇止めを回避することや、他の路線に乗務させることも可能であったとして雇止め回避のための十分な努力をしていないと判断しました。結局、人員削減の必要性は低く、十分な雇止め努力をしていないとして、雇止めを無効と判断したのです。
今回の判決は、期間途中解雇、および雇止めについて、オーソドックスな判断手法で、これらを無効に導いています。デルタ航空が空前の利益を出していたこと、及びサービスの簡素化の必要性、緊急性に乏しかったことから解雇回避努力を尽くすことを厳格に求めた点は評価できます。しかし「人選基準が不合理とは認められない」とか、「手続きについて説明は不十分さはうかがわれるものの相応の手続は実施していた」とわざわざ判示しており、この点は疑問が残ります。今後も、整理解雇の法理の後退を許さない闘いが重要です。
会社は、本件解雇後、残った契約社員を全て正社員に登用しました。一方、本件については、地裁判決を不服として大阪高裁に控訴しました。原告は、控訴審において、解雇されなかった契約社員と同様の条件で正社員として職場復帰することを目指して闘いを続けています。
(弁護団は、鎌田幸夫・谷真介各団員)
京都支部 中 村 和 雄
一 本判決(京都地裁H二九・三・三〇)の概要
三月三〇日に京都地裁でおもしろい労働事件判決をもらいました。事案は、ハローワークにおける求人情報(期限の定めなし、定年制なし)に基づき採用に応募し、面談時にもとくに求人情報と異なる条件が示されず、就労を開始した後に異なる労働条件(期間の定めあり、六五歳定年制)の労働条件通知書が示され、原告はこれに署名押印してしまったというものです。
従来の判決の傾向からすると、署名押印した労働条件通知書の内容が労働契約の内容だとされてしまいそうなのですが、本判決は、労働条件通知書記載の労働条件への変更について労働者の同意があったといえるか否かについて、山梨信用組合事件平成二八年二月一九日最高裁第二小法廷判決を引用し、「この理は、賃金や退職金と同様の重要な労働条件の変更についても妥当する」として、本件における事実関係を検討した上で、労働者の同意の成立を否定しました。
私たちの相談のなかにも、ハローワークにおける求人情報と就労後の労働条件が異なっている事例が多発しています。使用者が故意に求人情報に虚偽の条件を掲載している事例も少なくありません。本判決は求人詐欺事件に取り組んでいる皆さんにも参考になると思います。なお、本事件は、判決後に訴訟外の和解が成立したため、本判決は確定しました。
二 判決の要旨
判決は、本契約の期間の定めの有無、定年制の有無について、以下のとおり判断しました。求人票の性格については、「求職者の雇用契約締結の申込みを誘引するもの」であるとし、これまでの判例・通説と同様の立場です。ただし、「求人票記載の労働条件は当事者間においてこれと異なる別段の合意をするなどの特段の事情のない限り、雇用契約の内容となる」とし、これもこれまでの判例・通説の立場を踏襲しました。その結果、判決は、原被告間に期限の定めがない労働契約が一旦成立したことを認めました。また、定年制については「定年制は、その旨の合意をしない限り労働契約の内容とはならないのであるから、求人票の記載と異なり定年制があることを明確にしないまま採用を通知した以上、定年制のない労働契約が成立したと認めるのが相当」としました。
判決は、同年三月一日の労働条件通知書への原告の署名押印については、山梨信用組合事件最高裁判決を引用し、労働者の同意の有無は「当該行為を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供または説明の内容などに照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてなされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべき」であり、「「この理は賃金や退職金と同様の重要な労働条件の変更についても妥当する」としました。そして判決は、期限の定めの有無は契約の安定性に大きな違いがあることから重要な労働条件であり、定年制の有無は当時六四歳の原告にとっては重要な労働条件であるから、上記の判断が必要であるとしました。判決は本件事案の事実経過を吟味したうえで、労働条件通知書への原告の署名押印行為について、「その自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するとは認められない」とし、労働条件の変更についての原告の同意を否定したのです。
三 本判決の意義
本判決は、山梨信用組合事件最高裁判決の適用範囲が雇用期間の有無や定年制の有無などの労働条件にも及ぶことを示した点で意味があります。同最高裁判決はきわめて意味のある判決であることを再確認できます。
ところで、本事件の使用者は、尋問において、人手不足の中で人材を獲得するために虚偽の求人情報によって多数の応募者を獲得することが必要である旨を証言しています。また、新卒採用において、内定段階での条件と就労時の労働条件が異なっていることの相談も多くあります。。求人情報が単なる「誘因」に過ぎないとの法解釈は実態と適合しているのか検討が必要です。こうした求人詐欺に対しては、法的な規制と適切な法解釈が求められます。各地での団員の皆さんによる同種裁判の判決内容の発展に期待する次第です。
東京支部 馬奈木 厳太郎
一 好天に恵まれた第一回期日
「生業訴訟 口頭弁論始まる」、「国と東電争う姿勢 生業訴訟第二陣口頭弁論」――六月一三日付の各紙には、こうした見出しが並びました。
六月一二日、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟(第二陣)の第一回期日が、福島地方裁判所において開かれました。
この日、原告は訴状を、国と東電はそれぞれ答弁書を陳述しました。答弁書の内容は、第一陣のときと同様のもので、原状回復を求める原告の訴えは不適法であるから却下されるべきものであり、原状回復がなされるまでの間についての慰謝料請求についても認められないとしたうえで、今回のような津波の到来については予見しえなかったとするものです。
期日当日は、爽やかな好天に恵まれ、一五〇名ほどの方が期日行動に参加されました。傍聴席に入りきれなかった方々向けの企画では、「福島第二原発取消訴訟の経験に学ぶ」と題して、当時の原告の方や安田純治団員をパネリストにしたシンポジウムを開催。原発とたたかう意義を再確認する機会となりました。
二 第一陣結審の事実上の「延長戦」
この日の期日は、三月一七日に前橋判決が出されたこともふまえ、第一陣結審の事実上の「延長戦」として位置づけられました。
法廷では二名の原告が意見陳述しました。浪江町で生まれ、原発事故の翌年に結婚、子どもを出産、その後離婚した女性は、「将来、娘の健康に異常が出るのではないか、不安」と涙ながらに語り、「事故前の浪江町に戻してほしい」と訴えました。福島市内で稲作をしている女性は、「今も放射性物質の測定を続けているが、今だに何万ベクレルという高濃度の放射性物質が検出される」とし、「自宅でつくった食物を食べ、花、鳥の声に季節を感じて喜ぶ、生活を取り戻したい」と語りました。
また、原告側代理人も、第一陣の最終弁論と前橋判決をふまえて弁論し、過去の公害と比べても空前の被害をもたらした原発事故は、「国と東電が原発推進政策と経済性を優先し、必要な対策を意図的に先延ばし」したことで引き起こされたもので「万死に値する」と批判。あわせて、被害・損害についても、侵害された生活平穏権を狭くとらえた前橋地裁判決の被害のとらえかたは改められるべきだとし、「責任の重大性をふまえた賠償のあり方を提示することが司法に期待される役割」とし、「歴史に残る判決を期待する」と結びました。
三 第二陣の意義
第二陣は、今年三月に結審した第一陣(本年一〇月一〇日判決)とは別に審理されますが、第一陣と同様、「被害はまだ続いており、被害者は声を上げ続けている」ことを裁判所に伝えるとともに、第一陣判決に向けて裁判所の背中を押す意味あいも込められています。
次回期日は九月六日。第一陣同様、ご支援をお願い申し上げます。
東京支部 村 田 智 子
一 なぜ議論がかみ合わないのか
五月一一日号の守川幸男団員の論考を拝読した。拝読し、議論がかみ合っているようで、実はかみ合っていないのではないかと感じた。
かみ合っていないとはどういうことなのか。
たとえば、私が守川団員の質問に答えた場合、このようになる。
・現在の性犯罪の量刑において、「下限以下の量刑が多い」とまではいえないのではないか(ここは評価の違いがあると思われる)。
・酌量減軽してでも下限以下の量刑を選ぶ場合があることがなぜ不自然なのか。日本の刑法では下限が重いといわれている強盗罪等でも酌量減軽する場合があるではないか。
・他の犯罪との量刑との均衡について。法制審議会に先立って行われた「性犯罪の罰則に関する検討会」において、日本の刑法典はそもそも古く、財産罪が比較的重いという問題もあり、本来なら全面改定も必要ではないかという意見が出ていた。私が前の論考で書いたのは、このような全面的な改定も必要ではないとはいえない、という趣旨に過ぎない。
・いきなりの重罰化の問題については日弁連の意見書にも記載されているが、私は、今回の改正で強姦罪(強制性交罪)に取り込まれた行為類型については従来の強姦罪と同視すべき行為類型であるのであるから、重罰化は当然であると考えている。
・国連の勧告等については、五月二一日号で中野和子団員が詳細に論じておられる通りである。中野団員にはこの場を借りて御礼を申し上げたい。
・性犯罪の加害者対策と教育、被害者に対する支援対策、被害が潜在化しないための対策が重要なのは当然であるが、下限の引き上げの可否とは関係がないのではないか。
以上である。つまり、私の反論は、私が先の論考に書いたこととほとんど同じである。守川団員は、私のこのような反論をご覧になったからといって、納得されるのであろうか。私にはそうは思えない。
そもそも、守川団員は性犯罪の重罰化に反対され、私は賛成している。出発点が大きく違うため、議論がかみ合わないのではないかと思われる。
二 「重罰化は絶対悪」なのか
私も、刑一般について安易な重罰化には反対であるが、今回の性犯罪の重罰化は当然のことであると思っている。これは性暴力・性犯罪被害者支援の経験を通して思うことであり、単なる私的な感想ではないし、感情的な感想でもない。
性暴力・性犯罪の被害者は、被害に遭っている際に、言い知れぬ恐怖心、屈辱感を抱く。被害に遭った後は、世間の無理解や好奇心、蔑視にさらされる。捜査や裁判の過程でも、意地の悪い質問を受けたり、信頼していた周囲の人たちから心無い言葉をかけられてしまうことも多い。被害後の心境について、「体も心もバラバラになるのを、必死の思いでかき集めてなんとか生活している」、「一人になると叫びたくなる」等と表現する方も多く、自殺願望を持つ方も多い。
そのような多くの被害を受けた方々の体験やお気持ちを受け、私は今回の刑法改正に賛成したのである。
守川団員は、死刑廃止の問題も例に挙げながら、千葉県弁護士会の常議員会の審議の際に出た「犯罪被害者に説明できない」という反対意見について「少し冷静に議論してはどうだろうか」と述べておられるが、なぜこの反対意見が冷静さを欠くと判断されるのであろうか。重罰化は絶対悪だと決めつけている意見こそ、冷静さを欠いているのではないだろうか。そもそも、反対意見を「冷静でない」とか、「感情的である」と断定するのは、「女は感情的」と決めつけるのと同じようなことではないか。
三 性犯罪の実態に目を向け、もっと広い視野を持った議論を
既に刑法改正法案は成立したが、もし団内で議論を続けるのであれば、もっと性暴力・性犯罪の被害の実態に目を向けた議論をしていく必要があると思う。
また、性犯罪とは何かという問いは、性行為における「同意」とはなんなのか、どうしたらお互いを尊重し合った性行為ができるのか、という問いに繋がるものである。団内でそこまで議論する必要はないとしても、性犯罪の問題はこのような根源的な問いを含む重要な問題なのだという共通理解は必要である。
単なる重罰化反対ではなく、幅広い視点を持って議論がなされることを期待している。
愛知支部 渥 美 玲 子
二〇一七年六月一六日、刑法一七七条(強姦罪)などの性犯罪に関する刑法改正案が、参議院本会議で全会一致で可決された。
「暴力又は脅迫」があいかわらず構成要件とされている点、また、性交同意年齢が一三歳以上のままにされた点など、今後改正するべきことはいくつもあるが、いずれにしろ「女性の体と心」がせめて「財物」並に評価されたことは良いことだと思う。このような改正の為に忍耐強く運動をしてきた団員に敬意を表したい。
私自身は今回の改正運動になにも寄与してこなかったので、専門的な知識もないが、今後、この改正を受けて弁護士としてどのように活動をするか、考えてみても良いのではないかと思う。
実は、私は新人の頃、強姦罪の弁護を引き受けたことがある。当時、サラ金地獄が社会問題になっており、ある中年男性から破産申請を依頼されていた。ところが、二一歳位になる依頼者の息子が強姦罪で逮捕されたということで、私に弁護人になって欲しいとの依頼があった。私は通常の刑事事件のように逮捕された息子に面会をし、彼に有利な事情を聞きだし、示談書や嘆願書を書いてもらうために被害女性の自宅に行き、頭を下げに行った。不起訴処分を勝ち取ることが刑事弁護にとって重要だと信じていたからである。
自宅訪問は最初から気が進まなかったが、実際にその被害女性とご両親に会ってみて、二度と強姦罪の弁護はしないと決心した。弁護士は依頼者に寄り添うこと、依頼者と共に闘うことが大切だと先輩から指導されていたが、強姦罪だけはどうしてもその若い男性に寄り添うことができなかったからである。
その後も家庭内暴力、セクハラ、ストーカーなどの事件をいくつか手がけたが、男性の女性に対する暴力に共通する理由は、「女性蔑視」「女性の人格否定」である、と確信を持つようになった。
「女なんて少し殴れば大人しくなる」「なにもしなくても、殴るぞ、殺すぞと脅せば、言いなりになる」「いやよ、いやよも『いい』のうち」「セックスなんて減るもんじゃないし、女の方も気持ちがいいんじゃないか」「男に征服されたい、男の物になりたいっていうのも女の願望だろう」「女はどうせ一人じゃ食べていけないから、男に従うよりないよね」「自分の意見をはっきり言う女性は苦手だな。やっぱり奥ゆかしさが女性には大切だね」「結婚するなら専業主婦だね、僕の人生を支えて欲しいと思うのは当然だろ?」などと、冗談半分に、あるいはとても真面目にいう男性も私の回りに何人かいた。
思えば憲法一四条、二四条ができてからもう七〇年以上も経つのに、未だ日本の女性の地位は低く、二〇一六年世界経済フォーラムのジェンダーランキングでは一四四ヶ国中一一一位という情けない状況である。
もし今後、強姦罪、強制性交罪等で加害男性を弁護することになったら(私は弁護人にはならないけど)、是非、聞いて欲しい。「女性に対してどのように思っているのか」と。本当の弁護はそこから始まるのではないか。
東京支部 伊 藤 嘉 章
第二部 読書日記
私だけは、軽井沢駅で新幹線に乗らず、廃止された信越本線の近くを走る道路をバスで横川まで行く。といっても、廃線マニアではありません。横川から信越本線で高崎に出て、そこから湘南新宿ラインに乗って新宿まで戻る。
車内では、五月集会の書籍販売コーナーで購入した本を読むことに熱中した。
一 八法亭みややっこの憲法三部作
著者は、八法亭みややっここと飯田美弥子団員です。よくできました(八法亭みややっこの世界が変わる憲法噺三七頁)。同情ではなく、付き合いで買いましたが、ちゃんと読んでいるのです。
特攻隊が片道燃料だけ積んで飛び立つ戦局の頃の山口誓子の
「海に出て 木枯らし 帰るところなし」が載っている(八法亭みややっこの憲法噺三七頁)。
古今和歌集の「仮名序」の冒頭部分を思い起こす。
靖国神社の遊就館に行ってみて、胸が詰まったのは、花嫁人形を見たときであったという(同書四〇頁)。私も見たが、同感でした。鹿児島県の知覧特攻平和会館には、そのようなものはなかったと思う。
二 高瀬豊二著「異郷に散った若い命」
(官営富岡製糸所工女の墓)
工女の就業時間は午前七時から午後四時半帰宿の実働八時間制になっていた(六六頁)。これは、私の推測ですが、当時は電灯がなく、大きなガラス窓からの採光がなくなると、工場内でも暗くて作業ができなくなるからではないか。
奉公人の休みは年二回の藪入りしかなかった時代に、富岡製糸場では、天長節ならびに七節、そして日曜日が休みであった(六五頁)。また、製糸場の敷地内に工女の病院が明治六年四月に建てられた(六六頁)。当時としては、画期的な処遇である。
募集要項では、工女の年齢は一五歳から三〇歳であった(六五頁)。しかし、実際には、一五歳未満の工女も多数いた(八七頁)。また明治二五年までに五六人の工女が亡くなっている(八四頁)。過去帳によると最年少の死亡者の死亡年齢は九歳一〇月という(八五頁)。まさに日本資本主義の人柱であった(九一頁)。
三 内藤真治著「歴史の現場から」
著者は、日本史の高校教師であった。
「歴史とは時空を超えた事柄を対象にしている。タイムスリップという言葉はあっても、現実に時間をさかのぼることは不可能だ。ならばせめて『現場』に立てば、よりイメージがふくらむのではないか。」という(三頁)。
そこで、栗生楽泉園に復元された重監房の中に入る。独房ともいうべき個室に入るまでに四重になっている扉のそれぞれの南京錠を開けなければならない。小さな窓と配給口しかない薄暗い独房に入ると、五月だが、うすら寒い冬の感触であった。一日二回、麦飯の日の丸弁当と薄い汁の椀が、ハンセン病患者の当番によって配給される。冬でもせんべい布団二枚だけ。独房の中で死亡した場合、冬は遺体を包む毛布が床に凍り付いてしまう。まず、毛布を床から剥がすのだが、気温が上昇する午後でないとこの作業はできない。この作業もハンセン病患者がおこなう。
われわれは、二組に分かれて独房に入ってみる。学芸員が「当時の昼の暗さを体感してください。」と言って、扉を閉め電気を消してしまった。私のグループは電気を消されなかった。
四 「安中」
(大地のいのちをいつくしんできた人びと・・・安中の農民、五〇年の証言)
一泊旅行中に、安中公害の報告書「安中」を弁護団員から購入しました。販売のため複数冊を持参された団員の帰りの荷物を軽くするのに貢献しただけではありません。ちゃんと読んでいます。
工場前の説明を記載した文章で引用した数字はこの本からの引用です。また、同書の一五八頁に「原告団と弁護団の分裂を画する裁判官」の表題のもとに、訴訟救助に関して、裁判官が代理人がいるにもかかわらず、原告らに直接疎明資料の提出を促す手紙を出したという。その文面には「農地を売却するか、担保に入れて訴訟費用を捻出できるか」との記載があったという。一五四頁以下には、原告側に対しての敵対的な態度に終始する裁判官への不信が募り、第四回口頭弁論期日に三名の裁判官の忌避申立をしたとの記載がある。申立は却下されたが、却下理由の中で「裁判官の公正に対する不信感が単に裁判官の性格、能力、思想傾向などの一般的資質に発する言動、態度に由来するものならば、内容によっては、その裁判官に対する弾劾の問題が生じることがあり得る」と指摘している。本当にこんなことが却下理由中に書いてあったんですか。弁護団は、損害賠償の要件事実、特にカドミウム汚染の因果関係を立証するために被告企業と闘う前に、原告・原告弁護団に偏見、悪意を抱く裁判官との戦いを強いられたことがわかる。
五 纐纈厚著「暴走する自衛隊」(ちくま新書)
共謀罪分科会で講演された纐纈先生のこの本も購入しました。本の内容が、今回の一泊旅行の見学先とは直接関係ないので、読書日記からは割愛します。纐纈とは、なんと難しい苗字かと思いましたが、よく見ると絞結の右側にそれぞれ頁があるだけではないですか。もう、何も見ないで書けます。
第三 お礼と期待
今回の一泊旅行は、大変内容の充実したものになりました。普段勉強していないテーマについてたくさん勉強することができました。企画された群馬支部の団員の皆さん、そして、現地でお世話いただいた富士国際旅行社の担当者のみなさん、本当にありがとうございました。
そして、秋の総会後の一泊旅行は、伊勢地方とのこと、別の観点から伊勢神宮に行きたいと思います。また、あわせて伊勢うどんの賞味も期待しています。よろしくお願いいたします。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
六月六日、「核兵器禁止条約」の実現を目指すシンポが、弁護士会館(霞が関)で開催された。約九〇名の来場者と全国七か所での中継も合わせると、一〇〇人を超える参加者ということになる。
当日、日弁連は「核兵器禁止条約」の早期実現を求める会長声明を発出した。声明は、一九五〇年に「地上から戦争の害悪を根絶し、平和な世界を実現する」と宣言して以降、核兵器廃絶や被爆者支援を提唱してきたことに触れながら、提案されている草案に賛意を示し、条約の早期実現に向けての努力を誓い、日本政府に対しても参加を求めている。
登壇者は、核軍縮不拡散議員連盟(PNND)の国会議員二人(鈴木馨祐自民党衆議院議員・笠井亮共産党衆議院議員)、外務省軍備管理軍縮課長、国連会議でもスピーチした被爆者の藤森俊希さん(日本被団協)、国際法学者の山田寿則さん(明治大学)、原水協、ピースボート、ピースデポ、創価学会、世界宗教者平和会議など五つのNGOの皆さんである。
この内、PNNDの事務局長であり自民党青年局長でもある鈴木議員と外務省の課長は、条約に反対するとのスピーチを行った。その理由は、日本を取り巻く安全保障環境からすると米国の拡大核抑止力は必要であるということと、この条約は核兵器国と非核兵器国の溝を深めることになり、逆に「核兵器のない世界」を遠ざけてしまう、ということである。政府も「核兵器のない世界」を求めている。核兵器の非人道性は承知している。けれども、安全保障環境と核兵器国の同意が必要ということを考えると賛成できないというのである。
外務省の担当課長はこのシンポが条約の実現を求めるものであることは承知しながら参加していた。だから、彼はスピーチの冒頭「いろいろな意見を戦わせることが強靭な民主主義の形成につながる」としていたのである。
藤森さんは、自らの被爆体験に触れながら、「禁止条約が実現することなど、一年前には想像もできなかった」と感慨深く話していた。確かに、今展開されている「ヒバクシャ国際署名」は「核兵器禁止条約」の制定を求めるもではない。けれども、被爆者のこれまでの「核と人類は共存できない」というスローガンと運動が「核兵器禁止条約」実現の大きな原動力になっていることは、条約草案の中で、ヒバクシャの運動に対する敬意と期待が盛り込まれていることからしても明らかであろう。
山田さんは、条約草案の基本構造や前文、各条文などの内容などについてコメントした。核兵器使用の違法性を基礎とした禁止規定が設けられていること、核兵器廃絶におけるヒバクシャの努力の評価とヒバクシャ救済について言及があること、核兵器の「あらゆる場合の不使用」の約束を出発点に核保有国の条約参加にも道が開かれていることなどについての分析が興味深かった
各NGOからのリレートークも興味深いものであった。これらのNGOは、いずれも、核兵器廃絶NGO連絡会の構成メンバーであり、国連会議にも参加しているところである。それぞれ、思想背景や行動様式は異なるところであるが、「核兵器のない世界」の実現を目標として、ネットワークを形成しているのである。
ところで日弁連の司会者の一人が、打ち上げの席上で、創価学会の報告者に対して、「公明党は政府与党ですよね。政府は核兵器禁止条約に反対しているじゃないですか。どうなっているんですか」とストレートに聞いていた。私は、創価学会の報告者に代わって「学会と党は違うんだよ」応えておいたけれど、「核のない世界」の実現という共通の目標の下で、政治的立場やアプローチの違いをどこまで認め合い、共同できるのかというのは悩ましい問題だと改めて感じたものであった。
今、国際社会は、「核兵器のない世界」に向けて、大きな一歩を踏み出している。「核兵器のない世界」の実現は、安全保障政策の在り方にとどまらず、人類社会の未来にとっての根源的課題である。私たちは、地雷原で酒盛りをしているような状況を一日も早く解消しなければならないのである。
その運動にとって、「核兵器のない世界」を求めると言いながら「核兵器禁止条約」に反対する政府や与党との対話は、民主主義を強化するプロセスとして必要なものなのか、それとも無駄な時間を費やしているだけなのか、それは評価が分かれるかもしれない。
私は、彼らが「核兵器のない世界」を言い、核兵器使用の非人道性を認めていることに着目して、公開の場での議論を続けていくことは必要であると考えている。政府の政策を変更させるためには、国民の理解と批判が不可欠であり、それはオープンの場で形成されることになると思うからである。
(二〇一七年六月一一日記)
東京支部 盛 岡 暉 道
(続き)
午前一〇時直前、沖縄県警と本土の機動隊たちが私たちのピケラインに向かっていると見張りの人から連絡があり、成る程、私たちを優に上まわる五〇人以上の県警・機動隊たちがやってきた。
彼らの指揮者がハンドマイクで「その座り込みは道交法違反の違法行為です。直ちに中止しなさい」とくりかえしはじめ、これに対して道路の反対側にいるこちらの指揮役の人が、ハンドマイクで「君たちこそ違法工事は止めなさい」とやりかえし、激しいマイク合戦になったが、やがて警官たちは私たち一人に対し三人がかりでスクラムの引きはがしはじめた。現地の人もツアーの私たちも大声で「暴力はやめろ。暴力はやめろ」と抗議した。
機動隊の指揮者の「あわてないで。あわてないで。」という慇懃無礼なの指示のもとに、彼らは、流石に強い力で私たちの腕や足を引っ張りだした。こちらは憤慨して、夢中になって力一杯腕にを込めていると右隣のおじさんが「放して。放して。」と注意してくれたので、私は気がついて力をゆるめて、警備員三人に腕と胴を抱えられて、ピケの外に送り出されてしまった。
しかし、右隣のおじさんは大声で「暴力はやめろ。」と叫んであ足で彼らを蹴って抵抗を続けたので、四人がかりで脚と胴を引っ張られて乱暴にピケから運び出されたが、その間中も「暴力はやめろ」と叫び続けていた。私の三人ほど左にいた日野の八二歳の女性は「違法はやめなさい」と気丈に抵抗していたが、これも四人がかりで腕と胴を抱えられて引っ張り出された。私はこの時、初めて気がついたが、彼女は右脚が湾曲しており歩くのに不自由そうな体なのに、そんなことはまったく気にしないで、元気にピケに入っていたのだった。
ゲートの正面のピケは、排除された私たちのあとにも、更に、現地の人たちで作っている二、三列があり、これには機動隊たちは遠慮なく力づくで襲いかかり、ピケからやハンドマイクの「暴力はやめろ」と激しい抗議の怒号が飛び交った。
抵抗は二〇分ほどで終わりになり、待ち受けていたダンプやクレーン車二〇台ばかりゲート内に入っていった。
これで、午前中の車両侵入は完了し、次は一二時三〇分頃に出てくるダンプたちを出させないピケを張ることになるらしい。
現地の指揮役の人が「みなさん、ご苦労さんでした。約二〇分相手の工事着手を遅らせました。これは小さなことのように思うかもしれませんが、私たちは決して違法工事を認めないという意識を示す重要な行動です」と説明し、次いで、海上ピケをやってる人が「防衛省側は、いかにも着々と工事を進行させているような印象を与えているけれども、本当に工事を完了させる見透しは持ってない。沖縄県側には、まだ何重にも工事の許可権限があり、彼らにはそれを無視して工事を進行できる法的手段がない。」と詳しく説明してくれた。
私たちは、ああ成る程と、この抵抗行動の意味をよく理解することができた。
一二時半までには一時間以上間があるので、こちらから活動報告を続けたりしたが、府中の会副会長の新原さんが私に「横田の報告もしますか」と云ってくれたので、私は、「オスプレイ横田配備のアンケート回収で、わが家の近所のおじさんが『横田が日本を守ってくれてんだから、オスプレイぐらい当たり前だろう』と云ってた。こういう人もいる」と話すと現地の人から「やっぱりな」という声が返ってきた。
私は、闘っている人は、住民の実際の意識について、ちゃんとリアルな認識を持っていると感心した。
一二時過ぎに、私たちは、ゲートの向かい側の現地の闘争本部テントで、弁当を食べて、この工事に対する闘争の現状の説明を受け、また激励の寄せ書とカンパを渡して、引き揚げた。
ツアー三、四日目の沖縄の史跡と戦跡巡りでは、「カリスマスーパーバスガイド」(とネットに出てました)崎原真弓さんの名調子の案内で沢山の琉球王国の史跡を見てまわった。今帰仁(なきじん)城趾では、三世代ぐるみと思われる一〇人ばかりの沖縄の人たちが、沖縄線香を焚きながら拝所に供え物をしている珍しい場面に出会ってラッキーだった。
沖縄では、信仰は女性が司り、政治・経済は男性と分けられていたことも興味深く、「万国津梁」の平和交易を目指していた琉球王国の智慧に感心する。それだけに、我々の先祖の江戸幕府・明治政府が犯した「琉球処分」の罪は大きい。首里城なども戦争の拠点ではなく平和外交の迎賓館であったのだから、琉球に学ぶべきことは実に多いと思う。
また、南部戦跡では、ガイドの崎原真弓さんが、奇跡的に生き残ったひめゆり部隊の女学生の体験談を、生々しく再現してくれて、聞いていて涙を抑えることができない思いをした。四日目に桃井さんに案内してもらった「ひめゆり平和祈念資料館」も必見すべきものであった。
そして、沖縄県民の戦後の戦いを教えてくれる「不屈館」見学は、実に貴重な体験だった。
あの痩身をまっすぐに立てた「亀さん」瀬長亀次郎とともに無法の限りを尽くすアメリカ占領軍に対峙して闘った沖縄の人々の土地取り上げ反対、祖国復帰運動、労働三権の保障の闘いなどなどの運動がいかに壮大で英雄的であったかも知ることができた。
同館で求めた瀬長亀次郎著「民族の怒り」(新日本出版)を、私は那覇空港のロビーでも、羽田への機内でも、羽田から昭島までの車内でも、読み続けた。
この「沖縄平和ツアー」は、本当に感銘深い旅であった。
「沖縄県民と連帯する府中の会」の人々には、心から感謝している。
以上
神奈川支部 中 野 直 樹
二〇一七年春は高山に残雪が多い。天候が安定した五月は例年になく春雪山を楽しんだ。
ふるさとの山
私の実家は石川県・白山麓にある。車で一時間ほどで、白峰・市ノ瀬の登山口に着く。毎年、八月半ばの帰省のとき、ほぼ欠かさず日帰り登山をしてくる。今年の連休中、実家から遠望する白山は真っ白だった。これまでこの時期に登ったことはなかったが、その白さに惹かれ、山スキーで挑戦することを決めた。白山は五月一日が山開きで室堂の除雪が始まったことが報道されていた。今年、白山は、西暦七一七年八月に泰澄大師という仏僧が開山して一三〇〇年の記念の年だそうだ。記録があるのか、伝承なのか不明だが、仏僧が地図もなき、道なきところを藪こぎしながら登り詰めることは現代の便利な道具に恵まれた私たちには想像を超える冒険だ。
山スキー
六時過ぎ、市ノ瀬の駐車場に着いた。三〇台以上の車が止まっていた。標高八二〇m、芽吹き前だった。夏山登山ではここからさらに車で一二四五mの別当出合まで上るが、この時期、車道はゲートが閉じられていた。ここでザック内にアイゼン、山スキー靴、ヘルメットを入れ、ザックの両サイドにスキー板を取付け、先端部をバンドで止め逆さV字のような状態で背負った。さすがに重い。まずは別当出合までの標高差四〇〇mのいろは坂のような車道を歩み始めた。アスファルト道のてくてく歩きの退屈さに一時間一〇分つき合うと別当出合の建物が見えてきた。道端にマウンテンバイクが一〇台近く係留してあった。これなら帰りは特急である。
八時、別当出合から夏の砂防新道の吊り橋を渡る。高所が苦手な方は登山前に酔ってしまうほどの高度感がある。積雪期は羽目板を外してあり、まずはワイヤー渡りの恐怖とのたたかいとなるそうだが、山開きの今は幸い金属板が収まっていた。二〇分ほど登ると登山道が雪に埋もれ、登山者はアイゼンを着け始めた。私は、スキー靴に履き替え、スキー板の裏に滑り止めのシールを貼った。山スキーの専用道具はゲレンデ用と似て非なるところがある。ゲレンデ用のブーツは足首が動かないようにがっちりと固める。山スキー靴は足首が動く構造となっている。山スキー板はアルペン板と同じくカービング板だが、薄く、軽い。取り付けられたビンディングは、滑走のときは靴を固定するが、歩行のときにはかがとが浮き上がるように解放する。そして、斜度に応じて重心が雪の斜面に垂直に近く向かうように、かがとの下の高さが五段に調整できるようになっている。
雪山の醍醐味
木立の中の雪面にシールを食い込ませながら、直登し始めた。板が軽いとはいえ、融けた表面の粗目雪が板に被り、動かすのに重量感がある。アイゼン登りの方がずっと楽そうだ。胸をつくような急勾配のところはさすがに直登は無理で、斜めに斜面を切りながら板を押し上げるが、気温が高くなるにつれ融けた雪がずるずると滑り、一歩進んで半歩後退することの繰り返しとなった。
夏山登山の水場となっている標高二〇〇〇m近い甚之助避難小屋はまだ完全に雪下であった。夏山時よりも一時間以上オーバーしていた。ここから上部は弥陀ヶ原に向かう急斜面が雪原となり、右手に見える別山に続く稜線も豊富な雪に纏われ、冬山の様相であった。さらに一時間半、夏のエコーラインの斜面にあえぎ、弥陀ヶ原から見える、紺碧の空をバックとする山頂の大展望に感嘆しながら、そして最後の急斜面を踏ん張り、一二時半に標高二四五〇mの室堂に着いた。室堂の建物はまだ屋根しか出ていないほどの積雪で、重機による除雪作業が行われていた。この日はぽかぽか陽気で、防寒具は不要だった。
昼食を済ませて、スキー板を山頂に向けた。山頂は岩が露出していたが、その直下まで板を付けていけそうだ。一四時、岩場に出て、板を外し、御影石に「霊峰白山 御前峰 二七〇二m」と記された標注に抱きついた。これまで数え切れないほど抱きついているが、新鮮味があった。なお噴煙を上げている御嶽山が間近く見え、剣・立山、北アルプスが望めた。この風景を写真に納め、四月に毎週のように雪山写真を送りつけ過度な刺激をしてくる京都の浅野さんにライン送信した。ささやかなお返しである。
滑走
山頂直下からの雪原滑りだ。これまで私は山スキーの経験が少なく、山頂からの滑りは埼玉の南雲さんに連れられた鳥海山、乗鞍岳、立山、単独の御嶽山に限られる。立山はその斜度と雪の固さに恐れをなし頂上からは断念し、乗越から黒部湖までの滑走となった。私は春山スキーの経験しかないが、やはりスキー滑りはゲレンデの方がよい。残雪の表面は雨水筋ができて波打っており快適でないし、板が軽くて跳ねあがり、ゲレンデのように雪面に吸い付くような感触を味わえない。
融けた雪の重さに難儀しながらではあるが、さすが滑走による帰りは早い。五時間かけて登ったところを一時間ほどで下った。
そして別当出合からまた重い荷を背負って市ノ瀬までの下りとなった。不思議なことに、懸命に歩いたつもりだが、登りと同じ一時間一〇分かかった。(続く)