<<目次へ 団通信1644号(9月11日)
馬奈木 昭雄 | *福岡・八幡総会に集まろう!福岡特集* 権利を国民の手に 国民主権を実現するためにたたかい続けること |
大久保 賢一 | 「半島が平和になると困る人」 |
中野 和子 | 二〇一八年六月ILO総会 「暴力とハラスメント禁止条約」採択に向けた議論について |
福岡支部 馬 奈 木 昭 雄
(よみがえれ!有明訴訟弁護団団長)
二〇一八年七月三〇日の福岡高裁判決
よみがえれ!有明訴訟において、国は「共同漁業権は一〇年という期限付で許可されたものであり、確定判決が認めた開門請求権は、当時許可されていた共同漁業権の一〇年の存続期限が終わる二〇一三年八月三一日でその権利が消滅した」、と突然主張し始め、福岡高裁はその主張を全面的に認めた。この国の主張と福岡高裁の判決は、国民が有する基本的権利の理解において重大な誤りがあり、到底認められないのである。
民法七〇九条は勝手に改竄されている!
変更前の民法七〇九条は、「他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ」と定められていた。変更後は、「他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は」とされている。法務省によれば、「文語文だったのを口語文に変えただけだから、条文の内容は何ら変わっていない」すなわち法改正ではない、という主張である。そうであれば、この見解(最高裁も同じである)では、従前から「権利=法律上保護された利益」という規定だったことにならざるを得ない。私たちの主張は、「権利」と「法律上保護された利益」とは、部分的に重なり合うとしても、まったく別の概念であり、すなわち法務省の変更は民法七〇九条について、正式な法改正の手続を取らずに、勝手に改竄したのである。そのことは、すなわち「国民が持っている権利」の意味を根本から否定することなのである。
まさにこの権利の考え方をめぐる国と私たちの激しいたたかいが、今回の福岡高裁判決をはじめとして今展開されているのである。
日本国憲法第九七条は、基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として、これまでのファシズムや軍国主義などの「過去幾多の試練」を乗り越え、国民に「永久の権利として信託されたもの」と宣言している。そこで憲法第一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と命じているのである。私たちは「不断の努力」によって、私たちに信託された自由及び権利をまもり育てて次世代にきちんと手渡さなければならない。権利とは決して国が主張するように、「国が法によって認め期限付きで国民に与えたものであり、いつでも取り上げることができる」というものではないことは自明の原則である。
私は、大学で学んだ原島重義教授の授業中何回も繰り返される、「ゲヴェーレ」という口調をなつかしく思い出す。権利は自らの「事実支配」の実績、すなわち自らの力で確立した「事実」からこそ生まれるのだ、と理解している。決して一人でに「天から降ってきた」ものではないし、ましてや国から与えられたもの(すなわち逆に国はいつでも取りあげることができるもの)では決してないのである。
しかし今や、法科大学院の授業でも「ゲヴェーレ」という言葉が語られないだけでなく、そもそも「権利とは何か」ということ自体が、正面から問わられなくなっているように思える。今回国があからさまにそう主張しただけではなく、あろうことか裁判所までもが「政権の意思を忖度」して、「国民の権利」に敵対し奪う立場にあからさまに立ったのである。
ちなみに国は、例えば「竹島」が何故我が国の固有の領土なのか、という問題について、「それは我が国が昔から竹島を実効支配してきているから」、と主張している。これこそが国際社会で通用する権利概念であり、国は自分の都合によって平然と恥知らずに主張を使い分けるのである。
くらしの現場から主権者としての声をあげたたかい続けよう
憲法は、私たちが自分自身の権利をまもるために、「不断の努力」を尽くすように求めている。私たちが権利をまもって頑張り抜く道は、私たち一人一人が主権者として、あらゆる場所、あらゆる機会に、自らの権利をまもる声をあげ続けることである。私たちは決して黙ってはならない。被害がある限り被害の回復とその防止のために、最後の一人の救済までたたかい抜くことが今求めれている。ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、ミナマタ、イサハヤ、フクシマ、いずれもその地名が国際的にそのまま通用している。国の無謀な政策により、地域が破壊され、住民が重大な被害を受けたにもかかわらず、国がその救済を怠り放置し続けている象徴としてである。しかし私たち主権者の全国的に連帯したたたかいによって、その地名の持つ意味が、これまでの破壊と放置から今や地域の回復再生を目指す取組みの象徴として生まれ変わろうとしている。
「私たちは絶対に負けない、なぜなら勝つまでたたかい続けるから」。この主権者として権利をまもる声をあげ続けるたたかいが、戦争を防ぎ、平和をまもり抜く力になるのだと確信している。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
これは仲畑流万能川柳の一句である(毎日新聞七月一七日)。いやあ傑作だと思わずニタリとしてしまった。まず浮かんだのは、安部晋三首相、河野太郎外務大臣、小野寺五典防衛大臣の顔である。彼らからすれば、北朝鮮の脅威という「国難」が消えてしまえば、内政におけるでたらめを覆い隠す材料が減ってしまうことになる。それは困ることになるだろう。おまけに、「一〇〇パーセントともにある」としていたトランプ米国大統領が、「国難」の親玉金正恩国務委員長と笑顔で握手してしまったのである。彼らからすれば青天の霹靂といったところであろう。
けれども、彼らは「北の脅威」は消えていないとしてイージス・アショアの配置を継続しているのである。イージス・アショアは二基で総額六千億円を超えるし、使用する新型迎撃ミサイルは一発三〇億円から四〇億円で、二基で数十発単位が想定されているという(産経新聞七月二三日)。トランプ大統領は、金がかかるからとして米韓共同演習を中止したけれど、日本政府はまだこんなことを続けているのである。この費用の支払先は、もっぱら米国の軍需産業だろうけれど、特需の恩恵を受ける日本企業もあるだろう。平和になると困るのは目くらましの材料がなくなる政府、存在意義を問われることになる軍関係者、金儲けの機会が減る資本家だということがよくわかる。
けれども、困るのはそういう連中だけではない。北朝鮮を悪者に仕立てて、自分の意見を述べてきたマスコミや学者も困るのである。金体制の独裁や非人道性を材料にして、核兵器依存や武力行使の不可避性を主張してきた手合いがいる。北朝鮮は危険な存在だから、まずは北朝鮮に核を放棄させろ、けれども日本は米国の核の傘に依存して安全保障を確保すべきだ、軍事力の保有は必要だとしてきた諸君のことである。毎日新聞は、米国に「核の傘」を外すのは止めてくれとしていたし(二〇一〇年一月四日)、南北首脳会談は北朝鮮を利するだけだから惑わされるなとしていた(二〇一八年二月一一日)。中西寛京大教授は、北の脅威に直接触れているわけではないけれど、核兵器は自分と愛するものを守るものであることも忘れるな、核兵器禁止条約など意味がないとしていた(二〇一七年一月一五日・毎日新聞)。こういう人たちは、北朝鮮に対する核攻撃が可能な米軍爆撃機の護衛に自衛隊戦闘機を提供することにも、北朝鮮のミサイル発射実験に過剰なまでに警戒警報を発令することにも無批判なのである。
こういう発想の人たちは、南北会談や米朝首脳会談の成果について懐疑的になるのである。いわく、この会談や声明は抽象的で具体性がないから核廃絶に役に立たないとか、北にまた騙されることになるとか、北の独裁体制を許容することになるとか、トランプのパフォーマンスはノーベル平和賞狙いだとか、拉致被害者が帰って来るわけではないなどとして、首脳会談や共同声明の意義を過小に評価するのである。
彼らは、トランプ大統領と金委員長が「ちびのロケットマン」だとか「狂った老いぼれ」と罵りあっている状況の方が性に合っているらしく、「新しい米朝関係」、「恒久的で安定的な朝鮮半島の平和」、「完全な非核化」などというアジェンダには興味を示さないようである。
強烈な個性の二人が、兎にも角にも会って話し合いをしたのだ。その協議が継続されている限り、朝鮮半島での戦闘や北朝鮮の日本への攻撃や日本人の在日朝鮮人への虐殺が避けられるであろう。私は、それは大変な成果だと思うのである。けれども、彼らはその成果を確認できないようである。
北朝鮮に先行的な核兵器放棄を求めることは「俺は持つお前は捨てろ核兵器」という見勝手な論理であるし、対話以外の解決策として武力の行使を容認することは核兵器の使用を誘発する恐れがあるし、国交もないままに「拉致問題」の解決は不可能であろう。出来もしないことややってはならないことをやれやれと騒いで、南北間や米朝間の「善意」や「信頼」の形成に水を差す言説は、朝鮮半島や日本でのカタストロフィーを容認する無責任で軽薄この上ないものであろう。「北朝鮮の脅威」を消滅させるためには、無理筋の圧力をかければ済むという問題ではないことは、少し冷静に考えれば理解できることであろう。永遠の五歳であるチコちゃん(NHKの番組のキャラクター)に言わせれば「ボーっと生きているんじゃねえよ…」というところであろう。
今求められていることは、南北首脳会談や米朝首脳会談の到達点と今後の課題を適確に分析し、トランプ大統領や金委員長に対する適切な批判や激励を忘れないようにして、「朝鮮戦争の終結」、「朝鮮半島の非核化」、「北東アジア非核兵器地帯」、「平和共存可能な朝鮮半島」、「北東アジア共同体」などを展望し、可能な事柄から地道に積み上げていくことであろう。(二〇一八年七月二五日記)
東京支部 中 野 和 子
二〇一八年六月二八日、参議院厚生労働委員会では、「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案に対する附帯決議」が採択された。
その第三八項には、「本委員会における審査を踏まえ、職場におけるパワーハラスメント等によって多くの労働者の健康被害が生じており、その規制・防止を行うことが喫緊の課題であるとの共通の認識に基づき、国際労働機関(ILO)において『労働の世界における暴力とハラスメント』の禁止に向けた新たな国際労働基準の策定が行われることや、既に国連人権期間等からセクシャルハラスメント等の禁止の法制度化を要請されていることも念頭に、実効性ある規制を担保するための法整備やパワーハラスメント等の防止に関するガイドラインの策定に向けた検討を、労働政策審議会において早急に開始すること。また、厚生労働省の「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会」報告書を踏まえ、顧客や取引先からの著しい迷惑行為について、関係者の協力の下で更なる実態把握を行うとともに、その対応策について具体的に検討すること。」と記されている。
ILO総会における討議の内容は、後記の学習会で布施恵輔全労連国際局長に詳細にご報告いただくことにして、国内のセクハラ・パワハラの規制について以下確認する。
男女雇用機会均等法第一一条は、セクハラが違法であると直接的に規定しておらず、雇用管理上必要な措置を義務化したにとどまる。
しかし、その措置について厚労省は指針を定めており、@事業主の方針の明確化及びその周知・啓発、A相談窓口の設置と相談対応、Bセクハラの事後の迅速かつ適切な対応、C相談者・行為者等のプライバシー保護である。
同法は、女性活躍推進法(二〇一五年)施行後三年の見直しにあたる二〇一八年度には、固定的性別役割分担意識が払拭され、女性が活躍しやすい環境となるよう改正が検討されることになっている。
人事院規則一〇−一〇(一九九八年一一月一三日人事院事務総長発)では、さらに詳細に定めている(最終改正二〇一六年一二月一日)。
ここでもセクハラとは何かの定義はない。しかし、例えば「職場」とは、職員が職務に従事する場所をいい、当該職員が通常勤務している場所以外のものも含まれる、としている。「性的な言動」とは、性的な関心や欲求に基づく言動をいい、性別により役割を分担すべきとする意識又は性的指向若しくは性自認に関する偏見に基づく言動も含まれる、としている。「他の者を不快にさせる」とは、職員が他の職員を不快にさせること、職員がその職務に従事する際に接する職員以外の者を不快にさせること及び職員以外の者が職員を不快にさせることをいう、とされている。
このように、法律ではセクハラの定義はないが、約二〇年も人事院規則などが運用され、セクハラとは何かという合意形成ができていると思われる。
そして、人事院規則では、研修計画を立てることになっており、財務省にはそれがなかったために、世論にアピールする必要からも急遽幹部に研修が施された。
妊娠・出産等に関するハラスメントについても二〇一七年一月一日に男女雇用機会均等法第一一条の二が施行され、セクハラ指針と同様の措置に加えて、職場における妊娠、出産等に関するハラスメントの原因や背景となる要因を解消するための措置を講ずることを指針として示している。育児休業法第二五条でも、育児休業についてハラスメントがないように雇用管理措置が義務づけられている。
パワハラについても厚労省が指針を出しているので、新法制定の参考になる。
二〇一九年はILO一〇〇周年の年であり、全世界的に問題となっている「暴力とハラスメント禁止条約」を来年総会で採択できるよう議論が進んでいる。
日本国内でも、十分実効性ある法律を制定し、採択・批准に向けて日本政府に働きかける必要がある。
その最初の試みとして、二〇一八年一〇月一一日午後三時から、後記の学習会を行うので、是非、参加をして今後の取組みを議論していただきたい。
日 時 一〇月一一日(木)午後三時から五時
場 所 団本部会議室
テーマ 「ILO一〇〇周年暴力とハラスメント禁止条約採択に向けて」
報 告 布施恵輔 全労連国際局長