<<目次へ 団通信1607号(9月1日)
加藤 健次 | ※二〇一七年 三重・鳥羽総会 特集 三重・鳥羽でお会いしましょう |
石坂 俊雄 | 二〇一七年三重・鳥羽総会のお誘い |
渡辺 伸二 | 半日旅行・一泊旅行へのお誘い |
村田 雄介 | *三重・鳥羽総会に集まろう!・三重特集・その二* 「三重の観光案内」 |
西 晃 | 八・一二沖縄県民大会に参加して |
大久保 賢一 | 地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聞く(石川啄木) |
荒井 新二 | 書評「あのとき裁判所は?」 ―宮本元裁判官 再任拒否事件を語る |
幹事長 加 藤 健 次
今年の総会は、一〇月二二日から二三日(プレ企画二一日)、三重県鳥羽で行います。
安倍首相は、今年の五月三日、憲法九条はそのままにして自衛隊を明記するという改憲案を提起しました。通常国会での共謀罪の強行成立、森友・加計疑惑のもみ消しに対して国民の批判が一気に強まりました。しかし、安倍首相は九条改憲の路線を変えず、自民党内では改憲案のとりまとめが進められています。九条改憲を阻止する共同の運動を広げていくことは、最大の課題です。
経済と生活の面でも、安倍政権と国民の矛盾は鮮明になっています。今秋の臨時国会では、安倍政権の「働き方改革」に対して、労働者の要求に沿った改革を進めていくのかどうかが、大きな対決点となります。
安倍政権が原発再稼働に固執する中、福島第一原発事故による被害救済を求める訴訟が山場を迎えています。総会の前に、千葉(九月二二日)、福島(生業訴訟、一〇月一〇日)で判決が言い渡される予定です。
このほかにも、教育問題、貧困と社会保障の問題、市民の権利に関わる問題など、課題が目白押しです。どの分野でも、安倍政権を打倒し、これに変わる政治を切り開く野党と市民の共同を発展させていくことが求められています。
この間の全国の活動の経験を交流するとともに、私たちの力で新しい時代を切り開いていく展望を語り合う総会にしましょう。
プレ企画と総会後の半日、一日旅行をはじめ、地元三重支部は精力的に総会の準備をされています。ぜひ、全国から積極的にご参加ください。
三重支部 石 坂 俊 雄(三重支部支部長)
一〇月の総会は三重県鳥羽市で開催されます。支部団員一同、万全の準備をして皆様のお越しをお待ちしております。
鳥羽市は、志摩半島に位置し、市域全体が伊勢志摩国立公園に指定されております。鳥羽港は古くから天然の良港として知られ、一六世紀後半以降、九鬼水軍の本拠地として栄えました。
会場の鳥羽シーサイドホテルは、鳥羽湾が一望できる立地にあり、ホテル内から、鳥羽湾の答志島、菅島、坂手島、神島を見ることができます。
近くには、ミキモト真珠島、飼育種類が日本一の鳥羽水族館、人間と海の関わりに関する資料を展示している海の博物館等の見どころもあります。
総会においては、憲法問題をはじめとして多くの重要課題が論議されることとでしょうが、会場のホテルには、大小多数の浴室がありますので、ごゆっくりと温泉に入り、鋭気を養っていただければと思います。
プレ企画は、中部電力の原発建設を阻止するために数十年にわたって戦い原発を作らせなかった旧南島町(現南伊勢町)の当時の女性リーダーと町会議員の二人に映像を含めて、お話を伺うシンポを予定しております。いかにして原発建設を阻止しえたのか、興味あるお話を伝えることができると考えて準備をしております。
鳥羽、志摩は伊勢エビ、アワビをはじめとして海の幸の宝庫であり、食事も美味しく、サミットに出された地酒も用意しておりますので楽しみにしてください。
また、伊勢への半日旅行、伊勢から四日市への一泊旅行も企画しておりますので、ご参加をお願いします。
私たちは、鳥羽総会に全国の多くの団員、事務局員及び家族の皆様のお越しをお待ちしておりますので、万障お繰り合わせの上、多数参加されますようお誘いいたします。
三重支部 渡 辺 伸 二
一 概要
半日旅行・一泊旅行の一日目は、伊勢神宮内宮を見学し、内宮の門前町の「おはらい町」・「おかげ横丁」の散策を楽しんでいただきます。一泊旅行の皆様の宿泊は、日本三名泉の一つ「榊原温泉」、二日目は、四日市公害判決四五周年を迎えた四日市公害の現状等について視察していただきます。
二 伊勢神宮見学の位置づけ
三重支部では、旅行先をどこにするかで議論しました。総会会場の直ぐ近くに年間八〇〇万人を超え、二〇一五年の遷宮の年には一四二〇万人ともいわれる参拝者が集う伊勢神宮を見学してみたいという団員は多くみえるのではないかという問題意識がある反面、天皇家の祖先神を祀る伊勢神宮は団の旅行先としては相応しくないという意見との相克でした。その後、今年の五月集会の参加者の方からも意見を聞いた上、「民衆から見た伊勢神宮の変化」を切り口にすれば団総会の記念旅行として意味あるものになるのではないかという思いで挙行することになった次第です。
三 伊勢神宮と民衆との関係(ここは「である」調)
古代は、庶民が神宮をお参りすることは禁じられていた。中世は、天皇制権力が衰退し豪族や武士が力を持った時期で、神宮は社領などの寄進と引き換えに豪族らの戦勝祈願の場となった。近世は、社会に戦が無くなり平和になったことで戦勝祈願はなくなり、庶民の家内安全や所願の成就などの現世的利益を祈願する場として数多くの参拝者を迎えることになった。
伊勢神宮は、古代は、天皇家一族の私的な「祖先神」というより公的な「国家神」として遇されていたが、古代国家の衰退により中世・近世には武士や庶民にとって何事かを祈願し参拝・奉幣を許される国民的な総氏神のような「国民神」へと次第に性格を変えてきたのである。
その後、明治政府は法令によって伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ本宗(総本山)とする国家神道を定め、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務付けた。政府は、神道の国家管理のため、一方で、神祇官(神社行政を司った古代の官庁)を復興させ、他方で、「お伊勢参り」を全国的に広めた立役者であった御師(「オンシ」、下級神職で全国を歩き、現代の旅行社のように庶民と神宮をと結びつけた最大の功労者であった)制度を廃止してしまった。
この様な変化の歴史とともに伊勢神宮に関しては次のとおり解明してみたい疑問点が多くある。例えば、天皇家の祖先神がなぜ伊勢の地に祀られることになったのか、天皇家の祖先神が祀られているにもかかわらず天皇自身の神宮参詣は明治天皇まで無かったのはなぜか、近世の「おかげまいり」と呼ばれる突発的集団参宮がなぜ起こったのか、祖先神・国家神から国民神への変化の要因は何か、等々。
四 お伊勢さん「観光案内人」
神宮見学の際には「お伊勢さん観光案内人」の方の説明をお願いしています。この案内は、無料の案内人と有料の案内人(検定上級編合格者)の二つがあり、事前の申し込みにより、見学者一人でも案内してくれます。当日は、難しい質問が出ることも予想して有料の案内人をお願いしてあります。
五 「伊勢うどん」と「てこね寿し」の昼食
伊勢神宮見学の前に昼食をとります。「伊勢うどん」は、真っ黒のタレと極太の麺と薬味のネギ。見た目には普段見慣れたうどんとは全く異なる姿に「これ美味しいの?」と疑問が湧く方も多くみえると思います。しかし、一口食べれば、ふんわり、もちもちとした食感とまろやかな味わいに舌鼓を打っていただけるはずです。コシの強い麺がもてはやされる時代でも伊勢うどんは変わらない。この麺の軟らかさの理由には、客を待たすことなく素早く提供できるよう大窯で引っ切り無しに麺を茹でていたからという説と、長旅で疲れた参詣者の身体を気遣って消化をよくしたという説の二説があります。柔らかで旨みと甘みが口いっぱいに広がる伊勢うどんをご賞味ください。
また、「てこね寿し」は、漁師が釣った鰹の切り身と酢飯を手で混ぜて食べていたのが始まりとされる郷土料理です。
六 榊原温泉での宿泊
温泉に関する「日本三名泉」は、根拠・起源により様々な温泉が挙げられます。榊原温泉は、平安時代に清少納言が「枕草子」にて「湯は『ななくりの湯』、『有馬の湯』、『玉造の湯』」と謳っており、この「ななくりの湯」は当時の呼び名であり榊原温泉を指しています(枕草子・三大名泉)。
榊原の湯は無色透明で、風呂上がりに肌がつるつるスベスベになる事から「美肌の湯」として知られています。また、泉質は五月集会の草津温泉の強酸性とは対照的な「アルカリ性単純泉」で、効能は、慢性関節リュウマチ、皮膚病、婦人病、糖尿病、神経痛、疲労回復などに良いとされています。ゆっくり浸かって、皆様の日頃の疲れを癒していただくには最適です。
七 四日市公害の現地と記念館
二日目は、県北西部に位置する四日市へ向かいます。一九七二年七月二四日に言い渡された四日市公害判決は、今年で四五周年となります。四大公害訴訟の中では、汚染源が大気であること、複数(被告六社)であること、そして、汚染を原因とする(喘息性)疾患がいわゆる「非特異性疾患」であるという困難を抱えながら勝訴した画期的なものでした。
原告ら九名の居住地である四日市磯津地区から直ぐ隣のコンビナート工場を見分し、その後、「四日市公害と環境未来館」(市営)を見学していただきます。同館には、四日市公害を語り継ぐ、時代の証人ともいうべき「語り部」の方と市民ボラティアの「解説員」の方がみえます。館内全体の説明は解説員の方にお願いし、最後に、当時の塩浜小学校イメージして作られた研修室で、元原告で、ただ一人ご存命の野田之一(ゆきかず)さん(八五才)からお話を伺い、質疑を行うことを予定しています。
八 トンテキと垂坂展望台と東芝メモリー四日市工場
四日市での昼食は、B級グルメの「四日市とんてき」を食べていただきます。四日市トンテキの要件は、「分厚い豚肉」を「にんにくと一緒に濃い目のたれでソテー」し、たっぷりの「キャベツの千切り」をそえた料理です。もちろん、ニンニクが苦手な方はニンニク無しをご用意いたします。
昼食後、垂坂展望台から四日市の第一〜第三コンビナートを一望していただきます。
これで終了では少し味気ない。今話題の地を見ていただきます。帰路の東名阪自動車道の「四日市東インター」へ向かう途中に、今話題の半導体工場(東芝メモリー四日市工場)を車内から見ていただだけます。目下、増設・増設のため建築途中(現在)の巨大な工場群が見られます。
以上で一泊旅行は予定完了となります。
九 最後に江戸時代から唄われている伊勢音頭の一説をご紹介して、皆様の「一生に一度(?)」のご参加を期待いたします。
「伊勢に行きたい伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも、わしが国さはお伊勢に遠い、お伊勢恋しや参りたや」
三重支部 村 田 雄 介
三重県はテーマパーク・遊園地だけでも県内に四つある観光産業が盛んな県です。そこで、会場である鳥羽近郊を中心に観光スポットを紹介したいと思います。
(1) 鳥羽水族館
今回の会場の最寄り駅となっている近鉄鳥羽駅から徒歩一〇分の水族館です。
国内最大の展示生物数(約一二〇〇種)を誇り、何よりも、世界でトップ一〇に入る巨大屋内水槽は圧巻です。世界最大の海、太平洋を模した深さ九m、最大長三四m、水量五四〇〇〇トンという壮大なスケールの水槽はどれだけみても飽きることはありません。
(2) ミキモト真珠島
近鉄鳥羽駅から徒歩一〇分、駐車場あり。
真珠の養殖、加工、販売を手掛けるミキモトの養殖真珠誕生の地で、海女作業の実演や真珠博物館(養殖過程等の展示・真珠宝飾品・美術工芸品の展示)、真珠製品の販売等があります。
真珠の養殖をするようになった経緯等とても興味深いものが多く、十二分に楽しめる施設です。
(3) 伊勢神宮・おかげ横丁・おはらい町
近鉄鳥羽駅から三〇分ほど名古屋の方に戻った近鉄宇治山田駅が最寄りとなります。駅からは、タクシーまたはバスで約一〇分です。駐車場もあります。今回、オプション旅行にも組み込まれる予定です。
伊勢神宮の横に併設されているおかげ横丁・おはらい町では伊勢の郷土料理である伊勢うどん、てこね寿司を食べることができます。その他にも和牛専門店である「豚捨」が店頭で販売しているコロッケも絶品です。
(4) 二見シーパラダイス(伊勢シーパラダイス)・夫婦岩(二見輿 玉神社)
二見シーパラダイスは、志摩と伊勢の間にある旧二見町にある水族館です。夫婦岩では天気が良いと海から突き出る夫婦岩の奥に富士山が見えます。カメラマン必見のスポットとなっていますが、最近はパワースポットとしても注目を浴びています。
(5) 熊野古道
世界遺産にも登録された最近の人気スポットです。
熊野古道のイメージとなっている石畳の階段があるのが馬越(まごせ)峠コースです。
馬越峠コースは、道の駅・海山(みやま)に車をとめて、少し先にある山道入口から入ります。ヒノキ林の中、苔むした石畳を上り、山間からの風景の望みながら峠を上り、尾鷲湾を一望しつつ、沢にそって下りてくるコースになりますが、約二時間で降りられます。降り口付近には銭湯がありますので、そこで汗を流してから、JR尾鷲駅でタクシーを拾って、道の駅海山に戻るというコースになります。
道の駅・海山までは、鳥羽→伊勢IC→紀勢大内山IC→(国道四二)→道の駅・海山のルートで約二時間です。
(6) 和田金
近鉄松阪駅下車、徒歩八分、タクシー五分のところにある松阪牛すき焼きのお店です。近鉄松阪駅までは近鉄鳥羽駅から名古屋方面に特急で約三〇分です。駐車場もあります。
県内でもっとも有名な松阪牛すき焼きを提供してくれるお店です。味に間違いはありませんが、ほぼ完全個室であること、フルサービスであること等の理由により多少お値段がはります。
松阪牛すき焼きではこのお店が有名ですが、すぐ近くに多少お安く食べられる牛銀というお店もあり、こちらもおすすめです。
(7) その他
他にも、御在所岳(温泉)、赤目四十八滝(ハイキング、オオサンショウウオ)、長島スパーランド(遊園地・アウトレットモール併設)等もありますので、宜しければ是非お立ち寄り下さい。
大阪支部 西 晃
八月一二日午後二時開始。炎天下の中、翁長知事を支え辺野古に新基地を造らせない八・一二県民大会に、大阪から参加しました。会場で自由法曹団の旗が見えたので近寄ってみると、阿波根さん、新垣勉さん、そして仲山さん、伊志嶺さんのお顔も・・・九五年少女暴行事件の時にも大変お世話になった懐かしい方々とも久しぶりにお会いすることができました。
参加者総数は四万五千人で大成功しました。
ご承知の通り、現在国と沖縄県は岩礁破砕許可申請の法的必要性を巡り法廷闘争に入っておりますが、私なりに今後の辺野古新基地建設阻止闘争勝利のために重要だと思う点を中心に報告します。
(地元首長を支えることの重要性―名護市長選勝利へ)
今回参加してみて一番実感したこと、それは日本国憲法のもとでの地方自治の本旨を再確認したことです。一つは名護市長稲嶺進さんのこと。
基地建設の地元名護市の稲嶺市長が建設絶対阻止で頑張っている以上、工事はその主要な部分で絶対に進展しません。土砂の搬入一つまともにはできません。地元自治体の協力なしに工事は絶対完成しない、地方自治はそういう仕組みになっているのです。日本国憲法が地方自治を制度として保障し、民意を生かしているからです。
だから私たちは、何としてでも、来年2月の名護市長選に勝たなければならないのです。裏を返せば、国はどんな手を使ってでも、首長を取りに来るでしょう。平和を求める理性と邪悪な利権欲の真正面からの全面的な闘いです。まさに総力戦。絶対に勝たなければなりません。
(翁長知事の辺野古埋立て承認『撤回』に向けて―支援の輪が必須!)
今一つはもちろん翁長沖縄県知事の存在の大きさです。翁長さんの挨拶でビンビンと伝わってきたこと。それは、翁長さんは確実に沖縄人民の民族としての「不屈」の歴史的大闘争をはっきり意識していること。琉球の苦悩の歴史を踏まえ、誇りを賭けて闘っている姿がそこにありました。
辺野古の工事は今後、かなりの計画変更を余儀なくされる可能性があります。翁長知事のブレない姿勢、断固として新基地建設を容認しない姿勢は、基地建設工事進行の大きな防波堤になります。
翁長知事自身も挨拶で明言しましたが、近い将来、仲井眞前知事のなした大浦湾公有水面埋立て承認の「撤回」は必ずあると思います。「撤回」は知事の公権力の行使として即座に効力を発揮し、その段階で工事を続ける法的根拠は失われます。
もちろん国も黙ってはいません。総力をあげて翁長知事を、オール沖縄を法廷の内外で総攻撃してくるでしょう。私は、翁長知事が今、どんな条件が整うのをじっと待っているのか?注意深く知事の挨拶を聞いていました。裁判所ですら国・権力の一環。そんな状況は百も承知で、それでも闘いうる方策を日々検討していることが本当によくわかりました。そのために、私たちにとって裏切りでしかなかった仲井眞前知事の埋立て「承認」・・・そこに至る経緯・根拠・前提条件・留意(付帯)事項・・・その全てを慎重かつ全面的に検討しているように感じました。
ここでも最大のポイントになるキーワードは、首長としての知事の持つ判断権・裁量権ではないかと思います。
翁長知事は、この切り札をどこで、どんなタイミングで行使してくるのか?慎重に見極めている・・そんな印象を強く持ちました。
その首長の権限行使を最後の最後のところで支える「源泉」は県民の支持、国民・市民の支持なのです。支援の大きな輪・・・これこそが最も大切なことだと再確認しました。
(私たちは絶対に諦めない・・辺野古新基地阻止!)
大会は午後三時半、「県民大会宣言」とオスプレイ墜落事故に対する抗議を含む「県民大会特別決議」を採択。
「私たちは絶対に諦めない」との強い決意を全員で確認し、無事終了しました。本当に暑い・熱い思いが交錯する、そんな一日でした。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
今、国連では「核兵器禁止条約」が議論されている(※注・執筆時は末尾に記載)。この原稿が掲載される頃、核兵器の非人道性を確認し、ヒバクシャのたたかいに言及する、核兵器の開発、実験、移転、配備、使用などを包括的に禁止する「核兵器禁止条約」が採択されているであろう。「核兵器のない世界」が実現するためには、核兵器国の参加が不可欠であるけれど、国際法に新たな一歩が築かれることになることは間違いない。この後の一歩が求められることになる。
けれども、日本政府は、この条約に反対している。「北朝鮮の脅威がある状況で、『核の傘』から出るような決断はできない。」というのである。北朝鮮の核とミサイルには過剰とも思われる反応をするのに、日本は核に依存するというのである。自分は核兵器の有用性をいいながら、他国にはそれを認めないという主張は、身勝手この上ない没論理的なものでしかないことに気が付いていないのだろうか。
この日本の論理と行動について、こんな見解を紹介したい。長い間、朝鮮民主主義人民共和国は、東北アジア唯一の非核国でした。ロシア、中国、アメリカ、そのアメリカの核の傘に依存する日本と韓国。周りは核だらけです。韓米は大規模な共同軍事演習を毎年やっている。北朝鮮が人民と国を守るために、生き残るために核開発に走ったわけでする。昔から、朝鮮民族は白い服を好む白衣民族です。その服を外からの暴力により墨で塗られたという怨念があります。一つは、「地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聞く」と啄木が詠った幸徳秋水の大逆事件の頃です。もう一つは、一九五七年五月二〇日、朝鮮半島に核が持ち込まれたことです。これ以前に、朝鮮半島が核で汚されたことはありませんでした。これは、高演義先生(朝鮮大学校教員)の見解である(「反核法律家」九〇号・二〇一七年新春号)。少し注釈を加えておくと、啄木のこの歌は、一九一〇年に発表されており、この年は、大逆事件の検挙があり、朝鮮が併合された年もある。一九五七年五月二〇日は、高先生によると、米軍によって、朝鮮半島に原子砲と地対地核ミサイル・オネストジョンが配備された日である。
樋口陽一先生は、一九一〇年五月の検挙に始まり翌年にかけての大逆事件裁判と大量処刑は、同時代の知識人に強い衝撃を与えていた。…国内のことだけではない。「地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聞く」と詠んだ石川啄木は、「韓国併合」によって加速する日本のアジア膨張政策が憲法の立憲的運用を暗く押しつぶすことを、予見していたかのように思わせる、としている(「今、『憲法改正』をどう考えるか」・岩波書店・二〇一三年)。
今から一〇〇年前、この国で起きていたことと、もちろん形態に違いはあるとしても、現在の状況と通底しているものがあるように思うのは、私だけだろうか。朝鮮を出汁にして核兵器の禁止に背を向け、非軍事平和憲法を改廃して自衛隊の海外展開を目論見、内心の自由に踏み込む監視社会を形成しつつあるこの国の現在を見つめ、将来のために、やらなければならないことは多い。核兵器という「絶対悪の兵器」(被爆者の言葉)に依存しながら、国家の安全を確保するという為政者は、人民の個人としての生命や自由や幸福は、国家の独立と安全に劣後すると考えているのである。こんな基本的な国家の役割を認めないで、不満を言い立て、抵抗を共謀する連中は、社会から排除しなければならない、と彼らは考えているのであろう。個人の上に国家を置き、武力での紛争解決を容認する彼らとの闘争は決して単純ではない。愚直に挑み続けることにしよう。
(二〇一七年六月一九日記)
東京支部 荒 井 新 二
「司法の危機」の時代と言われる七〇年代前半にあって、宮本康昭氏に対する再任拒否はその頂点を画すものであった。表題にもあるこの「事件」から半世紀も経た今日、その真像はそろそろ歴史的に定着されてよい。宮本氏は、折りにふれ論文などで当事者として「事件」を取りあげてきたが、他方の再任拒否を駆動させた陣営では、陣笠連中を別にして「歴史の証言」をする者はおらず、拒否のほんとうの理由はとかく曖昧にされ気味だ。この「あのとき裁判所は?」は、宮本氏が現在所属するひめしゃら法律事務所の所員たちを前にした講演と質疑応答をおさめた小冊子である(A四版 三二頁)。そこでの講話は、淡々として沈着であるが、関係者の固有名詞や人柄・性格におよんで詳細である。これまでよりも一段と踏み込んだ歴史的な記録となっている。なによりも講演であり読みやすい。末尾に綴じられた氏の「レジメ 司法の危機の時代」をながめても、氏のこの「事件」を風化させないという強い意志が感じられる。拒否のほんとうの理由が、青法協裁判官部会の在京世話人として、氏が最高裁局付判事補に脱退強要に屈しないよう説いてまわったことにあったことがわかる。
「(説得の模様)を集約していたのが三好 達です。(略)行政局の一課長ですけれども、後で最高裁長官になりました。今、有名な日本会議の名誉議長です。三好 達が局付は(青法協を・・・引用者)やめたがっているのに、宮本が止めてまわっているというようなことを言ったのだそうです」(本書九頁)。事態はおそらくそのとおりであったろう。世評でよく言われた、もろもろの理由づけは、歯牙にかけるほどのものではない。最高裁による再任審査の前には、宮本氏に得体の知れない公安関係筋の尾行がつきまとい、当の裁判官会議では同氏の審査資料が異様に多かったと言うから、先の風評めいた「情報」もそのような収集方法あたりが出所であろう。再任拒否事件も、氏の努力もあって、歴史の女神がその真像は彫琢していったと思われる。
この本を読んで新しい知見もあった。
この脱会工作は、当初最高裁の三部局(人事・総務・経理)の局付判事補だけにたいし「予算編成の時期だけ自民党の手前があるからやめてくれと言われていた」、それが全員(十五人中十人の青法協会員・・引用者)に広がっていったと言う(同頁)。時の政権が司法予算編成上の脅しを使い、最高裁側がこれに膝を屈し次第に迎合の度を強めていった対応がここに見られる。司法が違憲審査権という本来の権限と矜持を忘却するならば、政治権力に対峙する権威が失われる。その後の歴史はこの構造のもとに推移し、再任拒否事件が確かに司法の歴史的変化ーいわゆる「司法の反動」ーの頂点を画したことを明証する。
三好 達のことには既に触れた。当時の最高裁長官であった石田和外は、今日の日本会議の前身的な組織である「日本を守る国民会議」の議長に、最高裁を去ってすぐに就任した。さらに言うならば最高裁事務総長(当時)の岸 盛一あるいは暗躍した鹿児島地裁所長(当時)飯守重任(田中耕太郎長官の実弟)は、いずれも戦前の「満州国」の司法官であった。彼らが当時の最高裁の中枢を牛耳っていたことはまぎれもないことであろう。最高裁にあって、戦前的な思想的基盤を保持しつつ、司法の歴史を駆動させる有力な担い手になっていたことを、あらためて想起したい。
このような権力の前の司法の拝きや裁判官群像の他に、他方の青法協裁判官たちのその後の動向も興味深い。紙数が尽きたのでこれ以上書けないが、「司法反動」の後では二〇〇名に減少したものの、その活動は実質二一年間に及び「ワイマール共和国擁護裁判官連盟」の一一年よりもながかったとする宮本氏の感慨、脱退事態のとりまとめに動いた町田 顕(その後最高裁長官)や江田五月(その後法務大臣)の動きをどのように司法の歴史のなかで考えるか、また「司法反動」とは一体なにからの「反動」であったのか、それと政治との先後関係は?戦後のながい司法の歴史をあらためて考えることに、この本は自ずから誘ってくれる。
こんにちの政治社会情勢ー例えば加計学園問題ーとの類縁性も興味深い。人事権による管理統制の政治的運用、公安資料の悪用、戦前回帰思想の日本会議による跳梁など、思考を深める歴史的な材料が豊富にある。是非若い団員も含め、手にとって読むことを薦めたい。
(ひめしゃら法律事務所 電 話〇四二(五四八)八六七五
FAX〇四二(五四八)八六七六
発行 一部五〇〇円)