<<目次へ 【意見書】自由法曹団
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第2、司法制度改革の基本理念と方向
1 憲法の理念に立ち返った司法改革を
中間報告は、「論点整理」におけると同様、司法制度改革を政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和などの構造改革などの一連の諸改革の根底に流れる基本的考え方を受け継ぐものであり、一連の諸改革の「最後のかなめ」と位置付けています。この基本理念は、司法改革を裁判の現状や利用者である市民の観点からあるべき改革をしようというのではなく、政府,財界の規制緩和等の特定の政策を実行するために司法改造を行うというものです。本来、司法は、憲法の保障する基本的人権、個人の尊厳を守ることにその存在意義があります。日本国憲法は、戦前の絶対主義的天皇制の下で、国民が人権を認められず、国家の戦争に引きずりこまれ、多くが犠牲になった教訓をもとに成立しました。憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさないように」との決意(前文)から国民に基本的人権を保障し、人権が法律によっても侵されることのないように司法に違憲法令審査権を与え、裁判所を「人権の砦」「憲法の番人」としました。戦後55年が経過するいま、こうした憲法が期待した司法の役割がきちんと果たされているかが改革の出発点になるべきです。しかるに、中間報告のいう「政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和などの構造改革などの一連の諸改革」なるものは、政府、財界が多国籍企業、大企業の国際競争力の強化のために国民の生活や権利を犠牲にする国民敵視の政策であり、司法改革をその「最後のかなめ」とすることは基本的な改革の方向を誤ったものといわざるを得ません。規制緩和政策のもとで大規模なリストラが労働者を苦境に陥らせています。これまでの判例を無視した乱暴な解雇、転籍、出向などによる人員削減が横行しています。これに対し、裁判所は労働者の権利を守るのではなく企業の立場にたって「企業の経営状態が悪化していなくても競争力強化のために労働者を解雇することができる」などとこうしたリストラを追認するような判決を出しています。公害事件では、高度成長経済のもとで排煙、排水などで環境が汚染され、多数の公害患者を生みました。国民は企業と国の責任を追及するために裁判を提起しましたが、裁判所は行政や企業よりの判断を繰り返し、国民に背を向けてきました。労働事件、公害事件では、最高裁がたびたび裁判官会同や協議会が行い、裁判内容を企業、行政よりに統制し、原告に膨大な個別立証を要求し裁判を長期化させるなど、国民の救済の途を閉ざしてきました。行政事件では、原告適格、訴訟要件論によって入り口で司法救済を拒否する態度をとってきました。最近になって尼崎や名古屋の大気汚染訴訟で被告企業だけでなく国に対する差し止めを認める判決が相次いで出されました。裁判所が差し止めを認めたことは公害患者の救済にとって価値のあるものですが、いずれの訴訟も提訴以来判決まで10数年を経過しており、遅すぎる救済との批判は免れません。また、判検交流によって裁判官を行政の代理人という意識を植え付けさせる不当な人事も行ってきました。また、簡裁支部の統廃合によって裁判所を市民の生活の場から離れた存在にし司法救済よりも司法統制を優先してきました。こうした最高裁による司法統制、官僚裁判官制度が憲法の期待した司法の役割を歪め、司法における閉塞状態を生んできたのです。
これに対し、中間報告は、国民が支える司法という観点から問題があったとして、@わが国が行政中心、中央の「官」で運営されてきたこと、A国民の統治客体意識が特に司法との関係で強かったこと、B司法支える法曹(裁判官、検察官、弁護士)とりわけ弁護士の総数が少なく、国民と司法をつなぐ接点が限定されていたこと、C法曹に司法全体を支えるための協調的連携が不十分だったこと、D司法制度全体が国民にとって分かりやすく利用しやすいものではなかったこと、の5点を挙げています。
しかし、このような分析は司法に対し政府、最高裁がとってきた前述の国民抑圧の政策を免罪し、官僚裁判官制度を温存するもので、歴史的事実に依拠しない恣意的な分析といえます。
国民は、こうした司法の現状のなかでも、人権の擁護、民主的行政を要求して裁判闘争はもとより、さまざまな住民運動、悪法阻止闘争などの大衆運動を展開してきました。その中で労働者の権利救済のための判例理論の構築、公害訴訟の一定の勝利判決等など国民の生活と権利を守り発展させてきました。情報公開を手段とした行政の民主的改革は顕著であり、地方行政への住民参加を求める声は大きなうねりとなって全国に広まっています。中間報告は国民の「統治客体意識」を嘆いていますが、実際は政府、行政、これに追随した裁判所の抑圧のもとで、国民がわれわれ弁護士とともに生活と権利、民主主義の擁護のためにたたかってきたのが歴史的な事実です。
司法改革において、まず着手するべきは、憲法の理念に立ち返えり、国民の憲法理念と基本的人権擁護の運動を後押しするように司法を再生することでなければならないと考えます。
2 中間報告の特徴ー「論点整理」の内容をより鮮明化
中間報告は、「論点整理」同様司法改革を一連の諸改革の「最後のかなめ」としていますが、「論点整理」よりもその意味を次の2点でより鮮明にしているところに特徴があります。
第1に、中間報告は、現在の日本が財政赤字と経済不況のもとで「ある種の社会的閉塞感にさいなまれている」とし、こうした状況をもたらした「主要な原因」が「憲法のよってたつ個人の尊重と国民主権の趣旨が必ずしも徹底せず、むしろ従前の統治客体意識と横並び的、集団主義的意識を背景に国家(行政)に過度に依存しがちな体質が持続する中で、さまざまな国家規制や因習が社会を覆い、社会が著しく画一化、固定化してしまったこと、…」にあるとしている点です。「論点整理」でも「社会的閉塞感」や「国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却すべきこと」は指摘されてはいましたが、国民の統治客体意識が現在の社会的閉塞状況(政治経済社会のゆきづまり状態)の「主因」のひとつと明示したところに論点整理にはない中間報告の特徴があります。
第2に、「論点整理」ではとくに「最後のかなめ」とする理由について「論点整理」でとくに説明していなかったのですが、中間報告は、「これら一連の諸改革を憲法のよってたつ基本理念の一つである「法の支配」の下に有機的に結び合わせるために、司法改革が必要不可欠であるからにほかならない。」と明確にした点です。そして、ここにいう「法の支配」は「法の下においてはいかなる者も平等、対等であること」という特異な解釈をほどこされ、平等対等な個人が自立し、自らの行為に責任を負うという「自己責任の原則」(実質には「自由競争主義」と同一)に結びつけられ、司法のあり方においてこうした法の支配の理念がもっとも顕著に現われるとしています。つまり、「法の支配」は、法の下の平等・対等な個人の尊重原理とされることで、自立した個人が自己の判断と能力で自律する社会の法理とされ、規制緩和の司法における指導理念とされているのです。
3 重要な前提における二つのすり替え
しかし、すでに、意見書で批判したとおり、政治改革、規制緩和等の政府、財界の政策、要求を無批判に肯定することは、規制緩和、社会保障の切り捨てで苦しむ国民を一層困難に陥れるものであり、われわれ自由法曹団は断固として反対します。しかも、現在の政治経済のゆきずまり(閉塞状況)を国民の「統治客体意識」や「行政への依存」に原因を求める点は、歴代の自民党など政府与党の失政を国民意識の問題にすり替えるだけでなく、政治の変革を求める国民を愚弄するものと言わざるを得ません。政治改革ひとつをとっても、小選挙区制の導入は民意を切り捨て、主権者としての国民の参政権を侵害するものでしかありませんでした。民意を切り捨てしながら統治意識が薄いなどというのはまさに二重の意味で国民を愚弄するものです。
また、「法の支配」に対する中間報告の解釈はきわめて一面的なものです。日本国憲法における「法の支配」とは、本来「専断的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理」(芦部信喜「憲法」13ページ)であり、その内容としては@憲法の最高法規制の観念、A権力によって侵されない個人の人権、B法の内容・手続きの公正さを要求する適正手続、C権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割の尊重などとされています(同14ページ)。したがって、法の下の平等・対等原理とは異なるものとして理解がされてきています。こうした日本国憲法の「法の支配」の理念からは、国家権力の抑圧から国民の人権を擁護する裁判所の役割としては、行政へのチェック機能、立法に対する違憲法令審査権の行使の適正な行使が求められるものとなるはずです。しかるに、中間報告は、「法の支配の理念」を唱えながら、自己責任法理にすり替え、これをもって司法制度改革をして「一連の諸改革の最後かなめ」とする根拠としているのは現行法の解釈として到底容認できないものです。
中間報告の司法改革の基本理念には重要な前提において2つのすり替えがあり、根本的において誤っていると言わざるを得ません。
4 基本理念の誤りとその帰結
司法改革の基本理念の誤りは、ふたつの方向で司法改革を歪め、不徹底なものとしています。1つは、改革するべき司法の現状、足元を見ないということです。政府、財界の要求する一連の政策実現のための司法改革との理念は司法が持っている病理現象(その根本は最高裁を頂点とする司法官僚統制)を等閑視し、これについて批判的に調査し改革することを回避するか、きわめて及び腰にしか触れないという方向にむすびついています。これは法曹一元の実現について明確な方向をいまだに打ち出していないこと、陪審・参審制について「特定の制度にとらわれることなく・・我が国にふさわしいあるべき参加形態を検討する」として明確な導入にいたっていないことに現われています。
2つには、憲法の人権擁護の最後の砦であり、法律を違憲無効とすることで権力の抑圧から国民を守るという観点からの司法改革が皆無に近いことです。たとえば、違憲法令審査権の行使のあり方に関する改革、行政の司法に対するチェック機能に関する改革、裁判官の独立を守るための改革などは手付かずの状態にあります。中間報告が真の意味で「法の支配」の貫徹を唱えるのであれば、まずこうした改革を行うべく調査、審議を徹底するべきです。
5 基本理念と官僚裁判官制度温存の矛盾
中間報告は、現在の日本社会の閉塞状況の原因を先に述べた国民意識に主因を求めていますが、そこでは国民の統治客体意識と行政依存体質が持続する中で、「さまざまな国家規制や因習が社会を覆い社会が画一化、固定化してしまったこと」を批判しています。国家規制のゆきすぎを批判するのであれば、司法における国家規制の象徴である最高裁を頂点とする中央集権的裁判官統制体制を打破することが論旨の帰結となるべきでしょう。しかし、中間報告は、こうした国家規制にはまったく調査すらせず温存し、中央集権的裁判官統制体制の柱のひとつをなす判事補制度の廃止に踏み込まないでいることは大きな矛盾といえます。
これは規制緩和、自己責任社会の創出という中間報告の基本理念なるものが、恣意的で不徹底であることを示すものです。
6 「司法に期待される役割」との矛盾
中間報告は、司法に期待される役割として「日本国憲法における司法権」の項を設け憲法の各条項を引用しています。「論点整理」にはこうした記述はなく、中間報告の大きな特徴のひとつといえます。司法改革を展望するとき、憲法の規定を無視した改革はありえないことは,自由法曹団が提出した意見書で指摘したところであり、中間報告で憲法の規定に言及していることは積極的に評価できるものです。しかし、この憲法の要請が具体的に司法制度改革の項目のなかに活かされているかは大きな疑問です。中間報告は、憲法条項で違憲法令審査権(81条)裁判官の独立(76条3項)をあげています。しかし、この条項が現在の裁判、裁判所で適正に行われているかどうかという観点からの論議は、中間報告までの論議には欠如しています。中間報告の記述をみても、こうした憲法の条項を受けた部分は「公共性の空間の再構築と司法の役割」との部分に項を移して、憲法条項が活かされているかという観点の記述は一切ありません。これでは、憲法条項は単にリップサービスとして引用しただけであるといわざるを得ません。
中間報告後の審議会の審議では憲法条項の実践がなされているのか否か調査,論議が不可欠です。
7 司法への国民参加を具体的かつ明確なものに
以上、中間報告の基本理念に関する問題点、矛盾点を指摘してきしましたが、他方、中間報告が「国民が支える司法」の実現を改革の3つの柱のひとつに掲げたことは憲法理念の国民の主権の原理を尊重するものとして高く評価します。これを言葉だけのものとするのではなく、陪審制の実現、裁判官任命手続きへの国民参加、最高裁判事の国民投票の改善、など具体的な制度として実現することを強く求めます。