<<目次へ 団通信1635号(6月11日)
森 孝博 | *五月集会特集* 事務局長就任のご挨拶 |
河合 成葉 | 「大切なので、事務所のなかでも活動を共有すること」 |
川口 智也 | 五月集会 格差・貧困分科会に参加して |
山中マイケル広之 | LGBT分科会に参加しての感想 |
福井 正明 | 山陰で出会った名品の数々 |
伊藤 嘉章 | 二〇一八年米子五月集会一泊旅行 その一「五月集会当日の旅行」 |
井上 洋子 | NLG訪日団と大阪支部との交流 |
大久保 賢一 | 南北首脳会談は非核化につながらなければ無意味なのか―毎日新聞社説批判― |
後藤 富士子 | 「夫婦別姓」は「事実婚」で |
中野 直樹 | 四〇年越しのジャンダルム(三) |
事務局長 森 孝 博
このたび、本部事務局長に就任しました東京支部・渋谷共同法律事務所の森孝博(六一期)と申します。
二〇一〇年五月にニューヨークへ行ったことが何故かきっかけとなって、二〇一一年から二年間、本部事務局次長をつとめまして、それ以来約四年半ぶりの本部事務局での活動となります。ただ、昨年一〇月の三重・鳥羽総会の直前まで、事務局長に就任することになるとは思ってもいなかったので、心の準備(?)で少しお時間をいただきまして、五月集会という異例のタイミングでの「バトンタッチ」となりました。
西田前事務局長の超人的な働きぶりを見ますと、自分が事務局長の任に耐えうるのかとの不安もありますが、前号(第一六三四号)で京都支部の秋山健司団員にご紹介いただきましたとおり、体力・気力は充実しているので、周りの皆様の力をお借りしつつ、役目を果たしていきたいと思います。
趣味で年に何回かフルマラソンに出場しているのですが、いつもゴールまであと少しのところが一番苦しいです。しかし、記録更新のためにはここが踏ん張りどころで、今の政治・社会状況も似たようなところにあるのでは、と勝手に解釈しています。また、一人ではしんどいけど周りに同じゴールを目指して走る仲間がいると意外と頑張れる、ゴールまで走り抜くためにこまめなエイド(栄養・水分補給)も忘れない・・・マラソンの話ですが、団の運動でも大事かな、とこれまた勝手に解釈しています。
全国の団員、事務局員の皆様と一緒にゴールを目指して粘り強く活動していきたいと思いますので、よろしくお願い致します。
北大阪総合法律事務所 河 合 成 葉
プレ企画は「活動交流分科会」(Bグループ)に参加させていただきました。
各事務所で取り組んでいる「三〇〇〇万人署名」に関する活動報告を中心に、その成果や悩み、工夫していることなどを出し合い交流しました。
署名用紙を依頼者に郵送する・相談室に備え付ける、などの事務所の中でできる取組をはじめ、外に出て、地域の方々と共に街頭宣伝に取り組んでいる事務所もありました。特に、街頭宣伝では着ぐるみを着て、子どもの関心を引いてから親との対話に持ち込むという工夫をされている事務所もありました。
一方で、共通の悩みとしてあげられたのは、活動に対する所員間の温度差をどう埋めるか、ということです。一般業務とは違い、活動は人それぞれの関わり方があり、活動する人・しない人・したくてもできない人など、どうしても偏りができてしまいます。
その対策として、活動内容によっては所内全体会議の中で事務所として取り組むことを確認し、活動も業務の一環として就業中に準備ができるように皆で調整し合っている、という工夫をされている事務所がありました。
また、単に情報を共有するだけでなく、「活動している人を褒める」「活動してくれている人に感謝を伝える」ということが大事だという話もされました。具体的なエピソードを交えて、「活動にかけた時間ではなく、自分にできることを見つけて部分的な作業(ビラ折りなど)だけでも手伝ってくれることに感謝することが大切だと思っている」という意見もありました。活動を個人のものとして留めるのではなく、事務所としてみんなで共有することで、活動に対する温度差や偏りの軽減に繋がり、活動の幅も広がるのかもしれません。
五月集会で各地の取組を聞き、また同じ悩みを持った仲間と出会う度に、団事務所で働くことの意義・誇りを再確認することができます。仕事と活動では得られるものが違います。仕事で得られる事務局としてのスキルも大切ですが、活動を通して人と繋がることで、ものの見方や考え方がひろがり、人間として成長することができると思っています。
この分科会で得られた情報を持ち帰って、自分の事務所でも取り入れてもらい、団事務所としてより充実した活動ができるよう、取り組んでいきたいと思います。
東京支部 川 口 智 也
二〇一八年五月二〇日、労働・貧困・格差分科会に参加し、藤田和恵さんの講演「『貧困強制社会』の現状を取材して」を聞いた。藤田さんのご講演は、取材対象の方との交流や取材先での経験、記事に出ない裏話など、いずれも貧困や格差に苦しむ方の実態が生々しく伝わってくる内容であった。
藤田さんが執筆した「奨学金の借金一一〇〇万円、早大生の貧困と苦悩」という記事(二〇一七年九月二三日付、東洋経済オンライン)について、一五〇万PVもの多数のアクセスを記録したが、コメント欄に多数の誹謗中傷のコメントが寄せられたという話があった。貧困家庭で育ち、多額の奨学金を借りて大学に進学した青年を取材した記事だが、この記事が公開された際、コメント欄に「自己責任だ」というコメントが多数投稿されたそうである。例えば、「私は若い頃、貧しくて苦労したが、その後努力して今は普通に暮らしている。」(つまり、努力が足りないという批判)とか「国公立大学であれば学費が安い。私立大学に行くのは甘えだ。」などである。藤田さんは、この記事を通じて、社会保障や奨学金制度などの構造的な問題を伝えたかったそうだが、「自己責任」の一言で簡単に片づけようとする人が多数いることにショックを受けたと話されていた。こうした自己責任論が社会に蔓延しているため、貧困に苦しむ当事者自身が、自分に非があると思い込み、声を上げられない状況があるという。
また、藤田さんが「シェアハウス」で三か月間を過ごし、多種多様な住人との交流をもとにしたルポの話もとても興味深かった。このルポは、「シェアハウスの住人たちの恨と理」という記事にまとめられている(二〇一四年の記事ですが、今でも、インターネットを通じて掲載誌(g2 Vol.16)を購入できるようです)。二〇代、三〇代の若者が多数を占めるシェアハウスの住人が、政治に期待せず、社会の出来事にも関心をもてない状況にあることや住人達の考え方をありのままに伝える内容である。分科会の配布資料にこの記事が含まれていたので、私も読んでみたが、今の二〇代、三〇代の若者を取り巻く環境や考え方がよくわかる内容だと感じた。
さらに、藤田さんは、自身が取材した非正規労働の実態についても話されていた。その中で印象に残ったのは、藤田さんがこれまでに取材した若者や非正規労働者には、労働組合へのアレルギーや嫌悪感を抱く方が少なくないという点である。そもそも労働組合に対する偏見や誤解があったり、デマを信じこんでいる方も多数いたようであるが、それだけで済むような話でもないと話されていた。労働組合が正社員以外の労働者の救済のために十分な役割を果たしてこなかったことが、労働組合への期待が弱い現状につながっているのではないかと分析されていた。
藤田さんは、ジャーナリストとしての自身の信念についても言及されていた。藤田さんが、派遣社員としてコールセンターで働く方の貧困の実態を取材し、記事にしたところ、その方が働くコールセンターが新設されたことで、地域に雇用が生まれたことを評価すべきだ、それを書かないのは中立性を欠いている、と批判されたことがあったそうである。この批判について、藤田さんは、社会的弱者など、自分では声を届けることができない人たちの実態を社会に発信することこそが重要で、それが自身の役割である、両論併記するような記事はおかしいし、そもそもメディアに中立はあり得ないと述べられていた。貧困・格差が拡大する現代社会において、貧困状態にある若者や非正規労働者の実態を一貫して取材し続け、社会に発信する藤田さんのジャーナリストとしての活動は、極めて重要だと感じた。
東京法律事務所 山中マイケル広之
LGBT問題は日本の政治問題であると同時に国民性の問題でもあると感じました。
本来、誰が誰を好きになるかは自由です。これをお読みの方も、誰かを好きになった経験がある人が多いことでしょう。
しかし、現代日本では異性愛を前提とする法制度、友達との恋愛話、教育、風潮が『普通』のこととして蔓延ってきました。
また、テレビでは同性愛者を「おネエ」「変な人」「気持ち悪い」という扱いをしています。
そんな中で同性愛を含むセクシャルマイノリティの人達は『普通』であることを演じて自分を押し殺しています。日本人は「空気を読む」という国民性があることから海外の方と比べても日本のセクシャルマイノリティの人はカミングアウト(自分がセクシャルマイノリティであることを打ち明けること)が困難でしょう。
また、カミングアウトできる人においても困難が待ち受けています。
同性パートナーが救急車で運ばれても、異性パートナーと違い同乗や面会が拒否される。
企業面接の履歴書を書く際、心の性での性別記載をしたら「詐欺だ」と言われ面接を拒否される。そもそも法律婚ができない。
社会のあらゆる分野でセクシャルマイノリティは自分を拒否・否定され続けるのです。
なぜマイノリティというだけでこのような仕打ちをされなければならないのでしょう。
憲法には平等権や幸福追求権が書かれていますが、果たして現状ではセクシャルマイノリティはこれらの権利が保障されている状態にあるのでしょうか?ありませんね。
このようなことからセクシャルマイノリティは「人権問題」であるのです。
また、LGBTは「最近」話題になっている問題ですが、「最近」の問題ではないのです。
昔から存在はしていましたが、上記のような風潮のために声をあげられず、最近になってようやく問題が認知され始めたのです。
憲法の目指す「個人の尊重」がされた社会を実現していくためにも、LGBTに限らずあらゆる個性を皆で受け入れ合い認め合い、尊重し合えるように社会を動かしていく必要があります。そのために私たちに何が出来るでしょうか?ぜひ自分に問いかけてみてください。
また、自由法曹団はこのようなことを周りに訴えかける力のある団体だと思います。
訴える力を大きくさせるためにも、ぜひまた今回のような学習企画を設定していただき、次はより多くの方に参加してもらいたいと思いました。
最後になりますが、水谷先生を始め講師を務めてくださった方々の熱い想いに触れ、魂が揺さぶられました。先生方ありがとうございました。
三重支部 福 井 正 明
鳥取・米子五月集会の一泊旅行は、@水木しげる記念館 A加納美術館 B足立美術館 C大山(寺)である。宿泊はBに隣接する「さぎの湯荘」であった。
初めて訪ねた加納美術館を紹介する。
Aの加納美術館は、境港から中海を横断して中国山地に分け入り、こんな山奥に美術館などあるのかと思うくらい深く分け入ったところに、ぽつんと美術館があった。もと加納家の屋敷のあった場所らしい。
ここは加納莞蕾氏を記念する美術館であり、莞蕾氏自身が描いた作品や蒐集した絵画、陶磁器などが展示されている。東郷青児などセンスの良い油彩も多くある。
しかし、その中でも、とりわけ目を引くのは、莞蕾氏自身が従軍画家として中国山西省に従軍した際に描いた作品である。ドラクロアの「民衆を率いる自由(の女神)」の構図を彷彿させる。倒れた中国の少年兵、日本兵、それを乗り越えて奥の丘に向かって進軍は続く。兵士の力はみなぎるも、そこには自由の女神もいないし、何故中国に攻め入って、人民を殺戮し、日本の兵士も倒れているのかも分からない大義なき状況であることはわかる。戦争を美化したり兵士を英雄化したりせず、劇的に戦争を描き、緊張感に溢れ、異彩を放っていた。
因みに、この作品は原画ではない。原画は敗戦とともに連合軍に接収され、暫くして東京国立美術館に返還されたという。単なる戦争賛美画なら破却されていたであろうが、どうみても美術的価値は高い。そこでAでは、東京国立美術館から写真データの提供を受け、原寸大の写真を展示しているそうであるが、本物の迫力は十分伝わってくる。
館長は、莞蕾氏の四女で、名誉館長と共に迎えてくれ、懇切に説明してくれた。氏は、故郷に帰ってから、村長となり、フィリピンのキリノ大統領に対して、日本人BC級戦犯の釈放を嘆願する活動をしていたとのことである。ローマ法王の助力もあり、日本人戦犯は全員釈放された。この恩赦嘆願運動は歌にもなって多くの日本人が参加した有名な話である。
当日夜はBに隣接する「さぎの湯荘」に宿泊した。夕方の宴で参加者が自己紹介を終えたころには酒肴既に尽きて楽しく歓談を交わした。
翌日は、朝からBを訪ねた。Bはまず、庭を見るべきだろう。広大な庭には、形の整った松がうねる地形に合わせて絶妙な配置で植えられている。また、その最も絵になる場を壁に開けた四角い窓をとおして一服の絵のように景色が眺められる工夫がなされている。庭は借景になっており、奥の山を庭の景色に取り込んでいる。
因みに、この書院風の窓は銀閣寺書院を、スケールの大きな庭は修学院離宮を模範としたものではなかろうか。修学院離宮は比叡山から水をひき、比叡山を借景としており、規模はより広大であるが、任意の日に拝観できる訳ではない。その点はBの方が有難い。
Cの大山は「大山自然歴史館館長」の先導で大山寺までの山麓を歩いたが、豊富な水、植物が極めて多彩、屏風のように聳える山の峰の美しさ、大山の豊かさを感じることができた。
かくして、多くの名品(自然の創造物とか人間の創造物とか)に出会うことができたのは、今回の旅行を企画立案し、ずっと付き添ってくれた高橋団員のおかげである。
また、児童書専門店を経営されている高橋団員の奥様にも、バスの道中、大山に棲む「ハンザキ」が人間の友達のため、体の半分を差し出す童話を語っていただいた。童話の中では、体半分残せば再生するから、「ハンザキ」というらしい。大山自然歴史館館長によると「オオサンショウウオは両生類だが、半裂きにして生きているわけがない」らしいが、イモリの尾は切れても生えてきたりするので、「ハンザキ」の名前の由来としては納得である。
よって、高橋団員ご夫妻の「おもてなしのこころ」に対し、改めてお礼申し上げたい。
東京支部 伊 藤 嘉 章
一 水木しげる記念館へ
五月二一日、参加者一四人でバスに乗り、日程に従い、水木しげる記念館に向かう。車内で添乗員の突然の振りで、この旅行の企画者である高橋鳥取支部長の御令室による昔話の語りとなった。サンショウウオの話とウミボウズの話だ。紙幅の関係で内容は割愛するが、落ちが快い。突然の振りというが、実際には御令室に話を通していたのでしょう。添乗員さんも芸が細かくなりましたね。
水木しげる記念館を見学。水木しげるが二〇歳で徴兵検査を受け、入隊するまでの三ケ月間に絶筆のつもりで書いたという手記と、その解説文を載せた「戦争と読書 水木しげる出征前手記」(角川新書)を買った。読み始めたが、つまらないので、内容をここで紹介することはできない。
もちろん、絶筆とはならず、水木しげるは、戦争で片腕を失ったものの、帰還して漫画家として大成する。こんなにもたくさんの妖怪のキャラを考えだすとは。
ニ 加納美術館へ
安来市が生んだ稀代の画家加納莞蕾こと加納辰夫の作品を所蔵、展示する加納美術館に行く。
加納莞蕾の四女で当館の名誉館長である加納佳世子氏の説明を聞きながら絵を見ていく。一九三七年、加納莞蕾は朝鮮にわたり、陸軍の従軍画家となる。「山西省三潼関付近の追撃戦」という絵を描く。
この絵の本物は、日本を占領していた時にアメリカが接収したものをサンフランシスコ講和条約後、アメリカから日本に永久貸与され、現在東京都千代田区の国立近代美術館にあるという。これは妄想ですが、加納莞蕾の相続人が所有権に基づいてこの絵の返還請求訴訟をした場合勝てるでしょうか。誰に対して訴えをおこしたらよいのでしょうか。
当館にはこの絵の原寸大の写真版がある。多くの日本人兵士が銃をもって左方向に倒れるようにして前進している。下の方には、日本人兵士に踏みつけられている中国人兵士の死体がある。通信兵が鳩に向かって何かをしている。オリーブの葉も描いてある。遺骨と思われる物を首からぶら下げている一人の日本人兵士がこちらに向かって何か叫んでいる。
この絵は、一九四四年に開催された決戦美術展で最高賞を得たという。しかし、この絵は反戦絵画ではないかと思った。辰夫はある時、「日本は中国の土地を占領しても人々の心は占領できない。戦争は無意味なことと当時の参謀長に直言したという。」(加納佳世子著「画家として平和を願う人として」三九ページ)。また、一九三〇年生まれの姉柚香は、この絵が描かれた当時一四歳であった。当時のことをよく覚えているという。「その絵を描いているときは、あまりの迫力でなんだか怖くて父の部屋に行けなかった」という(同書四一ページ)。
三 加納辰夫の平和運動
終戦となり、加納辰夫は全てを失って日本に引き揚げた。加納家は小作人を擁するそこそこの農家であったが、農地解放で、家族の労働を必要とする自作農に没落してしまった。
ところが、加納家の主(あるじ)である加納辰夫は、家業を顧みることなく、フィリピンで戦犯として死刑判決を受けた古瀬元小将を死刑判決から救うための運動に奔走することになった。久しぶりに家に帰ると、年老いた母や妻から「家庭を省みず奔走して」と責められる。
フィリピンのキリノ大統領や、マッカーサー元帥など世界の有力者に嘆願を重ねた結果、遂にキリノ大統領の特赦により、死刑判決は執行されず、多くの戦犯が日本に戻ることができた。
キリノ大統領に送られた嘆願書には「日本軍によって虐殺された大統領の愛児の名において憎しみを愛に変えることこそ神に帰依する行為である」という文面があるという。妻と子供を殺された大統領からすれば「ふざけるんじゃない」とは、ならなかったのであろうか。その後、加納辰夫は、当時の地元布部村の村長となり、村では平和五原則の宣言を行うまでになった。
四 長男の私財投入による加納美術館建設
加納辰夫の長男加納溥基は、実業家として成功し、父加納莞蕾の画家としての業績並びに平和運動家としての加納辰夫の仕事を顕彰するために、私財をなげうって自宅のあった地に加納美術館を設立したという。
但し、加納美術館には借入展示中の加納以外の画家の作品を掲載した他美術館制作の図録はあるものの、加納莞蕾自身の絵を掲載した加納美術館の図録は販売していなかった。買いたかったのに。残念。
五 夜の食事会
明日行く足立美術館まで徒歩一分の場所にある旅館に泊まる。
夜の食事会では、乾杯の後、各自の自己紹介とスピーチの時間となった。団通信一六二八号(ピンクの紙です)の五ページの下段の左から二行目にあった「常連の年寄り団員の旅行」という言葉を思い出し、「私も常連の年寄り団員のひとりとして参加しました」と言ったら、M団員から「お前が常連の団員などというのは一〇年早い」とたしなめられてしまいました。
本当の常連になるまで、これからも参加します。
大阪支部 井 上 洋 子
二〇一八年五月一七日、来日したアメリカのナショナルロイヤーズギルドの弁護士たち六名と自由法曹団大阪支部団員一〇名が、大阪の道頓堀川畔で懇親する機会を持ちました。
参加した面々を簡単に紹介しますと、Eric Sirotkin ニューメキシコ州アルバカーキーでの弁護士で、韓国や北朝鮮にもたびたび訪問をしています。Philip Fornaci 首都ワシントンで刑務所等への拘禁者の人権問題を扱っている弁護士です。Bruce Nestor ミネソタ州のミネアポリスで刑事事件や移民問題などを扱っており、NLGの議長経験者でもあります。Susana de Leon メキシコ出身でミネアポリスの法科大学院でピーター・アーリンダーに学んだ弁護士で、移民問題を取り扱っています。Bruceの伴侶であり弁護士事務所の共同経営者です。Daniel McGee 弁護士ではなく、NLGの経済をささえる基金の責任者でニューヨークで活動しています。Thane Tiensonオレゴン州ポートランドで環境問題を取り扱っている弁護士です。
今回、この六名は、NLGだけではなくLawyers for Demilitarization and Peace in Koreaという団体として、朝鮮半島の平和と健全な米朝関係を求めて、韓国を訪問するのが主目的で、その帰りに日本にも寄ってくれました。彼らの活動の内容は、彼らが韓国で出した声明によく現れていますので、ここに転記しておきます。
Statement of the 2018 United States Legal Delegation to Korea
二〇一八年米国法律家朝鮮訪問団の声明 (訳者 安原邦博)
世界(の人々)の想像力を捕らえ、朝鮮半島における真に持続的な平和の希望を生んだ会談を受け、われわれは、米国の法律家として、朝鮮の非核化と朝鮮の人々の自己決定を希求し、そして支持をする。
我々は、LDPK及びNLGのメンバーであり、本年五月一三日から一七日までにおける、法律家、活動家及び研究者による、朝鮮の平和及び和解のための会合に参加した。我々の、朝鮮の人々との連帯、及び、米国の政策に対する見方は、世界中の人々の自己決定に対する我々の深い献身に根差している。訪問団のメンバーは、数十年来、平和構築、紛争解決及び人権活動をしてきた。我々のメンバーは、戦争の恐怖を直接に経験しており、米国が民主的な国際社会への真の参加者となるために、その役割を大きく変えなければならないことを認識している。
一九五三年、米国を含めた朝鮮紛争の当事者は、朝鮮から全ての外国軍隊を撤退させること、非軍事化させること及び持続的な平和についての理解に達した。悲しいことに、それらの目標はこの六五年の間かなわなかった。数十年来の敵対及び不信を乗りこえるために南北朝鮮の国境をわたるという文大統領及び金委員長による勇気ある行動、ならびに、(お互いの)共通したことを見出す努力は、国際社会及び米国の支持を受けるべきである。これが歴史的であり、台無しにされてはならない。
トランプ大統領が朝鮮民主主義人民共和国との協議につき意欲を示したことについて、我々は、米国が平和の真のパートナーになることにつながると、注意深く(ではあるが)期待した。しかしながら、かかる期待は、トランプ政権による現実、すなわち、パリ協定など国際的な協定やイランとの核合意からの一方的な脱退により、米国が国際的な責務を守る意思があるとの信頼が構築できなくなることから、揺るがせられているのである。
ちょうど今週、「マックスサンダー」として知られる直近の軍事演習が行われた。それは、約一〇〇機の戦闘機が関わっており、再度平和を脅かして(南北朝鮮の)対話を延期させた。それが攻撃的(演習)であるか防御的(演習)であるかに拘らず、何故に、米国及び大韓民国は、かような繊細な時期に、敵対的行為を行わないと合意した後にかような行為を行ったのか、それが重大な懸念である。我々は、米国に対して、協議がなされるまでかような大規模演習を全て停止すること、及び、かかる決断を誠意の証として表明することを要求する。
南北朝鮮が和解に向けて動いているなか、我々は、米国市民たる我々の責務として、(米国)政府に対し、我々(市民)の名において、朝鮮におけるその過去の歴史から完全かつ最終的に決別し、朝鮮における完全かつ最終的な平和を支持するよう要求するものである。
核兵器は、世界中の全ての人々の脅威である。我々は、朝鮮民主主義人民共和国及び米国によるものを含め、核兵器の保持及び拡散の縮小へのあらゆる努力を支持する。
さらに、我々は、米国に対して、交渉において、非現実的で合意を不可能にする条件をつけることのないよう要求する。ボルトン大統領補佐官(国家安全保障問題担当による最近の声明は、米国が敵対と制裁を辞める確かな行動をするには、その前に朝鮮民主主義人民共和国が核開発を辞めて完全な非核化を行わなければならないとするものであり、これは、協議を失敗に終わらせるために図られたものである。
我々は、次のことを米国に要求する。
一 完全かつ無条件な平和条約を結んで朝鮮戦争を終結させ、朝鮮民主主義人民共和国と正式な国交をもつこと
二 朝鮮から外国軍隊を撤退させる休戦協定のために現実的な時間設定をすること
三 これからの一二か月間において全ての大規模軍事演習を停止して、敵対的環境のない中で協議が行われるようにさせること
四 二〇〇七年一〇月及び二〇一八年四月に示された朝鮮の人々の意思及び自己決定を支持すること
五 朝鮮半島における完全かつ検証可能な非核化への協議を含め、世界における核兵器の廃絶に向けて行動をとること
March 17, 2018
六名のうち、Eric, Philip, Thaneは、ベトナム戦争徴兵対象世代で、PhilipもThaneも戦争経験者として平和を切に願うと言っていました。
大阪支部の参加者は、石川元也、斎藤豊治、三上孝孜、岩田研二郎、藤木邦顕、長岡麻寿恵、小林徹也、須井康雄、安原邦博、井上洋子でした。英語は不十分とはいえ、NLG側参加者のプロフィールの日本語版を参加団員に配り、NLG側には参加団員のプロフィールの英訳版を配り、情報を共有した上で、団員側はどうしても質問したい事項を英訳しておいて、それをその場で見せたり、何人か英語ができる団員の協力を得つつ、テーブルのあちこちで会話がはずみました。
トランプの評価(自己中心主義者のナルシストで精神不安定、その結果政治方針が安定しない)、なぜトランプが当選したのか(民主党がヒラリー・クリントンの売り込み方を誤った、トランプが嘘をついて一定層からの支持をとりつけた)、今回の韓国の活動の様子(たとえば、韓国のアメリカ大使館には六人のうち一人しか入れてもらえなかった、とか)、沖縄問題のほか音楽や日本料理の話など、きわめて朗らかに二時間が過ぎました。
シロトキンがdemilitarizationの言葉の意味を熱心に説明してくれました。それは、単なる軍縮とか武装解除といったことではなく、軍需産業を経済社会システムから放逐することや、国の支配に軍事力を使わないことや、人間関係においても力をつかって支配する関係をなくすことなどをすべからく含んだ深い意味で使っている、ということでした。とても共感ができました。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
韓国と北朝鮮の首脳会談が開催されることになった。私は、このことを歓迎する。なぜなら、会談が継続している間は、軍事衝突は回避されると思うからである。もし、朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、単に朝鮮半島の民衆だけではなく、私たちの生活にも大きな影響が及ぶことは間違いない。米軍基地が置かれ、発進基地となっている日本に、北朝鮮が何らかの攻撃を仕掛けてくることは避けられないからである。しかも最悪の場合には、核攻撃や原発への攻撃ということになるであろう。他方、国内においては、在日朝鮮人に対するジェノサイドが起きるであろう。私たちが被害者となり加害者になるのである。これら予測は決して荒唐無稽ではない。少しだけ想像力を働かせればいいだけである。だから、軍事衝突は絶対に避けなければならない。それに代わる最も有効な手段は、政治的リーダーの直接的対話である。戦争は政治的対立の暴力的解決だからである。
ところが、この首脳会談を白眼視する勢力は、日本政府以外にも存在するのである。例えば毎日新聞の三月七日付社説である。社説は、「対話は必要だが、核問題解決につながるものでなければならない」、「これまでの金委員長の言動からすれば、素直に受け取るのは難しい」、「北朝鮮はこれまでも約束を破り続けてきた」、「非核化に向けた具体的な行動が必要だ。実際に動くまで、圧力をかけ続ける必要がある」、「トランプ政権は最大限の圧力をかけることによって、北朝鮮を非核化の協議に引き出そうとしてきた」、「文政権は日米と連携して、慎重に進めて欲しい」、「非核化につながる会談でなければ禍根を残すだけだ」と展開している。要するに、会談は、北朝鮮の核放棄につながらなければ意味がない、北朝鮮は信用できないから、非核化に向けた具体的に行動をとるまで圧力をかけ続けよう、そのために韓国は先走るのではなく、日米と歩調を合わせろ、という主張である。
この主張の特徴は、まずは、北朝鮮に核を放棄させろ、それまで会談などするな、最大限の圧力をかけ続けろということにある。その圧力の中には、米国による核兵器の使用や先制攻撃も含まれているのである。なぜなら、主張は、米国の最大限の圧力が非核化のために有効だとしているからである。米国は「力による平和政策」を採用し、核兵器使用の敷居を低くしようとしている。そして、トランプ大統領は、一時間のうちに三回、「米国は核兵器を保有しているのに、なぜ使用できないのか」と外交専門家に質問する人である(毎日新聞一月三〇日付夕刊)。
この社説は、日米の最大限の圧力が朝鮮半島での軍事衝突を誘引するかもしれないということを完全に無視している。そして、その衝突が核兵器の使用に至るかもしれないということも視野の外なのである。更には、米国の核兵器使用の威嚇には何も触れずに、北朝鮮にだけ、核兵器を捨てろと迫っているのである。「俺は持つおまえは捨てろ核兵器」という論理である。
毎日新聞が北朝鮮にどんな恨みを持っているか知らないけれど、南北朝鮮の首脳が対話をしようとしているときに、北朝鮮にだけ核武装放棄を迫り、そうでなければ軍事衝突も容認するかのような主張を展開するのは、単に無責任というだけではなく好戦的と評すべきであろう。これが社論であるとすれば、毎日新聞も地に堕ちたものである。
(二〇一八年三月七日記)
東京支部 後 藤 富 士 子
一 新たな「夫婦別姓」訴訟
朝日新聞五月一一日夕刊記事によれば、夫婦別姓を望む婚姻届の受理を拒まれた事実婚の男女七人が、国や自治体に損害賠償などを求めて、提訴したという。原告の一人(女性)は、選択的夫婦別姓制度導入に期待を膨らませたが、二〇〇一年、他に方法がないと事実婚を選んだ。その後、三人の子を出産したが、子を夫の姓にするため、出産のたびに婚姻届を出して「ペーパー離婚」する繰り返しで、自分だけ姓が違う。そして、「子どもが事故に遭って緊急手術が必要になったら、親権がない私の立会で病院は対応してくれるのか」と不安を抱えるという。しかし、この原告の想念は、〈法律婚優遇=事実婚差別〉にどっぷり浸かっているというほかない。
仮に婚姻届を出さないとしたら、現行法でどうなるか?嫡出でない子は母の氏を称するが、家裁の許可を得て戸籍の届出をすることによって父の氏を称することができる(民法七九〇条二項、七九一条一項)。父が認知した子に対する親権は、父母の協議で父を親権者と定めたときに限り父が行うとされ、協議が調わない場合に家裁が協議に代わる審判をすることができる(同八一八条四項五項)。すなわち、特別なことをしなければ、子は母の姓を称し、単独親権者も母である。とはいえ、子の姓を父の姓とすることもできるし、単独親権者を父とすることもできるのである。
そうすると、この原告の場合、出産のたびに婚姻届を出したのは、「嫡出子」の身分を得るためにすぎないと思われる。そして、婚姻届は夫の氏とし、離婚後単独親権制にも疑問を持たないところを見ると、法律婚としての夫婦別姓に何ら先進的な意味を見出せない。「多様な家族の在り方」を標榜するなら、いちいち「法律婚」に閉じ込める方向で法改正をするのではなく、多様性を包摂する「事実婚」について、「法律婚」と比べて不合理な差別をしないことが重要であろう。この点では、「同性婚」が先行している。また、トランスジェンダーについても、マイルドになる。性同一性障害で性転換手術をするなど一定の要件を満たす場合に法律婚が認められ、妻が出産した子を嫡出子と認めることになったが、「法律婚」の枠に組み入れるのと引き換えに、「あるがまま」の人間存在に無理を強いることは避けられない。様々な人の在り方からすれば、婚姻や家族も多様になるのは当然であり、外縁が開かれている「事実婚」にこそ正当な法的保護が付与されるべきであろう。
二 戸籍制度の問題
戸籍法六条は、「戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する。ただし、日本人でない者と婚姻をした者又は配偶者がいない者について新たに戸籍を編製するときは、その者及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する。」と定めている。すなわち、「同氏同戸籍」が原則であり、例外は外国人と結婚した場合である(同氏にはならない)。
戸籍制度は、夫婦親子の身分関係を公証するものであり、「戸籍の筆頭者」は検索方法として極めて便宜的要因である。戸籍筆頭者は夫でも妻でも構わないが、筆頭者の氏と本籍地により、他から区別される。外国人と結婚した場合、外国人配偶者は同氏ではないものの戸籍に記載され、戸籍の筆頭者は日本人配偶者であるから、検索上差支えはない。このような戸籍制度に照らすと、夫婦別姓は、検索機能を揺るがせる。しかも、全て夫婦別姓にするなら、「同氏同戸籍」を止めて「個(人)籍」とすればいいように思われるが、選択制となると中途半端で煩雑になる。
こうしてみると、夫婦別姓の問題は、婚姻の際に夫の氏か妻の氏かどちらか一つを定めなければならないとしている民法七五〇条の問題というよりも、もっと本質的な問題は戸籍制度にあることが分かる。実際、民法は、「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。」(七三九条一項)としたうえで、「婚姻の届出は、その婚姻が第七三一条から第七三七条まで及び前条第二項の規定その他の法令の規定に反しないことを認めた後でなければ、受理することができない。」(七四〇条)としている。すなわち、法律婚を画する「婚姻届受理の要件」の一つをめぐる法改正を云々しているよりも、法律婚の外で事実婚による夫婦別姓を選択すれば簡単に実現できるのである。
三 新しい家族像・・・「夫婦」から「親子」へ
現行民法でも、「家族」の起源は「婚姻」であり、その後に「親子」が来る。しかし、ドイツやフランスでは、今や第一子の過半数が婚外子であるし、離婚〜再婚により父母が複数になる「ステップファミリー」も珍しくない。そして、婚姻を前提としない親子関係を望む「家族」も特別なものではなくなっている。すなわち、「家族」の起源が「親子」にシフトするようになったのであろう。
そうすると、未婚や離婚後の強制的単独親権制がこのまま維持されていいはずがない。それは、生まれる子どもにとっても、生み出す大人にとっても、「家族の起源」に否定的な打撃を与えるものでしかない。国家の管理する制度から自由になって、「家族」という「私的自治の世界」を享受できるように、「事実婚」に生きる人々の社会変革力を応援したい。
(二〇一八・六・三)
神奈川支部 中 野 直 樹
緊張のギアに
笠ヶ岳に見惚れているうちに大休憩となった。腰をあげて出発の準備をしている単独行の男性と言葉を交わした。この方は、これまで幾度かジャンダルム登行の計画を立てながらも天候にめぐまれず断念してきたこと、今日は快晴予報だったのでやってきたが、本日中に下山をしたいので、ジャンダルム・奥穂コースではなく、左の西穂高岳に向かう、といかにも残念そうに言っていた。男性は、いきなり垂直に切り立つ天狗の頭への鎖に取り付いて、よじ登っていった。
はるか南方には、南アルプスさらに富士山がシルエットのように見えた。足元の岩の割れ目に青紫色のチシマギキョウや白いトウヤクリンドウが夏の終りを告げるかのように咲いていた。私たちのゆとりのある眺望や観察はここまでであった。一二時四〇分、私たちはヘルメットをかぶり直し、手袋をした。浅野さんは山道具屋で買った岩場用手袋、私は市販の軍手である。見た目は貧富の格差が大きいが、手の保護と滑り止めという点では効用に変わりはなかった。
まずは、右手から突き上げてきている畳岩尾根の頭までの登りだ。畳岩が崩壊して尖った岩屑が積み重なったところについた踏み跡を辿った。一二時五五分、高度計は三〇〇〇メートルを超えた。
危険ゾーンへ踏み出し
岩稜の尾根は次第に痩せ細り、両側が切り立ってきた。岩に付けられたペンキの印を探し出さないとどこに足をおき、どちらに進んだらよいのか皆目不明の世界になった。印に導かれながら上高地側と飛騨側を行ったり来たりしながら、慎重に歩んだ。落差のあるごつごつ岩を、手も使い、膝も動員して乗り越えることの連続となった。一転、畳岩の頭の直下は一枚岩となり、長い鎖を握った。二〇メートルほどの直登だった。さらに迎えるルンゼ(岩の溝)をせり上がった。ザックが岩角に擦れる音をたてる。
一三時過ぎ、畳岩の頭を過ぎたあたりで腰をおろし、昼食をとった。私はできるだけ荷を軽くしようとガスコンロは携帯しなかった。浅野さんに湯を沸かしてもらい、フランスパンをスープにつけて食べた。
次の目標はコブ岩尾根の頭の高み。角のとれていない岩屑に足を乗せた瞬間の感触で動転しないかどうかを確かめながらの登りとなった。途中で、女性登山者に追いついた。今朝、西穂高山荘から縦走をしてきたという。多分初めてのジャンダルムコースに単独行であることに驚いた。またこんな岩場でノースリーブの服装であることに大丈夫かいなと思った。西穂高山荘から天狗のコルまでだけでもコースタイムで六時間の難コースである。この女性はかなりばてた様子。自分でも歩きとおせるか心配だとこぼしていた。
ジャンダルムの壁に取り付く
高山では午後になると決まったようにガスがわいてくる。朝の出発時雲一つない快晴であっても目的の頂上につく頃には靄に展望を阻まれることの方が多い。笠ヶ岳の周囲にも綿菓子のような雲が漂い始めた。
コブ岩尾根の頭を過ぎると、突如その先にジャンダルムが圧倒する大きさと厳めしさであらわれた。左の飛騨側から右の上高地側に向いて、巨大な恐竜の頭部が横たわっているようにも見える。岩層が右上方に斜めに走っている。左側の首の線の向こうには槍ヶ岳が、右側の顔の線の向こうには奥穂高岳がひかえる。この両雄も、ここでの主役ジャンダルムを引き立たせる脇役となっている。
先行者グループがジャンダルムの岩壁に取り付いていた。左の飛騨側が登攀コースのようだ。ただ眺めただけでは、どこからどんな風に足場がつながっていくのかわからない。一三時二〇分、ジャンダルムの稜線の付け根に着いた。ちょうど先行グループが山頂から下ってきた。
さて、私たちの番だ。ヘルメットを確かめ、手袋を確かめ、ふっと息を吐いて見上げた。最初が直登、一〇メートルほど先で左に回るようだ。鎖をもち、岩の割れ目に足をかけて身を持ち上げた。後は、ひたすら次の一歩をどこに置くのかを判断するために、近視眼的に、岩場に記された○と×のペンキの探索に意識を集中した。そして、三点確保、三点確保と復唱しながら一手一歩と登っていった。鋭く落ち込んだ足下が視線に入り目がくらみそうになることをおそれたが、飛騨側の眼下はガスにおおわれ視界がなくなっていた。一三時四〇分、意外と早くジャンダルムの頂点に立った(続く)。