<<目次へ 団通信1647号(10月11日)
上野 直生 | *福岡・八幡総会に集まろう!福岡特集* 「仁比・山添両議員を囲む会」のお誘い |
小池 振一郎 | ビデオ録画証拠化を断罪したが 〜今市事件控訴審判決をみて |
山崎 秀俊 | 沖縄県知事選の玉城デニー知事誕生を祝う 〜現地支援入りのご報告を兼ねて〜 |
大久保 賢一 | 安倍改憲の動きに対抗するために ―核兵器禁止条約にも触れて― |
柳 重雄 | 生かそう!国連「家族農業の一〇年」決議 |
後藤 富士子 | 「国民の教育権」と「親権」 ――憲法二六条に欠けているもの |
萩原 繁之 | 故宮原貞喜団員との「一期二会」 |
福岡支部 上 野 直 生
一 「仁比・山添両議員を囲む会」について
自由法曹団の総会・プレ企画が、本年は一〇月二〇日(土)〜一〇月二二日(月)に福岡・八幡で開催されます。私も加入している仁比ネット(仁比そうへい弁護士の政治活動をサポートする法律家連絡会)の有志を中心として、上記総会の二次会を兼ねて「仁比・山添両議員を囲む会」を下記のとおり開催する予定です。
記
日 時:平成三〇年一〇月二一日(日)
二一時〜二二時(予定)
場 所:夕食大懇親会会場となるホテルの別会場
※なお、一〇月二一日(日)の夕食大懇親会後、公式での二次会は予定されていません。また、会場となるホテルの周辺に飲食店は少ないです。
二 国会議員活用の重要性
私事ではありますが、私はHPVワクチン薬害訴訟九州弁護団に所属しています。これまで、全国弁護団では、国会議員を対象とした勉強会の開催や国会でのロビー活動を行ってきました。そのような際、忙しい国会議員の方々に被害の重大性や国としての被害者救済の必要性を伝えていくのは簡単なことではありません。しかし、被害者に対する治療・支援体制の確立などについては、国が主体的に動かなければ現状を変えることはできませんが、そのためには国会議員の方々の協力が不可欠となります。
このように、集団訴訟活動の中で国会を動かす必要がある場合、弁護士資格を有する国会議員の力がとても重要なものとなると考えます。例えば、上述の国会議員を対象とした勉強会においては、弁護士資格を有する国会議員の方々から、法的問題点を踏まえて被害者救済の必要性などについてお話をしていただきました。勉強会に参加された被害者、支援者の方々のみならず、我々弁護団としてもとても心強く感じました。また、国会質問などにおける、弁護士資格を有する国会議員の方々のご活躍は皆様もご存知のとおりです。
三 参加のお誘い
当懇談会では、団の活動や裁判闘争において国会議員をどのように活用できるのか、その活用方法等を両議員に教えていただくと共に、参加者の皆様と意見交換をする場にしたいと考えております。堅苦しい会ではなく、二次会を兼ねて(お酒を飲みながら)、団員の皆様と楽しく交流ができればと思っています。
仁比議員は私が所属する北九州第一法律事務所に所属する弁護士でもありますが、議員活動が忙しい仁比議員と話をする機会はあまりありません。そこで、今回の「仁比・山添両議員を囲む会」において、仁比・山添両議員とたくさんのお話ができることを楽しみにしています。皆様も、この機会に両議員と語らい、両議員をどのように活用していくことができるのかについて考えてみませんか。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。
東京支部 小 池 振 一 郎
一 あまり知られていないが、二〇一五年二月一二日最高検は、「調書の作成の要否及び範囲」について「具体的必要性が認められる場合において作成すること」との依命通知を出した。調書は都合のいいときだけ作ればいい、といいとこ取り≠奨励したのだ。そこでは、取調のビデオ録画について、実質証拠としての使用(の検討)を指示している。都合のいいときだけ調書を作り、その任意性を担保するためにビデオ録画して実質証拠としなさい、ということであろうか。
二〇一六年四月今市事件一審判決は、客観的証拠だけでは犯人かどうかわからないことを認めながら、補助証拠として採用したビデオ録画で自白調書の任意性・信用性を認め有罪認定した。「ビデオ録画を見なければ、有罪か無罪かわからなかった。」と判決後の記者会見で裁判員たちが述べているように、ビデオ録画が実質的証拠として機能したことは明らかだ。
私は、判決後直ちに、『法と民主主義』編集部から二〇一六年四月号に緊急に載せたいので数日で書いてくれと依頼され、「今市事件判決を受けて―部分可視化法案の問題点」を執筆した。その後まもなく、衆議院法務委員会に刑訴法改正反対の立場から参考人として出たので、そのゲラ刷を委員会に配布して、ビデオ録画証拠採用が公判中心主義を破壊する危険性などを訴えた(この論稿は、牧野茂・小池編『取調べのビデオ録画―その撮り方と証拠化』成文堂二〇一八年にも所収されている)。
二 二〇一六年八月一〇日、初めて、ビデオ録画証拠化の危険性を理論的に展開した東京高裁判決が出された。「捜査機関の管理下において、弁護人の同席もない環境で行われる被疑者等の取調べでは…自己に不利な供述をする場合、その動機としては様々なものが想定されるが、取調べ中の供述態度から識別することができる事情には限りがある。」「実質証拠として…用いた場合には…直接主義の原則から大きく逸脱し…適正な公判審理手続ということには疑問がある。」など、画期的なものであった。検察に対抗して、裁判所の見識を示したものとして高く評価される。
私はこの判決も引用しながら、可視化問題の総まとめとして、「可視化は弁護をどう変えるか」(『可視化・盗聴・司法取引を問う』日本評論社二〇一七年)を執筆した。刑訴法改正により、ビデオ録画が供述調書の任意性立証のための補助証拠として使用される条文ができたが、事実上信用性も判断され、実質的証拠として機能するから、証拠採用には反対すべきだ、弁護人がビデオ録画を閲覧するためには活用すべき条文だが、その証拠採用とは区別すべきだ、と誰も言っていない見解を大胆に述べた。
三 その裁判長が今市事件控訴審の裁判長となったのであるから、期待は大きかった。
予想通り、取調べの録画を実質的証拠とすることは、「印象に基づく直感的な判断となる可能性が否定できず、…熟慮を行うことをむしろ阻害する影響がある」「自発的であっても、虚偽供述の可能性があることが、見落とされる危険性がある。」などと鋭く指摘する。前記判決をさらに補充するもので、説得力があった。
こうして一審判決がビデオ録画を実質的証拠として有罪認定していることを断罪し、破棄したところまではよかった。そうなれば、自白調書の任意性、信用性が疑われ、客観的証拠だけでは犯人性を確定できないのだから、無罪となるはずであった。
四 ところが二審判決は、客観的証拠で犯人性をかなり「推定」できるとした。その決め手となるのが、Nシステムと母への手紙という。
Nシステムの信頼性がどこまで科学的に証明されたのかわからないが、遺体破棄現場からかなり離れたところを車で通過したとして、それで犯人だと推定できるのか。八年前なぜその時そこを通過したのか、思い出せるのか。
母への手紙は、客観的証拠というよりも、自白供述といっていい。二審判決は、文面に迫力があるから信用できるというが、言い古された”迫力論”である。それが本件殺人の自白であったとしても、「反復自白」(任意性を欠く自白に引き続いて、再度取調べられた結果なされた自白も、同様に排除されるべきである)に過ぎない。
五 これだけで有罪とするのは無理だから、結局、自白供述に頼るしかなくなる。
二審判決は、殺害場所や殺害態様に関する自白の信用性を否定したが、被告人が犯人であることの自白の任意性、信用性は認めた。具体的な犯行状況の自白の信用性は認めないで、そのためにわざわざ殺害場所を「栃木県内、茨城県内又はそれらの周辺」などと限りなく拡げる訴因変更までさせて、ただ殺しましたという抽象的な自白は信用できるとする。
逆ではないか。本件のように、取調べで、「証拠はそろっているから自白しなくてもいい。否認して死刑になるよりは自白して二〇年で出てこられる方がいいだろう。」と言われれば、ウソでも自白したくなる。具体的な犯行状況の根幹にかかわる自白が信用できないなら、ただ「殺しました」という抽象的な自白はなおさら信用できないのではないか。
しかも二審判決は、取調べ前半の自白の信用性を否定しながら、五〇日間何も取調べなかったからその後の自白は信用性があるという。驚くべき立論である。警察が二四時間被疑者・被告人を手元に置いて全生活を支配する代用監獄の実態が全くわかっていない。五〇日間代用監獄に入れられたまま取調べがなくても、その前の圧迫状況が続いているとみる方が自然であろう。
なお、「(検察の)取調室の窓から脱出しようとして戒護の警察官らに引きとどめられた…(なお、当日、さらに警察官による取調べは行われている。)。」との指摘に注目したい。検察取調べになぜ警察官が立ち会っているのか。それでは警察での取調べによる威嚇が検察取調べにも影響することになる。絶対に避けるべきである。判決がこの事実を認定しながら、その後の自白の信用性を認めたことも納得できない。
六 二審判決が、「自発的であっても、虚偽供述の可能性がある」とビデオ録画証拠採用の危険性をいうなら、なぜ、「否認して死刑になるよりは自白して二〇年で出てこられる方がいい。」と言われた被告人の心境に思いを致さなかったのか。結局は事実上録画で心証をとったのではないか、と皮肉もいいたくなる。具体的な犯行状況の自白の信用性を否定しながら、殺しましたという抽象的な自白は信用する逆さまの論理もそこから出てきたのではないか。
このように論理的に破綻している判決をなぜ出したのか。取調べの録画を証拠とすることの危険性をストレートに指摘したこととのバランスをとって、有罪判決としたのではないかと勘繰りたくもなろう。
北海道合同法律事務所 山 崎 秀 俊
一 はじめに
翁長前知事の急逝を受けて沖縄知事選が九月三〇日に実施され、激戦が予想されましたが、およそ八万票の差を付けて翁長前知事の遺志を継ぐ玉城デニー候補が当選しました。当確の報が出たときには、涙が出ました。
この選挙に向けて、北海道から「オール沖縄に連帯する北海道弁護士有志の会」として支援募金を集めると同時に、選挙運動の支援者を送り出すことが検討されました。元々、一一月の知事選の支援に数名の団員が沖縄入りすることを計画中でしたが、選挙日程が早まり、選挙前の三連休に沖縄入りできる団員が橋本祐樹団員しかいなかったことから、私にも声がかかり、急きょ、二人で沖縄に行くこととなりました。現地では、沖縄統一連の「選挙支援者」に登録して、九月二二日(土)から九月二四日(月・祝)まで選挙活動に参加しましたので、そのご報告を投稿させていただきます。
二 選挙活動
一日目、朝九時、統一連事務所に集合。四〇名ほどの支援者が集まっていました。
活動中の話なども含めてわかったことですが、福岡、熊本、京都、大阪、神戸、愛知、静岡、山梨、神奈川、東京、千葉、岩手、秋田などなど、文字どおり全国から支援者が結集していました。最初の頃は、参加者の半数ほどが県外の方ではないかと思っていましたが、話を聞いているとほぼ全員が県外の方だとわかりました。
私たちが関わった活動は、主に「全戸ビラ配布」。初日は、バスで移動して、普天間飛行場がある宜野湾市で配布。
札幌市中央区のマンションとは違い、一階にオートロック錠が無いマンション・アパートが多いので、四〜六階まで階段を登り各戸のドアポストに法定ビラを届けられます!が、一時間少々かけて二〇〇枚のビラを配布し終えた頃には汗だくでした!沖縄は九月下旬といっても最高気温は三二〜三三度!真夏の札幌市よりはるかに暑いです。
三 街宣、集会参加
午後は、一五時から若者主催の街頭宣伝に顔を出しました。かわるがわる二〇代の若者が自分のことばで知事選に寄せる思いを語っていました。
そこに登場した玉城デニー候補は、自身がアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたハーフであることを理由にいじめられた経験などから、「自分は自分、だけど相手は相手、自分もいて相手もいる、お互いが認めあうということが自立と共生の第一歩であり、その共生の未来に向かう大きな連帯につながっていくんだと思います。」と多様性を認め合う社会を築きたいという熱い思いに感銘を受けました。後述する「うまんちゅ大集会」でも、「一〇本の指に同じ長さのものはないのと同じように、人はそれぞれ違って当たり前」という育ての母の言葉を大切にしていると言っていました。
その次は、一日目のメインイベント、一六時からの「うまんちゅ大集会」に参加。なぜか集会開始と同時にスコールのような雨。開会あいさつで、「翁長知事が、天国で、『私の遺志を受け継いで、こんなにも多くの方が集まってくれたんだ…』と涙しているのだと思います!」と話していました。雨さえも心地よく感じられるくらいでした(集会後には、隣のショッピングセンターでTシャツを買って着替えましたが)。
ところで、会場の「おもろまち公園」は基地を撤去した場所につくられた広い公園です。買い物をしたショッピングセンターもとても立派です。札幌なんかよりも都会です!
各戸に配布した法定ビラには「基地依存から脱却し、基地返還で着実に成長している現在の沖縄」というデータが紹介されていました。基地返還前後で、経済効果も雇用者数も何十倍にもなっている地区がある実例を挙げており、基地を撤去すれば着実に経済が発展することは実証済みなんだと一目でわかります。この法定ビラは一人でも多くの人に読んでもらいたいと思うものです。
四 地元の方との対話
二日目・三日目もビラ配布活動に参加しました。トータルで九〇〇枚ほど配布したでしょうか。配布中の対話など、いろいろ紹介したいエピソードはあるのですが、文字数の制約があるので割愛して、夜、食事・飲みに出たときの話を紹介します。
二三日の夜、橋本団員とホテル近くのダーツバーに立ち寄りました。隣にいた男性に「お兄さん!一緒にダーツしない?」と誘われました。彼は二七歳の建築関係(内装?)の会社経営者(従業員四名)でした。
ダーツをする合間に、橋本団員から玉城支援の話を向けると、同業の社長らが佐喜真支持であること、建築関係は自民党支援だと思っていること、実際に米軍基地関係の仕事を多数受注していることから佐喜真に投票する予定だった…とのこと。
ですが、橋本団員と基地の危険性、基地を撤去した方が経済効果が高いことなどを伝え、話を深めていくと、支持理由は上記の程度で、深く考えていないことがわかりました。不謹慎な話でしょうが、「へぇ〜わかった!ダーツに負けたら玉城さんに入れるわ!」というところまで橋本先生の話に共感してくれました。
えっ?ダーツの勝負には勝ったのか?・・・・・負けました。。。リベンジを挑みましたが・・・負けました。。。大事な大事な一票を逃す、痛恨の極みです(涙)。
しかし、ダーツのことはさておいて、反対派との対話の重要性・必要性を感じる経験でした。
さて、翌日、一足先に橋本団員が帰札。前日のダーツの負けを反省して、夜、一人で違うダーツバーに練習に行きました。
ダーツのプロプレイヤーが遊びに来る、常連さんばかりの店だったようで(汗)、一人で見知らぬ顔の輩が来たもので、多くの方に声をかけてもらえたことから、札幌から玉城デニーさんの応援に来たことを話し、店中の方に(プロにも!)玉城デニーさんの名刺を配り歩いてきました。
さらに、隣に座っていた青森県出身の方(四〇代後半?の男性、沖縄在住三年目)とはいろいろ話をしました。この方は、誰に投票しようか迷っていました。どちらにも投票できないかもしれないと言っていました。彼の印象的なセリフの紹介しますと「普天間基地はとにかく危険だから一日も早く移転させなければいけない。」「普天間と比べればまだ辺野古の方がまし」「一度辺野古に移転させてでも普天間を閉鎖させるべき」「移転ではなく閉鎖・撤去は理想。そう思う。でも、今の政府では絶対に無理。そんなことを待っていたらいつまでたっても普天間はなくならない」「民主党政権にかわってもできなかったでしょ」などなど複雑な思いを語ってくれました。
普天間飛行場を一日も早く撤去したいという思いは同じであることから、辺野古の方が「よりまし」と考える方を正面から否定することはできず、また説得する言葉を持ち合わせていませんでした。「これ以上沖縄に基地をつくらせない!移設ではなく撤去!」こそ目指すべき道という思いは変わらないのですが、無条件撤去の道のりの険しさを突きつけられると、今も、どうしたら説得できるだろうと考えますがなかなか答えが出てきません。そうなると、根本問題にあるアメリカ言いなりの政権を変えないといけない!という思いをますます強くする次第です。
五 基地の問題は沖縄だけの問題ではない
ほかにも地元の方と話をしていると、生まれた時からF15、F16などの戦闘機の爆音を聞いているが、「オスプレイの爆音はその比ではない!」と言います。騒音の深刻さを語る言葉には基地被害がますます深刻になっていると感じます。
他方で、玉城デニー知事誕生の嬉しいニュースと同時に、一〇月一日から横田基地にオスプレイが配備されたことが報じられました。沖縄の負担軽減の名のもとに、全国に訓練を拡大させており、基地の問題は沖縄だけの問題ではなくなっています。皮肉にも、北海道では、九月六日に発生した胆振東部地震の影響で、同月一〇日から予定されていたオスプレイの訓練(ノーザンヴァイパー)が中止になりましたが、北海道でもオスプレイの問題は他人事ではありません。
四年後の沖縄知事選のときには、基地の無い沖縄が実現していてほしいと願うものの、そう簡単な話ではないでしょう。沖縄の基地化は戦争放棄による軍事力の空白を埋め合わせる高度な戦略、つまり憲法九条と引き換えに沖縄に犠牲を強いてきた訳ですから、基地の無い沖縄をつくるために全国からの結集が必要だと実感しました。広い沖縄にオール沖縄の訴えを伝えきるには全国からの支援が必要です。四〇歳の私でも「若者」として大歓迎されました(苦笑)。弁護士ではなくても、事務職員にもできる支援はたくさんあります。
全国の事務職員のみなさん、次回はぜひ、ご一緒に!
埼玉支部 大 久 保 賢 一
風雲急を告げる安倍改憲
安倍首相は改憲への執念を燃やし続けている。自衛隊を憲法に書き込もうというのである。この秋の臨時国会で頭出しし、次期通常国会の早い時期の改憲発議を狙っている。七月の参議院選挙の前に国民投票をという案まで取りざたされている。改憲の動機は、米軍とともに、世界の各地で武力行使ができる自衛隊にしたいということである。彼が狙っているのは、単なる自衛隊の存在の合憲化ではない。自衛隊の海外での軍隊としての活動と軍隊を前提とする国内体制の確立である。何も変わらないというのは嘘である。
自衛隊が存在し、その活動範囲が拡大されていることは事実である。けれども、自衛隊が米軍のような軍事行動を海外でできるかといえばそうではない。九条が制約しているからである。もし、九条が死文化しているのであれば、改憲論者たちは、あえて国民投票などという危険な賭けに出る必要はない。憲法九条が生きているからこそ、改憲論者は「手を変え品を変え」その抹殺を企むのである。生きている憲法を亡き者にしてはならない。
若干の整理
少し整理しておこう。自衛隊の存在そのものが憲法違反であると考える説(A説)がある。この説は、戦争も戦力も交戦権も否定し、軍事によらない平和と安全を希求している。憲法の文言はそうなっている。私はこの論者である。次に自衛隊は合憲であるが、海外で活動は制約されているという説(B説)がある。個別的自衛権の行使は認めるが、集団的自衛権は認められないとする説である。元々の政府見解である。安保法制に反対する運動は、このラインでのたたかいであった。そして、現在、政府は個別的自衛権の行使にとどまらず、集団的自衛権を行使できるとしている(C説)。安保法制の考え方である。更に、そんな考えは生ぬるいので、憲法を改正して国防軍を編成し、国際の安定と平和のために軍事力行使を認めようという説(D説)がある。自民党の改憲草案である。安倍改憲はC説とD説の間に位置している。
各意見の共通項と違い
A説とB説は、集団的自衛権は違憲ということで共同しできたけれど、自衛隊の合憲性や個別的自衛権について共通しているわけではない。これは、戦力(戦闘のための実力)を持つかどうか、それを限定的とはいえ使用するのかについての違いであるから本質的違いである。むしろ、戦力の保持を認めるということでは、B説C説D説は共通しているのである。
そして、B説の中には、現行憲法は集団的自衛権を否定しているが、憲法を変えればその行使も可能であるとしている人もいる。そのような改憲は、憲法改正の限界を超えるものではないし、国民投票に委ねられるという考え方である。この論者は、違憲の法律の制定には反対するが、改憲には反対しないのである。その選択が憲法改正権力としての国民の意思であればやむを得ないと考えるからである。国家の最大の暴力である戦争を容認する浅薄な立憲主義理解がここにある。
安保法制反対で共同した勢力が、改憲のための運動で共同する上での、最大の困難がここにあるといえよう。自衛隊の存在やその任務の範囲を多数決原理に委ねてしまうことを容認する人たちと、戦争も戦力保持も否定する人々の乖離を埋めることができるかという問題である。それができないとA説の人だけが改憲阻止闘争に挑むことになる。そして、九条が改定される可能性が高くなるであろう。
そこでどうするかである。私は、この自衛隊は合憲だけれども集団的自衛権の行使や海外派遣に反対としている人たちだけではなく、軍事力の保有とその行使を容認する人たちも含めて、国際紛争を武力で解決することの危険性を共有していくことが重要だと考えている。
改憲問題の本質は何か
元々、九条改憲の争点は、軍事力の保持とその行使という根本的問題である。日本国憲法は大日本帝国の所業についての反省と核のホロコーストの下で誕生したことを想起して欲しい(天皇の戦犯としての処刑を避けるためという事情も無視してはならないが)。侵略戦争と植民地支配についての反省と「核の時代」における武力行使の危険性という、過去と未来を見据えているのが日本国憲法九条なのである。だから、改憲問題は、日本だけの問題だけではなく、北東アジアの安定と平和、ひいては人類社会の将来に係る事柄なのである。
「核の時代」おける武力行使がもたらす「壊滅的な人道上の結末」
私は、ここで核のホロコーストに着目しておきたい。今年は七三回目の原爆忌である。私たちは、ヒロシマとナガサキを知っている。核実験ヒバクシャの実情も核兵器使用の結果についてのシミュレーションも学んでいる。核兵器禁止条約は、核兵器使用がもたらす「壊滅的な人道上の結末」をキーワードの一つにしている。核兵器の使用が、人類の滅亡をもたらすことは荒唐無稽な作り話ではないのである。
一九四六年八月の制憲議会において、幣原喜重郎は「核の時代にあっては、戦争が文明を滅ぼすことになるので、武力での問題解決をしてはならない」としていた。そして「武力での紛争解決が禁止されるのであれば、戦力は不要である」と喝破し、一切の戦力の放棄を推進したのである。当時の政府はそのことを誇らしげに国民に啓蒙していたのである。
それが、日本国憲法が到達している地平である。武力の行使のみならず、一切の戦力の不保持を規定する日本国憲法こそが「壊滅的人道上の結末」を避けるための最も強固な歯止めなのである。核兵器のない世界の実現と憲法九条の世界化は密接に関連しているのである。
今、世界には一万四五五〇発の核兵器があるとされている。「核の時代」は続いており、「終末時計」は二分前を指している。人類は滅亡の淵にいるのかもしれないのである。
核兵器の廃絶については、核兵器禁止条約採択で曙光が見えたといえよう。けれども日本政府は背を向け続けている。そして、自民党は九条の改悪を目論んでいる。彼らは、核兵器に依存し、戦力の保持とその全面展開を可能とする体制づくりを進めているのである。私たちはそのことを見抜いたうえで、核兵器禁止条約を発効させ、改憲を阻止するたたかいを構築しなければならないのである。
ここに、ヒバクシャ国際署名と改憲阻止三〇〇〇万人署名を統一的に推進しなければならない理由がある。
(二〇一八年八月二八日記)
埼玉支部 柳 重 雄
安倍政権の暴走と日本の農業・食料の危機
安倍政権は、「戦争をする国」づくり、安倍九条改憲等で暴走を続けていますが、新自由主義、規制緩和路線に基づく政策の分野でも暴走を続けています。
安倍政権はメガ自由貿易協定と言われるTPP11、日欧EPA、RCEPなど農産物等輸入自由化をリードして進めています。アメリカとの関係ではトランプ大統領のごり押しに、何の抵抗もなく押し切られそうな気配です。農業を企業に委ね、大規模化、企業化を進めようとしています。農協を解体しようとし、また、米、麦、大豆などの主要農産物の種子の開発、生産、普及などを国、都道府県の責任とし、日本の種子、農業を支えてきた「種子法」を突然に廃止してしまいました。日本の農業・食料をグローバル企業や大企業の餌食にしようとしているとしか言いようがありません。
その結果農業人口の減少や高齢化、耕地面積の減少、農山村の過疎化、食料自給率の低下など極めて深刻な危機をもたらしています。特に日本の食料自給率が三八%(カロリーベース)と長期低落傾向にあり先進国中で最低の数値を示しています。もし世界で食料難にでもなったらどうなるか、国の存立にもかかわる重大な問題でもあります。しかし安倍政権は、そのような危機を全く気にすることなく、大企業優先、グローバル企業優先の新自由主義、規制緩和政策に邁進しています。
「家族農業の一〇年」決議
二〇一七年一二月、国連総会で「家族農業の一〇年」決議が可決され、二〇一九〜二〇二八年を家族農業の一〇年間とすることが正式に決定されました。現在、家族農業は世界の全農業経営体数の九割以上を占め、世界の食料の八割を生産していると言われています。日本も同様に家族農業が基本です。世界でも日本でも家族農業が人々の生存を支える基盤となっています。
その基盤たる家族農業が今深刻な危機に瀕しており、国連はこうした家族農業を支え応援してゆこうと決めたのです。
国連は長年にわたって、先進国、途上国を問わず近代化、大規模化による「緑の革命」を進めれば農業生産性を高め、飢餓や貧困を解消できるという立場に立って来ました。しかし、近代化、大規模化による食料生産は逆に世界的な食料危機、生物多様性の激減、土壌崩壊、農薬や化学肥料による環境破壊、投機的生産による食料生産の不安定化など農業の持続性を揺るがす事態を引き起こしてきました。これらを契機に各国の運動にも押されて家族農業を基調にした農業・食料政策に大きく舵を切ることになりました。そして、二〇一四年の「国際家族農業年」を経て「家族農業の一〇年」決議となったのです。
グローバリズムに抗して
世界ではグローバリズム、新自由主義的な政策に対抗して、持続可能な社会に向けて力強い流れが生まれています。国連は二〇一五年「国連持続可能な開発サミット」を開催、「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための二〇三〇アジェンダ」を採択しました。国際社会が、二〇三〇年までに貧困を撲滅するなど持続可能な社会を実現するための重要な指針として一七の目標「持続可能な開発目標」(SDGs)を設定したのです。この中では、飢餓や貧困の克服、食料安全保障、持続可能な農業など重要な課題としています。また、グローバル企業・大企業の横暴を野放しにするグローバリズムから、地方、地域の人々の生活の営みや生産、活動、文化などを重視する「ローカリズム」こそ重要であるとも言われるようになりました。国連「家族農業の一〇年」決議もこうした国際社会の動きと同じ流れであり、持続可能な社会のためにグローバル企業・大企業の横暴を規制してゆこうという世界の流れの一環であるということができます。
決議を生かす政策と運動を
深刻な危機を迎えている日本の農業、食料問題に対して、今こそ「家族農業の一〇年」決議を契機に、これを生かし、日本の家族農業を保護し、育成する政策に転換をするべきです。そこでは、農産物等の輸入自由化政策を見直すことが何より重要であることは言うまでもありません。また、日本の農業を企業に委ね大規模化や企業化をすすめる政策を止め、徹底して家族農業を保護し、育成する政策に転換をするべきです。戸別所得補償、価格補償等農家の経営を保護することや後継者養成に格段の力を入れる政策などは特に重要です。農協の解体を止め、「種子法」を復活させることなども必要です。
「家族農業の一〇年」決議は、日本の農業・食料についての問題提起でもあり、大企業優先の反面で日本の農業を破壊しようとしている安倍新自由主義、規制緩和政策に対する告発でもあります。「家族農業の一〇年」決議を契機にこれを生かして、日本の農業政策を転換し、家族農業を守り、持続する農業づくりのための国民運動の前進が求められているのです。全国の団員の関心の薄い分野かも知れませんが、こうした運動にも協力を戴いたら幸いです。
東京支部 後 藤 富 士 子
一 「安倍二六条改憲提言」について
日本国憲法二六条一項は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」とし、同二項は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。
黒岩哲彦団員の一六四五号掲載論考によれば、自民党の四項目に絞った安倍改憲提言は、憲法二六条一項、二項はそのままにして、第三項として「国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に務めなければならない。」との条項を加える内容であり、それは改悪教育基本法を憲法化するものであるという。
問題とされるのは、「国の未来を切り拓く」との文言である。これについて、前川喜平氏は、「安倍政権が進める戦争を支える国民を生み出すための教育施策の一環である人権保障規定に『国の未来』などという条件を持ち込んではいけない。このような留意事項は、教育を受ける権利の保障に関係ないだけでなく、『国の未来を切り拓く』上で役に立つ国民の教育は保障するが、役に立たない国民の教育は保障しないという論理につながる危険性を持っている。この自民党改憲案は全体として、個人を国家に従属させる国家優先の思想に覆われているが、その思想がこの文言にも表れていると言えよう。」と指摘しているという。
二 「親権」と国家の監督
近代法の親子関係の中核は、親が子を哺育・監護・教育する職分であり、民法はこれを「親権」として規定し、これを中核として特別の取扱をすることが近代法の特色である、とされている。また、親権が権利であるとともに義務であることについて、民法でも明示されている(民法八二〇条)。親権が義務でもあるということは、国家の監督が加えられることを意味している。
そこで、親と国家の関係が問題となる。
広渡清吾教授の「国家と家族―家族法における子の位置」(法と民主主義nl四七)によれば、ドイツ基本法六条二項は「子の養育および教育は両親の自然的権利であり、かつ、第一次的にかれらに課せられる義務である。国家は、両親の活動を監督する」と規定しているが、これはワイマール憲法に由来する。この規定は、まず親の自然的権利として国家に対する「責任領域」が設定され、義務の不履行があれば、国家がその領域を縮減して介入するシステムを予定するものであると解釈されている。すなわち、「子育て」は、国家の直轄領域ではないのである。
しかるに、離婚後の単独親権制をめぐる実務をみれば分かるように、単独親権者指定、監護者指定、面会交流等の事件において、家裁調査官が父母について「親」の査定を行い、裁判官が決するのである。「どちらが親権者・監護者として適格か」「面会交流は子の福祉に反する」等々、父母のどちらか一方の監護・教育権は否定される。すなわち、日本では、「子育て」は、国家の直轄領域下にあるというほかない。
三 「教育権」と「教育の自由」
憲法二六条をめぐって争われるのは、「国民の教育権」か「国家の教育権」かという点である。これに関する代表的な学説は、三つある。まず、田中耕太郎説は、憲法は国家と国民の権利義務関係を規定するものであるから、義務教育に関する憲法二六条二項の反面からして国家に教育をする権利が認められるとする。これに対し、永井憲一説は、憲法二六条二項の規定は、一項が規定する国民の教育を受ける権利の実効性を保障するために、その保護する子女に普通教育を受けさせるべく子女の保護者たる国民にそれを義務づけた規定であるという。さらに、奥平康弘説は、主権の一部たる「教育性」は、実際にさまざまな国家機関によって分担されることを認めざるを得ないとすれば、「国民」に「教育権」があることは、常に必ずしも「国家」の「教育権」の否定を意味しないとする。条文の解釈がこの有様では、憲法二六条は機能しない。
また、教育権がいかなる内容・性質をもつ権利であるかについても、説が分かれている。第一説は、教育を受ける権利は、生存権の文化的側面をなすものであり、主として経済的弱者に国家が機会均等を図るための経済的配慮を行うことを要求する権利であるという(宮沢、小林、佐藤功)。第二説は、国家権力の政策ないし行政に対する積極的な教育内容までにわたる要求権を含み、国民はわが国の(平和と民主主義に基づく)将来の主権者たる国民を育成するという方向の教育=主権者教育を受ける権利を国家に要求できるとする(永井憲一)。第三説は、人間の学習による成長発達の権利が近代憲法下で自然権的自由権たる「学習の自由」として原理的に存したことを踏まえて、憲法が、すべての国民の学習権が実現されるように国家に積極的条件整備を要求し得る生存権として「教育を受ける権利」を保障するに至ったとする(兼子仁)。ここでも、法規範として機能するとは言えない。
さらに、「教育の自由」に至っては、憲法に明文規定がないものの、教育は当然に、教育の本質に基づく自由な教育でなければならないとして、判例も含めて圧倒的多数は、その範囲・内容等は異にしても、なんらかの意味で、国民の教育の自由を認めているが、その根拠をどこにおくかについて説が分かれる。第一は、「憲法的自由説」であり、日本国憲法が列挙する自由は例示的なものであり、教育の自由も、憲法によって明示されてはいないが、「憲法的自由」として保障されているという(高柳信一)。第二は、「憲法二三条説」である。憲法二六条からは「教育を受ける権利」を析出することはできても「教育の自由」を析出することはできないこと、また、二三条の「教授の自由」は大学に限定する必要はなく、その他の学校教育における「教育の自由」もここから導くのが妥当とする(有倉遼吉)。第三は、「憲法二六条説」で、同条は、国民の教育を受ける権利を保障し、国民が受けたい教育を主権者である国民自身が形成する自由と権利を保障する国民の「教育の自由」を憲法上に位置づけたものであるとする(永井憲一)。
私は聞きたい。これで、憲法二六条の何を守れというのか。
四 「国民の教育権」を機能させるために
私は、「国民の教育権」を機能させるために、次のことが必要だと考えている。
第一に、憲法二四条に、「子の養育および教育は両親の自然的権利であり、かつ、第一次的にかれらに課せられる義務である。」という条項(第二項がいいか?)を明記する。
第二に、憲法二三条二項に「教育の自由」を明記する。
そして、社会権として憲法二六条で定められた「教育を受ける権利」について、第一項で「国民の教育権」を明示することである。
このようにすれば、憲法が規範として機能するはずである。
これに比べ、「安倍二六条改憲提言」の猛毒性を暴露したところで、何になろうか。憲法二六条は既に機能不全に陥っており、私たち護憲派は、憲法を機能させる具体策を追求すべきであろう。
(二〇一八・九・二五)
静岡県支部 萩 原 繁 之
一昨年の唐津団総会の際には、団佐賀(県?)支部長として参加呼びかけの文章を団通信に載せておられた、唐津の宮原貞喜団員が今年二月にお亡くなりになっていたということを、夏になってから知った。存じ上げずに暑中見舞いを差し上げたところ、事務所の方からご連絡を頂戴して知ったのだった。あるいは団通信に訃報や追悼文が載ったのに見逃したかも知れないが、バックナンバーをちゃんと整理していないので、確認できない。普段、頼まれもしない原稿を団本部に送りつけたりしている割には、ちゃんと団通信に目を通していないことのツケかなと思った。
お連れ合いの彬様から丁重なお便りを頂戴したが、ご家族や事務所の皆さんにとって無念な急逝だったご様子。ご本人にとっても無念だったろうと思うし、地元と、全国の団にとっても、損失だったろう。僕にとっても、とても残念で悲しい。
とはいえ、宮原貞喜団員と僕とは、決して近しい間柄だったわけではない。一期一会という言葉があるが、その言葉からすれば、「一期二会」とも言うべき関係で、いずれも団全国総会の機会に、二度お世話になったのみである。一度目は一九九五年の嬉野総会後の一泊旅行、そして、二度目が一昨年二〇一六年の唐津総会の後。
嬉野総会後の一泊懇親旅行は、宮原団員が引率してくださったが、僕が参加した団全国会議後の旅行の中でも、特に、楽しく、大変良い思い出として記憶に残る旅行だった。
鯉濃(こいこく)料理のおいしさ、さらには、そのお店の女将さんから鯉濃の味噌までサービスで分けていただいたり、有田焼、鍋島の美術館を見たりしたことが楽しかった上に、何と言っても、バスの車内で、宮原団員が企画して下さったプレゼント付きクイズで二位になり、唐津焼の湯飲み茶碗を賞品として獲得したことが、何よりもうれしいことだった。一位は、記憶違いでなければ、鳥取・米子の高橋敬幸団員と同行していた当時の司法修習生だったと思う。この旅行は参加者皆さんに大好評だったと思う。後年団長も務められた松井繁明団員が、感謝とともに、宮原団員の団活動、団本部への結集もこの旅行の企画のようであって欲しい、というような、ちょっと辛口の感想を述べておられたことも印象に残っている。
そして一昨年。僕は同年の五月集会には参加申込みをしていながら腰痛のために参加出来ず、唐津総会には是非とも参加を、と期していた。そして、嬉野総会の思い出と、茶をたしなむ僕にとって唐津といえば唐津焼の茶碗、しかも嬉野総会の賞品は残念ながら何年か前に割れてしまい、唐津の茶碗は持っていない、という発想から、宮原団員に、団総会の後、唐津焼の窯元訪問の方法などについての有益なご助言、日帰りで良い唐津焼のお茶碗を購入、入手するための地元の先生ならではのご助言をお願いできないか、という、ぶしつけな相談をさせていただいた。
すると、宮原団員からは、早速お返事をいただき、総会終了後、唐津焼の窯元に案内してくださる、食事もしよう、とのことだった。これは、ちょっと望外のお申し出で、お言葉に甘えるのは、厚かましすぎるかなあ、とも感じて躊躇したのだが、結局、ご厚意に甘えさせていただくことにした。
総会の後、宮原団員の愛車赤いプリウス(記憶違いでなければ。僕のと同じだったという記憶がある。但し僕のは白だが。)に同乗させていただき、「飴源」というお店にお連れいただいた。宮原団員は、お馴染みさんという雰囲気で、その前にも弁護士仲間と来店されたようなお話を女将とお話しされていた。
料理が豪華でおいしかったこともさることながら、差しでいろいろお話をする中で、宮原団員が、僕の大学の大先輩で、東京支部・城北法律事務所におられた故佐々木芳男団員と、同期で、親しくしておられたというお話をお聞きして、一挙に宮原団員と自分の距離が近づいた気がした。佐々木団員には、受験生の時から大変にお世話になった。そして、佐々木団員も、五八歳という、現在の僕よりも若い年齢で、その後の宮原団員と同様、急逝されたのだった。
食事の後、予め連絡をしてくださっていた窯元二カ所(だったと思う)に案内していただいた。工房で様々な茶碗を見ることができ、また窯元のほかにも唐津焼展示館にも案内していただき、残念ながら、気に入って買い求める茶碗を見いだすには至らなかったものの、大変参考になったし、宮原団員と唐津焼との濃密な時間を過ごすことができた。
別れ際には、「お土産」として宮原団員が準備してくださっていた唐津焼の茶碗を手渡してくださった。帰宅して開けてみると、まさしく僕の望んでいたような井戸型抹茶茶碗だった。
宮原団員からは、「今度は奥さんも連れて唐津くんちを見においで」とおっしゃっていただいたので、当年と翌年には実現しなかったものの、そのうち、お言葉に甘えてしまおうか、と、帰宅後、連れ合いに話していたのだが、果たせぬままとなった。
僕の大学時代のサークルの友人によると、九州の方々はとても親切で思いやり深いのだという。そんな類型化が正しいのかどうかはともかく、宮原団員は、間違いなく、親切で思いやり深く、温かい方だったし、ご依頼人に対してもそうだったのだろうな、と思う。
今は、宮原団員のご冥福をお祈りするとともに、ご家族や事務所の皆様と僕たちが、それぞれの地元で、ご遺志を受け継いで活動奮闘することを思うところである。