<<目次へ 団通信1622号(2月1日)
船尾 徹 | *改憲阻止・特集* 「安倍九条改憲」の危険性の検討にあたって |
渡辺 輝人 | 「ありがとう自衛隊」キャンペーンについて思うこと |
井上 正信 | 日本が航空母艦を保有する日 |
西田 隆二 | 「宮崎航空自衛隊新田原基地爆音訴訟」 |
渡邊 純 | 生活保護世帯の給付制奨学金収入認定事件で賠償認容判決 |
永尾 廣久 | 新春ニュースのトピックス(後半) |
後藤 富士子 | 「幸福追求権」を軸に紛争解決を |
大久保 賢一 | 「保有国を巻き込む必要性」という議論の意味すること |
東京支部 船 尾 徹
年が明けて二〇一八年、私たちは、「安倍九条改憲」阻止のための歴史的大闘争を多くの市民とともにたたかって、改憲策動の息の根を止めるたたかいの年を迎えました。
いま、この国の政治を動かしているのは私たちひとりひとりの市民の声です。この市民の声が「安倍九条改憲NO!三〇〇〇万署名」に結集し、市民と野党の共同による改憲阻止の運動として全国各地で始まりだしています。
朝鮮半島危機における自衛隊の活動と「日米軍事一体化」の進行
戦後七二年を経るなかで、北朝鮮の核ミサイル開発をめぐって朝鮮半島における米朝間の対立が軍事的衝突となって生じる深刻な犠牲・不安を、この国の国民は戦後初めて実感せざるを得ない事態となっています。朝鮮半島危機に対応する安倍政権による異常な対米追随のもとで、二〇一五年の日米ガイドラインと戦争法制の発動としての日米共同演習が日常化し、「日米軍事一体化」が急速に進展している状況を正確に捉えて、「安倍九条改憲」の危険性を訴えていくことが重要となっています。
戦争法制にもとづいて、昨年五月一日朝鮮半島周辺で北朝鮮に威嚇を続ける米海軍の補給艦に対する海上自衛隊最大のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」による防護活動、米空母カールビンソンの戦闘群を構成している米イージス艦への給油活動等を自衛隊が実施しているのです。戦慄すべきはグアムのアンダーセン基地から米戦略爆撃機B1が朝鮮半島にむかって出撃し、韓国内で北朝鮮に対する威嚇・制裁活動ともいうべき爆撃訓練を行った際、この戦略爆撃機B1が日本の領域から韓国の領域まで移動中、航空自衛隊築城基地からF2戦闘機が、新田原基地からF15戦闘機が、この戦略爆撃機を護衛して飛行する訓練が、国民に隠れて実施されていた事実が明らかとなっています(安倍首相の一月二二日施政方針演説「北朝鮮情勢が緊迫する中、自衛隊は初めて米艦艇と航空機の防護の任務に当たりました」)。
この米戦略爆撃機B1による出撃訓練等の動きに対抗してか、北朝鮮はグアム周辺への弾道ミサイルによる照準射撃を検討すると対応したのは周知の通りです。また昨年九月には原子力空母レーガンが北朝鮮に圧力をかける狙いのもとに横須賀から出港して、朝鮮半島周辺海域で北朝鮮を牽制する活動を展開した際、海上自衛隊の護衛艦が関東南方から沖縄周辺に至る海域で合同訓練を実施している事実が明らかとなっています。空母レーガンはすでに六月に原子力空母カール・ビンソンとともに朝鮮半島の周辺海域に派遣された際にも、海上自衛隊や韓国海軍と共同訓練を行っているのです(石井暁「変貌する自衛隊日米同盟と『安保法制』のくびき」、上原久志「進む日米軍事一体化と日本の基地」、「法と民主主義」No・五二二参照)。
「日米軍事一体化」の進行による戦争への危機
北朝鮮に対する威嚇・制裁活動ともいうべき自衛隊による米艦防護活動、米艦への給油活動、戦略爆撃機B1の護衛飛行訓練の最中に、米・朝の両軍が偶発的な事象を契機にひとたび戦端を開いたとき、日本は不可避的にアメリカの戦争に巻き込まれ、戦争の当事者になっていくのは避けられません。
朝鮮半島危機の対応として行われている自衛隊の米艦防護、米戦略爆撃機の護衛飛行等の日米軍事協力の指揮・作戦は、二〇一五年ガイドラインにもとづく日米軍事一体化の進行のもとで米軍指揮下で行われているとみて間違いないでしょう。
朝鮮半島危機への日米両軍の連携した活動に関連した政策面および運用面(作戦面)の調整をする常設の「同盟調整メカニズム」のもとで訓練・演習が実施されているのです。平成二九年版「防衛白書」は、「日米共同司令部」としての同メカニズムを活用して、北朝鮮の弾道ミサイル発射に対する日米間の連携した対応を認めています。
また同ガイドラインにもとづいて設置された「共同計画策定メカニズム」は、制服組間で相互の交戦規則や指揮系統に踏み込んで共同作戦計画が作成し、米軍指揮下の自衛隊の補完部隊化がいっそう進み、その独自能力を喪失しているのです(前田哲男「自衛隊を指揮するのは誰か」世界二〇一七年四月号)。
日米軍事一体化している自衛隊と「ありがとう自衛隊」
安倍政権は、「すべての選択肢はテーブルの上にある」として軍事力の行使も辞さないとするトランプ政権をひたすら支持し、「必要なのは対話ではない、圧力だ」と圧力強化と制裁を繰り返しながら、イージス・アショアなどによるミサイル防衛体制、敵基地攻撃能力を有する新たな巡航ミサイル等の導入、護衛艦「いずも」を戦闘機の発着が可能な空母に改修し日米両軍の共同運用による一体化の構想等々によって、「専守防衛」から自由に海外侵攻する外征軍としての道をめざして暴走しています。
国民に隠れて戦争につながりかねない日米一体化した上記のごとき訓練・演習の実施は、米・朝間の軍事的危機を高め、戦争への危機を招来しているのです。
こうした活動をしている自衛隊は、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」がふりまいている災害救助活動をしている「ありがとう自衛隊」とはまったく異なる軍隊として、国民を知らぬ間に戦争に巻き込んでいく危険性を増大させている存在となっていること、また「三六五日二四時間、日本の守りに専念する自衛隊」といった専守防衛にとどまる自衛隊などではなく、海外侵攻する外征軍としての性格を強めていること、米軍の補完部隊として米軍の指揮下で世界のどこにでも後方支援(武器弾薬を含む物資、人員の輸送、補給等)のための軍事行動=戦争に参加する戦争法制の構造のもとで、自衛隊を九条に明記することがきわめて危険なものとなっていること、フルスペックの集団的自衛権行使の容認の扉を開き、「武力によらない平和」から「武力による平和」へと、憲法の基本的内容が改変されること等々を、ひろく訴えて三〇〇〇万署名運動を進めていく必要があります。
「安倍九条改憲」の危険性の検討にあたって
「安倍九条改憲」の危険性については、戦争法制を合憲化すること、際限のない「戦力」の保持を認めることになること、徴兵制・徴用制を合憲化すること、自衛官の軍事規律を強化すること、軍事機密が横行すること、自衛隊のための強制的な土地収用を認めること、軍事費の増大と産軍複合体・軍学共同体を形成してしまうこと等々(山内敏弘「『安倍九条改憲』論の批判的検討」法と民主主義No・五二一)、立憲主義と憲法による軍事力統制(コントロール)のメカニズムにより自衛隊を制約してきた戦後の政治とルールの破壊の危険性を強調する石川健治教授等々、多様な視点にもとづく批判により改憲阻止の運動の翼をおおいに拡げていくことが重要であることはいうまでもありません。
本稿は、「安倍九条改憲」が、国民の圧倒的多数が自衛隊を合憲として容認する国民意識に依拠して、「ありがとう自衛隊」「日本の守りに専念する自衛隊」と情緒に訴えて推進している改憲運動を批判するうえで、外征軍化している自衛隊の実態、特に、自衛隊が戦争法制成立後、米軍(梅林宏道「在日米軍」岩波新書は、「軍事力を地球上のいかなる場所にも迅速に投射できる国」の軍隊であるとしている)の補完部隊としての性格をいっそう強め、朝鮮半島危機のもとで米軍と一体となって戦争を挑発する危険な役割を担って、わが国を破滅の道に引きずり込みかねない存在となっていること、そうした自衛隊を憲法に明記する「安倍九条改憲」の危険性を訴えることの重要性を指摘したものです。
(二〇一八年一月二四日記)
京都支部 渡 辺 輝 人
私の自宅にも、先日、「ありがとう自衛隊」と大書され、櫻井よしこがにこやかにほほえむチラシが投函されていた。三〇〇〇万署名を進める上での困難は北朝鮮情勢が主なものであるようだが、日本会議周辺のこのような言説にも脅威を感じる意見を聞く。しかし、私は、この「ありがとう自衛隊」キャンペーンは、相手方のアキレス腱になる可能性もあると思っている。
吉田茂が防大生に贈った言葉
吉田茂は、一九五七年、防衛大学校の第一期卒業生に対してつぎのような言葉を語ったとされる。
「自衛隊が国民から歓迎されチヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。自衛隊の将来は君たちの双肩にかかっている。しっかり頼むよ」
語った場面については、卒業式の祝辞だとされることが多いが、実際は、吉田が卒業アルバムの制作費用を立て替えた関係で、防大生を大磯の吉田邸に呼び寄せた際の言葉だそうである。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000152686
今日、中々味わい深い言葉である。自衛隊員が日陰者である方が国民は幸せなのである。この「国民」には、吉田が意図したかは別として、自衛隊員自身も含まれるだろう。この言葉を左派が言うとネット上で活動する右翼が憤激しそうだが、吉田茂が言ったとすれば、正鵠を得ているだけに、反論も難しいのではないだろうか。
「兵隊さんよありがとう」の歌
一方、自衛隊に「ありがとう」という日本会議のキャンペーンを聞いていて思い出したのが、以下の歌である。Wikipedhiaで調べた限りだが、一九三八年に朝日新聞「皇軍将兵に感謝の歌」懸賞に応募し、佳作をとったそうである。
兵隊さんよありがとう
作詞・橋本善三郎 作曲・佐々木すぐる
一 肩をならべて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦った
兵隊さんのおかげです
二 夕べ楽しい御飯どき
家内そろつて語るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです
三 淋しいけれど母さまと
今日もまどかに眠るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦死した
兵隊さんのおかげです
四 明日から支那の友達と
仲良く暮らしてゆけるのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために尽くされた
兵隊さんのおかげです
兵隊さんよありがたう
兵隊さんよありがたう
読めばすぐに分かるが、「兵隊さんよありがとう」は、兵隊さんがお国のために闘い、お国のために傷つき、お国のために戦死したことに対する謝意を表した言葉なのである。この歌に象徴される世論によって戦地に送り込まれ、戦死した「兵隊さん」が三〇〇万人いる。この歌は、実際には、「ありがとう」と謝意を述べながら、兵隊さんに、闘い、傷つき、戦死することを強要する残酷な歌だったのである。
「ありがとう自衛隊」は誉め殺しの論法
この歌を見返した後で、二〇一八年の世論に戻した場合、「ありがとう自衛隊」キャンペーンの持つ意義は明確になるだろう。「ありがとう」と言いながら、外征部隊化した自衛隊を憲法に明記し、自衛隊員に、闘い、傷つき、戦死することを強制するキャンペーンである。よく言っても誉め殺し、悪く言えば死神の言葉だろう。
私のツイッターはフォロワーが二万六〇〇〇人おり、知識人や学者のフォローも多いが、私がこの手のことを書いたツイートはよく拡散されるし、ネット上で活動する右翼層からの反撃も弱々しい。ツイッター上の世論に限定した話だが、この間のNHKの精力的なスペシャル番組作成の成果もあってか、旧日本軍が究極のダメ組織であったことは、割と広く浸透している。旧軍とブラック企業の体質の類似を指摘する議論もよく見られる。日本会議周辺の「ありがとう自衛隊」キャンペーンと、旧軍や戦時中の世論のイメージを重ね合わせていくやり返しの宣伝が大切だと感じる。そういえば、櫻井よしこにもんぺを着せて、国防婦人会のコスプレをして頂いたら、よく似合いそうである。
また、京都府下の話になるが、海上自衛隊の基地がある舞鶴市では、革新政党が市議選を闘うときは「自衛隊員も守ります」というスローガンを掲げ、好評なんだそうである。「ありがとう自衛隊」に反撃し、押し返す言論は、すでに、私たちの中にあるのだと思う。
広島支部 井 上 正 信
一 一二月二五日から二七日にかけて、新聞各紙で防衛省が空母保有構想を検討していることが大きく報道されました。その内容は、ヘリコプター護衛艦いずも、かがを改修して、F35Bライトニングを搭載して運用できるようにする、来年行われようとしている防衛計画大綱の見直しへ盛り込まれることも想定しているというものです。
二 現在の防衛計画大綱(二五大綱)は第二次安倍内閣が二〇一三年一二月に閣議決定したもので、一〇年間の防衛計画を定めた基本文書です。五年経過で見直すことも述べています。
二五大綱から五年経過する来年一二月の見直しを前提に、防衛省内部で検討が進められています。それも二五大綱の修正というよりも、新しい大綱の策定を目指していると思われます。その理由は、北朝鮮情勢の緊迫化が背景となっています。
これまで新聞で報道された次期防衛大綱の内容としては、長距離巡航ミサイル保有ですが、これに空母構想が明らかになりました。この二つはいずれも、専守防衛政策を大きく踏み越える内容として、憲法九条に直接抵触するものです。今回は、空母構想について少し詳しく述べてみたいと思います。
三 空母構想の具体的な内容は、海自最大の艦船である護衛艦いずも、かがの改修です。両艦は基準排水量一九五〇〇トンです。艦船の大きさを表す世界標準の単位は満載排水量です。基準排水量は、満載排水量から燃料と水の搭載量を引いた数字です。軍事問題に詳しいある新聞記者に以前に聞いたところでは、基準排水量の一・五倍が満載排水量に相当するとのことでした。そうすると、いずも、かがは満載排水量が約三万トンに相当することになります。
四 いずも、かがは全通甲板といって、空母の飛行甲板と同じ型です。これと同じタイプは、護衛艦ひゅうが、いせ、輸送艦おおすみ(同型艦にはしもきた、くにさきがあります)です。
いずも、かがは一四機のヘリコプターを搭載し、同時に五機が甲板上で離発艦出来ます。そのためヘリコプター空母とも称されていました。いずも、かがは、当初から空母に改修されるのではないかとささやかれていたようです。なぜなら、両艦の航空機格納甲板の天井高、格納甲板から飛行甲板へ航空機を運ぶエレベーター、開口部はF35Bのサイズに合わせていたというのです。
今回報道された空母構想は、ヘリコプターに代わり米海兵隊航空部隊が運用しているF35Bライトニング戦闘機を搭載して運用するというものです。F35Bは、三タイプあり、F35Aは空軍用でこれを自衛隊に配備する計画です。F35Cは海軍用で、攻撃型原子力空母に搭載されます。F35Bの特徴は、エンジン排出口を下向きへ可変でき、その他の装置を併せて垂直離着陸や短距離離着陸が可能という点です。ですからカタパルトのない強襲揚陸艦や、いずも、かがでも離着艦できるのです。
米軍はF35Bを強襲揚陸艦(満載排水量四万数千トン)へ搭載して、海兵隊航空部隊が航空作戦にあたります。防衛省が検討しているものもこれと基本的に同じ運用構想です。
五 米軍は、F35Bを搭載する強襲揚陸艦のことをライトニング母艦と呼称しているようです。実は、海軍へ配備する予定のF35Cの実戦配備が遅れており、二〇一八年以降になる見込みです。現在攻撃型原子力空母に搭載している戦闘機はFA18スーパーホーネットです。
F35Bとスーパーホーネットを比較すると、その特徴はステルス性能においてF35Bは格段の能力を持っていることです。そのため、仮に両戦闘機が空中戦闘をした場合、F35Bはスーパーホーネットの敵ではないというのです。
F35Bを搭載したライトニング母艦は攻撃型原子力空母よりも攻撃能力が高い、だから建造費用も運用費用も遙かに高価な原子力空母はもはや時代遅れだという議論もあるくらいです。むろん、中国が運用している空母遼寧やロシアの本格的空母よりも攻撃能力は上回るのは当然です。
六 我が国の基本となっている防衛政策である専守防衛政策では、日本が攻撃されたときに相手の攻撃を排除することに徹し、相手国を攻撃することは米軍の役割で、自衛隊はその後方支援を行うというものです。米軍は「矛」自衛隊は「楯」という役割分担です。専守防衛政策では、空母のような兵器は本来不要です。
七 専守防衛政策とは、一九七〇年第一回防衛白書において「我が国の防衛は専守防衛政策を本旨とする。」と明記され、その後の防衛白書で「相手からの武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のために必要最小限度にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限度のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」と定義され、安保法制施行後の二〇一六年、二〇一七年度防衛白書でも、これと全く同じ定義で日本の防衛政策として維持されています。
つまり、専守防衛政策は自衛隊が憲法九条に適合するという証ともなっているのです。ですから、安保法制が合憲であると政府が主張する限り、専守防衛政策という旗は降ろせないのです。
八 専守防衛政策の結果、敵基地攻撃能力は法理上九条に反しないが、防衛政策として保有しないとか、性能上専ら相手国の領土の壊滅的破壊に用いられる兵器(具体例としてあげるのがICBM、攻撃型空母、戦略爆撃機)の保有は許されない、等の政府見解となります。
九 来年度の防衛大綱見直しに向けて検討される、巡航ミサイル保有や空母保有構想は、これまで維持してきた専守防衛政策からの脱皮を狙っていると言わざるを得ません。
安保法制は九条に違反する法律ですが、この上さらに安倍内閣は九条改正を行おうとしています。それにより九条二項の制約を取り払おうというものです。空母保有構想も巡航ミサイル保有計画も、専守防衛政策を否定することで、九条改憲に先行させて既成事実化をはかるものです。
一〇 北朝鮮の脅威や中国との尖閣諸島をめぐる紛争などから、特に中国の軍事力に対抗するためには空母構想が必要だ、憲法九条でも許されるとする立場があります。しかし、この論者でも専守防衛政策を正面から否定しないでしょう。政府も防御的な運用をするのでこれまでの政府答弁と整合すると説明するでしょう。
ところがいずも、かがへF35Bを搭載する構想を新聞が報道するよりも以前に「軍事研究」誌一二月号が「海自いずも型空母とF35B」という論文でこのことを詳細に紹介していました。これによると、いずも型空母の運用構想は、中国海軍との軍事力比の改善、海軍力によるプレゼンス強化、船団護衛や対地攻撃、外洋作戦などの新任務対応だと述べています。
プレゼンス強化とは艦砲外交の意味です。これらの運用構想は専守防衛政策では説明できません。この論文はそのことを十分意識しており、いずも型空母不要論に対して、専守防衛の範囲なら合理性がある、基地航空隊で十分だとしています。言い換えれば、いずも型空母は専守防衛政策を超えるものということなのです。
一一 いずも、かがを空母に改修するという構想にはもう一つの狙いがあります。それは、F35Bを運用する米海兵隊航空部隊に、空母に改修されたいずも、かがを実戦で使用させるというものです。海上自衛隊と米海軍は三軍の中で最も一体運用が進んでいます。この構想は情勢緊迫状態での敵国面前での共同訓練(威嚇目的の共同訓練です)や重要影響事態、国際平和共同対処事態での後方支援、存立危機事態での集団的自衛権行使などの際に、米海兵隊のF35Bの飛行甲板代わりにいずも、かがを使用させるのです。その際に、次の戦闘に飛び立つ準備をしているF35Bに対して、給油や弾薬の補給、整備をするというものです。いずれも安保法制で可能となった任務です。
一二 いずも、かがを改修して空母として使用するという構想は、安保法制をより効率的に実行することに加えて、近い将来に憲法九条改憲をにらんで、それを先取りする既成事実を作ろうというものと考えられます。私は安保法制が憲法違反であること、九条改憲を許してはならないとの立場から、防衛省が検討している空母構想の危険性を多くの方に知ってもらうため、この文章を書きました。
この文章は、NPJ通信「憲法九条と日本の安全を考える」の一月六日にアップされたものです。
宮崎県支部 西 田 隆 二
一 はじめに
航空自衛隊新田原基地における戦闘機の爆音に六〇年近く悩まされてきた地域住民一二二名が二〇一七年一二月一八日、夜間の飛行差止め及び一定以上の騒音発生の差止め、そして損害賠償(過去だけでなく将来請求も)を求めて提訴に踏み切った。同様の訴訟は昭和五〇年提訴の小松基地訴訟他六か所で係属しているが、自衛隊だけが使用する基地としては初めての提訴である。
二 新田原基地の特徴
新田原基地は、宮崎県中央部の新富町(宮崎市から四〇分程度)にある航空自衛隊の基地である。一九四〇(昭和一五)年に旧陸軍新田原飛行場として建設され、主として教育隊としての役割を持っており、戦時中は落下傘部隊、そして特攻隊の基地としての役割も担った。
戦後一九五七(昭和三二)年に航空自衛隊操縦学校分校として再開されたが、「操縦学校」という名のとおり、未熟なパイロットによる墜落事故が頻発した。昭和六一年には、西都市で住宅地に墜落し、パイロット一人が死亡、民家が焼失するという痛ましい事故が周辺住民の記憶に残っている。
二〇〇七(平成一九)年に米軍の訓練移転を受け入れ、基地内に米軍用の宿舎が建設され(対外的には隊員用とされる)、以降公式な訓練が五回実施されている。ちなみに、ここ数年実施されていなかったが、昨年提訴の報道がなされた以降久々に実施され、今年一月にも実施する旨報道されており、住民感情を逆なでしている。
隊員数は約一八〇〇人であり、所在地新富町の人口が約一万八〇〇〇人であるのに対して、その比重は重い。即ち、様々な利害得失が絡み合っており、提訴までの壁となっていた。
新田原基地のホームページによると、「航空自衛隊唯一のF-15基本ライセンスを取得できる部隊」を標榜しており、教育隊であるがゆえに、飛行回数、複数機での離陸、離着陸の繰り返し、飛行タッチ&ゴーの多さ等が目立つ。騒音の実態について、基地東側でW値(うるささ指数)が八四・四、年間騒音発生回数一万九七七九回、基地西側のW値が八四・三、年間騒音発生回数一万七六六五回といった報告がある(平成二六年度:九州防衛局データ)。これらの数値は、従前の裁判例から見て、極めて重い損害と認定されるレベルである。
騒音のひどさを言葉で表現するのは困難であるが、実体験した弁護団の率直な感想は、「騒音」のレベルではなくまさに「爆音」であり、事件名も「新田原基地爆音訴訟」となった。
三 地元の運動
これほどの爆音がなぜ今までとりあげられなかったか。上記のとおり、所在地の新富町における自衛隊の比重の重さである。実に町の人口の一割が自衛隊員であり、家族や縁者を合せると、自衛隊に関係のない人をさがす方が難しいのである。
当然ながら、基本的に「共存共栄」、協力的な土地柄となってきた。防音工事等補償問題に関しては、継続的に議会や区長会などが陳情してきたが、基本的に「共存共栄」のスタンスだった。あまりのひどさに、以前より裁判をしたいという声はあったが、自衛隊の存在の大きさからか、声が広がるというところまでは無かった。
それでも二〇一五年一月ころより、他の基地訴訟の前進に励まされ、地元で勉強会を開くなど地道な取り組みが始まり、筆者も何度か参加した。
このような中、二〇一六年一一月、防衛省が突如コンター(騒音補償区域の内外・補償の程度を定める境界線)の見直しをする旨の報道があり、住民の不満が爆発した。見直しで特に大きな影響を受ける西都市議会が、「飛行差止めの運動も辞さない」旨の議会決議をするなど厳しく反対の声が上がった。毎年実施される「航空ショー」に来賓として招待されていた周辺二市三町の首長が参加を拒否するなど、断固とした姿勢が示された。
このような流れを受けて、二〇一六年一二月、地元住民を交えた弁護団準備会の勉強会を行ない、二〇一七年三月、全国爆音訴訟弁護団事務局長の神谷誠弁護士を迎えて講演会、意見交換会を行うなどし(約七〇人)、一気に訴訟の機運が盛り上がった。
このような運動の盛り上がりに押され、同年四月、防衛省はコンターの見直しを撤回せざるをえなくなったが、提訴の機運は衰えることは無かった。
四 提訴に至る経過
二〇一七年一月に正式に弁護団を立ち上げた。全国の爆音訴訟の積みかさねた実績があることもあり、興味を示す若手弁護士も手を挙げてくれ、現在実働として参加を表明している弁護士が二九名(うち常任一五名)にまで達している。常任弁護団一五名のうち九名が六〇期台という清新な構成となっている。勿論、筆者を含む五名の団員(年森俊宏、成見暁子、工藤伸太郎、谷口純一)もその中で奮闘している。
同年八月から、合計二三回の現地説明会を開いたが、常任弁護団で手分けをして毎回参加した。住民の参加しやすさを考え、説明会は土日、しかも夜が基本で、片道四〇分の道程を各々車を運転して臨んだ。最初の説明会の日、台風襲来のため開催延期も考えられたが、念のため会場に出向くと、実に四〇名近くの住民が集まり、思いの強さを感じた。帰途、道路冠水の中決死の覚悟で自宅に帰ったことが思い出される。
住民の強い思いに背中を押され、そして、全国の弁護団、原告団に励まされ、なんとか一二二名の原告が集まり、二〇一七年一二月一八日、宮崎地方裁判所に提訴できた。
全国で爆音訴訟は取り組まれているが、上述のとおり、自衛隊単独の基地での裁判は初めてである。また、原告数が一〇〇名を越え、今後さらに広がりを見せることになると思われる。準備を進める中で、検討すべき課題が多く、悩まされることもある。しかし、「騒音」ではなく「爆音」であることを体験し、このような環境で日夜暮らしている住民がおられることを考えると、自然と準備に力が入る。
いよいよ裁判が始る。初めてのことばかりであり、試行錯誤が続くと思うが、住民の強い重いと全国の闘いに励まされながら引き続き頑張りたい。
福島支部 渡 邊 純
これまで、団通信や五月集会特別報告、昨年の福島常幹などでご紹介してきた標記事件の判決が、本年一月一六日、福島地方裁判所で言い渡されました。
生活保護を受給する母子世帯の高校生が給付制奨学金(合計年間一七万円)を受給できることとなり、生活保護で支給される高校等就学費の対象外の就学費用に充てたいと相談し自立更生計画を提出していたにもかかわらず、奨学金全額が収入認定され保護費減額処分がなされてしまった事案で、慰謝料を求めて訴訟をたたかってきました(提訴後、厚労相が取消裁決をしたため、処分取消し部分について訴えの取下げ)。
判決は、「保護の実施機関には、被保護者に対して適切に助言をするとともに、自ら調査すべき義務があった」とし、奨学金の取扱いについての実施要領の解釈を厚労省に問い合わせることもなく、問答無用で収入認定した福島市の処分を、国賠法上違法であると断言しました。さらに、親子の損害についても、追加支給により損害はないとの福島市の主張を明確に斥け、「高校修学を経済的に支えることができないかもしれないとの(母親の)不安」の深刻さ、努力をして奨学金を得られるようになったにもかかわらず、これを「事実上没収」するかのごとき本件処分により、「保護受給世帯に生まれたという本人の如何ともしがたい事情で自らの努力を否定されたとも受け取れる経験を余儀なくされた」子の苦痛を適切に認定し、それぞれ五万円の慰謝料を認めました。
奨学金については自立更生計画の提出を要件とせず収入認定から除外すべきとの当方の主張は認めず、慰謝料の額も低額であるなど、不満は残るところですが、生活保護で支給される高校等就学費では、公立高校への進学でも不足が生じることを適切に認定し、保護世帯でも高校に行きたい、行かせたいという親子の当然の願いを率直に受け止め、このような願いに背を向ける冷たい行政に対し警告を発した判決であり、子どもの貧困対策や貧困の連鎖を断ち切るという社会的な課題にも、重要な示唆を与えるものであると考えます。
尋問で、「なぜ自立更生計画について当事者に教示助言しなかったか」を問われ、「自分たちで努力して成功体験を味わってほしかった」などと、保護受給者を見下すお為ごかしを言う元保護課長。これに対して、左陪席裁判官が「(問答無用の処分により)結果的には意欲を失わせることになってしまったのではないですか」と、極めてまっとうな問いかけをしていたことが印象的でした。この瞬間に、勝利を予感しました(修行が足りないので確信までは持てず…笑)。
判決を受けて、福島市長(昨年一一月の選挙で現職を破り当選)は、「生活保護の趣旨に照らし、配慮が欠けていた。判決を受け止め、研修等を充実させたい」などとコメントしましたが、控訴するかどうかについては態度を明らかにしていません(この原稿が掲載される団通信がお手元に届くころには控訴の有無が判明しているでしょう)。全国から、「判決を真摯に受け止め、当事者との話し合いによって迅速な解決を図れ」の声を、福島市長に集中していただければ、吹き荒れる生活保護バッシングの中で勇気をふりしぼって訴訟に立ち向かってきた親子への何よりの励ましにもなります。
市長へのメッセージ等は、
〒九六〇-八六〇一
福島市五老内町三番一号 福島市長公室秘書課気付
福島市長木幡浩殿
FAX 〇二四-五三四-四五四五
宛にお願いします。
福岡支部 永 尾 廣 久
佐々木猛也
民事裁判が全国的に激減している。平成二二年度に九五万件ほどだったのが、平成二八年度には五四万件に減少しました。それに対して、家事事件は盛況です。また、民事調停事件は平成一七年に三二万件だったので、今ではその一〇分の一ほどの四万件足らずになっています。ただし、LAC事件が全国的に急増していますから、簡裁民事訴訟は増えている(と思います)。
北海道合同
佐藤博文団員が、「戦争で得するのは誰?!」なのかを指摘しています。アベ内閣は防衛予算を五兆円とし、さらに増加させていますが、なんと、これを一〇兆円にする考えだというのです。日本の国家予算が一〇〇兆円ですから、その一割を占めるというわけです。すると、福祉・医療予算を削減するだけでなく、消費税の一〇%への引き上げは必至です。
ちなみに、アメリカの国防予算は六五兆円ですが、このほかに退役軍人省予算が八兆円もあります。これは戦死者遺族への補償や傷病者の医療費などです。また、アメリカのトランプ政権は核兵器の更新のために一〇年間で四五兆円をつかうことを決めています。本当に恐ろしい国です。
横浜
笠置裕亮団員は東大駒場で長く続いている川人(かわひと)ゼミ(法と社会と人権ゼミ)の出身とのこと。私が大学生のころにはセツルメント活動が盛んで、大学生と社会の接点がそこにありましたが、学生自治会活動が弱体化している(と、私は思います)現在、川人ゼミは孤軍奮闘している貴重な存在だと思います。引き続き川人団員にはがんばってほしいと期待しているところです。
「河野学校」
これは法律事務所の新春ニュースではありません。正月にフェイスブックをながめていると、突然懐かしい名前が目に飛び込んできました。加計学園問題での文科省の前川喜平・前事務次官の発言はいかにも気骨あふれるものでしたが、日本の官僚を見直すことが出来ました。前川氏は改定前の教育基本法の前文を暗誦でき、安倍内閣に面従腹背、国会前の安保法制反対行動にも参加していたというのです。そして、退職後は夜間中学校でボランティア教師として活動している様子を知ると、尊敬するばかりです。その前川氏も寺脇研氏も河野学校の卒業生。では、その校長の名前は、なんと河野愛といいます。ええっ、あのアイちゃん・・・。私が学生時代に所属していた川崎セツルメントの法律相談部にいたアイちゃんだったのでした。僕らはセツラーネームで呼びあっていましたが、アイちゃんは愛称のままでした。はっきり自己主張のできる、明るい性格なので、注目されていました。東大闘争そしてセツルメント活動をともにした仲間です。アイちゃんとそれほど親しくはありませんでしたが、セツラーは卒業後をいかに生きるべきか、合宿して語りあっていました。
アイちゃんが、司法試験組ではなく文部省に入ったのは意外な感もありましたが、きっと何かをしてくれると信じていました。そのアイちゃんが亡くなったことは風の便りで伝わってきましたが、文部省でどんな活動をしていたのかは知りませんでした。今回の前川氏の活躍で、その「校長先生」としてがんばっていたことを知り、さすがアイちゃんだと手を叩いたことでした。セツルメント活動のなかでは、民主的インテリゲンチャとして、いかに生きるべきかを論じていたことが生かされていたのではないかと、私はうれしく思ったことでした。残念なことに、アイちゃんは二〇年前に四七歳の若さで惜しくも病死しています。
村上水軍
これも新春ニュースではない話です。金融法務事情の最新号(二〇七八、二〇七九)に園尾隆司弁護士が小論文を寄稿しています。現代日本の倒産処理の第一人者である園尾さん(同期であり、東大駒場でセツラー仲間だったので、以下、さんづけで呼びます)は愛媛県今治市にある国際海運会社の民事再生事件に関わるなかで、村上水軍以来の日本型債権行動の根源に迫ったのでした。
タオルで有名な今治市といえば、いま話題の加計学園の舞台ですが、世界四大船主都市の一つでもあるというのを初めて知りました。園尾さんは水軍と海賊の違いを厳密に究明したうえで、村上水軍の系譜を刻明に歴史をさかのぼってたどっていきました。そこには、四〇年間の民事裁判官の経験と、法制史研究の手法が十二分に生かされていて、なるほどと納得できる歴史的な論証がなされています。
村上水軍は第一に牽制と連携という哲学があり、それが今に生きていて、今回の民事再生事件でも生かされていると園尾さんは解説しています。牽制は、征服や淘汰と対立する思想であり、連携は支配や同化と対立する思想だとします。さらに、第二には、常に浮き沈みに備えよという哲学があるとします。つまり、債権者と債務者の相互転換性があるので、ほとんどの破産者について再起を期待するのが日本の伝統的発想だとするのです。この点について世界各国の実情認識については異論のある人もありうると思いますが、村上水軍についての刻明な歴史的流れの説明を受けると、なるほどそうなのかと思わせるところは、さすがです。いずれにしても、弁護士としての本務のかたわら、たびたび今治海域の島々に出向いて歴史の聞き取りをし、関連する文献を調べるなど、その人間的視野の広がりには、上田誠吉元団長の偉業をついつい思い起こした次第です。
(終わり)
東京支部 後 藤 富 士 子
一 幸せのかたち
日本国憲法には、意表をつかれる「幸福」という言葉が書かれている。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という第一三条である。しかし、「幸福追求権」を明示的に認めた判例は見当たらない。それは、「幸福」という概念が多分に私的で主観的なものだからかもしれない。私は、離婚後の単独親権強制(民法八一九条)を違憲とする根拠の一つに「幸福追求権」を主張してきたが、日本の司法はまともに受け止めようとしない。「幸福」について、法的感受性が欠如しているのである。
新年早々、朝日新聞で「幸せのかたち@世界」が連載されている。一月六日には、インドネシアの一六歳の新郎と七一歳の新婦の結婚が紹介されている。五五歳という年歳差も度肝を抜かれるが、同国の法律が定める結婚最低年齢の「男性は一九歳、女性は一六歳」も満たしていない。それでも結婚できたのは、同国の法律には「信じる宗教に基づく結婚は合法」との条文があり、イスラム教に基づく「ニカシリ」(秘密婚)という(イスラム法には結婚年齢の明確なルールがない)。同国での結婚には立会人が必要で、新郎は地区長を何度も訪ね、「認めてくれないなら二人で死ぬ」と訴え、地区長は村内の説得に乗り出した。そして、村をあげての盛大な結婚式が行われ、式場に自宅を貸した村民は「こんなに純粋な愛がこもったニカシリはない。村の誇りです」と話す。なお、記事では、これを「法律と現実のギャップを埋める超法規的な事実婚」とされているが、それは違うと思う。同国の法律で許容された結婚であり、結婚の要件である立会人もいるのだから、法律婚であろう。ちなみに、「未婚で同棲を続けるよりは」と、親族も賛成している。
これに対し、日本の場合、「婚姻の要件」として、婚姻適齢(民法七三一条)、重婚の禁止(同七三二条)、再婚禁止期間(七三三条)、近親者間の婚姻の禁止(七三四条)、直系姻族間の婚姻の禁止(七三五条)、養親子等の間の婚姻の禁止(七三六条)、未成年者の婚姻についての父母の同意(七三七条)、成年被後見人の婚姻(七三八条)、婚姻の届出(七三九条)、婚姻の届出の受理(七四〇条)、外国に在る日本人間の婚姻の方式(七四一条)が定められているが、重要なのは、「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。」(七三九条一項)としたうえで、「婚姻の届出は、その婚姻が第七三一条から第七三七条まで及び前条第二項の規定その他の法令の規定に反しないことを認めた後でなければ、受理することができない。」(七四〇条)とされていることである。すなわち、国家が定める「法律婚」のみが結婚とされ、前掲のケースが法律婚として認められることはあり得ない。しかし、憲法二四条一項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると定めている。それにもかかわらず、戸籍制度で個人の自然な愛情や結婚意思が圧殺される日本の現状は、「幸福追求権」など無に等しい。「法律婚優遇」制度は、「個人の尊重」と両立しない冷酷で非人間的な制度であることを、「幸福追求権」は教えている。
二 「幸福」を基準にした見直し
現行法や実務を「幸福」という見地から見直してみよう。その作業を通じて、憲法が定める基本的人権としての「幸福追求権」の輪郭や中身が明らかになると思われる。
たとえば、「婚姻中は父母の共同親権」とする民法八一八条三項についていえば、単に男女平等原則の帰結ではなく、父母にとっても子どもにとっても「共同親権=幸福」とするのが法意と解される。そうであれば、「婚姻中」に限らず、未婚でも、離婚後でも、父母の共同親権が幸福とされない理由は想像できない。むしろ、未婚や離婚で「単独親権」が法律上強制される方が、不幸ではないか。単独親権制それ自体が憲法一四条の両性の平等と両立しないが、それを法律で強制することは、明らかに「個人の尊重」や「幸福追求権」を侵害する。すなわち、憲法一三条では、単独親権制それ自体というよりも、「法律による強制」が問題なのである。そう考えると、紛争解決の多様性と当事者の主体性・主導性が見えてくる。法律による単独親権強制がダメだといっても、「それではどうするか?」という解答は出てこない。それぞれのケースで、子どもを含む当事者全員にとって「幸福度」の高い解決を創造するほかに方策はないのであり、それは裁判官の権力行使によって実現できることではない。
ところで、「幸福ってなに?」と各人が考えないと、そしてそれを各人が見つけないと、そもそも「幸福追求権」が実存し得ない。前掲記事では、「幸せって?」との問に、新婦は「彼が隣にいて、私を『アデ』(妹)と呼んでくれたらどんな時でも幸せ」と答えている。
「幸せのかたち」は、人それぞれである。それでも「幸福追求権」が憲法で基本的人権として保障されているのは、「誰でも自分の幸福を追い求めることができる」という、人間性に対する信頼ないし肯定的理解があるからではなかろうか。紛争当事者間で、相手方を不幸にすれば自分が幸福になれるとは考えられない。自分が幸福になるために、結果として相手方を不幸にすることは避けられないかもしれないが、だからこそ、子どもを含む当事者全員にとって「幸福度」の高い解決を創造する努力を惜しんではならない。実際にも、そのような努力によって当事者それぞれが「幸せって?」を考え、それなりに開かれた将来を生きるステップを踏み出すことができる。「幸福追求権」こそ人間賛歌であり、私たちは、これを活用して幸せになりたいものである。
(二〇一八・一・七)
埼玉支部 大 久 保 賢 一
岸田文雄自民党政調会長(前外務大臣)が「核兵器のない世界を実現するためには、核兵器国と非核兵器国を巻き込む議論が必要だ」という意見を述べている(毎日新聞・一二月一三日付朝刊)。その主張が意味することを検討してみたい。
氏は、ICANのノーベル賞受賞は歓迎するし、被爆者の取り組みは尊いものだとしている。そして、日本政府も「核兵器のない世界」を目指すという大きな目標は共有しているともいう。ただ、それぞれの立場で果たすべき役割があるのだという。
その日本政府の役割は、「核兵器国と非核兵器国、非核兵器国間の対立が深まる中で、それを解消し、再び協力できる道筋を考えること」だという。非核兵器国間の対立というのはNPT派と禁止条約派の分裂をいうようである。
この主張についての疑問は、そもそも、核兵器国が「核兵器のない世界」のために非核兵器国に協力してきたことなどあるのかといことと、NPT派と禁止条約派の対立などどこにあるのかということである。
核兵器国は、核不拡散には熱心だったかもしれないけれど、NPT六条の核軍縮交渉義務・完結義務を履行して来なかった。その義務は、核不拡散との取引だったはずである。核兵器国と非核兵器国の対立の深まりは、その義務を履行しなかった核兵器国にあるのであって、双方に原因を求めるのは公正でないであろう。また、禁止条約は、NPTについて「核不拡散・核軍縮の礎石」、「国際の平和及び安全促進において不可欠」としているところであって、NPTを補完するものである。日本政府、韓国、オーストラリア、NATOなどが禁止条約に反対していることは事実であるが、禁止条約に賛成している国はNPTに加盟しているのである。そういう意味では、みんなNPT派なのである。分裂という用語は一面的である。
また、氏は「日本は法的拘束力のある条約を否定しているわけではない。ただ、核兵器国が行動を起こさないと、現実は変わらない。核兵器国を巻き込んだ既存の枠組みを生かし、実際に核兵器の数を最小限まで減らした上で、法的拘束力のある禁止条約を使って一気に核兵器のない世界までもっていく。」という構想を披歴している。これは非常にユニークな提案である。既存の枠組みで、核兵器の数を最小限まで減らそうというのである。それができていないからどうするかが問題なのに、今のままでいいのだというのである。他方では、最小限まで減らしたら、条約を作って、一気になくすというのである。そこまで減らしたなら、そのまま減らし続ければいいだけの話で、わざわざ条約を作る必要などないであろう。こんな構想が高い評価を得たなどといわれてもにわかには信じられない。
更に、氏は、外相時代に提唱した「賢人会議」に、来年のNPT再検討会議に提言を提出してもらいたいと期待している。この「賢人会議」が、核兵器のない世界に向けて、例えば、「NPT六条に基づく核軍縮交渉を速やかに開始しなさい」というような提言を出してほしていと期待しているのは、私だけではないであろう。そういう提言をしてこそ「賢人」の名にふさわしいのではないだろうか。NPT体制は禁止条約を包摂している構造になっているので、そのような提案に誰も反対しないであろうし、心配する対立もすべて解消するのである。
氏は、「禁止だけを叫んでも事態は動かない。全体のバランスの中で核廃絶に向けたシナリオを描き、より実践的に核兵器を進めていくのが、日本の役割だ」と結んでいる。私は、氏の構想が核廃絶に向けたシナリオになっているとも思わない。氏のシナリオは核廃絶に向かうというよりも、核兵器に依存し続けようという呼びかけにしか聞こえないのである。核兵器国を巻き込むどころか、核兵器国とりわけ米国に取り込まれているだけではないだろうか。広島出身の岸田さんが、核兵器問題をライフワークとしていることは大切なことだと思う。願わくば、「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪」という被爆者の声に一刻も早く応えるためのシナリオに書き直していただきたいと切望ところである。
(二〇一七年一二月一四日記)