<<目次へ 団通信1618号(12月21日)
椛島 敏雅 | ※三重・鳥羽総会特集 その六 古希記念表彰を受けて |
菊地 智史 | *改憲阻止・特集* 憲法カフェの現場より、九条周辺のご報告 |
大久保 賢一 | 大学生たちとの対話 |
前川 雄司 | シンドラー社製エレベーター死亡事件 和解成立 |
渥美 玲子 | 刑法改正の付帯決議 |
永尾 廣久 | 『反核・平和を貫いた弁護士・池田眞規』を読んで |
篠原 義仁 | 「根本パンフ」を発刊します |
中野 直樹 | 会津の山たち(二) |
伊藤 嘉章 | 二〇一七年三重総会一泊旅行記 その二 一泊旅行の一日目 副題「式年遷宮の本当の意味」(後半) |
福岡支部 椛 島 敏 雅
三重県鳥羽市で開催された自由法曹団二一〇七年総会で二二名の古希団員の一人として記念の表彰を受けました。どんなに困難な時代でも、常に人々と連帯し、人権擁護と平和、民主主義擁護の旗を掲げ、社会の進歩発展のために活動して来た自由法曹団からの表彰に誇りを感じるとともに嬉しく思いました。
私が団員として活動出来たのは、福岡第一法律事務所に入所し、廻りの先生方と一緒に活動できたからだと思います。中でも所長の亡き諌山博先生の薫陶を受けて来ました。先生は日本共産党の衆議院議員を一九七二〜一九七六年の一期務められて(その後、参議院議員も務められました)いましたが、私に「福岡第一の弁護士は相談者や依頼者に解決の展望を示す護民官でなければならない、その活動を通じて平和民主主義勢力の側に誘うようにしないといけません」と良く言われていました。私はクレ・サラ・ヤミ金・商工ローン等の多重債務事件や交通事故被害者の事件を多く担当して来ましたが、それは護民官の視点があったからです。当時は損保会社が治療中の交通事故被害者の治療費支払いを途中で打切り、債務不存在の訴訟等を起こして被害者を切り捨てていました。現在もその傾向はありますが、それに対抗する為に、それまで事件で教えを頂いていた福岡県保険医協会副会長の魚住医師と鞭打ち症被害救済の本を一九九一年に共著で出版しました。
諌山先生はご自身堂々とした大きな声で話されますが「法廷や集会では胸を張って、皆さんに分かり易く大きな声で発言しなさい、小さな声でボソボソ言っていたらダメです」とも教えられました。これも、実践してきたつもりです。
多重債務事件は団外の木村達也、宇都宮健児、新里宏二各弁護士や団員の釧路の今瞭美、九州の永尾廣久、加藤修弁護士外、各地の団員の先生方と商工ローンや全国被害者交流集会等で一緒に活動して来ました。この問題に取り組んでいる時、三回の最高裁闘争を経験し、貸金業規制法四三条のみなし弁済規定の死文化判決を皆で勝ち取り、過払い訴訟の道が開けました。二〇〇六年一二月には不可能と思われていた貸金業法の改正を全国の運動で勝ち取り、多重債務問題を大きく前進させました。しかし、今また、アベノミクスの弊害と思われる銀行のサラ金化が進んでおり、新たな多重債務問題が発生しようとしています。
弁護士活動の中で、一番は励まされたのは、当事者の方々との出会いでした。長崎北松石炭じん肺訴訟の原告遺族の方、南九州税理士会事件の熊本の亡牛島昭三税理士、中国残留孤児の皆さん等々です。この当事者の方との結びつきが、私の弁護士活動の何よりの励みになって来ました。団員でなければ、このような素晴らしい原告の皆さんと出会えなかったと思っています。
現在は玄海原発差止め訴訟や安保法制法違憲福岡訴訟弁護団に参加していますが、今の情勢は事務所内に留まっていてはいけない、私たちも街頭に出て三〇〇〇万人署名を訴えていかなければいけない状況になっているように思います。先輩団員の志は受け継いで行きたいと思っています。まだまだ頑張ります。
最後に、古希記念表彰を受けた際、益子焼の急須を頂きました。丸い形の、さびの趣のある、素敵な急須でした。毎朝、それでお茶を頂いています。
団本部のお心遣いに感謝しています。ありがとうございました。
(二〇一七・一二記)
東京支部 菊 地 智 史
第一 一二月の天使
年の瀬が迫り街がなんだかそわそわしていることの他には、ありふれていて平凡な、ある琥珀色の夜。バーボンを飲んでいたら、九条について書けと城北事務所の久保木先生から指令が届き、酒の勢いで快諾してしまいました。私は同期の中でも憲法カフェでお喋りする機会が多いので、憲法カフェのご報告といった体裁で、九条を巡る問題について考察致します。
第二 てをとりあって
ある日の憲法カフェは、定期的にお喋りをしている筋金入りの護憲派の活動家の方々がお客さんでした。そこで、私はこんな話をしました。
「私達護憲派は、中道寄りの「リベラル」論者をとかく批判しがちである。しかし、彼らを批判して得られるものは「やはり私達護憲派が正しい」という(相当主観的な)論証に過ぎない。政治は数である。安倍改憲に対峙する勢力の中で批判をし合っても政治的には意味がない。考え方の違いを明らかにすることは大切だが、それはあくまで広い連帯のためになされるべきである。「批判」は慎もう。考え方の違いが明らかになったら、次は手を繋ぐ方法を考えよう」と。
九条を巡って、安倍改憲に反対する人たちの中にも様々な考え方があります。例えば、安倍首相のぶち上げた九条加憲論にしても、絶対反対の立場から、憲法に自衛隊の存在を明記した上で同時に自衛隊の行動への厳格な制限を明記するべきだという立場まで、色々です。私達護憲派としては、「リベラル」派の考え方にも理があることは認めた上で、現在の政治状況ではリベラル派の思惑通りの改憲は現実的でない等の認識を彼らに伝え、連帯を模索するべきです。
憲法カフェでは、この話、深く頷いて下さる方、熱心にメモを取って下さる方、いらっしゃいました。活動の最前線にいらっしゃるからこそ、彼らの心に届いたのではないかと思います。身内同士の批判を控え、今こそ大同小異で連帯したい。これも、活動の現場における一つの実感だと感じた次第です。
第三 気持ちはつたわる
またある日の憲法カフェは、活動家ではない、政治的な意識の高い主婦層がお客さんでした。そこで、私はこんな話をしました。
「皆さんの中で、自衛隊は違憲だとか、自衛隊はなくなって欲しい、といった思いをお持ちの方、いらっしゃったら手を挙げて下さい。(一人も挙手せず。)そうですよね、自衛隊は三・一一のとき、一生懸命救助活動をしてくれましたもんね。あのとき、私も東北に行って復興支援のお手伝いをしたかった。でも、司法試験の受験生だったので、行けませんでした。そんな私の代わりに、自衛隊が東北に行って、多くの命を救ってくれたと思っています。この点で、私は自衛隊に借りがあるような気持ちです。だからこそ、自衛隊が米軍の指揮下で日本とは関係のない戦争をし、隊員が命を落とすような事態を防ぎたい。彼らは公務員だから、戦争をしたくなくても声を挙げられない。ですから、隊員の命を守ることで三・一一の際の借りを返すため、私達市民が安保法制に反対したいと思います」
まず、憲法カフェを主宰するような政治意識の高い人たちでも、自衛隊違憲論や廃止論には与しない。この現実を明確に認識する必要があると思います。いわんや普通の庶民をやです。そして、そういった人たちに九条や平和について考えてもらうための伝え方にこそ腐心しなければならないと思います。
上に引いた考え方が現時点での私の答えです。理屈を言うのでなく広く一般の人たちの心情に訴えかけることを目的に、私個人の実感を元にお話ししました。
団の先輩方も、市民への伝え方という点で、様々な工夫をなさっていることと存じます。そういった工夫を、是非とも共有して頂き、勉強させて頂きたく存じます。
第四 あの時君は若かった
ある日の憲法カフェは、またまた仲良しの活動家さん達とご一緒させて頂きました。そこで私は、こんな話をしました。
「この前、靖国神社を批判的に見学するツアーに参加しました。遊就館が、学生グループや若いカップルで賑わっていました。はっきりいって、遊就館は魅力的な場所です。機関車、戦闘機、軍刀、大砲等、非日常的で楽しいコンテンツが盛りだくさんです。そして、彼らが提供する「靖国史観」は、強圧的な列強にヒロイックに抵抗した日本人英霊の悲劇的な物語という、日本人大衆にとって気持ちのよいものです。若者が楽しくて気持ちのよいものに引きつけられるのは自然なことです。私達左派は、若者の心を捉えるような物語を考えなければならないのではないでしょうか」
このようにお話ししたところ、ご年配の参加者が、次のように話してくれました。曰く、彼のお孫さんはアマチュアのいわゆる「絵師さん」で、ある本に絵を提供した。お孫さんが本を隠すので彼がこっそり確認したところ、少女が戦争をする絵だった。若者の「平和」離れが進んでいると痛感した。と。
戦艦を擬人化した美少女ゲームがここ数年衰えぬ人気を保っていること、日本刀を擬人化したアニメ・群馬県の習俗を笑いを交えて紹介する漫画・福島原発での作業に潜入する社会派漫画、巨人が出てくる漫画、のそれぞれの作者がネトウヨ的価値観をSNSで発信していること。『永遠のゼロ』の大ヒット。このような若者文化における現象、言うなれば「若者の保守化」という現象を、まずは正確に認識しなければなりません。
また、私は、雑誌『世界』と『WiLL』の表紙の比較によって象徴できる問題があると考えます。『世界』の表紙は、上品ですが地味であり、いかにも学問的で小難しい印象です。他方、『WiLL』の表紙は、扇情的で戦闘的、いかにも「憂国の志士達が反日ヘサヨをこてんぱんに論破する気持ちよさ」を味わえそうな印象です。付言すれば、『WiLL』と似たような雑誌は、書店の雑誌棚に複数存在しますが、『世界』は『世界』だけです。
断片的な言及を重ねてきましたが、これらの観察を通し、私は以下のような危惧を覚えます。
魅力的なコンテンツを通して、若者が右派的・遊就館的な歴史観・平和観に引き寄せられる構造が存在する。対する左派は小難しい理屈ばかりで大衆に心地よさを提供できていないため、若者に浸透できていない。若者は保守化している。現在、このような時代状況になっていると見えます。
そして、九条加憲論のようなピンポイントの法律問題について集中的に議論することは無論大切ですが、他方で上記の時代的な問題にどこかで真剣に取り組まない限り、仮に安倍改憲を止められたとしても、いずれ時代の空気に押し切られて九条改憲がなされてしまうのではないでしょうか。
第五 コーヒーハウスにて
思い返すと、久保木先生からの指令は、九条について本質論を展開せよとのご趣旨でした。しかし私は、憲法カフェを通じて感じた九条をとりまく大衆意識や現場の活動家さんの実感の報告こそ責務と考え、下手な筆を走らせました。大衆意識や現場の実感といったものに重きを置かない方には、本質的でない的外れな議論と見えたことでしょう。
私の愚考に対し、先輩方よりご指導ご鞭撻頂けましたら幸いです。また、前回の団通信の久保木先生の論考に対するご意見ご感想も絶賛募集中だそうです。団通信にご寄稿下さい(菊地は気が弱いので優しいご指導を、久保木先生は強靱なメンタルの持ち主ですのでビシビシと叱咤を、お願いします)。
今後とも、よろしくお願い申しあげます。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
長崎大学核兵器廃絶研究センターの中村桂子ゼミの学生から三つ質問された。
(1)広島の慰霊碑に刻まれた「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」について、どうお考えですか?
(2)核保有国に対する有力な法律拘束を作ることは難しいでしょうか?
(3)核兵器をなくすためにあったらいいのになと思う法律はありますか?
どうしてそんなことに関心を持つのか聞いてみたら、「核廃絶についての授業で、ICANを知りました。ICANのノーベル平和賞受賞について、ほかのNGOがどういった考えをお持ちなのか気になり、調べてみました。そこで見つけたのが、日本反核法律家協会でした。核兵器禁止条約の締結に深く関わっていらっしゃることもわかりました。核兵器廃絶について考えていた中で出てきた疑問が先ほどのものです。」とのことだった。
それではということで、私なりの回答を寄せることとした。
(1)について 被爆を原因として亡くなられた方たちへの鎮魂の言葉として重く受け止めています。突然、日常生活を奪われた人たちがたくさんいます。死を免れた方たちにも筆舌に尽くし難い困難が待ち受けていました。核兵器禁止条約の前文で、被爆者の「容認しがたい苦痛と害」と表現されているとおりです。ただし、私たちには、安らかな眠りを祈るだけではなく、このような事態が二度と起きないようにするための努力が求められています。また、誰が過ちをおかしたのかについて曖昧です。投下したのは米国です。意図的な行為であって過失ではありません。また、米国はそのことについて反省も謝罪もしていません。日本政府は、被爆も他の戦争被害と同様に「受忍すべきもの」としています。投下の遠因となっている侵略戦争につての反省も不十分です。そういう意味では、鎮魂は必要ですが、この言葉の立ち位置に留まっているだけでは、本当の意味での鎮魂にはならないと考えています。
(2)について 国際社会において、各主権国家を拘束するのは、各国の意思だけです。国家を法的に拘束することについては、その国の同意が必要だということです。合意のみが法的拘束力の源泉となるのです。だから、核兵器禁止条約が発効しても、核兵器国が、その条約に加入しない限り、それらの国を法的に拘束することはできません。それらの国にその気になってもらわなければ、核兵器はなくならないのです。ただし、その国の意思を決定するのは、各国の選挙民です。だから、選挙民である市民にその気になってもらえば、その国の意思を変えることができます。それが民主主義です。
(3)について 日本には、核兵器を作らない、持たない、持ち込ませないという「非核三原則」があります。これは、国是とされています。国是とは、国の根本原則だという意味です。この「非核三原則」を「非核法」という法律にしようという考えがあります。日本弁護士連合会でもその検討が行われています。この「非核法」について、政府や自民党は反対しています。法律よりも「国是」の方が上なのだという理屈です。法律なら変更可能だが、国是はそうではないというのですが、本音のところでは、核兵器に依存して安全保障を確保しているので、いざというときには、米国の核兵器を持ち込むことを禁止する法律は邪魔になるという考えです。非核三原則も見直すべきだという議論が出されているのは、米国の「核の傘」に依存し続けるという選択なのです。
学生たちの返信はこうであった。
(1)に関して、私は主語が無いことに対する異議しか持っていませんでした。しかしサーロー節子さんの文章の中で、「慰霊碑の文が被害者の誓いとなり、そうしてこそ愛する人たちの正視に耐えない死も無駄死ではなかったことになる。そうあってこそはじめて生き残ってきた人々も生き残っていることに意義をもつ」という内容が書かれており、ハッとし、本当に被爆者の気持ちで考えられていなかったのではないかと反省しました。そして今回の大久保さんのご見解から、「鎮魂」の本当の意味について考えさせられました。
(2)に関しては、「やはりそうか」という気持ちが正直なものです。各国に委ねられているという点がなかなか話を進めることが出来ない要因だと改めて分かりました。しかし、最後の文で民主主義を活かす方法に気づかされ、だからこそ私たちも一人の国民としてきちんと問題に向き合い、自分の意見を持ち、さらに発信することが大切だと分かりました。
(3)に関して弁護士の方々の中で非核法にしようという動きがあることなど初めて知り、良い考えだなと思いました。しかし国はやはり米国の「核の傘」から出ることを恐れるしかないのかと再び感じました。この件については特により思考を深めて行きたいと思います。
私は、ここのゼミ生とは、昨年もやり取りをした。創価大学の国際法のゼミ生とも会話の機会がある。核兵器禁止条約について議論されているニューヨークに明治大学の学生二人を同行した。採択の瞬間の彼らの感動は半端ではなかった。彼らとその友だちは、反核法律家協会の総会や意見交換会をアシストしてくれている。
被爆者の体験を継承する主体を形成しなければならない。私は、これらの学生たちとの交流の中にその可能性を見出している。
(二〇一七年一一月一九日記)
東京支部 前 川 雄 司
東京都港区の公共賃貸住宅で二〇〇六年六月三日、都立小山台高校二年生だった一六歳の高校生がエレベーターに挟まれて死亡した事件について、エレベーターを製造・保守管理したシンドラー社、保守管理した日本電力サービス社とSEC社、所有した港区、管理した港区住宅公社に対して遺族が損害賠償を求めた訴訟で、一一月二四日、和解が成立しました。
和解の概要
和解の概要は次のとおりです。
原告と被告らは、東京地方裁判所民事第六部(岡崎克彦裁判長・舘野俊彦裁判官・木村周世裁判官)の平成二九年九月二七日付け「和解勧告」の趣旨を踏まえ、本件を和解によって解決することに合意した。
一 被告らは、何の落ち度もなく、わずか一六歳でこの世を去ることになった被害者とその遺族である原告の無念の思いを重く受け止め、深く遺憾の意を表する。
二 被告らは、戸開走行事故はひとたび発生すると利用者が挟まれ生命身体に危険を及ぼす重大事故につながるおそれがあることに改めて思いを致すとともに、その社会的・道義的責任を果たすべく、互いに協力し合って、不断の意思をもってエレベーター事故の再発防止のために全力を挙げて取り組んでいくことを確約する。
三 被告シンドラー社は、日本国内で稼働している同社製エレベーターの安全を維持するため、事業を承継したオーチス社に対し、必要な情報ないしサービス、資料・冶工具・機材・部品へのアクセスの提供などを履行する。
四 被告SEC社は、写真や実測データ等を付すなどして不具合の状態が分かるような故障報告書を作成し、所有者又は管理者に提出するなどの再発防止対策を履行する。
五 被告港区は、再発防止策に係る取組みについて原告との連携の強化を検討するなどの再発防止対策を履行する。なお、被告港区は、和解に付随して、原告と覚書を締結し、詳細な再発防止対策等を確約した。
六 解散した被告港区住宅公社を除く被告らは、原告に和解金を支払う。
七 原告と被告らは、前項の内容について、相当額の和解金が授受され、その一部で基金を構成したことを除くほか、正当な理由なく第三者に口外しない。
裁判所の和解勧告
和解勧告は、和解の方向性として、(1)被告らの遺憾の意の表明、(2)被告らの社会的・道義的責任に基づく再発防止への取組み、(3)被告らによる和解金の支払と原告の再発防止活動の支援を挙げました。
裁判所は、原告及びその弁護団・支援者が再発防止のために果たしてきた役割に敬意を表するとし、被告らが原告に対して相当額の和解金の支払をすることと、原告はこの和解金の一部を拠出して基金を設立し、取組みを継続していくことを提案するとしました。
原告の市川正子さんは、この和解について、エレベーターの安全・再発防止のために一六歳の息子の命を生かすための一歩と話しました。
和解条項の全文、和解勧告、原告と被告港区の覚書、原告と弁護団の声明は、赤とんぼの会や東京合同法律事務所のホームページに掲載されていますので、エレベーターの安全・再発防止のためにぜひご活用ください。
愛知支部 渥 美 玲 子
性暴力についての刑法が二〇一七年六月一六日に改正されたことで、今年八月一日の通信で大阪支部の渡辺和恵団員が「女性の立場の中にいて、その問題点を外と交流してこなかったことを反省」と書かれてありました。まさに私も反省しなければならないところです。
ところで、衆議院と参議院で改正案が可決されたときに付帯事項が決議されましたが、特に参議院での付帯決議は九項目もあります。しかし、実はその後この付帯決議がどのように実施されているのか、私には分からないのです。ちなみに参議院での二〇一七年六月一六日の付帯決議は次のようなものでした。
「政府及び最高裁判所は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をするべきである。
(1)性犯罪は、被害者の心身に長年にわたり多大な苦痛を与え続けるばかりか、その人格や尊厳を著しく侵害する悪質重大な犯罪であって、厳正な対処が必要であるところ、近年の性犯罪の実情等に鑑み、事案の実態に即した対処をするための法整備を行うという本法の適正な運用を図るため、本法の趣旨、本法成立に至る経緯、本法の規定内容等について、関係機関等に周知徹底すること。
(2)刑法第一七六条及び第一七七条における「暴行又は脅迫」並びに刑法第一七八条における「抗拒不能」の認定について、被害者と相手方との関係性や被害者の心理をより一層適切に踏まえてなされる必要があるとの指摘がなされていることに鑑み、これらに関連する心理学的・精神医学的知見等について調査研究を推進するとともに、これらの知見を踏まえ、司法警察職員、検察官及び裁判官に対して、性犯罪に直面した被害者の心理等についての研修を行うこと。
(3)性犯罪に係る刑事事件の捜査及び公判の過程においては、被害者のプライバシー、生活の平穏その他の権利利益に十分配慮し、偏見に基づく不当な取扱いを受けることがないようするとともに、二次被害の防止に努めること。また、被害の実態を十分に踏まえた適切な証拠保全を図ること。
(4)強制性交等罪が被害者の性別を問わないものとなったことを踏まえ、被害の相談、捜査、公判のあらゆる過程において、被害者となり得る男性や性的マイノリティに対して偏見に基づく不当な取扱いをしないことを、関係機関等に対する研修等を通じて徹底させるよう努めること。
(5)起訴・不起訴等の処分を行うに当たっては、被害者の心情に配慮するとともに、必要に応じ、処分の理由等について丁寧な説明に努めること。
(6)性犯罪が重大かつ深刻な被害を生じさせる上、性犯罪被害者がその被害の性質上支援を求めることが困難であり、その被害が潜在化しやすいという性犯罪被害の特性を踏まえ、第三次犯罪被害者等基本計画等に従い、性犯罪等被害に関する調査を実施し、性犯罪等被害の実態把握に努めるとともに、被害者の負担の軽減や被害の潜在化の防止等のため、ワンストップ支援センターの整備を推進すること。
(7)刑事訴訟法等の一部を改正する法律(平成二八年法律第五四号)附則第九条第三項の規定により起訴状等における被害者の氏名の秘匿に係る措置についての検討を行うに当たっては、性犯罪に係る刑事事件の捜査及び公判の実情や、被害者の再被害のおそれに配慮すべきであるとの指摘をも踏まえること。
(8)児童が被害者である性犯罪については、その被害が特に深刻化しやすいことなどを踏まえ、被害児童の心情や特性を理解し、二次被害の防止に配慮しつつ、被害児童から得られる供述の証明力を確保する聴取技法の普及や、検察庁、警察、児童相談所等の関係機関における協議により、関係機関の代表者が聴取を行うことなど、被害児童へ配慮した取組みをより一層推進していくこと。
(9)性犯罪者は、再び類似の事件を起こす傾向が強いことに鑑み、性犯罪者に対する多角的な調査研究や関係機関と連携した施策の実施など、効果的な再犯防止対策を講ずるよう努めること。」
まず重要だと思ったのは、この付帯決議は「政府及び最高裁判所」宛てになっているということです。性暴力については、行政だけでなく、なによりも司法が従来の扱い方についてしっかり反省して、犯罪の意味を認識しなければならないということでしょう。ちなみに第一項については衆議院の付帯決議では「関係期間及び裁判所の職員等に対して周知すること」となっています。各裁判所の職員に対して周知徹底はなされたのでしょうか。第二項についても「司法警察職員、検察官及び裁判官に対して性犯罪に直面した被害者の心理などについてこれらの知見を踏まえた研修を行うこと」とされていますが、裁判官に対する研修はどのような内容・方法にて実施されたのでしょうか。
最近のニュースをみると、例えば伊藤詩織さんが告発した準強姦罪については不起訴処分となったということですが、第五項の「起訴・不起訴等の処分を行うにあたっては、被害者の心情に配慮するともに必要に応じ、処分の理由等について丁寧な説明に努めること」とあるにもかかわらず、実際はどうだったのか、などの疑問もわいてきます。
また座間市九人殺害事件ではマスコミは被害女性全員の年齢や氏名を顔写真付きで公表しました。被害女性は殺人だけではなく性暴力も受けていたとの可能性もあったことから、第三項の「性犯罪に係る刑事事件の捜査及び公判の過程においては被害者のプライバシー、生活の平穏その他の権利利益に十分配慮し」とされている規定が無視され、被害者家族の心情に対する配慮が欠けていたのではないかとの疑問もあります。
・・・などなど実施状況について、いろいろな疑問が出てきますが、実施状況をチェックする体制がどのようになっているかも私には分かりません。
今回の刑法改正が、どれだけきちんと司法に理解されるのかを、チェックする責任は、我々弁護士にもあるかもしれないと思います。
福岡支部 永 尾 廣 久
大久保賢一団員が先に紹介していますが、昨年(二〇一六)一一月に八八歳で亡くなった池田眞規弁護士を追悼する著作集(日本評論社)です。
その一生涯を反核・平和のために過ごしたと言ってよい池田弁護士は世界中に知己をつくっていました。池田弁護士は、ものすごいバイタリティーで世界中を駆け巡ったのです。
池田弁護士は問題を多方面から見ながら生まれる豊かな発想、ときに周囲をはらはらさせる天衣無縫、自由な行動、そしてそれを進める強い意思と頑固さをもちあわせていました。
この本の圧巻は、反核・平和のための世界法廷での池田弁護士の活躍ぶりを紹介した部分です。このとき、日本の外務省は核兵器廃絶に反対する立場から、陰に陽に足をひっぱったようです。本当に残念なことです。たとえば、広島・長崎の市長が世界法廷に出廷して発言するとき、証人として意見は言えないと外務省はタガをはめようとしました。とんでもないことです。しかも、外務省は両市長の発言内容への干渉もしたのです。外務省は両市長に対して事前に発言原稿を見せろと求め、それに応じた長崎市長は一二回も訂正を求められました。他方、広島市長は、「原稿ができていない」と言って逃げまわり、事前に公表するのは、裁判所に対して失礼にあたると言って逃げきり、当日は、核兵器の使用等は違法だし、国際法にも反すると陳述しました。本当にそのとおりなのですが、広島市長は勇気がありましたね。
日本の外務省は政府の方針を忠実に実践しているだけとは言え、あまりにも情ない限りです。アメリカの核兵器によって日本の平和が守られているなんて神話に取り込まれすぎです。
池田弁護士は百里(ひゃくり)基地の訴訟にも関与しています。一審で敗訴したとき、原告団が弁護士たちを次のように言って励ました。
「裁判だから、勝つこともあらあな・・・。敗けることもあらぁな、へへへ・・・」
自衛隊が憲法違反かどうか調べるため、防衛庁(当時)の統幕部長や空幕長(源田実)を証人として呼んで法廷で質問しています。合計九人です。そして、二審でも一二人もの学者などを証人として調べています。すごいことです。
いま、全国で安保法制が憲法違反だということを明確にさせる裁判が係属中です。ぜひ裁判所に明確な違憲判決を出してほしいものです。
池田弁護士の遺思を受け継ぎ、次世代に反核・平和の動きの橋をつないでいくうえで、大いに役に立つ追悼集になっています。注文先は大久保賢一団員の事務所へ。
神奈川支部 篠 原 義 仁
一 川崎合同法律事務所は、「地域に根ざした活動を」合言葉にして、一九六八年四月に事務所を開設し、以来、「自由・人権・統一」の理念の実現をめざして奮闘し、二〇一八年四月に開設五〇周年を迎えることになりました。
事務所開設五〇周年の記念レセプションについては、別途、ご案内を差しあげますが、
と き 二〇一八年四月一三日(金) 午後六時半
ところ JR川崎駅前 日航ホテル
を予定しています。
二 この五〇周年の時機に事務所開設五〇周年記念誌(現在製作中)とは別に、事務所の創設者である根本孔衛さんの弁護士生活六〇周年を間近に控えるにあたっての、その「一代記」をコンパクトな冊子にまとめることとしました。
根本さんにこの企画を持ちかけ、将来の川崎合同法律事務所や民主的法律家諸団体に向けて何か発信することがありますかと問いかけたところ、「一代記」は大袈裟だと言いつつも、若手弁護士や民主的法律事務所に勤務する若手事務局へ継承したことがある、と回答してきました。
そこで、川崎合同法律事務所として事務所開設五〇周年に合わせて、根本さんからの聞き取りを実施し、小冊子を編むこととしました(聞き取りの担当は、根本さんの「要望」に合わせて、若手弁護士と若手事務局の組み合わせとしました)。
三 聞きとりの内容は、多岐にわたるのですが、その取組みそのものは、現代に脈々とつながっています。川崎民商弾圧事件は、今の倉敷民商弾圧事件や重税反対運動に、東芝臨時工解雇事件は、今の非正規のたたかい、その立法闘争に、新島ミサイル射爆場事件は、全国各地の基地反対運動に、そして、沖縄違憲訴訟は、辺野古、高江の反基地運動や「沖縄差別」撤廃闘争に、それぞれ連なり、今もって色あせずに今日的課題となっています。
だからこそ、根本さんは、たたかいの継承を願って若者に伝えたい、と発したのでしょう。
四 この小冊子は、事務所開設一〇周年記念誌に根本さん自身が冠した、「自由・人権・統一」というタイトルをメインにして、「弁護士生活六〇周年に向って」「君たちに伝えたい 根本孔衛一代記」とサブタイトルを付して発刊することとしました。
発行部数は限定されていますが、二〇一八年四月一三日の五〇周年レセプションの参加者に配布する外に、根本さんの関係者、事務所関係者にも無償で(但し、送料は自己負担でお願いしています)若干配布し、根本さんの活動歴、人となりを知って頂きたいと考えています。
原稿はすでに印刷所に入稿し、完成は一月早々になると予定しています。
そこで、今からのお知らせです。ご希望の方は、川崎合同法律事務所までFAX(またはTEL)でご連絡下さい。
なお、二月一七日開催の自由法曹団の常任幹事会に重くない程度で私が持ち込みます。ご希望の方は、席上、私にお声掛け下さい(手渡しなので文字通りの無償配布、送料も無料となります)。
以上、事務所五〇周年記念レセプションの予告とともに「根本パンフ」発刊のお知らせと致します。
(連絡先)
川崎合同法律事務所(TEL 〇四四―二一一―〇一二一、FAX〇四四―二一一―〇一二三)
神奈川支部 中 野 直 樹
会津駒ヶ岳への道
八月四日朝、青空が広がり、まずまずの天候のようだ。檜枝岐村の中心はこの山の直下にある。山頂は二一三二mなので一二〇〇mの高低差の登り下りが本日の日課だ。八時少し前に国道沿いの運動場の駐車場に車を止め、滝沢登山口から林道を歩き始めた。林道の上部に駐車場があるのだが、下りルートが別であり、車を取りに登り返すのが大変そうなので下から歩くこととした。二〇分ほど歩くと既に道端に一〇数台の車が駐車してあった。その中に徳島ナンバーのワゴンタイプの一台が異様な特徴を発して目を引いた。屋根のキャリアラックにビニールシートに包んだ荷物を載せ、車の内部には布団や毛布が所狭しと詰まっていた。フロントガラスには、この車には盗んで役立つようなものは一切ありません、という趣旨の手書きの文字の書かれた段ボール紙が貼り付けてあった。
登山道はほぼ直登で歩き安い。一三〇〇mまでミズナラ林、一五〇〇mからブナの世界だ。樹林帯を抜けワタスゲが揺れる湿原の木道となったあたりで、右手に駒ヶ岳山頂に向かうなだらかな稜線が見えた。視界がよかったのはここまでで、次第にガスがわいてきた。一〇時四〇分、駒の小屋に着いた。さっそく五〇〇円の缶ビールを仕込んで乾杯。駒の大池の岸辺に咲くハクサンコザクラを写真に収め、山頂に連なる木道を歩んだ。
彩り
一一時三〇分、会津駒ヶ岳山頂を踏んだ。浅野さんの九五番目の百名山登頂の写真を撮った。私は二度目だった。一等三角点の立派な石が埋められていた。北面と南面に木製の会津駒ヶ岳山頂パノラマガイドが設置されており、北面看板には越後駒ヶ岳、明日登る予定の会津朝日岳、南面看板には日光連山、富士山、上州の山々、上越の山名が刻まれていたが、肝心の展望はガスに阻まれた。
さらに折り返し点の中門岳に向かう、稜線の大きな尾根はずっと湿原であり、所々、残雪に被われていた。あちこちにハクサンコザクラの群落があった。この花は艶やかな五片の紅紫色の花びらであるが、一片が二つに裂けているので一〇片に見える。気品がある。
途中で、赤いヘルメットを被り、腰に毛皮の尻当てを巻き付け、長靴を履いた、なんとも奇抜な服装をしている男性とすれ違った。その数十メートル後に同じく赤いヘルメットをしている連れと思われる女性とも、すれ違いのこんにちはの言葉を交わした。
中門岳といっても頂があるわけではなく、いくつもの池塘が白いワタスゲを映していた。木道の脇でのんびりと昼食をとった。
帰り道、はるか前方に、赤いヘルメットの二人が木道に腰をおろしている男性と立ち話をした後、駒ヶ岳山頂に向かう姿が見えた。私たちもその場所に差しかかると腰をおろしている男性が赤いヘルメットの二人の解説をしてくれた。二人は徳島からきている夫婦で、この三ヶ月間、車で北海道、東北と移動・車中泊をしながらあちこちの山に登っている、との話を聴いたとのことだった。登山口に止めてあった張り紙のワゴン車の持ち主なのだ。この男性はしきりに、三ヶ月間もずっと顔を付き合わせている二人の忍耐強さが信じられないと言っていた。初対面のこの男性と、妻から逃れて山にいる開放感について共感するものがあった。
茶屋にて
一三時二〇分過ぎ、駒の小屋を過ぎて、富士見林道を大津岐山までいき、キリンテまで下った。コースターム三時間五〇分どおりだとバスの時刻ぎりぎりで茶屋でビールを飲む時間がない。運転する私を除く二人はそのことで頭を一杯にしながら、尾根を大きく巻いている山道を休まずに下った。その甲斐あって一六時一〇分茶屋に着いた。二人はたちまちに缶ビールをあけた。たまらず私はノンアルコールビールを手にした。茶屋の天井には、三〇cmを超える岩魚の魚拓が一〇数枚貼られていた。最高は三八cmだった。また木彫りの作品が展示されていた。その中に四〇cmサイズの木彫り岩魚が目を引いた。すべて茶屋のおじさんの手になるものだそうだ。おじさんは、なにしろこの茶屋の屋根が見えなくなるほどの雪がつもり、冬の時間つぶしだ、と言っておられた。私は、この岩魚が気に入ったので売ってもらえないかと頼んだが、おじさんは首を縦にふらなかった。
尾瀬のハイカーを乗せた最終バスに乗り、車に戻り、今晩の宿、旅館ひのえまたに入った。昨夜の宿のすぐ隣である。(続く)
東京支部 伊 藤 嘉 章
八 式年遷宮の効用と本当の意味
式年遷宮は、林業の振興だけではなく、宮大工の技術の承継に資する効用があるという。しかし、これは結果論ではないか。
式年遷宮が初めから今と同じように大掛かりであったわけではなく、途絶えていた時期もあった。建物の配置、部材の寸法、飾り金具の存否などに変遷があったことは前掲の「伊勢神宮と天皇の謎」を読むとわかる。また、式年遷宮の費用は、租税でまかなわれてきた。江戸時代は幕府が負担し、明治からは国庫支弁であった(以上は所功「伊勢神宮」(講談社学術文庫)による)。
(1)「アマテラスという皇祖神の子孫が国を統治するというイデオロギーを闡明にする舞台装置としての伊勢神宮を、時の権力者が費用を負担して式年遷宮を二〇年ごとに行ってきたという執念のようなものが感じられる」
(2)「社殿も衣装もあたらしくなれば、神様も、社殿を見るものも気分が一新し、あらたな生命が吹きこまれる」
(1)(2)は、前掲の「伊勢神宮と天皇の謎」の要約です。
さらに、式年遷宮の儀式によってアマテラスが一旦死んでよみがえることが擬制されるという論述を見つけました。
「遷宮の本義は……神鏡に象徴される天照大神は遷宮祭にあたって、一度は亡くなって船型石棺に酷似する御船代におさめられ、いわば架空の天を航行して新正殿へと運ばれ、そこで再びよみがえる、と考えられていたのである」川添登「木と水の建築 伊勢神宮」(ただし、これは、植島啓司「伊勢神宮とは何か 日本の神は海からやってきた」の一九四頁からの孫引です)
九 伊藤の独り言 その三
(1)「アマテラスは二〇年ごとに一度死んですぐに復活して新たな生命を吹き込まれ、永遠の命を紡いでいく。これが式年遷宮の本当の意味ではないか」
(2)「そして、このことは、天皇個人が天寿を全うしても、あるいは生前退位しても、万世一系の天皇がこの国を統治していくものであることを示していることにほかならないのである」
(3)「だから、国家が執念をもって式年遷宮を行ってきたのではないのか」
ただし、この(1)(2)(3)は、筆者の妄想であり、やはり引用文献はありません。
一○ 明治憲法と式年遷宮
明治二二年(一八八九年)に第五六回式年遷宮が行われた。この年は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳い上げた明治憲法が発布された年でもあった。これは偶然か。あるいは、政府が国家神道による統治機構をつくる目的で、意図して作出した舞台装置なのか。但し、前掲の「伊勢神宮と天皇の謎」の著者も、かかる研究があることは寡聞にして知らないという。
この第五六回式年遷宮が明治政府にとって実質初めての遷宮であった。内宮については、江戸時代に行われていた建物配置を取りやめ、現在行われている形にした。外宮は当時のままにしたという(前掲書二一六頁)。
そして、明治四二年(一九〇九年)の第五七回式年遷宮にあたって、内務大臣から「コンクリート基礎上に礎石を据え付け、その上に柱を立てる」案が上奏されたが、明治天皇はこれを却下したという(前掲書二三八頁)。
いにしへの 姿のまゝに
あらためぬ 神のやしろぞ たふとかりける
明治天皇御製とのことです。
このようにしてみると、今行われている式年遷宮の形は明治時代にできたことがわかります。
一一 伊藤の一人ごと その四
「戦後は、政教分離によって、一宗教法人となった伊勢神宮は自費と寄付金で式年遷宮の費用をまかなってきた」
「しかし、伊勢神宮は単なる一宗教法人ではないのです。靖国神社等の少数の神社を除いて、全国約八万の神社を配下に従えるコンツエルンの頂点に君臨しているのです。だから、二〇一三年には、五五〇億円もの資金を集めることができたのです。費用の調達で、末端の神社に負担を強いることもあるといわれている。今後、式年遷宮はどのようになっていくのか」
一二 コロッケ、牡蠣フライと熱燗
内宮参拝後、おかげ横丁で松阪牛のコロッケを食べる。小さいが一個百円である。二個食べた。次に、おはらい町で熱燗が飲める店を探す。牡蠣フライがある店に入る。熱燗は食事を注文しないと出せないという。参拝前に、ほどよい味付けの伊勢うどんとご飯を食べたばかりなので、熱燗は断念し、生ビールと牡蠣フライを頼んだ。
一定の年齢になると、話題がどうしても病気の話になるといわれるが、この時も病気の話となった。会話の内容については書きません。
一三 榊原温泉での食事会
榊原温泉に泊まる。夜の食事会では、総会後の懇親会と同じく、伊勢志摩サミットで振舞われたという「作」、「半蔵」を飲む。今日は寝るだけで家に帰らなくてよいので存分に飲んだ。
「「八海山」の純米吟醸だけが日本酒ではないことを認識しました」(伊藤の独り言 その五)
以上で、その二「式年遷宮の本当の意味」は終わります。その三「後世に残る言葉とは」に続きます。