<<目次へ 団通信1612号(10月21日)
荒井 新二 | 「不正受給」を考える ・・・小田原市ジャンパー事件から |
永尾 廣久 | 宮本判事補再任拒否がもたらしたもの |
藤井 宏治 | 東京支部 沖縄調査団 視察報告 |
西田 穣 | とりあえず、次長どうでしょう? 〜団本部からのお誘い〜 |
訂正とお詫び |
東京支部 荒 井 新 二
「保護なめんなよ」とプリントしたジャンパーを小田原市職員が一〇年間におよび着用して生活保護の行政にあたっていた。この事件が二年前に判明してから多くの有識者・団体の意見・報告・提言が寄せられた。それだけ社会のうけた衝撃は強かった。この間自由法曹団でも社会保障・貧困問題委員会が検討をすすめてきた。これと並行して東京都立川市の就労指導不遵守に由る保護廃止の直後におきた自死事件、あるいは保護費過払の責任を求めて数千万円を職員に請求した東京都日野市の事件の検討も行ってきた。併せて近日中に、団としてまとめ厚労省等に提言を申し入れる予定である。
小田原市ジャンパー事件で市は、井手英策氏(慶応大)や経験のある森川清弁護士らの有識者や保護利用経験者を集めた、これまであまり例のない開かれた第三者委員会を創り、そこでオープンな議論を行った。集中的な審議を経て短期間に「あり方検討会報告書」を公表した(本年四月)。生活保護のしおりの改訂やシンポ主催など啓蒙をその後続けてきている。その最終的な分析では、問題のジャンパー着用について、担当部署の団結力やミッションを維持しようとした、不正摘発を代替目標にしていた等を理由に挙げている。法執行官としての矜持と品位はどこに行ったのか。分析と提言は表面的でなく深く的確だ。この「報告書」は一読の価値があると思う。
この報告書を読んで私がまず想ったのは「不正受給」という言葉の持つ自己暗示力、言うならばその魔力であり、その自己展開力言うならばそのひとり歩きである。「不正受給」の撲滅を声高に言う風潮はかなり以前からあった。関西お笑い芸人のケースを「不正受給」と悪意に言挙げした時から、いわゆる生保バッシングが酷くなってきた。保護費を返すケースをおしなべて「不正受給」と呼ぶ傾向が強まってきている。そのことに、はたして法律家の責任はないのか。
生活保護法七八条が「不正受給」の根拠だと一般的に解説される。条文には「不正な手段により保護を受け」とあって、「不正に保護を受け」とは書かれていない。前と後とを繋げ単に「不正受給」とすると「手段」が欠落する。その分だけ内容が抽象的で、受給者の主観目的や行為の積極性の論点が捨象されてしまう弊がある。端的に故意性が薄まるか、なくなる。「不正」と「受給」をつなぐ短絡が条文の解釈拡大をもたらす。
興味深いことがある。この七八条には見出し(条文の前にゴシック体で示される)がついていない。他の条文には例外なく見出しがついているのに、同条には「不正受給」はおろか、全く見出しがないのである。法律辞典をみてみたが、このことは共通している。
立法の立役者であった小山進次郎氏(彼のことは先頃NHKの特番で取りあげられていた)は、法八五条の刑事制裁を費用面で補完すると解説していた。当初の立法意思と今日の運用とのギャップのもたらしたものと言いたいところだ。
私の乏しい経験でも、依頼者である生活保護者が遠戚から遺贈を受け相当な財産を取得したケースで、利用者が親戚の死も遺言書の存在も知らず、死後相当経過してから信託銀行から通知を受けたのであるが、死亡時に遡り(遺言を知ったときでない)、その間受けた手術費用等の全額(諸保険の遡及適用もない)を含め保護費をすべて返還しなければならないことがあった。担当係官は済まなそうな顔をしつつ、例の問答集を金科玉条にすることを忘れずに「そうなっているから」とにべもなく言い「不正受給となるから全額返還を」と迫ったそうである。このとき七八条の適用であったのかは今更確認しようがない。が、当の依頼者は遺言も知らなかったし、不正はやっていないとこぼしていた。この場合優に推定できることは担当者が保護費返還の必要な場合を「不正受給」と把握し表現していたことである。保護費返還の大義名分に「不正受給」の呼称が臆面もなく広く使われるのが実情である。
「不正受給」の実態をみると、その内実はさまざまである。利用者のちょっとした間違いや誤解、単なる手続き上のミスにあたる場合からはじまり、刑法上の詐欺に近いものまで。高校生バイトの問題もこの中に属して大きな違和感を漂わせている。これらニュアンスのかなり異なるケースを一律に「不正受給」と呼ぶことは広範に過ぎる。さらに言えば「不正」という決めつけ方は、一般的に社会的な非難性が強い。正義に反したと言われると、人は生き方を否定されているように感じることもある。不正=人の道徳感情に反することは許されぬ、真否や当不当の問題とは別次元であると受けとめるのが人情というものだろう。広すぎるだけでなく過度に酷なのである。
先の小田原市の報告書の指摘では、先に述べたように担当部署の組織防衛と団結力の昂揚が「不正受給」のロゴマークに託され、そうして部内の人心の結集が図られていったという。「不正受給」の言葉には正義を振りかざして「不正」を退治せんとする進軍ラッパのような響きがある。「不正受給」で自分の「やる気」に暗示にかけ、その撲滅を高唱することで組織の結束を図る。そして保護費返還の実績をあげることに腐心する。職員たちはその罠に無自覚であった。
しかしそのことを論ずる前に一歩立ち止まり、「不正受給」の厳密な解釈を疎かにしてしまったことに想いをいたすべきである。「不正受給」のひとり歩きを放置し、保護行政の歪みを招き、今日の「不正受給」撲滅キャンペーンの横行を招いたことにわれわれ法律家の責任を少しでも自省してみる余地はないのだろうか。
福岡支部 永 尾 廣 久
一九七一年四月、最高裁判所は宮本康昭判事補の再任を拒否しました。八〇歳を過ぎた宮本さんが、当時の内情を語っています。
あっと驚く事実が満載の、強烈なインパクトたっぷりのブックレット(ひめしゃらブックレット一号)です。
驚くべきことに、一九七〇年(昭和四五年)ころ、青年法律家協会(青法協)に所属していた裁判官が三五〇人もいた、最高裁に勤務していた局付判事補一五人のうち一〇人が青法協会員だった、東京地裁に配属された新任判事補一二人の うち一〇人が青法協会員だった人数の多さと比率に思わず圧倒されます。
さらには、宮本判事補の再任拒否に対して、当時の裁判官一八五〇人のうちの三分の一をこえる六五〇人が抗議文を出したというのも驚きです。今だったら、多くの裁判官は沈黙したまま抗議の声をあげないのではないでしょうか、残念ながら・・・。
一九七〇年一月から一九七一年までの一年間で、三五〇人いた裁判官部会の会員が一五八人も脱退して二〇〇人になったのでした。このころ、宮本さんは、何回も血を吐いたとのことです。ストレスから胃潰瘍になったのです。それを乗りこえて宮本さんは元気に長生きできて本当に良かったですね。
当時の熊本地裁の所長(駒田駿太郎)が青法協をやめろと言ったとき、所長も日法協に入っているでしょ、と宮本さんは問い返しました。ところが駒田所長は「オレも日法協をやめるから、オマエも青法協をやめてくれ」と切り返してきたとのこと。
この本で、宮本さんは青法協を脱退した一五八人のその後を紹介しています。
最高裁判事六人、検事総長一人、内閣法制局長官一人、高裁長官一二人、地裁所長六四人。これに対して青法協に残った二〇〇人の裁判官のなかからは、高裁長官が二人、地裁所長は三人だけ。成績優秀な裁判官が青法協に入っていたのに、このように歴然たる違いがあります。
宮本さんに対しては露骨な差別扱いがなされました。弁護士になるときに最高裁判所は経歴保証書を弁護士会に出さなかったのです。これには呆れました。また、宮本さんは判事補に再任されなかったけれど、簡裁判事として残ったのですが、宿舎から追い出されそうになったり、裁判官送迎バスの対象者からははずされたりという嫌がらせも受けました。裁判所のイジメって、陰湿ですよね・・・。それでも、宮本さんはめげずにがんばったのです。すごいです。給料にしても、当時で月七万円から八万円も低かったというので、同期の裁判官たちがカンパしていたというエピソードも紹介されています。
宮本さんとは、私も灯油裁判で一緒の弁護団だったこともあり、親しくさせていただいていますが、人格・識見ともきわめてすぐれた人物です。こんな人を裁判所から追い出すなんて、本当に国家的損失だと実感します。
裁判官が公安によって尾行されていたとか、スパイがいたのではないかという話も出ています。たしかに私も、司法修習生のなかに明らかにスパイ活動をしていると確信したことがありました。司法界と公安、スパイというのは切っても切れない関係なんですね。
貴重な本です。今の裁判所内に気骨ある人が少ないのは、その負の遺産だと思います。
裁判官が国家機構(権力機関)の一員としての自覚をますます強く持ち、弱者切り捨ての論理に加担しているとしか思えない判決を見ると、悲しくなります。これも青法協裁判官部会が解散し、裁判官懇話会も開かれなくなって、裁判所内での自主的活動がほとんど見受けられなくなったことによる結果です。その意味で、宮本再任拒否は今に続いている問題です。ぜひとも手にとって読んでください。
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電 話〇四二(五四八)八六七五
FAX〇四二(五四八)八六七六
東京支部 藤 井 宏 治
第一 視察の目的
この度、東京支部では沖縄調査団を結成し、若手からベテランまで総勢二四名で沖縄の米軍基地の現状を視察しました。字数との関係で充実しすぎた視察の全てを記載することは難しいため、主だった点に限定してご報告をさせていただきます。
第二 沖縄支部団員からの報告
視察一日目には、糸数アブチラガマ、平和資料館を視察した後に新垣勉団員をはじめとする沖縄支部の団員の方々から沖縄を巡る情勢や辺野古埋立承認取消訴訟について報告をしていただきました。実際に沖縄で活動されている団員の方々から生の沖縄の声を聞くことができ、私たちが知ることのできる情報が、いかに限定的であるか、また、現状を正確に反映していない情報であるかということを痛感しました。
第三 高江ヘリパッド現場
視察二日目には、那覇市から国頭郡東村高江に建設中のヘリパッド建設現場に向かいました。那覇市から高江ヘリパッド建設現場までは車で片道約二時間かかります。高江に近づくと、車外には沖縄の綺麗な海や緑豊かな山々が広がっています。人口約一五〇人、静かで自然豊かな土地にオスプレイを着陸させるためのヘリパッドの建設が進められています。
ヘリパッド建設現場の一つであるN一の入り口(N一ゲート)と道路を挟んだ対面に座り込みのためのN一テントが設営されています。N一テント前に東京支部の団員が乗ったレンタカー五台が停止すると、N一ゲート前を警備していた機動隊の人数が突如増えました。
N一テントで座り込みを続けられる現地の方から人権を全く無視した高江での惨状を伺いました。機動隊員が護送車で道路を塞ぎ検問を行う、住民を羽交い締めにするといった人権を無視した機動隊員の行動に対し、現地の方が「高江に法律はない。」と悲しそうに話されていたことがとても印象に残っています。
帰り際に多くの機動隊隊員の視線を浴びながらN一ゲート前で撮った写真は、思い出の一枚となっています。
第四 辺野古
三日目には、辺野古を視察しました。私たちが辺野古の海岸に到着したとき、米軍の水陸両用戦車が訓練をしていました。海岸に作られたフェンス越しに見た、黒い煙を吐きながら海を進む戦車の様子は、まるでここがどこか遠い国の戦場であるかのように錯覚するほどの異様な光景でした。
キャンプシュワブゲートの対面に設営された座り込みテントに我々が自動車で乗りつけると、米軍の守衛は我々を双眼鏡で確認しながら無線機で何かをしきりに報告している様子が見えました。
座り込みテントでは、「米軍が最も恐れた男〜その名は、カメジロー〜」のタイトルで映画化されている瀬長亀次郎氏の孫にあたる瀬長氏からお話を伺いました。
政府は当初一〇年で完成させると公言していたものの、座り込みによって資材や人材の搬入が遅れ、辺野古の基地建設の完成予定は五〇年後、一〇〇年後とも言われているとのお話を伺い、非暴力による運動がここまでの成果を生んでいることにとても驚きました。
第五 嘉手納基地
辺野古に行った後、嘉手納基地を視察しました。当初「安保の丘」から視察を行う予定でしたが、諸般の事情により、嘉手納基地の目の前にある道の駅の展望場から行いました。嘉手納基地は広大で、目の前には巨大な輸送機が爆音を上げながら何台も入れ替わり離着陸を繰り返していました。
その後、嘉手納基地から普天間基地を視察するために嘉数高台公園に移動をしました。その移動の途中で、何台もの戦闘機が編隊を組んで上空を飛び交い、オスプレイ二機が飛んでいる様子も目にしました。地上では沖縄の方々が日常生活を営んでいるにもかかわらず、上空を戦闘機やオスプレイが飛び交う様子は、現実の世界とは思えないほど異様な光景でした。
第六 普天間基地
普天間基地に到着すると、そこで先ほど飛んでいたオスプレイ二機が着陸していました。普天間基地が「世界一危険な基地」と言われていることは広く知られているところですが、実際に嘉数高台公園の展望台から見てみると、市街地の真ん中に広大な滑走路が広がっており、いかに危険な状態にあるか実感しました。
第七 最後に
そもそも米軍基地が沖縄に存在すること自体が異常ですが、実際に多数の戦闘機や戦車、広大な基地を目の当たりにすると、その異常さをますます実感します。沖縄の基地問題が、沖縄の方々の問題だけでなく、日本全体の問題であることを痛感し、今後の運動に生かしていかなければならない、そう感じた沖縄視察でした。
事務局長 西 田 穣
一 はじめに
本号が発刊される一〇月二一日は土曜日ですので、団員の皆さんがこの原稿を読むのは二三日の月曜日。つまり、三重・鳥羽総会にて、私の団本部事務局長の留任(注:再任ではありません)が決定しているころでしょう。近年では、事務局次長の延長はあったようですが、事務局長の留任(注:再任ではないので、あと二年はやりません)の例は記憶にないとのことです。
私の後任がいないということは大変残念なことですが、それ以上に残念なことは、団本部(特に事務局次長)が過重な任であるとの誤認が広まり、近年の各団事務所の財政難も相まって、事務局次長の任に就くことを遠慮される団事務所、若手団員が増えているという事態です。
団通信にぼやきを入れても仕方ないのですが、原稿がないわ、後任がいないわ、選挙前だわ、総会前だわで、最高の現実逃避状態ですので、団通信の頁合わせに一五〇〇字いっぱいにぼやいてみようと思います。
二 団本部の組織
団組織をあまりご存知ない方のために、団本部の組織体制を簡単に説明しておきます。
団長一人、幹事長一人、事務局長一人が規約上の役職であり、これが三役といわれます。このほかに本部に事務局を置き、規約上事務局員とされる事務局次長が若干名加わります。事務局次長は、明確に人数が決められているわけではありませんが、八人の事務局次長を予定して毎年予算を組んでいます。任期は、団長が規約上一年と明記されています(但し再任可)が、その他の役員は慣習上二年で交代しています。
しかし、近年、この事務局次長の任に就いてくれる若手団員が減ってきており、二〇一五年度、二〇一六年度と六人体制が続き、今年度はとうとう五人になってしまい、次期二〇一八年度も五人のままとなってしまいました。
三 事務局次長の業務
事務局次長の勧誘をしていて初めて知ったのですが、事務局次長の業務が極めて多忙・過重との誤解が団員の中に広まっていることです。しかし、全くそのようなことはありません。
事務局次長は、基本的に二ないし三の委員会(もしくは対策本部)を担当し、その他、月二回の執行部の会議に出席し、そして第三土曜日の常任幹事会の運営に携わることを主な任務とします。例えるなら、二ないし三つの委員会と月二回会議のある一つの弁護団に入るくらいのものです。これを大変と思うかどうかですが、少なくとも私の周りや地方の弁護士さんの話を聞く限り、この程度(三つの委員会と一つの弁護団)はほとんどの弁護士がこなしているのではないかと思います(この倍以上やっているという人が多いと認識しています)。しかも、これがポイントですが、有期(二年)です。控訴審や上告審はありません。必ず二年で終わります。
また、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、団本部は大変という噂のおかげで、事務局次長を引き受けると、周囲が配慮をしてくれます。結果的に、名目だけの弁護団活動や、間違って入ってしまった弁護士会活動等々から足を洗えるきっかけにもなり、多重会務者・多重業務者にとり、大義名分の立つ整理手続きとしても利用可能です。
もちろん、活動が充実しています。憲法、弾圧、労働といった「団の」王道だけでなく、教育、国際、原発、貧困、市民、司法、差別その他あらゆる課題の議論の中心に身を置くことができ、それまで興味のなかったテーマにも、最先端の議論と共に深く関わっていくことができます。
なお、次長をやると売り上げが落ちるという話もありますが、これはデマでしょう。私や私の周りはむしろ次長になってからも売り上げは伸びていましたし、そもそも「団本部事務局次長」の肩書きは、顧客が恐れをなして逃げてしまうほどの有名な役職ではありません。
四 とりあえず、次長どうでしょう?
私も、二〇〇八年度、二〇〇九年度と事務局次長を務めました。事務局長はもういいですが、事務局次長ならもう一度やってもいいと思えるほどに、楽しく充実した二年間を過ごしています。私と同じ二〇〇八年度、二〇〇九年度に次長を務めた伊須慎一郎団員(埼玉支部)は、「次長時代は第二の青春時代だった」と公言しており、同じく二年間を共有した福山和人団員(京都支部)も「最高に充実した二年」といいます。二人とも期も年も私より上なのですが、酒癖の悪さも上で、次長の活動というより、合宿・総会などでの飲み歩きを指して上記迷言を発しているところが、後輩として残念なところですが、僭越ながら私も同じ思いを抱いています。
団長をはじめとする一〇人程度の執行部で、密な二年間を過ごすことで、期や年や土地を超えた絆を作り、しかも、知識・経験も得ることができる、団本部執行部はそんな魅力を持っています。
そこで、特に若手の皆さん。とりあえず、次長どうでしょう?今なら、立候補と共に、ほぼ確実に選任されます!・・・切実な思いとして、立候補まで無理だとしても、せめて声がかかったら引き受けてほしいと思います。よろしくお願いします。
前号団通信に誤りがありました。
東京支部・鼬ゥ祐策団員原稿中、九頁下段の六行目、
正)国犯法も遺物と化して発動の辞令は途絶えた。
誤)同時に国犯法も遺物と化して発動の辞令は途絶えた。
※「同時に」を削除致します。
以上、訂正させて頂きますとともに、お詫び申し上げます。