<<目次へ 団通信1645号(9月21日)
福岡支部 堀 良 一
一〇月二一日(日)の総会懇親会終了後、会場ホテル内において「仁比・山添両議員を囲む会―国会議員をいかに活用するか」を開きます。
言うまでもなく、仁比聡平・山添拓両議員は自由法曹団員です。両議員はこれまで団出身の議員として、団の歴史的到達点を踏まえ、弁護士としての専門性を活かしながら、団活動や各地の大衆的裁判闘争と国会をつなぐ活動をしてきました。
安倍政権がすすめる憲法改悪、「戦争をする国」づくり、原発推進政策とのたたかい、労働法制をはじめ各種の悪法に反対する運動には国会議員との連携が不可欠です。大衆的裁判闘争を推し進める上でも、国会対策、各地のたたかいと連携した国会内での議員活動が求められます。情勢はますますその必要性を強めています。
ところがこれまで、「国会議員をいかに活用するか」という視点からの経験交流はあまりありませんでした。
そこで今回、仁比ネットに結集する有志の団員が世話役となって、両議員を囲む会を開催しようということになりました。
両議員からは、利用される側からの率直な発言をしてもらいます。
また、各地の団活動において両議員を活用した事例や、大衆的裁判闘争における国会活用事例も交流し、両議員からの感想をお聞きする予定です。
今後、団活動を強め、各地の大衆的裁判闘争に勝利する上で、国会議員活用の「勘どころ」についての世代継承も必要です。その意味では、若手団員には積極的に参加していただきたいと思います。
とは言っても、懇親会終了後の集まりですから、堅苦しい会議にはしません。
ざっくばらんで楽しい、率直で豊かな意見交換の場にしたいと考えています。
総会会場近辺には出歩くような所はありませんので、二次会のつもりで、お気軽にご参加下さい。
東京支部 舩 尾 遼
八月一一日、沖縄の県民大会に参加してきました。
予期せぬ翁長知事の訃報に、動揺と悲しみ、なによりも翁長知事の遺志を受け継ごうと七万人もの市民があつまりました。戦後米軍基地の大半を押し付けられ、基地と米軍の負担を背負い続けてきた沖縄では、もう米軍基地はいらないという極めて大きな世論が形成されています。それは、日米地位協定を変えてでも実現したい沖縄県民の悲願だと感じました。
今後、朝鮮半島情勢が変わり、南北が衝突する可能性が低減された後に在韓米軍が撤退する可能性があります。撤退せずとも規模は極めて縮小されると思われます。仮に板門店宣言に基づき朝鮮戦争が終結すればなおさらです。在韓在日米軍の在り方を改めて考えなければならなくなります。米軍が駐留する根拠の一つがなくなるのですから。
安倍九条改憲は、その後に在韓米軍の代わりの役割を在日米軍に負わせることを許して、どこまでもアメリカの核の傘の下で北朝鮮を威嚇し続けることを意味すると思います。
要するに今の局面で安倍九条改憲をすることは、北朝鮮の危険性が仮に低下しても在日米軍が今と同規模以上に駐留することを許して、日本から核の威嚇を北朝鮮にし続け、米軍と一体となって日本の自衛隊が集団的自衛権を行使することを許すということです。
仮に、韓国と北朝鮮の関係が今後良好であろうとも、核の威嚇とともに在日米軍がある限り、北朝鮮も米朝首脳会談の声明通り非核化をすすめられません。バーターとして北朝鮮の安全の確保が米朝首脳会談で約束されているからです。
北東アジアの非核化と、武力衝突の危険性は、安倍九条改憲がなれば益々解決しない問題として残ってしまいます。
沖縄の基地問題は、安倍九条改憲を肯定するのか、日米地位協定を今のまま残すのか、北東アジアを核のない地域とすることができるのかという問題と密接に関わっていると思います。
沖縄の米軍基地建設反対という声が勝利した場合、米軍基地のない沖縄を実現するために、安倍九条改憲反対、地位協定の改定、北朝鮮や韓国と共に非核化を進めることについて今後沖縄が取り組まざるを得ない思います。これは日本の全国民的問題です。
現地のことは現地で決めるのが地方自治の鉄則ですが、基地を本気でなくしていくのであれば、これは全国民的に取り組まなければ実現しない問題なのです。その面で沖縄県知事選挙は安倍九条改憲反対のための最も先鋭的なたたかいの場であり、極めて政治的な選挙に位置付けざるを得ないと私は理解しています。
いいかえると、今安倍改憲課題に取り組むのであれば沖縄に行くか、県外で沖縄に連帯すべきなのです。
沖縄県知事選挙の勝利は、野党と市民の共闘に安倍政権が敗北しうることを示すことであり、また、米軍基地反対をとおして安倍九条改憲に民意が反対したことを示すものであり、安倍改憲に対してこれ以上ない先制の痛打を与えることになります。
しかし、八月に行ったばかりで本当にいけるのか、仕事があれですし…悩ましいですが、県外のみなさん、県知事選挙の応援を自分の地元やりませんか?
埼玉支部 大 久 保 賢 一
八月九日、長崎の平和式典で、被爆者代表の田中煕巳さんが「平和への誓い」を述べている。田中さんは、その中で「紛争解決のための戦力を持たないと定めた日本国憲法第九条の精神は、核時代の世界に呼びかける誇るべき規範です」としている。憲法九条は単なる精神ではないとか、誰が呼びかけるのか主語があいまいだ、などと赤ペンを入れたいところもあるけれど、私は、田中さんが「核時代」という言葉を使い、憲法九条を世界に呼びかける誇るべき規範であるとしていることに最大限の共感を覚えるのである。田上富久長崎市長も「平和宣言」で、「『戦争をしない』という日本国憲法に込められた思いを次世代に引き継がなければならないと思います」と日本国憲法に触れているけれど、田中さんのように、九条を世界に呼びかけようとまではしていない。同じ場所にいた、安倍首相のあいさつには「核兵器のない世界」という言葉はあるけれど、憲法についても、核兵器禁止条約についても言及はない。彼はこの国の首相として不適格である。
一三歳の時に長崎で被爆し、自身は奇跡的に生き残ったけれど、五人の身内の命を奪われた田中さんは、原爆は「人間が人間に加える行為として絶対に許されない」としている。田中さんにとって「核時代」とは、人間が絶対にしてはならないことが行われ、またいつ行われるかわからない時代なのであろう。田中さんは、その時代を転換するために、憲法九条の世界化を呼びかけているのである。
私と田中さんとの付き合いは二〇年ほどになる。一九九九年五月一一日から一五日まで、ハーグで開催された「ハーグ平和アピール市民会議」の準備を一緒に始めたことがきっかけだった。当時、田中さんは日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)の事務局長だった(今は代表委員)。田中さん、そして故池田眞規弁護士と飲む酒は旨かった。池田先生はあまり飲まないけれど、田中さんと私は次の日まで残るほど飲んだものだった。被爆者を原告として米国政府を相手に裁判を起こそうなどと持ち掛けて、「もう一〇年前に言ってもらえたらな…」などと語り合ったものだった。
なんでそんな話をするかというと、池田先生はことあるごとに「被爆者は預言者である」として、被爆体験の悲惨さに怒り、被爆者が再びヒバクシャを作らないと決意していることに賛辞を送り、核兵器廃絶と憲法九条の大切さを説いていたからである。例えば「ハーグ平和アピール市民会議」では、「世界の人々はこの悲惨な殺りくの世界から戦争のない世界を創ろうと考えている。現在の人類の最大の悲願は核兵器と戦争の廃止である。人類共通のこの悲願の実現は、戦争と核による世界の犠牲者の訴えに基づいて闘われてきた。今世紀の戦争の犠牲者とその家族・友人はまだ全世界にいる。」などとしていたのである(「核兵器のない世界を求めて」・日本評論社・一六四頁)。
そして、二〇〇七年三月、池田先生が田中さんたちと立ち上げた「ヒバクシャ九条の会」のその呼びかけ文には「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めた九条は、『ヒロシマ・ナガサキを繰りかえすな』の願いから生まれました。被爆者にとって生きる希望になりました。」と記されているのである(同書二八六頁)。
私は、田中さんの今回の「平和の誓い」には、池田先生との交流が底流にあったように思うのである。日本国憲法九条の誕生が、核のホロコーストだけに淵源があるとは思わないけれど、それを無視することは絶対にできないであろう。見ず知らずの人々に殺し合いを強いる国家権力を制御する憲法規範を維持することができなければ、人々は「最終兵器」の使用によるカタストロフィー(壊滅的結末)を迎えることになるかもしれない。それを避けるためには、核兵器廃絶と憲法九条の世界化が求められているのである。ヒバクシャ国際署名と改憲阻止三〇〇〇万人署名の双方を成功させなければならないことを再確認する田中さんの「平和への誓い」であった。
(二〇一八年八月一〇日記)
東京支部 黒 岩 哲 彦
安倍改憲提言(自民党「改憲四項目」)は、九条改憲に二六条改憲を加えています。安倍二六条改憲提言については、「教育の無償化は、維新の会を巻き込む「アメ」である」との政治的評価は一致しています。私も全く同感ですが、猛毒が入った「アメ」だと思います。
一 安倍二六条改憲提言―改悪教育基本法を憲法化
提言の内容は次のとおりです。
【教育の充実】
第二六条
(第一、二項は現行のまま)
(第三項)国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない。
安倍二六条改憲提言について検討する際に、二〇〇六年教育基本法改悪反対運動を振り返ることが大事だと思います。私は団教育基本法改悪阻止対策本部の一員でした。団は「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」に結集して、運動の一翼を担って反対運動に取り組んできました。この「全国連絡会」は現在の「総がかり運動」や市民連合の源流となるものでした。団は教育基本法改悪は、教育を国と大企業のための国策のための人材育成であることを解明して、その成果は、自由法曹団著『弁護士から見た教育基本法「改正」の問題点』(二〇〇六年九月)などを公表しました。
教育基本法改悪に先立ち、中央教育審議会答申(二〇〇三年三月二〇日)は、「グローバル化が進展する今日、国際競争力の強化が求められ、この時代の大きな変化を踏まえ、二一世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成をめざし、施策の重点化・効率化を図ることが必要である。」として、このような国策を遂行する有為な人材を育成することが教育基本法の改悪の目的であると明言しました。
今回の安倍二六条改憲提言は、三項に「教育が未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものである」との文言を使っていますが、これは自民党改憲草案の「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことができないものであることに鑑み」と全く同じ文言です。
文部科学事務次官前川喜平さんは「安倍政権が進める戦争を支える国民を生み出すための教育施策の一環である人権保障規定に『国の未来』などという条件を持ち込んではいけない。このような留意事項は、教育を受ける権利の保障に関係ないだけでなく、『国の未来を切り拓く』上で役に立つ国民の教育は保障するが、役に立たない国民の教育は保障しないという論理につながる危険性を持っている。この自民党改憲案は全体として、個人を国家に従属させる国家優先の思想に覆われているが、その思想がこの文言にも表れていると言えよう。」と指摘されています(東洋経済オンライン)二〇一八年五月二四日)。
今回の安倍二六条改憲提言は、自民党改憲草案を全く同じように、改悪教育基本法を憲法化して、国家と大企業のための教育を推し進めようとするものだと思います。
二 国家の家庭教育への介入
(1)安倍流「親学」
自民党は、「家庭教育支援法案」を国会に提出しようと目論んでいる。この動きには安倍流の「親学」という右翼思想が背景にあります。親学(おやがく)とは、伝統的価値観に基づいた子育てのために、親が学ばねばならないとされているものである。親学推進議員連盟の会長は安倍晋三です。
「親学」は次のようなことを主張しています。
・赤ん坊には子守唄を聞かせ、母乳で育てなければならない。粉ミルクは使わない。
・授乳中はテレビをつけてはいけない。子供にテレビやビデオはなるべく見せない。
・子供には早寝早起きさせ、朝食を必ず食べさせる。
・インターネットのフィルタリングを徹底し、有害情報から子供を守る。
・テレビやゲームなどのバーチャルから子供を遠ざけ、親子で演劇などを見る。
・PTAに父親も参加する、また教科書もチェックする。
・遊び場確保のため、一般道路を解放。
・企業は授乳休憩を設け母親を守る。
・乳幼児健診などの機会に自治体が「親学」講座を実施。
・幼児段階で基本的な道徳、思春期到来前に社会性を身につけさせる。
・思春期以降は自尊心が低下しないように講じる。
・発達障碍やアスペルガー、自閉症は親の愛情不足が原因で、伝統的子育てでは発生しない。
(2)「家庭教育支援法案」
「家庭教育支援法案」は憲法二四条改憲の視点で深く分析され、団は二〇一七年三重・鳥羽総会で「家庭教育支援法の提出に反対する決議」を出し、「家庭教育支援法は子どもの思想良心の自由や学習権を侵害する危険が大きく、憲法二四条の精神にも反するものである上に、安倍政権が進める戦争を支える国民を生み出すための教育施策の一環である。」ことを明らかにしました。
家庭教育支援法案は、二四条の問題であり、かつ、二六条の問題で、国と大企業のための人材作りのために家庭教育まで介入しようとするものであることは明らかだと思います。
条文案をみても次のことに気が付きます。
@「教育基本法の精神にのっとり」(一条)
改悪教育基本法の精神を実現しようする。
A「社会の基礎的な集団である家族」(二条)
B「子に国家及び社会の形成者として必要な資質」(二条)
C「父母その他の保護者が子育ての意義についての理解を深める」(二条)
保護者は親学を学ばなければならない。
D「国(地方公共団体)は、前条の基本理念(以下「基本理念」という。)にのっとり、家庭教育支援に関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務」(三条、四条)
国や地方公共団体は親学教育プログラムを作ります。
E学校又は保育所の設置者、地域住民等の協力義務(五条、六条)
学校や保育所は親学教育に協力義務があり、親を含む地域住民は協力しなければなりません。
三 安倍二六条改憲提言の猛毒性の暴露を
安倍二六条改憲提言について、私たちは「憲法改正がなくても教育無償化が実現すべき」との批判をしてきた。二〇〇六年改悪教育基本法・自民党憲法改正草案・「家庭教育支援法案」の動きをあわせて、安倍二六条改憲提言の猛毒性の暴露が大切だと思います。
東京支部 後 藤 富 士 子
一 自民党の二四条改憲草案
二四条改憲は、自主憲法制定を党是とする自民党の結党以来の悲願であり、「個人の尊厳が家族の解体を招く」という見解に基づき、改憲草案二四条一項に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」という条項を新設する。
これに対する批判として、「個人の尊厳を否定するものである」とか、「個人主義が家族を解体しているという証拠はないし、解体の事実さえはっきりしない」として、「二四条改憲は、家族解体を防ぐのではなく、あるべき家族を作り上げることを目的とし、この目的のために家族に介入しようとするものだ」などと論じられている。
自民党の二四条改憲草案に対して、言うまでもなく私は反対であるが、それについて私が考えていることは、前記の批判とはかなり趣が異なる。それは、自民党草案が憲法と乖離した現行制度を追認するに過ぎないという基本的認識をもっているからである。
二 「子どもの権利条約」は「家族」をどのように規定しているか?
一九八九年一一月二〇日国連総会で採択され、日本でも平成六年五月二二日に発効した「子どもの権利条約」は、子どものケア・発達のための親および家族(環境)を重視している。子どもは、人格の全面的で調和のとれた発達のためにふさわしい家族環境(代替的な環境を含む)のもとで成長すべきであるという理念に基づいて、家族形成・関係維持にかかわる権利が保障されている。また、親ならびに家族の保護・援助を通して子どもの発達や権利を保障しようとしている。
まず、前文第五段は、「家族が、社会の基礎的集団として、並びに家族のすべての構成員、特に、子どもの成長及び福祉のための自然な環境として、社会においてその責任を十分に引き受けることができるよう必要な保護及び援助を与えられるべきである」としている。第六段は、「子どもが、その人格の完全なかつ調和のとれた発達のため、家庭環境の下で幸福、愛情及び理解ある雰囲気の中で成長すべきである」という。そして、第七条一項では、子どもは父母によって養育される権利を有すると定め、第一八条一項では、子どもの養育及び発達について父母が共同の責任を有するとの原則の下に、「父母又は場合により法定保護者は、子どもの養育及び発達についての第一義的な責任を有する。子どもの最善の利益は、これらの者の基本的な関心事項となるものとする。」と定めている。
すなわち、自民党草案の「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。」という条文は、「子どもの権利条約」と合致しているように思われる。
また、「家族は、互いに助け合わなければならない。」との条文についても、民法が夫婦間、親子間、兄弟姉妹間で扶助義務を定めている。
三 「単独親権制」の違憲性
民法は、「婚姻中は父母の共同親権」としながら(八一八条三項本文)、未婚・離婚の場合には、例外なく「単独親権制」を強制している(八一九条)。この「単独親権制」違憲論で最も単純明快なのは、父母が婚姻中か否かで親権に差を設けるのは「社会的身分」による差別であり、憲法一四条一項に違反するというものである。
しかるに、家事実務では、「主たる養育者の重視」という大昔の理論に基づき、主たる養育者=母親を単独親権者に指定することが「子の福祉」に適うとされ、「単独親権制」の問題が顧みられることはない。とりわけ指摘したいのは、これが母親の既得権益となっているために、「夫婦別姓」とか「家族の多様性」を主張するフェミニズム系が「守旧派」になっていることである。
ところで、この問題で憲法の条項は如何にあるべきかについて、ドイツの議論を紹介する。ドイツ民法(以下「BGB」という。)でも、親の離婚後の親権は単独親権とされ、一九五七年の男女同権法によっても離婚後の単独親権が原則とされていた。しかるに、一九七六年、離婚法で完全破綻主義が採用されるに至り、また、家庭裁判所が創設されたこととあいまって、親権の帰属が離婚事件と同時に裁判される「手続の結合」という制度が導入された。その後、一九七九年、親権法の全面改正が行われ、「親権」という語は廃止されて「親の配慮」という概念にとってかわられたが、離婚後の「親の配慮」の帰属に関しては、相変わらず単独配慮制度が継続した。ゴールドスタインらが主張した「主たる養育者の重視(主たる養育者としては事実上母が多かった)」理論の影響が大きかったのである。
ところが、一九八二年、連邦最高裁判所は、BGB一六七一条四項一文「親の配慮は、父母の一方に単独で委ねられなくてはならない。」は、基本法六条二項一文「子の養育および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。」に抵触するゆえ無効であるとする違憲判決を下した。絶対的単独親権制を定めた民法の条項が違憲とされたのは、憲法に明文規定があるからにほかならない。
四 現状打破できる憲法にしよう!
私は、単独親権制廃止を長年主張してきた。そのための民法改正案も提示している。しかしながら、単独親権制の害毒を除去するような実務運用は一向にされないばかりか、例えば「子の引渡し」強制執行の強化策が法改正されようとしている始末である。
単独親権制は、両性の平等や個人の尊厳を定めた憲法二四条にも違反するし、社会的身分による差別という点でも違憲である。それにもかかわらず、憲法解釈に基づく単独親権制廃止論は、殆ど顧みられることはなかった。それは、自民党改憲草案に対する批判論の観念性・脆弱性に照らせば、当然のことだったのかもしれない。
しかし、自民党改憲草案を批判し、反対しているだけでいいはずがない。ドイツの親子と日本の親子で、本質的な違いはないはずだ。だとしたら、日本国憲法二四条に「子の養育および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。」という条文を明記して、猛威をふるっている単独親権制の害毒を廃絶すべきであろう。
(二〇一八年九月八日)
東京支部 木 村 晋 介
私が、一六三三号で、特定の価値観を次世代に強いる立憲主義がそれほど正しいものなのか、という疑問を呈したこと(第一の論点)、一六三九号で制憲権者の意思は個別的自衛権も放棄するということで一致していたのか、という疑問を呈したこと(第二の論点)について、松島さんから一六四二号にて反論をいただきましたので、改めて私の意見を述べたいと思います。
松島さんの論述の順序に従い、まず第二の論点からお話ししたいと思います。
私は、制憲権者の意思は個別的自衛権も放棄することで疑いの余地なく一致していた、とする松島さんの前論に対し、制憲権者が国民の圧倒的多数という意味であれば、制憲当時国民の圧倒的多数が個別的自衛権の放棄に賛成だったとはいえない、ということを、当時の世論調査などをもとに述べました。これに対して、松島さんは今回の論稿で、松島さんが前論で日本国憲法の「制憲権者」という用語を使ったのは、日本国憲法の制定に現実的に「携わった」あるいは「関与した」人々、「関係者」という程度の意味で用いた、とされ、その「関係者」の認識において、個別的自衛権を放棄することに「異論があったとは思われません」としておられます。
しかし、憲法制定関係者に、個別的自衛権を放棄することについて一致があった、ということにも疑問があります。
周知のことですが、昭和二一年八月、憲法改正草案を審議する日本政府憲法改正小委員会において委員長の芦田均が第九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正を行いました。
この「芦田修正」により「前項の目的を達するため」という語句が加えられたことから、ここに極東委員会が注目し、前項の目的以外、たとえば「自衛という口実」で実質的に軍隊をもつ可能性がありうることとなったとして、極東委員会は検討の結果、憲法六六条に文民(シビリアン)条項の規定を要求、貴族院における修正により、憲法第六六条第二項として文民条項が追加された、といわれています(国会図書館編 日本国憲法の誕生 論点二 戦争放棄)。
事実芦田は、憲法公布の日に発行された自著の中で、芦田修正に触れたうえで「第九条の規定が戦争と武力行使による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であって(中略)、従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない」と明確に述べています(憲法解釋三五ページ)。
この芦田の憲法解釈が正しいかどうかは別として、少なくとも、日本国憲法制定の極めて重要な関与者である芦田と極東委員会は、自衛のための武力の保有がありうることを前提として行動していたこと。憲法の意味内容において、松島さんのいうような関係者の「認識の共通」があったわけではないこと。このことは認めざるを得ないのではないでしょうか。
つぎに、第一の論点に移ります。
松島さんは、立憲主義を正当とする論拠として、制憲時に多数者が了解した価値・原理そのものの普遍性(優位性・将来性・説得性)こそが重要であり、また規範化された価値・原理の内実こそが重要であり、この限度で立憲主義は妥当と考えるとされています。
立憲主義を批判的に考察するという点では、私と松島さんの考え方は共通していると思いますが、私の立憲主義批判のおおもとにあるのは、ある世代の特定の価値観を、後世の人々にどこまでなら「押付けることができるのか」という疑問です。私が問題にしているのは、アメリカからの押しつけではなく、世代間のそれです。これは前論でも述べた通りで、ここでは、憲法制定時の有権者が現在九二才以上となっていて、その人口は、現在の有権者総数の約一・四%であることも考慮に入れなければなりません。
松島さんのいう、当時多数の支持を得て憲法が採用した原理・原則が普遍的で優位性があり、将来性があり、説得的だということはどんな事実によって論証するのでしょうか。特に完全非武装主義は、敗戦直後という一つの時代にその世代の多くの人が共有した信念、「特定の価値観」そのもののように私には思えます。少なくともここでは長谷部恭男氏のいう価値相対主義が妥当すると思います。
憲法九条二項は前論でも述べたように、(多数説の解釈に従った場合)施行以来一瞬たりとも規範として機能したことがありません。また、戦後の長きにわたって憲法違反のはずの自衛隊は国民の支持を広げてきました。このことは事実によって論証可能です。これはその規範に普遍性・優位性・将来性・説得性が欠けているからではないでしょうか。
私の「国民に寄り添う平和運動」という言葉が分かりにくかったかもしれません。平たくいえば、いま九条擁護を語る人たちの発言に、理想的平和主義、絶対的平和主義の過剰な表明があり、そのことが運動から国民を遠ざけているように感ずるということです。松島さんは、むしろそのことにより専守防衛ないし個別的自衛権という現実主義が形成されている、というのですが、専守防衛も個別的自衛権も認めないという立場にたちながら、どうしてそんな役割が果たせるのだろうと疑問を感じてしまいます。松島さんは、国民意識を敵視しているわけでは無いとされていますが、私が前論を投稿した理由は、松島さんが専守防衛論を手厳しく非難されていることに触発されたものです。
私は、通説的立場、自衛隊違憲という立場はそれはそれで結構だと思います。しかし、自衛隊が違憲だという立場に立つ日本共産党も、急迫不正の主権侵害など、必要に迫られた場合には、自衛隊を活用する、としています。なかなか柔軟な態度だと思います。
最後に、厳格な改憲反対論者として知られる伊藤真弁護士が憲法改正の国民投票について述べた言葉を引用します。今ある国民の意思と価値観を重視するという姿勢に私は魅力を感じています。
「国民投票は、直接には改憲の賛否を決するものですが、実は様々な波及効果をもちます。もし現状の自衛隊を憲法に加憲することが国民投票で否決されれば、(中略)それは安全保障法制を否定する(国民の・筆者注)意思です。その意味で、この国民投票は(中略)二年前の安保法制反対運動の再チャレンジの場なのです(中略)。安倍政権も否定され、自民党も大きなダメージを受けます。加えて、押しつけ憲法論やや日本人が作ったものではないという攻撃も葬ることが出来るでしょう」(新婦人しんぶん一七年一〇月二六日五面)。
東京支部 伊 藤 嘉 章
第一 初めに (レジメに目次とページの不存在)
東京支部で、立命館大学の松尾匡教授の「そろそろ左派は経済を語ろう」という講演をきいた。配布されたカラーのA四版九八枚の裏表からなるパワーポイント用の浩瀚なレジメの量に圧倒される。欲をいえば、一枚目に目次と、各葉にページ番号があるとわかりやすいのですが。そこで、私は、長い準備書面には、いつも目次とページ番号を書く癖があるので、松尾教授のレジメの目次を私なりにつくって、次項に掲出することにしたい。
第二 松尾レジメの目次 (講演内容の骨子)
一 二〇一八年新潟県知事選の大共闘による池田候補の敗北の原因は、 経済政策がショボかったことにある。池田候補が、有効得票四四%を得て善戦した福山京都府知事候補並みの経済政策を打出していれば勝てたかもしれない。
二 若い世代は安倍内閣の経済政策を評価して投票する。
@経済は改善傾向にある。学生は就職状況の好転をみている。
A右傾化したわけではない。
三 選挙における安倍の景気作戦と左派・リベラルの緊縮型けちけ ち政策
@選挙前に公共事業を増やして景気を上げている安倍政権
A左派側は、もっと景気のいい対案をアピールしないせいで負けているのだ。
四 ところが、欧米では、左派側が派手な反緊縮政策を提唱し支持を集めている。
@二〇一五年労働党党首選 ガチ左翼泡沫候補ジレミー・コービン勝利
人民のための量的緩和 そして、住宅やインフラに投資を
A二〇一七年英総選挙で労働党大躍進
大学の無償化を含めて教育、医療・介護、労働・年金に経常的な支出増の公約。
新幹線をスコットランドまで延長、北部に横断鉄道建設
B米民主党のガチ左翼 サンダース 五年間で一兆ドルの公共投資
Cカナダ二〇一五年総選挙 トルドー政権発足 三年間で二五〇億カナダドルの財政赤字を容認 六〇〇億カナダドルのインフラ投資
D二〇一五年ポルトガル左派政権発足
反緊縮政策の効果は、GDPの増加 失業率の低下 財政赤字の減少
E二〇一四年スウエーデン左派政権発足
反緊縮政策の効果は、GDPの増加 失業率の低下 財政赤字は黒字に転換
五 日本も見習うべきだ。何をすべきか。
@日銀の作った緩和マネーで、福祉・医療・子育て支援などへの大規模な政府支出→雇用拡大→消費需要拡大
A緩和マネーとは、国債の日銀引き受けのこと
六 そんなことしたら、ハイパーインフレに
@なりません。
Aハイパーインフレは、戦争で負けるなどして生産能力が壊滅状態の場合
七 日銀保有の国債の大半は返済不要
@満期には借換を繰り返す。
A日銀保有の国債の一部を無利子の永久債とする。
B政府が五〇兆円硬貨を発行して、日銀に五〇兆円分の国債の返済に使う。
八 インフレ目標に達したら、
@政府支出は増税でまかなう。
A日銀が保有する国債は銀行に売る。市場からのマネーの回収。
B満期の借換え拒否 税金からマネーの回収
九 安倍の目標は改憲。
@このため経済で成功し選挙で圧勝してきた。国会の制圧
A二〇一九年参院選で改憲投票か。衆院選も
一〇 こんな主張では勝てません。
@財政赤字増やしたらダメ。金融緩和でおカネジャブジャブ出したらダメ
A消費税を増税します。
Bいや…大企業や富裕層からもたっぷり取るから…
一一 歴史から学ぶべきこと
ドイツ社会民主党を中心とする連立政権は、均衡財政にこだわって、一九三〇年代の大不況を悪化させた。その後政権についたヒトラーは公共事業で完全雇用を実現し、支持を盤石にした。
第三 松尾講演の一部 投票行動(東京支部への投稿原稿の抜粋です)
安倍内閣の時代にやっと職を得たという人たちは、首の皮一枚でつながっている人が多い。野党に政権が戻れば、また職を失うのではないかという恐怖感から自民党に投票する人が多い。小泉構造改革で経済が悪化し、民主党政権が何とかしてくれるかと期待したが裏切られた。このトラウマが大きい。
左派は経済を語らなければ選挙に勝てない。二〇一八年の京都府知事選で福山候補が善戦したのは、大いに経済政策を語ったからだ。
二〇一八新潟県知事選で、大共闘の池田候補が敗れた。池田候補の経済政策(松尾レジメ九頁)は、「えっ、これだけ」というほどショボイ。他方で、当選した花角候補はしっかりと経済を語っている。道路、空港、港湾などの社会資本の着実な整備、効率的な維持管理、補修をうたっています。さらに、長期的展望にたって羽越新幹線の整備促進に向けた取り組みを進めるといいます(松尾レジメ一〇頁)。もし、私が新潟県民であったとすれば、花角候補に投票していたかもしれない。
これは、私見だが、福山候補は「北陸新幹線については、一旦立ち止まって検証」と訴えたというが、門川京都市長が誘致を叫んでいるリニアの京都駅はともかくとして、「北陸新幹線の敦賀、京都、新大阪間(小浜ルート)の早期着工。そして、関西空港までの延伸」を訴えていたら、あるいは勝てたかもしれない。
第四 私見 緩和マネーの使い道は(東京支部への投稿原稿を推敲)
松尾教授がいう国債を財源に福祉・医療・子育て支援などへの大規模な政府支出(松尾レジメ一二五頁)をするだけではなく、これに加えて、大型公共事業でインフラ整備をおこなう。たしかに、松尾レジメの一二六頁に引用する松尾教授の同僚の橋本貴彦准教授の試算によると、同額の政府支出があった場合、学校教育、介護、医療、公共事業の順に経済効果(雇用者所得の波及効果)が大きいという。
しかし、イギリス労働党の政策でも、スコットランド新幹線の建設など公共事業に金を使うというように、日本でもインフラ整備にも大幅な財政支出をすべきであろう。
たとえば、全国新幹線鉄道整備法に定めるすべての新幹線の早期着工。環境問題を解決して東京から大阪へのリニアの完成。ルートについては、新幹線のない奈良県ルートに同意したい。トンネル内走行によって、富士山、御嶽山が爆発して火山灰が降り注いでも安心して走行ができる。そして、大阪から福岡への山陰新幹線をリニアで作る。九州に台風が上陸して飛行機が飛べない日でも、東京福岡間を、二時間で移動できる鉄道インフラの実現を左派は語るべきではないか。
中央リニア新幹線ができれば、東海道新幹線のダイヤに余裕が出てくる。山陰リニア新幹線ができれば山陽新幹線のダイヤにも余裕ができる。そこで、東海道新幹線と山陽新幹線に、JR貨物が貨物新幹線を走らすことが可能になってくる。北海道新幹線も東北新幹線も走る本数が少ない。但し、東京大宮間は三路線が競合するので対策を講じたうえで、北海道新幹線、東北新幹線と、東海道新幹線、山陽新幹線、九州新幹線、将来は長崎新幹線も、一通でつなげ、北海道の野菜や海産物を貨物新幹線で東京大阪福岡に運ぶなど、トラックではなく、環境にやさしい鉄道による物流のルートをつくる。という壮大な構想はいかがでしょうか。
なお、ストップリニア訴訟弁護団のホームページ記載の環境面並びに財政面での問題点については、別途検討したいと思います。
閑話休題 昔は、私が司法修習生のときも、そうだったんですが、社会保険の健康保険も共済組合の健康保険も、本人は一〇割給付だった。保険証一枚もっていけば、病院も歯医者も無料でかかれたのです。今では、医療費にかける金がなくて病院に行くのを我慢している人がどれだけいるのであろうか。二〇一八年五月集会の労働・格差・貧困分科会の藤田和恵氏の講演での「死ぬときは、病院の世話にならないでポックリ死ぬことが願望だという人が多い。」という話を思い出す。医者の世話になるのは、子どもの出生診断書と、親や子の死亡診断書を書いてもらうときだけであったという昭和初期の時代の状況が再来しているのではないか。
また、病院に行って処方箋を書いてもらっても、金がないので、薬局に行かずに握りつぶしてしまう人もいます。私もこれをやったことがあります。生活保護受給者は、医療費は無料なので、生活保護基準を少しだけ上回る年金受給者が、年金を辞退するから生活保護を受けさせてほしいと役所の窓口で言ったら、それはできないと、断られたという。私の元依頼人の話です。左派は、今こそ、健康保険の一〇割給付の復活を目指す。医療費は医療従事者の収入となるものです。医療従事者の雇用、給与所得が増えることになります。
第五 歴史から学ぶべきこと
(選挙に勝つために安倍を遥かに超える反緊縮路線)
中道・保守政権が緊縮路線を続けると、怨嗟のまととなる。そこで、反緊縮政策を掲げる勢力が、右派であろうと、急進左派であろうと、国民の支持を集める。
安倍は、ガチ右派であるが、金融緩和政策をとり、選挙のたびに公共事業を行い、景気回復の政策もとる。英労働党のコービン党首と同じく教育の無償化を言い出し、また、同一労働同一賃金などという左派の用語まで使う。ケインジアンか、隠れ左派か。
それでも、財務省はプライマリーバランスの黒字化、財政再建にこだわりつづけ、公務員の給料の引き下げ、生活保護費切り下げ、年金の減額が行われている。そして、地方の人口減少によって、地方経済の衰退が著しい。
いまこそ、野党は、反緊縮路線にたち、日銀の緩和マネーを使って、松尾教授がいう福祉・医療・子育て支援並びに、松尾教授は言わないが、内閣参与の藤井聡京都大学大学院教授がいう新幹線等のインフラ整備などの大幅な財政支出・ばらまき政策を言い出さなければ選挙には勝てないであろう。
東京支部 西 嶋 勝 彦
一 本書の先見的意義
二〇一七年一二月一〇日青山学院大学で開催されたシンポジューム「取調べのビデオ録画―その撮り方と証拠化―」を記録化したのが本書である。今市事件一審判決を契機に有志の研究会がスタートし、可視化の本来の意味から外れたビデオ録画の運用の危険性をはじめて多角的に明らかにした理論的且つ実践的な成果が盛り込まれている。本書は、今市事件二審判決の前に、ビデオ録画を有罪立証に使うことの危険性と違法性をアピールするために、先のシンポの記録化(=出版)に向けた関係者の努力が実ったのである。
本年八月一日発刊の本書が、録音録画で犯罪事実を認定した一審判決を違法として破棄した二審判決(二〇一八年八月三日)の判断に直接影響したとは言えないであろうが、シンポ以降の取調べビデオ録画の証拠利用に批判的世論形成に寄与したことは間違いないであろう。
本書は、畏友小池振一郎氏の論稿「今市事件判決を受けて―部分可視化法案の問題点」と牧野茂弁護士の「取調べの録音・録画―今市事件を契機として―」をはさんで、両氏に録音録画研究の第一人者指宿信成城大学教授、法制審でも奮闘した周防正行監督、今市事件一審法廷の傍聴をつづけた平山真理白鷗大学教授、そして前裁判官で弁護士登録もした青木孝之一橋大学教授を配した本書の表題となったパネルディスカッションから成っている。
詳細な紹介はできないが、例えば「可視化への幻想だ」(米の心理学者ソウル・カッシン)「取調べの録音録画は万能じゃない」(豪の警察学研究者ディビット・ディクソン)などの警句が紹介され、「そもそも人は、見たいものしか見ない」という長年の映画監督の経験から映像の危険性を語る周防正行氏の発言に、目からウロコの感を受けること請合いだ。
又、ビデオの録り方(撮影方向)についても、問題だらけということが明らかにされている。
日本では、取調べ官の後方にあるカメラから被疑者を正面にとらえた映像(SF方式、警察では天井にカメラを設置して、やや広い角度の映像となっているようだが、被疑者を中心的被写体にしていることに変わりはない)だが、ニュージーランドでは取調べ官と被疑者を真横から写す(EF方式)に切り換えたという。
心理学の実験では取調官を正面から撮影した場合(DF方式)が、最も強制的取調べであると実感できるとの感想がのべられたという。
このような点もふまえ、本書には、本年三月二七日、日弁連が法務大臣に提出した「取調べの録画の際の撮影方向を改めるよう求める要望書」も巻末に付されている。
二 録音録画制度の導入
「可視化」が日本の刑事司法の閉塞状況に一気に風穴を開けるのではないか、との期待を込めて語られていたときがある。厚労省郵便不正事件を契機に検察のあり方検討会議が設けられ、自白に偏った捜査を見直す提言が出された。
日弁連でも、可視化を先行させる、他の改革課題は次のステップだという議論(戦術論)が声高に主張され、法制審に臨んだ。
本来の可視化は、いうまでもなく全事件に取調べの録音録画を義務づけ、且つ取調べの全過程を含むものであり、弁護人の立会いを認めることとセットになった取調べの客観化、透明化を目ざすものであり、自白(調書)裁判との決別を意味していた。
二〇一六年に裁判員裁判事件と検察独自捜査の事件(合わせて全事件の約三%)で実現した取調べの録音録画の設計は、正面から録音録画を取調べ官に義務づけるものではなく(録音・録画せずに取調べても、当該調書を証拠とすることはできないだけ)、検察官が自白調書を取調べ請求した際に弁護側が任意性を争えば、録音録画を法廷で、つまり公判前整理手続がないときは、裁判員の居る前で再生して任意性の有無を判断するというものであり、いわゆる補助証拠という位置づけである。
したがって、その立証趣旨は、自白の任意性であるが、実際には、これから採否を決める自白調書の信用性をも、すでに裁判所(裁判員)は心証をとることになってしまう危険性がある。画像という補助証拠が直接証拠として請求されていなくても、その機能を果す危惧をはらんでいたのである。
三 ビデオ録画の問題点を浮上させた今市事件
前記のとおり、ビデオ録画は、任意性立証のために法廷に顕出(再生)すること自体に問題性を孕んでいたのであるが、現実の事件では、検察側が自白調書の任意性判断の資料(補助証拠)としてだけでなく、信用性をも立証趣旨に加えるのが通例と化している上、さらにビデオ録画自体を有罪立証の直接証拠として利用する事例が現れた。
最高検が二〇一五年二月一二日依命通知で、録音録画を実質証拠として検討せよとの指示したことが拍車をかけたのであろう。
今市事件では、このビデオ録画を自白調書の任意性、信用性立証のための補助証拠としてだけでなく、有罪立証のための実質証拠としても検察側が申請した。弁護側は自白調書の証拠能力と信用性を争うとともに、ビデオ録画を罪体認定には使用しないよう裁判所に要求し、公判前整理手続で裁判所はそのことを約束し、調書にも記載された。
結果は自白調書の任意性と信用性の立証に限定して双方合意の七時間分が裁判員の居る法廷で再生された。
一審宇都宮地裁は、二〇一六年四月八日客観的証拠のみから被告人の犯人性は認定できないとしつつも、自白調書の任意性・信用性を認めるとともに画像も有罪証拠とし、無期懲役とした。
判決後の記者会見で裁判員がのべたという「録音録画がなければ判断できなかった」等の感想が注目された。
二審東京高裁は、一審のビデオ録画を含む自白の評価を違法として有罪判決を破棄しながら、その他の証拠にもとづきあらためて有罪判決を下した。本書の指摘が生かされた格恰とはなったが、客観的証拠の評価をめぐっては問題があり、最高裁の新たな判断が待たれる。
本書の意義と価値は、今市事件をこえて本質的側面から可視化の論議を深めさせたところにある。
東京新聞九月四日の社説は「あくまで取調べ録画の目的は、密室でのチェック機能だったはずだ。冤罪をなくす―その原点を忘れてはいけない」という。
本書は、この「原点」をも想起させている。
神奈川支部 中 野 直 樹
波紋
空振りが続くと、竿振りもぞんざいになる。ふと違和感を感じ、大地を釣ってしまったかなと思ってそろそろと竿先をあげたところ、水面から顔を出したイワナがぽちゃり、と落ち、波紋が残り、消えた。餌をくわえたが、合わせがないのでハリがかかっていなかった。へたくそ。余談だが、時々プロテニスプレイヤーがかんしゃくを起こしてラケットをコートに叩きつけて破壊するシーンがある。プロが道具を大事にしない姿は醜く映る。釣りの世界では、竿を折る、という言葉は釣りの世界から身を引くことを意味するらしい。
ともあれ、悔しいので、しばらく竿をささないこととし、五分程歩き上がった。渓の表情に変化が出て、段差、これを水の流れで表現すれば、落ち込みが出始めた。心の波紋を鎮め、立ち位置と竿振りのかまえも意識して型を決め、落ち込みから湧き上がる白濁の泡のわずか右にミミズを投ずるとつつッと当たりを感じた。竿先を下げて糸の緊張を緩めると餌を加えたイワナが餌を食っている感触が伝わってきた。基本どおり一、二、三と数えたタイミングで竿先を上げ合わせると、今度はハリ掛かりをしたイワナが激しく跳ね、大きな波紋をおこした。これを機に立て続けにイワナが魚籠に収まった。一五時まで、二五pを頭に九尾となった。
イワナの始末(腑をとること)をして林道を下る頃には小雨がしぶつき始めた。車に先に戻っていた岡村さんも数はでなかったものの釣果を持ち帰っていた。
いつも叱られる焚き火おこし
岩魚庵の居間は黒光りのする板張りだ。その端に囲炉裏が切ってある。煤で真っ黒となった天井から自在鍵がぶら下がり、そこに南部鉄の大鍋がかかっている。七輪で焼き肉をすることとなり、岡村さんから、囲炉裏で火を焚いて炭をおこすことを指示された。岡村さん、大森さんと出かけたテント泊の山釣りでは焚き火は必要的行動事項である。河原の流木を拾っての焚き火おこしでは、ずいぶん講釈を受けたというか、叱られた。
この経験は子どもの保護者どうしのバーベキューの機会に私を火焚きの英雄にしてくれた。しかし、この経験も〇六年が最後となった。岡村さんも大森さんも大きな荷物を背負って深山の山河に分け入ることが困難になったからである。
焚き火は、一番下に太めの薪を並べ、その上に細い枝を積み、そして一番上に小枝の先や杉の枯れ葉をおいて、新聞紙を丸めたものに着火して一番上の焚きつけに点火しようとする。やってみるとわかるが、ここの点火からスムーズにいかず新聞紙が燃え尽きて未遂に終わることが多い。私は昔の記憶をたどりながら、なんとか細い枝まで火が付き、折った小枝をくべながら、頼りなげな炎を励ますが、なかなか一番太い木に火が燃え移らない。ここでいじくらない根気がいる。二〇分くらい格闘した後に、ようやく独立燃焼の炎となったが、今度はくすぶった煙がもうもうとたち、目が辛い。ここで師匠の岡村さんから叱られた。薪を組むときにすき間をあけて空気の通り道を作っていないから酸素不足で不完全燃焼になるのだと。なるほど科学が欠けていた。七輪焼きの野菜や肉の夕餉が一段落したところで、外に出てみると、稲田のあぜにホタルが一匹淡い光を発していた。
雨の遠野めぐり
翌朝は茅葺き屋根から雨垂れが落ちていた。釣りはあきらめ、遠野市観光となった。
蔵風建物の遠野簡易裁判所近くの市立博物館をスタートとした。ここで市内八箇所の利用共通券の購入を勧められた。入口左のスクリーン・シアターでは、妖怪といえばこの人・水木しげる「遠野物語」(二〇一〇年初版)をもととしたアニメが上映されていた。選択ボタンを操作し、幾つかの物語を観た。岡村さんによると、かつては宇野重吉さんの渋味のある語りだったそうだが、一〇年に建物全体をリニューアルしたときに、初代鬼太郎役の野沢雅子さんの声に交替した。遠野は東京からすれば本当に遠いところだが、岩手では三陸海岸と内陸を結ぶ交易の中継地として人と物の交差点だった。私は展示をみながら、大津波の年の夏、自由法曹団企画で被災地三陸海岸を視察したとき、町長をはじめ多くの職員も犠牲になった大槌町で渡された資料に、大槌と遠野を結ぶ交易の道があったと書かれていたことを思い出した。遠野の伝承形成には、この交易に伴い伝播される様々な情報も一役買っているのではなかろうか。
伝承園では、囲炉裏を囲んだ座布団に座りながら女性の民話語りに耳を傾けた。さすがに観光客向けなので方言もゆるやかで理解できる。ザシキワラシ、オシラサマ、オクナイサマ、マヨイガなどの不思議な言葉に出会え、どんどはれ、で終わる。
最後に立ち寄ったふるさと村。自然の林の中に、曲り家の茅葺の古民家五棟を配置し、小川、田畑を再現してある。曲り家には馬が藁を食んでいる。ここは時代劇のロケ地として使われることが多いらしく、「ロケ地マップ」というチラシもあった。手に取ると、真田丸、軍師官兵衛、利家とマツ、水戸黄門、蜩の記などが紹介されている。
一日では、釣りきれないほどの観光スポットのある遠野であった。(終)